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【平野富二論攷輯】 01 未解明な歴史を刻んだ 『株式会社東京築地活版製造所紀要』

平野富二論攷輯バーナー01resized
資料/『株式会社東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式会社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
したがってこの小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ筆者の手許にあるのかもわからないでいる。つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

B表紙紀要-1024x817[1]『株式会社東京築地活版製造所紀要』(株式会社東京築地活版製造所 昭和4年10月)
紀要二+三1-1024x819[1]本文ページ/四号明朝体 26字詰め 12行  字間五号八分アキ  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。
天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表     紙 : 皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨一色、片面刷り
口  絵  部 : 5葉(裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷をしたとみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本     文 : 10ページ(生成りの非塗工紙に活字版墨一色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版 : 四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分アキ 行間五号全角アキ
刊  記 : 無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)
──────────
『株式会社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。
しかしふつう、「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」題して公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容となっている。

本稿では、この全文を現代通行文として読みくだし、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば、読者はこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には稿者が私見やほかの資料から引用した項目がある。これらは 〔 亀甲括弧 〕 をもちいて表示した。

当時の社長は第五代松田精一(1875-1937)であった。このひとは松田源五郎の子息であった。まず明治長崎の実業家であり、〝ふうけもん〟としていまだに語りつがれている松田源五郎を紹介したい。

bf68f72db8e94a4692f5bf51ba72e26a[1] cf112724480f737e17aa85e69ea61519[1]1877(明治10)年、松田源五郎・安中半三郎らが提唱して長崎で開催された「内国勧業博覧会」のおりに、中島川河畔の上野彦馬の「上野撮影局」で撮影した松田源五郎、36-37歳のころの写真。
およそ銀行家・衆議院議員・商法(工)会議所会頭といったいかめしい肩書きからは想像ができない〝ふうけもん〟とも評されたこのひとの側面を上野彦馬は撮影に成功している。
この年は西南戦争が勃発しており、緊張下での博覧会の開催だったとされる。上野彦馬は同年西南戦争の戦跡も撮影している。

この写真は1886(明治19)大村活版所として創業された松田源五郎の縁者、大村市の株式会社オムロプリント代表取締役 : 松尾 巌氏蔵。
大村活版所は新町活版所の門下生であった松尾文吾と、その弟:松田敬次郎によって創業され、松田源五郎の外戚で、玄孫にあたる松尾 巌氏が率いる株式会社オムロプリントは130年余の歴史を有する。

上野彦馬(うえの-ひこま、1838-1904、天保9-明治37)
江戸末期から明治初期の写真家。島津藩で日本最初のダゲレオタイプを試みた上野俊之丞の四男として長崎に生まれ、豊後日田の広瀬淡窓の下で学んだ後、長崎でオランダ語と化学を学び、1862(文久2)年堀江鍬次郎と共著の『舎密局必携』を出版して近代的化学を紹介した。
化学と写真術はオランダ政府派遣の海軍医ポンペ van M. から学び、写真機や薬品を自製、1862(文久2)年長崎に日本最初の営業写真館を開設し、コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を撮影した。
『世界大百科事典』(平凡社、友田 冝忠)

松田源五郎(まつだ-げんごろう 1840−1901)は、天保11年4月8日生まれ。1876(明治9)年第十八国立銀行を創立して支配人、ついで第二代頭取となる。1879(明治12)年長崎商法会議所(現長崎商工会議所)初代会頭。
「長崎新聞」の創刊や商業学校の創立など長崎実業界で指導的役割をはたした。1892(明治25)年衆議院議員。東京築地活版製造所役員を重任し、平野富二の事業を支援して「有限責任石川島造船所」に出資。明治34年3月1日死去。62歳。肥前長崎出身。本姓は鶴野(参考:『日本人名辞典』講談社)。
77c84cec1c5da91102975e4a71f38f6f[1] 14-4-49353[1]平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要が増大し、いち個人の事業では経営がなりたたなくなってきた。そこで平野富二は1889(明治22)年、渋沢栄一の助言と支援を得て、渋沢栄一・平野富二・梅浦精一・西園寺公成を設立委員として、「有限責任石川島造船所」(現 IHI )を設立した。
「有限責任石川島造船所」の設立時の資本総額は17万5000円(ひと株100円)で、株主数は17人で総株数は1750株であった。同社創立時の株主名簿は現存しないが、三年目の株主とその持株数が「第三次営業報告」(明治25年)に掲載されている。

主要株主氏名
渋沢  栄一   400株
平野  富二   389株
松田源五郎   270株
田中  永昌   250株
西園寺公成   150株
梅浦  精一   130株

その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

松田精一(1875-1937)もまた、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取(在任1925-1933年1月)で衆議院議員でもあった。
しかし稿者をふくめて、論者の一部は、短期間「社長心得」という聞きなれない職にとどまった、本木昌造の男子・本木小太郎を、実際には就任していない「東京築地活版製造所第二代社長」においたため、それ以降の東京築地活版製造所の消長と、社長の世代紹介に齟齬ソゴをきたしていた。

また近年、国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』がデジタル公開された。


曲田成 resized 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』 PDF 3.62MB

『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の公開によって、ようやく稿者も蒙を啓かれたおもいがした。
したがって本稿につづいて『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』にも論及したい。意欲ある読者は PDF版 を添付しておいたので、事前にお目通しをいただきたい。

すなわち『株式会社東京築地活版製造所紀要』は必ずしも同社の事歴を忠実に記録しているわけではなく、設立者にして初代社長の平野富二の紹介がなく、第二代社長:曲田成の功績に触れることなく記述されている。
なによりも『株式会社東京築地活版製造所紀要』を所蔵していながら、稿者も先行文献にしたがって、疑問を抱きつつも本木小太郎を第二代社長として紹介したことがある。ここに不明お詫びするとともに、本稿連載をもって東京築地活版製造所の歴代社長をできるだけ丁寧に紹介したい。

まず、『株式会社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。
つまり同社がなぜ、『株式会社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの一見瀟洒な冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の目的を探るためである。

東京築地活版製造所変遷 S4本社

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

◯1923(大正12)年 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋〔第一期工事〕完成。地下1階地上4階竣成。
◯1923(大正12)年 9月1日午前11時58分

関東大震災襲来。築地本社及び月島分工場の全設備が羅災。
〔この日は階上部に設けられた活字母型収蔵庫・活字鋳造機・活字収納庫などの移設のさなかで、昼食のサイレンと同時に地震が襲ったとされる。建物は頑強で損傷がすくなかったが、活字母型・活字製造ラインが壊滅的な被害を蒙った〕
◯1925(大正14)年 04月

〔東京築地活版製造所第四代社長〕野村宗十郎社長病歿、享年69 正七位叙賜。
◯1925(大正14)年 05月

〔東京築地活版製造所第五大社長〕常務取締役に松田精一社長就任 (長崎十八銀行頭取を兼任) 。
◯1925(
大正14)年 11月
『改刻明朝五号漢字』 総数 9,570 字の活字見本帳発行。
◯1926(
大正15)年 02月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。
◯1926(昭和01)年 10

『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。
◯1928(昭和03)

大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。
◯1929(昭和04)年 09

『欧文活字見本帳』 を発行 (68頁)。
◯1930(昭和05)年 01

時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。
◯1930(昭和05)年 06

〔東京築地活版製造所〕五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。
〔滝泉寺山門を入ってすぐ右手に設置されたが、近年門外バス停付近に移設された〕
◯1931(昭和06)年 12

業務縮小のため 小倉市大阪町東京築地活版製造所九州出張所を閉鎖。
◯1932(昭和07)年 05

メートル制活字及び 『号数略式活字見本帳』 を発行。
◯1933(昭和08)年 05

『新細型 9 ポイント明朝体』 8,500 字完成発売。
◯1934(昭和09)年 05月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。
◯1935(昭和10)年 06

東京築地活版製造所第四代社長:松田精一の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任。つづいて吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の記録内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社IHIの主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。もしかすると、東京築地活版製造所中興のひととされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。また新築の本社工場ビルが移転の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた第5代代表・松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた長崎系の人脈・血脈が途絶えた。したがってこれ以降の経営陣は日本勧業銀行系の人物が主流となったと見なすことが可能であろう。すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第6代代表として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳)を専務取締役・第7代代表に選任している。当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い――日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にもたくさん登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、吉雄永寿の専務取締役就任が長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第7代代表が辞任した。この後任には「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の――牧治三郎」阪東長康専務取締役・第8代代表が就任した。そして国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康がどこかから――筆者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが――「派遣」され、その指揮下、就任のわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。吉雄永寿は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事であり、事実である。そしてついに、東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社解散を決議。、従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、昭和13年(1938年)3月、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。――この間の詳細は記録されないままに終わってきた。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界紙誌は、日頃は各社の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、筆者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『印刷界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [大阪活版製造所社長を兼任] 、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 [日清戦争] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [活字] 鋳造機は、手廻機 [手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機] 120台、米国製トムソン自動[活字] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [自動] 鋳造機  詳細不明。 調査中] 1台で、フユーサー機は日本 [製の活字] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [した。その]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ い ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[はなしが] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [はあるが] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [学] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、[印刷機器輸入代理店] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [で] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [に] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである

*      *

株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年[一八七三]七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来ジライ[それより以後]一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年[1873-1929年、およそ56年]、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン[世のなかのひと]より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年[一八二四]六月九日、肥前ヒゼン[旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県]長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ[西洋] 諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年[一八五一]ころに至って、はじめて「流し込み活字」[流し込み活字は後出するが、どちらも素朴なハンド・モールドとされる活字鋳造器を用いたとみられる]ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。[このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない]

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間[1868年1月25日より明治元年]にいたって、米国宣教師姜氏[後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利ガンブルである。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた]が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型[活字母型]をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏(維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910)が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡[現在の長崎市立図書館]に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年[1872]東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局[現、独立行政法人・国立印刷局]となったのであります。

明治四年[1871]夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する[素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドを用いたとされる]不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・和泉町)[神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩の藩邸に隣接して、小者・中間などが居住した地域とみられている。現在は神田佐久間町の名前で商住地が並んでいるあたりとみられる]に設けました。

翌明治六年[1873]に至り、いささか販路も拓け工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年[1874]には本建築をなして、これを震災前 [関東大地震 大正12年9月1日、1923] 迄事務室として使用していました。同八年(1875)九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年(1876)には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年[1879])活字改良及その他工業視察のために、社員曲田成[マガタ-シゲリ]を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年[1882]に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに[活字版]印刷部を設けて、石版・活版の[平版印刷と凸版印刷の]両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏[大坂活版製造所社長を兼任]を副社長に、松田源五郎[長崎・十八銀行頭取]、品川東十郎[本木家後見人格]の二氏が取締役として選任せられました。[ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所は長崎色のつよい企業であった]

明治二十二年[1889]六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が[お目付役兼任として]取締役として選ばれました。同二十三年一月、本木[小太郎]氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。[本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長に就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間××の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている]

明治二十六年[1893]十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏ナムラ-タイゾウ氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役[明治37-38 1904-05]後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪タオれました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

[野村宗十郎]氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年[1890]入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年[1908]三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[大正十二年九月一日、関東大震災で焼失]、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年[1921]十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑イトマないほどでありました。

かくして[野村宗十郎]氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有ウユウに帰してしまったのであります。[この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は無事だったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、歴代社長はそのうわさに脅かされることになった]

剛毅に富んだ[野村宗十郎]社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年[1924]七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四[1925]年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年[1925]六月、取締役松田精一[長崎・十八銀行頭取を兼任]氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪平野富二論攷輯バーナー01resized出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

 

本木昌造の最後

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本木昌造02

◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所 印刷図書館蔵)にも掲載されているが、これには台紙の裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印刷されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。

◎ 本木昌造の終焉 ──── 『本木昌造伝』(島谷政一 朗文堂 p.206-9)
明治八年二八七五)は印刷出版業者にとっては忘れることができない年となった。この年の二月三日上海-横浜間に定期航路が開設されて政府のあつい保護のもとに三菱汽船会社が運航にあたった。このとき政府はその所有汽船のすべてを三菱汽船会社に貸与して海上輸送会社の保護育成をはかった。
この航路が長崎を素通りして横浜から結ばれたことは、ひとり本木昌造だけではなくて長崎市民を失望させた。そもそもこの定期航路の開設は本木昌造が明治六年(一八七三)の台湾報復出兵のさいに、長崎をおとずれた大隈重信侯に献策をかさねたものだった。たとえその業務が因縁あさからぬ三菱汽船会社に委ねられたとはいえ寂寥のおもいはぬぐいがたかったのである。
もはや征韓論の分裂を超克して政府は大久保利通が中心となっていた。また立憲政体樹立の詔書がくだされてその第一歩として三権分立の制度がたてられた。行政、教育、産業などのすべての中心が東京に移動して長崎は遠隔疎遠の地となっていた。

そんな明治八年(一八七五)の春、本木昌造はひどく健康を害して食がすすまなくなった。家族や社員が静養を勧め、ようやく山紫水明の京都で療養することに決心して同年三月二一日長崎を発して京都に上った。
京都の點林堂・山鹿善兵衛は大阪活版製造所の初代谷口黙次と相談して、嵯峨野の落柿舎で十分な静養をしてもらうことにした。そこには下男下女と看護人を付き添わせることにして、付き添いで
きた二人の社員は長崎に帰した。
京都での転地療養をはじめると容態はすこぶる好転した。天気のよい日には洛中を散策して點林堂活版所に立ち寄ったり、あるときは大阪にでかけて、大阪活版製造所の工場を嬉しそうに巡回して健康はすっかり回復したかにみえた。
初代谷口黙次は本木昌造がもっとも愛情をもってみた社員であり、また全幅の信頼を寄せてもいたひとだった。またその夫人は連日献身的に看護したから、この間もしばしば大阪にでかけて谷口家に滞在していた。
こうして一時健康を回復したかにみえたが、五月のはじめに風邪をひいたのがもととなってふたたび病床に呻吟することになった。京都と大阪の社員が交代で落柿舎に泊りこんだし、谷口黙次の
夫人は付きっきりで看護にあたった。
この知らせに驚いた平野富二は、とるものもとりあえず東京からやってきて病床を見舞った。長崎
からも家族が社員にともなわれてやってきて看護に協力したために、いったんは小康をえて一同は愁眉をひらくことができた。
容態は順次良好となって歩行にも困難を感じないほどに回復した。このとき本木昌造は長崎に帰りたいとの意向を漏らした。一同はもうしばらくの静養を勧めたが、帰心はだんだんつのって最早やだれの勧告にも応じないようになった。
そこで一同が協議して、初代谷口黙次が付きそって家族とともに長崎に送ることになって、本木昌造は西に、平野富二は東にたがいに別れをつげた。

ところがやはりこの帰省の長旅の疲労がたたったのか、長崎に帰ったあとの本木昌造の衰弱ははな
はだしかった。またこの年の夏は暑さがきびしかった。
明治八年(一八七五)八月の中旬、本木昌造が重態におちいったとのしらせが門人、門弟、社員に
一斉にしらされた。
まだ交通不便の時代だったが、平野富二は夜を日に継いで長崎に到着した。大阪の初代谷口黙次や京都の山鹿善兵衛も馳せつけた。いずれも枕頭にあって看護に手をつくしたが、もはや症状は日に日に重くなるばかりだった。
こうした切迫した状況から、平野富二は九月一日本木昌造が関係した「活版事業の始末方」を品川
藤十郎をつうじて指図をこうた。
この品川藤十郎とはオランダ通詞の家にうまれて、本木昌造とは長女砒を継嗣小太郎に嫁がせた縁戚関係にあったし、かつてはともに通詞の職にあった。また長崎活版製造会社の創立にあたっては金千両を出資して新街私塾では教鞭をとるなど一門の世話役として存在がおもんじられていた。
品川藤十郎が病床にたって平野富二の言をつたえると、
「活版事業のことはすべて平野君に一任しあるをもって予の容喙を要せず。万事平野君の処置にし
たがうべし」
とのことだった。
臨終にさいしてもこのほかの遺言はなかった。ただ門人、門弟、社員を枕頭に集めてそれまでの協力を謝して今後とも活版印刷術の普及に尽力するように励まして、ついに明治八年(一八七五)九
月三日享年五一歳をもって暝目された。
本木昌造が泉下のひととなったのは明治二年(一八六九)近代活字鋳造創始のときからわずかに七年、あまりにも惜しまれる逝去だった。

「嗚呼本木昌造翁逝いて、いままたいずくにか翁のごとき性行純金の人をもとめん。もし翁をしてその寿をながからしめれば、日本国の利するところさらにおおいなるものありしならんに、まことに惜しむべきかな」
と英国の『ブリテッシュ・プリンター』誌もその逝去を惜しんだ。
九月六日本木家と一門社員によって盛儀をもって葬儀が執行されて、遺骸は本木家の菩提寺長崎今篭町大光寺の墓域に篤く埋葬された。
法名は「故林堂釋永久梧窓善士」だった。
世人はいまさらのように本木昌造の偉大な功績をしのんでその逝去を惜しまぬものはなかった。

 ◎ 本木昌造が療養した「落柿舎」をみる
京都洛外「草庵落柿舎-らくししゃ」は向井去来がいとなんだ草庵である。
向井去来(むかい-きょらい 1651-1704)は江戸時代前期の俳人。
慶安4年生まれ。肥前長崎出身。向井元升-げんしょう-の次男。京都で儒者として親王家などにつかえたが、松尾芭蕉に入門して俳諧に専念した。嵯峨に草庵落柿舎をいとなむ。蕉風の忠実な伝え手で、同門中でもおもんじられた。「猿蓑-さるみの」を野沢凡兆と編集。宝永元年9月10日死去。54歳。名は兼時。字-あざな-は元淵。通称は平次郎。著作に「旅寝論」「去来抄」など。

岩 は な や  こ こ に も ひ と り  月 の 客 「去来抄」

IMG_3719 IMG_3692 IMG_3687 IMG_3683落柿舎の点景 活版小本・杉本昭生氏 2018年3月21日撮影

去来の卒後、落柿舎はしばしば無住のいおりとなっていたようである。
明治四五年(一九一二)本木昌造にたいして従五位を追贈する旨が朝廷より仰せだされた。このとき山鹿善兵衛はすでに點林堂活版所の事業を令息・山鹿粂次郎に譲って「落柿舎栢年-はくねん」と号して落柿舎五代目庵主として嵯峨野にあって自適の余生を愉しんでいたが、
「先師本木先生こたび御贈位の光栄をこうむりたまいしを祝し奉りて 栢年」として、つぎの一句をものして御贈位の光栄をこころから喜んだ。

引 鶴 や  更 に 雲 井 に  羽 の 光     栢年

 

◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。
明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

 

内田九一
うちだ-くいち
1844−1875
幕末-明治時代の写真家。
弘化(こうか)元年生まれ。吉雄圭斎の甥(おい)。長崎でポンペに化学を,上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大坂で写真館をひらき,のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影し,有名となった。明治8年2月17日死去。32歳。肥前長崎出身。
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日本人名大辞典

吉雄圭斎
よしお-けいさい
1822−1894
江戸後期-明治時代の医師。
文政5年5月8日生まれ。家業の外科医をつぎ,出島のオランダ商館出入り医師となる。嘉永(かえい)元年オランダの軍医モーニッケに牛痘接種法をまなび,種痘の普及につとめた。熊本病院初代院長。明治27年3月15日死去。73歳。肥前長崎出身。名は種文。
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