タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機

江川活版製造所と江川次之進
タイポグラフィあのねのね*008
その後のおもわぬ展開
Aloha, 江川製 Albion Hand Press

《ハワイから Aloha! の @メールに 吃驚仰天!》
このブログロール「花筏」は、締め切りもなく、また、ほとんどなんの制約もなく、のんびり、ゆっくり書き進めようとおもっていた。しかしながら、なにぶんデジタル弱者ゆえ、ブログの構成はきわめて拙いし、まして、やつがれの拙文では、おおかたの評価はないものとおもっていた。ところが意外に熱心な読者がおられて、「最近、アップの速度が少し落ちていますね。なにぶんわたしは激甚被災地にいますので、書物も読めなくなって、『花筏』を読むことを楽しみにしていますから、もっとアップを!」という東北地方居住のかたからの@メールや、記述の齟齬や遺漏への、建設的かつ率直なご指摘・ご提案を、リアルタイムでいただけるのはうれしいことだ。

とりわけ前掲の「タイポグラフィあのねのね*008」には、「江川活版製造所がなにかと気になっていたのですが、やはり資料は少ないようですね」などと、若い読者からのお便りもたくさん頂戴した。そんな情報のひとつに、Website情報、「書体の覆刻--『日本の活字書体の名作精選』の制作にまつわることなど」(小宮山博史)に、「江川活版三号行書仮名の存在があった。これはかつてどこかで読んだ記憶もあったが、デジタル仮名活字の覆刻(かぶせ彫り)制作の経緯をのべたもので、興味深く読ませてもらった。小宮山氏もやはり文中に、「江川活版製造所の本格的活字見本帳は実見したことがない」ことを述べていた。

やつがれも印刷図書館所蔵の花形活字(オーナメントなど)の小冊子はみているが、やはり文字活字のまとまった資料に接したことはない。むしろ、江川活版製造所の広告資料などと比較しても、関西系の業者の活字見本帳のなかに、あきらかに江川活版製造所の摸倣活字とみられる例をみることのほうが多い。したがって江川活版製造所の資料不足は、一朝一夕には解消しないようだ。しかしながらやつがれの経験上、たれかが問題提起をし、それを根気よく続けていると、必ず、どこからか、資料や情報の提示があるものだ。いまはしばらく、引き続いて江川活版製造所の問題にかかわっていきたい。

ところで、「タイポグラフィあのねのね*008」に、『直系子孫によって発掘された江川活版製造所:江川次之進関連資料』をアップして間もなく、ハワイから一通の@メールを頂戴した。これには腰を抜かすほど吃驚仰天ビックリ-ギョウテンした。またやつがれが、そこで江川活版製造所関連資料の不足を嘆いたために、友人・知人から、資料提供や、資料の所蔵先を紹介いただいた。
そもそも「Websiteとは Interactive インタラクティブ だ」とされる――これはInter とActiveの合成語か? すなわちコンピューター業界用語では「対話方式の」であり、Interactively では、「相互に作用して、互いに影響しあって」の意とされる。ツイッターをやるにはチト恥ずかしいし、まずもって携帯電話を「無用の長物なり」として処分したほどのアナログ派のやつがれには、この程度の軽便なブログロールが「相互に作用して、互いに影響しあって」いて手頃なようだ。

アルビオン型手引き印刷機を紹介した『VIVA!! カッパン♥』
(アダナ・プレス倶楽部 2010年5月21日 朗文堂)
1875年英国の活字鋳造所フィギンズ社製造。写真のマシンはLiugua Florence 所蔵。
まずここで、アルビオン型手
引き印刷機の概略と歴史を知っていただきたい。

2011年5月16日、ハワイで個人印刷工房マノア・プレスを主宰されている、ジェームス・ランフォード(Manoa Press, James Rumford)氏から@メールが到着した。
Dear Robundo,
I am sorry that my Japanese is not very good.  I only can read a little bit.
I wanted to tell you about my printing press, an Albion, made by Egawa around the year 1900. It came to Hawaii before World War II, and so survived the war.

どうして日本語だけの本稿を、ジェームス氏が読み解いたのかわからぬまま、やつがれも、まもなく返事をジェームス氏に送った。向こうが母語たる英語でしるしてきたから、こちらも最初の2行を別にして、すべてやつがれの母語たる日本語でしるした。
Dear James,
I am sorry that my English is not very good.  I only can read a little bit.
あなたからのお便りにとても驚き、嬉しくおもいました。江川活版製造所がアルビオン型活字版印刷機をつくっていたという記録はみたことがなく、まして1900年(明治33)ころに製造されたとする、江川活版製造所のアルビオン型手引き印刷機が、はるばるとハワイにわたり、第二次世界大戦の被害もなく、いまも大切に保存・使用されていることを知って、ほんとうに嬉しくおもいます。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
正面 江川の文字と商標 がみられる。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
背面 旧日本海軍艦隊旗がみられる

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機 側面
頭頂部にバネを内蔵した突起がみられるのが、アルビオン型手引印刷機の特徴。

木製とおもわれる部材に刻印された、江川の商標 と社名。マノア・プレス蔵。

その後 マノア・プレス のランフォード氏との@メールのやりとりが続いている。かれは1900年(明治33)ころに、江川活版製造所がつくった アルビオン型手引き印刷機 を所蔵 しているという。 なぜだかしらないが、ランフォード氏は語学がやたらと巧みで、アラビア語や中国語を相当読みこなせるらしい。しかも日本語でも漢字を拾い読みして、大方は理解できるらしい。したがってやつがれが苦手とする「漢文調?」の文章で日本語をしるすと、理解しやすいそうである。――日本語の根底には漢文がドテッと居座っているからか……。
それでも理解できない部分は、ハワイ在住の日系人に翻訳してもらっているとのことである。またランフォード氏は、ちょうど日本語の習得につとめていたので、「花筏」をテキスト代わりとして、日本語学習のテキストとして読みすすめているそうである。やつがれの拙文がテキストではチョイと困ってしまうけど。

また、マノア・プレスのWebsiteには、米国映画『HAWAII』の動画サイトYou-Tubeへのリンクがある。『HAWAII』は、『サウンド・オブ・ミュージック』のエーデル・ワイスの曲でお馴染みの女優/ジュリー・アンドリュースと、『偉大な生涯の物語』のマックス・フォン・シドーが主演しているが、現在では人種問題の扱いなどに問題があって、あまり上映されない映画のようである。その分You-Tubeにはたくさん紹介されているが、『HAWAII-Part 10』 の開始からしばらく、5-6分ころにかけて、なんと、くだんの江川型アルビオン型印刷機が画面に登場する。
映画のなかでの印刷作業の手つきは、手引きというより、手押しになっていて怪しい。(そういえば、渥美清の寅さんの映画でも、裏のタコオヤジのアオリ型円圧活字版印刷機の操作が怪しくて辟易ヘキエキしたが……)。ジェームス氏にもまだ十分に確認していないが、ともかくここに登場する、まぎれもないアルビオン型印刷機は、わが国の江川活版製造所が製造したものとされているのには驚いた。

しかもである。ジェームス氏は小社のWebsiteから、例年5月のGウィークに開催されていた「活版凸凹フェスタ」のことを知ったらしい。そして、今年は東日本大震災の被害者をおもんぱかり、また、活版実践者の精神的衝撃が深刻で、製作に集中しがたい状況を考慮して、苦渋の検討を重ねた結果、開催中止を決断したことを知ったという。
そして、被害者の皆さんの一刻も早い災害からの復興を望むとともに、日本での活版実践者とそのファンとの交流のために、来年5月開催予定の「活版凸凹フェスタ」に、「ハワイに渡った江川活版製造所製のアルビオン型手引き印刷機」を持って来日したいのだという。江川アルビオンはおよそ500パウンド、250キロ。すなわちハワイ出身の巨漢力士だった小錦ふたり分ほどの重量だそうである。ジェームス氏、ともかくすごい熱のいれようだ。

《調査不足を猛省! 明確な記述があった江川手引き印刷機》

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
社名の前の行に「●改良手引ハンド(八ページ・四ページ)製造販売」とある。
これは江川活版製造所が手引き式印刷機―アルビオン型?を
製造・販売をしていたことを想像させる記録であった

上記の図版は「 タイポグラフィあのねのね*008」にも紹介したものである。その際、キャプションとして、
「『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)。主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である」
とだけ紹介した。ここでのやつがれは、ついつい江川行書のインパクトに引きずられて、活字印象だけをかたっていた。すなわち江川行書活字は、明治初期のひとびとのあいだに、まだ、篆書・隷書・行書・草書・楷書などの読み書きの素養があった時代に誕生した、きわめて勁烈な筆運びの活字書体である。すべからく、活字書体や書風とは、時代の風や空気を背景として誕生する。その見本のような活字書体が江川行書活字であった。したがって現代の視点では、むしろその勁烈さゆえに、あまりに強すぎる活字書体とみられていた。

しかもそれを実際にテキストとして読もうとすると、行書活字はともかく、それに組み合わされた仮名書体、なかんずくひら仮名異体字(変形仮名)の読み取りに苦労することになり、活字印象派の諸君のように、活字の影印印象だけをかたって、その記述内容の紹介は誤謬をおそれておろそかにした。そこで今回は引用図版から、誤謬をおそれず、ひら仮名交じりの現代文に直しながら全文を紹介しよう。

諸賢のますますのご清適を賀し奉りそうろう。さて、拙者製造の行書活字は、発売以来ことのほかご好評をこうむり、需要日に増加し、業務繁栄におもむき千万センバン、ありがたく謝し奉りそうろう。そもそも右行書活字の義は、筆力遒勁シュウ-ケイ、トテモ-ツヨイ、おのずから雅致あるをもって、これまではおもに名刺に用いられ、大いに江湖コウコ、セケンの喝采を博し、石版[印刷]よりも尚鮮美なりとの高評を辱ふせられそうろうところ、右は独り名刺のみならず、書籍そのほか広告文などに御用いになられることそうらはば、更に美妙に之あるべくそうろう間、多少を論ぜず陸続倍旧ご注文仰せ付けくださるよう希望奉りそうろう              敬 白

追白 右行書活字の義は、拙者種々シュジュの困苦を嘗め、経験を積み、莫大の資本を費やし、明治20年の頃より活字母型製造に着手し、ようやく発売の運びに至りそうろう処、昨今大坂地方にて右に類似の活字を製造販売致し居りそうろう者之有り趣オモムキにそうらえども、右はみずから巧拙、良否の区別之有り。拙者製造のものとは、大いに相違致しおりそうろうあいだ、御購求の際は呉々もご注意然るべしと存じ奉りそうろう也
●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売
東京日本橋区長谷川町
江  川  活  版  製  造  所
大坂東区本町二丁目堺筋
東 京 江 川 支 店 朝 日 堂

やつがれは恥ずかしいことに、この江川活版製造所の広告を何度も見ていながら、そこに、
「●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売」
とある、重要な記録を見落としていた。すなわちタイポグラフィを総合技芸として把握する努力を怠っていたことを猛省させられた。もしかするとこの手引ハンドとは、ハワイのマノア・プレスに現存する「江川アルビオン型活字版印刷機ハンドプレス」のことであることも想像された。

また手引きハンドプレスのチェース、すなわち印刷版の収納サイズをあらわす、八ページはB3判ほど、四ページはB4判ほど、とおもってよいだろう。ここでの手引き印刷機とは、現代の事務用コピー複写機程度のちいさな印刷機だったとみてよい。
ただし、後述する『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)に紹介された、江川活版製造所における活版印刷機関連の記述をみると、同所は明治24年(1891)には、まだ活版印刷機を製造する態勢を築いていたとはおもえない内容である。推測ではあるが、活字の供給と同様に、すでに同型機を製造・販売していたことが、さまざまな資料から類推される、東京築地活版製造所から、現在のOEMのような状態で供給を得た可能性のほうが大きいとみたい。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。

また、マノア・プレスのジェームス・ランフォード氏は、ハワイの同型機を1900年ころの製造としている。そうすると三谷幸吉の紹介する本林機械製作所の製造によるものである可能性があることになる。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』
(平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)
本書は平野富二の旧蔵書で、ところどころに自筆の鉛筆の書き込みがみられる。
関東大地震で消火の水をかぶったが、なんとか修復してある。
管窺に入る限り、本邦唯一本である。

同書口絵ページ、板目木版印刷
看板の商号は「長崎新塾出張 活版製造所」であり、同社には最初から最末期まで
長崎の「新街私塾から出張ってきた活版製造所」との意識があった。

同書小扉ページ 金属活字を円弧に組版するのは、昔も今も相当の技倆を必要とする。
MOTOGI & HIRANO 両氏の名前を強調している。住所は Tsukiji Tokio. Japan である。

同書本扉ページ 活字版多色刷り印刷。
平野富二の東京進出から6年ほどだが、19世紀のタイポグラフィに特有の
一行ごとに書体と刷り色をかえるなど、
高度な組版・印刷技術である。

同書「第初號」とされた、木活字による初号明朝体。
まだ鋳造技術が未熟で、大型活字のツラに「ヒケ、オチョコ」の発生を防げず、
初号・一号は木活字を使用していた。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

平野富二と東京築地活版製造所が明治10年ころから
アルビオン型手引き印刷機を意識し、
それを摸倣して製造? していたことをうかがわせる図版。
この図版とほぼ同一の、同社製のアルビオン型手引き印刷機は、現在でも
長崎印刷工業組合、水野プリテック、府中歴史博物館などに現存する。

欧文活字収納用ケース

木製部材と金属を併用したプレス機。

《江川活版製造所の印刷機械製造の記録》
ここでふたたび『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)「行書体活字の創製者 江川次之進氏――敏捷奇抜の商才で成功す――」から、活字鋳造と、大坂方面における「種字盗り」の記録、印刷機の製造・販売に関する記録の部分を紹介しよう。

明治十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞! 情報提供]に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

ここで、真田幸文堂から提供いただいた、江川活版製造所の印刷機に関する新資料を紹介したい。この記録は明治の末、上野池之端で大々的に開催された「東京博覧会」の記録である。ここには江川活版製造所の活版印刷機の写真が、不鮮明ながら石版印刷で紹介されている。
また江川長体明朝の数少ない資料として『印刷世界』から、活字広告を紹介しよう。このような埋もれていた記録が、これからも陸続と紹介できそうで楽しみなことである。また、板倉雅宣氏は2003年ころより手引き印刷機の所蔵先の調査をされている。この本格的な発表もまたれるいまである。

「江川の印刷機械と國華社の美術木版」『東京博覧会大画報』
(第6巻第3号 冨山房 明治40年 真田幸文堂蔵)

江川印刷機械所主・江川次之進氏は、明治16年斯業シギョウを創立し、独立独行幾多の困厄と奮闘して、爾来ジライ20有余年。この間幾多の改良を加え、以て製造に注意せる結果、今や江湖の信用最も厚く、内地は勿論、支邦、朝鮮などにまで分工場を起こし、業務日に月に益々隆盛に趣きつつあり。上図はすなわち出品の機械類なるが、上は足踏みロール印刷機械、下は新型のロール印刷機械なり。(以下國華社分 紹介略)

The Yegawa Type Foundry の雑誌広告 江川長体明朝の管窺にいるかぎり唯一の資料。
『印刷世界』(第2巻第1号 明治44年1月0日 佐藤タイポグラフィ研究所蔵)
「各種活字 印刷機械 附属品一式」――二号江川行書 行間二分
「本文:弊所は明治十六年の創業~」――五号江川長体明朝 行間二分