A Kaleidoscope Report 002

『 活字発祥の碑 』をめぐる諸資料から
機関誌『 印刷界 』と、
パンフレット『 活字発祥の碑 』

『 活字発祥の碑
編纂 ・ 発行 / 活字の碑建設委員会
昭和46年6月29日
B5判  28ページ  針金中綴じ  表紙1 ・ 4をのぞき 活字版原版印刷

活字界
発行 全日本活字工業会 旧在 千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年6月1日終刊80号 昭和59年5月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判 8ページ  無綴じ  活字版原版印刷
01号40号 編集長 中村光男、41号56号/編集長 谷塚 実、57号75号 編集長 草間光司、76号80号 編集長 勝村 章。   昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた

 

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レポート第2編は、全日本活字工業会の機関誌 『 印刷界 』 と、同会発行のパンフレット 『 活字発祥の碑 』 のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。 主要な登場人物は 「 株式会社中村活字店 ・ 第4代社長 中村光男 」 と、印刷業界の情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷 ・ 活字界の生き字引とされていた 牧治三郎 である。

『 印刷界 』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長は中村活字店第4代社長 ・ 中村光男氏。 この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京 ― 大阪間に開業し、首都高速道路が開通し、東京の外環をぐるりと囲む4車線道路、環状七号線が開通した、あわただしい年でもあった。 こんな時代を背景として、大正時代からあった 活字鋳造協会と、戦時体制下の統制時代にあった 活字製造組合 を基盤としながら、全国の活字鋳造業社が集会をかさね、あらたな組織として 全日本活字工業会 に結集して、その機関誌 『 活字界 』 を発行したことになる。

世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手印刷所、大手新聞社などのほとんどが活字自家鋳造体制になっていた。 それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 ( 文選 ・ 活字鋳造 ・ 植字組版作業を一括処理した組版機 ) の導入が大手を中心に目立ったころでもあった。 そのため、活字母型製造業者には、瞬間的に膨大な数量の活字母型の需要がみられたものの、導入が一巡したのちは奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業が、業界としての体をなさなくなっていた。 また、新興の写真植字法による文字組版を版下として、そこから写真製版技法によって印刷版をつくる オフセット平版印刷業者が、文字物主体の印刷物にも本格進出をはじめた時代でもあった。 つまり活字鋳造業界あげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな時代背景を 「 欧州を旅して 」 と題して、株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏が 『 活字界4号 』 (昭和40年2月20日、5頁 )寄稿しているので紹介しよう。

活字地金を材料とした単活字や、モノタイプ、ルドロー、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字を [ 鋳造による熱処理作業があるために ] Hot Type と呼び、写植機など [ 光工学と化学技法が中心で 熱処理作業が無い方式 による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。 欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[ 中略
こうした状況は、私たち 日本の 活字業界の将来を暗示しているように思われます。 私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。 このあたりで活字業界の現状を冷静に分析 判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。 現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。 したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

当時の吉田市郎氏は、全日本活字工業会副会長であり、東京活字協同組合の会長でもあった。 そして吉田氏はこの報告のとおり、1970年代初頭からその立脚点を、晃文堂時代の活字を主要な印刷版とする凸版印刷、すなわち 「 活版印刷 」 から、写真植字機と写植活字を開発し、オフセット平版印刷機までを製造するためにリョービ ・ グループに参入し「 株式会社リョービ印刷機販売 ・ 現リョービイマジクス 」 を設立した。

 この吉田の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ ・ グループの基礎を築くにいたった。すなわち吉田氏は かたくなに活字を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字から写植活字への時代の趨勢を読みとっていた。 そして1980年代からは、写植活字から電子活字への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。 それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として永らくとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。

『 活字界 』 には創刊以来、しばしば 「 業界の生き字引き 」 として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。 牧と筆者は15―10年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅まで同行したこともある。 当時の牧治三郎はすでに100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。 下記で紹介する60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。 そんな牧が印刷図書館にくると、「 あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」 という具合で、当時の司書 ・ 佐伯某女史が 「 古老が呼んでいるわよ…… 」 と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

牧治三郎は幼少のころから活版工場で 「 小僧 」 修行をしていたが、「ソロバンが達者で、漢字もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記になった 」 と述べていた。 「 昔は活版屋のオヤジは、ソロバンもできないし、簿記も知らないし……」 とも述べていた。 牧とは、東京築地活版製造所の元社長 ・ 野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。 筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを 「 そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ 」 とたしなめられることが多かった ( 片塩二朗 『 富二奔る 』 )。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎 ( ヨシタロウ、法学者、1897―1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。 なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。 牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して 「 野村先生 」と呼んでいた。したがって筆者などは 「 若ケエノ 」 とされても仕方なかったのだが、野村の功罪をめぐって、ときには激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「 牧老人が亡くなった……」 と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。 牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷 ・ 活字 ・ 製本関連の機器資料とその歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」の資料は蔵書の山から見いだせなかった。牧は「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」と述べていたが、どうやらそれは実現しなかったよで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出 」 『 活字界15 』 ( 昭和42年11月15日 ) にインタビュー記事があったので、40年以上前というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真と略歴を紹介したい。

牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
67歳当時の写真と蔵書印
1900年( 明治33 ) ―( 2003―5年ころか。 不詳 )。
印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。1980年ころは、中央区新川で 活版木工品 ・ 罫線 ・ 輪郭など活字版印刷資材の取次業をしていた。
主著 /「 印刷界の功労者並びに組合役員名簿 」 『 日本印刷大観 』 ( 東京印刷同業組合 昭和13年 )、連載 「 活版印刷伝来考 」 『 印刷界 』 ( 東京都印刷工業組合 )、 『 京橋の印刷史 』 ( 東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日 )。
牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。

ふしぎなビルディングがあった……。
このビルは、東京築地活版製造所の本社工場として、当時の社長 ・ 野村宗十郎(1857―1925)の発意によって 1923年(大正12)7月 ( 現住所 ・ 東京都中央区築地1-12-22) に竣工をみた。 ビルは地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。 ところがこのビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。 下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「 鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「 イモノ 」 をつくっていた。 ふつうの家庭では 「 火吹き竹 」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。 そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。 ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「 踏鞴 タタラ 」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「 蹈鞴 タタラ を踏む 」 としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 ( 聖徳太子の父、在位585-87 ) の 『 職人鑑 』 に、 「 蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆 」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。 つまり高温の火勢をもとめて鋳物士 ( 俗にイモジ ) がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。 また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「 鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭 」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。 すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと、「 活字発祥の碑 」 建立までの経緯がわかりにくい。

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して 市街地中央に位置したために 類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。 ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれた厄災とは、 関東大地震 による、まさに 《 火災 》 であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を越えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。 このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった……。

130年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災 ・ 震災 ・ 戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂 ・ 第2代社長、津田太郎 ( 全日本活字会会長などを歴任。 1896 ― 不詳 )が 「 活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として 」 と題して 『 活字界4号 』 ( 昭和40年2月20日 ) に報告しているので 該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に 「 物資統制令 ・ 故鉛 」 ということばが出ている。 これを記憶しておいてほしい。

・明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字 [ 取次販売 ] 業を開始する。 最初は [ それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の ] 江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた 熱変形を生じた不良の 活字母型を使用したため [ ] 、活字 [ の仕上がりが ] 不良で評判 [ ] 悪く、翌43年2月から、東京築地活版製作所の代理店として再出発した。

・明治42年、現在の鶴舞公園で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。この頃の印刷界は [ 動力が ] 手廻しか、足踏式の機械が多く、動力 石油発動機、瓦斯機関 が稀にあった程度で [ あった。] 8頁 [ B4サイズほど ] の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で 現代の人にこの意味が判るでしょうか あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。

・活字界も太田誠貫堂が堂々 [ とブルース型 ] 手廻し鋳造機5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。 その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。 もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区 [ を含めた商圏 ] が市場であり、後年に至り 津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み? の経営 コンナ言葉はなかったと思う で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。 五号活字が1個1厘8毛、初号 [ 活字 ] が4銭の記憶である。

・取引きも掛売りが多く、「 活字御通帳 をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。 営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。 活字屋風景として夜 [ になって ] 文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ 説明しても現代っ子には通じないことです )をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。

・盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火 これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい をボウボウ燃やして、その下で [ 作業をし ]、また津田三省堂は 蝋燭を使用 燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの )、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル 説明を省く [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、後漸く電灯になった。 当時は10燭光 タングステン球 であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ! と叱られた記憶すらある。

・当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。 もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う。 当時の 新愛知 名古屋新聞社 共に [ ブルース型 ] 手廻し鋳造機が2―3台あり五号 活字 位を鋳造していた )。

・大正元年 大阪の啓文社が支店を設け [ たために、地元名古屋勢は ] 大恐慌を来したが、2―3年で [ 大阪に ] 引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。当時は着物前垂れ掛で 小僧 と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。

・大正3年、津田三省堂が9ポイント 活字 を売り出した。 名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。 7年は全国的に米騒動が勃発した。 この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。

・大正11年、盛功社 が取次だけでなく 活字鋳造を開始。 国語審議会では当用漢字2,113字に制限 [ することを ] 発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。

・大正12年9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[]残さず灰燼に帰した。その為に津田三省堂も供給杜絶となり遂に殉難して休業のやむなきにいたった。

・大正14年秋、津田三省堂は鋳造機 手廻し [ ブルース型活字鋳造機 ] 6台 )を設置 [ して ] 再起した。 活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。

・大正15年、硝子活字 初号のみ )、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。

・昭和3年、津田三省堂西魚町より鶴重町に移転。 鉛版活字 仮活字 を売り出す。 また当時の欧文活字の系列が不統一を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。

・昭和5年1月、特急つばめが開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年10月の超特急は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。

・昭和5年、津田三省堂は林栄社の [ トムソン型 ] 自動 活字 鋳造機2台を新設、[ ブルース型 ] 手廻し鋳造機も動力機に改造し12台をフルに運転した。

・昭和6年、津田三省堂で宋朝活字を発売した。

・昭和8年、津田三省堂が本木翁の 陶製 胸像3000余体を全国の祖先崇拝者に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。

・昭和10年、満州国教科書に使用せられた正楷書を津田三省堂が発売した。 当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる。

・昭和12年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉( いずれも故人 ) の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923吋 と決定するという歴史的一頁を作った。

・昭和12年 7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。 物資統制令の発令 [によって] 活字の原材料から故鉛に至るまで その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。 受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。

・次第に空襲熾烈となり、昭和20年3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

 津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに 「 新社屋を新築して その移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した 」のである。 活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰したが、不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。 野村宗十郎はさっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所からの支援をうけて再興にとりかかった。

ところが……、本来なら、あるいは設立者の平野富二なら、笑い飛ばすであろう程度のささいなことながら、震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去と、新築ビルの易学からみた、わるい風評がじわじわとひろがり、それがついに野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。 こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版を 『 活字発祥の碑 』 から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所。

1923年(大正12)竣工なった東京築地活版製造所。
正門がある角度からの写真は珍しい

平野富二の首証文
東京築地活版製造所の前身、平野富二がここに仮社屋を建てて、長崎新塾出張活版製造所、通称 ・ 平野活版所の看板を掲げたのは1873年 ( 明治6 ) で、赤煉瓦の工場が完成したのは翌1874年のことであった。 長崎からの進出に際し、平野富二は ―― 長崎の伝承では 六海社 ( 現 ・ 長崎十八銀行の源流のひとつ ) に、平野家の伝承では薩摩藩出身の豪商 ・ 五代友厚 ( 大阪で造船 ・ 紡績 ・ 鉱山 ・ 製銅などの業を興し、大阪株式取引所、現大阪商工会議所などの創立に尽力。1835―85 ) 宛に―― 「 首証文 」 を提出して、資金援助を仰いでいた。 現代では理解しがたいことではあるが、明治最初期の篤志家や資産家は まだ侠気があって、平野のような意欲と才能のある若者の起業に際して、積極的な投資をするだけの胆力をもっていた。 筆者は、長崎の伝承と平野家の伝承も、ともに真実を伝えるものであり、平野はこの両社に 「 首証文 」 を提出して資金を得たとみているが、何分確たる資料はのこっていない。

すなわち平野富二は 「 この金を借りて、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる 」 ( 平野義太郎 『 印刷界31 4P  昭和46年11月5日』 ) という、悲愴なまでの覚悟と、退路を断っての東京進出であった。ときに平野富二26歳。

この 「 平野富二首証文 」 の事実は意外と知られず、長崎新塾活版製造所が、すなわち本木昌造が東京築地活版製造所を創立したとするかたむきがある。 しかしながら、平野の東京進出に際して、本木昌造は新街私塾の人脈を紹介して支援はしているが、資金提供はしていないし、借入金の保証人になることもなかった。 それでも平野は可憐なまでに、本木を 「 翁 」 としてたて、その凡庸で病弱な後継者 ・ 本木小太郎に仕えた。

東京築地活版製造所の創立者を 本木昌造におくのはずっと時代がさがって、野村宗十郎の社長時代に刊行された 『 東京築地活版製造所紀要 』 にもとづいている。 これもちかじか紹介し たい資料である。 薩摩藩士でありながら、本木昌造の新街私塾にまなび、大蔵省の高級官僚だった野村宗十郎を同社に迎えたとき、どういうわけか平野富二は倉庫掛の役職を野村に振った。 おそらく活字製造に未経験だった野村に、まず在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は どうやらこの待遇に不満があったとみられる。 しがたって野村が昇進をかさね、社長就任をみてからは、東京築地活版製造所の記録から、平野の功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

移転当時は大火災の跡地であった築地界隈
東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。―― 「 平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 ( 五千石 ) 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった」。

ところが、牧治三郎が江戸切絵図で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。 どうやら牧はこの記録を見落としたようだが、この日、銀座から築地一帯に強風のなかでの大火があって、築地では西本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一帯が焼け野原と化した。 そして新政府は、同年7月13日に東京中心部の墓地を移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで 雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大墓地をつくって市中から墓地の移転をすすめていた。 したがって築地西本願寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、これらの新設墓地へ移転していたのである ( 『 日本全史 』 講談社 918ページ 1991年3月20日 )。

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事中の歌舞伎座のあたり、采女ヶ原の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷 現松竹ビル )、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所 現懇話ビル となった。 いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が上野景範家で、弘道軒 神﨑正誼がこの上野の長屋に寄留して 清朝活字 を創製した。 活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。


大火のあとの煉瓦建築
創業時からの東京築地活版製造所の建物が煉瓦造りであった……、とする記録に関心をむけた論者はいないようである。 もともとわが国の煉瓦建築の歴史は 幕末からはじまり、地震にたいする脆弱さをみせて普及が頓挫した関東大地震までのあいだまで、ほんの65年ほどという、意外と短い期間でしかなかった。 わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年 ( 安政4 ) 長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。 その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスの お雇い外国人 の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。 それが一気に普及したのは、前述した1872年 ( 明治5 ) 2月25日におきた 銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は西本願寺の大伽藍をはじめとして 一帯が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際して、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。 そのために東京築地活版製造所は 、社史などに わざわざ 煉瓦建築で建造したと、しばしば、あちこちにしるしていたのである。 さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円という、おそらく当時の物価からみて低額で獲得することができたのである。 その事実を購入価格まで開示して、出資者などにたいし、けっして無駄なな投資をしたのではないことを表示していていたものとみたい。すなわち、牧治三郎が述べた 「 幕末切腹事件 」 などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

新ビルの正門は裏鬼門に設けられた
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。 牧治三郎が短い連載記事で述べたのは、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよかったかもしれないとおもったことがある。 このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。 [ 西川さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、正門が裏鬼門にあることを意識してなかったのですか? ]。 「 もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ [ 活字鋳造工 ] の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出りしなかった。 オレだって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな 」。 [ それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか? ]。 「 野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった 」。

東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

家相八方位吉凶からみた裏鬼門
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。 あらためてしるすと、このビルは1938年(昭和13)東京築地活版製造所の解散にともなって「 懇話会 」 に売却され、1971年 ( 昭和46 ) まで懇話会が一部を改修して使用していたが、さすがに老朽化が目立って取り壊され、その跡地には引き続いてあたらしい懇話会館ビルが新築されてこんにちにいたっている。 取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学ではもっとも忌まれる死門、坤 に設けられていた。 現代ではこうした事柄は迷信とされて一笑に付されるが、ひとからそれをいわれればおおかたは気分の良いものではない。 牧治三郎は取り壊しが決定したビルの こうした歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「 寝た子をおこした 」 のである。

これからその牧の連載を紹介したい。 ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの歴史が丹念につづられている。 これについで、次回には 当時の印刷人や活字人が、牧の指摘をうけて、どのように周章狼狽、対処したのかを紹介することになる。

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旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 21号』(編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、大正12年 1923 3月に竣工した。 地下1階地上4階の堂々たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。 ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは 焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。 また隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いて焼失した。 焼失を免れたこのビルは1971年(昭和46)まで懇話会館が使用していたが老朽化が目立って、全面新築されることになったことをきっかけとして牧治三郎による連載記事が掲載された。

活字発祥の歴史閉じる
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。 この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円 ( 現在の金で4億円 ) を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕が、ここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

大正12年に竣成
[ 東京築地活版製造所の旧社屋は ] 大正11年、野村宗十郎社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。 特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた 月島分工場も灰燼に帰した。 罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所 [ 大阪活版製造所 ] の字母 [ 活字母型 ] が健在だったので、1週間後には活字販売を開始、[ した ]。 いまの東京活字 [ 協同 ] 組合の前身、東京活字製造組合の罹災 [ した ] 組合員も、種字 [ 活字複製原型。 ここでは電鋳法母型か 種字代用の活字そのもの ] の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内 [ 門前とも ] の長屋 としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。 東都下谷絵圖 1862 を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町3丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多くてさほど大きな変化はない。 すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校となり、その路地を挟んで佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが 長屋 」跡とみられ 、その神田佐久間町三丁目の一部が、平野の最初の拠点であったとみられる。 尾張屋静七判『 江戸切絵図 人文社 1995年4月20日 )

 明治5年外神田で営業開始
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機 [ このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない ] 2台、上海渡りの8頁ロール 人力車廻し [ B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた印刷機 ] 1台、ハンドプレス [ 平圧式手引き活版印刷機 ] 1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

 明治6年現在地に工場に建築
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁をはさんで、釆女が原 ウネメガハラ から、木挽町 コビキチョウ を過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

移転当時の築地界隈
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 五千石 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

煉瓦造工場完成
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、 神田佐久間町まで半日がかりで活字買い [ に出かける ] の時間が大いに省けた。 商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

勧工寮と販売合戦
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字 [ 活字ハンドモールドを用いて製造した活字 ] で売出していた 志貴和助や大関某 [ ともに詳細不詳 ] などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷 [ を担当していた ] の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の手強い競争相手だった。

活字割引販売制度
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争 [ 太平洋戦争 ] の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した [ もの ] に外ならない。 勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

西南戦争以後の発展と母型改刻
西南戦争 [ 1877/明治10年 ] を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体 [ 活字 ] 母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された [ 印刷図書館蔵 ]

次いで、同14年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。 残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。 この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』 ( 編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年7月20日 )

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [ 大阪活版製造所社長を兼任 ]
、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。
その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [ 平野 ] 造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

 築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治256年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治278年戦役 [ 日清戦争 ] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [ 活字 ] 鋳造機は、手廻機 [ 手廻し式活字鋳造機 ブルース型活字鋳造機 ] 120台、米国製トムソン自動 [ 活字 ] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [ 自動 ] 鋳造機 [ 詳細不明。 調査中 ] 1台で、フユーサー機は日本 [ 製の ] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [ した。 その ]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[ はなしが ] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [ はあるが ] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [ ] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [ 東京築地活版製造所 ]の重役で、 [ 印刷機器輸入代理店 ] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [ ] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [ ] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会 広報部 中村光男
( 『 印刷界22号 』 囲み記事として広告欄に掲載された )

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌 活字界 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と 同建物跡に建設される 懇話会館の八十島 [ 耕作 ] 社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会は こうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。