タイポグラフィあのねのね*012 平野富二と李白 春夜宴桃李園序

活版製造所 平野富二の活字組み見本にみる
李白 春夜宴桃李園序

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の概略紹介
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)を再再紹介してきた。これは、俗に『平野富二活字見本帳』(活版製造所 平野富二 推定明治9年 St. Bride Library蔵)、『改定 BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 明治12年 印刷図書館蔵)とともに、冊子型活字見本帳としてはわが国最古級のものとされている。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は平野富二の旧蔵書であった。また筆跡からみて、平野富二の自筆とみられる書き込みが、一部に鉛筆によってしるされている。本書は平野富二の逝去後も、東京築地活版製造所に隣接した平野家に保存されていたが、1923年(大正12)関東大地震の火災に際して消火の水をかぶったため、表紙を中心に損傷がみられる。しかしながら貴重書として、平野家歴代にわたってよく保存され、こんにちなおその資料性を失っていない。

巻頭第Ⅰにみる木版画による本社社屋。

巻頭第Ⅱにみる小扉。円弧に沿って活字組版をするのは
相当の技倆を必要とする。

巻頭第Ⅲにみる本扉。たくさんの種類の活字をもちいた、多色刷り
となっており、4-6度刷り作業をおこなったとみられる。

第1ページにみる「第初號」[明朝体活字]
これは鋳造活字ではなく、木活字とみられている。

最終丁にみる刊記。住所と「活版製造所 平野富二」とある

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の造本仕様紹介

本文仕様    天地228mm×左右168mm(各ページに若干の異同有り)
輸入紙とみられる厚手の非塗工紙に片面刷り。
基本的にスミ1色刷り。扉・装飾罫ページには特色使用。
本文112丁 キリ状のもので2-4穴をあけ糸を通して綴ったものとみられ
る。穴の痕跡は明確に残るが、糸は存在しない。
最終ページに装飾枠に飾られた刊記あり。
「東京築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二」

装本仕様      損傷が激しく、推定部分が多いことを事前にお断りしたい。
装本材料、本文用紙などは輸入品とみられる。
芯ボール紙に代え、薄い木材片を表紙芯材として、表紙1-4に使用。
芯が木材とはいえ、皮をまいた、本格的な皮装洋装本仕立てである。
表紙1-2 オモテ表紙には、小扉ページと同様な絵柄が、空押し
もしくは、箔押しされたとみられるが、箔の痕跡はみられない。
BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO が楕円形で組まれ、
その中央に《丸に も》形のマークが月桂冠の装飾によっておかれ、
その中央にブラック・レターのHがある。最下部に、住所標記として
「Tsukiji Tokio. Japan」がある。
表紙3-4 ウラ表紙には、文字活字が印刷もしくは型押しされた痕跡は無い。
背にあたる部分は存在しない。

また、俗に『活字見本帳』(活版製造所平野富二 推定明治9年  St. Bride Library蔵)とされる活字見本帳は、10年ほど前までは英国St. Bride Libraryにあり、表紙の撮影だけが許されていた。しかし近年大勢出かけている留学生や旅行者の報告では、「収蔵書が多すぎて整理が追いつかなく、同書は収納場所がわからないので閲覧をお断りする」との回答が報告されている。St. Bride Libraryにはさまざまな経済的な荒波が襲ったと仄聞するが、その一刻も早い公開が待たれるところである。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は、平野富二の曾孫にあたる平野正一氏が、関東大震災当時、平野家土蔵に収蔵されていて被害がなかった、膨大な平野富二関連資料(書画・証書・表彰状類が多い)の山を整理されたおり、その一隅から偶然、損傷の激しい本書を発見されて、公開されたものである。それを長らく小生が拝借してきたが、そろそろ平野家にお返ししないと、いくらなんでも心苦しい時期になってきた。それよりなにより、平野家から、本書の影印複製本の作成を許諾されているのに、いまだに図書販売環境にとらわれて、その刊行ができないでいることもあわせて心苦しいのだ。

◎東京本格進出5年後、32歳の平野富二の挑戦
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』は、長崎のひと、若干27歳の平野富二が、六海商社ないしは五代友厚に「平野富二首証文」(嫡孫・平野義太郎記述、本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)を提出し、それを担保として創業資金を借財し、1872年(明治5)7月に「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)に鋳造活字製造工場を設け、翌1873年(明治6)築地二丁目二十番地に煉瓦造りの工場を新築し、活字の鋳造ならびに関連機器の製造販売、すなわち、のちの東京築地活版製造所を創業したことに端を発する。

平野富二が築地川沿い、万年橋東角のこの地を、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売の本格展開の場所に選んだのは、これまで見落とされていた事実があったことが、『活字界』の連載を調査するなかから浮かび上がってきた(本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)。
すなわち1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺において大火災が発生し、折からの強風もあって、旧京橋区・旧日本橋区一帯が焼亡した。政府は同年7月布告を発して、この地区に再建される建築物を、できるだけ新技術で、耐火性にすぐれた、煉瓦造りにするように命じた。また同時に、東京・渋谷に火災の被害にあった墓地の移築を命じた。これが青山墓地のおこりとなり、さらに同年11月28日、雑司ヶ谷と駒込にも大型墓地を設けて、移築をなかば強制した。
この結果、築地本願寺は大きく敷地を削られ、付属する墓地のない現在の姿となった。また京橋区・日本橋区、すなわち現在の中央区には、墓地はもちろん、社寺地がいちじるしく減少して、一大町人地となった。それがして、こんにちの銀座一帯のきわめて繁華な商業地をもたらすおおきな原因となった。

すなわち、1873年(明治6)、28歳の青年・平野富二は、焼亡した広大な敷地のなかから、もっとも水運に恵まれた、築地二丁目二十番地、万年橋東角に、耐火性をおもんぱかって煉瓦造りの工場を新築し、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売、すなわちのちの東京築地活版製造所を創業したことになる。

さらに興味深い事実を指摘しておこう。平野富二が最初の拠点とした「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)のすぐ裏には総武線の線路が走るが、かつてここには江戸城の外堀をなした運河があった。江戸末期の古地図(江戸切り絵図)を調べると、同所から、築地二丁目二十番地の前を流れていた築地川(現在は高速道路として利用)までは、相当な規模の舟が運航できたものと見られる。
活字の製造設備をはじめ、印刷・組版関連機器、活字などの重量はそうとうなものとなる。神田から築地への比較的近距離への移転とはいえ、自動車や起重機などの陸上交通機関が未発達なこの頃、同社の移転はもとより、その後の隆盛に向けて、水運の利便性は極めて重視されたことが想像される。

ところが、『活字界21号』(編集・発行 全日本活字工業会 昭和46年5月20日)で牧治三郎は、平野富二が求めたこの土地を以下のように紹介し、やがて野村宗十郎社長時代にこの地に1923年(大正12)に新築された本社ビルが、移転の当日に関東大震災に襲われただけでなく、方位学からみると「呪われたビル」であるとした。
《移転当時の築地界隈》
平野富二氏が買い求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切り絵図によれば、神田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)の中奥御小姓屋敷の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の屋敷で多くの武士が切腹した因縁の地で、あるじ無き門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心として、末派の寺と墓地のみで、夜など追いはぎが出て、ひとり歩きができなかった。

しかしながら碩学の牧治三郎も、1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺に大火災が発生していた事実を見落としたようである。この大火後、前述のように墓地はもとより、社寺地は大きく減少している。また『実測東京全図』(地理局 明治11年)をみても、現在の中央区の区画は、関東大震災の復旧に際して設けられた昭和通りをのぞくと、ほぼ現在の区画に近い。すなわち、この周辺にはすでに江戸切り絵図の姿とは異なり、寺や墓地はなかったはずである。

もともと鋳物士(俗にイモジ)・鋳造業者とは、奈良朝からのふるい歴史をゆうする特殊技芸者であり、いわば験ゲン担ぎの職能人ともいえた。その系譜を継承した活字鋳造業者も、火を神としてあがめ、火の厄災を恐れ、不浄を忌み、火伏せの神・金屋子カナヤコ神を祭神とするきわめて異能な集団であったことは報告(A Kaleidoscope Report 002)した。
平野富二と初期東京築地活版製造所の面々も、陽の力、すなわち太陽がもっとも低くなる冬至に際し、「鞴フイゴ祭、蹈鞴タタラ祭」を催し、強い火勢をもって祭神に「一陽来復」を願っていた。したがって、かれらは猛火の火によって十分に除霊されたこの地を、機械製造や活字鋳造に最適な場所として選んだとみてよいであろう。

同社の創業当時の社名は様々に呼び、呼ばれていたようである。本書口絵に相当する板目木版画には、右端にちいさな看板が紹介されているが、そこには「長崎新塾出張活版製造所」とある。かれらは東京進出後もながらく、「長崎の新街私塾[長崎新塾]が、東京に出張して開設した活字版製造所」という意識があったものとみられる。このように、同社は設立当初から、廃業に追い込まれる1838年(昭和13)の直前まで、長崎系人脈と長崎系資本との密接な関係がみられた。そしてその人脈と金脈が枯渇したとき、同社は巨木が倒れるようにドウと倒れたとみてよいだろう。

また同書巻末の刊記には「東京京橋二丁目二十番地活版製造所 平野富二」とあるが、発行日は記載されていない。同書が推定明治10年版とされるのは、紹介されたカレンダーの年号からと、本書の改訂版が明治12年に発行されているためである。いずれにしてもこの時代は、平野活版所ないしは平野活版製造所、あるいは単に活版所と呼ばれることが多かったようである。

そろそろ平野家にお返しする(つもりだ)から、名残り惜しくて、しばしば『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』を開いてはため息をつく。その都度、いまでもあらたな発見がある。紹介された印刷関連機器、さりげなく置かれた装飾罫、欧文活字の招来先、印刷されていない込め物の分割法、そして活字書風などである。
そもそもこの時代には、まだ「明朝体」をふくめて活字に定まった名称はなかった。『本木昌造伝』島屋政一の報告では、「長崎活字・平野活字・崎陽活字・近代活字」などとさまざまに呼ばれていたようである。活字の書体名として「明朝風」ということばがはじめて登場するのは、1875年(明治8)本木昌造の逝去を報じた、福地櫻痴筆とみられる『東京日日新聞』「雑報」が最初であることは報告した。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』では、漢字活字、和字活字(ひら仮名・カタ仮名)、欧字活字(欧文)は明瞭に切り分けられて紹介されている。むしろ現在のデジタル・タイプの環境下のように、明確な根拠もなく普遍化? した「漢字書体に随伴する仮名書体」、「従属欧文」という考え方などよりも、ある面では明確かつ明快といえるかもしれない。
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の漢字活字の文例は、よく知られた『李白 春夜宴桃李園 序』が、すべての漢字活字書体および漢字活字サイズの紹介に使用されている。
漢文紹介とその読み下しには、異本紹介や、異論がつきものだが、ここではいちおう、はるかな昔、漢文の教師(古ッ)が抑揚たっぷり、朗々と吟じた名調子を思いだしながら紹介したい。
そこで思いだしたことがひとつ。この李白を引いたとされる松尾芭蕉『奥の細道』を指導した古文の教師(古ッ)は、過客をカ-キャクというか、むしろ明けガラスの鳴き声のように「クヮ-キャク」と読んでいた。漢文の教師は故事成句にならって「カカク」といっていた。それをどこにでもいる勘違い男が、どちらの教師にか忘れたが、「クヮキャク」と「カカク」の違いに関して余計な質問をして食い下がっていた。そんなものは自分で辞書でも調べろ、とおもって鼻をほじっていたが、いまもってどうでもいい気がしないでもない。

第5ページにみる「第3号」[明朝体活字]。第3号からは
李白『春夜宴桃李園 序』が全文にわたって紹介されている。

長崎造船所出身の平野富二は、造船と機械製造にすぐれた手腕を発揮した。
ともすると東京築地活版製造所は
活字を中心に語られるが、はやくも1873年(明治6)
6月には、同社は上図のような、英国製を摸倣した国産機、アルビオン型手引式活字版
印刷機を製造・販売していたことが、諸記録からあきらかになっている。したがって
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治
10年 平野ホール藏)は、上図のような国産印刷機で印刷したものとみなされる。

◎盛唐の詩人・李白(701-62年)の序文『春夜宴桃李園 序』
「春の夜に、桃李トウ-リ、モモ-ヤ-スモモの園にて 宴ウタゲをする の 序」

◎ 江戸の俳人・松尾芭蕉(1644-94年)『奥の細道』
「月日は百代の過客カカクにして、行きかう年トシもまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口をとらえて老オイを迎える者は、日々旅にして旅を栖スミカとす」

*     *     *

夫天地者萬物之逆旅     夫れ 天地は 萬物の逆旅ゲキリョ、タビ-ノーヤドにして
光陰者百代之過客      光陰は百代の 過客カカク、トオリスギシ-ヒト、タビビトなり
而浮生若夢      而して 浮生フセイ、ウキヨは 夢の若し
爲歡幾何          歓ヨロコビを為すこと 幾何イクバクぞ
古人秉燭夜遊     古人は 燭を秉トり 夜に遊ぶ
良有以也       良マコトに 以ユエ有る也ナリ
況陽春召我以煙景   況イワんや陽春の我を召すに 煙景エンケイを以てし
大塊假我以文章          大塊タイカイの我を仮すに 文章を以てする
會桃李之芳園     桃李トウリの芳園ホウエンに会し
序天倫之樂事     天倫テンリンの楽事ラクジを序す
群季俊秀       群季グン-キ、ムレヲナスの俊秀シュンシュウは
皆爲惠連       皆惠連ミナ-ケイ-レンたり
吾人詠歌       吾人ゴジン、ワレワレの 詠歌は
獨慚康樂       独り康樂コウガクに 慚ハじる
幽賞未已       幽賞 未だ 已ヤまざるに
高談轉清       高談 転たウタタ、ツギツギ-ト 清し
開瓊筵以坐花     瓊筵ケイエン、ブンガ-ナ席を開いて 以て花に坐し
飛羽觴而醉月     羽觴ウショウ、サカヅキを飛ばして 月に酔う
不有佳作       佳作有らずんば
何伸雅懷       何ぞ雅懷ガカイ、フウガナ-ココロを伸べん
如詩不成       如しモシ 詩成らずんば
罰依金谷酒數     罰は 金谷キンコクの酒の数に 依らん