タイポグラファ群像*003 牧治三郎氏

タイポグラファ群像*003

牧    治 三 郎

(マキ-ジサブロウ  1900年(明治33)5月-2003年(平成15)

本ブログロール『花筏』 A Kaleidoscope Report 1-7において、『活字界』連載「活字発祥の碑」を通じて、「印刷業界の生き字引き」としての牧治三郎のことを紹介してきた。その一部を再録し、その後このページをご覧になった板倉雅宣氏からご提供いただいた新資料と、わずかに発見したあたらしい資料を補足しながら、ここにわが国の印刷史研究に独自の歩みをのこした牧治三郎を記録したい。
(2011年8月20日改訂)、(2011年9月9日、某古書店の協力により牧治三郎氏没年を改訂)。

     
牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
1900年(明治33)うまれ  67歳当時の肖像写真と蔵書印

牧治三郎と筆者は、20-15年ほど以前に、改築前の印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために「印刷材料商」だった牧の自宅(当時の居住地 : 東京都中央区湊3-8-7)まで同行したことがある。夕まぐれに到着したが、当時はすでに看板は掲げていなかったとおもう。
わずかに、階下に活字スダレケースや、活字架などの活版木工品、活版インキやパックのままのケース入り名刺などの在庫が置かれている程度であった。

当時の牧治三郎はすでに90歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、常識や節度といったバランス感覚も良く、また年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。また、上記の写真で紹介した60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から相手を見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」という具合で、当時の司書・佐伯某女史が、
「長老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず印刷図書館まで駆けつけたものだった。
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 牧治三郎の出身地、新潟県新発田シバタ市は、いまこそ豊かな米どころととして知られるが、当時の農村の生活は貧しく、幼少のころから上京して、いっとき活字版印刷工場で「小僧」修行をしたことがあるとのべていた。新潟から上京した時期と勤務先は聞きそびれた。
そして1916年(大正5)15-16歳の頃から「印刷同業組合」の事務局の書記役として勤務していたが、一念発起して(夜学とおもえる)日本大学専門部商科を1923年(大正12)23-24歳のころに卒業している。

したがって卒業後に改めて印刷会社に入ったものの、
「ソロバンが達者で、字[漢字]もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記のほうが本職になっていた」
と述べた。
「昔の活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。
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牧治三郎とは、東京築地活版製造所の元社長・野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。

◎2011年9月9日追記:
牧治三郎は珈琲が好きで、印刷図書館を出てすぐ前の〈バロン〉という喫茶店で話しこんだ。牧には奇癖があって、丸くて上蓋がパカッと持ちあがる、ふるいタイプのシュガー・ポットから、砂糖を山盛りで摂りだし、それをティー・スプーンの柄の部分をもちいて、いつも器用に摺りきり三杯にして飲んでいた。

2011年9月9日、久しぶりに印刷図書館を訪ねた際、〈バロン〉はまだ営業していた。懐かしいおもいで飛びこんで珈琲を注文したが、あのふるいシュガー・ポットは、丸いスプーンとともに健在だった。そこで牧の癖を真似てみたが、おもいきり砂糖をテーブル一面にこぼしてしまった。

筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所の設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサン(平野富二嫡孫、後述)にぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにして、平野富二に関して触れるのはやめておけ」とたしなめられることが多かった(『富二奔る』  片塩二朗 朗文堂)。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヒラノ-ヨシタロウ、元東京大学法学部助教授。戦前の悪法・治安維持法によって公職を追われた。のち高名な法学者として知られる。1897-1980)のことで『富二奔る』に詳しい。

なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという、野村宗十郎(1857-1925)を高く評価して、終始「野村先生」と呼んで、なかば神格化してかたっていた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、平野の功績と野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

また、牧治三郎の1938年(昭和13)から、敗戦の1945年(昭和20)までのあいだ七年ほどの経歴が「印刷材料商を自営」とだけなっており、その間の行蔵コウゾウはあきらかにされていない。
印刷同業組合の書記の職を辞して「印刷材料商を自営」した1938年には、牧はまだ38歳程度の年齢であった。
向上心と自意識がきわめてつよかったこのひとが、活版木工の取次程度の閑職に甘んじていたとはおもえなかった。

この「変体活字廃棄運動」の件になると、ふつう饒舌な牧は、俄然寡黙になり、筆者がどこまでその実態に迫っているのかを逆に探ることのほうが多かった。しかしついに、牧はそれを詳細にかたることがなかった。

ただいえることは、牧はさしたる理由もなく、印刷同業組合の書記役から身をひいたものの、単なる「印刷材料商」としてではなく、あきらかに「緊張の時局下」の印刷界の枢要な黒子として、水面下で活動した。
そして、まぎれもなく「変体活字廃棄運動」と、企業整備令にもとづく、印刷企業の「廃止・整理・統合」の背後で、重要な役割をもった人物として存在していた。
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印刷産業における企業整備令――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――の実施とは、
「弱小企業A社を廃止し、中小企業B社とC社の設備と人員を整理(縮小)し、中堅企業D社の設備と人員も大幅に削減する。その後、B+C+D社を統合した上で、残存会社としてB社を中心として、E社を設立する」
というような形で実施された。

官界からは業種ごとに数値だけが指示された。すなわち、
「企業・工場を、廃止・整理・統合し、兵士 ◯ ◯ 名を徴兵可能とせよ。また工場の廃止・整理・統合にともない、金属資源 ◯ ◯ 万トンを供出可能とせよ」
という数値目標だけの「指示」である。

もちろん官僚は自らの手を汚すことなく、それを民たる同業組合などに「指示」した。
つまり印刷同業組合では、政府から命じられた数値を、固有名詞、すなわち個個の企業の名前に書きかえる、ないしは置きかえる必要があった。
ところが同業組合の幹部とは、たれもが斯界シカイの事業主の一員であって、当然ながら、同業他社の内実・実情などはほとんどわからなかったし、自らの企業がそれを免れることに必死なだけであった。

つまり政府から命じられた「数値」を、仲間内の同業者の「固有名詞」に置きかえるためには「汚れ役」が必要だった。そこで印刷業界の隅々まで知悉チシツしていた人物がもとめられたのは当然であろう。
敗戦から半世紀余の当時でも「企業統合」の憂き目にあった印刷業者からは、企業生命を制する「企業の赤紙」として怖れられた「企業統合」のときの、さまざまな怨嗟エンサのことばや、風説はしばしば耳に入っていたので、それを牧に直接確認した。

この確認を再再にわたってせまった筆者に、牧は、
「戦争中は、ともかくいろいろあったからなぁ」
と曖昧に答えるだけだった。しかしながら、否定はしなかった事実も多い …… 。これ以上踏み込むと牽強付会のそしりを免れない。

もどかしいことながら、戦争末期の「変体活字廃棄運動」と、企業整備令関連文書記録などのすべてが焼却処分されたとされ、いまだにその真相に迫ることができない。
しかしながら、東京築地活版製造所が解散に追い込まれた1938年(昭和13)、すなわち牧が印刷組合書記の職を離れて水面下に潜行し、その行蔵が不明となった年以降、わが国の印刷と活字の業界には、なにかみえざる大きな黒い手が蠢動していたことは事実である。

しかし「牧老人が亡くなった …… 」と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、詳細な経歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログ、パンフレット、ビラのたぐいもよく収蔵していた。
その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。しかしながら、これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒関連の資料」は蔵書の山から見いだせなかった。

牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていたが、どうやら『治三郎文庫』はついに実現しなかったようである。
その蔵書は(おそらく)神田S堂を通じ、すでに二度にわたって大量に古書市場に流出して、事情通の古書店主らを驚愕・仰天させたそうである(N古書店店主談)。
また、牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「禁 出門 治三郎文庫」とあり、現在も古書店などで、この蔵書印をときおり目にすることがある。

牧の旧宅(当時は中央区湊3-8-7)があった中央区湊三丁目周辺は、すっかり様相がかわっており、高層ビルの建ち並ぶ街になっており、またご家族の所在をわからないでいる。
牧は「板橋の家にも蔵書がある……」とも述べていたので、当時から郊外にご子息などが居住していた可能性もある。

そこで、付きあいのある神田の古書店S堂に架電して、牧家のあたらしい連絡先を尋ねたが、
「お客さまの個人情報はご勘弁を …… 」
ということで、いまだに牧治三郎の没年を掌握していない。
〈2011年9月9日:N古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《牧 治三郎の略歴》

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があったので、40年以上前という、ふるい資料ではあるが、牧治三郎の67歳当時の風貌がわかる写真(最上部に蔵書印影印とともに掲出)と、略歴を紹介したい。聞き手は同誌編集長だった中村活字・中村光男氏とみられる。

あわせて、『東京の印刷組合百年史』(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)の巻末に、〈執筆者紹介〉として牧治三郎の略歴がある。
牧は同書全27章のうち、前章-7章までを執筆している。ほかの執筆者は三浦康(ミウラ-コウ 8-13章)、山川俊郎(ヤマカワ-トシロウ 14-19章)、真神博(マガミ-ヒロシ 20-24章)、南惠之助(ミナミ-ケイノスケ 25-27章)の各氏である。

興味深いのは、平成3年のこのころ、すでに京橋区は中央区に改称されて相当の時間が経過しているが、なにかと「印刷の街・京橋」に居住していることを自慢にしていた牧は、その住所を「京橋区湊三丁目」としるして平然としている。

「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」
『活字界15』(昭和42年11月15日 )

〈大正から昭和初期は、ひどい値下げ競争時代〉
私が活字業界のお手伝いをしたのは、大正5年頃から昭和10年頃であった。その頃私は東京印刷同業組合の事務局にいたので、活字業界に頼まれて庶務の仕事をやっていたが、ひとことでいうと、当時はひどい値下げ競争であった。
協定価格の半額が通常で、少しまとまった顧客にはさらに一割引きとか二割引きでやっていたようである。また当時は業者間でも派閥争いが激しく、ともかくたいへんな時代であったようにおもう。

〈古い資料をたくさんお持ちのようですが〉
特に集めたわけではないのですが、印刷組合、活字組合のお手伝いをしていた関係上、明治・大正時代の珍しいものが自然にたまってしまったような訳です。なかなか整理ができず、適当な機関に順次差しあげたいとおもっております。活字組合さんにも、保存さえしていただければ、寄贈したいとおもっております。

〈印刷工業組合設立の苦労をうかがわせてください〉
印刷組合のことですが、昭和6年にはじめて重要生産品に指定されて、ようやく政府にも印刷産業の重要性を認められたことでしょう。その結果、昭和8年に東京印刷工業組合が設立できた訳です。
それまでは、ほかの産業と同じくたいへんな不景気で、活字業界も四苦八苦のようでしたが、印刷業界の工業組合ができて、少しずつ過当競争を改めていったようにおもいます。
今でこそ政府の認可ということは、それほど重要ではないようにおもわれますが、当時はお役所の了解を得るのに、業界の幹部はたいへんな苦労をなさっていました。

〈今の印刷会館は三代目の建物ですか?〉
そうです。新富町の印刷会館もこれで三代目です[現在は全面改築されて四代目]。
昭和6年に木造二階建てに改築したのですが、そのとき吾々事務局は[秋葉原の]凸版印刷の本社に半年ばかりお世話になりました。

牧治三郎さんは明治33年うまれ。67歳とはおもわれない元気さで、思い出話にも少しも渋滞がない。大正10年のお茶の水の印刷展覧会、大正12年の京都の印刷博覧会など、きのうのことのように話しをすすめられる。[中略]なお、同氏は現在、中央区で、木具・ケイ・リンカク業を営んでいる。

〈執筆者紹介〉『東京の印刷組合百年史』
(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)

牧 治三郎(まき じさぶろう)

1900年(明治33)5月、新潟県新発田市に生まれる。1916年(大正5)7月東京印刷同業組合書記採用。1923年(大正12)7月日本大学専門部商科卒業。以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。京橋区湊三丁目で印刷材料商を自営(前章―7章担当)。〈2011年9月9日追記:某古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《主著と呼ぶべき著作がない、能筆な執筆者・牧治三郎》

◎ 「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)
四六倍版 本文848ページ 各種印刷版式使用 上製本

印刷同業者組合の内部文書などは別として、牧治三郎がはじめて本格的な著述をのこしたのは『日本印刷大観』である。
同書には広告や差し込みページが多いが、その本文848ページのうち、「印刷の起源及び発達」239ページ、28%ほどを庄司浅水が記述し、のこりの590ページ、69%ほどを「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」として牧が記述している。

すなわち牧は、本格的な書物の舞台に初登場した38歳ほどのときから、ある意味では共著者の庄司浅水をこえて、主たる著述者であったことはあまり知られていない。
本書を執筆した際に、牧が発行元となった印刷同業組合書記に在職していたかどうかはわからない。いずれにしても『日本印刷大観』が発行された1938年(昭和13)7月に、印刷同業組合の職を離れ、印刷材料商(代理・中継ぎ販売)というちいさな店の店主となった。いつも、どこかに、韜晦トウカイのふうがみられるのが牧の特徴だった。

◎ 『京橋の印刷史』
(編集・発行 東京都印刷工業組合京橋支部五十周年事業委員会 昭和47年11月12日)
B5判 800ページ 全活字版印刷 上製本

この書物が牧治三郎の主著といえば主著といえるのかもしれない。
しかしながら本書はおよそ印刷同業組合の一支部がつくるような資料とはいえないほどの、広汎な内容とボリュームをもつ。また背文字・表紙・スリップケースに著者名も発行者名も無く、ただ書名の『京橋の印刷史』だけがポツンとしるされた書物である。その異常といえば異常な書物が『京橋の印刷史』である。
巻頭の「ごあいさつ」で、東京都印刷工業組合京橋支部支部長・荒川隆晴は以下のように述べている。

この『京橋の印刷史』を編纂刊行できましたことは、衷心より喜びにたえません。内容をお読みくださればすぐおわかりになることですが、本書は「京橋の印刷史」というよりは「日本の印刷史」と申すべきが適当な内容で、実に日本の印刷史をひもといた、見事な、立派な、かつ貴重な歴史が刊行できましたことを、委員会を代表して心から慶賀を申しあげる次第であります。

この印刷史の編纂に当たっては、四百字詰め原稿用紙三千枚の執筆のほか、貴重な資料、写真の提供などに多大なご尽力をいただいた牧治三郎氏の約一ヶ年半にわたる長期のご努力がありました。[後略]

編纂委員として名を連ねた荻野義博は――あとがき――にこうしるしている。

[前略]この印刷史を刊行する話しがあったのは、昨年(昭和46)早春の部長会であった。四月の定時総会に諮り、満場一致の賛成を得て、直ちに印刷史に実に造詣の深い牧治三郎氏にすべてお願いすることにした。

[中略]牧氏の起稿の全貌は12月にいたって大略目安がついたが、なお脱稿まで計算すると、かなり厖大になるものと予想されたので、A5判の予定をB5判に変更することになり、加えて記念式典も盛大にということになり、予算の関係で、やむを得ず企業紹介コーナーを設けて、[組合員はもとより、ひろく関連企業からの]ご協賛を仰がなければならなかった。[後略]

牧治三郎は『京橋の印刷史』の執筆依頼をうけると、1ヶ年半という短期間に、一気呵成に400字詰め原稿用紙3,000枚を書き上げた。そのため、編纂委員会では判型をA5判からB5判に、ページ数を800ページへと急遽拡大して変更せざるを得なかったことがわかる。それでも牧治三郎は紙幅が足りないと主張したそうである。
それよりなにより、編纂担当委員は大幅な予算超過となり、「広告という名の協賛金」集めに奔走せざるを得ない仕儀とあいなった。

したがって、巻末部におかれたp.693-797「印刷略年表」(扉ページにこのタイトルがのこっている)は、校正時に編纂委員会から原稿の一部の削除と減少を懇願された。妥協案として、近代印刷だけに絞って「近代印刷小史年表」にタイトルを変更され、しかも本文活字の9pt. 30字詰め 2段組ではなく、6pt.という豆粒のようなちいさなサイズにされ、6pt. 30字詰め 3段組が実施されている。
牧はおそらく内心におおきな不満があったに違いない。それが扉ページの「校正ミス」としてのこったとみている。

皮肉なことに、多くの論考者、もちろん筆者にとっても、この巻末部の「近代印刷小史年表」がもっとも興味深く、かつ役立つ資料で、しばしば引用されていることは事実である。
同書刊記(奥付)には、多くの組合役員名が麗々しく列挙されたなかに、ポツンと「著者 牧治三郎」とだけある。

◎ 「いんさつ明治百年」『日本印刷新聞』
(牧治三郎 昭和41年7月15日―昭和43年5月22日 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界紙(週刊)『日本印刷新聞』の発行元・日本印刷新聞社は、その本拠地を印刷会館ビル内に置く、典型的な業界紙である。
そこに昭和41年7月15日―昭和43年5月22日まで、ほぼ毎週、全145回にわたって幕末の近代印刷創始のことから説き起こし、凸版・凹版・平版といった印刷版式の歴史と技術解説、印刷機とその関連機器の紹介、活字業界の動向、各業界の盛衰などをきめこまかくしるしている。

◎ 「活版印刷伝来考」『印刷界』
(牧治三郎 昭和41年3月号―昭和42年2月号 国立国会図書館蔵)
「活版印刷伝来考」『印刷界』――「資料で見る印刷100年――印刷文化財保存会資料より」
(牧治三郎 昭和42年5月号―昭和42年12月号 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界誌『印刷界』にも、牧治三郎はしばしば執筆を重ねた。「活版印刷伝来考」は、下記の「印刷文化史年表」の先駆けをなしたものとみられ、『印刷界 148号―169号』まで、毎月5ページほどの分量で執筆をかさねたものとみられるが、昭和42年3-4月号、160―161号は保存されていない。
組版は活字版印刷で、8pt. 明朝体、横組み、25字詰め、1段46行、2段組が実施されている。すなわち牧は毎月11,500字、400字詰め原稿用紙にして25-30枚ほどを執筆していたものとみられ、相当の知識と資料の蓄積と、巧まざる筆力の持ち主であったことがわかる。

◎ 「印刷文化史年表」『印刷界』(牧治三郎 印刷界 昭和48年4月-51年10月)
[印刷図書館蔵 沼倉氏複写寄贈  2001年12月5日板倉雅宣氏目録作成]

牧治三郎「印刷文化史年表」は、業界誌『印刷界』に4年間、43回にわたって連載されたものである。同書原本の全冊揃いは早くから失われていたようで、「沼倉覚□?選資料」として、複写されたものが所蔵されている。その整理がついていなかった資料を、板倉雅宣氏が、順序を正し、全目録を作成したものが印刷図書館に所蔵されている。

なにしろありままる実物を抱えていた牧治三郎であるから、『京橋の印刷史』の口絵をふくめて、引用図版はどれも貴重な資料ではあるが、あまりこだわりがなかったのか、図版類は比較的杜撰な処理になっている。
「印刷文化史年表」もその類にもれず、図版でみせようという意識はほとんど感じられず、厖大な資料を駆使した論述を読むことになる。

正直、筆者もこの不鮮明な複写資料「印刷文化史年表」は、一部を拾い読みした程度で十分に読んだことはない。しかし板倉雅宣氏の整理を得て、目録が充実したために、最近「印刷文化史年表」を手許において、しばしば読みふけることが増えてきた。

幸せだったのか、不幸だったのかわからないが、韜晦をきめこんでいた牧治三郎には、論敵とされる人物はいなかった。ひと世代前なら、『本木昌造 平野富二 詳伝』の著者三谷幸吉(1886年3月9日-1941年8月31日)と、『活版印刷史』の著者、川田久長(1890年5月25日-1962年7月5日)とは、さまざまな論争をかさね、お互いを触発しながら、双方ともにおおきな成果をのこした。

ところが牧治三郎にはそうしたよきライバルも、支持者もすくなかった。その発表の舞台も、ふつうは目に触れることが少ない、いわゆる業界紙誌や組合年史に限られている。
いずれにしても、これから折りに触れ「印刷文化史年表」を紹介することが増えそうないまである。

◎ 『活字界』(全日本活字工業組合 1-80号 中村光男氏合本製作・保存)
第1号 昭和39年6月1日-第80号 昭和59年5月25日
活字版印刷 B4
判2丁を二つ折り 都合B5判8p 無綴じ投げ込み

簡素ながら、丁寧な活字版印刷による活字界の業界誌である。全80号の大部分を銀座・中村活字店/中村光男が広報委員長として編集にあたり、同氏による全冊綴じ込み合本が中村活字に保存されている。
牧治三郎の寄稿は「活字発祥の碑」建立関係の寄稿が多く、建立のなった暁からは、まったく寄稿していない。その次第の詳細は、本ブログロール  A Kaleidoscope Report  1-7 を参照して欲しい。

◎ 『東京の印刷組合百年史』(東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)
2分冊を特製スリップケース入り   全上製本
論文篇:B5判872ページ 図版・資料篇:46倍判362ページ

2冊のサイズ違いの上製本が、特製スリップケースに入って配布された年史である。既述したように、本書論文篇の骨子をなす、前章-第7章までを牧治三郎が執筆している。サイズの大きな図版篇は、おもに『多摩の印刷史』の主要な著者だった桜井孝三氏が担当している。論文篇は当時牧治三郎90歳ころの読みでのある資料である。

そもそも企業組合の歴史書、すなわち企業組合年史の執筆などは、労多くして恵まれるところすくなく、ましてほとんど読者大衆の目に触れることもなく埋没するものである。
したがって「年史」の執筆などは、ほとんどの文筆家が逃げ腰になるものだが、牧は38歳のころの『日本印刷大観』にはじまり、90歳を迎えてなお、これだけの大著の骨子をなす大役を引き受けている。これがして、筆者が牧治三郎をたかく評価するゆえんであり、これからも、数少ない読み手であろうとおもう所以ユエンである。