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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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米どころだけではない !
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行
大呂菴と北方文化博物館のこと
Ⅱ
《二日目の宿、大呂庵のことども》
新潟1泊目の宿は、翌日のプチ贅沢にそなえて、各自駅前ホテルで分宿。
新潟2日目は早朝から日本海に沿って北上し、「笹川流れ」で遊覧船に乗った。笹川とはいえそこは粟島(最初は佐渡島だとおもったが……)を遠くにのぞむ海だった。
その海にでて30分ほど沿岸をまわったが、山河育ちのやつがれひどい船酔い。その後に立ち寄った村上市では、町歩きにでかけたみんなとは別に、しばしベンチに腰をおろして文庫本を読んでいた。そのうちに、ウツラウツラから完全に熟睡状態におちいったようだ。
だから写真のような村上の天然遡上の鮭の干物の奇観はみていない。この鮭の干物を酒にひたした「鮭の酒びたし」なるつまみが絶品だったそうだが、「サケのサケびたり」と間違えたやつがれにはおすそ分けもなかった。
村上はふるくからの港町で,江戸期には大坂と蝦夷(北海道)をむすんだ「樽廻船」の寄港地としてしられる。
現在は古き良き村上の再開発が進行中で、滋賀県彦根市の街並み再開発とともに話題になっていた。
そのせっかくの村上で、やつがれは木陰のベンチで昏睡というていたらく。再開発の状況に関してノー学部の報告では、
「彦根は彦根、村上は村上で、どちらも一所懸命に努力しているし、面白さもあった。比較するものでは無いでしょう」
とのこと。なんとなくそんなものかと納得して鮭の写真だけ紹介。なにせ現地にいて、なにもみていないのだから発言権なし。
そのあと既述した新発田市の「蕗谷虹児フキタニ-コウジ記念館」によって、もう薄暗くなったころに、今夜の宿「北方文化館 大呂菴 ダイロ-アン」に到着。ところが、つらなって走っていた銀嶺号と流星号が「北方文化博物館」の別々の駐車場にはいったようで、合流にすこし手間取った。それだけこの「施設」はとてつもなく広大だということである。
財団法人北方文化博物館に付帯する施設(宿)が大呂菴(ダイロ-アン、だいろはカタツムリの意)である。つまりわれわれは、「北方博物館関連施設」としての「大呂菴」に宿泊したことになる。
すなわちチョイとわかりにくいが、ここは単なる宿屋ではなく、「Museum 大呂菴」なのである。
これらの「北方文化博物館」関連の施設に関しては、多くのブログに書き込みがあることをのちほど(つい先ほど)知った。旅行好きなひとには著名らしいが、いわゆる造形者の書き込みがなかった。やつがれがくどくど説明するより、北方文化博物館と大呂菴関連の Website を紹介したい。
◎ 大呂菴の魅力をトコトン語っている。写真も丁寧だ。
http://www.hotel-archives.org/mailmagazine/vol078/index.html
◎ 旅行好きの初老のご夫妻のブログらしい。この宿に惚れ込んでしまったようだ。
風をまちながら……、のサブタイトルがいいな。同じ部屋にヤツガレも宿泊した。
http://freeport.at.webry.info/201010/article_3.html
◎ 建築家らしきひとの宿泊体験記。視点がことなり面白い。
http://ameblo.jp/organi9-sta/entry-10343753128.html
正門の格子をくぐり、小さな竹林を進むと、瀟洒な玄関が現われます。豪農の風格を漂わせる純和風の宿「大呂菴」は、部屋は勿論、廊下や階段のしつらえに至るまで、できるだけ当時の雰囲気を失わないよう、最大限の注意を払って改装いたしました。 八十余年昔日の静寂の中、古いものたちとの新しい出会いが始まる純和風の宿「大呂菴」は、大正浪漫の再現です。「大呂(だいろ)」とは「かたつむり」のこと。 八代文吉[伊藤家第八代目・伊藤文吉氏――伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。 「あわてず、ゆっくり参りましょう。」 ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。 |
やつがれ、最初に宿の候補として「大呂菴」のことをきいたとき、「豪農の家・豪農の宿」というフレーズがひっかかった。
(みずからいうか、豪農の家なんて…… )
ところがそれはやっかみ・ひがみというものであった。伊藤家八代は正真正銘、真底からの豪農であり、それをはなにかけたりしないのだ、ということをおもいしらされた。ふつうはすらりと「ウチは豪農です」などといえるわけもない。
くどいようだが、本当に豪農だから、サラリと豪農だ …… だといっていたことをこの旅の各地でおもいしらされたのである。
やつがれの亡父はまぎれもない子だくさんの貧農の出で、しかも第九子で次男の末っ子だった。したがって医者をこころざしたが、学費がなく、島崎藤村『破戒』の舞台となった飯山病院の院長、山崎氏に(養子ぶくみで)慶応大学医学部の学資・生活費を提供してもらい、ようやく医者になったという経歴がある。
さらに卒業後、ただちに軍役に召集され、中途の召集解除はあっても、前後15年のあいだというもの、各師団の軍医として召集された経歴をもっていた。その間に山崎氏の一家、オヤジの許婚者とされていた娘さんをふくめた全員が結核にたおれ、やむなくちょっとした「富農」であり、これもやはり地方の医師だった藤巻家の次女と結婚し、やつがれらの誕生をみた。
ところが、やつがれのオフクロの実家・藤巻家は、ふるくは士籍にあり、また戦後の農地解放でほとんどの田畑を没収されたとはいえ、広大な山林がのこり、それなりに富農であった。しかし、代をかさね、またご当主が芸能人になったりして、いまは無住でみるかげもない…… 。
オフクロはその娘時代の藤巻の家を、ときおりはなにかけるふうがあった。それが子供心にあまり心地好いものといえず、質朴なオヤジの実家のほうがこのましかった。
「富豪の宿ねぇ、オレは貧農の家系だから泊まる資格はないぞ」
と抵抗したが、そこはノー学部、
「大呂菴の だいろ は、かたつむりなんだって。豪農さんもデンデンが好きみたい。ウチのデンデンが死んじゃったから、供養になるでしょ」
と涼しい顔。
たしかにやつがれ、秋津川渓谷で採取したかたつむり二匹を「デンデン01号・デンデン02号」と呼んで飼育していた。2年ほど、やつがれが青菜や野草をあたえ、ノー学部が余りもののキャベツや人参を放りこんで モトイ 給餌してきたが、いつの間にか死に絶えていた。
というわけで、デンデンの供養のため「大呂菴」に宿泊することにシブシブ同意。
《到着後、さりげなく床暖房の温度を下げていた!》
大呂菴と北方文化博物館に関して、やつがれあまりおおくをかたりたくない。正直にいうと、まちがいなく再度この地とこの宿を訪れるだろうし、それまで荒らされてほしくないからだ。
みんなが大呂菴に着いたとき、すでに夕刻の六時を廻っていただろうか、駐車場から肌寒い風に吹かれて宿にはいった。その大呂菴の内部はやわらかい床暖房が効いて、ほんのりと暖かかった。
やつがれはベランダでさっそく一服したが、そのとき見てしまったのだ! 調理師兼管理人とおぼしき農夫系のオヤジが、さりげなく床暖房のパネルをチョイと操作した。
「床暖房、切ったんですか?」
「いえ、皆さん外で寒いおもいをされて到着されますから、床暖の温度を上げてありました。馴れると熱く感じられるので、すこし弱くしました。お寒ければ戻しますが?」
オヤジは悪戯を見られた悪童のように恐縮していた。やつがれ、これですっかり、
「まいった、降参!」
ここまでやるのか …… とおもった。すべてが一見豪放かつ大胆、なんにもしていないようににみせながら、大呂菴はじつにこまやかな心配りがなされていた。それもわざとらしくなく、さりげなくである。
「北方博物館の関連施設」は、落ち葉をふくめて手入れが入念に行きとどいているが、農薬を散布しないとみえて、周囲からチョウやトンボや蛙などが敷地内にわんさかおしよせていた。もちろん秋の虫が草藪ですだくように鳴いている。
食事は食器のひとつひとつがすごい。それもチマチマとした京懐石のまねごとではなく、どんと大胆な盛りつけと、繊細な味つけだった。あちこちに置かれた生花は、翌朝にはもうあたらしい野草にかわっていた。やつがれ真底、本当に、
「まいった、降参!」
再訪時にはこのあたりの事情をふくめて、第八代・伊藤文吉翁――昭和二年うまれとされているから85歳ほどか。写真のように元気だ――のはなしをじっくり聞いてみたい。
おそらく文吉翁は、大呂菴のオフィシャルWebsiteにあるように、サラリとこういってのけるのであろう。
八代文吉[伊藤家第8代目・伊藤文吉氏ーー伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。
「あわてず、ゆっくり参りましょう。」
ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。
ところでやつがれ、船酔いつづきでポワ~ンとしていたから、どこでどう合流したのかしらないが、食事のあとに、メンバーとふしぎなギタリストが一緒になって、テラスで飲み会 兼 演奏会がはじまった。
いつのまにやら会員は、60歳になるという、そのふしぎなギタリストを「フクちゃん」と呼んで、和気藹藹、盛り上がって、にぎやかなことはなはだし。やつがれは秋の涼風が快く、庭のハンモックとブランコに揺られながら、腹ごなし 兼 聴衆のひとりになっていた。
奇妙なことに、「フクちゃん」のギター演奏がはじまると、かそけく鳴いていたあたりの虫が、いっせいに元気よく鳴きはじめる。演奏が終わると、秋の虫ども、
「あれっ、どうしたの…… 」
とばかり、しばし沈黙。弱り蚊までどこかに飛んでいってしまった。演奏が再開すると、虫どもがまた一斉に、すだくがごとく活気づいて鳴きはじめた。
「フクちゃん」は、まこともって、ふしぎな演奏家だった。
大呂菴にはこうしたふしぎな時間が流れていた。そしてやつがれ、ともかくブランコでうつらうつら …… 。