多くのドラマを秘めた「活字発祥の碑」
東京・東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑の背景を詳細に記録していた全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も3回目を迎えた。
この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる石碑としての役割だけではなく、その背後には、抜けがたく「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識があったことは既述してきた。それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。
その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎によるB5判、都合4ページの短い連載記録、「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)であった。これらの記録は、このブログの「万華鏡アーカイブ、001,002」に詳述されているので参照してほしい。
牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。昭和44年5月22日、全国活字工業会は全日本活字工業会第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。
たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、どてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されているが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の総会記録『活字界』第22号では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページレイアウトになっている。
このときの総会の実態は、全国活字工業会中部地区支部長・津田太郎によって、「活字発祥の碑」建立問題の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。
有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)
元箱根「山のホテル」で開催された「第12回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)。ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の報告(リード文)によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。
この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年会長職をつとめていた古賀和佐雄が辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。そのため、総会後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。
古賀和佐雄は7年にわたる会長職在任は長すぎるとし、また高齢であることも会長辞任の理由にあげていた。しかし後任の津田太郎は1896年、明治29年1月28日うまれで当時75歳。高齢を理由に辞任した古賀和佐雄は明治31年3月10日うまれで当時73歳であった。すなわち高齢を理由に、若返りをはかって辞任した会長人事が、その意図に反して、73歳から75歳へのより高齢者への継承となったわけである。
津田太郎はそれ以前から全日本活字工業会副会長であったが、やはり高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。しかし、たれもが自社の業績衰退とその対応に追われていたために、多忙を理由として、激務となる会長職への就任を辞退した。そのためよんどころなく津田が、高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に諒承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。
◎『活字界』(第23号、昭和44年11月15日)
特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記
この東京築地活版製造所記念碑設立顛末記には、無署名ながら、広報委員長・中村光男氏の記述とみられるリード文がある。そのリード文にポロリともらされた「懇願書」としるされた文書が、同一ページに「記念碑設立についてのお願い」として全文紹介されている。この「懇願書、ないしは、記念碑設立についてのお願い」の起草者は、平野富二にはまったく触れず、本木昌造と野村宗十郎の功績を強調するとする文脈からみて、牧治三郎とみられる。ただし牧の文章はときおり粗放となるので、全日本活字工業会で協議のうえ形式を整えたものとみている。
また「記念碑設立についてのお願い」あるいはその「懇願先」となった懇話会館への案内役は、当時67歳を迎え、ごくごく小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっている。ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――記念碑設立についてのお願い」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのようにその案内役となったのか、そして牧の隠された異才の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。同社のWebsiteから紹介する。
◎ 企業プロフィール
昭和13年(1938年)春 戦時色が濃くなって行く中、政府は戦時物価統制運用のために軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手、銅配給統制協議会を最高機関として、複数の関連各機関が設立されました。
一方その効率的な運用のためには、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月に電線会社の出資により株式会社懇和会館が設立され、同時に現在の地に建物を取得し、ここに銅配給統制協議会・日本銅統制組合・電線原料銅配給統制協会・日本故銅統制株式会社・全国電線工業組合連合会などの関連諸団体が入居されその利便に供しました。
その後昭和46年(1971年)に銀座に隣接した交通至便な立地条件に恵まれたオフィースビルとして建物を一新し、コンワビルという名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナント各位へのビジネスサポートを提供する企業として歩んでおります。
◎ 会社概要
社 名 株式会社 懇話会館
所 在 地 東京都中央区築地一丁目12番22号
設 立 1938年(昭和13年)11月28日
株 主 古川電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立電線株式会社
昭和電線ケーブルシステムズ株式会社
事業内容
1) 不動産の取得
2) 不動産の賃貸
3) 前各号に付帯する一切の業務
ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。
ここで少しはなしがずれるようだが、広島に無残な姿をさらしている、通称「原爆ドーム」に触れたい。この建物は国家自体がなんらかの薬物中毒にでもかかったように、闇雲に戦争に突入していった、悲しい時代の記念碑的な建物として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。そして、「二度とおなじような悲劇を繰りかえさない」という戒めと、願いを込めて、「負の世界遺産」とも呼ばれている悲しい建造物である。
広島県商品陳列所(1921―33頃)から、「原爆ドーム」となった建物。
ウキペディアより。
この現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年(大正4)に、チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel)の設計による、ネオ・バロック風の「物産陳列館」として完成した。その後1921年「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年「広島県産業奨励館」となった。この頃には盛んに美術展が開催されて、広島の文化の拠点としても貢献したとされる。
しかしながら、戦争が長びく中で、1944年(昭和19)3月31日にその産業奨励の業務を停止し、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。つまりここには「土木・木材関係の統制機関」がおかれていたことになる。そしてあまりにも唐突に廃業が決定された東京築地活版製造所の旧社屋には、「銅を中心とする金属関係の統制機関」が入居した。すなわち「統制機関」としては、広島のある時期の「内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの行政機関・統制組合の事務所、現在の原爆ドーム」と、戦前のある時期の懇話会館は、「聖戦遂行」のための、国家権力を背景とした「統制機関」としては同質の組織だったことになる。
そして1945年8月6日午前8時15分17秒、広島の空に一瞬の閃光が炸裂して、この歴史のある貴重な建物は、中央のドーム部分をのぞいて崩壊した。ここ広島にも、「統制」による悲しい物語が人知れずのこされている。そして、東京築地活版製造所の新ビルディングは、完工直後の関東大地震、太平洋戦争による空襲のはげしい罹災をへながらも、よく使用にたえた。しかしながらさすがに老朽化が目立つようになって、1971年(昭和46)に取り壊され、あらたなオフィスビルとして建物を一新されて、コンワビルという名称でこんにちにいたっているのである。
以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から70年余にわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。
また、その発足時の母体企業となった銅配給統制協議会、なかんずく日本故銅統制株式会社とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型を廃棄に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。このわが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に、近著「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。
ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして懇話会館が設立されたのも「昭和13年春」である。さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。さらに牧がつづった昭和10―13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。これだけをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、解明されていない部分があまりにも多いのである。
・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。
・昭和11年(1936年) 7月
『 新刻改正五号明朝体 』 ( 五号格 ) 字母完成活字発売。
・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)
すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)の東京築地活版製造所の動向をじっと注目していたのである。そして長年の経験から、だれをどう突けばどういう動きがはじまるか、どこをどう突けばどういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。
筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を20余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」とのみかたっていた。そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。
つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんらの肩書き無しで名をのこしたのである。もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。それがして 、牧自筆の記録、「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。
⌘[編集部によるリード文]本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、ご賛同をえました。その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、[古賀和佐雄]会長・[吉田市郎]支部長・津田理事と会談の結果、単に活字業者団体のみで推進すべきことではないので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田副会長、渡辺理事長、ならびに印刷3団体を代表して井上[計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。⌘
活字発祥記念碑建設趣意書
謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。
先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。
爾来歴代社長の撓まぬ努力により、書風の研究改良、ポイント活字の創製実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。
また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。
更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。
このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月1日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。
このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。
ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。
何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。 敬 具
昭和45年9月
発起人代表 全日本活字工業会々長 津田太郎
東京活字協同組合理事長 渡辺初男
協 賛 全日本印刷工業組合連合会
東京印刷工業会
東京都印刷工業組合
記念碑建設委員会委員
委員長 津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐 中村光男(広報委員長)
建設委員 主任 吉田市郎(副会長)
宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員 主任 野見山芳久(東都支部長)
深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員 主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)、
後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎
◎『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)
特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる
紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には設計変更が求められて、ほぼ現在の姿になった。
旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。
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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。
同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。
9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。
ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。
このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。
活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。
◎『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に
「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。
昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。
建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。
碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。
次回のA Kaleidoscope Report 004では、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用を失墜して、孤立を深めることになる。