《2012年11月05日 吉田佳広 水彩画展 の観覧に出かけた》
11月05日は月曜日だったが、吉田佳広さんの水彩画個展 のオープニングだった。
もとから出不精のせいもあり、会社にきてからスケジュールを確認した。オープニングのことはうっかり忘れていたし、ひどく寒かったので、ひどい身なりで出社していた。
したがってオープニング・パーティーに出かけるのには、およそふさわしくない不格好だったが、久しぶりに吉田佳広さんにお会いできるならと、失礼を顧みず代代木駅前の会場にかけつけた。
さほど広い会場ではなかったが「風景からの手紙」と題されたように、各地をたずね歩き、その風景を、繊細かつ瀟洒に、愛情をもって描いた水彩画で溢れていた。
会場には主催者の吉田佳広さんをはじめ、多くの先輩・知人がいた。中には数年ぶりにお会いできたタイポグラファもいて、うれしくも、なごやかなパーティであった。
やつがれ、この歳ともなれば、たいていの人や物には驚かないし、怖くはないが、この吉田佳広さんというひとには、ともかく〔ヨワイ〕のである。
いや、もうひとかたいらした……。こちらは吉田市郎さんである。
両吉田さんと、やつがれの 3 人は、ふしぎなことに、皆がひとまわりずつ異なる酉トリ年のうまれである。そのせいか波長は合うが、おふたかたとも大先輩だけに、ともかく〔ヨワイ〕のである。
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◎ 吉田市郎 Yoshida Ichiro 1921年(大正10)酉年うまれ
吉田市郎 さんは、欧文活字の雄とされた「晃文堂株式会社」の創業者。
また時代の変化をいちはやく読み切り、大胆に写真植字機と写植文字板製造に踏みきって「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立されたひとである。
デジタル時代が到来すると、これまた大胆な取り組みをみせ、自社書体をいちはやくデジタル化したばかりでなく、財団法人日本規格協会文字フォント開発普及センターの委嘱をうけ、平成書体シリーズの中核をなす「平成明朝」をリョービグループを叱咤激励して納期内に製作させた。文字どおり戦後日本のタイポグラフィの開拓者のおひとりであった。
社長 ≒ タイプディレクターとして吉田市郎さんがのこされた書体は、膨大な欧文活字書体をはじめ、故杉本幸治氏を起用して製作した「晃文堂明朝・本明朝シリーズ」、血縁の関係で藤田活版から原字資料の提供を受け、社内スタッフを中心に改刻を加えながら製作した「晃文堂ゴシックシリーズ」、水井正氏・味岡伸太郎氏と、タイプバンクの協力で製作した「ナウ・シーズ」・「味岡伸太郎かなファミリー」など、枚挙にいとまがないほどである。
吉田市郎 1921年(大正10)新潟県柏崎市出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。戦時召集解除ののち 1947 年神田鍛冶町に欧文活字の専門店「晃文堂有限会社 → 晃文堂株式会社」を創立。のちにリョービ・グループのいち企業「リョービ印刷機販売株式会社 → リョービイマジクス株式会社」社長となり、同社会長職をもって退任して現在にいたる。酉年うまれ。
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◎ 吉田佳広 Yoshida Yoshihiro 1933年(昭和08)酉年うまれ
長崎県長崎市出身。中央大学法学部卒。高橋正人デザイン研究所修了。1966年吉田佳広デザイン研究室設立、1996年有限会社ヨシダデザインオフィスに改組。ACC殿堂入り。ADC賞、電通賞、ACC賞など受賞。著作『ベストレタリング』など多数。日本グラフィックデザイナー協会所属。
吉田佳広さんは、朗文堂からも 2 冊の著作を発表された。
『文字の絵本 風の又三郎』(吉田佳広、1984年01月、品切れ)
『マップ紀行 おくのほそ道』(吉田佳広、1985年03月、品切れ)
吉田佳広さんは、かつては日本タイポグラフィ協会に所属し、同協会内にタイポグラフィのユニット「タイポアイ」を結成し「暮らしの中に文字を」を主張して長年にわたって活動をつづけた。また、ここ数年熱心にとり組んでいる「地球はともだち チャリティー・カレンダー展」の中心メンバーとして出展・活動されるほどの壮健さである。
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そしてやつがれが、1945年(昭和20)酉年うまれとなる次第。
吉田佳広さんにお会いするのはほぼ 2 年ぶりだった。この間に吉田さんは少少体調を崩されたが完全復調された。
「いやぁ~、歳くったら髪がうすくなっちゃってさぁ。だから帽子かぶってんだよ。ガハハ」
いつもの調子で笑いとばした。お得な性格である。
隣にいた「タイポアイ」の同志、中島安貴輝 さんは複雑な表情をされていたけど……。