《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。
まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって 2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。
ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字 文字談義などはいかがでしょう。
★ ★ ★
《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。
24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
────
林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。
博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
────
林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日
久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」
しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。
ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。
道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。
道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ── ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。
上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。
台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。
また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。
「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。
民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。
なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。
ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる。
当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。
つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。
またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25 日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。
柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。
これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。
茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
────
林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪 文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。
先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
────
帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。
久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林 昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影)