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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、
日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
本稿は「あの日、2011年03月11日」から間もなく
2011年04月28日掲載文の修整一部再録です
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文豪/宮澤賢治大先生へ
たかが……、されど、貴重なピンセット
かなり苦労しております。
《苦労しています! 活版用ピンセット》
¶ 活版印刷材料商がほぼ全面的に転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezer Pincet」はとても入手に困難な器具のひとつである。
『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年05月11日、以下写真同じ)
みた目は医療用やデザインにもちいるピンセットと類似しているが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。
アダナ・プレス倶楽部の発足当時に「活版用ピンセット」の流通在庫を探したが、いくら探してもどこにもなく、新規製造を交渉したら、500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。
すべての製造業界が一括大量生産型に変貌した現代工業では、少少割高でも少量製造に応じてくれる業者を探すのはとても困難になっている。これは「活版印刷ルネサンス」を標榜しているアダナプレス倶楽部にとっては、いつも悩みの種である。
ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、
「あの活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」
との架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。
¶ 園芸用ピンセットに変貌した活版用ピンセット
しばらくして、最低でも50本ほどはあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。
折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度と耐久性を持っていた。
朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット=活版用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一である。ヤレヤレと胸をなでおろした。
¶ 文豪・宮澤賢治先生に苦情をいうわけではないが……。
活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解している向きが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットはまったく使わない。
Websiteでも《活版印刷今昔01》 http://blue.ap.teacup.com/masamichi/472.html の執筆者は、文選作業でピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのご様子である。
すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、活字組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。
この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層に多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。
¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。
ここで『新編銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、30代の若さで逝去したため、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは十数年にわたって宮澤賢治の手もとに留めおかれ、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ている。
没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。以下に紹介する『銀河鉄道の夜』は、『新修宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた書物といえる(天沢退二郎氏評)。
この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある(改行段落を一行アキとし、適宜ふり仮名を付した。アンダーラインは筆者による)。
活 版 所
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜 カラスウリ を取りに行く相談らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。
ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。
¶ 『銀河鉄道の夜』は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
ところが宮澤賢治の生前(1896年08月27日-1933年09月21日、満37歳で歿)とは、ほど無名にちかい存在だったといえて、ほかの多くの宮澤賢治の著作と同様に、その生前に書物として刊行されることはなかった。
それが逝去ののちに、草野心平らの尽力で、その多くの未刊作品群の存在が知られ、世評もたかまって書物として刊行されたものがほとんどである。『銀河鉄道の夜』もそんな作品のひとつである。
¶ すなわち、『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。
まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。
明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたったある大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して、一部から顰蹙をかったことがあった。
また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかた、漢字と仮名の使いわけも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。
「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、前後の脈絡からみても、おそらく「文選箱」のことであろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。
「たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと」とある。これも、傾斜のある「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選作業のために立ったのであろう。
ふつう文選作業にあたって、使用頻度が低く、最下部に配される「外字」や、より使用頻度がすくなくて、特定の部所(活字ケースの縦の段)をもたず、部首別にだけわけて配列される「ドロボー・ケース、無室ケース」の採字以外は、活字ケース架の前にしゃがみこむことはあまりない。
活字文選作業は使用頻度の高い字種ほど採字しやすいところにあって、立ってなされることがほとんどである。
「たくさんの輪転器がばたりばたりとまわり」とある。
活字版印刷機にも、印刷版が往復運動をする通常型の平圧印刷機のほかに、シリンダー型印刷機(円筒印圧機)もあるので、それを「ばたりばたりとまわり」としたのかもしれない。ただしこれらの印刷機は「輪転器」とはいわない。
また新聞社などでは、かつては活字版から紙型をとり、そこに活字地金を流し込んで円筒形の印刷版(ステロ版)として、輪転印刷機をもちいることが多かった。
また近年では、品質の悪い用紙でも印刷対応ができ、印刷版が比較的安価な樹脂凸版などでも対応でき、設備投資がすくなく、技術者の養成が比較的短期間ですむ「活版輪転機、俗称・かつりん」の使用がみられる。
これらの「機械」はいずれも相当大型であり、「器具」とはいいがたい「機械」であるので、「輪転機」とあらわされるのがふつうである。
¶ ついに問題の箇所である。
ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。
既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う作業である。
鉄製がほとんどのピンセットをもちいて活字を拾うと、鉄より相当軟らかな鉛を主成分とする活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。
活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられていた。
落下した活字には、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box──多くは林檎箱や石油缶だった」に活字を投げ入れた。
この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。
したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、活版用ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。
したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無く、当時は盛んだった活版印刷の現場を取材しなかったことが推測される。
また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの、
「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
とされる問題点を、謙虚に、そして小さな声で、ひそかに指摘したとおもわれる。
「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。
まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。
それにしても、造形者や編集者が「印刷処・印刷所」にほとんど足を運ばなくなってひさしいものがある。この現状をひそかに危惧するいまである。