平野富二と活字*07 12月03日、きょうは平野富二の命日です。

 平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二肖像写真(平野ホール藏)
平野富二と娘たちuu

写真上) 平野富次郎 丁髷士装の写真
平野富二が「平野富次郎」と名乗っていた26歳ころの写真。知られる限り最も古い写真。月代サカヤキを剃らずに丁髷を結い、大刀小刀を帯びた旅姿の士装として撮影されている。撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は「A. Morikawa TOKYO」である。
1871年(明治4)夏、本木昌造は巨額の債務にあえいでいた長崎新町活版所の事業のすべてを平野富二(富次郎)にゆだね、その委嘱を受けた平野は同年9月、将来の事業展開を東京に開かんとして、市場調査のために、若干の活字を携えて上京。持参した活字のほとんどを販売し、その記念として長崎に帰る直前に撮影したものとみられる。
推定1871年秋(明治4 富二26歳) 平野ホール蔵

写真中) 平野富二肖像写真
1885年(明治18)3月、平野富二は海軍省から一等砲艦を受注して、長年の夢であった軍艦の建造を実現した。また4月には東京築地活版製造所を本木家から独立させて株式組織とした。これらを記念して撮影したものとみられる。

平野富二肖像写真 台紙裏台紙の裏面には一対の鳳凰を配し、上部に「東京印刷局写真」、下部に「PHOTOGRAPH BY INSETUKIOKU」としるした装飾紋が、薄紫紅色で印刷されている。印刷局では1886年(明治19)まで写真館を営業していた。
推定1885年(明治18 富二40歳) 平野ホール蔵

写真下) 平野富二と 指輪が自慢な愛娘との写真
平野富二には、夭逝した琴(コト、古登とも)、家督を相続した津類(左:ツルとも、1870-1941)、漢学者の山口正一郎に嫁した幾み(右:キミとも、1881-1937)の三女があった。
高血圧のため減量中の富二はズボンがだぶついているが、愛娘の間にあって、照れたようにあらぬ方に視線を向けている。娘たちはおめかしをして、指輪が自慢だったようで、てのひらをひろげて指輪をみせている。この写真は病に倒れる前の、愛情溢れる平野富二一家の記念となった。
推定1890年(明治23 富二45歳) 平野ホール蔵

《平野富二がもちいた社章など》
商標01uu

商標02uu

上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二、推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられる。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されている。

上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられる。

下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、装飾文字のHをもちいて、明治11年に届け出ている。

下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録した。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されている。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされている。