わが国の近代印刷活字の 「 明朝体 ・ 宋朝体 ・ (正)楷書体 」 は、それぞれ19-20世紀初頭、中国の近代活字に源流を発するものであるが、かの国ではちがう名前でよばれている。
いくぶんくどくなるが、ここでは混乱をさけるために、できるだけ双方の呼び名を併記していきたい。
そこで早速、『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) の巻頭におかれた 「 縁起-ものごとのはじめ 」 から、中華民国時代の中国の、聚珍倣宋版 ( 中華書局の宋朝体活字 ) の原字制作者ともくされる、善之丁三在(丁 善之テイ-ゼンシ。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在。 生没年不詳)が、明朝体や宋朝体 ( 宋体字 ・ 明朝字、聚珍倣宋版 ) をどうみていたのか、興味ある資料があるので、拙訳ながら紹介したい。
なおこの 「 縁起 」 と組版例一例の 「 図版 」 の部分は、『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の 「 図版集 縁起 論語巻之一 p.77-79 」 と、 「 別冊 《 解説 》 図版 77-79 」 に図版として紹介されたことがある。
長澤規矩也はこの紹介を 「 別冊 《 解説 》 」 で次のようにだけ簡略に紹介している。
図版 77-79 聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 に紹介された活字組版例/縁起/
一号聚珍倣宋版 ( 一号方体宋朝活字 )。 縦組み、ベタ組。 一行23字。 10行。 行間四分。
『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 )
縁 起 ―― ものごとの はじめ ―― 釈 読
中国上古には、糸の結びかたで物事を記録した。 文と字が発明されてからは、物事の記録が容易になったが、木簡と竹簡が用意されるまでにはまだ多くの苦労があった。
春秋戦国時代の大国にして、中国史上最初の中央集権国家となった秦王朝時代 ( BC 221-BC 206 ) の蒙恬モウテン将軍が筆を発明 ( モウテン。 秦の武将。 始皇帝のとき匈奴を討ち万里の長城を築いたが 丞相李斯リシらに投獄され 二世皇帝のとき自死。 蒙恬の筆の発明説には異論もある。 ?-BC210 ) してから書がはじまった。
つづく漢王朝時代の蔡倫(サイリン。 東漢の宦官カンガン、あざなは敬仲。 生没年不詳 ) が、105年に樹皮 ・ ぼろ布 ・ 魚網などから紙を製して、和帝 ( 穆宗。 劉 肇。在位88-105)に献上したとされる ( 蔡倫の紙の創始説には異論もある )。 紙が発明されてから巻物が登場した。
隋王朝 ( 581-619 ) のはじめ、宮廷で書物の作製がさかんになり、「 鋟版 シンパン 」 という彫刻版が登場して、唐王朝 ( 618-907 ) と、五代の諸王朝 [ 唐から宋への過渡期に華北に興亡した、後梁 ・ 後唐 ・ 後晋 ・ 後漢 ・ 後周の五王朝。 907-60 ] がこれを踏襲した。
この技術はその後、北宋 ( みやこは黄河中流の汴 ベン、開封 Kaifeng。960-1127 ) の時代にはおおいに整備されて盛んなものがあった
北宋までの時代の印刷版は、能書家の文字を版に彫ったので、書風はその都度ちがっていた。 したがって北宋時代の図書をみると、唐代の欧陽詢 ( オウヨウ-ジュン 557-641 ) の書風をまねた 「 欧体字 」 がおおく、その字画の構造は力強く、端麗適切で充実して、歪みや、崩れもなく立派なものであった。
近代のいわゆる宋体字 [ 明朝体活字 ] はこの書風に由来している。 しかしながいときのなかで、宋王朝の字様は失われ、とりわけ北宋の木版刊本にみられた、端麗適切で充実した、欧陽詢の書風は徐徐にうしなわれて、ただ漠然と、その刻字の外周をなぞり、形を真似る ( 膚郭之字 ) だけとなっている。
北宋から臨安 ( 杭州 ) にみやこをおいた 南宋 ( 1127-1279 ) を経て、元王朝 ( 蒙古族王朝。 みやこは大都 ・ 現北京。 1271-1368 ) の時代になると、木版の書風には 「 趙松雪チョウーショウセツ の書風 」 [ 趙子昂 チョウースゴウ。 姓は趙、あざなは子昂、名は孟頫 モウフ、号は松雪、松雪道人。 宋の皇族の末、元の文人。 1254-1322 ] を用いるものがふえて、明の隆萬年間 ( 1566一1620 ) には、木版専門に「方体書」の書き手、すなわち能書家にかわり、版下の書き手を職業とするものもあらわれた。
すでに宋の時代に、木版による刊本印刷だけではなくて、よりコストが安い、活字による印刷がおこなわれていた。 そこでは泥字 [ 膠泥活字。 ニカワを焼結した活字 ]、瓦字 [ 磚 ・ 練り瓦。土 ( 粘土 ) を扁平に焼き、方形 ・ 長方形の活字としたもの ]、錫字 [ スズを主要素材とした金属活字 ]、銅字 [ 銅を主要素材とした金属活字 ]、木字 [ 木製の駒に字を裏字にして直刻した活字。 木活字 ] といった各種の素材が試みられていた。
清王朝(1616-1912)のはじめのころは、満洲王朝だったにもかかわらず、むしろ漢民族の文化が推奨されていた。 清の乾隆年間 ( 1735一95 )、北京の有名な刻書処、紫金城内の武英殿では、『 大清一統史 』、『 明史 』、『 四庫全書 』 などの数おおくの古今の図書を刊行し、その木活字は25万個を超え、活字かえて、縁起のよい 「 聚珍版 」 [しゅうちん-ばん]とよばれ、北宋についで活字版印刷の中興の時代となった。
清朝末期のわが国 [ 中国 ] は、海禁 [ 鎖国 ] をおこなっていたが、わずかに外国にむけて開放されていた香港には、キリスト教の宣教師たちが、鉛製の活字と印刷機械をもちこんで、漢字の活字一セットをつくった。 これはいわば 「 香港字 」 というもので、現在の四号活字にちかい寸法であった。
日本では書籍印刷のために、明朝字 [ 明朝体活字 ] という鉛製の活字を、大小のサイズで七種類もつくり [ 明治後期のわが国では、初号、一号 ― 八号、都合九種類の活字サイズが存在していた ]、活字印書の業 [ 活版印刷業 ] が大繁盛して、この明朝字なる活字書体を便利なものとしていた。
そこである中国人が、印刷のために日本から明朝字 ( 明朝活字 ) の七種類をわざわざ輸入した。 それをみると、書風としては 「 膚郭宋体 ≒ 字の魂魄がぬけて、輪郭をなぞっただけの宋体 」 であり、しかもひとつの書風しかなかったのである。
べつにふるさだけにこだわるつもりはないが、日本の明朝字 [ 明朝体活字 ] は、北宋刊本の刻字にみるような、端正な彫刻風の味わいがなかった。
そこでここに、北宋時代の木版刊本の字様 [ 木版上の書風 ] と、紫金城武英殿の木活字 「 聚珍版 」 からまなび直して、方体と長体の、大小のサイズの活字をつくり、ここに 「 聚珍倣宋版 」 と名づけた。 印刷業者の利用を待つゆえんである。
銭塘善之丁三在記於春江寓齋
──銭塘のひと。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在 ( 丁 善之 ) 春江寓齋においてしるす
[翻訳協力 : 林 昆範老師]
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ながい引用になったが、この文章は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 ( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) という、一種の活字組版見本帳の 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」として、浙江省銭塘 ( 杭州 ) ・ 善之 丁 三在 ( 以下、丁善之 テイ-ゼンシ 生没年不詳 ) の記録としてのこされたものである。
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 が発行された1923年 ( 大正12 ) には丁 善之は物故していたとみられ、巻頭に 「 丁 善之 遺像 」 として写真が紹介されていることは前回報告した。
またその兄弟とみなされている 丁 補之 ( テイ-ホシ 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) が同書の表紙を題している。
丁善之は 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」 のなかで、奇妙なことに、わが国ではよく知られている、また浙江省銭塘 ( 現 杭州 ) からはさほど遠くない、上海にあった美華書館の動向についてはひとことも触れておらず、日本の明朝体活字 ( 宋体字 ・ 明朝字 ) とは、その最初期には、美華書館のもののほとんど模作であったことを知らないようある。
そしてなにより驚くのは、中国における近代活字 「 金属活字の宋体字 ( 明朝体活字 )」は、明治末期-大正初期にかけて、どうやら日本から中国への逆輸出されたものであったと想像できることである……。
近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) の美華書館 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。 明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。
たしかに長崎に伝来した美華書館版活字は、平野富二 ( 1846-92 ) が東京に進出して、東京築地活版製造所を設立して活字製造と印刷機器製造を開始し、曲田成 ( マガタ-シゲリ 1846-94 )、野村宗十郎 ( 1857-1925 ) ら歴代の経営陣の意欲的な取り組みや、名はのこらなかったが、曲田茂が招聘した数名の中国人工匠や、竹口芳五郎 ( 1840-1908 ) らの東京築地活版製造所の職人の改刻をへていた。
さらに秀英舎 ( 現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一 ( 1848-98 )、第二代 : 保田久成 ( 1836-1904 )、関連企業 : 製文堂 逸見久五郎 ( 生没年不詳 ) らの功績も看過できない。
それだけでなく、わが国にあってはたくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 美華書館からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたったものである。
その結実は明治20年代の末ころ、ほぼ明朝体活字は完成の域にたっしたとみられるので、中華民国時代 ( 大正時代 - 戦後まもなくの1949年まで。 現在は台湾政府となっている ) の 丁 善之からみたら、まったく美筆書館のものとは異質の書風にみえたかもしれない。
それよりも、「 上海租界 ( 外国人居留地 )」とは、換言すれば 「 治外法権の外国占領地 」 ともいえたきわめて特殊な場所であり、キリスト教の広報宣伝機関でもあった美華書館の存在などは、ほとんど一般市民は知らなかったとみたほうがよいであろう。
『聚珍倣宋版式各種様張』に紹介された活字組版例/論語巻之一 朱熹批註本を例として
半葉(01ページ)ごとに
基本組版 : 一行20字。10行。
単辺匡郭枠 : 六号無双罫、天地55倍、左右39倍。
界線 : 五号 1/8 罫線(中国呼称不明。わが国の通称 トタン罫。1.3125pt)
本文 : 二号聚珍倣宋版(二号方体宋朝)、字の脇に圏点(けんてん 小丸)を加えている。
双行註(割り注) : 三号長体聚珍倣宋版(三号長体宋朝)。
『 唐確慎公集 』( 中華書局刊 1920年代 )/筆者所蔵。 近近詳細紹介。