02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ
新コーナー{文字壹凜}にかまけて、<花筏>の更新が遅滞していた。
昨週週末(01月15-16日)長崎に出張した。土曜日は長崎の若手学芸員の皆さんとおあいした。想像以上に<花筏>をよくご覧いただいていた。うれしかった。
{文字壹凜}は縦書き式短文ブログであるが、一応目標としていた100投稿をこえて、まもなく120投稿に達することができた。スタート直後からデバイスの異同による「バケ」に悩まされているが、読者のご寛容に救われている。これもまた楽しい試練ではある。
<花筏>に管理者:千星健夫氏が手を入れてくれて、ここでも<活版 à la carte>と同様に画像をスライドショウで楽しんでいただくことができるようになった。 再開第一弾を【朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ 】の続編とした。ほぼ一年ぶりのこととなる。ご愛読を乞い願う次第である。
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京都在住、ぢやむ杉本昭生氏の活版小本の新作フランツ・カフカ『道理の前で』を紹介した。
杉本氏はいつも活版小本を送付される際に「一筆箋」のような文章を添付されているが、今回はめずらしくこぼしが多かった。
たしかに「活版小本」の杉本昭生氏がマッチ箱サイズをねらっても、あまり収穫がないような気はした。 この 「テ」 は読書家の杉本氏には似合わなかった。ほかの豆本製作者に任せてもよいかもしれないとおもえた。
ところで、やつがれ フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。 したがって「活版小本 カフカ『道理の前で』」 4 ページ 一丁、15丁60 ページかがり綴じ、前後見返しつき、前扉別紙差し込みからなるマッチ箱サイズの上製本をうれしく拝読させていただいた。
そこでフトおもいだしたのは、この作品はチェコ プラハの「黄金の小径」で執筆されたのではないかというおぼろな記憶だった。
2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。 その報告は「花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ」にあるが、ここには序章があるだけでその後の記述はない。
すなわちやつがれが情報過多に陥り、ひとさまにプラハの紹介をすることができなかったというのが苦しいいいわけになる。
2013年のプラハ行きはロシアの航空会社「アエロフロート航空」で、モスクワ経由でいった。
このときの収穫はおおきなものがあったが、ともかく魅力がありすぎて、未整理なままやつがれの脳裡の片隅にある。 2014年に再挑戦をこころみたが、円安のためもあって旅費が高騰していた。
プラハにはいま、アダナ・プレス倶楽部会員・博士山崎が研究のため長期滞在中である。 ノー学部と博士山崎は情報交換が盛んのようである。したがってどうやらもう一度プラハにいく機会がありそうな昨今である。
プラハの一隅にはカフカの生家があり、そこはいまちいさな博物館となって公開されているという。 そしてカフカの墓は、その近くの「ユダヤ人墓地」にあるという。 前回はユダヤ街にいく時間がなかった。再訪を得たらぜひともたずねたいとおもう。
すなわち、畏友杉本昭生が製作し、失敗作と自嘲した一冊の活版小本、フランツ・カフカ『道理の前で』が契機となって、プラハ再訪を決断することになったということである。 プラハ市販の長尺絵はがきより。下から二段目、プラハ城脇、かつて錬金術士が居住したことから「黄金の小径」と呼ばれる長屋街。いまはみやげ店がならぶ人気の観光スポット。左手の青い22番の建物は、カフカがここで『城』などの作品を執筆していたとされる家。
ところでやつがれ、ふるくから フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。
民族と言語がもざいくのようにあやなす欧州、とりわけ中欧のカフカのような人物の経歴をあらわすのは困難だが、カフカは当時のボヘミヤ地方、正確にはオーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、高級小間物商をいとなむユダヤ人の両親のもとでうまれた。
その母語となるとさらに複雑で、父親のヘルマン・カフカ(1852-1931)はチェコ語を母語としたが、母親のユーリエ(1856年-1934)は当時の支配階級にならい、ドイツ風の慣習に馴染んでドイツ語をはなす、ほとんどドイツに同化していたユダヤ人であった。
父ヘルマンは息子を学校にいかせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級のことばであるドイツ語の学校を選んだ。 しかしカフカはチェコ語やフランス語の本を多く読み、プラハ大学で哲学や法律をまなんでいた。
そのみじかい人生の晩年、カフカは結核に罹患したためもあって休暇がふえ、また民族意識に目覚め、ヘブライ語やラテン語の学習にもはげんだ。 しかしその著作や、のこされた書簡のほとんどは、ドイツ語でしるされている。
フランツ・カフカは1924年(大正13)6月3日、宿痾の結核でオーストリアのキールリングで歿した。満40歳であった。
遺骸は故郷プラハに移送されて、この街のユダヤ人墓地にねむる。
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フランツ・カフカの作品は、長編小説『審判』、『城』、『失踪者』のほかに、多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、その少なからぬ点数が未完であることで知られている。
これらの「遺稿」が刊行をみたのは、プラハ大学での一級下級生であったマックス・ブロートの力に負うところがおおきい。
その作風は、孤独感と不安が横溢しながらも、それを巧妙にユーモアでおおい、夢の世界を想起させるような独特の小説作品をのこした。
作品の評価が歿後にはじまったことと、幻想的で浮遊するような軽妙さの二点において、10年ほどのちのことになるが、わが国の 宮澤賢治 (1896-1933)と似たところがみられる。
宮澤賢治の著作で生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであり、ほとんど無名に近い状態であったが、歿後に草野心平らの尽力によっておおくの作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となった。
《2014年09月 アフター・バカンスでプラハの観光地は賑わっていた》
プラハ観光の最大の中心地「プラハ城」には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。
09月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをしてふところがあたたかくなった若者が、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。 「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。 この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。 その後黄金の小径へ。色とりどりのちいさな家が立ち並ぶ通りで、いまはみやげもの屋となっているが、もともとは城に仕える召使たちが住んでいて、いっとき錬金術士がおおく居住していたために「黄金の小径」と呼ばれる人気スポットとなっている。
ここの22番と表記された青い建物が、いっときカフカが仕事場としていた家とされる。 せまい建物におおきなリックサックを背負った若者がたくさんつめかけていて、なかなか中にはいれなかった。
そこで錬金術士の工房(なかなか怪しくてよかった)や、椅子のあるみやげもの屋に逃げたことを後悔しているが、なんとか写真だけは押さえてあった。
{ 新宿餘談 }
友人にドイツの印刷系の大学院を修了した人物 IS 氏がいる。博士論文のテーマに 「グーテンベルクは錬金術士だった」 をテーマにして研究をすすめていたところ、指導教授に 「これを発表したら、君もわたしもこの世界から抹殺される」 と説得されてほかのテーマにしたという。
このはなしは故ヘルマン・ツァップが笑いながらおしえてくれた。そして日本に戻っていたIS 氏を
「ユニークな発想のおもしろいひとですよ……、ぜひお会いになってください」
として紹介された。
IS 氏は晩年のツァップにインターネット環境の設置をすすめ、その設定にもあたっていたことがあった。
いまは毎週一回はメールを送付されるIS 氏であるが、ちょっと人間関係が複雑なわが国の環境になじめないでいる。ときおり来社されて
「グーテンベルクは錬金術士だった、そう思いますよね」
とかたられる。やつがれは苦笑するしかないが、内心は首肯している面もある。
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以下「黄金の小径」を紹介するが、格別の説明はしない。むしろスライドショウでお楽しみいただけたら幸いである。
じつはやつがれ、このプラハ城と「黄金の小径」で人混みにもまれ、すっかり疲労困憊。
ゲートをでるとルネサンス様式の建物があり、そこでの「夕べのコンサート」をノー学部が予約していた。 ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』(チェコ語: Má Vlast )が演奏された。
このスメタナの代表作は毎年おこなわれる「プラハの春音楽祭」のオープニング曲として演奏されるそうである。
『わが祖国』とうたいあげなければならなかったボヘミアのひと、ボヘミアンのスメタナをおもい、「祖国とは、母語とはなんだろう」とおもわずにはいられなかったであろう、ボヘミアンのフランツ・カフカをおもい、妙に鼻の奥がムズムズしたが、なんとか耐えることができた。