博多座
六月博多座大歌舞伎
松本幸四郎改め 二代目 松本白 鸚
襲名披露
市川染五郎改め 十代目 松本幸四郎
6月2日[土]初日-26日[火]千穐楽
☆ 4月14日午前10時から電話予約・インターネット発売開始
【詳細: 博多座 】
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昭和17年8月生まれ。初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)の長男。
21年5月東京劇場『助六曲輪江戸桜』外郎売の伜で二代目松本金太郎を名のり初舞台。24年9月東京劇場『逆櫓』の遠見の樋口で六代目市川染五郎を襲名。56年10、11月歌舞伎座『勧進帳』の弁慶、『熊谷陣屋』の熊谷直実ほかで九代目松本幸四郎を襲名した。
父方の松本幸四郎家の芸と、母方の祖父初代中村吉右衛門の芸を継承し、独自の芸風を確立している。特に『勧進帳』の弁慶は全国47都道府県で上演し、1100回を超える偉業を達成。このほかの当たり役として『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、『菅原伝授手習鑑』の松王丸など時代物の大役のほか、近年は『筆屋幸兵衛』の幸兵衛など黙阿弥の世話物も手掛け、芸域を広げている。
また、日本のミュージカル俳優の草分『ラ・マンチヤの男』のセルバンテスとドン・キホーテは1200回以上演じたほか、現代劇でも『アマデウス』のサリエリなど数々の当たり役を持ち、歌舞伎のみにとどまらず様々な分野で活躍している。平成17年紫綬褒章、日本藝術院会員、文化功労者。
昭和48年1月生まれ。二代目松本白鸚(九代目松本幸四郎)の長男。
54年3月歌舞伎座『侠客春雨傘』の金太郎で三代目松本金太郎を名のり初舞台。56年10、11月歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』七段目の大星力弥、『助六曲輪江戸桜』の福山かつぎで七代目市川染五郎を襲名。
古典の二枚目や女方など幅広い役柄を演じ、近年では『勧進帳』の弁慶、熊谷陣屋』の熊谷直実など父祖の当たり役である線の太い役柄にも挑戦して好評を得た。また、家の芸系にはない『恋飛脚大和往来』の忠兵衛などの上方歌舞伎の和事や復活狂言にも積極的に取り組んでいる。
歌舞伎以外の舞台では、劇団☆新感線による『阿修羅城の瞳』、『アテルイ』などに主演、これらの舞台は歌舞伎NEXT『阿弓流為(アテルイ)」として進化を遂げ、歌舞伎に新しい世界を切り開いた。近年ではラスベガスで行った公演での『獅子王』で伝統の技と最新のテクノロジーを融合させた意欲作を成功させるなど精力的に活動している。平成11年紀伊国屋演劇賞個人賞、平成15年芸術選奨新人賞。
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{新宿餘談}
ゆえあって歌舞伎 ─ 高麗屋ファン、また戯作者にして歌舞伎座創建者:福地櫻痴(源一郎)と眞山青果の心酔者
やつがれ弱小のみぎり、オヤジの書棚にあった『眞山青果全集』に触れ、「ト書き」などで状況設定や構成の妙がわかる戯曲の、小説とはちがうおもしろさにひかれた。のちにこの全集を古書店から購入して読みふけった。記憶では亀倉雄策氏の装幀で重厚な装本であったが、繰りかえした引っ越しのなかに没した。
そんなこともあって、戯作者 : 眞山青果、ついで福地櫻痴らにあこがれ、脚本家をめざした恥ずかしい過去がある。 これは斯界の大先輩に非才をきつく指摘され、わりとあっさり断念した。それでも突然の難聴におそわれるまでは、映画やテレビよりも、ライブでの芝居が好きだった。
たまたま娘が日舞松本流師匠のもとに稽古にかよった。その師匠の亭主が 三代目松本錦吾(高麗屋)で、 家も年齢も近かったので「家庭麻雀」を中心に家族ぐるみのつきあいをしたし、改築前の歌舞伎座にはしばしば通った。
当時の錦吾さんは若手育成担当をしていたので、先代市川染五郎(現松本幸四郎)、市川海老蔵、中村獅童も、浅草公会堂や国立劇場などで子役のころからみてきた。また、こういう通ぶったいいかたはいやらしいが、先々代の松本幸四郎(初代白鸚・高麗屋)、先代の市川團十郎(成田屋)、尾上松綠(二代目・音羽屋)もみてきた。
『週刊朝日』2018年1月26日号 表紙
新松本幸四郎が自らを「歌舞伎職人」と述べているのが印象的であった
歌舞伎界では「高麗屋三代同時襲名披露」が話題になっている。この三代同時での襲名披露は37年ぶりの快挙だとしておおいに人気をあつめている。
ところがやつがれ、この37年前の「高麗屋三代同時襲名披露」公演に、記憶にあるかぎり三度は歌舞伎座に通った。錦吾さんと現二代目白鸚はおなじ年のうまれで、どちらも矍鑠としているが、先代の初代白鸚は、襲名のとき、すなわち37年前には、すでに老化がめだち、襲名披露公演のときもセリフも所作も弱〻しかった。そのため先代白鸚の「部屋子」としてながらく修行してきた錦吾さんが、白鸚の出番のすべてに「黒子-くろご・歌舞伎では存在しない役者なのがきまりごと」の衣裳をつけて、白鸚にピッタリと寄りそって介添えしていた。
大仕掛けの歌舞伎の観劇料はけっして安くはないが、時折錦吾さんがキャンセルになった指定席を紹介してくれたし、歌舞伎座独特の「幕見席」があって、映画なみの気軽さでみることもできる。
この「幕見席」は高所恐怖症のかたにはおすすめできないが、意外に知られていないようなので、ここに紹介する。
〔一幕見席について〕
好きな幕だけをお気軽にご鑑賞いただけるのが、一幕見席。 幾度もお運びになるお客様や、歌舞伎を初めてご覧になるお客様のための、歌舞伎座ならではの人気席です。 一幕見席は歌舞伎座4階に位置しております。 全てが自由席となっており、通常公演では椅子席約90名、立見約60名、合わせて約150名の定員でございます。
「幕見席」なら、ひと幕だけを見ることもできるが、錦吾さんからの突然の招集で「最終ひと幕」を見るときは、車を萬年橋東・松竹の駐車場に入れ、公演がはねたあと、近くの船宿から役者仲間といしょに東京湾に夜釣りに行くことが多かった。
同行者のなかにはとんでもない大看板役者もいたが、釣り船というより屋形船を仕立てての釣行だった。釣りはいちおう穴子ねらいであったが、釣果を気にしないにぎやかな五目釣りで、釣れたはしから船頭さんがどんどん刺身や天麩羅にして酒の肴となっていた。
たしかに眼をおおきく剥いての荒事芝居のあと、すぐに、
「さぁ、終演です。明日に備えて帰りましょう」
では辛かろうし、贔屓筋からの招待の席も疲労を招くようであった。なによりも人気稼業の役者のことゆえ、ひと目をきにせず、東京湾にのんびり浮かぶ釣り船は、気楽さが一番だったようだった。つまり、こういうとき下戸のやつがれは錦吾さんらの帰宅の運転を引きうけることになった …… 。
それにしても、あれから37年とはまったくもって烏兎匆匆のおもいである。
歌舞伎座資料館
── 歌舞伎座の変遷
第一期:明治22年11月-明治44年7月
初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指し造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。
外観は洋風でしたが、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸〔登録商標〕は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなりました。
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《四月大歌舞伎では眞山青果作品が、六月博多座では福地櫻痴作品が上演される》
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一月・二月歌舞伎座「高麗屋三代同時襲名披露」の切符争奪戦 ── よい席で観たい ── は熾烈だったようである。二代目白鸚が元気なので、白鸚と同年うまれの錦吾さんは37年前とはちがって、昼の部・夜の部双方で大奮闘されていた。
高麗屋一門は、昨年末の浅草仲店での「襲名お練り」からはじまり、一月・二月の歌舞伎座での襲名披露公演があり、三月からは名古屋・京都とつづいて六月は博多座での公演が発表された。
ここに松本金太郎改め八代目市川染五郎が登場しないのは、まだ12歳の中学生でもあり、さすがに地方公演では参加を見送っているらしい。
長崎市崇福寺通りに「福地櫻痴生誕の地」碑がある。福地櫻痴は毀誉褒貶のおおい人物だが、毎日新聞の前身『東京日〻新聞』主筆兼社長、衆議院議員・東京府府議会議員(議長)・初代歌舞伎座の創設・戯作家・文筆家など多方面で活躍した明治ならではの怪物ではある。やつがれ、訪崎に際しては寸暇をぬすんでこの碑の前にたつことが多い。
四月大歌舞伎・昼の部で、眞山青果作「江戸城総攻」から「西郷と勝」が上演される。明治百五十年ということもあるのだろうか、眞山作品のひさしぶりの上演である。
ところで博多座、夜の部に福地櫻痴作「新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子」が上演されるらしい。
櫻痴の戯作にはおなじ「新歌舞伎十八番の内 素襖落 すおうおとし」や、「春日局」など、意外に地味な作品もあるが、この「新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子」は、長唄囃子連中が舞台せましと居ならび、あかるく艶やか、賑やかで愉快なこと、まさに明治一の粋人といわれた福地櫻痴の面目躍如たるものがある。福岡博多座までいってでも高麗屋の「春興鏡獅子」をみたいものである。