【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*05 アメリカン・ポイントシステムの規準

《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。

デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくは金属活字時代のアメリカン・ポイントシステムとはなにも基本的には変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち DTPポイント とは、金属活字時代の基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。

◯ アメリカン ・ ポイントシステム    1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )

◯ DTP ポイントシステム            1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 

20150828173130703_0001
大正13年版 『活字と器械』 口絵 (東京築地活版製造所)

──────────
つまり、欧文組版でも、和文組版でも、アメリカン・ポイントシステムを規準としたばあいには、

72 points = 1 inch

であり、以下の公式だけを丸暗記しておけばよいことになる。
こだわりのあるかたで、簡便ながら正確な透明スケールをご希望のかたは、ご来社いただければ頒価500円[税込]で進呈したい。

pika

 

タイポグラファ群像 008* いちずに本木昌造顕彰にはげんだひと 阿津坂 實

2015.9.19学会レクチャー_ページ_03近代活版印刷術発祥地のひとつ、長崎にうまれた阿津坂 實(あつさか みのる)氏は、徴兵検査にさいし胸部疾患が疑われて軍隊への召集を免れた。その後は療養につとめ、また地元の印刷企業に勤務していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)08月09日、長崎へ原子爆弾が投下され、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、およそ7万4千人が死没、建物はおよそ36%が全焼または全半壊した。

原爆は長崎市浦上地区の中央で爆発してこの地区を壊滅させた。しかしながら浦上地区は、長崎市の中心部からは 3 kmほど離れていたことと、平坦地の広島市の場合と異なり、金比羅山など多くの山や丘による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて、市域中央部での被害は比較的軽微であった。
また県や市の行政機能も全滅を免れていた。
それでも長年にわたり、原爆による後遺症は長崎市民におもくのしかかっていた。
阿津坂氏は原爆被害に関して論及することは少なかったが、被爆者手帳の所持者であり、戦争を憎み、平和を希求することに篤かった。

戦後の復興が急がれた長崎県であったが、県都長崎市の原爆被害もあって復興は難航した。そのなかで阿津坂實氏は1947年(昭和22)08月、長崎県印刷工業協同組合に入組し、1956年(昭和31)併設された長崎県印刷工業組合と双方の、事務局員、事務長、専務理事などを歴任し、1988年(昭和65)依願退職するまでの40数年余にわたってその任にあった。
その後も両組合の相談役として、長崎県と長崎市の印刷業界におおきな影響をのこし、2013三年(平成25)にすべての役職から退任した。
2015.9.19学会レクチャー_ページ_08 2015.9.19学会レクチャー_ページ_06阿津坂實氏が、印刷業の祖、郷土の偉人として本木昌造をつよく意識したのは、長崎県印刷工業協同組合に入組してからまもなくのことである。
まず戦争末期に金属供出令で失われていた本木昌造の銅像(座像)を再建するために、1953年(昭和28)本木昌造銅像再建運動を事務方として開始し、はやくも翌年に、ところもおなじ諏訪公園に本木昌造銅像(立像)が再建された。
1968年(昭和43)長崎県印刷工業協同組合、長崎県印刷工業組合の双方の事務長に就任し、1972年(昭和47)専務理事に就任した阿津坂氏は、長崎県中小企業団体中央協議会、長崎県商工会議所などからさまざまな事業の委嘱をうけての活動も目立っていた。
また中小企業庁長官賞、長崎県知事表彰などの賞歴をかさねたのもこの時期である。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_04 2015.9.19学会レクチャー_ページ_05 2015.9.19学会レクチャー_ページ_09タイポグラフィ研究と印刷史研究は、首都東京では、三谷幸吉、川田久長、牧治三郎らによって、戦前から一定の規模ですすんでいたが、長崎では長崎学・郷土史家の、古賀十二郎、渡辺庫輔、田栗奎作らが、幕末から明治初期の長崎の状況の一環として、わずかに触れる程度にとどまり、資料の発掘も滞りがちであった。
阿津坂氏は長崎の各地に収蔵されていたこれらのタイポグラフィ関連資料を再発掘し、目録を製作するとともに、それを広く公開して、『長崎印刷組合史』、『長崎印刷百年史』の編纂をはじめ、『東京の印刷百年史』、『大阪印刷百年史』、『多摩の印刷史』など、各地の印刷組合や印刷企業の年史編纂のために、活字版印刷揺籃の地・長崎の資料を提供し、また後続の研究者にも積極的な情報提供と支援をつづけた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_02あわせて長崎各所にあった、活字版印刷の揺籃期の事業と施設を再検証し、「本木昌造生家跡碑」、「活版伝習所跡碑」、「新町私塾跡碑」、「福地櫻痴生誕地碑」などの建立をめざしての活躍も目立った。
また、本木昌造旧宅が取りこわされることになったとき、大学の建築学部に依頼して、詳細な実測図を論文としてのこすことにも協力をおしまたかったし、桜井孝三氏とともに、八丈島に現地調査にでかけ、本木昌造/平野富二らの漂着地が、それまで通説となっていた「相川浦」ではなく、「藍ヶ江」であることを発表した。

「本木昌造没後百年供養」を契機として、1975年(昭和50)長崎に戦前からあった「本木昌造頌徳会」を改組改称して「本木昌造顕彰会」を創設することにも尽力した。
この「本木昌造顕彰会」と株式会社モリサワが母体となって「本木昌造活字復元プロジェクト」が開始された。 このプロジェクトは長期間におよび、当時の長崎県印刷工業組合理事長/内田信康氏、後進の長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏らとともに、阿津坂實氏も「NPO法人 近代印刷活字文化保存会」にあって陰助をかさね、
その成果は『日本の近代活字-本木昌造とその周辺』、『活字文明開化-本木昌造が築いた近代』の、あたらしい視座にもとづいた二冊の図書に結実した。

阿津坂實氏は長崎県印刷工業協同組合での勤務のかたわら、多趣味のひととしても知られ、自慢の調理の腕をいかして、長崎駅前に「中華料理店・飛龍園」を一家で営むいっぽう、生花の師範としてもおおくの子弟の育成にあたった。
家庭には長男・貴和、田中家に嫁した長女・三重 ミツエ、次女・邦子の一男二女をなし、長女の没後にはふたりの孫娘(田中裕子・田中恵子)も手もとに引き取って養育にあたった。
晩年はさすがに車椅子に頼ることがふえたが、家庭と店頭にはみずから活けた生花を欠かさず、デイケア・サービスではカラオケに興じた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_102007年(平成19)<活版ルネサンス>を標榜して「朗文堂アダナ・プレス倶楽部」が始動し、翌年五月に<活版凸凹フェスタ2008>を初開催した際には、長崎から東京・四谷の会場に駆けつけられ、このようにかたられた。
「本木昌造先生は嘉永年間のはじめのころから活字版印刷の事業に着手していた。活字版印刷は一度すっかり衰退したが、この一六〇年ぶりの再挑戦でぜひとも復興させて欲しい。活字版印刷は文化の根底をなすものですから、これを絶滅させたらいけません」

2013年(平成24) 初秋、東京で働くようになったふたりの孫娘の支援をえて阿津坂氏が上京され、東京白銀台の八芳園 にみずから席をもうけられ、全日本印刷工業組合連合会専務理事:武石三平氏、『多摩の印刷史』編著者・東信堂印刷所代表:桜井孝三氏夫妻、片塩二朗、大石 薫をまねかれた。
「ワタシ は若いころに本木昌造先生の銅像の再建をお手伝いした。それからは菩提寺の大光寺の本木家墓前に供花するとともに、諏訪公園の本木昌造先生のお姿をいつも拝見してきた。

それなのに東京ではどうなっているのだろう。 東京では平野富二さんの初進出の場所の特定もできていないし、東京築地活版製造所の跡には簡単な碑文があるだけです。
平野さんに関していえば、まずはその初進出の場所を正確に特定すること。ワタシ は若いころからそうした努力をした。
それと、やはりそのお姿が眼前にあってこそ、開拓者の苦心が偲べるという面はおおきいとおもう。長崎と大阪には本木昌造先生の立派な銅像が建立されている。そこで東京には、文明開化をもたらした活字版印刷の創始者として、平野富二さんの銅像、できれば本木先生と平野さんが並び立つ銅像をつくって欲しい。これが阿津坂の遺言だとおもって聴いてほしい」

2014年(平成26)09月、長崎の阿津坂家では、阿津坂實氏の99歳をむかえた「白寿の祝い」が開催された。
タイポグラフィ学会には「本木昌造賞」の受賞対象者として阿津坂實氏とする推薦状が提出された。
そのためタイポグラフィ学会では顕彰委員会が招集されて審議がなされた。 顕彰委員会では若干の議論があったと仄聞する。それは「本木昌造賞」は優れたタイポグラフィ論文の執筆者に授与されるものであり、阿津坂氏の功績は、タイポグラフィに優れた業績・顕著な功績をのこしたものに授与される「平野富二賞」がふさわしいのではないかとするものであった。

阿津坂氏の主著とされるものは「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ-本木昌造」『本木昌造先生略伝』(長崎県印刷工業組合創立四十周年記念/本木昌造先生歿後百二十周年記念、長崎県印刷工業組合、平成七年九月)を見る程度であることはたしかである。
しかしながら『長崎印刷百年史』(長崎印刷百年史刊行編纂委員会/主著者:田栗奎作、長崎県印刷工業組合、昭和45年11月)、『長崎印刷組合史-百年史の追補とその後の三〇年』(長崎県印刷工業組合/長崎県印刷工業協同組合/主著者:種吉義人、長崎県印刷工業組合、平成10年10月)の両書は、組合事業関連の部分の執筆、主著者への資料提供の多くは阿津坂氏によることが両書にもしるされている。
こうした功績と、ひとえに本木昌造の遺業をかたりつぐことに尽力された阿津坂氏の業績を勘案して「本木昌造賞」の授与が内定し、ご本人、ならびにご家族にも通知された。

タイポグラフィ学会では顕彰委員会と理事会の承認を経て、例年07-09月に東京で開催されている定例総会を、2015年は長崎で開催し、その際に阿津坂實氏への「本木昌造賞授与式」を併催する計画が進行していた。
まさにその計画の進行中、2015年(平成27)05月07日、阿津坂實氏は逝去された。
そのためご家族とも協議して、「本木昌造賞授与式」は東京での定期総会と併催して、お孫さん(田中裕子・田中恵子)おふたりに列席していただくことになった。

 【阿津坂 實氏の活動紹介 PDF  2015.9.19 atusaka 2.31MB 】

──────────

【タイポグラフィ学会】
『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露および
第3回本木昌造賞授賞式を開催

2015.9.19学会レクチャー_ページ_01

タイポグラフィ学会は、秋晴れの抜けるような晴天のもと、2015年9月19日[土]、定例年次総会につづき、一般公開で、『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露会および、第3回本木昌造賞授賞式をとりおこないました。
<第3回本木昌造賞授賞式>は、山本太郎会長の挨拶につづき、プレゼンターに平野富二玄孫:平野正一会員があたり、阿津坂 實氏の孫娘、田中裕子・田中恵子両氏に賞状ならびに記念品が授与されました。

<第3回本木昌造賞授賞式>には、タイポグラフィ学会会員のほか、多数の皆さまのご来場をいただきました。ご参加ありがとうございました。詳細報告はタイポグラフィ学会のWebSiteで近日中にいたします。
DSCN1454 DSCN1462 DSCN1465 DSCN1473 DSCN1477Motogi46231-3-Web407[1] Motogi46165-Web07[1]DSCN1482DSCN1491 DSCN1524

【アダナ・プレス倶楽部 会員情報】 アルドの遺伝子-東京製本倶楽部

 

アルドの遺伝子_01 アルドの遺伝子_02アルドの遺伝子

学術出版の祖アルド・マヌーツィオ500年忌
15世紀の書物から現代ルリユールまで

◯ 日 時 : 2015年10月5日[月]-2015年11月19日[木]
10:00-18:00  日曜日および11月6日[金]閉室
ただし、10月18日[日]は開室(10:00-17:00)
◯ 
会 場 : 早稲田大学総合学術情報センター 2階展示室
◯ 
主 催 : 早稲田大学図書館 ・ 東京製本倶楽部
──────────
今年2015年は、ルネサンス時代にヴェネツィアで活躍した、印刷出版業者アルド・マヌーツィオが亡くなってちょうど500年になります。
「ルネサンス」とは古代ギリシア・ローマの文芸の復興・再生です。アルド・マヌーツィオはまさにそれを印刷術の面から成し遂げた一人に数えられます。
また、書物に様々な工夫を施して書物を中世から近代の姿に改良した人物として知られています。
本展覧会は、アルド・マヌーツィオを彼とその後継者たちの仕事と、彼の遺伝子を受け継いで出版された様々な資料によって振り返り、アルドの500年忌を記念するものです

展覧会は大きく4 つの部分から構成されています。
第1 部は、活版印刷術の誕生からアルド・マヌーツィオ以前のヴェネツィアの印刷物です。
第2 部は、アルド・マヌーツィオとその後継者およびその影響で刊行された資料です。
第3部は、アルド・マヌーツィオに関するわが国初の単行書『アルド・マヌーツィオとルネサンス文芸復興』(東京製本倶楽部、2014年)を、日本を代表する24名の装丁家が独自のデザインと技術によって制作したルリユール作品です。
第4部は、アルドの遺伝子を受け継いだ英国の出版社の作品と、今日までに刊行された主なアルド書誌と、1994年と2015年に欧米で開催された展覧会カタログからなります。

アルド・マヌーツィオの500年忌に、ルネサンス時代から現代にまで連綿と引き継がれているアルドの遺伝子をごゆっくりとお楽しみください。
【 詳細情報 : 東京製本倶楽部

【会員情報 版画展】 「版は異なもの味なもの」展 The Artcomplex Center of Tokyo presents.

「版 は 異 な も の 味 な も の」 展
The Artcomplex Center of Tokyo presents.

はんは いなもの あじなもの ―― 版は 異なもの 味なもの ―― とは
版画作品とわたしたちと、あなたたちの結びつきはとても不思議なもので、うまくできているということです。
版画作品との出会いの縁は、どこでどう結ばれるかわからず、ふしぎでおもしろいものだということです。
また、版画作品に魅了された瞬間、わたしたちが感じる胸の高鳴りを指すことばです。

2015年10月に、アートコンプレックスセンターにて版画作家の企画グループ展を開催することとなりました。
ACT作家、コレクター推薦枠、ACTスタッフ推薦枠として作家11名の版画展です。
年代、性別も様々な作家に出展いただき、版画作品の幅広い表現力や魅力をお客様にご紹介致します。
どうぞご高覧ください。
──────────
版は異なもの味なもの展
【 展示概要 】
会  期 : 2015年10月20日[火]-10月25日[日] ※ 最終日は18 :00 まで
会  場 : The Artcomplex Center of Tokyo
            160-0015 東京都新宿区大京町12-9 2F ACT5
            TEL/FAX|03-3341-3253
【 出展作家 】
小浦昇/丸山浩司/前川弘/生熊奈央/梅村圭
新名杏奈/南舘麻美子/横山麻衣/山口恵味/福田美菜
【 企画/主催 】  The Artcomplex Center of Tokyo (ACT) 担当 : 山下

詳細情報 : The Artcomplex Center of Tokyo 版は異なもの味なもの展

去りゆく夏を惜しんで-アルテピアッツァ美唄 安田侃<こころを彫る授業>開催

安田侃の<こころを彫る授業>のお知らせ
20150825192554799_0001
彫刻作品 : ひとつがふたつ 安田 侃 Kan Yasuda 作  Photo:Hiroo Namiki

2013年の<Viva la 活版 -すばらしき活版>イベント、Viva la 活版 Viva 美唄>の開催地、アルテピアッツァ美唄から夏のたよりをいただきました。
ことしの夏は、北海道美唄でも30℃を超える日がおおく、冬期の暖房設備ばかりで、空調(冷房)設備のすくない美唄ではかなりつらかったようです。
アルテピアッツァ美唄恒例の <こころを彫る授業>ですが、今回は安田 侃カン氏を講師として開催されます。直前のご案内となりましたが、ご関心のあるかたはご参加ください。
──────────
安田侃の<こころを彫る授業>
◯ 日   程 : 2015年 ①8月29日(土)、30日(日)受付終了  ②9月12日(土)、13日(日)
◯ 場   所  :  アルテピアッツァ美唄 ストゥディオ・アルテ 

◯ 時  間 : 各日 10:00-16:00  
◯ 締  切 : ① 8月20日(木)受付終了   ② 8月31(月)
※ お申込み多数の場合は、初めての参加の方を優先します。ご了承ください。
◯ 参加費 :

一        般       /    15,000円(白大理石) 10,000円(軟石) 
高校生・大学生  /     10,000円(白大理石)    6,000円(軟石)        
中学生以下       /       9,000円(白大理石)    5,000円(軟石)
◯ お申込・問合せ : アルテピアッツァ美唄ギャラリー  TEL (0126)63-3137
◯ 主   催 : 認定NPO法人 アルテピアッツァびばい 

【 詳細情報 : アルテピアッツァ美唄 イベント

相響するふたつの美術館 【碌山美術館/新宿中村屋サロン美術館】, 荻原碌山と相馬黒光 ― その相剋と懊悩

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山


平成27年度 夏季・秋季特別企画展
荻原碌山 制作の背景-文覚・デスペア・女

会  期 : 2015年08月01日[土]-11月08日[日] 会期中無休
会  場 : 碌山美術館 第二展示棟    399-8303  長野県安曇野市穂高5095-1

20150729121017092_0001
荻原守衛   《 女 》
作者名 : 荻原守衛 制作年 : 1978年
鋳造サイズ : 98.0×70.0×80.0 cm  技法/素材 : ブロンズ

この彫刻作品は、荻原守衛(碌山)の絶作です。
膝立ちのポーズで、両手を後ろに組んでいながらも前へ上へと伸び上がろうとする胴体。
立ち上がろうとしながらも膝から下は地面についたまま立ち上がれない。
つま先から額までが螺旋構造となり、不安定なポーズでありながら全体の動きの中で統一された美しさを放っています。
また内側から迫ってくる緊張感と力強いエネルギーが観るものを圧倒します。

荻原は、1910年(明治43)に 《 女 》 の石膏像を完成させて亡くなりました。 同年、山本安曇によって鋳造され、その半年後の第 4 回文展に出品されています。その作品は現在、東京国立近代美術館に所蔵されています(重要文化財)が、本作品は、のちに制作された石膏複製より鋳造されたものと考えられています。
[ 上掲写真は新宿中村屋サロン美術館 所蔵/引用許可取得済み]
──────────
荻原守衛(おぎわら もりえ 号 : 碌山 ロクザン 1879-1910年)が残した傑作 《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが 《文覚》(1908年)、《デスペア》(1909年)の二つの作品です。

鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚モンガク上人(平安末期-鎌倉時代の真言宗の僧。1139-1203)の苦悩を見て取って制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。
最後の作品となった《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にもつながるものなのです。

個人的な思いを元にして作られた作品が、普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。
作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。

20150724142207024_000120150724142207024_0002  [上掲フライヤー PDF  rokuzan-bijyutukan 4.5MB ]

[ 季節違いで恐縮だが、以下の碌山美術館の写真は、昨晩秋の2014年11月21日撮影 ]
DSCN9481DSCN9474DSCN9475DSCN9420DSCN9421DSCN9431

DSCN9437DSCN9439DSCN9446DSCN9442DSCN9466 [ 参考資料 : 『 碌山 愛と美に生きる 』 碌山美術館 平成19年 第三版 ]
20141125234017243_000120141125234210926_000120141125234509328_000120141125234509328_0002

《 新宿餘談-荻原守衛 碌山 、女 をんな  ………… 》

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

菓子匠:新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵 ・ 相馬 良 リョウ(通称:黒光コッコウ)夫妻は、1901年(明治34)本郷でパン屋 「 中村屋 」 を創業した。 そして1909年(明治42)には、新宿の現在地に本店を移転した。
相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになり、 それが「中村屋サロン」のはじまりとなって、現在は「 中村屋サロン美術館 」として公開されている。

中村屋サロンの中心人物は荻原守衛 (おぎわら-もりえ 以下 碌山 ろくざん 1879-1910 行年30 )であった。
碌山は、相馬愛蔵と同郷の 長野県 南安曇郡 東穂高村 ( 現 : 安曇野市穂高町 ) の出身で、18歳のとき、相馬 良 ( 以下 黒光 コッコウ ) が嫁入りの際に持参した、長尾杢太郎 の《亀戸風景》 の油絵ではじめて油絵を知り、画家を志したという。

最初はアメリカに、まもなくフランスにわたり、極貧にあえぎながらの海外研修は07年余におよび、画家志望から彫刻家に転向した碌山が帰国したのは1908年(明治41)のことであった。帰国後は中村屋のほどちかく、新宿角筈ツノハズにアトリエを設け、中村屋に足しげく通った。
碌山は帰国からわずか02年余ののち、結核のために1910年(明治43)、30歳の若さで歿した。その最後の作品が「女 をんな」であった。
──────────
愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

はじめて彫刻作品「女 をんな」をみたとき、おもわず全身に鳥肌がたった。そして、碌山が黒光と出逢ってからの18年ほど、狂おしいまでの懊悩にみちた歳月をおもった。
東北・仙台のひと、黒光が、山里ふかい安曇野で碌山のまえにあらわれたとき、黒光はすでに相馬愛蔵の妻であり、手の届かないところにいた。

こいしいこととは、かなしいことである ―― それからの18年余の碌山の人生とは、ただただ相剋と煩悶と懊悩の日日でしかなかった。

帰国した碌山は、すでに労咳におかされていた。当時の労咳は死の病であった。
そのやせ衰えた碌山のまえに、黒光は輝くばかりの裸身を挺した。碌山はせわしなくおもいびとの裸体のスケッチをかさね、石膏像を刻みだした。
そして銅像としての完成をみないまま、中村家の襖を緋アケにそめて喀血し、そのまま息をひきとった。

散るとみれば また咲く花の にほひにも 後れ先立つ ためしありけり
―― 西 行

DSCN9481DSCN9486DSCN9489

《 新宿餘談-碌山美術館門前の蕎麦は絶品だった 》

昨年の晩秋に所用があって長野県白馬村にでかけた。そのかえりに碌山美術館をおとづれた。北アルプスの高嶺にはすでに冠雪がみられ、木木もすっかり落葉して、館の庭にはカリンが拾うひともないままに実をたくさんつけていた。
碌山美術館のギャラリーショップ「グズベリーハウス」では、すでに薪ストーブが赤くもえ、そのぬくもりがうれしかった。

「かた 型」のあるものが好きである。「カタ TYPE」とは「定まったカタチ TYPE」を有するものである。だからタイポグラフィ Typography にこだわりがあるし、彫刻にもかなりのこだわりをもっている。
ほんとうはここで荻原碌山と相馬黒光のことを書きたかった。労咳に仆れた碌山がのこした「女 をんな」像は、銅像ではなく、その原型「かた Type」でもあった。
ところが、非才にしてそれに迫ることはならなかった。そこでありきたりの蕎麦談義と、つまらんお国自慢になってしまった。
読者諸賢のご海容を願う次第である。
──────────
信州信濃、田舎うまれやつがれは、蕎麦にはこだわりがある。
なにもない、蕎麦だけの「盛り蕎麦」がこのみである。せっかくの香りをとばしてしまう、絆創膏を貼りつけたような海苔や、いかに地元の特産とはいえ、とってつけたようなワサビもいらない。
信州蕎麦には、古来、信州善光寺大門町/八幡屋磯五郎の「七味唐がらし」ときめている(勝手に)。ちなみに「七味」が「ヒチミ」になって発音がつらい東京者(亡妻がそうだった。日比谷はシビヤ)は「七色唐辛子 ナナイロ トンガラシ」である。つまり、ただ蕎麦だけがあればよい。

碌山美術館の正門の前にちいさな蕎麦屋があった。蕎麦処信州でも、いまやなかなか旨い蕎麦にありつくことが少なくなった。はじめて入った店でもあるし、さして期待もせずに、
「大盛りの、盛り蕎麦一枚」
と注文した。そこで一瞬の間があって、店員いわく、
「あの~、ウチの盛りはいくぶん多めなのですが、よろしいですか」
「ああ、結構ですよ。大盛りの蕎麦をください」
──────────
出てきた「大盛り蕎麦」のボリュームにのけぞった。東京ならふつうの「盛り蕎麦」五枚分はたっぷりありそうなたいそうな量の蕎麦だった。
最下部写真の手前が、家人が注文したふつうの「盛り蕎麦」。これだけで東京の「大盛り蕎麦」より分量はありそうだった。その倍量がこの店の「大盛り蕎麦」だった。

食べはじめたら、これが絶品。これぞ、まさしく蕎麦という、腰と香味のある旨い蕎麦だった。
おもへらく、かまで旨い蕎麦を食したのは、子供のころにオヤジの実家で、あるいは戸隠山の山中で、あるいは長野善光寺のちかく、地元客しかいかない蕎麦屋くらいであろうか。
これらの蕎麦で共通していたのは、いずれも水道水をもちいないことのようだった。そもそもオヤジの実家以外の蕎麦屋の蕎麦粉は、いまや蕎麦畑をみることもほとんどなくなった信州でも、おそらくは輸入品であろうし、東京でも信州でもおなじものであるとおもわれた。

その食感がはなはだしくことなるのは、蕎麦は、蕎麦うちからはじまって、茹で、水洗いと、大量の水をもちいる。そして付け汁の煮出しにも水がもちいられている。しろうとかんがえだが、この水が水道水だと、どうしてもカルキ臭くなって蕎麦の食味にも影響がありそうである。
たしか碌山美術館正門前、駐車場脇の蕎麦屋は「寿々喜/すゞき」といったとおもう。このあたりは、北アルプスの湧水が随所にわく。安曇野の銘水はひろく知られるところである。碌山美術館参観の折にはおすすめしたい。
──────────
ところで、新宿朗文堂のちかくにも、なかなか旨い蕎麦屋がある。屋台のような、素朴でちいさな店だが、寡黙なオヤジと、その娘らしきふたりのおばさんが店を切り盛りしている。
なぜここの蕎麦が旨いのかと、画材の世界堂にいった帰りに店の裏をのぞいてみた。そこにはちいさな店には不似合いの、おおきな浄水器が鎮座していた。

この店は冷暖房もほどんどない、吹きさらしにちかい店なので、客の大半は蕎麦と酒好きの中年オヤジとみた。オヤジに連れられて若者も来店するが、かれらは軽薄に掲示板型の「食べ◯◯」などに情報をながさない。そんなことをしたら、多忙のあまりオヤジは過労死し、おばさんふたりは腰痛か疲労骨折かなにかで閉店するに違いないとおもっている。
だから常連客は、店がたて込んでいれば、冷や酒一本と、盛り蕎麦一枚ですますし、すいていれば、山菜の天ぷら、自家製の漬けものなどをとって、たのしく談笑しているのである。
新宿邨もなかなかすてたものではない。

【 既出情報 : 朗文堂ニュース 新宿中村屋サロン美術館開館と、相馬黒光、荻原碌山のこと。2014.11.28 】
【 詳細情報 : 碌山美術館 /  関連情報(姉妹館) : 新宿中村屋サロン美術館

残暑お見舞い & 新塾餘談 おもかげのはし

2015残暑見舞い
《 新 宿 餘 談 》

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき

新宿区神田川に架かる「 面影橋 」ちかくの空き地に咲いていた名をしらぬ野艸。
このあたりは、江戸千代田城の築造者とされる 太田道灌 の逸話にちなむ「山吹の里」の地とされ、江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。いまは山吹はみあたらないが、橋のたもとにそれをつたえる記念碑がひっそりとたたずむ。 DSCN0022DSCN0034DSCN0041DSCN0030DSCN0046DSCN0049DSCN0052いまではなんの風情もないコンクリートの橋ではあるが、この橋は歌人:在原業平がきよらかな水面にその姿をうつしたことから「姿見の橋」とも、あるいは徳川三代将軍家光がこのあたりで鷹狩りの鷹をみつけて名づけた橋ともされる。
「おもかげのはし/俤の橋」の名は、和田於戸姫なるものが、かずかずの悲劇をなげいて、この水面に身をなげうったときの和歌から名づけられたとする。

いずれにしても、漢字だけの「面影橋」よりも、どれもが風情のある名前ではある。
その「おもかげのはし」のたもとに水稲荷神社があり、そこのおおきなマンションに友人が事務所を開設していた。その友人「松本八郎」が逝って、はやいものでまもなく一年になろうとしている。夏の夕まぐれ、「おもかげのはし」をたずね、クレマチスの真っ白な花弁を見ながら、勝手に先に逝った友人を偲んだ。

【寄贈式】 江川活版製造所、江川次之進活字行商の図-武蔵野美術大学美術館・図書館と冨沢ミドリさん

『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)の資料となった「江川次之進活字行商の図」が、2015年06月12日、武蔵野美術大学美術館図書館に寄贈され、江川家縁者/冨沢ミドリ氏ほかも列席されて寄贈式が終了いたしました。

B人物.jpg

この画軸は江川家・旦丘アサオカ家曽孫/冨沢ミドリ氏が長年にわたってたいせつに所蔵されていたものですが、右手に描かれていた「活字ホルダー」が奇縁となって、一旦朗文堂が保管にあたり、タイポグラフィ学会の資料として提供させていただいたものです。

DSCN9999 DSCN0017 Panolama[1]

DSC_4486.png
 
5.png
55.png
【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS
 

ここに『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」(江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史)も発刊されましたので、所蔵者:冨沢ミドリ氏のご意向をうけ、長期保存に対応していただける寄贈先を探しました。

幸い武蔵野美術大学/新島実教授をつうじて、武蔵野美術大学美術館・図書館への所蔵をひきうけていただき、同館館長/赤塚祐二教授、司書長/本庄美千代様、新島実教授、寺山雄策教授のお立ち会いをいただき、タイポグラフィ学会からは、山本太郎会長、小酒井英一郎理事、大石 薫、片塩二朗が同席いたしまして、無事に寄贈式を終了いたしました。

この間、タイポグラフィ学会、江川活版製造所研究会の皆さまの多大なるご協力をいただきました。箱書きは会員/伊藤 恵さんにお願いいたしました。皆さまのご協力にふかく感謝をいたします。
DSCN9980 DSCN9981 DSCN9983 DSCN9982 DSCN9993 DSCN9990DSCN9976 箱書き表 箱書き裏
──────────

【再掲載】 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたび、その名称と使用法は広く知られ、新製品も発売されるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所:江川次之進の遺影と肖像画があるのですが…… 》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。ですからこの絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄贈の予定(今般、武蔵野美術大学美術館・図書館に寄贈)となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表・公刊されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。(『タイポグラフィ学会誌 07』所収、研究ノート「江川次之進の事績と江川活版製造所の変遷」 タイポグラフィ学会 江川活版製造所研究会/板倉雅宣、内田 明、大石 薫、片塩二朗、松尾篤史 2014年11月30日)
──────────
この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
 ここでは、こうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文があらたに発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。
今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。
墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

DSCN4040 DSCN4044 DSCN4039 DSCN4023 DSCN4029 DSCN4031【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「タイポグラフィ学会誌07」を刊行 2014.12.16 】
【 関連情報 : タイポグラフィ学会 NEWS  「江川次之進活字行商の図」寄贈式が終了いたしました  2015.07.13 】
【 関連情報 : タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料 2011.04.26 】
【 関連情報 : 花筏 平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2 2014.05.09 】

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04 島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

『本木昌造伝』(島屋政一、朗文堂、2001年08月20日) は、1996(平成08)年07月、名古屋の旧津田三省堂(現ナプス)の筐底にひめられていた、島屋政一による未発表自筆稿本を原稿として刊行された。この時点で島屋政一氏はすでに物故していたとみられ、そのため著者校正を経ておらず、在庫僅少のいまではあるが、一部に正誤表を発表する必要が発生している。

すでに島屋政一『本木昌造伝』をご購入済みのかたは、お手数をかけて恐縮ながら、お申し出をたまわれば、正誤表とともに、板倉雅宣氏のご協力による索引を献呈させていただきたい。
あわせて島屋政一『本木昌造伝』には、わが国の活字ボディサイズと、そのシステムに関し、類書にない貴重な資料が掲載されていることが、いまさらながら判明した。
目下読者の一部と考査中であるが、追試をかさねてみると、きわめて注目すべき論考であり、精度の高い資料であることがあきらかになりつつある。ここにその一部を紹介したい。
20150421193950685_0003島屋政一『本木昌造伝』の序文にあたる「例言」には、このようにある。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。

この「例言」をうけたとみられる記述が『本木昌造伝』 p.117-120 にみられる。
そこでの島屋政一は、大阪の活字鋳造業者/青山容三〔督太郎〕氏、森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授をえて、
<わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >
としたそれまでのさまざまな著作、とりわけ『印刷文明史』での立場を捨てている。
それに代えて島屋政一は、

英国においてはトーマス・ハンサード(Thomas C. Hansard)が1825 年(文政08)に 『Typographia』 (原著:p.387–8) を著し、活字の標準化を提唱して、1 フィートにたいする活字の全角の個数〔本数〕の標準をつぎのように定めていた。
○ 一号  1 ft に32 本        Two-Line English 
○ 二号  1 ft に41 本1/2  Two-Line Small Pica
○ 三号  1 ft に56 本1/4     Two-Line Brevier
○ 四号  1 ft に64 本         English
○  五号  1 ft  に83 本    Small Pica
○ 六号  1 ft に112 本1/2    Brevier

とし、これまで<名前はあるけれど、寸法が無い>とされてきた、わが国の号数制活字の淵源を、「English 系統 一号、四号」、「Small Pica 系統  初号、二号、五号、七号」、「Brevier 系統 三号、六号、八号」であることを解明し、それぞれの活字ボディサイズを解明している。

ただしここで触れられた資料は、英国キャスロン社をはじめ、英国における大手の活字鋳造所において、すでに(1825年当時において)百年ほど、スタンダードとして採用されてきたものであるとされている
ところが「Small Pica 系統 初号、二号、五号、七号」は、こののちに、上海美華書館の技士/ウィリアム・ギャンブルによって、英国由来のものから変更乃至はあらたに追加され、米国 MSs & J 社の活字母型サイズの10.5 pt 基準によってボディサイズが制定されたとみられるので、初号、二号、五号、七号の活字ボディサイズに関しては後述をお待ちいただきたい。
 
さいわい原著『Typographia』 (Thomas C. Hansard,  1825 年(文政08),   原著:p.387–8)を所有していたため、遅ればせながら原典照合をしたところ、一部に著者によるあきらかな転記ミスがみられたので、下掲図にそれを正した図版をかかげ、また正誤表を作成した。
ハンサード扉 Typographia
現在、<朗文堂ちいさな勉強会 平野富二の会>の会員を中心に、この島屋政一説を追試・検討をかさねている。
現段階では、本項一回目に問題提起をした、
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
のうち、わが国の近代活字が三つのグループに大別される理由として、ここに島屋政一が提起し活字ボディサイズにもとづくスケールをもちいての調査では、
① 一号活字、四号活字        → English 系統
② 三号活字、六号活字、八号活字 → Brevier 系統
とほぼみなしてよかろうという段階まで調査が進展している。

ところが現状では、わが国の五号活字のボディサイズは、明治最初期に本木昌造・平野富二らによって体系だてられてからずっと、Small Pica 10.5 pt 基準 とみられるものの、ほんの一部ながら、異なったサイズの標本がみられ、それが島屋政一が紹介した「五号 1 ft に83 本 Small Pica」にちかい数値を示していることまでが判明している。

以下は平野富二の東京本格進出を控えて急遽作製されたとみられる「天下泰平國家安全」の活字販売用見本(『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 巻末口上。ともに壬申二月〔明治05 年02 月〕)の製作のときに完成していた、活字ボディサイズの該当部を抜粋して紹介した。
この調査・研究はまだ端緒についたばかりであり、ひろく『本木昌造伝』愛読者、有意の皆さまの参加をお待ちしたい(サイズ分析の二画面は PDF 画面がひらきます)。

20150421193950685_000320150601175842929_0001 20150601175842929_0002『 新塾餘談 初編一 』巻末口上(活字ボディサイズ見本ならびに価格表 壬申二月〔明治05年02月、1872〕 刊、印刷博物館蔵 ) PDFデータ  】

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*04  島屋政一『本木昌造伝』における活字ボディサイズの新考証

4947613548

朗文堂 愛着版

本 木 昌 造 伝

島 屋  政 一 著
朗 文 堂 刊

A5判 480ページ
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点
上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
背革にベラムのバックスキンをもちいて

ヒラにはコッカレルのマーブル紙をもちいました。

本書(索引・正誤表つき)は在庫僅少で、輸送箱の一部に汚損があるため、直販のみとし、一般書店では取り扱っておりません。
恐縮ながら、本書の入手をご希望の方は直接 朗文堂 ヘお申し込みください。
本体価格:16,000円(税・送料別)
【 詳細情報 : 朗文堂ブックコスミイク 本木昌造伝

【 目  次 】
・ 本木昌造の誕生から通詞時代

・ 長崎製鉄所時代の本木昌造
・ 近代活字創製の苦心
・ ガンブルの来日と活版伝習所の創設
・ 新街私塾と長崎活版製造会社
・ 長崎から東京へ/活版印刷術の普及
・ 本木昌造の終焉と本木家のその後
・ 凸版印刷と平版印刷、ライバルの登場
・ 印刷界の二大明星
・ 本木昌造をめぐるひとびと
・ 野村宗十郎とアメリカン・ポイント制活字
・ 印刷術の普遍化とわが国文化の向上
・ 印刷界の現状
・ 編集子あとがき

【 例    言 - はじめに 】
島 屋  政 一
わが国の印刷事業は、とおく奈良平安朝のむかしに寺院において創始され、久しきにわたって僧侶の手中にあった。 江戸期にはいって勅版がでて、官版および藩版がおこり、ついで庶民のあいだにも印刷事業をはじめるものがあらわれた。
寛文(1661-72)以後、木版印刷術おおいに発達して、正徳、享保時代(1711-35)からは木版印刷術が全国に普及をみたが、それは欧米諸国の近代活字版印刷術にくらべてきわめて稚拙なものだった。

幕末の開国とともに洋学が勃興して、印刷術の改善にせまられた。そのときにあたり、近代活字鋳造と近代印刷術の基礎をひらき、善く国民にその恩恵をひろめたものが本木昌造翁だった。

筆者はすでに『印刷文明史』を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所・青山容三〔督太郎〕氏、森川龍文堂・森川健市氏の両氏から、活字の大小の格〔活字ボディサイズ〕のことのあらたな教授もえた。
さらに筆者は、すぐる太平洋戦争において、おおくの蔵書を戦禍にうしなった。また青山進行堂活版製造所、森川龍文堂の両社はその活字の父型や母型のおおくをうしなっている。

このときにあたり、ふたたび、日本の近代文明に先駆して、開化の指導者としておおきな役割を演じた本木昌造の功績を顕彰し、それに学ぶところは大なるものがあると信ずるにいたった。
本木昌造はひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり教育者でもあった。
本木昌造の設立にかかる諸施設とは、むしろ「まなびの門」でもあったのである。

そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。

  昭和24年10月20日
                              著 者 識

【 本木昌造伝 修整部 PDF  motogi-denn-syuusei 】

Web01本木伝Web02本木伝Web03本木伝Web04本木伝

Hermann Zapf ヘルマン・ツァップ氏逝去 ー Mit einer aufrichtigen Anteilnahme

ツアップを偲ぶ20150608134232723_0001  Hermann Zapf  ヘルマン ・ ツァップ
1918年-2015年 享年96 (遺影は1995年ころのもの)

<Hermann Zapf  ヘルマン ・ ツァップ 略  歴(おもに1995年頃まで)>
◯ 1918年11月08日、ドイツのニュルンベルクにて生まれる
カリグラファ、タイプデザイナー、タイポグラフィ教育者
◯ 1972年より ドイツのフラックフルトとハイデルベルクの間に位置する学術都市、ダルムシュタットに居住
◯ 1947-56年
D. Stempel AG 活字鋳造所/フランクフルト アートディレクター
◯ 1948-50年
Werkkunstschule Offenbach オッフェッバッハエ芸学校でレタリングを教える
◯ 1960年
Carnegie Institute of Technology カーネギーエ科大学/ピッツバーグ 客員教授
◯ 1972-81年
Technische Hochschuie Darmstadt ダルムシュタットエ科大学でタイポグラフィを教える
◯ 1977-87年
Rochester Institute of Technology ロチェスターエ科大学/ニューヨーク州ロチェスター
タイポグラフィック ・ コンピュータープログラム教授
◯ 1977-85年
Design Processing International/ニューヨーク バイスプレジデント
◯ 1986年より
Zapf, Burns & Company(ニューヨーク)および URW Master Design GmbH(ハンブルク)のパートナーとなる
◯ 2015年
2015年06月04日逝去 享年96

メタルタイプ、写真植字、デジタルシステム用アフレフアベット 176種類をデザイン。
各国で講演および展覧会。

<Hermann Zapf  主要著作(おもに1995年頃まで)
“ William Morris ” 1948
“ Pen and Graver ” 1950,1952
“ Manuale Typographicum ” 16ヵ国語(1968年に18ヵ国語) 1954
“ Typographic : Variations ”  独・英・仏語版 1963
“ About Alphabets ” 1960, 1970
“ OrbisTypographicus ” 1980
“ Hermann Zapf: Hora fugit-Carpe diem ” 1984
“ Creative Calligraphy ” 独 ・ 英 ・ 仏 ・ 西語版 1985
“ Hermann Zapf and his design philosophy ”  独 ・ 英 ・ 日 ・ 伊版 1987
“ ABC-XYZapf ”  1989

ツァップ夫妻朗文堂未刊書 『活字と夢と』にお寄せいただいたツァップ夫妻の写真とシグネチュァ

朗文堂既刊書 『ヘルマン・ツァップのデザイン哲学』 製作のおりおりのおもいで
Zapf 型押し用亜鉛凸版 花トビラABC1C 花4C_Z 花2C_Z
9784947613158The Design Philosophy of
HERMANN ZAPF
ヘルマン ・ ツァップのデザイン哲学

発行日
1995年4月11日
著     者
Hermann Zapf
翻 訳 者
池 野  晴 美
発   行
株式会社  朗 文 堂
定   価   16,800円[税別]
ISBN4-947613-15-7
──────────
The Design Philosophy of HERMANN ZAPF
ヘルマン ・ ツァップのデザイン哲学
HORA FUGIT – CARPE DIEM 烏兎匆匆 光陰矢のごとし ―― まえがき
Carl Zahn  Museum of Fine Arts, Boston (カール ・ ツァーン ボストン美術館)
20150608134232723_0005 20150608134232723_0002 20150608134232723_0003

20150608134232723_0004HORA FUGIT – CARPE DIEM

この<HORA FUGIT – CARPE DIEM 烏兎匆匆 光陰矢のごとし>の銘文は、 Hermann Zapf が原図を描き、アルミニウムに彫刻したものである。ドイツのダルムシュタットの自宅アトリウムにある、カリグラフィック ・ スカルプチュアである。

この絡み合わされた文字は、カリフォルニア・ホビーの咲き乱れる、心地よい環境に囲まれて立つ。アトリウムの向こうにガラスのドアが開け放たれ、ひろびろとした芝生が見渡せる。その周りをめぐる花壇は Zapf 自身が花を植え世話をしているものだ。とりどりの実のなる木々が庭のそちこちに生え、鬱蒼と茂った公園の樹葉を借りて風景を完成させる。

この愛すべき家でのつれあいは、妻のGudrun Zapf-von Hesse (グートルン ・ ツアップ-フォン ・ ヘッセ)である。妻もまた、才能あるカリグラファであり、またタイプデザイナーと製本家でもある。その先祖は名高いフランクフルトの活字鋳造者、17世紀から続く Luthersche Giesserei (ルテルシュ活字鋳造所)の Luther(ルター)家である。

この牧歌的な家での時間は、彼にとっては文字どおり矢のごとく、腕が頼りのタイプデザイン、カリグラフィ、ブックデザインの仕事とともに飛び去っていく。
Zapf は一秒たりともむだにしないマスタープランナー
であるが、忙殺されているようには決して感じられない。いつも友人たちのため、あるいは何か有意義なことのために時間を使っているらしい。〔中略〕

60歳をこえた Zapf に、この分野で並ぶ者はない。今なお新技術に挑戦する意気込みから察するに、これからも頂点にとどまるに違いない。
Zapf は、若いころは、電気エンジニアになるのが夢だった。その性向はいまも変わらないが、1933年当時、ドイツがおかれていた政治的状況のために、ニュルンベルクの工業大学に通うことはかなわず、第二志望の美術学校もあきらめた。かわりに進まざるをえなかった道は地元の印刷業者の徒弟であり、そこで 4 年間写真の修整に携わることとなった。

その間 Zapf は、カリグラフィとタイプデザインの美しさに開眼した。きっかけは、ニュルンベルクを同郷とする Rudolf Koch  (ルドルフ・コッホ)の遺作展である。 Zapf はその後 1938年になって Koch の息子ポールのところで働いた。フランクフルトの Hauszum Fürsteneck というプライベートプレスである。

Zapf は、Edward Johnston の “ Writing and Illuminating and Lettering (邦題:『書字法・装飾法・文字造形』エドワード・ジョンストン著、 遠山由美訳、朗文堂)” という本を見てカリグラフィを勉強し、実習に励んだ。
その勤勉ぶり(そして天性の才能)のおかげで、ほどなくして、本人の言葉によると “ なかなかよい字を描ける ” ようになった。

Zapf は独学のカリグラファで、また一般には知られていないが、独学のタイポグラファでもある。修業の年季を終えるとフランクフルトに移り、そこで活字史研究家の Gustav Mori (グスタフ・モリ)と親しくなった。Mori の膨大な蔵書を使って、Zapf は独学を続けた。
Mori に紹介された Stempel(シュテンペル活字鋳造所)で、Zapf はAugust Rosenberger (アウグスト・ローゼンベルガー)という有名なパンチカッターに出会った。その後二人は力を合わせ、いくつかのプロジェクトに取り組むことになるのである。

Zapf の最初のタイプデザインは Gilgengart (ギルゲンガルト)という Fraktur (フラクトゥール : ドイツの亀の子文字)であり、1938年にStempel 活字鋳造所で採用された。 Zapf はまだ20歳そこそこの年齢だった。
そして最初の偉大なる書物の仕事も始まった。“ Feder und Stichel (ペンと彫刻刀)″ というその本のプレートは、Rosenberger が戦時中に手で彫った。ただし当時は Zapf でさえ、徴兵されており、戦時中のほとんどを南フランスで過ごし、ボルドーで地図の作成にかかりきりという状態であった。

ユニークなスケッチブックが数冊、ひまを見ては仕上げられた。どのページにも戦争のシーンはなく、花々や、フランス各地で描いたスケッチでうまっていた。そして “ Das Blumen-ABC (フラワー アルファベット)″ のためのドローイング制作を始めている-この本には、自然の美しさに Zapf が寄せる共感と、観察結果を紙に描き移す能力がよくあらわれている。

Zapf の本やアートワークは全世界の公共・民間コレクションに所蔵されている。印刷部数が少ない出版物もあったため、すぐコレクター・アイテムになったのである。
戦後 Zapf はフランクフルトに戻り、Stempel 活字鋳造所のプライベート・プリンティングオフィス(私家版印刷部門)のアートディレクターとなった。まもなく、みごとな新しいタイプデザインがつぎつぎと誕生した。[後略]
──────────
万感のおもいを込めて-朗文堂ホームページのメーンタイトルの使用書体について
The type design depends on Hermann Zapf
プリント
朗文堂ホームページ メーンタイトル
Michelangelo Titling,   Zapfino - 1999 biginning to
use

  • ROBUNDO ―― ミケランジェロ・タイトリング(Michelangelo Titling)。この活字書体は、ヘルマン・ツァップによってデザインされたオールキャップスの活字書体で、いくつかのオルタナーティブ・キャラクター(異体字)を含む。D. Stempel AG /フランクフルト 1950年。
  • We love Typography ―― このツァッフィーノ (Zapfino) は、ヘルマン・ツァップによってデザインされ、1998年にライノタイプ社によって発表されたスクリプト(筆記体)系の書体である。 
  • ツァップと小林 章による2003年 Zapfino の改刻版がデジタルタイプとして Mac OS X にバンドルされており、その後さらに改刻を加えた Zapfino Extra も発売されている。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03 〔川田久長〕 活字の大きさとシステム

 


《 印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の紹介 》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長 『 活版印刷史 』 初版本  組版データー
大日本印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt  明朝体活字 一行45字、16行、行間 7.5pt
第二次世界大戦の敗戦からまもない
ころに発行されたこの図書は、印刷用紙が劣悪だったために、酸化が発生しており、またカーボン不足から印刷インキが灰色がかった発色を呈する。 製本もほぼ破損寸前の状態となっている。 そのため本論考にさいしてはもっぱら下掲の再版書をもちいた。
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長 『 活版印刷史 』 再版本  組版データー
杜陵印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間 4.5pt
参考 : 印刷を担った杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。 この時代の杜陵印刷の工場は小石川にあり、そこには A全判、A半裁版の活版印刷機が数台あって、本文活字の一部は自家鋳造、ほとんどが外注による自動活字鋳植機 ( KMT ) であった。またムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式 ( ステロ版 ) での活版印刷〔凸版印刷〕が多かった。  本再版書もステロ版印刷とみられる。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051川田家墓地。 川田久長もここにねむる。 所在地 : 東京谷中霊園 甲3号4側
写真) 掃苔会肝煎り : 松尾篤史氏提供。

20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「 印刷産業綜合統制組合屋上にて : 矢野道也氏を送る会 」 ( 1946年03月25日 )
写真) 敗戦からまもなく、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。 当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。 その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。 痩身で大柄なひとであったようである。 集合写真 : 「 この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句 」 『 印刷情報 』 ( 片塩二朗 2007年07月号 ) より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日
──────────

明治23年05月25日  東京牛込区にて、父 : 麹町区長 ・ 川田久喜、母 ・ むめ子の長男として誕生。
大正02年09月     東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。 浅沼商会入社。 製版材料調査に従事。
大正12年        秀英舎 ( 現 大日本印刷 ) 入社。 同社関連企業の活字製造所 : 製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月     印刷図書館初代館長に就任。 のち 「 文部省認可 財団法人 印刷図書館 」 ( 昭和24年設立 ) となる。
昭和24年03月20日  著作 『 活版印刷史 』 ( 初版 ・ 並製本 印刷学会出版部 ) 刊行。
昭和37年07月05日  逝去。 享年72。 墓は谷中霊園 甲 3 号 4 側 に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作 『 活版印刷史 』 ( 再版 ・ 上製本 印刷学会出版部 ) 刊行。

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
──────────

川田久長 『 活版印刷史 』

ここから『活版印刷史』(川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日)を本格的に紹介したい。
同書の初版は紙やけがひどいので、再版書により、旧漢字を常用漢字とし、適宜改行と段落を加えた。 

松本八郎『エディトリアルデザイン事始』のなかでは、おもに三谷幸吉をひいて、わが国の活字が鯨尺や曲尺によるものとする説に疑念を呈していた。
ところが松本はいっとき大日本印刷に籍をおいたことがあり、先輩にあたる川田久長には遠慮があったようで、川田説への言及はすくない。

ここでは『活版印刷史』「本編の三」から、
三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体(全)   p. 94-99
四 長崎活字の東京進出 (後述)
五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版(部分)                   p. 100-102
を引用したい。三項では活字の規格を述べており、五項では活字鋳造のための機器の種類とその数量の概略がしるされている。

ここで図版をひきたいところだが、川田久長『活版印刷史』には初版・再版ともに図版は一切無く、丹念に文章をもって述べられている。したがって読者諸賢にとってはつらいかもしれないが、ここではまだ図版や画像は提示しない。もうしばらく我慢していただきたいとお願いしておく。
──────────

三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体

本木昌造は邦文活字の完成に努力を傾け、現在なお少なからず使用されている号数活字の規格の土台を定めたのであるが、彼が自から活字のことについて書いたものとしては、その自筆稿本なるものが、東京築地活版所に所蔵されておったのである。

しかしそれは関東大震災の時、全部烏有に帰した 〔 花筏 : [字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム を参照。 この本木昌造自筆稿本は、現在<本木家文書>の一環として現存し、長崎歴史文化博物館が所蔵している 〕が、その一部分がかつて 『 大阪印刷界本木号 』 〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)、印刷図書館所蔵 〕に転載されたことがある。 今それを更に引抄する。

活字判の便利なるは、数種の版校を蓄積するに及ばず。 其彫刻に時日を費す事なく、且木版は一度彫刻する処の文字を以て他に用ふる事能はず。 活字は然らずして、彼是の別なく是を摺りたるの後は、其文字を取て又彼に用ふる事を得る益あり。 殊に一度字母を製し得る後は幾千万と雖イエとも同種の文字を得る事容易なり 〔 字母、活字母型のうち、本木昌造らがもちいた電鋳母型は、のちの彫刻母型にくらべると耐久性に劣り、実際には五千-一万字を鋳造すると熱変形が発生するために交換することがふつうだった〕。

其文字は木材ならずして鉱類を用ふ。 是を製するに、往時は欲する処の字画を鋼鉄に彫刻し 〔 活字父型の製造。 市販の針金程度の鉄をもちいたとみられる。 それを焼きなましによって軟鉄とし、そこに字画を裏文字として彫刻、それを焼締めて硬化させた。 punch 〕、是を銅板に打込み 〔 活字母型の製造。パンチのことばから連想されるような「打ちこむ」というより、簡便な器具で、できるだけ深度を一定になるように押し込んだ。  matrix 〕、以て字母を取り、此字母を鋳型の底に填め、鉱類を鋳込み、以て其文字を得るなり。

方今〔現在は〕此字母を製するに往時の如く鋼鉄を以てせずして、普通木版の如く木に彫刻し、是を蝋を以て押形を取り、此蝋形に彼のガルファニの機活を以て鍍銅し、是を以て字母を製するなり。 其製法其他活字判に関係する件々を以て爰ココに示す。 其事件は洋書中より訳するものにあらず。 実地即ち製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり〔「蝋型電胎法による母型製作 本木活字の復元へ向けて」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(小塚昌彦、近代印刷活字文化保存会、p. 184-213)に詳しい〕。

      蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て、其欲する処の文字の大小に随て正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。
但し予の製する処のものは西洋の活字に倣い、其長七歩八厘あり。 此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は、其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして、左右上下勾配〔ヴェベル〕を施し、以て蝋形を取るに及んで能く蝋より抜出る様に彫刻するなり

      駒を組込む法
前の駒を第一に鉄のワク中に組込むなり。 其ワクは長外法一尺五歩、幅八寸五歩、鉄の厚五歩幅一寸あり。 駒を組込むには、駒の左右上下に込物を以て駒に間隙を施す。 左右の込物は厚二歩、上下の込物は厚一歩あり。 其幅は駒と等しく、其高は駒の高より一歩を減じ、駒を突出せしむ。
且駒の上下には込物の外に将棋頭の如きものを組込むなり。 其厚は四歩ありて頭の所に勾配を施し、頂の幅二歩あり。 其高は駒と等し。

此の如く込物を以て駒の間隙を施すは 鍍銅の後、文字を切断つに遊隙を得んが為なり。 其将棋頭の如きものを用ふるは、字母を其處に慎むるに及んで、能く沈着せしめ、以て抜出る事なからしめんが為なり。 如此して駒を組込むの後、鉄ワクの四方にクサビ打込み、以て駒の拔出ざる様に能く締付るなり。                                         

なお昌造自筆の稿本には 「蝋形を取る盆の製法」、「蝋形を取る法」、「蝋形に鍍銅する法」、「ガルファニバッテレイの法」 の各項目について記述されているとのことであるが、これ等は〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)には〕全く転載されていないので、ここに引抄する便宜を得ない。

しかし明治五年(西暦一八七二年)の二月に新塾活版製造所から刊行された、昌造自著の『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の中に 「 ガルファニ鍍金銀の法 」 と 「 銅を以て器物を摸する法 」 と題して ガルファニバッテレイによる電胎法について述べてある。
『 新塾餘談 』 は昌造みずから理化学に関する啓蒙的な記事を取集め、毎月一、二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備えるための、各冊十枚の紙数を以て限度とした、四六判の薄っぺらな小冊子である。

「 ガルファニバッテレイの機活によって原型から銅製の模型を得る」 電胎法は、活字の鋳造に志した昌造が、その母型を作るための手段として第一に知ろうとした秘法であった。 そしていろいろ手段をめぐらした結果、ガンブル〔 William Gamble  1830-86/中国表記:姜別利 jiāng bié lì  以下ギャンブルとする〕 の指導を受けてようやくこれに成功をしたのは周知のとおりである。

この昌造の過去の苦心を思う時、彼が自から執筆した 「 ガルファニバッテレイ 」 による電胎法の説明を読むことはまことに興味深いものがあるが、その 〔「 ガルファニ鍍金銀の法 」 『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の〕 原文を転載することはこれを省略する〔ヴィネット04『活字をつくる』片塩二朗、p. 156-159に全文紹介ならびに現代通行文による読みくだしがある。〕。

さて以上引抄した昌造執筆の活字関係の各種の文献を検討して見ると、まず 「 蝋形を取る文字の製法 」 と題する種字彫刻に関する記事の中に、「 予の製する處のものは西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり 」 と述べているが、この 「 七歩八厘 」 はすなわち曲尺の七分八厘であって、それは二三 ・ 三一七ミリに該当し、また〇 ・ 九一八インチにも当り、英米の活字の標準の高さに倣ったものであることがわかる。

その初めは専らオランダの活字によって活版術を知った昌造も、実際に電胎母型の作り方や活字鋳造の灸所を教えて貰ったのがアメリカ人のガンブルであったから、従って昌造が準據した活字の高さも、大陸型のオランダのそれによらず、ガンブルの指示に従って英米型の〇 ・ 九一八インチを採用したものと推定される。

また同じくその種字彫刻法の中に、「 凡二歩五厘角の文字は其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして 」 とあるが、「 二分五厘角 」 とあるのは、曲尺の二分五厘を意味して 「 二号活字 」 に当たり、また 「 五分角 」 というのは、同じく曲尺の五分角であって 「 初号活字 」 にあたる。
すなわちこれによって見ても、昌造が最初に鋳造に着手したのは二号活字と初号活字であったと考えてよかろう。 ところがその後次第に大小各種の活字を揃えてゆくに従って、各号開の差を曲尺カネジャク五厘に取ることは大き過ぎるので、改めて鯨尺クジラジャクの二厘五毛を以てこれに換え、各号の活字のボディーの角を次に示すような寸法に定めたのである。

初号活字    鯨尺 四 分 角 ( 曲尺五分 )
一号活字    鯨尺 二分五厘角
二号活字    鯨尺 二 分 角   ( 曲尺二分五厘角 )
三号活字    鯨尺 一分五厘角
四号活字    鯨尺 一分二厘五毛角
五号活字    鯨尺 一 分 角
─────────
( 六号活字   鯨尺 七厘五毛角 )
( 七号活字   鯨尺 五 厘 角 )

三号から七号まではいずれも鯨尺二厘五毛の差、一号から三号までは鯨尺二厘五毛の二倍、すなわち五厘の差、初号と一号の差は鯨尺二厘五毛の六倍(五厘の三倍)、すなわち一分五厘である。

号数活字中の基準活字ともいうべき五号活字は、ガンブルが上海の美華書館館長時代に苦心して創案した小型活字に凖據したものである。 元来ガンブルの工夫完成した小型漢字の活字は、欧文活字のスモール ・ パイカと組合せるのに都合がよいように作られたもので、ヘボンの 『 和英語林集成 』 〔 James Curtis Hepburn、1815-1911 は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。 医師。 わが国初の大型和英辞典 『 和英語林集成 』 は上海美華書館で活字組版 ・ 印刷され1867年 ( 慶応03 ) 完成 〕 に使われたことはすでに述べたとおりであるが、有名な支那学の大家 アレキサンダー ・ ワイリーの如きは、それまでに鋳造されたいずれの漢字活字にもまして、欧文の活字と併用するのに最も便利なものであることを、彼自身の著書の序文の中で推奨している。

ところがスモールー ・ パイカはアメリカン ・ ポイントの十一ポイントに相当し、その大きさは三 ・ 八六五四ミリであって、ほとんど鯨尺の一分に該当するところから、恐らく昌造はガンブルの小型漢字の活字に範を採った五号活字のボディーの寸法を鯨尺一分角と定めたものと推定される。
〔 このパラグラフはおおいに議論の余地がある。 当初の赴任地 寧波 ニンポウ から移動したのち、上海時代に William Gamble が Small pica  としたものは、のちにアメリカン ・ ポイントとして1886年(明治19)に制定された 10.5 ポイントと同様のサイズであり、11 ポイントではなかった。 ご希望の向きには実際のパイカ ・ ポイントスケール提供したいが、計測してみるとギャンブル時代の上海美華書館の  Small pica とは10.5 ポイントであり、これがわが国では五号活字とされたものである。 ここではしばらく宿題とさせていただきたい 〕。

また昌造が活字の書体に明朝を採用したことについては、種字の版下に 『 康煕字典 』 を用いたことによると伝えられているが、上海の美華書館、あるいは香港の英華書院の如き英米伝道団経営の印刷所では、つとに明朝体の漢字活字を鋳造しており、特にガンブルと昌造との関係を考える時、明朝体の採用はむしろ美華書館製の漢字活字に倣って、これを行ったものと見るのが至当であろう。

更にまた新塾活版製造所で鋳造した平仮名の活字は、昌造の友人で彼の和歌の師であった池原香穉カワカの筆に成る版下を以て種字を彫った由であるが、これは変体の平仮名で、現在使用されている活字とは全く別種の観を呈して、明朝体との調和を欠いている。

しかしとにかく、昌造が邦文活字に一つのシステムを作り、倍数関係を定めたことは、恐らくガンブルの示唆に負うところであり、欧文活字のそれをまねて試みたものには相違ないが、これによってわが邦の洋式の活版術が、実際に工業的に利用される第一歩を踏み出したことを思えば、彼を日本のグーテンベルグなりと称しても敢えて不当ではあるまい。

また本木時代の活字の鋳造は、最初の頃は小銃の散弾を鋳るのと同じ調子で、手持ちの鋳型に母型をはめこみ、鍋の中に熔かした活字地金を杓子で汲み出してその上から注ぎこんで鋳造していたが、そのうちに手押ポンプで地金を注ぎこむようになり、二号活字ならば一日に千本くらい鋳造できるようになった。
このポンプ〔式活字鋳造機の〕時代に、東京で和田國雄という人が手持鋳型にポンプ鋳込みで一日に五千本を鋳造して最高レコードを作ったが、今もなお使われている手廻しのカスチングは本木昌造が明治四年(西暦一八七一年)に英国から取寄せたのが最初であろうと 〔 東京築地活版製造所第四代社長の 〕 野村宗十郎は語っている〔ここで触れられているポンプ式活字鋳造機、手回し式活字鋳造機、カスチング、などは、近近動画をふくめて紹介したい〕。

四 長崎活字の東京進出

五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版

明治四年(西暦一八七一年)の十一月二十二日、赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張邸趾に開かれた、工部省勧工寮の「活字局」は、前に述べて置いたとおり、長崎製鉄所附属の活版伝習所においてガンブルの指導を受けた人たちの一部がその中心を成していたのであるから、やはり本木系の一分派と見倣されるべきである。
そして平野富二が長崎製の活字を携えて東京に上り、活字の鋳造販売を企てるまで、この「活字局」は東京における唯一の活字の供給源であった。

工部省勧工寮の「活字局」の諸設備は、長崎製鉄所にあった「活字一課の諸器械」なるものをそのまま移管したものであるが、活字局備付けの諸設備として次のようなものが挙げられている。

一、 二号字母            凡五千個
一、 三号字母            凡六千個
一、 四号字母            凡三千個
一、 五号字母            凡五千個
一、 七号字母            凡三百個
一、 西洋字母            凡三百個
一、 ハンド・マシーネ・ポンプ     壱 丁
一、 メタル釜                壱 ツ
ー、 カスチング・マシーネ       壱 丁
一、 鋳  型               拾 丁
一、 銅判〔版?〕裹削鉋共       壱 組
一、  活字尻切道具           壱 揃
一、 紙 〆                壱 挺
一、 ハンド・マシーネ          壱 丁
一、 ガルハ用型蝋型〆        壱 ツ
一、 ロール・マシーネ          弐 丁
一、   スペーシ鋳型           弐 挺

勧工寮の活字局は太政官の印書局、あるいは大学南校の活字掛、各府県の布告、布達類の印刷工場などに活字を供給することをその主要の仕事としたのであったが、民間の印刷工場にもその製品の一部を払下げたことはさきに述べたとおりである。
「東京日日新聞」の如き〔は〕、明治五年(西暦一八七二年)の二月二十一日の創刊で、創刊後しばらくして鉛活字を使用し始めたのは勧工寮の製品を買入れてからのことであった。

当時その社は浅草の蔵前にあり、そこから赤坂溜池の勧工寮まで活字を買いに行くのは相当手数が掛ったようである。しかもその活字は組合せるとガタガタして使用に骨が折れたので、これを全部長野県の布告を印刷する御用達の商人に譲り渡し、その後は専ら築地の平野活版所から活字を購入して組版にあてたとのことであるから、その当時の勧工寮活字局製の活字は、鋳造の技術にどこか不完全なところがあり、長崎新塾活版製造所の直系である平野活版所の製品の方に、一日の長があったのであろう〔以下略〕。

朗文堂好日録-045 卯月 四月がおわり、新緑と薫風の 皐月 五月のはじまり。

《 卯月 四月のスタートは04月07日、新宿私塾から 》

私塾26期スタート

新宿私塾第26期入塾

新宿私塾鈴木1504uu

《 新宿私塾第26期、櫻花爛漫の春、意欲満満でスタートしました 》
隣接する新宿御苑の、櫻、ミモザ、山吹などがあでやかに花をつけた04月07日、新宿私塾 第26期が開塾いたしました。

これから半年間、ほぼ夏休みもなく新宿私塾は開講され、爽秋の09月15日に終了します。
講師、塾生の先輩ともども、全力であたらしいタイポグラフィの前衛を育成するために努力しますし、25回の講座は、いずれも内容の濃いものとなっています。
半年後、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を、再度紹介できたら幸せです。

DSCN8614DSCN8609DSCN8619新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしています。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともないます。
この半年のあいだ、塾生の皆さんがおおきな収穫が得られるように、講師陣はもとより、200名を優にをこえた 「新宿私塾修了生」 の皆さんも、精一杯の努力と応援をいたします。

──────────
《お客さまご訪問 中華書局:李 晨光氏、商務印書館(香港):毛 永波氏 》

DSCN8622《 2015年04月03日〔金〕、おふたりの中国の印刷 ・ 出版人がご来社に 》
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のホームページをプリントされ、それを提示されながらの、ほとんどノーアポでのご訪問でした。
日本で<活版ルネサンス>の動向が顕著なことと、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のうわさわ聞きつけてのご訪問でした。
◎ 写真左) 李 晨光 さん ( 中華書局  デジタル出版センター主任 )
◎ 写真右) 毛 永波 さん ( 商務印書館〔香港〕有限公司 取締役 ・ 副編集長 )
おふたりは <第18回 東アジア出版人会議 > のパネラーとして来日され、その寸暇をぬすんでのご訪問でした。


《 デジタルプリントの話題はほどほどに、中華書局 : 聚珍倣宋版、商務印書館 : 倣宋体活字で話題がおおいに盛りあがる 》
中華書局には 「 聚珍倣宋版 」 があり、商務印書局には 「 倣宋体活字 」 という、すぐれた本文用活字書体がある。
このふたつの活字書体はわが国にも昭和前期にもたらされ、中華書局系は名古屋 ・ 津田三省堂らによって 「 宋朝体 」 の商品名で発売された。 商務印書館系は大阪 ・ 森川龍文堂によってもたらされ、「 龍宋 」 の商品名で発売されていた。

この宋王朝刊本字様に淵源を発する活字書体を、故 ・ 毛沢東首席が好んだ ことは紹介した。 また現代中国では、宋体 ( わが国の明朝体 ) にかえて、倣宋体 ( わが国のいわゆる宋朝体 ) が再評価されている。 たまたま小社でも 「 宋朝体研究 」 が進行中で、その資料をみたおふたりとも、おおいに驚き、喜んでいただいた。
どうやら職掌上デジタルメディアにたずさわっていても、やはり印刷 ・ 出版人の < 活字好き > は日中ともに変わらないようであった。

──────────
《[活版カレッジ] 2015年 春期昼間部講座 04月08日開講 》 

活版カレッジ<活版カレッジ 2015年春期講座>が04月08日[木]から開講しました。
今回は女性が三名、男性が一名での開講となりました。これから三ヶ月にわたり、集中して活版印刷の集中講座が続きます。
<活版カレッジ>は、科学と、学術的根拠にもとづいた実技と実践を基盤とし、小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A によるケーススタディ ・ メソッドをふんだんに駆使し、あたらしい時代の活版印刷の現場での、現実的な課題の解決方法を学ぶことを目的とします。

<活版カレッジ>は、基本的に春夏秋冬と年に四回開催されますが、ここ数回にわたって事前のご予約者が多く、ほとんど一般公募ができない状態がつづいています。 すでに夏期講座、秋期講座にも相当数のご予約をいただいております。 ともかく受講のご意思のあるかたは、まずご一報をいただくことをお願いいたします。

DSCN8633uu3640uu< 活版カレッジ 2015年春期講座 >
01月01日播種した<野沢菜>が開塾を待ちかねたように、花をつけての祝福でした。

──────────
《 四月◯日、◯日、◯◯日、◯◯日 Salama-21A 操作指導教室 が盛んに開催されています 》

Salama-21A 操作指導教室<Salama-21A 操作指導教室> は、Salama-21A を購入予定のお客様のための操作指導教室です。
ご購入いただいた( ご購入予定の ) Salama-21A を、お客様ご自身で快適にご使用していただくために必要な操作方法の基礎を、短時間で集中的に習得していただくことを目的としています。そのため、各回最大 4 名様に限定、完全予約制の教室です。

アダナ・プレス倶楽部では、活版印刷機器のご購入の前に十分おはなしをさせていただき、またできるだけお客さまのご都合にスケジュールをあわせての受講をおすすめしております。 もちろん受講に際して印刷機などの購入は義務づけられていません。
詳細は <アダナ ・ プレス倶楽部 教室のご案内 Salama-21A 操作指導教室 >をご覧ください。

新年度というせいもあったのでしょうか、弥生四月は  <活版カレッジ> と <Salama-21A 操作指導教室>  が週三回を上まわるペースで開催されていました。
アダナ ・ プレス倶楽部では遠近を問わず、これから活版印刷をはじめられる皆さまに、できるだけ <Salama-21A 操作指導教室> の受講をおすすめしています。
…… としるしましたが、皐月五月連休があけの週は、すでに月-金にわたって <Salama-21A 操作指導教室> のスケジュールがいっぱいにはいってうれしい悲鳴です。
上掲の写真は長野県からご参加されたお客さまです。
──────────
《 04月14日[水] ちいさな勉強会-第二回開催 》
かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。

活版歳時記 ────
三椏 ミツマタ の花  四月初旬   撮影者 : 古谷昌二さんのコメント

三椏の撮影地は、秦野からバスで大山山麓の蓑毛に行き、そこからヤビツ峠に通じる山道の途中に群生していました。 富士山の写真は、ヤビツ峠から少し登った岳ノ台 ( 標高およそ900 m ) からのズームアップしたものです。 いずれも秦野市に属している地区です

三椏や  やまさと ふかく  かをりける

― よみし ひとを しらず ―

234uu 235uu 233uu 246uuみつまた ( 三椏 ・ 三叉 ) は中国原産のジンチョウゲ科の落葉低木で、わが国でも暖地に栽培されています。 その枝がかならず三つにわかれることからその名がうまれました。 樹皮の靱皮をとって手漉き紙の材料とします。
櫻にさきだって、黄色の筒型小花をつけ、つよいかおりを発するので 「 結香 ムスビキ」 の和名もあります。 中国ではその色合いとかおりをめでて 「 黄瑞香 」 とされます。
──────────
《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 皐月が紅白の花をいっぱいにつけて春本番を祝うとき 》
五月は 「 皐月 」 とされ、さつき、つづじが百花繚乱の花をつけるときである。
五月はまた、新緑の季節とも、薫風のときともされる。 なかでもからりと晴れた日を 「 さつき晴れ 」 と呼んで、すがすがしく、ここちよい日本の春の日日がつづく。

なでしこ01 なでしこ02空中庭園 ( ベランダ鉢植え ) なでしこの寄せ植え。  昨年の晩秋に近くの花屋で160円で購入。 黒ポットに入れたままにしていたが、花の少ない冬のあいだもつぎつぎと花をつけてたのしませてくれた。
櫻が散ったころにはさすがに花も枝もかれていたが、すべてをチョキチョキと散切り頭にして化成肥料をあたえたら、また新芽がでて花をたくさんつけた。  ノー学部はなでしこは好みではないようで、ほとんど面倒をみなかったが、さすがにその生命力にはおどろいたようだ。

とろろあおい播種 トロロアオイの花。四月下旬、とろろあおいの種を播く。 容器はとりあえず卵のパックトレイにした。 まだ双葉だが、五月下旬におおきめの鉢に定植すれば、晩夏に薄黄色の大輪の花をたくさんつけるはずだ。 花は2013年10月のもの。

五月二日[ 土 ] は <八十八夜> であった。  この日は立春 ( 二十四節気のひとつ。 太陽の黄経が 315 度のとき。 ことしは02月04日12時58分 ) から八十八日にあたる。
平均気温がたかめの昨今ではあまり実感がないが、古来 「 八十八夜の別れ霜 」 とされ、この日からのちは、霜害の心配がなくなり、「 茶摘みどき 」 とされている。 

<八十八夜>のころの新芽を摘んだお茶は 「 新茶 」 とされて珍重される。 商店街の茶店の店頭には、緑色の地に白抜きされた 「 新茶 」 の のぼり が薫風にゆれるときとなる。
四季の変化にめぐまれたわが国の、まさに春たけなわのときである。

──────────
《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 憲法記念日でもあるが 》

検索大手の某社は、このところさまざまな記念日に、特別製のデザインをこらしたタイトルをトップページにおき、それを祝ってきた。
ところで黄金週間 ( 和製語  Golden week ) とされるいま、昨日の <八十八夜> にも格別の設定はみられなかったし、本日五月三日の<憲法記念日>にも、また、きょうとあすには九州で<博多どんたく>が開催されているが、それでもトップページには通常のカログラムが措かれるだけだった。

あす五月四日は <みどりの日>( 1989年 平成元年に制定された。 自然に親しみ、その恩恵に感謝し、ゆたかなこころをはぐくむ日とされる ) であり、あさって五月五日は鯉のぼりが躍る端午の節句 <こどもの日> である。
すなわちこれから三日間にわたって、日本国民の祝日がつづくわけであるが、はてさて、検索大手の某社はどうするのであろう。 ちょっと楽しみではある。
──────────
五月六日[ 水 ・ 憲法記念日の振り替え休日] 追 記 =========
黄金週間 ( 和製語  Golden week ) もきょうで終わる。
長期休暇のすくないわが国ゆえ、できたら昨秋にいって収穫の多かった、チェコのプラハにいきたかった。 ところが円安がすすんで、昨年とおなじコースでも十数万円余計にかかることがわかって断念した。

【 リンク : 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より
DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

自国の通貨の価値をさげる、ないしはさがる ( 円安 ) とはそういいうことである。 ほんの一部の輸出指向型の企業が利潤をあげたとしても、ひろく国民の意欲は沈滞したままである。
その分海外居住のながい友人たちが、ドルやユーロをふところに、ひさしぶりに帰国してたずねてきたりしていた。 パリに居住してもう35年ほどにもなろうかという友人は、
「 久しぶりに紀伊国屋に寄ったけど、日本の図書はみんなえらく安っぽくなっているなぁ 」
と、なかばあきれたようにかたっていた。 悔しくもあり、なさけなくもあった。
また、町にはさまざまな国の観光客があふれている。 それだけでなく、一部の外国人の <爆買い> なども話題になる昨今である。
なにか複雑なおもいがしないでもない。

ところで先日しるした某検索大手のタイトルであるが、04月29日[水 ・ 昭和の日] からはじまった黄金週間 ( 和製語  Golden week ) に際して、なかなか含蓄のある対応をしていた。
  ◯ 04月29日[ 水 ・ 日本の祝日/昭和の日 ]    通常カログラム
  ◯ 05月03日[ 日 ・  日本の祝日/憲法記念日]    通常カログラム
  ◯ 05月04日[ 月 ・  日本の祝日/みどりの日 ]    バルトロメオ ・ クリストフォリ生誕360周年 特製カログラム
  ◯ 05月05日[ 火 ・  日本の祝日/こどもの日 ]     こどもの日 特製カログラム
◯ 05月06日[ 水 ・ 振替休日]                                通常カログラム

この間、某検索会社のトップページのカログラムをあらためてよくみたら、「 g 」 のディセンダーの右横に、ちいさく  日本  とあった。
いかに地球がちいさくなり、
国際化時代といえども、前述の円安問題とあわせて、考えさせられるできごとではあった。
──────────
【友人 森郁男氏紹介】『瞽女 キクイとハル』(川野楠己著、鉱脈社刊) にあたっての礼状 》
長年の友人 : 森郁男さんは、詩人にして造形家であり、とてもこころのやさしいかたです。
このたび毎年恒例の、薩摩琵琶、正派 正紘会の『 琵琶演奏大会 』 のご案内とともに、
『 瞽女 キクイとハル 』 ( 川野楠己、鉱脈社 ) のご案内をいただきました。

ちなみに<瞽女 ごぜ>とは、「 盲御前 ( めくらごぜん )」 という敬称に由来する 女性の盲人芸能者のことです。( ウィキペディア : 瞽  女
近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に、北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人でした。

瞽女 キクイとハル

川 野  楠 己 著
四六判 並製 325ページ 定価 : 2,000円+税

<発行元 ・ 問い合わせ>
鉱  脈  社
880-8551  宮崎市田代町263番地
TEL. 0985-25-1758  FAX. 0985-25-7286
──────────
こんな簡単な紹介を<朗文堂ニュース 4月28日>に掲載した。 すぐに森郁男氏からの達筆の礼状がはがきで届いた。 ここに紹介することには若干のためらいもあったが、はがきでもあるので紹介したい。
森郁男氏はがきこの紹介にあたって、当然たくさんの情報があるとおもって <詩人 ・ 造形家 森 郁男> でネット検索してみたが、やつがれのスキルでは情報に到達できなかった。  森さんはやつがれとはほぼ同世代だが、このような達筆なかたでもあり、また筆まめなかたでもあった。
お便りはいつも封書かはがきでいただき、@メールはなかったようにおもう。 おそらく森さんはデジタルメディアはあまり利用されず、それだけに検索などでは情報に到達しにくいのかもしれないとおもわれた。

やつがれは極めつきの悪筆で、その劣等感から、打圧式の英文タイプライター、打圧式和文タイプライターをはやくからもちいていた。 また専用ワープロが登場するとすぐに飛びついた。 したがって専用ワープロでは、「富士通 オアシス」、「シャープ 書院」、「NEC  文豪」などに次次とのりかえてきた。

その分パーソナル ・ コンピューターへの切り替えがおくれ、その後遺症 ( 俗称 IT 弱者 ) は無視できない状況にある。  つまりパソコンをもちいても、ほとんどが専用ワープロ時代のソフトウェアと大差の無いものをもちいている。
それよりなにより、最後の専用ワープロ ( 初期のものよりずいぶん小型になったとはいえ、その名もすごい ) 「 NEC 文豪 」 と、3.5 in ,  5 in ,  8 in などのフロッピーディスクが、机の引き出しを占拠したままである。
スタッフにはだいぶ以前に、もうディスク ・ ドライバーが無くなりましたから……、と宣告されているのだが、フロッピーディスクには貴重なテキストが保存されているわけだし、いまなおグズグズと廃棄に踏みきれずにいる。

それにしても、森郁男さんのことをどこかで皆さんにご紹介したいものである。

──────────

《 04月06日 情報誌 MORGEN が 鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 書評を掲載 》
20150503151710579_0001 20150503151710579_0002
株式会社遊行社 モルゲン編集部発行の <MORGAN  2015年04月06日号> ( 毎月一回発行。 「 モルゲン 」 はドイツ語で 〔 明日 〕 の意。 全国の中学校 ・ 高等学校の 「 朝の読書 」 実施校を中心に、全国中学校 ・ 高等学校などの教育施設に配布 ) において、明治学院学院長 木暮修也先生の筆によって、<あなた方の武器を失ってはいけない> と題して、鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 の書評を掲載していただいた。 木暮修也先生ならびに遊行社の皆さまに深甚なる感謝を申しあげたい。

皆さまのご支援をたまわり、『 わたくしは日本国憲法です。』 は順調な出荷がつづいている。 しかしながらわが国の憲法の周辺に暗雲が垂れこめているのもまた、昨今の憂うべき状況である。
ここに <殺さないで! 生かそう日本国憲法 『 わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい> の記録の一部を再掲載するとともに、同会の掉尾をかざって、声高らかに朗読された<日本国憲法 前文>を紹介したい。

◎ 主   催 : 殺さないで!生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい 事務局
◎ 日   時 : 2014年09月06日[土] 午後01時-03時
◎ 場   所 : グリーンパレス 5 階 孔雀の間
〒132-0031  東京都江戸川区松島1丁目38-1
【 関連情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』  出版記念の集い 終了のご報告

9784947613905顔写真鈴木篤氏01 04

日 本 国 憲 法

施行、 昭和二二年五月三日

日 本 国 憲 法
前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
──────────
《 薩摩の国 鹿児島名物 かからん団子でごあんど! 》

< 花筏  朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 2015年03月23日 > で、ふつう 「 桜餅 」 と呼ばれている和菓子には、「 長命寺桜餅 」、「 道明寺桜餅 」 とされる二種類あり、その分布が東西に別れたりすることはなく、アメーバー状に双方の 「 桜餅 」 がひろがっていることを報告した。 これが意外に好評だったので( つい調子にのって )、今回も餅菓子を紹介したい。
桜餅

例年五月の初旬、端午の節句に際して、鹿児島の知人から送っていただくのが 「 かからん団子 」 である。 形状は 「 かしわ餅 」 と似ているが、ヨモギなどが刻みこまれており、甘さはほんのりとしたもので、むしろ風味と香りがたのしめて、「 かしわ餅 」 にまさる気がしている。
甘党のやつがれはこれが大好物で、一度に10個は食したいところだが、いつもノー学部にとりあげられ、わずかに三個ほどをちびちびと食す。 葉は食すにはチトかたい。

DSCN8688 DSCN8689

かからん団子

若葉が芽ばえる皐月五月にあって、関東の 「 かしわ餅 」 と同様に、「 かからん団子 」 も、五月五日、端午の節句を中心に食される和菓子である。
カシワの葉は、新芽が育つまでふるい葉 ( 枯れ葉 ) が落ちず、新芽が成長して枯れ葉をふりおとすことから、「 子孫繁栄-家系が途切れない 」 という縁起をかついだものとされる。

端午の節句そのものは中国から渡来した風習であるが、中国ではその日にあたって 「 粽 ちまき 」 を食すことが多い。 したがって端午の節句に際して 「 かしわ餅 」 を食べるという風習は、18世紀ころの江戸で育まれたものとされている。 それが参勤交代で全国につたわり、地域ごとにすこしずつ変化して発展したものらしい。

そもそも樹木としての 「 かしわ」 は、中部地方以西にはあまり自生しないそうである。 したがって近畿圏以西ではもっぱらサルトリイバラの葉を代用して作られるようになったとされる。
薩摩の国、鹿児島の 「 かからん団子 」 も同様で、サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライの葉をもちいている。

「 かからん団子 」 は、ヨモギなどを練りこんだ餅を、黒餡などで包んだもので、「 かしわ餅 」 というより、むしろ草餅にちかく、戦前の鹿児島の農村部では 「 ふっきぃい餅 」 と共に一部で手作りされていたという。
つまり鹿児島では 「 かから ( ん ) 」と呼ぶ葉 ( サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライ。 かしわの葉ではない ) で草餅を包んだものである。 以前は庶民の菓子で、地元の和菓子店が地元客向けに作るケースが大半であったが、こんにちでは 「 かからん団子本舗 」 などが誕生して、薩摩土産としても販売展開しているという。
【 ウィキペディア : かからん団子  柏 餅  端 午

──────────
《皐月五月で春本番。ベランダの艸花に蝶や蜂がやってくる朝が続く 》

< サイスケ > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていた、まるで地苔類かとおもわれるほどのちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところはまだ静かにしておこう。
【 ウィキペディア : 五代友厚

サイスケの写真は、上から二葉が採種現場(2014年11月上旬)。
以下ベランダの鉢植えで、2015年03月末、04月末である。
冬を越した直後はデージーかとおもったが、どうやら世間一般では雑草の代表のように、忌み嫌われている、名を知らぬ野草のようである。 やつがれは雑草という名の艸はないと常常いっている。 むしろいかにも五代友厚の旧家に育つ艸らしくて面白いとおもう。 どんな花が咲くのか、しっかり見まもりたい。

DSCN8651 DSCN8664DSCN8561DSCN8652オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
ツルコザクラは一年草のようで、春先には勢いをうしなっているが、オレンジ ・ フユシラズはツルコザクラを押しのけ、文字通り冬知らずで咲きつづけ、花柄つみを丹念にていたので、いまもって次次と花をつけている。 いつまで咲きつづけるかみていたい。冬知らずだけではないようだ。
   DSCN8558オレンジ・フユシラズ鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )。鹿児島市内の種苗店で気まぐれに購入した。
寒風に耐えて冬を越したが、最近は植木鉢から大脱走をこころみていて困惑している。

DSCN8563DSCN8650 DSCN8644ムルチコーレ
DSCN8572本場由来の野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり…… 。 かく嘆いたのは弥生三月の終わりであった。
卯月四月の終わりには、これでは菜の花も顔色なかろうというまでのみごとな花を連日つけている。 小型のアゲハチョウと蜂がもっともお気に入りなのが、この野沢菜の花である。

蝶や蜂といっしょに花を楽しんだあと、種子を採種してご希望のかたにおわけするつもりである。 
DSCN8568DSCN8648野沢菜の花と種子──────────
《 五月五日、こどもの日。  おもいたって足利学校にいったはずが…… 》
ことしの五月の連休は、かくのごとく、どこに行くのではなく、なんとなく出社していた。
おもいたって、栃木県足利市のふるい教育施設<足利学校>にでかけた。 かつて足利のちかく、小山市に商用でしばしば出かけることがあり、その帰途に<足利学校>に寄ったが、なにかの都合で閉鎖されていた。
20150506173357288_0002 20150506173357288_0001 足利学校のちかくで DSCN8752浅草から東武線の特急でさほどの時間ではなく東武足利市駅につく。<足利学校>は徒歩圏内にあった。
旅の同行者、ノー学部の挙動が不審だった。 車中一枚のフライヤーをとりだし、せっかくだから、しかも近いから、<あしかがフラワーパーク>にいきたいという。
大混雑だった。ひとに中毒するやつがれ、疲労困憊。 されどおもしろくはあった。
報告はいずれまた …… 。
20150506173746921_0001あしかがフラワーパーク 栃木県足利市の大藤 夜八時春のおぼろ月が。足利市駅。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム

昨秋逝去した松本八郎は、朗文堂に公刊書 『 エディトリアルデザイン事始 』 ( A5判 224ページ 1989年09月08日)をのこした。
その第三章に 「 活字の大きさとシステム 」 (p.39-53 ) があった。
この章の初出はふるくて、多川精一氏らによるジャーナル 『 E + D + P 』 (1980年09月第05号、同1981年06月第07号) に連載したものを 加筆修整して、 『 エディトリアルデザイン事始 』 に紹介された。

松本八郎_顔松 本  八 郎 (1942-2014 ) 遺 影
(  大枝 隆司郎氏 提供  )

ジャーナル 『 E + D + P 』 のころから、松本八郎とはこの 「 活字の大きさとシステム 」 では議論をかさねた。 ときには第三者もまじえて激論になったこともあった。
そしていま、 松本八郎 『 エディトリアルデザイン事始 』 第三章 「 活字の大きさとシステム 」を再度紹介して、 わが国の号数制の金属活字が、鯨尺クジラジャクや曲尺カネジャクを基本尺度とした、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 を再検証してみたい。
9784947613219エディトリアルデザイン事始 』 の刊行はもう四半世紀も前になる。 さほど売れた図書ではない。 だからいまでも30冊ほどの在庫があるほどのものだ。
しかし一九六〇-七〇年代うまれのグラフィックデザイナーのおおくは、本書でエディトリアルデザインを知り、その初歩をまなんだはずである。 図書とはもともとそんな存在である。

松本八郎とは、これも黄泉のひととなった 加藤 美方 ( かとう-よしかた 1921-2000 ) の紹介で知りあった 【 花筏 タイポグラファ群像*001 加藤美方氏 】。
どこで勘違いをしたのか知らないが、筆者は松本と同年うまれだとしばらくはおもいこんでいた。
したがっていまとなれば汗顔のきわみであるが、本人を眼前にしても気軽に 「 ハッちゃん 」 などと呼んでいた。 どこかで勘違いに気づいてお詫びしたが、松本は嫌がるふうもなく、おもしろいつきあいをかさねた。

ともあれ松本八郎は先に逝ってしまったが、遺著にのこされた 「 活字の大きさとシステム 」 をさきがけとして、いくつかの論考や資料を紹介したい。 そこでの論点は <「  活字の大きさとシステム  」 + 活字鋳造機器 > となる。
さいわい、古谷昌二 『 平野富二伝-考察と補遺 』 (朗文堂 2013年11月12日) の刊行をきっかけとして、自発的に参集した有志が、この <「 活字の大きさとシステム 」+活字鋳造機器> をテーマとして、さまざまな資料をもとに研鑽をつづけている。 その研究の進捗と、諸賢の検証をまちながら、本論をすすめていきたい。

わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、本木昌造の稿本、仮称 『 本木昌造活字版の記事 』 にその淵源をみるものである。
爾来、この稿本 ( 手書きの原稿本 ) は地元の長崎に埋もれていたが、大阪の印刷業界誌に、「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日) として、その一部 ( 前文とあわせて全六章のうちの三章 ) がちいさく不鮮明ながらも 影印資料とともに、活字となって紹介された。

阿津坂実氏阿津坂 実氏 (『 ヴィネット〇四 活字をつくる 』 より )
( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)
──────────
本項掲載後に長崎印刷界の重鎮/阿津坂実氏が天寿をまっとうされ逝去されました。
ご冥福を祈るとともに、ここにご報告いたします。
阿津坂 実 1915年09月12日-2015年05月07日 行年99 
20150423164159195_0002

「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 のなかには、「 本木昌造翁はその活字に関する著述を公にした。 その書名は逸してわからない 」 としているが、それから百年余の歳月をへても、こうした 「 本木昌造の活字に関する公刊書 」 の発見の報告はみない。
またこのオリジナル資料は、どういうわけか長崎から、東京築地活版製造所の手にわたったとされ、
「 それは関東大震災のとき〔1923年09月01日〕に全部烏有に帰した 」 ――  『 活版印刷史 』 ( 川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日。 初版は紙やけがひどいので、再版書によった  p.94 ) とされてきた。

ところが、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』が焼失することなく、長崎市立博物館の<本木家文書>のひとつとして、畳紙タトウに 『 本木昌造活字版の記事 』の仮題を付された状態で収容されているとの報告が、阿津坂実氏 ( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)によってなされた。

20150423164159195_0002 20150423164159195_0001その報告をうけて、板倉雅宣氏 ( 元東京書籍。 タイポグラフィ学会 ・ 印刷学会会員。 1932-) ならびに筆者が長崎にかけつけて、二〇〇〇年に 「 長崎市立博物館 ( 現在は長崎歴史博物館が所蔵。目下のところ非公開 )」 に、 「 本木家文書 」 として現存していることを報告した。
また、その存在の事実と、巻首ページだけを原寸で、縮小したものの比率を表示して、全ページの影印図版紹介、その平易な読みくだしを 「 本木昌造の活字づくり 」 『 ヴィネット 〇四 』 ( 片塩二朗、朗文堂、二〇〇二年六月六日) に紹介した。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィあのねのね*005  長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

なにしろ一四〇年余にわたり、本木昌造活字版印刷術創始のことはかたられつづけてきた。そして、わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、オリジナル資料が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 からの、さらにその一部だけの引用、引抄がかさねられてきた。

これから、<わが國における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という「神話」の解明にむけて考察を開始する。
まずは、松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの一八八六年(明治一九)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
の諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。
筆者は精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 江湖のご支援を期待するゆえんである。

──────────

〔松本八郎〕 エディトリアルデザイン事始
                                活字の大きさとシステム

20150421193950685_0002
なぜ 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか
私はときおり、つまらないことに疑問を持つくせがある。 それでいて実用的で実際的なことがらには何ひとつ疑問を感じないまま やり過ごしてしまって、間のぬけたことをして失敗する。
でも、時にはこのつまらないことで勉強をさせられることもあって、けっこう 「 頭の体操 」 くらいにはなっている。

もはや今日 〔一九八九年〕 となればどうでもいいことなのだが、「 活字 」 のことでどうしても理解できないことがある。
号数活字の大きさのとりきめについてである。
以前はよく講師に行った〔武蔵野美術大学などの〕学校などで、活字について教えなければ先に進まないことがあった。 本木昌造の名を出し、ついでに号数活字を中国より導人したことに掛れ、黒板に、

                           一号活字 ―― 四号活字
  初 号活字 ―― 二号活字 ―― 五号活字 ―― 七号活字
                三号活字 ―― 六号活字 ―― 八号活字

と、わかったような顔をして書き記す。
学生たちは必死でノー卜をとる。「 質問はありませんか?」。 無言である。 ホッと安堵する。
なぜ四号の下でなく 五号の下〔うしろ〕に七号があるのか? なぜ四号の下〔うしろ〕は空いているのか? だれも聞いてこない。 そのあと、

「 五号は鯨尺 クジラジャク の一分にあたり、これが基本となって大きさが決められ、五号の倍数が二号で、そのまた倍数が初号です」
などといっているうちに、なぜかみな 納得したような顔になる。 内心はいつ質問が飛びだすかと、ドキドキしながらおちつかない。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』  p.40 挿図

「 もっともこのごろでは、普通の印刷所 〔 大手の印刷所 〕 は みなポイント活字に切りかわっていて、号数活字などは町の小さな名刺屋さんぐらいでしかお目にかかりません。 ですから活版印刷の歴史の一端として、この表ぐらいは覚えておいてください」
と、なおも追い討ちをかけると、全員まったく素直にうなずいてくれる。
十数年間の教師稼業をしていた後半、こうしたテクニックばかりが冴えわたり、どうにも行きづまってしまった。

学生時代、印刷関係の入門書を何冊も丹念に買い求めた記憶がある。 するとかならずこの号数活字の表がついている。 それなのに、どの本も この四号下 〔 うしろ 〕 の空欄については触れていない。 買い求めた本の数だけ苛立ちが増したことを覚えている。

つい最近出された 〔 タイポグラフィ関連の 〕 本にも、「 三号、四号、五号、六号、七号の大きさの間隔は それぞれ二厘五毛 」 とは書かれているものの、やはり四号下 〔 うしろ 〕 の空きの疑問には答えてくれず、「 三号、二号、一号の間隔はそれぞれ五厘、一号と初号のそれは一分五厘である 」 と終わっていて、なぜそういう間隔をもって 〔 活字が 〕 作られたのか、ということに触れていない。

こういう教科書的なものですら、「 なぜそうなのか 」 ということが往々にして書かれていない。 その成り立ちを解き明かしてこそ、本を新しく出すことの意味があるのではないか?
日本の活字印刷の始まりから百年以上もたっていながら、なお一律にこのていどの記述である。

一、号数活字の基準
一九三三年(昭和八)に出された 『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 ( 三谷幸吉編 ) という本がある。 その中に 「 我国最初の日刊新聞社を創立す 」 という項目があり、そこに 「 編者曰、註 」 として、活字の大きさの決定について記された一文が載っている。
『 活版印刷史 』 〔 川田久長、印刷学会出版部、昭和二四年 〕 にもいま少し詳しく、本木昌造の活字規格について記されている。 いずれも本木昌造が自ら著した活字製法によっているが、号数活字の成立を解き明かすには欠かすことのできない記録である。

三谷幸吉氏などは、その 〔 紹介に 〕 あたり得意絶頂のおもむきで、次のような付記まである。
「 されば本木昌造先生が 活字の高さは 西洋(外国)の活字の高さに倣はれたが、大きさは日 本の物差に依られたのであって、外国の活字の大きさに倣って、五号活字を スモールパイカ と パイカの中間等と言ふ 、永い間の歴史は誤伝であったと云ふことが判然したのである ( 編者は此研究のために費やせし時間、労力、苦心は 到底他人の窺ひ知ることの出来ないことであった。 今茲ココに之を発表することを得たのは、本木昌造先生の加護と、編者の苦心の結晶であることを承知ありたし)。」 ( 原文正字。一部句点を加えた )

では、その〔本木昌造の〕自筆稿本の一節を〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から三谷幸吉が引用したものを 〕再録してみよう。
「 蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て其欲する処の文字の大小に随て、正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。 但し予の製する処のものは 西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり、此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は 其深五厘余、五歩角のものは 其深一歩余にして、左右上下勾配を施し、以て、蝋形を取るに及んで 能く蝋より抜出る様に彫刻するなり。」 ( 原文正字 ・ 句読点引用者 )

ここで 「 二歩五厘角 」 とあるのは 曲尺カネジャクの二分五厘角をさし、「 五歩角 」 とは同じく曲尺の五分角のことである。 前者が二号活字、後者が初号活字にあたる。 これによって本木昌造の号数活字の最初は、二号、初号から作られたと推測される。
その後大小の活字を造るのに際しては、各号の間の差を曲尺の五厘にとるとその差が大きすぎるので、鯨尺クジラジャクの二厘五毛として系列が整えられた。

ちなみに、曲尺の五分と鯨尺の四分は同じ長さである。

『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 の三谷幸吉氏の 「 註 」 から、鯨尺と曲尺の寸法を比較した数値表を転記すれば、以下のようである。

初号活字   鯨尺  四分        曲尺  五分
一号活字   鯨尺  二分五厘     曲尺  三分一厘二毛五糸
二号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  二分五厘
三号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  一分八厘七毛五糸
四号活字   鯨尺  一分二厘五毛  曲尺  一分五厘六毛二糸五忽
五号活字   鯨尺  一分        曲尺  一分二厘五毛
六号活字   鯨尺  六厘五毛     曲尺  九厘三厘五毛
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二厘五毛
(引用者〔松本〕注/鯨尺の六号および、曲尺の六号と七号は誤植?)
〔 以下 略 〕

松本八郎は六号活字、七号活字の一部に誤植の疑念は呈したが、ママとして数値に補整は加えていないが、初号活字から五号活字の寸法例にならって算出した数値を以下に掲げる。
六号活字   鯨尺  七厘五毛     曲尺  九厘三毛七糸五忽
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二毛五糸 

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに

《 活字における尺貫法と ヤード ・ ポンド法、 基本尺度の相違 ―― どこかで見た風景 》
本項の初出は、そのまま掲載してあるが、<花筏 平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き) 2013年12月05日>であった。

平野富二伝 考察と補遺初出では 『 平野富二伝 考察と補遺 』 ( 古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日 ) での指摘をうけ、文例を <天下泰平國家安全> とした 口上 ( 活字ボディサイズ、価格付き ) が、たれの発案と要請によってなされたのかをさぐった。
その結果は古谷氏の指摘どおり、すでに1872年 ( 明治04年 ) 07月に、
ふたまわりほど年下の平野富二 ( 当時26歳 ) に、「 新塾活字製造所 」 の事業の一切を委任していた本木昌造 ( 当時48歳 ) の発案ではなく、後継者として活字をひろく公開し、販売しようとした、平野富二の発意によるものであることを検証した。

20150423111842098_0001ここに本稿を再登場させたゆえんは、金属活字のアメリカン ・ ポイントシステムだけでなく、現在のコンピューター上の DTP ポイント とされるデジタルタイプのサイズと、『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表  壬申二月 〔 明治05年02月、1872 〕 刊、印刷博物館蔵 )にみる <天下泰平國家安全> とは、一部の活字のボディサイズがきわめて酷似しているためである。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』 ( 松本八郎、朗文堂、1989年09月08日) p.40 挿図

すなわち金属活字号数制のうち、五号活字を中心として、その倍数関係にある 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、なにゆえ、この 「 口上 」 の発表から14年ほどのちの1886年 ( 明治19 ) に、アメリカン ・ ポイントシステムとして制定された活字と、ボディサイズが極似し、それは現在のデジタルタイプのシステムとも極似しているのかを実証的に検証するためである。
──────────
《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。
デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくはなにも変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。
◯ アメリカン ・ ポイント制  1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )
◯ DTP ポイント制          1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 20150423164159195_0002<本木家文書>より 本木昌造自筆稿本。 俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 第一葉。
この稿本は関東大震災で焼失されたとされていたものである。 実際には、長崎県立図書館 → 長崎市立博物館 → 長崎歴史博物館と所蔵先が変わったが、<本木家文書>のひとつとして現存している。
『 ヴィネット 04   活字をつくる 』 ( 片塩二朗/河野三男、朗文堂、2002年06月06日)  p.102に、巻首部の原寸紹介と、全ページにわたる縮小紹介、ならびに平易な読みくだしがある。

わが国では近代活字版印刷の創始のころから、 <号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とされ、号数制活字が親しまれてきた。
わずかに大正期から、大手印刷所、新聞社などではポイント制活字の採用がみられたが、わが国の基本尺度が、前半期は尺貫法のもとにあり、後半期はメートル法のもとにあったために、寸法基準があいまいなままに普及した。
したがって明治最初期から、ヤード ・ ポンド法にもとづくポイント制金属活字への習熟がすくないままに、メートル法を基本尺度とした写真植字法が普及したという側面は看過できない。

「 あいまいなままに 」 としたのは、版面寸法を表す基本単位として 「パイカ pica 」 、すなわち12 pt の大きさに相当する基本尺度をもちいていた、わずかな欧文印刷専門業者をのぞくと、おおかたの印刷 ・ 活字界では、号数制活字のころから 一本一本の活字そのものの寸法ないしは活字ボディサイズは、すでに自明の理として、寸法を問うことにとぼしく、「 四号 ◯◯倍 」、「 五号 ◯◯倍 」 のように、使用活字の倍数を基本尺度としてきた歴史があった。

そのために号数制活字の 「 活字倍数尺 」( 多くは金属製 ) などがのこされているが、そこに基本尺度を明示した資料は、すくなくとも号数制活字では管見に入らないのである。
その反面、(  アメリカン ) ポイント制のスケールは、メーカー製のものばかりでなく、ポイントシステムとパイカルールをわかりやすく説き、顧客に配布した、小宮山印刷、萩原印刷、笹木出版印刷などによる自社製のスケール ( 多くはフィルム製 ) はいまでもたくさんのこっている。

わが国における <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする 本木昌造活字版印刷術創始のことは、140年余にわたってかたられつづけてきた。
そしてオリジナル資料の本木昌造自筆稿本、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から、さらにその一部だけの引用、引抄、ときには潤色までがかさねられてきた。

すなわち幾度も、幾重にもわたって、上書きにつぐ上書きが重ねられてきて、いまや 「 神話 」 と化したものが、<わが国における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > とする説である。
この強固な壁に立ちむかうのには相応の慎重さと覚悟が必要なようである。

もとより筆者は、精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 できたらほかのかたにお任せしたいテーマであるし、多くのかたにこのテーマの解明に向けて参画していただきたいとおもっている。
なにぶん140年余にわたって語られつづけてきたテーマである。 こころからご支援をお願いしたいと念願する次第である。

こんにち組版システムの主流の座を獲得したコンピューター上のデジタルタイプも、 DTP ポイントシステムが一般的である。
これはヤード ・ ポンド法の長さの単位であり、本来メートル法に換算するものではない。 したがって 1 pt = 1/72 in ( 0.352777……. mm ) とされる。
この DTP  ポイントシステムは、1981年にゼロックス社が発売した世界初のビットマップ ディスプレイを実装した製品である Xerox Star ( ゼロックス ・ スター ) で採用され、以後 DTP アプリケーションなどにおいても標準となったものである。

その変更に際して、わが国では20世紀後半のメートル法にもとづく写真植字法、「 Q 数体系 」 をもちいていた造形者は混乱をみせ、その混乱はいまだに収束していないようである。
昭和うまれの造形者の多くは、メートル法のもとで育ち、メートル法によった写真植字に馴れていた。

1 Q  =  1 歯  = 0.25 mm

そこではタイプの大きさとして 「 Q 数 」( Quarter 四分の一 の略。 1 Q = 0.25mm 角 ) を、タイプや版面の寸法として、これまたメートル法にももとづく 「 歯数 」 ( 写真植字機のラチェット ・ インディケーターの歯車のひと刻みから。 1 歯= 0.25 mm ) をもちいていた。

つまり写真植字法のユーザーは、インチやパイカのスケールを持たないままに ( メートル法を採用しているわが国では、インチスケールの製造 ・ 輸入 ・ 販売が、おおやけには規制されていると仄聞するが…… )、相変わらず 30 cm の定規を手にして、その利便性によって急速に普及した、ヤード ・ ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) と パイカルール ( pica ) を基本とするほとんどのコンピューターと、 DTP アプリケーションと対峙することを強いられることになった。
もとより多くのアプリケーションはメートル法に対応しているとはいえ、基本的には ヤード ・ ポンド法を、無理矢理メートル法に換算して、ないしは置換させて、アプリケーションを操作していると指摘することも可能であろう。

この奇妙な状況を風景としてとらえると、幕末から明治最初期の金属活字のおかれた風景に似ていることに気づく。
つまりその開発者のひとり、本木昌造は、尺貫法のもとにうまれ、鯨尺や曲尺しかもたないまま、欧米諸国からもたらされた、この時代の最先端技術であった金属活字製造と、活字版印刷術の開発に対峙したはずである。
それをもたらした欧米諸国には、鯨尺も曲尺も存在しなかったことは自明の理である。また、本木昌造らがその最初期にもちいた活字鋳造器機は、当時の工業技術の水準からみても、諸外国からの輸入品とみられ、当然ながら活字鋳型や活字ボディサイズは、鯨尺や曲尺に準拠したものではないこともまた自明の理であろう。

わが国の最初期の近代活字開発者はほとんど文書記録をのこさなかった。
そのなかでひとり、本木昌造だけが、教育施設としての 「 新街私塾 」 をひきい、その門人への教育資料の一環として、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 をのこし、その一部が 『 崎陽 新塾餘談 初編一、二 』 ( 壬申二月  明治05年02月) にも掲載されたものであろう。
したがって俗称 『 本木昌造活字版の記事 』 が尺貫法でとかれ、今日的な視点で齟齬がみられるとしても、それを責めることはできないであろう。

むしろ本木昌造とその一門がのこしたその活字と組版をしっかりと検証 ・ 計測し、本来の数値に置きかえることなく、 <わが国の号数制金属活字とは本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である > として、
ただその一部だけを、引抄につぐ引抄をつづけた、後続の印刷 ・ 活字ひとこそその責務を問われてしかるべきかもしれない。
その最末尾に筆者もわずかに存在している。

スケール写真上) 中国北京で購入した cm,  INCH 併用の金属製スケール。上部がメートル法で、下部が INCH スケール。 1 feet は 12 inch,  30.48 cm。   1 inch は 1/12 feet 。 新宿の画材店では見かけないが、おおくの百円均一ショップでは同種のものを販売しているという。
写真下) 1980年代の末に米国の画材店で購入した INCH スケール。 デザイン用に特化したもので、最下部に DTP Point スケールがある。
かつてある画材店の国際部が輸入をはかったが、所轄官庁から輸入 ・ 販売の許可がおりなかったとされた。 そのため数セットを米国で購入して、周辺のタイポグラフィに厳格なデザイナーに配布したこともあった。

このある意味では混乱期ともいうべき時代に、奇妙な逆転現象がおこった。
すなわちパーソナルコンピューターの能力と精度が向上し、1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt ) と正確に表示 ・ 再現できるようになったいま、わが国の号数制活字のうち、中核を占める五号活字を中心とした 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 は、「 ほぼ ・ およそ 」 こそいまだにつくものの、いくら検証をくりかえしても、そっくりそのまま DTP ポイントに移行できたのである。

換言すると 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、それと知らぬまま、のちにアメリカン ・ ポイントとして採用 ・ 制定されたサイズとおなじ大きさの活字を、鋳造し、使用していたことになる。 
これは故松本八郎ともよく議論をしたことだが、そもそも活字のボディサイズを  72 のグリッドで分割する考えかたはふるくからあり、フランスの ピエール ・ シモン ・ フールニエ、ファルミン ・ アンブロア ・ ディドなどの名が知られる。
この 1 pt  = 1/72 in (逆にいえば、1 in = 72 pt )という考えのなかには、おもわぬ精緻な合理性がひめられている。

72 = 23 × 32

上掲の式によって、72 という数は、多くの数値 ( 素因数 ) に分解できる。 すなわち、二、三、四、六、八、九、一二、一八、二四、三六などの数でいずれも割り切れるのである。
またこの数値を活字組版にもちいれば、大きさのことなった文字活字を組みあわせても、組版の揃った、整然とした文字組版を獲得できるわけである。

これから <号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という 「 神話 」 の解明にむけて考察を開始したい。
まずは、故松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの1886年(明治19)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
◯ <なぜ、長崎由来とことなる号数制活字を採用していた、神崎正誼マサヨシの弘道軒の活字ボディサイズは、いまだに曲尺準拠説のもとにあるのか>
◯ <なぜ、長崎製鉄所新聞局の活字製造部門を吸収して、1971年(明治04)発足した勧工寮活字局の活字ボディサイズは問われぬまま放置されているのか>

これらの諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。  江湖のご支援を期待するゆえんである。

《 本格考察にはいる前の予備知識として、予習ないしはおさらいをかねてお読みいただきたい 》

基本 CMYK20150423111842098_0001『 新塾餘談 初編一 』 巻末口上 ( 活字ボディサイズ見本ならびに価格表 )
壬申二月 ( 明治05年02月 ) 刊、印刷博物館蔵

9784947613547
上掲図版は 『 本木昌造伝 』 ( 島谷政一 2001年08月20日 ) より。 同書p.134-5 ページには組版原寸で紹介されている。
このうち 初号活字、二号活字、五号活字は、アメリカンポイント制活字と極似し、それぞれ 42 pt,  21 pt,  10.5 pt の値となる。

その追試検証にさいしては以下の数値をもちいれば、容易に検証作業がパソコンでもできる。 作業にさいしてはできたらメートル法に置換することなく、Inch 方式を採用し、字間に 適度のトラッキング ( 見本が二分、四分アキ、字割りなどのため ) をもうけて欲しい。
◯ アメリカンポイント制  1 pt ≒  1/72 in = 0.3514 mm
◯ DTP ポイント制     1 pt = 1/72 in = 0.352777 …….. mm
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する 「 崎陽 キヨウ」 とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。 ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。
また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第 1 丁-10丁までが丁記 ( ページナンバー ) を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

◯ 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
同書は、筆者手許資料は第01- 9 丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。  「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は 21丁にあるが、ここからは丁記は無い。

「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
─────────────────

新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき27歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の「口上」のある活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 筆者もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために大阪経由で上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。
旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( オリジナル写真は平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。
そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。

長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所し、事業の一切を継承したた平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日 ( 旧暦 ) とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。  また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち活字販売用のカタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。  これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木昌造とその一門が関係していた企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷関連機器の製造販売事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

【字学】 1925年のタイポグラフィ動画・貴重な産業史の記録/Oxford University Press and the Making of a Book

Oxford University Press and the Making of a Book

 

この無声動画は、英国産業同盟 ( Federation of British Industry  略称 : FBI ) によって、19世紀初頭の工業化社会を例示するシリーズのひとつとして1925年 ( 大正14 ) に製作された(17:51)。
本篇はおもに、オックスフォード大学出版部の印刷工房、クラレンドン ・ プレスにおける、タイポグラフィ  ≒ 図書製造、すなわち、活字鋳造、印刷、製本のすべての工程を記録したもので、だいぶ以前からオックスフォード大学出版部アーカイブによって YouTube に公開されていたものであるが、いつまでも閲覧数が500件をこえることなく、貴重な資料がおおかたには知られないままでいた。

ちょうど90年ほど前の英国タイポグラフィの姿である。 すでに活字製造はページもの組版などでは自動活字鋳植機の時代にはいっていたが、すでに失われた技術としてわかりにくくなっていたのか、冒頭部でパンチ ( 活字父型 ) と マトリクス  ( 活字母型、複数 Matrices )を紹介し、ふるくからの活字鋳造法-活字ハンドモールドの操作の実際を詳細に紹介している。

わが国の近代活字鋳造もこの方法によってスタートした。 また活字ハンドモールドをはげしく上下動するさまからは、活字鋳造のことを、なにゆえ < Typecasting > としたのかもわかるようになる。
ちなみに 「 Casting 」 の原義は「(ほうり) 投げること」 であり、投げ釣りをも Casting とする。
また研究社 『 新英和大辞典 』 によれば、印刷用語として 「 Typecasting 活字鋳造 」 の初出をみるのは19世紀中葉、1864年のこととする。  まさに活字ハンドモールドの全盛期であった。
画面では < ある鋳造工は活字ハンドモールドで、一時間に500-600本の活字を鋳造した > としている。

また紙型鉛版 ( mat matrix,  stereotype ) 製造の実際がみられ、製本に挑戦されておられるかたには、ギルディング手法、三方化粧断裁など、機械化されすぎてわかりにくくなったさまざまな貴重な記録をふくむ。
この90年前の動画をみると、この間に、印刷と出版、タイポグラフィがあらたに獲得したもののわずかさと、失ったもののおおきさをおもわずにはいられない。

http://www.oup.com/uk/archives/
オックスフォード大学出版部アーカイブ動画集 : Oxford Academic (Oxford University Press) 】

──────────  < 花 筏 > 既出関連情報

DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置
【 関連資料 : 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる


<長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ & インテル鋳造機の稼動の記録>
小池製作所製造/ KMT自動活字鋳植機、金属インテル鋳造機などの記録。現在ではなかなか見ることがで­きない。長瀬欄罫製作所は2011年12月30日をもって廃業した。
【関連URL :http://www.robundo.com/robundo/column…

朗文堂好日録-044 わかれの弥生三月、であいの卯月四月。花花が満開です。

《 年度末、弥生三月も終わります。 それでもベランダのいきものたちは元気です 》

オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
DSCN8558 
鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )
DSCN8563
五代友厚 ( 幼名 : 才助 ) 生誕の地から採集した サイスケ
DSCN8561ムルチコーレ
DSCN8572野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり。
DSCN8568ウーパールーパー四世。名づけてウパシロウ。
DSCN8581 DSCN8578

《 三月三日は桃の節句、ひな祭 》
桃ならぬ、梅たよりが、南国九州から届いたのがちょうどこのころであった。

東風コチ吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

この歌を詠んだのは菅原 道眞(すがわら の みちざね  845〔承和12〕-903〔延喜12〕)である。
道真は平安時代の貴族であり、右大臣にまで列せられたが、宇田上皇と醍醐天皇との争いにまきこまれて誣告され、大宰権帥 ゴン ノ ソツ に左遷された。
その道真が京のみやこをさる時に詠んだのが<東風 コチ 吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ>である。

菅原道真は大宰府へ左遷され、この地で没した。
その死後に天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、その鎮魂のために天満天神として祀られ、信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれている。
──────────
《 【朗文堂ブックコスミイク】 『わたくしは日本国憲法です。』 を <朝日新聞>東京版 ・ 山梨版が連続紹介 》
弥生三月は、いわゆる年度末でもあった。 ひとつの区切り目としてなにかとあわただしくなるときでもある。
2015年03月03日、『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(東京)に 『 わたくしは日本国憲法です。』 が紹介された。 引きつづき、
2015年03月11日、『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(山梨)に 『 わたくしは日本国憲法です。』 が紹介された。
< 憲法 > の周辺に暗雲がみられるこの頃である。 ご愛読をお待ちしたい。
【 関連URL : 『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(東京)

顔写真鈴木篤氏 小

プリント わたくしは日本国憲法です。

 ──────────
著   者 : 鈴 木  篤  すずき あつし
発   行 : 2014年07月26日 
定   価 : 本体 1,200 円+税(四六判 ソフトカバー 190 ページ)
      ISBN978-4-947613-90-5 C0036
おちかくの有力書店、オンライン ・ ブックショップでお求めください。
直送は送料別途請求にてたまわります。
朗文堂 営業部 : 160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
            Telephone 03-3352-5070
             Facsimile   03-3352-5160
                              http: //www.ops.dti.ne.jp/~robundo
             E-mail :  robundo@ops.dti.ne.jp

【 新刊案内 : ブックコスミイク 私は日本国憲法です。
【 関連情報 : ブログロール 弁護士 鈴木 篤 のつれづれ語り

──────────
《 03月14日[土] 【朗文堂ブックコスミイク】   出版記念講演会 髙野 彰 『洋書の話』を語る を開催 》

講演会web

【 出版記念講演会 】
髙 野 彰 『 洋書の話 』 を語る
◯ 日   時  :  2015年03月14日[土] 14:00 - 16:00
◯ 会   場  :  東洋美術学校 D 棟 学生ホール
◯ 主   催  : 朗 文 堂
◯ 後   援  : 学校法人 専門学校 東洋美術学校 産学連携事務局
P1160931P1160924P1160929[ 会場写真提供 : 中村将大さん ]

カバー表1

洋 書 の 話

◯ 著  者 : 髙  野   彰
◯ 発行日 : 2014年11月13日(初刷り)
◯ 発  行 : 朗  文  堂
◯ 定   価 : 本体3,700円+税

2015年02月12日より 第二刷り発行
A5判 並製本 ジャケット付 263 ページ
ISBN978-4-947613-91-2

【 リンク : [朗文堂ブックコスミイク 新刊紹介] 洋 書 の 話  髙 野 彰 著

──────────
《03月17日[火] 新宿私塾第25期修了》

私塾25期修了

2014年09月30日[火]  新宿私塾入塾式の記録 新宿私塾第25期終了2015年03月17日[火] 新宿私塾修了式の記録

新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしている。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともなうこととなる。
新宿私塾第25期は、爽秋の2014年09月30日にスタートし、ほぼ正月休みもなく開講され、早春の2015年03月17日に修了した。

開塾から半年後、修了式当日の、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を紹介した。
出会いはうれしく、別れはさびしいものである。 それでも皆さんは多くの収穫をもって新宿私塾を修了され、造形界の前衛としておおきく羽ばたき、旅だっていった。
新宿私塾は、タイポグラフィの前衛としての連帯感をもって、修了生の皆さんをいつでもあたたかく迎え、活躍のようすを見守り続けている。

DSCN8566額 田 王  ぬかたのおおきみ
冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし . . . . . .

私塾26期募集終了今回は一般公募は実施いたしません。 ご了承ください。

【 リンク : [新宿私塾] 新宿私塾第25期 全課程を修了いたしました

──────────
《 03月18日[水] ちいさな勉強会-再発足 》

かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。 

──────────
《 03月19日[木] [活版カレッジ] 冬期昼間部講座 全課程を修了 》

活版カレッジ < 活版カレッジ 冬期講座 > は、2015年01月08日から開始され、03ヶ月間、全09回の講座がつづき、03月19日に修了した。
ここのところ、< 新宿私塾 > の修了生が < 活版カレッジ > へ、その逆に、< 活版カレッジ > の修了生が < 新宿私塾 > へと、両講座の交流もめだってきている。
DSCN7934DSCN7516 <活版カレッジ>は、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の直接指導により、本格的な活字版印刷術の知 ・ 技 ・ 美 の 三領域を バランス良く学ぶ場である。
今回の 「 2015年冬期講座受講者 」 の皆さんは、お若いかたばかり、男性女性各二名、愛知県からご参加の受講生もいた。 三月間とはいえ少人数かつ濃密な内容なので、最終日の03月19日は、さすがに皆さん別れがたいおもいがあって、ちいさな懇親会 兼 お別れ会を開催されていた。

DSCN8566額 田 王    ぬかたのおおきみ 
あかねさす  紫野行き  標野行き  野守はみずや  君が袖振る

それでも 《 活版カレッジ 》 修了生は、ほぼ毎月 < 活版カレッジ アッパークラス > が開催されているし、さまざまなイベントでの再会や、もはや伝説と化しつつある < お餅と餃子の忘年会 > はますます盛況である。これからも、しばしばお会いできることになる。
<活版カレッジ>春期夜間講座は一般公募を経ずに、事前予約者をもって、まもなく、2015年04月09日[木]から開始される。

【 リンク: [活版カレッジ] 冬期昼間部講座 全課程を修了しました

──────────
《 03月21日[土] MATSYA GINZA  ターシャ ・ テューダー展、新宿中村屋 中村屋サロン美術館 》

< ターシャ ・ テューダー展 > の図録を製作された レッツ ・ ラーン ・ スタジオ/出原 速夫さんのご紹介で、銀座松屋にでかけた。  会場は女性客でぎっしり満員の大混雑。
人混みの苦手なやつがれ、参観はほどほどに、エレベータホール前に避難して、同行したノー学部の参観終了を待つ。 ほかにもご同類とおもえるオヤジが数人いた。  たまたま視線が合って、お互い苦笑い。

銀座は苦手なので、地下鉄で新宿に移動。 新宿中村屋のサロン美術館を訪問。 ちいさいながらも充実した作品で堪能した。 報告が遅れている<碌山美術館>ともども近日中に紹介したい。
ひさしぶりの充電の一日ではあったが、どうやらこのとき風邪をひいたようで、いまもって鼻がグズグズしているし、ときおり喘息の発作にみまわれ、結構ひどいことになっている。 それでもタバコをやめないので、たれにも同情してもらえない。 まぁそれでもいいけどネ。

20150312144204579_0002ガーデニング ・ 絵本 ・ ドールハウス  愛する暮らし
生誕100年 

ターシャ・テューダー展

◯ 会  場 : 松屋ギンザ 8 階イベントスクエア
◯ 日  時 : 2015年3月18日[水]-2015年4月6日[月]
<最終日は17:00閉場 ※入場は閉場の30分前まで>
◯ 入場料 : 一般 1,000円
──────────
アメリカ ・ バーモント州の山奥で、ガーデニングを楽しみ、92歳で亡くなるまで創作活動を続けた 絵本作家 ターシャ ・ テューダー ( 1915年-2008年 )。
子育てを終えたターシャは、大好きだったコーギ犬やペットのチャボと共に、鶏や山羊を飼い、毎日の生活のほとんどを手作りするライフスタイルを続けました。 その合間に絵を描き続け、70年間に発表した絵本は約100点にのぼります。
 [ 会員の レッツ ・ ラーン ・ スタジオ/出原 速夫さんからのご紹介です ]

【 リンク : [会員からの情報] ターシャ ・ テューダー展 MATSUYA GINZA 】

──────────
《 03月23日 タイポグラフィブルグロール花筏、活版 à la carte に ふたつの桜餅を紹介 》

この記事は愛読者に楽しんでいただけたようである。 閲覧カウンターが伸びている。
桜餅にこんなふたつの分布があったことには、やつがれもおどろいた。 2つの櫻餅〈 花の春を待つこころ ―― 梅だより、櫻前線 〉

ことしの冬はことのほか寒かった。 また、おおきな事件や暗い話題も多く、世相はおもくよどみ、みんながコートの襟を立て、背中をまるめて黙黙とあるいていた。
だからこそ、太宰府からつたえられる梅だよりにこころをなぐさめられ、いまは櫻前線の北上を待ち望んでいる。

こんなときのお茶うけにぴったりなのが < 桜餅 > である。
ところがこの < 桜餅 > はチト厄介な呼称であることに気づかされた。 つまり 地方 ・ 地域 ・ 出身地によって < 桜餅 > の素材と形態と呼び名までがおおきく異なるのである。
みそ ・ 醤油をふくめ、食品全般にわたって地域性がある。 それらはおおむね、関東風 ・ 関西風などに大別できるが、< 桜餅 > のばあいは、まだらというか、アメーバー状にふたつの < 桜餅 > が分布しているのが特徴である。

DSCN8369

 【 正岡子規 】  花の香を  若葉にこめて  かぐはしき  桜の餅 モチヒ  家づとにせよ

【 リンク : よき日がいつも-日日之好日*04 ふたつの桜餅

──────────
《 03月27-28日 [アダナ ・ プレス倶楽部]  第18回 活版ルネサンスフェアを開催  》
好天にめぐまれ、多くの来場者をお迎えした。活版ルネサンスの確かな手応えを感得した二日間でもあった。
活版印刷実践者は堅実に増加をつづけている。 したがって活版印刷関連の機材や資材を切れ目無く供給できるように、今後とも努力をつづけてまいりたい。

活版ルネサンスWeb

*   *   *
と き * 2015年03月27日[金]  28日[土] 13 : 30 ― 19 : 00
ところ * 朗 文 堂 4F-B
160-0022  新宿区新宿2-4-9  中江ビル 4 F
Telephone  : 03-3352-5070
[ 来場ご案内マップ ]
*   *   *
 春うらら、梅たよりもチラホラきかれる良い時候になりました。
いよいよ創作の春がはじまりました。 皆さまお元気にてご活躍のことと存じます。
《 活版ルネサンスフェア 》 は、通常 春と秋の 2 回にわたって開催され
アダナ ・ プレス倶楽部会員、活版造形者、活版ファンの皆さまを対象に
活版印刷関連の新製機器と、資材、そして一部は中古品の
活版関連機材 ・ 資材の 展示即売会 です。
手狭な会場ながら、 貴重アイテム、 マニアックな商品が溢れています!
春の創作シーズンに、このチャンスをぜひともお役立てください。
DSCN8591DSCN8593DSCN8584DSCN8601DSCN8602【リンク:第18回 活版ルネサンスフェア開催! 終了しました

──────────
《 03月31日[火]、2015年度、平成26年度
の終了。みそか。あすからは卯月四月がはじまる 》
今週だけは < 新宿私塾 > < 活版カレッジ > も開講されない、しずかな週である。
さようなら、またお会いしましょう……、を繰りかえした三月でもあった。 集うては散じ、別れがあっても、また出会うことで活力が生じる。 そんな三月の日日であった。
DSCN8617 DSCN8614 DSCN8609 DSCN8608 DSCN8618 DSCN8619 DSCN8621きょうで弥生三月は終わる。 あすからは卯月四月である。
新宿御苑が櫻の名所になって人混みがひどい。 櫻はあわただしく咲き、ひと雨で散り敷く。だから はかなさ の象徴でもある。
入苑券売り場が長蛇の列をなしているので、脇の遊歩道で花の散策をしてきた。 写真は、櫻、ミモザ、山吹、三椏ミツマタである。
卯月四月、春のいぶきに背をおされ、あたらしい道を歩みだすときでもある。

聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって

摠

DSCN7902 DSCN7891 DSCN7899 DSCN7898《 北京清華大学にて 龍爪槐 と であった 》
2015年01月11日[日]の午後に、中国北京の清華大学にいった。
キャンパス巡りの中途で、奇妙な枝ぶりの樹木をみつけた。 同大 美術学院 副教授/原 博先生、書きしるしていわく、
「 その樹は、龍の爪のエンジュで、中国ではこう書きます 」。

―― < 龍爪槐 > !

ここから、頭がいっぱいになって、ただでさえおそい歩みが、凍りついたようにこわばり、すべてが疲労となっておそってきた。
ふるく、中国周王朝 ( 前1100ころ-前256 ) の時代、三公の位をあらわす高貴な樹木とされたのが < 槐  カイ ・ えんじゅ> である。
その槐の一種の < 龍爪槐 > は、冬枯れのころに剪定され、まさに龍の爪のような奇観を呈する。
【 関連URL : アダナ ・ プレス倶楽部ニュース / [会員情報] 中国清華大学 美術学院/原 博先生 陳 輝先生とお会いしました 】

「 木をみて、森をみず 」 なる格言がある。 やつがれのばあい、まことにもって恥ずかしながら、「 木をみて、木をみず 」 であった。
これまでの訪中で、西安 ・ 洛陽 ・ 南京 ・ 鄭州などで、間違いなく < 槐 > をみては
いた。
それよりなにより、北京の紫禁城 ( 現故宮博物院 ) のあちこちに < 龍爪槐 > が植えられており、紫禁城の北、景山公園は < 龍爪槐 > の名所だとされていることをつい最近知った。
すなわちやつがれは、あちこちで < 龍爪槐 > の垂れさがった枝ぶりや、蝶のように可憐な花を、間違いなく目にはしていたが、みてはいなかったということになる。

natu 龍爪槐 中国百度百科/枝のたれた夏の龍爪槐 葉の生いしげった龍爪槐 龍爪槐の花シンシンと冷えこむ北京の冬の夕刻に<龍爪槐>を知ったため、葉の生いしげる姿や、蝶のように可憐な花も撮影していなかった。 そのため上掲三点の写真は 中国版百度百科 からのものであることをお断りしたい。 【 百度百科 : 龍爪槐ウェブ  龍爪槐画像集

またわが国の代々木公園にも龍爪槐があり、あちこちで栽培もされているようである。
代々木公園のものは、1984年(昭和59)、東京都と北京市との友好都市05周年を記念して、北京市から寄贈されたものだという。 わが国では、枝が湾曲して垂れさがるようすから、「 しだれえんじゅ 」 とも呼ばれている 【 花紀行・花おりおり 】。

また、わが国ではほどんど研究の手がおよんでいないが、近代印刷史研究に欠くべからざる重要な場所が、 中国浙江省寧波の < 槐路 > にあり、その通りをめざして車を走らせたこともあった。
それなのに、この < 龍爪槐 > なる樹木のなまえを知らず、また冬枯れの寒風のもと、剪定されたこの怪奇な樹木の姿を(みて)みなかったばかりに、無知をさらした。  無残なものであり、ここに不明をお詫びしたい。

【 関連情報 : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日

DSCN7870 DSCN7880北京清華大学のあちこちに植栽されていた<龍爪槐>。 花をつけ、実もおちてから、このような枝ぶりに剪定されている。  こうするとかえって翌春の枝ぶりがよくなるという。 DSCN7897 DSCN7895《 槐 えんじゅ/カイ を知るために 》
えんじゅ 【 槐 】 ヱンジュ ―― 広辞苑
( ヱニスの転 ) マメ科の落葉高木。 中国原産。 幹の高さ約10-15メートル。 樹皮は淡黒褐色で割れ目がある。 夏に黄白色の蝶型の花をつけ、のち連珠状の莢サヤを生じる。 街路樹に植え、材は建築 ・ 器具用。 花の黄色色素はルチンで高血圧の薬。 また乾燥して止血薬とし、果実は痔薬。 黄藤。 槐樹。 季語は夏。

【 槐 】 ―― 漢字源
① 省略 ( 広辞苑とほぼおなじ )
② { 名 } 三公。 また三公の位。 周代に朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事にもとづく。
<熟語>
【 槐安夢 】 カイアンノユメ   唐の李公佐の小説 『 南柯記 』 にある。酔夢のひとつ。
【 槐位 】 カイイ 三公の位。 『 槐座 カイザ ・ 槐鉉 カイゲン ・ 槐鼎 カイテイ 』。 朝廷の庭に三本の槐エンジュを植え、三公がそれに向かってすわったという故事や、鼎カナエの三本足や、鉉ゲン(鼎の耳の金具)を三公にたとえたことから。
【 槐棘 】カイキョク  槐の木とイバラの木。 三公九卿をさす。
【 槐市 】 カイシ   漢代の長安の東方にあった市場の名。 槐を植え各地の産物 ・ 書籍 ・ 楽器を売買し、学問も論じたので、のち、大学の別名となった。
【 槐宸 】 カイシン  天子の宮殿
【 槐門 】 カイモン  三公 ・ 大臣の家柄

《 四川宋朝体 龍爪 と名づけられた 顔 真卿書風とは 》
いつも混乱がみられるので、まず<顔氏世系表>から世代を追って顔氏一族を紹介しよう。

【 顔 之推 がん しすい 】
531年-?  南北朝時代の学者。 山東省臨沂リンギのひと。 あざなは介。 南朝の梁、北朝の北斉・北周につかえ、さらに隋につかえた。 著書に 『 顔氏家訓 』 がある。
『 顔氏家訓 』 は七巻からなり、隋の601-04ころ成立した。 著者みずからの体験を基礎とした処世訓の書。 乱世を生き抜いてきた著者の経験 ・ 見解が広汎かつ具体的に述べられているので、当時の貴族の生活 ・ 社会の状況をうかがう貴重な史料とされる。

【顔 師古 がん しこ】
581-645年。 中国唐代の学者。 万年(陝西省西安市)のひと。 顔之推の孫で、唐二代皇帝太宗 ・ 李世民の近臣。 訓詁の学にすぐれ、『 漢書 』 の注釈を書いた。
太宗皇帝 [ 唐朝第二代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身も能書家であり、儒教の国定教科書として 『 五経正義  ゴキョウ-セイギ』 を近臣に編集させた。 そこで使用する書体として、編集協力者の顔 師古による正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいた。

【 顔 元孫 がん げんそん 】
?-714年。万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは聿修。 進士となり唐の高宗から玄宗の時代に活躍した。 顔杲卿の父親。 祖父・顔師古の「 顔氏字様 」 を整理して、、『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。

【 顔 杲卿 がん こうけい 】
602-756年。 唐代玄宗につかえた忠臣。 山東省臨沂リンギのひと。  常山の太守であったので、顔 常山ともされる。 唐の玄宗の末年(755-63)におこった安禄山父子、史思明父子の叛乱 「 安史の乱 」 で捕らえられ、安禄山をののしって殺された。 子の泉名と季明も殺された。
この従兄弟父子の死、とりわけ姪の李明の死を悼んで顔 真卿によって行草書で書かれた、追悼文の草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に現存する。

【 顔 真卿 がん しんけい 】
709年-85。 唐代玄宗の忠臣。 万年 ( 陝西省西安市 ) のひと。 あざなは清臣、諡は文忠、顔魯公とも呼ばれる。 「 安史の乱 」 に際し、平原太守として武功があった。 徳宗のとき叛乱をおこした李 希烈の説得にあたったが殺された。 書芸の評価はきわめてたかい。
四川宋朝体顔 真卿 (ガン-シンケイ  709-85) の生誕から1300年余が経過した。
この顔 真卿生誕1300年祭を契機として、顔 真卿の業績の再評価がなされ、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書芸展が盛んに開催され、関連図書の刊行もさかんである。

顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安碑林博物館

2011年09月、中国陝西省西安をおとずれた。
顔 真卿関連の石碑が集中する 「 西安碑林博物館 」 の 第3-4室 は、日中は中国人をはじめ、各国からの団体客が押しよせ、あまりの混雑で、ほとんど碑面の閲覧もできないほどの状態だった。
たまたまホテルが至近の場所にあったのを幸い、翌早朝に再度参観に訪れた。
このときもまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。
──────────

robundo type cosmique には、この顔真卿書風に淵源をみる、四川刊本書体  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 がある。
わが国では、顔真卿生誕1300年祭のことは、書法界の一部で話題になったものの、ひろくはあまり関心がもたれなかったようである。
そこであらためて、唐王朝中期の、忠義の志をもった政府高官にして、文武のひとでもあった顔真卿を紹介し、あわせてデジタル ・ タイプ 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 を紹介するとともに、この書体をもちいた名刺製作の実例をご紹介したい。

伝 顔 真卿の肖像画 中国版Websiteより 

《 顔 真卿書風を継承する、四川刊本と、四川宋朝体字様のふるさと 》
中国の西南部 ・ 四川省は、ふるくは蜀ショクとよばれていた。
蜀は唐王朝末期の板目木版による複製法、刊本印刷術の発祥地のひとつで、その刊本字様 ( 書風 ) は顔 真卿書法の系譜をひくものとされている。

また四川刊本は 「 蜀大字本 」 とも呼ばれ、
「 字大如銭、墨黒似漆 ―― 字は古銭のように大きく、字の墨の色は黒漆のように濃い 」
として高い評価がされている。
──────────
強勢王朝として威をほこった唐王朝(20代、618-907)ののち、五代十国の混乱期をへて建朝された、宋 ( 北宋、960-1127 ) の時代にも、唐王朝官刊本の伝統的な体裁を四川刊本は継承していた。
また女真族の金国との争乱に敗れ、都を開封 ( 中国河南省の都市。黄河の南方平野に現存。 Kaifeng,  東京 ・ 汴ベン京とも ) から、臨安 ( 現浙江省  杭州 Hangzhou ) に移して建朝された南宋 ( 1129-1279 ) での刊刻事業の継続と、覆刻 ( かぶせぼり ) のための原本の供給に、四川刊本は大きな貢献をはたした。

ところが、こうした四川刊本も、相次いだ戦乱と、くり返しおこなわれた<文字獄>などの文書弾圧のなかに没して 、『 周礼 シュライ 』 『 新刊唐昌黎先生論語筆十巻 』 『 蘇文忠公奏議 』 など、きわめて少数の書物しかのこっていない。
そのような四川刊本の代表作が、わが国に現存する 『 周礼 』 ( 静嘉堂文庫所蔵 ) である。 

『周礼 シュライ』(巻第9より巻首部、静嘉堂文庫所蔵、重要文化財)

『 周礼 シュライ 』 は 『 儀礼 ギライ 』 『 礼記 ライキ 』 とともに中国の 「 三礼 サンライ 」 のひとつで、周代 ( 中国古代王朝のひとつ。 姓は姫。 37代。 前1100ころ-前256 ) の官制をしるした書。
『 周礼 』 は周 公旦 ( シュウコウ-タン、兄の武王をたすけて 商(殷)の 紂王 チュウオウ を滅ぼした。
周の武王の没後、甥の成王、その子康王を補佐して文武の業績を修めた。 周代の礼樂制度の多くはその手になるとされる ) の作と伝えるが、 『 周礼 』 の著者とその成立年度には議論もある。

『 周礼 』 は秦の焚書で滅したとされたが、漢の武帝のとき李氏が 「 周官 」 を得て、河間の献王に献上し、さらに朝廷に奉じられたものが伝承される。

本来 『 周礼 』 は 「 天官 ・ 地官 ・ 春官 ・ 夏官 ・ 秋官 ・ 冬官 」の六編からなるが、「 冬官一編 」 を欠いていたので 「 考工記 」 をもって 「 冬官 」 にかえている。
静嘉堂文庫所蔵書は 巻第九、巻第十だけの残巻ではあるが、南宋 ・ 孝宗 (127-200) のころの 「 蜀大字本 」 とされ、同種の本はほかには知られていない。
──────

《 顔氏書風にみる、龍爪と蚕頭燕尾 》
 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 は、林 昆範 ・ 今田欣一 ・ 片塩二朗の三名で構成された、ちいさな研究会 「 グループ 昴 スバル 」 の研鑽のなかで、主要なテーマとなったもので、『 周礼 』 を、なんども調査し、臨書し、試作をかさねるなかから誕生したデジタル ・ タイプである。

『 周礼 シュライ 』 の力強い字様には、横画の収筆や曲折に 「 龍爪  リュウソウ 」 とされる、鋭角な龍の爪ツメにも似た特徴が強調されている。 これは起筆にもあてはまり、またどっしりとした収筆も印象的である。
縦画の起筆にみられる 蚕頭 サントウの筆法は 『 周礼 』 においてはさらに強靱になり、龍爪に相対している。

このような顔真卿に特徴的な書法は 「 蚕頭燕尾 サントウ-エンビ── 起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている 」 とされ、また 「 顔法 」 とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いた。

この顔真卿の書風が四川刊本字様の手本となり、おおらかで力強く、独自性のある刊本字様へと変化したといえよう。 これはまた、工芸の文字としての整理がすすんだことをあらわし、唐代中期の顔真卿の筆法の特徴を十二分に引き継いでいるともいえる。

 『 四川 シセン 宋朝体 龍爪 リュウソウ  Combination 3 』 は、このような顔真卿書風と、四川刊本字様を継承した、あたらしいデジタル ・ タイプとして誕生した。
このように顔氏一族に伝承されてきた 「 顔氏字様 」 と、顔家伝来のその書風をさらにたかめた顔真卿の書風を、『 中国の古典書物 』 ( 林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97 ) では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。 その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝 [ 唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649 ] 自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。 そこで使用する書体を、編集協力者の顔師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち 「 顔氏字様 」 をもちいたことが挙げられる。

「 顔氏字様 」 はのちに 顔 師古の子孫、顔 元孫 ガン-ゲンソンが整理して 『 干禄字書 カンロク-ジショ 』 にもちいられた。 この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された 「 顔氏字様 」 は、あたかも唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 


『 多宝塔碑 』 ( 原碑は西安 碑林博物館蔵 )

拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。 現在は繰りかえされた採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

顔真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、 「 一碑一面貌 」 とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔真卿の楷書による石碑の特徴である。
『 多宝塔碑 』 は、長安の千福寺に 僧 ・ 楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔真卿44歳の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 

行草書で書かれた草稿ともいえる、稿本 『 祭姪文稿 サイテツ-ブンコウ 』 などの書巻は、自筆本が台湾 ・ 故宮博物院に伝承するが、顔真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、晩年(780年、建中元年)の書作 『 自書告身帖  ジショ-コクシン-ジョウ 』 だけである。

《 四川宋朝体 龍爪 をもちいて名刺を製作する 》
デジタル ・ タイプ  『 四川宋朝体 龍爪 Combination 3 』 には、和字 ( ひら仮名 ・ カタ仮名 ) として  「 もとい、さきがけ、かもめ 」 の 3 種の和字がセットされている。
原字製作者は 欣喜堂 ・ 今田欣一氏によるもので、今田氏自身がWebsite内の 「 龍爪 」 において、詳細に設計意図、背景などをしるしているので、あわせてご覧いただきたい。 

この 『 四川 宋朝体 龍爪 Combination 3 』 は、おおきく使うと、まさに 「 龍爪 」 と名づけられたように、天空たかくかけめぐる飛龍のように、勇壮な、勢いのある書体として立ちあらわれてくる。
また、板目木版による刊本字様(書体)として、ながらく書物にもちいられてきた字様のため、12pt.-18pt. といったすこし大きめな本文用書体としても、十分な汎用性をもった書体である。

このくらいのサイズだと、もはや 「 飛龍、龍の爪 」 というより、かわいらしい 「 辰の落とし子 」 のような、素直な刊本字様としての姿が立ちあらわれてくるのも面白い書体である。 それだけにつかいやすく、個人的な意見で恐縮ながら、とても好きな書体でもある。

そんなためもあって、 『 四川 シセン 宋朝体龍爪 リュウソウ Combination 3 』 の発売以来、この書体をもちいて名刺を印刷している。本心ではせめて 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも、原字製作者の了承をいただいて、金属活字をつくってみたいところであるが、なかなか意のままにならないでいる。
そこで下記のようなデジタルデータを作成して、軽便なインク ・ ジェット・プリンターで 「 出力 」 していたが、どうしても滲みがひどく、また紙詰まりがしばしば発生するので、困惑していた。

朗文堂には活版印刷事業部 「アダナ ・ プレス倶楽部 」 があり、「 Adana-21J,  Salama-21A 」 という活版印刷機の設計 ・ 製造 ・ 販売もおこなっているので、それを活用しないことはありえない。
たまたまコピー機が複合機にかわり、あわせてファクシミリ番号がかわったので、下記のデジタルデータをもとに樹脂凸版を作成して、「Adana-21J」による「 カッパン印刷 ≒  レター ・ プレス 」 を実施した。


印刷にあたったのは、粘り強く金属活字鋳造法を学んでいる日吉洋人さん。残念ですが小生が印刷すると、太明朝をもちいたために、字画が混みあっている  「 新宿私塾 」 の 「 塾 」 の字と、@メールアドレスの 「 @ 」 がインキ詰まりを起こして調整に難航する。

樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 とはいえ、なかなかデリケートなところもある。 ところが、さすがに日吉洋人さんはそんな障壁は軽軽とこなして、アッというまに 500 枚の名刺を刷りあげていた。

「 たかが名刺、されど名刺である 」。 とりあえずは軽便なコンピューター ・ プリンターで我慢できても、次第になにか物足りなくなる。 今回は樹脂凸版による 「 カッパン印刷 」 で製作した。
しかしながら、やはり金属活字による「活字版印刷」には、いまだに小生が言語化できないままでいる 「 Something Good 」 がある。 もちろん 「 Enything Bad 」 もあるのだが……。
ですから、いつの日か 「 株式会社朗文堂、片塩二朗 」 だけでも金属活字をつくってみたい、そして胸をはってお渡しできる名刺をつくりたいというのが、目下の小生の見果てぬ夢であろうか。   

朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 ── 花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 モチヒ 家づとにせよ 子規

2つの櫻餅
《 花の春を待つこころ ―― 梅だより、櫻前線 》
ことしの冬はことのほか寒かった。 また、おおきな事件や暗い話題も多く、世相はおもくよどみ、みんながコートの襟を立て、背中をまるめて黙黙とあるいていた。
だからこそ、太宰府からつたえられる梅だよりにこころをなぐさめられ、いまは櫻前線の北上を待ち望んでいる。

こんなときのお茶うけにぴったりなのが < 桜餅 > である。
ところがこの < 桜餅 > はチト厄介な呼称であることに気づかされた。 つまり 地方 ・ 地域 ・ 出身地によって < 桜餅 > の素材と形態と呼び名までがおおきく異なるのである。
みそ ・ 醤油をふくめ、食品全般にわたって地域性がある。 それらはおおむね、関東風 ・ 関西風などに大別できるが、< 桜餅 > のばあいは、まだらというか、アメーバー状にふたつの < 桜餅 > が分布しているのが特徴である。

A型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅

DSCN8353江戸風桜餅、関東風桜餅ともする。 1691年 ( 元禄04 ) 江戸向島の長命寺の門番であった山本新六が、隅田川の土手の櫻の葉を塩漬けにして、餅に巻いたのがはじまりとされる。
塩漬けにしておいた櫻の葉を塩抜きし、小麦粉 ・ 白玉粉などを丸く薄くのばして熱し、さらし餡にまく。

分布/関東甲信地方、東北地方( 福島県  ・ 岩手県 ・ 青森県旧南部藩地域 ・ 秋田県 )、 宮城県 ( AB 混在地 )、静岡県 ・ 長野県 ( A 外縁部、B も混在 )、石川県金沢市 ( 局所伝授型 ・ 出雲松江藩主/松平治郷 不昧 1751-1818 が A を持ちこんだとされる )

B型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型

道明寺01上方風桜餅、関西風桜餅ともする。  A 長命寺桜餅がもととされる。 糯米モチゴメをもちい、それを石臼などで挽いてくだく 「 道明寺粉 」 をもちいる。
大阪府藤井寺市に、材料の道明寺粉の由来になったとされる 「 道明寺 」 がある。 餅には弾力と粘りがあり、食感はかわる。

塩漬けにしておいた櫻の葉を塩抜きし、道明寺粉を蒸して餅をつくり、これに餡をつめて櫻の葉につつんだ構成となる。 ちょうどおはぎにおける餡と餅が内外に逆転した形態となる。
 
分布/近畿地方、北陸地方、四国地方、九州地方、東北地方日本海側 ( 山形県庄内地方、青森県津軽地方 )、北海道 ( 北前船で伝えられた )、関東甲信地方  ( AB 共存型、この地域では A 長命寺を 「 桜餅 」 と呼び、B 道明寺は 「 道明寺 」 と呼ぶ )、秋田県 ・ 石川県金沢市 ( この地方は A 長命寺がつたわったところ )。

もちろんこうした伝統型の和菓子にあっては、菓子匠が独自の工夫をこらすし、さまざまなバリアントも誕生しているが、おおざっぱにいって、上掲のように、まだら状に、ほぼ日本全土で製造 ・ 販売されているようである。
【 参考資料 : ウィキペディア 桜餅
──────────
《 三時のおやつに 桜餅 を食うそうとしたところ …… 》
三寒四温、寒暖あやなすころではあるが、うららかな陽光にめぐまれた日などの 「 おさんじ 」 には桜餅がちょうどよい。
朗文堂からほどちかくに新宿追分があり、そこの老舗 <追分だんご本舗 > では名物の追分団子のほかに、四季折折の和菓子を販売している。
ついでながら、<ラッタラァ~ 〽 三時のおやつは 文明堂~ ラッタラァ~ ラッタラァ~ ♫ > の CM を流していたカステラの文明堂東京本店が、かつてはおなじ町内にあり、しばしば文明堂宛の郵便物が朗文堂に誤配されていた。

< 追分だんご本舗 > の桜餅は、A型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅である。
ついでに観察してきたが、新宿駅前の老舗 < 新宿中村屋 > も、A型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅であった。

店内をみるかぎり、両店ともに B型 は影も形もなかった。
DSCN8353 追分だんご02 追分だんご01ところが、B 型 道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型の強固な地盤である、九州福岡出身の大石には、このA型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅では物足りないものがあったようである。
そのため、わざわざ足をのばして、伊勢丹の地下食品売り場にある < 叶 匠壽庵 >( カノウ ショウジュアン  滋賀県大津市が本拠 )で、B型 道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型も買ってきた。

大石にとっては、これが<桜餅>であり、その余のものは桜餅ではないらしい。
< 叶 匠壽庵 > のカタログをみるかぎり、同店では A 型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅は製造していないようであった。
道明寺01 叶01 叶02 叶03こうして小社に二種類の桜餅が揃った。 ほとんどの女性は、この二種類の桜餅の存在を知悉しているようだったが、男性、それも地方出身者となるとまるではなしはちがってくる。
たまたま数人があつまったとき、このふたつの桜餅が話題になった。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型

◎ 山本さん 50代前半。 京都出身、在京30年ほど。
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型が桜餅。  A はなに? 見たことないな。
◎ 渡辺さん 40代後半。福岡出身、在京25年ほど。
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型が桜餅。  B は柏餅、あれっ違うかな。
◎ 日吉さん 30代前半。 静岡県出身。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅が桜餅ですね。 B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型は <道明寺> です。
◎ 鈴木さん 50代後半。 東京出身。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅がもともとの桜餅。 最近はスーパーなどでは A B を一緒にパックして < 桜餅 > として売っている。 でも B は道明寺と呼んでいた。
──────────
そしてやつがれ。静岡県出身の日吉さんと同様に、桜餅分布図では A B 混在地とされる、信州信濃、長野県の出身である。
オヤジはともかく甘いものに目がなかったので、「 おさんじ 」 にはお菓子がつきものだった。
かすかな記憶では、「 大島屋 」 の桜餅は、A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅であり、「 㐂樂堂 」 の桜餅は、B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型だったと記憶している。

かにかくに、やつがれ、糖尿病予備軍宣告をうけている身であるというのに、A B ふたつの桜餅をおいしくいただくことになった。 いやしくも双方ともに優劣つけがたくおいしかった。
櫻咲く、本格的な春のあしおとがきこえるような今日この頃ではある。

DSCN8369

 【 正岡子規 】  花の香を  若葉にこめて  かぐはしき  桜の餅 モチヒ  家づとにせよ

【講演会】 治水神・禹王研究会-中国紹興の禹王陵紹介

【プリント用PDF 治水神 ・ 禹王ポスター uouposter 】
20150311171252288_0001


《 中国故事 ― 善く国を治める者は、必ずまず水を治める  斉の宰相 ・ 管仲 》
どこの国でも 「 国づくり神話 」 は存在する。 中国におけるその 「 神話 」 を記録した図書として、 『 史記 』の「 夏本紀 」、『 竹書紀年 』 などがしられている。
それによれば三皇五帝の時代をへて、文明が勃興し、黄河文明 ・ 長江 ( 揚子江 ) 文明 ・ 遼河文明が誕生し、それが夏王朝、商 ( 殷 ) 王朝につらなったとされてきた。

20世紀にはいるまでは、さまざまな文物と、なによりも 「 文と字 」 で記録された 「 文書記録 」 をのこした周王朝 ( 西方に興る。 鎬京 コウケイ のち洛陽付近にみやこした。 前1100頃-前256。 37代で滅ぶ ) までの存在は知られていた。
周王朝以前の「金石文」は、かなり古くから研究が進んでいたが、甲骨文が発見 ・ 研究されるようになったのは19世紀末のことである。
それまでは、夏王朝、商 ( 殷 ) 王朝などの古代王朝は伝説とされ、ひとくくりに、夏 ・ 殷 ・ 周三代とされてきた期間もあった。

1899年、当時の清の国子監祭酒であった王 懿栄が、「竜骨」と呼ばれていた骨に、刻まれた文字を発見し、研究の先駆者となった。 その後 劉 鶚によって、1903年に甲骨文の図録 『 鉄雲蔵亀 』 が出版された。
さらに 「 甲骨四堂 」 とされる < 鼎堂 ・ 郭 沫若、彦堂 ・ 董 作賓、雪堂 ・ 羅 振玉、観堂 ・ 王 国維 >【 百度百科 : 甲骨四堂 】 らの研究によって、甲骨文の解読と商王朝の存在が知られるようになった。

さらにその後の調査 ・ 研究によって、伝説とされてきた夏王朝 【 ウィキペディア : 夏(三代) 】も、近年の考古学の実績や、年代測定法の向上などによって、実在した王朝とみなされるようになった。
夏(か。紀元前2000年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝。夏后ともいう。
『 史記 』 『 竹書紀年 』 など中国の史書には、初代の禹から末代の桀まで、14世17代、471年間続いたと記録されている。 殷に滅ぼされた。
従来夏と禹王の存在は伝説とされてきたが、こうして近年の考古学の進展によって実在の可能性がたかまっている。

夏王朝の始祖とされる禹ウは、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。
禹は、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外からまでも朝貢を求めてくるようになったという。
さらに禹は、河水(黄河)をはじめ、さまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
──────────
夏王朝は黄河 ( 中国では河、河水がふつう ) 下流域南岸に存在したとみられ、その禹王をまつる 「 禹王廟 」 【 百度百科 : 禹王廟 】 は江南各地に散在するが、禹王のみささぎ ( 陵墓 ) とされるのは、浙江省紹興の会稽山の山ふところ 「 大禹陵 」 【 百度百科 : 大禹陵 】 に比定されている。

「 大禹陵 」 は会稽山の山山にいだかれ、40余の大小の堂宇があるが、中心は 「 禹陵 」、「 禹祠 」、「 禹廟 」 からなる。 域内には大小の石碑があり、それらをまとめた 「 碑亭 」 もある。
2012年07月に20年ぶりほどで 「 大禹陵 」 をおとづれた。 そのおりの写真を講演会の予習をかねて紹介したい。

【 花筏関連情報 : 朗文堂-好日録024 禹王、王羲之、魯迅、孔乙己、咸亨酒店、茴香豆、臭豆腐
【 花筏関連資料 : 朗文堂-好日録016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ宋版図書 復活 ・ 再生の地 杭州 ・ 紹興 】

DSCN7160DSCN7043DSCN7064DSCN7181DSCN7184DSCN7165DSCN7169DSCN7203DSCN7205DSCN7207DSCN7206DSCN7055DSCN7059DSCN7067DSCN7074DSCN7083DSCN7079DSCN7088DSCN7091DSCN7137DSCN7095DSCN7097DSCN7116DSCN7123DSCN7124DSCN7126DSCN7121DSCN7142DSCN7139DSCN7141DSCN7113DSCN7108DSCN7107DSCN7109DSCN7200

朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

印刷局明治10年浮世絵「東京名所 常盤橋内 紙幣寮 新建之図」 広重画 御届 : 明治10年(1877年)01月25日
『 大蔵省印刷局百年史 』 ( 第一巻口絵、大蔵省印刷局 昭和46年06月30日 )
印刷局明治10年ころの写真明治10年ころの紙幣寮

『 大蔵省印刷局史 』( 口絵写真 大蔵省印刷局、昭和37年09月26日 )

1876年(明治09)近代的なお札の国産化を実現するため、東京大手町に現在の国立印刷局の工場が建設された。 常盤橋はいまも皇居前、日本銀行との間に現存するが、東日本大震災のときの被害があって補修工事中である。
旧国立印刷局の建物は、西洋式の赤煉瓦づくり。 正面上部には菊花紋章、その上に鳳凰像をいただいた建物は 「 朝陽閣 チョウヨウカク 」 と呼ばれ、その威容は東京の新名所となった。

「 朝陽閣 」は192年(大正12)、関東大震災によって崩壊したが、幸運なことに正面玄関頭頂部に設けられていた鳳凰像は事前に颱風にそなえて取り外されていたために被害を免れた。
その後さまざまな流転があったが、現在は創建時の姿に修復されて、東京都北区滝野川にある印刷局東京工場の玄関脇に設置されているという [ お札と切手の博物館ニュース  Vol. 35  2014年12月01日 ]。
──────────
お札と切手の博物館が、まだ大日本印刷市谷工場の脇 (国立印刷局市谷工場跡) にあったころは、近くもあったのでしばしばこの施設を訪れていた。

それが国立印刷局王子工場の脇に移転してからは、はじめての訪館となった。 ゆったりしたスペースだった市谷時代にくらべると、だいぶ手狭なスペースになっていたが、スタッフの努力で 展示内容はみるべきものがあった。
DSCN8112 こうぞ、みつまた、がんぴ DSCN8096 DSCN8099JR 王子駅からすぐ近くに印刷局王子工場がある。 近年は地下鉄も開通しており便利になった。王子工場の門扉にも「鳳凰」のマークが透かし彫りで入っていた。
工場脇の花壇には、向かって右から順に、雁皮 ガンピ>、< 三椏 ミツマタ >、< 楮 コウゾ > などの製紙材料となる灌木が植えられていた。
これらは虎ノ門工場にも、市谷工場跡にもあったもので、良質の製紙材料となる。
三椏ミツマタは枝分かれするさい必ず三つ叉に文枝するのでその名があり、このときはまだ蕾はかたかったが、早春のころ、櫻の開花に先だって、
沈丁花にも似たつよい薫りを発する。

今回の特別展示(会場二階)は 「 紙幣と官報 ふたつの書体とその世界 」 がテーマであった。

印刷局では紙幣の書体の中心を < 大蔵隷書 > においている。

「 近代的紙幣が発行され、公的書類に使用されていたこの [ 大蔵隷書 ] 書体が用いられてきたのは、この書体が国家の威厳を表すのにふさわしいと考えられたからである。
大蔵隷書は、紙幣に用いつづけられることで、さらなる威厳や信用を付与され、通貨の専用書体として認知されるにいたったのである 」 ―  同展図録より。

また印刷局には 「 官報 」 などにもちいられる、公共性のたかい本文用書体もあり、それを 「 印刷局書体 」 としている。
「 法令は官報の発行をもって効力を発する。 そのため、遅滞なく確実に印刷発行されることが官報の使命であり、安定的に入手できるという利便性が官報の文字にとっての第一義であった。
しかしながら、印刷局書体には公文書で用いられてきた楷書の趣がのこり、大正の書体改造でも正統性を重視していることから、伝統の保持が意識されていたようにおもわれる 」 ―  同展図録より。

《 印刷史研究においても看過されがちだった 印刷局の特異な活字製造 》 ― 同展図録より。
印刷局活版事業の系譜
上掲図は同展図録 「 太政官日誌の活版化 」 より。
明治最初期、印刷局の濫觴が 「 紙幣寮活版局 」 であったことはよく知られるところであるが、既存の、あるいは臨時的な組織が、どのように紙幣寮活版局に、そして印刷局に吸収されていったのかが、今回の特別展パンフレットには図版で紹介があった。
同展パンフレットは引用に厳格な制限がみられたので、p.03 の図版をもとに、整理して新製作図版としてここに掲載した。

またp.07-08 にかけて掲載された 「 活版印刷作業工程 」 には、活字鋳造設備の導入時期に関する紹介が写真図版入りでみられた。

  1. [ 活字 ] 母型製造
    活版印刷事業創世時、電胎法 [ 電鋳法 ] によって切片状の文字部 ( ガラ版 ) をつくり、それを真ちゅう製の角材に取り付け〔かしめた〕ものを [ 活字 ] 母型としていた。
    しかしながら、[ 印刷局は ] 1912年(明治45)にベントン彫刻機を導入し、直接金属片に文字を彫刻して [ 活字 ] 母型をつくる方法に変更した。
     
  2. 活字鋳造
    [ 活字 ] 母型を活字鋳造機の鋳型に密着させて、地金を流し込み、活字を鋳造する。
    活字鋳造機には手回し式と自動式があり、印刷局ではカスチングと呼ばれる手回し式を印書局より引き継いで以降、昭和初年まで使用し、のちに自動式に切り替えた。
     

 ──────────
上掲二項目は、いわば筆者の備忘録ともいえるものであり、もしも難解だとおもわれたら、当分は読み流していただきたい。

こころを打たれたこと ―― 二階展示室に組版台が置かれてあり、その引き出しに 『 日本国憲法 』 とラベルが貼られた 「 置きゲラ 」 が数枚あった。 わが国の新憲法は1946年11月03日に公布され、翌47年05月03日から施行された。

担当職員にお願いしたら、ゲラケースから半分ほどまでを引き出して見せてくれた。 しっかりと結束され、鉛の鈍い光彩をはなっていた。

すなわちこの 「 日本国憲法の置きゲラ 」 は、すでに70年近くにわたって、独立行政法人 国立印刷局 の職員であり、印刷技芸家であり、タイポグラファによって、たいせつに守りぬかれてきたものである。

ところで一階の展示には、お札の偽造防止のさまざまが解説されていた。 もともと紙幣の偽造などはまったく考えてもいないから、サラリとみただけである。
また、現在では前述の 「 大蔵隷書 」、「 印刷局書体 」 もデジタル化されているそうである。
それでも紙幣にあっては、「 大蔵隷書 」 をデジタル出力したものを、そのままもちいているわけではない。
モノクロ「 千円札 」 の表面左側の図版を示した。 お手元の千円札でも見くらべていただきたい。
ここには < 日本銀行 > の文字が上下の行にもちいられている。 このふたつの < 日本銀行 > は、すべての字の、字画の一部に、偽造防止のために巧妙に設けられた相異がみられる。 それでありながら < 日本銀行 > である。

< 字 > の玄妙さ、いいつくせぬ魅力とはこんなところにもある。

お札と切手_hyou


特別展示

平成26年度 第 2 回特別展
紙幣と官報 2 つの書体とその世界

書体とは文字の姿のことです。
活字印刷技術の誕生以来、これまでに多くの書体が生み出されてきました。
印刷局でも、独自の書体をつくっています。
印刷局の独自書体
は 2 種類あり、ひとつはかつて活版印刷物用として開発され、官報に用いられたもの、もうひとつはお札などの偽造防止対策が必要な印刷物用につくられたものです。
本展は、これらの書体が、官報が法令を伝えるために、あるいは、お札がお金としての信頼を得るためにどのような役割を担ったのか、その誕生背景などから探ります。

◯ 開 催  日<会期終了>
平成26年12月16日[火]-平成27年03月08日[日]
◯ 開催場所
お札と切手の博物館 2 階展示室

【 展示詳細 : お札と切手の博物館 特別展示
【 展示詳細 : お札と切手の博物館 特別展示 見どころ解説

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる。

《 2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部がはじめての北京訪問 》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。

杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、黄河中流南岸。古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく2011年09月下旬に首都 : 北京を訪問した。

折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京爽秋 北海公園DSCN2711DSCN2719DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置

《 観光名所をひとめぐり。 そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問 》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 7-8 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。

このとき、北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発とその輸出 ・ 移入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。

結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。

また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】

さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らないのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。

 ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !?  していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。
このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファである。 当然このブラシの用途もご存知だった。 その上で、現在の作業環境にあわせての利用を目的とされた。

誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実践がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
────────
それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に、副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、
11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 として、きわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
畢昇像畢昇銘板〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。

〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて、活字版印刷術を大成したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを < 発明者 > として数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。

1990年 ( 平成 2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同があ る。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。

ここでいう 「 泥 」 は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】

────────
《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 印刷博物館館長は共産党幹部であり、張氏が実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされた。
ところが300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。

中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。
わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。

併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。 つまり直近の戦争として 「 抗日戦争 」 を取りあげることが多く、どうしても 「 北京印刷学院 」 は、 「 反日的 」 なかたむきがみられることになりがちである。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧は、かなりつらいものがあった。

その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり、それを掲載した新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な記録資料だった。

わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館  The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、両社ともに現在もなお、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。

1915年(大正04年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和03)に清算された。
それに際して、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡された。 また
人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。

すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、砲撃目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
────────
その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。

「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。

そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。

かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。

ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。

写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】

しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
2013 11再訪時 畢昇像 印刷博物館再訪写真右より  邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 、やつがれ、ノー学部

《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型製造法の概略史》


< 展示パネル 「 銅模 (字模)」 釈 読 >   翻訳協力 : 郝 丽敏

「 銅模 (字模)」 ―― 活字母型
1895年 〔 清朝光緒20年、明治28年 〕、かつて美華書館のアメリカン人 ウィリアム ・ ガンブル〔ギャンブルトモ。 ガンブルの中国音表記 : 姜別利  *01 〕と会合をかさねていた、中国人の印刷技術者が、電鋳法による活字母型を製作し、活字版印刷術の応用をおおいに推進した。

1906年、上海出身の周 松猷は電鋳法による活字母型専門製作所である「菘蘊字所」を開設した。
その後、申報館、世界書局、呉順記、商務印書館、中華書局、芸文印刷局、漢文正楷印書局、北京文嵐籍などの印刷所 ・ 出版社 ・ 活字鋳造所では、書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、高 去塍、陳 履坦、英 子敬らによって設計された、楷書体や倣宋体〔わが国の宋朝体〕を開発し、その後の定型化された活字書体となった。

1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
──────────
〔筆者補遺〕
◯ タイトルの「 銅模 」 ( 字模 ) は、いずれも活字母型をあらわす。 「 模 」 は、「 模型  真似 写した型 」 とされるように、わが国の 「 ≒  型 」 をあらわす。
「 銅模 」は電鋳法の時代、その固定支持材に銅をもちいたことによる。
「 字模 」は機械式活字母型彫刻機 ( わが国の俗称ベントン彫刻機 ) の時代、その彫刻材料 ( マテリアル、通称 マテ ) が、おもに真鍮となり、電鋳法との差異化のためにもちいられた。

◯ *1  姜別利――ガンブルに漢音をあてたもの。 William Gamble,  ( ? -1886
アメリカのプロテスタント宣教師兼活版印刷技術者。 はじめ寧波(ねいは、ニンボウ)のアメリカ租界にて印刷をおこない、のち上海租界に美華書館を設立、移転。
長崎に居住していた、ギド ・ フリドリン ・ フルベッキの仲介をえて、明治06年06月ころに来日して、長崎製鉄所活版伝習所に技術を伝えたとされる。

ギャンブルは幕末に、すでに俗称ヘボン辞書として知られる、ジェームス・カーティス・ヘボン編 『 和英語林集成 』 ( 1867年 ・ 慶応03年 ) を岸田吟香の援助も得ながら刊行していた。 またその明治05年の再版本も美華書館の印刷によっている。
このように、巷間知られる以上に、上海時代、それも来日以前から、わが国の薩摩藩士、岸田吟香らの知識層との交際はひろく、『 和訳英辞書 』 ( 明治02 )、『 官許大正増補和訳辞林 』 ( 明治04 ) ―― 前記二冊の大型辞書は いわゆる 「 薩摩辞書 」 として知られる。
『 仏和辞典 』 ( 明治04年01月 )、『 和英語彙 』 ( 明治05 )、『 官許独和字典 』 ( 明治06年05月 ) などを、上海美華書館で組版 ・ 印刷 ・ 製本作業を担っていたことはもっと注目されてよい。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
もともと 「 書 」 をおもくみる中国では、活字版印刷が隆盛する前に、「 書 」 そのものを転写できる石版印刷がさかんだったという近世印刷史の特徴があった。

丁 補之、丁 善之の兄弟が開発した 「 聚珍倣宋版 」 はすでに一部紹介した。
鄭 午昌は 漢文正楷印書局に、「 正楷書活字 」 をのこし、この二種類の活字書体は、昭和初期に 名古屋 : 津田三省堂によってわが国にもたらされ、「 宋朝体活字 」 「 正楷書活字 」 として、いまなお盛んに使用され、さらにさまざまなバリアントもうんできた。

そのほかには、「 新魏 シンギ」 という名の、魏碑体から範をとったとみられる特徴のある活字書体と、「 小姚 ショウヨウ」 が 「 上海字模一廠 」 から発売されている。
北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は、発売直後から 丁 補之、丁 善之兄弟とのあいだで深刻な争いが発生したもので、北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は現代の視点でみると 相当問題がある。

最大手の商務印書館は、独自の倣宋体活字を開発しており、これは大阪 : 森川龍文堂から  「 龍宋 」 という商品名でわが国でも発売されたことがある。  おおらかな、やわらかみのある倣宋体 ( 宋朝体 ) といってよい。
「 龍宋 」 はそのご モリサワに譲渡され、写真植字の時代には好評だった書体であるが、いまのところデジタル化はされていないようである。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
清朝末期から、民国初期の活字開発をしるしたこのパネルには、うっかりすると看過されがちだが 「 明朝体 宋体 」 の名前がみられない。
わが国の140年の歴史を刻んだ近代活字版印刷においては、終始明朝体がその中核をしめる書体であった。
どういうわけか中国における「明朝体 宋体」への関心は低く、ある種冷淡ともおもえることがある。 これは明朝体以外の書体を分析する作業から、おのずとあきらかになりそうなことがらである。

◯ 1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
このパネルを前にして、中国への機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機の導入時期を張 連章 氏にうかがった。
「 清朝末期、それも上海租界地でのことは資料がすくないのですが、機械式活字母型彫刻機は、商務印書館、中華書局などの大手には、清国末期から民国最初期には導入されたとされています。 丁 補之、丁 善之の聚珍倣宋版は、中華書局での機械式活字母型彫刻機をもちいた活字とされています 」
わが国に機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機が導入されたのは、1912年(明治45)印刷局への導入がはじめとされてあらそいがない。
清朝最末期をラストエンペラー、宣統帝 溥儀の時代とすると、1908(明治41)-12(明治45・大正元) となる。 地下倉庫でみた機械式活字彫刻機は、ATF 社のものでも、わが国の製造でもなかった。 どうやらほぼおなじころに、機械式活字母型彫刻機が 日中双方に導入されたとみてよいようである。る。
                                                                                                                                                                  
DSCN1315 DSCN1326 DSCN2810

【 初出 活版 à la carte : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日 】

朗文堂好日録041 ウーパールーパー/ウパルンとウパラン

 

DSCN8090 DSCN8089
《 おどろいた! 中国 ・ 台湾に電子メール年賀状を送っていたら、サーバーから?  こんな送信が 》

恭賀新年
我目前不在回覆 : 恭賀新年
This is an automatic reply of the email system.

We are on Chinese New Year break from February 17 to 23, please expect slow response during the holiday.
Thank you very much and Happy Chinese New Year!
──────────
中国の旧暦の正月、春節の混乱のことはあちこちにしるしてきた。 ともかく郵便、銀行、物流などまで、ほとんどの業務が停止し、公称13億からの民艸がそれぞれの郷里めざして大移動するから、交通機関は阿鼻叫喚の状況を呈することは知っていた。
しかし e – mail までが遅滞するとは、まったくおもいもよらなかった。

ここのところ、「寒い、さむい」とこぼし続けている。 こよみの上では春とはいえ、札幌では雪祭りが開催されているし、オホーツク海に面した海岸には流氷が押しよせているという。
気象庁の < 積雪の一覧 02月17日> をみたら、やつがれの郷里 : 飯山市は160cm,  オヤジの郷里 : 野沢温泉村は221cm,  冨沢みどりさんの住む白馬村は109cm の積雪をみるそうである。
地球温暖化、暖冬などというが、この寒さはなんとしたことだろう。
せめて、たなばたや盂蘭盆会とおなじく、もともとの農耕民らしい太陰暦にしていれば、「こよみの上では春だから……」 という錯誤はなくなるのに、などとやつあたりもしたくなる。
──────────
せっかく 歌舞伎のこと も書いたし、ベランダの 「 わっせクン ・ 才助 」 のこともしるした。
ついでだから、わが家の怪獣/サラマンダーこと ウーパールーパーのその後を< 朗文堂好日録 > にしるさむ。
かくいうのは、どうも飽きっぽいノー学部のことゆえ、最近は二匹のウーパールーパーの面倒をあまりみなくなってきているからである。

わが家のサラマンダー、珍獣ウーパールーパーは、初代のアルビノこそ飼育に失敗したものの、「 ウパルン 」 (色黒のほう)「 ウパラン 」(色白のほう) の二匹とも、アイスクリームのカップに入ってやってきたとはおもえないほどおおきくなったし、元気いっぱいである。
ふだんは海底に潜む潜水艦さながら、水槽の下にへばりついて運動不足が心配されるが、お腹がすくと、水草も蹴倒して餌の催促である。

従順な犬や猫がかわいいのはあたりまえだが、「 火喰い蜥蜴 トカゲ」 ともされるサラマンダーを、ペットとして飼育するのには若干の諧謔趣味が必要かもしれない。 ふつうの感覚なら不気味とされても仕方なかろう。
それでも飼育をつづけると愛着が湧くもので、短文ブログなどでは、毎日のように サラマンダー自慢 をするひともいる。
< ウチの 仔 ?  は イケメン ?  だし、日本でいちばんかわいい ?  ワ、 ネッ !   ?? >
ネッ !   といわれても、ウチの「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 と大差なくみえるから困る。
まぁサラマンダーが かわいいものかどうかの判断は、皆さんにお任せしよう。

【 関連情報 : 朗文堂好日録ー037 なにかとあわただしい師走です。【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas

もともとサラマンダーは、うごきが鈍重で、視力もよわく、なによりもものぐさである。
つまり採餌の努力はほとんどせず、視力がよわいので、底に砂や小石でも敷くと、餌と勘違いして呑みこんでしまう。 だから餌はいつもタナボタで、天からでも降ってくるとおもっているようで、しかもせっかくあたえた餌も、頭にのせたまま平然としているほどのものである。
しかも最近は水草の上に腰をおろしてくつろぐという芸も覚えたようである。

uparunn DSCN4450 DSCN7406 DSCN9509

昨年の暮れに近くの熱帯魚ショップで、ウーパールーパーの餌を補充した。 いつもの固形の餌のほかに、生き餌として、「 アカヒレ 」 という メダカのような小魚20匹と、「 エサキン 」 とされて販売されている ちいさな金魚10匹であった。 それぞれ300円ほどの価格だったろうか。

「 アカヒレ 」 はウーパールーパーの水槽に入れられたが、「 エサキン 」 はやつがれがとりあげて、しばらくはということで、ベランダのプラスチック段ボールを水槽がわりに、そこに水草とともにいれた。
ほぼ隔日で餌をやっているので、「 エサキン 」 はすでに立派な金魚に成長し、声をかけるとよってくるまでになった。
「 アカヒレ 」 のほうは、半分ほどに減ったが、もうウーパールーパーの攻撃にたいする防御をおぼえたようで、最近ではウーパールーパーの鼻面近くを平然と泳ぎまわるまでになった。

ところで、しかもなにごとも鈍重なウーパールーパーだが、ノー学部の声を聞きわけ、敏感に反応するのはおどろきである。 そのために愛着があるのか 感心なことに、糞の始末だけは丁寧かつこまめにやっている。
きがかりなこと。  あまりに寒いせいもあるのか、最近ノー学部が水替えをサボりがちである。
これはわるいサインである。 いずれ水替えの役をやつがれに押しつけようとしているとみた。
やってもいいんだよ。 そのかわり床一面に盛大に水をこぼすけどね。

朗文堂好日録040 【歌舞伎鑑賞】 地球投五郎宇宙荒事 よかったですよ!

 

20150213145417033_0003 roppongi_ff[1]EXシアター六本木   六本木歌舞伎   平成27年02月03日[火]-18日[水]

地球投五郎宇宙荒事

ちきゅう なげごろう うちゅうの あらごと
──────────
< 制作発表記者会見 より>
幕が上がるのは国際都市 ・ 六本木にある 「 EXシアター 六本木 」 である。
歌舞伎ファンならずとも、多くの人に親しんでもらえるような歌舞伎をつくってみたいという。
脚本は、現今売り出し/宮藤官九郎。 演出は、歌舞伎はまったく初挑戦の映画監督/三池崇史。
とことん歌舞伎様式にこだわり、生身の人間の、歌舞伎役者にしかできないことをやるというのがこの物語の面白さだという。 はたして、最後に地球はどう持ち上がるのか?
市川海老蔵、中村獅童、宮藤官九郎、三池崇史 ??  この強烈すぎる 4 人により、とんでもない化学反応的が起こりそうな予感だ。
さて、どうなることやら…。  しかし、これはなんとしても見逃すわけにはいかない !!!
──────────

家の芸を大切に、古典を掘り起こしながらも、次々とチャレンジを重ねてきた市川海老蔵と、歌舞伎役者として舞台映えする 古風さと迫力、そして時代の最先端を駆け抜ける 幅広い魅力の中村獅童が、2015年2月、宇宙規模の新作 六本木歌舞伎 「 地球投五郎宇宙荒事 」  にチャレンジする !

< 惹 句-あらすじ >
時は元禄。 浅草 ・ 浅草寺の空中に円筒形の宇宙船が現れた。 その船から降り立ったのは悪の親玉 ・ 駄足米太夫、衛利庵(えいりあん)である。
その妖気に怯えた江戸の庶民は 上を下への大騒ぎ。 すでに度重なる宇宙生命体の襲来により、江戸幕府はその機能を失っており、パニックを避けるためには、宇宙人の存在を隠蔽する必要があった。

法漢和尚は機転を利かせて、庶民に 「 これは歌舞伎だ! 芝居だ! 」 とごまかし、混乱を沈めた。 そこに花魁道中が通りかかる。 米太夫は地球侵略の手始めにと、吉原一の花魁 ・ 高窓を人質にとらえる。 正義の味方、五郎に扮した團九郎が登場するも、いとも簡単に高窓を連れ去られてしまい……。
團九郎と米太夫の 悲しくも数奇な運命、 團九郎と米太夫の決闘はいかに……。
──────────
いやぁ、よかったですよ。
02月11日[水 ・ 祝]、六本木での成田屋と萬屋の大激突、波瀾万丈の舞台でした。
歌舞伎座が改修工事にはいり、こけら落としののちも、切符が入手難で、ここのところ歌舞伎鑑賞から遠ざかっていた。
たまたま悪友に 三代目松本錦吾(高麗屋) がいて、改修前の歌舞伎座にはしばしば通った。 松本錦吾は若手育成の担当などもしていたので、市川海老蔵も、中村獅童も、浅草公会堂や国立劇場で、子役のころからみてきた。
またこういう通ぶったいいかたはいやらしいが、先代の松本幸四郎(白鸚)、先代の市川團十郎もみてきた。

やつがれ、弱小のみぎり、戯作者 : 福地櫻痴、眞山青果らにあこがれた恥ずかしい過去がある。 これは非才をきつく指摘されてわりとあっさり断念した。
したがっていささか口惜しくもあるが、新作歌舞伎の戯作者として、宮藤官九郎という、あふれんばかりの才をゆうした人材と、時代をともにすることをとてもうれしくおもう。

また成田屋 : 市川海老蔵は お家の流儀、荒事を背負ってじゅうぶんであり、萬屋 : 中村獅童も 梨園の中核を担うにふさわしい熱演であった。
それにしても、やつがれの若き時代の一ページを飾った新劇は不振である。 そして梨園に次次と多彩なエンタテナーが登場するのが羨ましくおもわれるこのごろである。
なによりも、やつがれ、馬齢をかさねてきたことをただただ痛感させられた。

【 関連情報 :EX シアター六本木 地球投五郎宇宙荒事 】 08月に名古屋 ・ 大阪公演があります。

朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶

朗文堂 タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏 > には、さまざまなカテゴリーをもうけているが、そのひとつに、「 朗文堂好日録 」 のカテゴリーがある。 このコーナーは、いつの間にか39回の掲載をみた。

もともと <花 筏> には、日日のよしなしごとを、気軽にしるしてきた。
なかんずく、「 朗文堂好日録 」 には、もろもろのことを、おもいつくままにしるしてきた。
それが良かったのか 悪かったのかしらないが、おもいのほか ( わがままきわまる ) 固定読者がいて、すこしでも掲載をおこたると、「 躰の具合でもわるいのか 」 と心配(のフリ)をしてお便りを頂戴したり、ときには 「 サボるな!」 とメールで叱責されたりする。
花筏 京都・哲学の道【 花筏 : タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏での花筏 2013年12月28日
──────────
あちこちに、なんどかしるしてきたが、ノー学部がベランダいっぱいに煉瓦を積みあげ(それ以降は放置
)、さまざまな艸艸を植え、たいせつにしてきた(やつがれ) 「 空中花壇 」 を、昨年、マンションの補修工事のために、ロダンの椅子 ( 100円ショップで購入のバケツを裏返したものダケド ) もろとも、完全に撤去されてしまった。

万事にしまりが無く、だらしないやつがれではあるが、唯一自慢できるのは、こよなく喫煙を愛するがゆえに、布団にはいっての 「 寝たばこ 」 をしないことである。
この誇るべき、うるわしき習慣は、まだ田舎の中学生のみぎり、布団をひっかぶって 「 かくれたばこ 」 を吸っているうちに、ついつい心地よくなってうたた寝をし、布団を焦がし、火傷を負ったあげく、オヤジに張りとばされたことによる。
したがってそれ以来、寝室というより自宅内では喫煙はしないし、もちろん灰皿もおいていない。 ただし、ばんやむを得ず、日中はきりなく喫煙するので、最近は威勢の良い、嫌煙家の諸君 ・ 諸嬢からはきらわれることはなはだしい昨今の窮状である。

DSCN7958 DSCN7987 DSCN7990 DSCN7989 DSCN7994 DSCN7977というわけで、寝起きのたばこは、寒かろうが、暑かろうが、ベランダで吸う。
これがまた、ことのほか美味いのである。 思索に耽る ?!  ための 「 ロダンの椅子 」はまだ復元していないし、もちろん 「 空中庭園 」 は、姿、形とも無い。

それでもベランダには徐徐に植物が増えてきた。 鉢植えの、花屋で買ってきたようなものだが、この冬は 「 ナデシコ 」 の寄せ植えが色とりどりの花をつけ、目を楽しませてくれた。
昨年の11月に鹿児島で買ったイチゴ(品種はわすれた)は、寒さにふるえながらも、けなげに花をつけ、実になろうとしているようだ。

ところで、ベランダを占拠している異物が < わっせクン > である。 < わっせクン > はバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させる。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた < わっせクン > と挨拶、顔合わせをつづけている。

DSCN8651 DSCN8664DSCN7994

< 才助 > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていたちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところは静かにしておこう。 【 ウィキペディア : 五代友厚

鹿児島からもちかえったこの艸に、油かすの肥料をたっぷりあたえ、鉢植えにした。 残念なことに移植の直後に一株はカラスにもちさられたが、冬だというのにみるみる成長した。 石垣の割れ目では、いかんせん気の毒な感じがしたものだ。
この艸の名前はいまだにわからない。 名前がないのもなにかと不便だから < 才助 > と名づけて成長をみまもっているが、どうもたんなるデージーのような気がしないでもない。
それならそれでも良い。 やつがれ、五代才助こと、五代友厚の 稚気にみちた才覚が好きであるから……。
──────────
2013年清明節に咲いた菜の花。
DSCN9993上掲02点の写真は、上が菜の花、下が野沢菜である。
菜の花はかつて 「 空中庭園 」 での栽培で、昨年年末にアダナ ・ プレス倶楽部忘年会に供した 「 野沢菜 」 は、ベランダでの鉢植えで育てた。

やつがれのふるさと、信州最北部では、菜の花よりも野沢菜の開花をたのしむふうがあった。
ことしは菜の花のふりをした野沢菜の開花をみるために、正月元旦に(ひまだったから)鉢いっぱいにレンゲ草とまぜまぜにして播種した。 いまはようやくフタバをつけたところである。
やつがれ、雪国うまれではあるが、関東平野のこの乾燥した寒さは苦手である。
春をまつこころ、切なるものがあるこのごろである。

春を待つこころ ー 早春賦の碑

早春賦20141125122934304_0002

唱歌 『 早春賦 』(そうしゅんふ)は、1913年(大正02年)に発表されたもので、吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
この時代の唱歌によくみられるように、モーツァルト作曲の歌曲 『 春への憧れ 』 K.596 との曲想の類似性が指摘されている。

この歌碑は、春の訪れがおそい、長野県安曇野市穂高の穂高川の岸辺に建っている。
その脇には、北アルプスの湧水をもちいた「わさび田」がひろがっている。
如月、二月、このあたりは丈余の雪にうもれている。 春をまつこころ、せつなるものがある。
[ 2014年11月23日 撮影 ]
DSCN9371DSCN9376DSCN9360DSCN9379DSCN9365DSCN9367

【 YouTube : 早春賦   由紀さおり & 安田祥子
【 関連情報 : 早春賦の碑

朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

   01  プロローグ 

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきていたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。
こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとボヘミア地方の住人のことで、その中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただしその地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには流浪し、堪え忍んできたという歴史もある。

また鉄鋼業を中心に産業もさかんであり、古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほど、ドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 またガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
──────────
ところでノー学部。 オカルトだい好きのノー学部の本棚には、やつがれがアンタッチャブルな一隅がある。
趣向が異なるやつがれには詳しいことは不明だが、そこには不気味な書籍がずらりと並んでいることは知っていた ( のちにその多くに、ヤン ・ シュヴァンクマイエル などの、チェコとゆかりの深い資料が含まれていることを知ることになる )。

そしてはなしの端端から、ノー学部も長年チェコ行きの機会をうかがっていたことも気がついていた。
ただしやつがれが10年ほど前に からだを壊したことと、飛行場や航空機が禁煙となり、愛煙家として大陸横断の長距離フライトを敬遠したために、最近は国外旅行といえば、もっぱら近場の中国や台湾が主流となっていた。

しかし一昨年2013年の年末、ノー学部がいつものごとく、やつがれにはなんの相談もなく、唐突に、
「 来年の秋に、チェコに行くチケットを予約したからね 」

とのたまわった。
そんなわけで、2014年の晩夏に03泊04日の弾丸旅行でプラハにいった。
報告がおそくなったがここ < 花筏 > に何度かにわけて報告したい。

DSCN5421 DSCN5437 DSCN5427 DSCN5440 DSCN5431 DSCN5444

プラハ到着の翌日、時差のせいもあって、早朝から起床してホテルの近くを散策した。
市民会館前の広場に面して ちいさな教会があり、その石彫の文字がおもしろかった。 聖書の一節らしかったが読めなかった。
それでも こういう素朴な教会には似合いの石刻文字であり、「ローマ大文字 I 」 が長くのばして書かれている 「イ ・ ロンガ、アイ ・ ロング 」 も印象的
だった。

協会中庭の壁面に 数枚の木製の長板があった。 わが国の 「 千社札 」 のように、ここに礼拝した記念にのこすのであろうか、金属製のプレートに名前や祈祷の句を、刻印やシルク印刷にしたプレートが、たくさん木製の板に打ちつけてあった。
この習慣は合理的で、長尺の木板がプレートでいっぱいになると、教会内部の一隅に一定期間保存されるらしい。  これならば、ところ構わず、薄汚れた 「 千社札 」 がベタベタと貼りつけられた わが国の神社仏閣よりは、よほど清潔でよい。

《 プラハは様式のまちとされる ―― ロトンダとゴシックの建築と活字書体 》

LETTERS OF LATIN ORIJIN
ローマを起源とする文字
Roman Letter   なめらかな文字 : ローマン体
Blackletter   折れた文字 : ブラックレター

◯ Blackletter  = Round Gothic,  Rotunda -ラウンド・ ゴシック、ロトンダ  since 1486
i , n , m の上部のセリフが、鋭い尖りではないが折れている。カロリング朝の小文字のようなまるみを持つ。
rotunda_02
◯ Blackletter  = Textur - テクストゥール since 1455
小文字のストロークがほとんど折れている。
liturgisch_02
                     参照資料 ―― ヤン ・ チヒョルト  『 書物と活字』  ( 朗文堂、p.24)  DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハのもっともふるい地域、ヴィシェフラド丘に現存するロトンダ様式の教会。
1100年ごろに建てられた聖マルティン教会のロトンダで、現存する建物の中ではプラハ最古の建築物とされる。 

このころの石積みは素朴で、ロマネスク様式の特徴である平天井を支えるために、石壁は粗削りで、分厚く、入り口や窓はちいさく開けられていることが特徴である。
この正面入り口は後世に改造されたとみられるが、壁と採光のための窓は創建時の素朴さをたもっていた。
この教会には、活字書体 < ロトンダ > が似合いだとおもった。 しばらくベンチや芝生に腰をおろしてながめていたが飽きなかった。
──────────

DSCN6117 DSCN6114 DSCN6109

DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハ観光の最大の中心地、プラハ城には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

09月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをして、懐があたたかくなった若者たちが、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。

「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。
この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。
──────────
明け方は閑散としていたホテル近くの市民会館広場だったが、しば
らくすると露天がたくさんでていた。チェコのものなりの豊穣さを感じさせる店がおおく、チマチマとプラスチックのケースやビニール袋などに入れず、おおきな箱にはいって、ドカンドカンと陳列され、地元客と観光客とであふれていた。

その一画に 「 鍛冶屋 」 が出店していた。 コークスが赫く燃え、鞴フイゴこそ足踏みにかえてモーターを用いていたが、ふるくからあった村の鍛冶屋のふんいきがよかったし、オヤジの頑固そうな風采も気に入った。

だいぶ長いことアホ面をさらして「 鍛冶屋 」をみていたので、脇の店舗でテヘッとした表情の「蜘蛛」の細工物を買った。 オヤジが気になったのかのぞいて、塗料がはげているから直す……、という素振りをみせたが、このテヘッとした表情には、かえって塗料がはげかかったそれがよかった。

プラハは職人と工匠のまちでもあった。
あの「千社札」のようなプレートも、こうした工匠がいてこそ製作される。 わが祖国よ、日本よ、いつのまにか、ものづくりの匠のこころと、技芸家、アルチザンの精神をうしなってはいないだろうか……。

おそい夕陽がさすころ急に冷気がしのびよせた。
広場の片隅で、珈琲をのみながらそんなおもいに沈んだ。
DSCN5460 DSCN5461 DSCN6226 DSCN6225 DSCN6222 DSCN7087 DSCN7092
DSCN6526

【展覧会】 塔本シスコ展 文化フォーラム春日井 ・ ギャラリー

20150116_塔本シスコ展_A4チラシ_オモテ面_再入稿データ_ol20150122144924062_0002塔本シスコ(1913-2005)は熊本県うまれ。 サンフランシスコにあこがれた
父親の夢にちなんで、シスコと名づけられたとされます。
50歳を過ぎてから本格的に絵を描きはじめました。

そして92歳で亡くなるまでのあいだ、膨大な数の作品を残しました。
創りたいという衝動が生み出した作品からは、圧倒的なエネルギーと共に
塔本シスコの明るく朗らかな人柄が伝わります。
塔本シスコは、「 岡本太郎とアールブリュット」 展、日経新聞 ( 2014/10/24 )、
雑誌 「 ku:nel 」No.71 (2014.11.20発売号)などで紹介され、注目が高まっています。

◯ 会  場
文化フォーラム春日井 ・ ギャラリー
◯ 開催日

2015年02月14日[土]-03月29日[日]  ※ 月曜休館 ( 祝日の場合は翌平日 )
◯ 時  間

10 : 00-17 : 00
◯ 入場料

¥300 ( 65歳以上 ・ 中学生以下 ・ 障がい者手帳を持参の方とその介助者 1 名 無料 )
◯ 主  催

かすがい市民文化財団

【 企画詳細 : かすがい市民文化財団 塔本シスコ展 ~こどもの心を持ったおばあちゃん画家~
──────────
なんとも、ときのたつのが早く感じられます。

愛知県春日井市の 「 かすがい市民文化財団/文化フォーラム春日井 」 にお招きいただき < アダナ ・ プレス倶楽部 in かすがい市 > を開催したのは2010年11月13日[土]―14日[日]のことでした。

2006年に発足した朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が、 Adana-21J の設計 ・ 試作を終えて、本格的に Adana-21J を発売したのは2008年のことでした。
ですからアダナ・プレス倶楽部にとって、新製造の活版印刷機 Adana-21J をひっさげ、東京をはなれて、
最初の大型イベントが < アダナ ・ プレス倶楽部 in かすがい市 > でした。

ふり返ってみると、< アダナ ・ プレス倶楽部 in かすがい市 > は、たった02日間のイベントだったのか、とおどろきます。 それほど充実して、成果とインパクトのおおきなイベントでした。 その成果の一環でしょうか、中京地区、とりわけ愛知県には アダナ ・ プレス倶楽部の会員のかたがたくさんいらっしゃいます。
多くのご来場者を会場に迎え、ワークショップに、展示に、そして中京地区の会員と、東京から出張った会員との交流にと、ともかく春日井市でのイベントは忘れられない存在です。

うれしいことに当時のスタッフが在籍されており、折にふれて催事案内などをいただいております。
そこに添えられた 「 一筆箋 」 は、さすがに 「 書のまち春日井 」 ―― 書家/小野道風生誕の伝承地とされるのが春日井市 ―― だけあって、嬉しく、また懐かしくなると同時に、あまりの達筆に、悪筆のやつがれはいつも赤面するばかりです。

【 関連情報 : アダナ・プレス倶楽部 in かすがい市 活版ルネサンスの進展を実感! 2010年11月16日  20150122144924062_0003

上掲図版は、かすがい市文化財団情報誌 『 Forum Press  Vol. 65 』 ですが、文化フォーラム春日井は、映画 ・ 音楽 ・ 講演会 ・ 展示 と、じつに様様なイベントを丹念に積みかさねています。

20150131002711812_000120世紀美術と アウトサイダー ・ アート <パラレル ・ ビジョン > 展
1993年09月-12月  世田谷区立美術館 図録表紙

今回の展覧会 <塔本シスコ展> のような作品群を、なんでもカテゴライズしたいひとの一部では、アウトサイダー ・ アートといいます。
アウトサイダー ・ アート (英 : outsider art ) とは、特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向 ・ モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいうようです。 【 ウィキペディア : アウトサイド ・ アート

ところが 「 アウトサイダー 」 には局外者 ・ 部外者の意がありますし、「 アウトサイダー ・ アート 」 には健常者と障害者の二項対立することばの影をみないではありません。
うれしいことに、文化フォーラム春日井のキューレーターの姿勢には、そんな影はみじんもみられません。 さすがです。
いずれにしても、みんなで努力して、「 アウトサイダー ・ アート」 にかわる、あたらしいことば、あたらしい概念をつくっていきたいものですね。

【再掲載】 アダナ・プレス倶楽部 in かすがい市 活版ルネサンスの進展を実感!

アダナ・プレス倶楽部 in かすがい市

本項の初出は2010年11月16日、アダナ・プレス倶楽部ニュースでした。
当時はブログ型メディアの容量がすくなく、画像などはちいさく紹介しておりました。
このたび <活版 à la carte> において久しぶりに春日井市を取りあげましたので、ここに画像の一部を入れかえて再掲載いたしました。

【 関連情報 : アダナ・プレス倶楽部 in かすがい市 活版ルネサンスの進展を実感! 2010年11月16日 】 

◯ 日 時     2010年11月13日[土]―11月14日[日]
◯ 会 場     文化フォーラム春日井
◯ 主 催     財団法人かすがい市民文化財団

*  活字版印刷ワークショップ   クラス 1 ――  学童向け  クラス 2 ――  一般向け
*  企画展示  < 活版印刷の歴史と未来展 >

書の町として著名な、かすがい市民文化財団様からの熱心なお誘いをいただき、アダナ ・ プレス倶楽部が、愛知県かすがい市に出張して、 「活字版印刷ワークショップ」 と、 「企画展示 ―― 活版印刷の歴史と未来展 」 が盛況裡に終了いたしました。

かすがい市民文化財団の皆さま、そして東海地区にとどまらず、京阪神地区、北陸地区からお越しいただいた皆さまにあつく御礼を申しあげます。
また在京のアダナ ・ プレス倶楽部会員の皆さまも、遠路を春日井市まで駆けつけてご協力いただきました。 本当にありがとうございました。

02日間、04回、各回10名の定員のワークショップは、各回とも事前申込みが定員を大きく上回り、参加者は相当な倍率の抽選をくぐり抜けてのご参加だったそうです。
そのためご夫婦で申し込まれたのに、おひとかただけが当選となって、どちらが参加するのかちょっとした 「 家庭騒動 」 もあった、と笑いながら漏らされた参加者もいらっしゃいました。
ですから毎回の参加者の意気込みはひとかたならぬものがあり、スタッフも熱気にたじたじの内容の濃いワークショップでした。

企画展示は、テーマを 「 活版印刷の歴史と未来展 」 として、従来あまり論究されることがなかった東海地区の活版印刷と活字鋳造に関して、あたらしい資料をご紹介し、この地で製作された図書などの実際をご覧いただけるように努力いたしました。
また、活版関連機器や資材は重量があって出張展示には適さないのですが、できるだけ多くの実物を運搬し、活版印刷の魅力と可能性をご紹介するべく努力いたしました。

通常、アダナ ・ プレス倶楽部のイベント報告は写真紹介が少なかったのですが、主催者のかすがい市民文化財団様から写真データをご送付いただきましたので、百聞は一見にしかず、今回の報告は写真画像を中心にご紹介いたします。

7198e3da_4ce08ae9まずはお行儀良く着席して説明を聞きます。
a45b8082_4ce08ae2活字を組み終え、印刷に突入、踏み台に乗っての作業。
b7d68395_4ce08ae6 合間をぬっての特製名刺ホルダーの製作作業。
a27e84fb_4ce08af2  花形活字も名前も組んだ。 あとは印刷機で刷るぞ!
a2e11136_4ce08aec花形活字入りの名刺がドンドン刷り上がります。
d9518372_4ce08aef 360f9de_4ce08e2f  一番お気に入り名刺は誰にも見せないでおこう!
\(^O^)/>^_^<\(^O^)/(^◇^)\(^O^)/(^o^)\(^O^)/
eab2e4d3_4ce08cb3ドウダ! ボクもワタシも活版印刷やさんだぞ!
dfd2e969_4ce08a2f自作の詩を和様三号活字から文選作業。活字初体験!

78d55f6f_4ce08a1f  文選した活字を組版ステッキに組み並べる参加者。
9de287a_4ce08e1b  読みにくい和様三号活字でも、要領さえわかれば独りでも。
2f0bc0c8_4ce08a27* * *
7a37f52b_4ce08f87* * *
9751af37_4ce08962ゆったりとした会場に心地好い緊張がはしる会場。
14463b51_4ce08cc2 2955044d_4ce08e21 dc037fd7_4ce08e26  脈々と継承された活字の全貌がわかる展示に熱い会場。

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01

 

商標_聚珍倣宋印書局マークDSCN0899商標_聚珍倣宋印書局
《 稀覯書 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 について 》
2013年6月と11月、2014年01月と 中国 ・ 北京を訪問した。 さまざまなひとにおあいし、さまざまな企業、さまざまな場所にいった。 そのとき、なにかとやつがれらをサポートしていただいたのが 「 シンさん 」 であった。

11月の訪問のおり、「 シンさん 」 が、
「 大切にしている図書です 」
といって鞄から取りだしたのが、『 聚珍倣宋版式各種様張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう 』 であった。

そのときは撮影をゆるされ、01月に再会した折には低解像度の複写版をいただいた。 いずれきちんとした研究者の手によって、まとまった形での発表を 「 シンさん 」 は望まれていた。

もともと宋朝体活字にはこだわりがあった。 それ以来やつがれは、この資料と 「 宋朝体活字、聚珍倣宋版、仿宋体活字 」 の様様な資料を、折に触れては取りだして、周辺情報との突き合わせをしていた。
ところで最近、「 シンさん 」 が同書を北京のタイポグラフィ ・ イベントに展示したところ、SNS メ ディアに一斉に画像がながれてしまったという。
「 シンさん 」 は同書を個人所有していることを公表しないとしていたにもかかわらずである。展示会は撮影禁止で、鍵付き硝子ケースのなかに入れてあったのにと嘆いていた。

もちろん SNS メディアのユーザーの一部であろうが、昆虫採集に熱中する少年のように、ともかく目新しいものに飛びつき、あるいは、あたかも脊髄反射のようにメディアに掲載してしまうのは、わが国でもしばしば見られるところである。
こんないきさつがあって、「 シンさん 」 はやつがれに、はやい発表を督促してきた。 ところがやつがれは 「 きちんとまとめる 」 ことを苦手とする。すなわち適任ではない。

《 わが国の基幹書体の明朝体に愛着はあるが、さらなる発展を望むには おのずからなる限界がありそうだ 》
近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。
明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

さりながら、明朝体活字の初期開発は、近代化という名のもとに、欧米における産業革命の成果をとりいれ、さまざまな機器をもちいて開発された活字書体である。
明朝体活字は、ひろくは中国の楷書のカテゴリーにありながら、開発初期に、すでにモダンスタイル ・ ローマン活字をうんだ西洋合理主義の影響からか、造形としての 「 字 」 をあたかも突きはなすような姿勢がみられた。
すなわち、「 篇 ・ 旁 ・ 冠 」 などを組み合わせてもちいる、いわゆる 「 分合活字 」 開発の歴史にみられるように、「 字  ≒ 漢字」 にたいする徹底した割り切り、すなわち合理化、様式化、分業化された製造態勢がなされている。

そのためか、「 字 ≒ 漢字 」 がもともと内包している、ひととことばの歴史の堆積、手技の痕跡、身体性の発露などは、みごとなまでに消し去られている。
換言すれば、ふつうの生活者はもとより、書芸人、書写人でもこの 「 字 」 の書風を描くことができない。 また、一定の訓練を経ても、道具と機械 ( 現代ではコンピューターとソフトウェア ) の援助なくして、その原字をつくることもできない、いわば一種の工業製品ともいうべき、無機質な存在の 「 字 」 となっている。

こうして明朝体活字の 「 字 ≒ 漢字 」 には機能性がむき出しになり、水平 ・ 垂直線ばかりがめだつ、鋭利な線質となり、およそ自然界には存在しない機械製造による造形物、工業生産の産物として、近代明朝体活字は時をかさねてきた。
もちろんこの間、東京築地活版製造所の平野富二、その右腕 : 曲田 茂マガタ-シゲリ、後継者のひとり : 野村宗十郎らの献身的な改刻の努力があった。
さらに秀英舎 (現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一、第二代 : 保田久成、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎らの功績も看過できない。
それだけでなく、たくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたった。

さらに明朝体活字にとって追い風となっったのは、わが国の近代文章語における仮名、なかんずくひら仮名の存在と、その併用をあげたい。
わが国の近代文章語とは 「 字 ≒ 漢字 」 の上だけで形成されたものではない。 やわらかで、書芸や手技の痕跡をいかした柔軟な和字、ひら仮名、カタ仮名に加えて、「 字 ≒ 漢字 」 を併用することよって、無機質で、能面のような、近代明朝体活字 「 字 ≒ 漢字 」 の組み版は、表情豊かな、馥郁とかおりたつような印刷紙面を形成して、近代文章日本語の形成に貢献してきたといえよう。

ここに、わが国の読書人にみられる 「 ひら仮名活字と組み合わされた 」 明朝体活字への愛着と拘泥と、「 字 ≒ 漢字 」 の明朝体活字だけをもちいる 中国の民衆 ・ 読書人にみられる、明朝体活字への無関心、ないしは軽視の姿勢の、彼我の相違を理解することができる
──────
後述の機会を得たいが、高齢化して病床についた毛沢東 ( Mao Zedong  1893-1976 ) の読書への意欲はいっこうに衰えをみせず、魯迅の著作の全巻を読みたいと希望したという。
このころの毛沢東はさすがに視力が低下していたので、28pt 見当のおおきなサイズの活字を特別鋳造して、「 毛主席特別版 」 として刊行したことがあったと、紫禁城図書館 館長にうかがった。

その任にあたったのは、中国印刷 ・ 出版界で双璧をなす 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 であったが、指示された活字書体は 「 商務印書館 → 仿宋体 」、「 中華書局 → 聚珍仿宋版 」であったという。
なにしろときの最高権力者 : 毛沢東の「希望」であり、両社ともに全力をあげて活字の新鋳造にあたり、印刷したが、病床の毛沢東があまりにはやく読了してしまって、どんどん次巻を督促されて困惑がはげしかったという。
「 商務印書館 」 「 中華書局 」 といえば、わが国の 「 大日本印刷 と 凸版印刷 」 に相当するおおきな企業体である。 ところが両社ともに、印刷 ・ 製本はともかく、活字組版がまったく追いつかず、傘下の企業を総動員して活字組版をおこなって製作にあたったという。

このはなしは、中国紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏にうかがった。 そのときは毛沢東が好んで通ったという中国湖南省料理店 「 澤園酒家  タクエン-シュカ」 で、遅い昼食をご一緒したときであった。
「 澤園酒家 」は、中国中央政府が密集している中南海への出入り口にある。 道路をはさんだ向かい側には一般人は立ち入ることができない。

帰国の日、「 シンさん 」 にホテルから空港まで送っていただいた。 高速道路が渋滞して搭乗時間が切迫していたが、最近、版画からタイポグラフィにすっかり関心を移行させた 「 シンさん 」 が、急に車を路肩に寄せて、あわただしく 「 毛主席特別版 」 の数冊の図書をとりだして、撮影をしろ、よく見てくれということだった。

活字スケールを持参しなかったのが悔やまれたが、それはたしかに 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の宋朝体 」 といってよい活字書風であった。
晩年の毛沢東が、わざわざ指示した活字書体が 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の方体宋朝体 ( ほぼ真四角な宋朝体 )」であり、「 宋体活字 わが国の明朝体活字 」 でなかったという事実は、うすうす小耳にしていたとはいえ、実物を眼前にしておおきな衝撃であった。

これも徐徐に紹介したいが、『 珍倣宋版式各種様張 』 の巻首に置かれた 「 縁起 ≒ はじめに 」 は、丁 善之の筆になるとおもわれるが、浙江省杭州のひと丁 善之は、明朝体 ( 縁起では宋体 ) 活字を日本の字としている。 どうやら丁 善之は、明朝体活字が 「 上海租界地 ( 外国人居留地 )」 から日本にもたらされた事実を知らないようにみられるのである。

したがって、ここ「花筏」では、近代明朝体活字に代表される活版印刷機器と、活字版製造におおきな功績をのこした東京築地活版製造所の歴史を、もう一度整理する作業と平行して、「 聚珍倣宋版、仿宋体 」 活字と、わが国の 「 宋朝体 」 活字を紹介していきたい。

正直なところ、『 秀英体研究 』 (片塩二朗 大日本印刷 2004年12月12日 )をまとめ、「秀英体平成の大改刻 」 プロジェクトを終えて、ようやく東京築地活版製造所のまとめに着手したばかりのいまである。

したがって 「 聚珍倣宋版 ・ 仿宋体と、宋朝体 」 に言及するのはいささか荷が重いのである。
本稿シリーズと、やつがれの既刊書 「 津田伊三郎と宋朝体 ・ 正楷書体活字の導入 」 「 それでも活字はのこった 森川龍文堂と森川健市 」 『活字に憑かれた男たち』 (片塩二朗 朗文堂 1999年11月02日 )をお読みいただき、有意の皆さんのご参集をお待ちする次第である。

聚珍倣宋版表紙DSCN0892 DSCN0895 《 活字組版印刷見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 と、創成者 : 丁 輔之 と 丁 善之 》
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 は、現存する中国有数の印刷 ・ 出版企業 「 中華書局 」 が発行したもので、図書 ・ 書籍というより、杭州の 「 聚珍倣宋印書局 」 から譲渡をうけて、あらたに 「 中華書局 」 に導入された活字書体、名づけて 「 中華書局聚珍倣宋版 」 による、活字組版と活版印刷の見本帳である。

この活字組版見本帳は、かつて長澤規矩也氏が所蔵していたとおもわれ、わが国にも紹介されたことがある。
『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の「図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「別冊 《 解説 》 図版77-79 」 である。まずこれを紹介したい。

図版77-79 聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。

これ以降、宋朝体に言及した文献のほとんどは、この長澤規矩也氏の解説を引用している。 筆者も前掲 『 活字に憑かれた男たち 』 で、この箇所を引用させていただいた。
これから順次 『 聚珍倣宋版各種様張 』 を考察するのにあたって、あらためてタイポグラフィの見地から、まず表紙から再考察に着手したい。

《 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 の構成 》
1.  表紙の考察
聚珍倣宋版表紙

題簽の様式を模したとみられる表紙は、本文用紙とは別紙で、六号無双罫によって四囲をかこまれ ( 単辺匡郭 キョウカク )、そこにタイトル 「 聚珍倣宋版式各種樣張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう」 が二行にわかれて置かれている。

「 倣 」 の字は、本書のなかでもしばしば 「 仿 」 とされている。本稿では差し支えのないかぎり、これ以降はわが国の常用漢字の 「 倣 」 をもちいる。
「 樣 」 はわが国の常用漢字 「 様 」の異体字である。 これ以降は 「 様 」 をもちいる。
その大きさは初号倍角 (中国では初号を頭号とする。 ともに84pt 相当 ) に一致するが、ここまでのおおきなサイズの鋳造活字を製造したとは考えにくく、なんらかの凸版 ( 木活字、木版、電気版 ・ いわゆる電胎版 ) をもちいたとみられる。
また、後述するが、中華書局にはこの時代、わが国にさきがけて、すでにパンタグラフ理論を応用した 「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機 」 ( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) が導入されていた ( 中国印刷博物館資料 )。 したがって金属素材に直に凸状に機械彫刻していた可能性も否定できない。

中央には製作時期と、製作者名 「 癸亥初夏錢塘輔之丁仁題 」 が一号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝体 ) で、字間にわずかなスペースをいれてしるされている。
「 癸亥 キガイ、みずのと い、みずのと いのしし 」 は、中国 (わが国) の十干十二支で、ここでは1923年 ( 大正12 ) となる。
「 錢塘 銭塘 」は、近代中国では浙江省の中心都市のひとつ 「 杭州 ハンジュ」 である。
「 輔之 丁 仁」は、わが国でいうならさしずめ 「 源九郎 義経 」 のような標記であって、「あざな(字) : 輔之、姓 : 丁、名(元名) : 仁 」 (以下、 丁 輔之 テイ-ホシ) である。
整理すると、以下のようになる。
「 1923年 ( 大正12 ) の初夏、銭塘のひと、姓は丁、あざなは輔之、名を仁の、丁 輔之が、これを題した 」。

匡郭にかえて設けられた無双罫の枠外右側に、この見本帳の体裁がしるされている。
「 仿宋元版槧本封面式 」
最初の字 「 仿 」 は、「 仿 ・ 倣 ホウ、ならう ・ まねる ≒ 模倣 」 の意である。
この表紙でも、タイトル部分では 〈 聚珍 「 倣 」 宋版 〉 とされたように、「 仿 ・ 倣 」 は同音同意の字であり、置き換えが可能な字である。 しかしながら、現在の中国では簡体字の採用によって、「 仿 」 が中心となっている。

 「 槧本 さんぽん 」 は古文書の意。
「 封面式 」 の 「 封面 ほうめん 」 とは、表紙裏の扉ページをさすことが多いが、ここでは片面印刷で、中央に版心をあらわす 「 魚尾 」 をおき、それをセンターの目印として二つ折りにしてつづったものとした。

見開きにすると、版心には、右側に 「 中華書局聚 」 が置かれ、左側に 「 珍倣宋版印 」としたものがおおい。 また杭州時代の活字組版を流用したものか、一部に 「 聚珍倣宋 版印書局 」 とするものがある。
製本様式は専門外であり、また 「 和綴じ 」 といういささか困惑する名称があるの で詳細に及ばないが、簡便な綴じ本になっている。
これを整理すると、以下のようになる。
「 宋王朝と元王朝時代の木版刊本にならい、古文書を活版印刷にし、二つ折りにしてつづったもの 」

《 聚珍倣宋版 ≒ 宋朝体活字の創成者-丁 輔之 と 丁 善之の肖像写真 》
2. 創成者の肖像写真

DSCN0892

DSCN0895

活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 には、別紙の表紙のあとに、「 縁起 ≒ はじめに 」 が二丁04ページあり、そのうしろに一丁02ページで 「 創辧人 丁 輔之」と、「創辧人 丁 善之遺像」の肖像写真がある。
画像は写真凸版印刷とみられるが、幾分鮮明度を欠く。

写真キャプション 「 創辧人 」 の 「 辧 」 は、弁の異体字で、ここでは創成者とした。
写真キャプションは右起こし横組みで、「 創辧人 丁 輔之」 では、二号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。
「 創辧人 丁 善之遺像 」 では三号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。

このふたりはどちらが年長かわからないが兄弟とみられている。 若いころは、杭州西湖の白堤 ( 白居易の築造とされるおおきな堤 ) にある 「 西泠印社 」 と関係が深かったようで、杭州にはこのふたりによる 「 聚珍倣宋印書局 」 がのこした、木活字本、金属活字本など、おおくの関連資料がのこっている。
その清朝最末期 ( 明治末期-大正初期)の製造と みられる木活字本の一冊を、最近都内の大学図書館が購入した。研究の進捗をまちたい。

丁 輔之 ( てい-ほし 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) は、70年ほどの人生をいきたひとで、篆刻家、書画家としてしられる。
丁 輔之は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 を刊行した1923年(大正12)には44歳ほどの年齢であったはずだし、清朝は1911年 ( 明治44 ) に崩壊して、中華民国の時代となって 十余年が経過しているが、頭髪はいまだに清朝時代の風習の 「 辮髪 ・ 弁髪 」 のようにもみられる。 あるいは単にひたいがはげ上がっていただけかもしれない。

いっぽう丁 善之は生没年ともにあきらかではなく、1923年 ( 大正12 ) のとき、すでに歿していたとみられ、写真は 「 遺像 」 として、相当修整の痕跡がのこる画像がしるされている。
したがって、実際に活字 「 聚珍倣宋版 」 の元字版下を製作したのは、このふたりのうちいずれが中心だったのかはつまびらかではない。

しかしながら、丁 輔之の遺作のほとんどは、篆刻と画文であり、活字紹介はきわめてすくない。
また、丁善之の没後まもなくとみられるが、丁 輔之が杭州の聚珍倣宋版印書局とその活字資料を、上海の中華書局に売却したこと。
また中華書局では 「 聚珍倣宋版 」 のサイズの拡張 ( シリーズ化 ) と、新聞扁平活字と同様に、「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) の縦横比を調整すれば、比較的容易に製作することができ、「 割り注 」 などにもちいられた 「 夾註字 ・ 双行字 」 ( わが国では長体宋朝活字とする。 わが国では方体宋朝活字より、本来は 「 割り注 」 などのために開発された長体宋朝活字が好まれた ) の開発に終始し、あらたな、めぼしい活字書体を発表していないことをあわせて考察すると、あくまで現状では、活字開発の中心人物は丁 善之であったとおもいたい。

《 聚珍倣宋印書局の登録商標に関して 》
3.   聚珍倣宋印書局の登録商標

DSCN0899商標_聚珍倣宋印書局マーク

丁 輔之、丁 善之による 「 聚珍倣宋印書局 」 は杭州におかれたが、その早期から類似活字の登場になやまされ、「 北京文嵐社 」 などとは、相当深刻な法廷闘争を展開していた記録ものこされている (シンさん蔵)。
このころの中国では、活字書体の権利関係の法規が十分ではなく、それにかえて、せめてものおもいから 「 商標登録 」 を申請していたものとみられる。
画像の一部の登録商標を取りだし、その一部に修整を加えたものを拡大紹介し、オリジナルデータはちいさく紹介した。

デザインは、中央に 「 宋 」 の字をおき、外周部両端中央にシンプルな形態の 「 魚尾 」 をおいている。 この魚の尾を模した文様は、刊本時代に版心 ( 折り目 ) の役割をはたしたもので、目的と機能があった。 現在では市販の 「 四百字詰め原稿用紙 」 の中央におかれることがある。
上部には企業名 「 聚珍倣宋印書局 」 をおき、下部には 「 股份有限公司 」 をおく。
股份グーフィン有限公司は株式会社の意ととらえたい。

表記された 「 民国紀元 ・ 中華民国暦 」 中華民国09年とは、1920年 ( 大正9 ) のことで、活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 刊行のわずか三年前のことであった。 [この項つづく]

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02 縁起 ものごとのはじめ 釈読

わが国の近代印刷活字の 「 明朝体 ・ 宋朝体 ・ (正)楷書体 」 は、それぞれ19-20世紀初頭、中国の近代活字に源流を発するものであるが、かの国ではちがう名前でよばれている。
いくぶんくどくなるが、ここでは混乱をさけるために、できるだけ双方の呼び名を併記していきたい。

そこで早速、『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) の巻頭におかれた 「 縁起-ものごとのはじめ 」 から、中華民国時代の中国の、聚珍倣宋版 ( 中華書局の宋朝体活字 ) の原字制作者ともくされる、善之丁三在(丁 善之テイ-ゼンシ。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在。 生没年不詳)が、明朝体や宋朝体 ( 宋体字 ・ 明朝字、聚珍倣宋版 ) をどうみていたのか、興味ある資料があるので、拙訳ながら紹介したい。

なおこの 「 縁起 」 と組版例一例の 「 図版 」 の部分は、『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の 「 図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「 別冊 《 解説 》 図版 77-79  」 に図版として紹介されたことがある。
長澤規矩也はこの紹介を 「 別冊 《 解説 》 」 で次のようにだけ簡略に紹介している。

図版 77-79   聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。
聚珍倣宋版表紙 DSCN0895 DSCN0892

 

聚珍倣宋版01 聚珍倣宋版02聚珍倣宋版03『 聚珍倣宋版式各種様張 』 に紹介された活字組版例/縁起/
一号聚珍倣宋版 ( 一号方体宋朝活字 )。 縦組み、ベタ組。 一行23字。 10行。 行間四分。

『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 )
縁 起 ―― ものごとの はじめ ―― 釈 読

中国上古には、糸の結びかたで物事を記録した。 文と字が発明されてからは、物事の記録が容易になったが、木簡と竹簡が用意されるまでにはまだ多くの苦労があった。
春秋戦国時代の大国にして、中国史上最初の中央集権国家となった秦王朝時代 ( BC 221-BC 206 ) の蒙恬モウテン将軍が筆を発明 ( モウテン。 秦の武将。 始皇帝のとき匈奴を討ち万里の長城を築いたが 丞相李斯リシらに投獄され 二世皇帝のとき自死。 蒙恬の筆の発明説には異論もある。 ?-BC210 ) してから書がはじまった。
つづく漢王朝時代の蔡倫(サイリン。 東漢の宦官カンガン、あざなは敬仲。 生没年不詳 ) が、105年に樹皮 ・ ぼろ布 ・ 魚網などから紙を製して、和帝 ( 穆宗。 劉 肇。在位88-105)に献上したとされる ( 蔡倫の紙の創始説には異論もある )。  紙が発明されてから巻物が登場した。

隋王朝 ( 581-619 ) のはじめ、宮廷で書物の作製がさかんになり、「 鋟版  シンパン 」 という彫刻版が登場して、唐王朝 ( 618-907 ) と、五代の諸王朝 [ 唐から宋への過渡期に華北に興亡した、後梁 ・ 後唐 ・ 後晋 ・ 後漢 ・ 後周の五王朝。 907-60 ] がこれを踏襲した。
この技術はその後、北宋 ( みやこは黄河中流の汴 ベン、開封 Kaifeng。960-1127 ) の時代にはおおいに整備されて盛んなものがあった

北宋までの時代の印刷版は、能書家の文字を版に彫ったので、書風はその都度ちがっていた。 したがって北宋時代の図書をみると、唐代の欧陽詢 ( オウヨウ-ジュン 557-641 ) の書風をまねた 「 欧体字 」 がおおく、その字画の構造は力強く、端麗適切で充実して、歪みや、崩れもなく立派なものであった。

近代のいわゆる宋体字 [ 明朝体活字 ] はこの書風に由来している。 しかしながいときのなかで、宋王朝の字様は失われ、とりわけ北宋の木版刊本にみられた、端麗適切で充実した、欧陽詢の書風は徐徐にうしなわれて、ただ漠然と、その刻字の外周をなぞり、形を真似る ( 膚郭之字 ) だけとなっている。

北宋から臨安 ( 杭州 ) にみやこをおいた 南宋 ( 1127-1279 ) を経て、元王朝 ( 蒙古族王朝。 みやこは大都 ・ 現北京。 1271-1368 ) の時代になると、木版の書風には 「 趙松雪チョウーショウセツ の書風 」 [ 趙子昂 チョウースゴウ。 姓は趙、あざなは子昂、名は孟頫 モウフ、号は松雪、松雪道人。 宋の皇族の末、元の文人。 1254-1322 ] を用いるものがふえて、明の隆萬年間 ( 1566一1620 ) には、木版専門に「方体書」の書き手、すなわち能書家にかわり、版下の書き手を職業とするものもあらわれた。

すでに宋の時代に、木版による刊本印刷だけではなくて、よりコストが安い、活字による印刷がおこなわれていた。 そこでは泥字 [ 膠泥活字。 ニカワを焼結した活字 ]、瓦字 [ 磚 ・ 練り瓦。土 ( 粘土 ) を扁平に焼き、方形 ・ 長方形の活字としたもの ]、錫字 [ スズを主要素材とした金属活字 ]、銅字 [ 銅を主要素材とした金属活字 ]、木字 [ 木製の駒に字を裏字にして直刻した活字。 木活字 ] といった各種の素材が試みられていた。

清王朝(1616-1912)のはじめのころは、満洲王朝だったにもかかわらず、むしろ漢民族の文化が推奨されていた。 清の乾隆年間 ( 1735一95 )、北京の有名な刻書処、紫金城内の武英殿では、『 大清一統史 』、『 明史 』、『 四庫全書 』 などの数おおくの古今の図書を刊行し、その木活字は25万個を超え、活字かえて、縁起のよい 「 聚珍版 」 [しゅうちん-ばん]とよばれ、北宋についで活字版印刷の中興の時代となった。

乾隆帝画像 DSCN0476 DSCN0487 DSCN0642
清朝末期のわが国 [ 中国 ] は、海禁 [ 鎖国 ] をおこなっていたが、わずかに外国にむけて開放されていた香港には、キリスト教の宣教師たちが、鉛製の活字と印刷機械をもちこんで、漢字の活字一セットをつくった。 これはいわば 「 香港字 」 というもので、現在の四号活字にちかい寸法であった。

日本では書籍印刷のために、明朝字 [ 明朝体活字 ] という鉛製の活字を、大小のサイズで七種類もつくり [ 明治後期のわが国では、初号、一号 ― 八号、都合九種類の活字サイズが存在していた ]、活字印書の業 [ 活版印刷業 ] が大繁盛して、この明朝字なる活字書体を便利なものとしていた。
そこである中国人が、印刷のために日本から明朝字 ( 明朝活字 ) の七種類をわざわざ輸入した。 それをみると、書風としては 「 膚郭宋体 ≒ 字の魂魄がぬけて、輪郭をなぞっただけの宋体 」 であり、しかもひとつの書風しかなかったのである。

べつにふるさだけにこだわるつもりはないが、日本の明朝字 [ 明朝体活字 ] は、北宋刊本の刻字にみるような、端正な彫刻風の味わいがなかった。
そこでここに、北宋時代の木版刊本の字様 [ 木版上の書風 ] と、紫金城武英殿の木活字 「 聚珍版 」 からまなび直して、方体と長体の、大小のサイズの活字をつくり、ここに 「 聚珍倣宋版 」 と名づけた。 印刷業者の利用を待つゆえんである。
銭塘善之丁三在記於春江寓齋
──銭塘のひと。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在 ( 丁 善之 ) 春江寓齋においてしるす
[翻訳協力 : 林 昆範老師]

────────────
ながい引用になったが、この文章は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 ( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) という、一種の活字組版見本帳の 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」として、浙江省銭塘 ( 杭州 ) ・ 善之 丁 三在 ( 以下、丁善之 テイ-ゼンシ 生没年不詳 ) の記録としてのこされたものである。

『 聚珍倣宋版式各種様張 』 が発行された1923年 ( 大正12 ) には丁 善之は物故していたとみられ、巻頭に 「 丁 善之 遺像 」 として写真が紹介されていることは前回報告した。
またその兄弟とみなされている 丁 補之 ( テイ-ホシ 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) が同書の表紙を題している。 

丁善之は 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」 のなかで、奇妙なことに、わが国ではよく知られている、また浙江省銭塘 ( 現 杭州 ) からはさほど遠くない、上海にあった美華書館の動向についてはひとことも触れておらず、日本の明朝体活字 ( 宋体字 ・ 明朝字 ) とは、その最初期には、美華書館のもののほとんど模作であったことを知らないようある。
そしてなにより驚くのは、中国における近代活字 「 金属活字の宋体字 ( 明朝体活字 )」は、明治末期-大正初期にかけて、どうやら日本から中国への逆輸出されたものであったと想像できることである……。

近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) の美華書館 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。 明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

たしかに長崎に伝来した美華書館版活字は、平野富二 ( 1846-92 ) が東京に進出して、東京築地活版製造所を設立して活字製造と印刷機器製造を開始し、曲田成 ( マガタ-シゲリ  1846-94 )、野村宗十郎 ( 1857-1925 ) ら歴代の経営陣の意欲的な取り組みや、名はのこらなかったが、曲田茂が招聘した数名の中国人工匠や、竹口芳五郎 ( 1840-1908 ) らの東京築地活版製造所の職人の改刻をへていた。
さらに秀英舎 ( 現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一 ( 1848-98 )、第二代 : 保田久成 ( 1836-1904 )、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎 ( 生没年不詳 ) らの功績も看過できない。

それだけでなく、わが国にあってはたくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 美華書館からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたったものである。

その結実は明治20年代の末ころ、ほぼ明朝体活字は完成の域にたっしたとみられるので、中華民国時代 ( 大正時代 - 戦後まもなくの1949年まで。 現在は台湾政府となっている ) の 丁 善之からみたら、まったく美筆書館のものとは異質の書風にみえたかもしれない。
それよりも、「 上海租界 ( 外国人居留地 )」とは、換言すれば 「 治外法権の外国占領地 」 ともいえたきわめて特殊な場所であり、キリスト教の広報宣伝機関でもあった美華書館の存在などは、ほとんど一般市民は知らなかったとみたほうがよいであろう。
聚珍倣宋版04 『聚珍倣宋版式各種様張』に紹介された活字組版例/論語巻之一 朱熹批註本を例として
半葉(01ページ)ごとに

基本組版 : 一行20字。10行。
単辺匡郭枠 : 六号無双罫、天地55倍、左右39倍。
界線 : 五号 1/8 罫線(中国呼称不明。わが国の通称 トタン罫。1.3125pt)
本文 : 二号聚珍倣宋版(二号方体宋朝)、字の脇に圏点(けんてん 小丸)を加えている。
双行註(割り注) : 三号長体聚珍倣宋版(三号長体宋朝)。

聚珍倣宋版05

 『 唐確慎公集 』( 中華書局刊 1920年代 )/筆者所蔵。 近近詳細紹介。