宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-03 倣宋体活字書風に拘泥した毛沢東

DSCN0487 DSCN0476 DSCN0477 DSCN0471修復なった紫禁城(故宮)武英殿前で。 写真左から : 邢 立(Xing Li)氏、紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏、やつがれ、朱 有福氏 (2013年11月)
DSCN7776 DSCN7780DSCN7799 DSCN7846 DSCN7804いくつかの用件があって、2015年正月早早、01月09日-12日にかけて北京を訪問した。
中国でも正月元旦は01月01日(新暦)で休日となるが、ことしは休暇を01日[木]-02日[金]の02日間としたために、04日[日]は出勤日となっていた。

中国でのお正月、「春節」は、むしろ旧暦で祝い、困ったことに毎年すこしずつずれている。
2015年は02月18日が大晦日で、18日[水]-24日[火]までの07連休となる。
 いくつかの企業では02月18日[水]-03月01日[日]までの12日間を特別休暇としている。
ともかく「春節」の前後一ヶ月ほどは、いかに勤勉な中国人といえども特別で、物流も滞りがちになり、注意が必要な時期となる。

その期間を避けてのあわただしい中国訪問であったが、11日[日]だけを休日として、沢園酒家(泽园酒家 北京市西城区南長街20号)を再度訪れた。
沢園酒家は紫禁城西華門からすぐちかく、政府要人が執務 ・ 居住(一般人は立ち入り禁止)する「中南海」に面した、中国湖南省料理を中心としたちいさなレストランである。
ここで一昨年、2013年の訪中時に、紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏に昼食をご馳走になった。

DSCN7850沢園酒家は、毛沢東(Mao Zedong  1893-1976)のもとで、長年料理長をつとめたオーナーが開いたちいさな店であるが、故郷の湖南省料理が懐かしかったのか、しばしば毛沢東が訪れ、二階の個室では外国の要人とも会食していたことで知られている。 

この店の二階には小部屋が04室あるが、その壁面は毛沢東の写真で埋めつくされている。
そのひとつに油絵があり、晩年になっても読書欲が衰えがなかった毛沢東が、病床で読書をしている姿が描かれていた。
前回は撮りそこなったその絵画の写真を撮りたくて、中国の知人に個室を予約していただき、駆けつけた次第であった。

晩年の毛沢東は、好悪をはっきり表明するようになり、図書に関しても、活字書体、組版様式(誌面設計)、紙質、製本にまで厳格な要求が多かったとされる。
その状況の一端、たとえば絵画のなかで毛沢東は図書を丸めるようにして読んでいるが、それは重くて厚みのある、堅い上製本を嫌い、中国南方の竹を原料とした、軽くて腰の強い用紙をもちいたためである。
そんな様様を知ることができるのがこの絵画であった。
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そんな1970年代初頭の、いわば < 毛主席特別版図書 > を積極的に収集されているのが友人の邢 立 ( Xing Li ) さんである。

いずれ邢 立さんのご協力を得て、その周辺の情報もお知らせしたいが、今回は、いつもの劣悪な写真で恐縮ですが、邢 立さん愛蔵の < 毛主席特別版図書 > のほんの一部と、行草風のシグネチュア < 毛 沢 東 > の初号角の活字母型(電鋳法)だけをご紹介した。
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【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01  2014年04月23日 】
【 関連情報 : 花筏 宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02  縁起 ものごとのはじめ 釈読

【講演会】 北島町創世ホール/山田太一 「 『早春スケッチブック』 がめざしたもの 」

山田太一先生講演会チラシ★オモテ20150208 山田太一先生講演会チラシ★裏20150208すっかり年の瀬も押しづまり、2015年の企画予告をいただくころになりました。
長年の友人、徳島の 小西昌幸 さんからいただいた、講演会のお知らせをご紹介します。
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山田太一講演会 「 『早春スケッチブック』 がめざしたもの 」

日   時 : 平成27年02月08日[日] 14時半開演
会    場 : 北島町立図書館 ・ 創世ホール 3 階 多目的ホール
入場料 : 無料
講    師 : 山田太一 ( 脚本家 ・ 作家 )
演    題 : 「 こんな家族を書きました~『 早春スケッチブック 』 がめざしたもの 」
主    催 : 北島町立図書館 ・ 創世ホール

◯ 恒例の創世ホール講演会に 「 男たちの旅路 」 「 それぞれの秋 」 「 ふぞろいの林檎たち 」 などの脚本家 ・ 山田太一さんが登場します。
◯ 戦後ホームドラマの極北といわれ、熱狂的な支持者を持つ伝説のテレビドラマ 「 早春スケッチブック 」( 1983年01月から03月、フジテレビ系 ) について語っていただきます。

【 企画詳細 : 北島町創世ホール 山田太一講演会
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2015年02月08日に徳島県板野郡北島町で開催する、山田太一さん講演会のチラシ画像をお送りします。
私が大好きなドラマ 『 早春スケッチブック 』 に的をしぼった冒険企画です。
企画内容には自信を持っていますが、人口02万人の四国の田舎の催しですので、多くの方のご支援が必要です。 チラシ画像をご活用いただき、ブログ、ツイッター、HP、クチコミ等々にて、宣伝ご協力いただけましたら幸いです。

私はあと 1 年 3 ヶ月で定年退職いたします。 一つ一つの企画を丹精こめて練り上げて、命を削って宣伝し、悔いのないように完全燃焼したいと考えています。

小西 昌幸 【 ウィキペディア : 小西昌幸
北島町教育委員会事務局長、先鋭疾風社代表、『 ハードスタッフ 』 編集発行人、58歳。
これは自宅からの電子書簡です。
【 自  宅 】
771-0204 徳島県板野郡北島町鯛浜字西中野81-1
先鋭疾風社
電      話 : 088-698-2946
携帯電話 : 080-6386-2946
電子住所 : hardstuf@mail3.netwave.or.jp

朗文堂好日録ー037 なにかとあわただしい師走です。【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas

uparunn DSCN4450 DSCN7406 DSCN9509ひさしぶりに < 朗文堂好日録 > をばしるさむ。
世間様では 「 師走 」 とて、なにかとあわただしいきょうこのごろである。 おまけにこんなときに、身勝手にもほどがあろうかという、衆議院議員選挙までかさなってしまった。

まぁそんな世間をよそに、わが家のサラマンダー、珍獣ウーパールーパーは、初代のアルビノこそ飼育に失敗したものの、「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 の二匹とも、アイスクリームのカップに入ってやてきたとはおもえないほど、おおきくなったし、元気いっぱいである。
ふだんは海底に潜む潜水艦さながら、水槽の下にへばりついて運動不足が心配されるが、お腹がすくと、水草も蹴倒して餌の催促である。

従順な犬や猫がかわいいのはあたりまえだが、「 火喰い蜥蜴 トカゲ」 ともされるサラマンダーを、ペットとして飼育するのには、若干の諧謔趣味が必要かもしれない。 ふつうの感覚なら不気味とされても仕方なかろう。
それでも飼育をつづけると愛着が湧くもので、短文ブログなどでは、毎日のように サラマンダー自慢 をするひともいる。

< ウチの 仔 ?  は イケメン ?  だし、日本でいちばんかわいい ?  ワ、 ネッ !   ?? >
ネッ !   といわれても、ウチの「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 と大差なくみえるから困る。
まぁサラマンダーが かわいいものかどうかの判断は、皆さんにお任せしよう。
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そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、2014年04月に投入した 小型活版印刷機 Salama-21A は順調な出荷が続いている。
また朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <活版礼讃> のイベント、< Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO > も、「 5,000人を遙かに超え、 6,000人近いご入場者-尚古集成館の報告 」 をみて 盛況裡に終了した。
なによりもの成果は、南九州に < 活版礼讃 > のちいさな種子を
のこすことができたことである。

<新宿私塾>は第25期生の諸君が真摯な学習を続けているし、< Salama-21A  操作指導教室 > は間断なく開催されている。 新春からは < 活版カレッジ > が 久しぶりに昼間部での開催が予定されている。
< 朗文堂ブックコスミイク > は、新刊書の拡販と、既刊書のていねいな補充に気配りをしているし、来年の大型企画も始動中である。
<朗文堂タイプコスミイク> も、ことしは新書体の発表こそなかったものの、堅実な販売が持続している。
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師走に入った直後に、所用があって本郷の東大キャンパスにでかけた。 キャンパスのなかではイチョウが色づき、まちはすでにクリスマス商戦と歳末商戦にはいっていた。
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そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、朗文堂は師走には関係なく、あわただしい日日をすごしている。
例年のことながら、年賀状の準備にもとりかかっている。
同行者がクリスマス ・ グッズを購入したので、フト ふるい記事をおもいだした。

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ふるい記事で恐縮ではあるが、本年の 「 ゴールデンウィーク 」 の無聊を慰めるためにしるした一文を再掲載したい。お役にたてば幸甚である。

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【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas
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 本項の初掲載は2014年05月03日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

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《 黄金週間 ゴールデンウィークに入りました。 皆さまお元気ですか? 》

例年この長期休暇、ゴールデンウィークの期間中は 〈 朗文堂 〉 と 〈 アダナ ・ プレス倶楽部 〉 の WebSite は、双方ともに訪問者が減少します。
長期休暇の乏しいわが国のことですから、皆さまは、旅行に、帰省にと、楽しくゴールデンウィークをお過ごしのことと存じます。

ところでこの休暇を、かつては 「 黄金週間 」 と呼んで、その直前になると、新聞紙面などには賑やかに見出し活字の 「 黄金週間 」 の見出しが躍っていました。 それがいつの間にか 「 ゴールデンウィーク 」 に転じ、ことしの新聞の見出しには 「 GW 」 と、全角欧文 !?  で、縦組みになったタイトルが踊っていました。
このすっかりおなじみとなった 「 ゴールデンウィーク 」 を、『 広辞苑 』 にあたってみました。

【 ゴールデン-ウィーク 】  ( 和製語  golden week )  4月末から5月初めの休日の多い週。 黄金週間。

どうやら 「 ゴールデンウィーク 」 は、「 黄金週間 」 が転じたもので、いわゆる和製英語であり、英語圏での会話や表記には使わないほうが安全のようです。  なお標題語 「 ゴールデン-ウィーク 」 のダッシュは、音節 ( syllable ) をあらわすもので、ここに中黒やダッシュは不要です
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というわけで、せっかくの 「 ゴールデンウィーク 」 に、この 〈 タイポグラフィ ・ ブログロール  花筏 〉 をご訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介します。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 です。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいておりjます。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) です。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものです。

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ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されています。
すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、
「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」

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いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明しています。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒は音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要です。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき (含む : 年賀はがき)」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使い分けと、英国と米国での相違まで説いています。

ご参考になりましたでしょうか。
この問題はわが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられています。
ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 の皆さまから、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しております。

ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのでしょうか] をもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。
この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としています。

 いかがでしょう、  「 postcard 」 。 「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 といいます。
この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのですから、なにも臆することはありません。 かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用をおかしては反省しきりの日日であります。
そして 「 ゴールデンウィーク 」 が終わったら、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えてください。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日も近いことでしょう。
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいです。
それは某国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからです。

それに牽かれたのでしょうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがありますが、これは省略を重複したもので完全に間違いです。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として触れられています。

またギリシャ語由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、わたくしも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas Sale をはじめるのだ 」
と責められたことがありました。

宗教や宗派、まして発音までがからむと、わたくしの手にあまります。
まして某国語辞典の存在もあって困惑していましたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説がありました。 長文にわたりますので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができました。
そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願いたします。 そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものです。
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タイポグラフィ あのねのね*014|アルダス工房|ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所|アーツ&クラフツ運動

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ  ②
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。 吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。 いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。 
中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、 兎ウサギがいる月とが、 あわただしくすぎさる
ことから 「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」 という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。 つまり中締めのときである。  後事を俊秀に託すべきときでもある。 お
あとはよろしいようで……なのか、 おあとはよろしく……、 なのかは知らぬ。
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本項の初掲載は2011年08月22日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

◎ おあとは、よろしいようですね!

デザイン界に、いまだ充実した 「 教科書 」 が不在だったころのはなしである。そうふるい話しではない。1997年のこと。
京都のさる美術大学が、四年制の通信教育学部をつくろうとなったとき、あたりまえといえばあたりまえだが、所轄官庁から 「 教科書 」 の製作を強くもとめられた。
そのタイポグラフィ篇の教科書の執筆を依頼されたが、単独執筆では偏りを生ずるおそれがあったので、K氏、S氏に依頼して、03名で共同執筆にあたった。

執筆に取り組んで、あらためておどろいた。当時の美術大学や芸術大学 ( くどいようだが1997年のこと )にはどこにも、デザインの教科書はもとより、先行資料といえるようなまとまった資料はなかったのだ。 先行資料が無いということは、ある意味では提灯も無く暗い夜道を歩むようなものであった。
そのため、まったく手探りで、「 デザイン教育用の教科書 」 をまとめなくてはならなかった。 そのツメの段階にきたとき、資料不足が明確になったので、筆者を含む03名で、ヨーロッパ駆け足取材 ( 費用は各自負担だったケト ゙ ) を計画した。

執筆と旅行の準備に追われていたある日、S氏が血相を変えて駆け込んできた。
ゲーテ 『 イタリア紀行 』 に,アルダス ・ マヌティウスの工房が、「 ベネツィアのサンセコンド2311番地 」 にあることが紹介されている、と興奮した面持ちでかたった。
18-19世紀の文豪 ゲーテ ( Johann Wolfgang von Goethe  1749―1832 ) が記録したその記録が、現在もまだ有効な資料かと半信半疑ながら、「 ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 」 の名前だけは咒文のように記憶して出かけることになった。
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ともかく慌ただしい旅 ( 珍道中ともいえる ) であった。  ドイツに入り、パリを経由して 列車でスイスに、そしてまた列車でイタリアに入った。
イタリアでは拠点を パドヴァ のちいさなホテルにおいた。 すなわち長靴形のイタリア半島を上下に移動するのではなく、半島の付け根を左右に行ったり来たりした。 ミラノから取材をはじめ、翌日にはヴェローナのタイポグラファの友人、マルチーノ ・ マーダシュタイク氏からさなざまな支援を受けた。

当然、ヴェネツィアのアルダス工房の所在地も聞いたが、
「 ヴェネツィアのどこかに、いまもアルド ・ マヌッツィオ ( マルチーノの発音 ) の工房があることは聞いた気がするなぁ」
程度の曖昧な回答だった。

そこで、やはり ヴェネツィアに行くしかない……、 となった。
いまならグーグルマップで即刻詮索だろうが、この取材は1997年のこと。
ヴェネツィア駅に降り立って、すぐに詳細な街路図を購入して、駅前広場で地図をひろげて03人による鳩首検索。
おなじ列車で着いた旅行者は四散して、駅頭からすっかりひとがいなくなったのに、まだ駅前でただただ地図とにらめっこをしている奇妙な日本人が03人。

「あった~! ココにある」。
やはり最初に豆粒のような街路図から 「 サンセコンド 」 の名を見つけたのはS氏だった。

さっそく いくつかの橋を ( 駆け抜けるように ) わたって 「 サンセコンド通り 」 に駆けつけた。
それからの興奮、舞いあがりのさまをしるすのは ( あまりに恥ずかしいから ) 控えよう。 ともかく03人は、いまはヴェネツィアン ・ グラスの工房 ( 写真向かって左 ) と、ブティック ( 写真向かって右 ) になっているこの建物に、( 買い物のふりをして ) 押し入り、仔細に ( 柱の1本1本に頬ずりをし、壁もナデナデして ) 内部構造もミタ。

まことに奇跡ではないかとおもった。 520年ほど以前 ―― わが国では足利幕府の時代、すなわち1495年ころから この工房は活動を開始し、20年余にわたって133冊 ( 種類 ) の評価のたかい書物をのこしている。 その工房がそっくりそのまま地上にのこっているのだから、高松塚古墳 モトイ ポンペイの遺跡が発掘されたときよりおどろいた !?

それから筆者はここを都合04回訪れ、いつもお義理でヴェネツィアン ・ グラスの安いものを購入していた。 そのため工房のあるじとも親しくなった。 店主はいかにも技芸の街、ヴェネツィアのアルチザンといった朴訥 ボクトツ なひとで、
「 最近、日本人のデザイナーが良く来る。 かれらは丁重で、必ず名刺を出して、死ぬほど写真を撮りまくる 」
と ( いうようなことを ) ボソボソとかたっていた。 それでも気のせいか、この建物に入ると、いつも活版インキ独特の甘い残り香をかんじていた。 なによりも、この 「 サンセコンド2311番地 」 の 建物正面の壁面には、重々しく銘板が埋め込まれており、以下のような文言がしるされている。

その名があまねく知れわたりし マヌティウス家の啓蒙者
アルダス ・ マヌティウス
このヴェネツィアの地にて 優れし印刷術に 身も心も捧げたひと

大学側の最初の説明では、通信教育学部の発足までに、各教科 都合10冊の教科書をつくることが必要だとされた。 吾吾03人組はなにはともあれ締め切りは守った。
それにしても……、常勤の大学教員はただただ傍観するだけ、その間なにもしなかったなぁ。 それがして、それまで美術大学に教科書が無かった理由かもしれない。
ともあれ、発足までに間にあったのは、吾吾が担当したタイポグラフィ篇と、別の著者によるイラスト篇だけだったようだ。 のこりの教科は、大学当局が監督官庁となんとかうまく話しあったのだろう。
したがってこのふたつが取りあえず合冊されて、『 情報デザイン演習Ⅰ 情報デザインシリーズ Vol.1  イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域 』 と、えらく長い ( 大仰な ) タイトルがつけられて、1998年(平成10)04月01日に発行され、四年制の通信教育学部の発足をみた。
そして、それから数年もたたずに、あちこちの美術大学や芸術大学に 「 教科書 」 がもうけられるようになった。 わが国には <ちいさく右へ倣え> のふうがある。

◎ イタリア アルダス工房

ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 15世紀後半- ( 白井敬尚氏撮影 )

アルダス工房は、水の都とされるヴェネツィアの運河沿い ( 工房の真裏が運河になっている ) に、出版総合プロデューサーともいうべき アルダス ・ マヌティウス ( Aldus  Manutius  1450―1515 ) によって1490年ころに創設された。 工房には、編集者、校閲者、組版工、印刷工らの職人が常時30名ほど働いていたとされる。

もともと東方貿易によって繁栄をきわめたヴェネツィア共和国だったが、15世紀中ごろに トルコがギリシャを占領したために、その難民が大挙してヴェネツィアに避難し、古代ギリシャの写本などの文献も豊富に持ちこまれていた。 そして、そのギリシャからの文献をもとめて、人文主義者らがヴェネツィアにたくさん集まっていた。

こんな歴史を背景として、アルダス工房の書物の大半は ギリシャ語活字によって組版 ・ 印刷されている。
しかしながらこんにち評価が高いのは、数は少なかったが ラテン語 ・ イタリア語による書物で、そこにもちいられたアップライト ・ ローマン体活字が、ボローニャ出身の有能な活字父型彫刻士、フランチェスコ ・ グリフォ ( Francesco Griffo   ?―c.1518 ) の設計 ・ 彫刻によって、1495―99年にかけてつぎつぎと誕生した。

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上) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2006年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ベンボ 」
下) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2007年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ポリフィラス 」

この時代のアルダス工房のローマン体は、まず1495年  「 アルダス/第 1 ローマン体 」 と呼ばれ、ピエトロ ・ ベンボ著 『 De Aetna 』 にもちいられた。
この 「 アルダス/第1ローマン体 」 は1929年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、最初の 『 De Aetna 』 の著者の名をとって 「 ベンボ 」 と名づけられた。 この 「 ベンボ 」 は、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

「 アルダス第 2 ローマン体 」 は、1496年にグリフォによって彫刻され、レオニセヌス著 『 Epidemia 』 にもちいられた。
「 アルダス第 3 ローマン体 」 は、1499年に おそらくこれもグリフォによって彫刻され、美しい木版画をともなって著名な 『 Hypnerotomachia  Poliphil 』 ( 邦名 : ポリフィラスの夢 or ポリフィロの狂恋夢 ) にもちいられた。

この 「 アルダス第 3 ローマン体 」 も、1923年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、モノタイプ社から最初の書物の名をとって 「 ポリフィラス  or  ポリフィリ 」 として発売をみた。 この 「 ポリフィラス 」 も、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

さらにアルダス工房の名をたかめたのは、「 手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書 体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 に着目し、それを活字書体としてグリフォによって彫刻させ、 詩集など小型判の書物にもちいたことである。

このように出版プロデューサーとしてのアルダス ・ マヌティウスの企画力と、アルチザンとしてのフランチェスコ ・ グリフォの手腕によって製作された活字書体は、こんにち 「 オールド ・ ローマン体 」 として、いまなお活字界においては屹立した存在である。

そしてこのアルダス工房など、15世紀後半に各地のアルチザン工房がのこしたさまざまな書物は、のちにドイツの書誌学者によって、まだ活字と書物がゆりかごのなかにあった時代の書物、すなわちラテン語のゆりかごからの意から 「 インキュナブラ   Incunabula  揺籃期本 」 と命名され、きわめて評価がたかい図書となっている。

そしてアルダス工房の活字は、やがてルネサンスの精神とともに、フランスに影響を与え、クロード ・ ギャラモンらによって一層の発展をみた。
そしてグリフォの、「手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 活字は、フランスではイタリックと呼ばれ、これまた一層の充実をみた。

そしてわが朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、毎年のニューイヤー ・ カードにおける活字紹介シリーズとして、2006年 「 ベンボ 」、2007年 「 ポリフィラス 」 の両活字書体を紹介した。
そしていまなお手を尽くして、モノタイプ母型による金属活字の輸入販売にもあたっているのである。

すなわちヴェネツィアの運河を背にした、このちいさな工房の歴史のおもさをおもわずにはいられないのである。

◎   と、ここまで書き進めて、吾輩ハタと気づいた。 吾輩は 「 烏兎匆匆 ウト-ソウソウ ② 」 としてこのページをしるしていることをである。 すなわちこのテーマは今後どなたかにお任せするとしているのである。
いまや復習したり、再考 ・ 再検証するときではない。 まして、アルダス工房とその書物と活字にたいする関心は世界規模でおおいにたかまっている。 もはや吾輩の出る幕ではない。

以下にもうふたつのテーマを紹介するが、もうしつこくは書かないゾ。
ところがじつは、そのどちらかは、これから一層集中 ・ 注力するテーマとしている。 どちらかは秘密だけどネ。 いずれにしても、あとはお任せなのである。

◎   しかしである。 しかしながら、オールド ・ ローマン体の研究を深めるためには、先行したヴェネツィア ・ ローマン体の研究をもっとふかめる必要がある。 すなわち、アルダス ・ マヌティウスより30歳ほど年長で、これも同じくヴェネツィアを本拠地とした、ニコラ ・ ジェンソン ( Nicolas Jenson  1420―80 ) の工房調査がまったく進行していない事実にいまさらながら気づいた。
アルダス工房の調査も ( 大袈裟にいえば、世界のタイポグラファがみな )、ここにしるしたような些細なことから大きく進捗したのである。
そ こで最後に、真摯なタイポグラファの皆さんに声を大にして のお願い。

ニコラ ・ ジェンソン工房の調査を、ぜひ !


◎ フランス   ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所

パリ、セーヌ河畔、ビスコンティ通り17番地 c.1825/27-1923年

パリのセーヌ川沿いのカチェラタン地区に、『 人間喜劇 』 『 谷間の百合 』 『 ゴリオ爺さん 』 などで知られる、文豪 ・ オノレ ・ バルザックが、ド ・ ベルニ家の支援を受けて設立した名門活字鋳造所の誕生の地がある。

若いころ、いっときバルザックの作品が好きで読みふけったことがある。 だからパリのペール ・ ラシェーズ墓地をたづねた。 その記録は 『 文字百景 』 のどこかにしるしたはずだ。
またフランスではいまだにバルザックの評価がたかく、
【 URL : Chateâu de Saché サシェ城 とバルザック記念館

があり、バルザックが使用した印刷機器なども展示されており、日本語紹介も充実しているが、日本語でのそこへの訪問記をみたことはない。 どなたかがここを訪問していただけるとうれしい。

同社創業者のバルザックは経営から早早に去ったが、同社はド ・ ベルニ家とペイニョ家の両家による後継者に恵まれ、1923年からはペイニョ家が実質的な経営にあたった。
ペイニョ家の歴代経営者では、Gustave Peignot  1839-99,  Georges Peignot  1872-1914,  Charles Peignot  1897-1983 らが著名である。
20世紀にはいってからも、同社はフランス国立印刷所の活字父型 ・ 活字母型の修復 ・ 鋳造にあたるとともに、「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 などの意欲的な活字を開発した。

またパリ16区に移転後の1952年、シャルル ・ ペイニョがスイスからアドリアン ・ フルティガーを迎え、「メリディエン  子午線」、「ユニバース  宇宙」 などの書体を産んだ。
しかしながら、急速な活版印刷の衰退という時代の推移もだしがたく、ついに1972年(昭和47)、同社の活字資産はフランス国立印刷所に収蔵され、製造権はスイスの Haas 社が継承し、その長い歴史に幕をおろしたのである。

ビスコンティ通りはセーヌ川から近く、写真のように、小型車がようやく通り抜けられるような狭い路地にある。 創業当時からの建物は、写真左手に顕彰レリーフとともにいまもあり、現在は出版社が使用している。
オノレ ・ バルザック ( Honoré de Balzac   1799-1850 ) に関する邦訳書は多いが、そこでは、かれが艶福家であったことや、放縦な生活ぶりは描かれても、かれが 「 印刷狂 ・ 活字狂 」 であったことをしるした書物は少ないようだ。

◯ 1826年(27歳)
バルビエなる印刷所の監督と既設の印刷所を買い取り、06月印刷業者の免許をとる。
『 Oeuvres de Colardeau 』   Paris, 1826   Imprimerie de H. BALZAC
バルザックの印刷による上記の豆本を吾輩所有。 天地110mm×左右67mm  180p
極小サイズの活字を使用。巻頭に印刷者としてバルザックの名がある。
他文献に紹介を見ず。 調査不十分。

◯ 1827年(28歳)
07月印刷所が頓挫する。そこでド ・ ベルニ夫人の出資を受けて、ローランとバルビエと共同で、印刷所にかえて、活字鋳造所を設立した ( 写真の場所 )。
『 La Fouderie Typographique  De Laurent, Balzac et Barbier 』  Paris,  1827
すばらしい活字見本帳である。 同書は1992年に正確な複製版が発行された。
オーナメント、活字、ヴィネットの紹介が豊富。 吾輩も1992年版を所有。

◯ 1828年(29歳)
活字鋳造所の事業が不振で、バルザックとバルビエは印刷 ・ 活字鋳造から手を引く。
04月活字鋳造業を ド ・ ベルニ夫人の息子に譲渡。 夫人が1万5千フランの負債を肩代わりした。 バルザックの負債は結局 6 万フランの巨大なものにのぼった。

◯ 1952年―― Charles Peignot  1897-1983
Charles Peignot らが、同社の事実上最後の総合活字見本帳 『 DEBERNY ET PEIGNOT 』 を発行。
創業者 ・ バルザックからはじまり、 ド ・ ベルニ家 と ペイニョ家歴代経営陣の紹介がある。
「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 活字書体の紹介が豊富。 吾輩も所有。

◎ イギリス  アーツ&クラフツ運動

ロンドン、アッパーマル12-26番地 19世紀末-20世紀初頭

テムズ河畔、馬車はもちろん、車も入れない、せまいせまい路地がアッパーマル通り。
19世紀中葉からこの路地に造形者が集まり、産業革命の負の側面を解消し、労働の喜びを賛歌するひとつの運動体を形成した。 それが 「 アーツ & クラフツ運動 」 であった。

著名なケルムスコット ・ プレスは この路地の入口、馬車のUターンのスペース ( 現在は駐車場 ) の前に、テムズ河畔に面してあり、路地にはダヴス ・ プレスなどの著名な印刷所と、製本 ・ 皮革工芸 ・ ステンドグラス ・ 刺繍の工房などが軒をつらねていた。

アーツ & クラフツ運動と、ウィリアム ・ モリスに関する紹介は、わが国でも多すぎるほど多い。 吾輩も英国 ・ 米国 ・ わが国の先行資料をそれなりにもっている。
さりながら、多くの執筆者たちは、このせまい路地に立ったことがあるのだろうか……とおもわせる記述が多い。 なによりも、この路地のテムズ川にせりだした 《 パブ ・ ダヴ 》 の珈琲はかなりうまいのだが、たれもそれにはふれないなぁ。

ダイカストと、先駆けとなった活字鋳造の産業革命-ブルース活字鋳造機の誕生

 

DSCN9133 20141010221615805_0001DSCN9117 DSCN9114 DSCN9154 DSCN9133 DSCN9151 DSCN9145 DSCN9135 DSCN9136 DSCN9140<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >
◯ 日 時 : 2014年11月13日[木]-15日[土]

◯ 場 所 : パシフィコ横浜
◯ 主 催 : 一般財団法人 日本ダイカスト協会

【 詳細 : 日本ダイカスト協会 2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会

ブルース ブルース活字鋳造機の心臓部 鋳型David Bruce, Junior     1802 - 92
手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine ) の考案者。
米国フィラデルフィアの活字商、デヴィッド ・ ブルースⅠ世の子。

写真上) 手回し式活字鋳造機 ( Pivotal type caster, Bruce Casting Machine )。
写真中) ブルース型活字鋳造機の心臓部ともいえる鋳型。
ボディサイズ( ≒天地)により鋳型は交換可。Setwidth ( ≒ 字幅)により左右にスライド。

──────────
隔年で開催される <2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 会議> が開催された。 ダイカスト( Die Casting   ダイキャスト )とは耳なれないことばかも知れない。
ダイカストとは ―― Die  金型、Casting  鋳造 ・ 鋳物 ―― のことである。
換言すると、金型 カナガタ をもちいる鋳造法のひとつで、その製品をもダイカストという。
複製原型として堅牢な金型をもちい、その金型に、溶融した金属を、圧力を加えて注入する(圧入)ことによって、高い寸法精度の鋳物を、短時間に大量に生産する鋳造方式であり、その製品のことである。 ダイキャストともいわれる。

ダイカストは、現代工業製品の基礎技術のひとつともいえ、自動車のエンジン、ボディの一部、タイヤホイール、携帯電話のフレーム、カメラのボディをはじめ、高精度な工業製品に盛んにもちいられている鋳造(イモノ)の技術のひとつである。

朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A の設計 ・ 製造に際しても、多くの金型(鋳型)がつくられ、そこにアルミ合金などを <圧力を加えて金属を注入する鋳造法> ダイカスト製品がたくさんもちいられている。

そもそも、鋳造、鋳物をつくる技術は、ふるく奈良時代から、祭具、仏像、釣り鐘、武具などの製造でもおこなわれていたが、そこでもちいられていた型(鋳型)は、現代では砂型とされるものがほとんどで、精度 ・ 強度がともにもひくく、高速かつ大量生産には適していなかった。

意外なことに、そのダイカストというあたらしい鋳造法のはじまりは、産業革命をへて、アメリカのブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が、ダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。

ヴィッド ・ ブルースⅡ世 ( David Bruce, Junior   1802 - 92 ) は長い春秋のときを終え、1834年ニュージャージーに移り、それ以降はハンド ・ モールドという、ちいさな器具、ないしは道具でしかなかった活字鋳造法に、機械としての活字鋳造機の製作をおもいたち、1828年、フィラデルフィアのウィリアム ・ ジョンソン ( William M.  Johnson )が考案製作した機械に最初の暗示を得て、機械システムとしての活字鋳造機の製造に没頭した。

数次の改良をへて、ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine ( アメリカ特許 No.3324,1843年 )が完成し、実用機として販売された。 これがダイカストの製品化 ・ 実用化のはじめとされている。
すなわち、
タイポグラフィとは切っても切れない技術がダイカストである。
【 詳細情報 : David Bruce, Jr. 】    【 画 像  集 : bruce junior david type caster

ブルース活字鋳造機のわが国への導入はふるく、アメリカでの実用化から30年ほどのち、はやくも1876年(明治09)に、元薩摩藩士 ・ 神崎正誼 カンザキ-マサヨシ による、東京銀座 (東京市京橋区南鍋町貳丁目壹番地) の活字商/弘道軒、 活版製造所弘道軒に導入されていた。

同社ではこの活字鋳造機を 「カスチング」 ( casting を訛ったもの) と呼び、自社開発書体  「 弘道軒清朝体活字 」 の鋳造を中心として繁忙をみたこともあった。 またいっときではあったが、ほぼ隣接して開設されていた 『 東京日日新聞 』 ( 現 『毎日新聞』 の前身のひとつ ) の本文用活字の一部にも、この 「カスチング ブルース活字鋳造機 Bruce Casting Machine 」 をもちいた活字を供給していた。
[ 片塩二朗 「弘道軒清朝体活字の製造法とその盛衰」 『タイポグラフィ学会誌 04』  2010年12月01日 ] p62アルビオン P70ブルース p71トムソン 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」は、当時の世相にあっては機器のメンテナンスや損傷部品の交換が海外企業では追いつかず、なかんずくブルース社製造の活字鋳型のサイズが、わが国の 「 号数制活字サイズ 」 とは異なっていたため、ほとんどが国産の模倣機がもちいられた。

その後自動化の進んだトムソン型の自動活字鋳造機の導入によって、 「 カスチング ブルース活字鋳造機  Bruce Casting Machine 」 は、「 手回し式活字鋳造機、手回し、ブルース 」 などと呼ばれるようになったが、張り出し文字などの特殊活字製造のために、現在も現役で稼動している。

【 参考資料 : 『VIVA 活版 !! 』 大石 薫、朗文堂

そんなダイカストの歴史 ・ 技術 ・ 可能性 ・ 魅力を知ることができる展示会が開催された。 ハンドモールド1ハンドモールド2ハンドモールド3★        ★        ★
活字ハンドモロールド操作 初紹介の貴重な動画!

【 Hand Moulding in the 1920s  https://www.youtube.com/watch?v=-hUGBD5h-po 】
1920年代の活字ハンドモールド操作の実態が動画で掲載されている貴重な動画(00:59)。
第一部は「活字父型  Punch」 と「活字母型  Matrix, 複数は Matrices 」 との関係をあらわす。
第二部は、ハンドモールドの湯口に、ヒシャクによる活字合金の流し込みののち、はげしく振り上げ、上下動させている。これは、ダイカストにおける「圧入」にかえて、活字のツラの細部まで地金を滲透させるためであり、また活字のボディに 「 鬆 ス ― 溶融状態の地金が冷却して収縮するとき、金属部分に生ずることがある空洞部分 」 が発生しないようにするためである。

Oxford Academic ( Oxford University Press )の提供によるものであるが、 共有リンクが設定できないので、
上掲 URL からぜひご覧いただきたい。

★        ★        ★

<2014 日本ダイカスト会議 ・ 展示会 >には、主催団体の日本ダイカスト協会の依頼によって、伊藤伸一氏が所有している 「 活字ハンドモールド 」 が正面入り口に展示され、おおきな話題を呼んでいた。
これから日本ダイカスト協会でも、活字鋳造とダイカストとの関連がおおいに話題となり、行動が開始されることが予想された。
このハンドモールドの1920年代英国における使用の実際の貴重な映像が、上掲 YouTube にアップされているのでぜひともご覧いただきたい。

またダイカストに関する貴重な資料として、日本ダイカスト協会技術部の西  直美氏による論文の一部を以下に紹介した。 ウィキペディアの 「 ダイカスト 」 も、ほぼ同氏の論文を引いて構成されているようである。
◯ 西  直美 「 ダイカストの歩み 活字鋳造から自動車足回り部品まで 」 『 軽金属 』 ( 第57巻 第04号、社団法人軽金属学会、2007年 )

【関連資料 : ウィキペディア ダイカスト

あわせて、アダナ ・ プレス倶楽部 <活版凸凹フェスタ2009 型形 カタカタ まつり> の資料も、ここに紹介しておきたい。

< ダイカストとは …… >

ダイカスト (die casting ) とは、金型鋳造法のひとつで、金型に溶融した金属を圧入することにより、高い寸法精度の鋳物を短時間に大量に生産する鋳造方式のことである。ダイキャストともいわれる。
またこの鋳造法だけでなくダイカスト鋳造法による製品をもダイカストという。

日本におけるダイカストの研究は1910年(明治43年)ころから大学の金属研究室を中心におこなわれ、1917年(大正06年)には最初のダイカスト会社が大崎(東京都)に設立された。
当時は鉛 ・ 錫 ・ 亜鉛を中心とした低融点合金を使用していたが、昭和に入りアルミニウム ・ 銅合金の素材も使用可能となって生産の拡大が進展し、第二次大戦中は軍需品を中心に年間 2,500 トン程度の生産まで達した。

戦後 1950 年頃までは低迷期が続いた。 1952年以降、JIS に関連規格が制定された。 その後、経済の高度成長や、自動車産業の発展、それにともなうダイカストマシンの改良 ・ 合金素材の開発が急速に進展し、2000年代にはマシンのコンピューターコントロール化 ・ 大型化もあいまって、生産性の向上と製品の多様化が顕著になっている。

ダイカスト関連年表

  • 1838年(天保09年) – 米デヴィッド ・ ブルースがダイカスト活字を製品化
  • 1905年(明治38年) – 米国のハーマン ・ H ・ ドーラーがダイカストの商業生産開始
  • 1910年(明治43年) – 日本でダイカストの研究開始
  • 1917年(大正06年) – 日本初のダイカスト製造(ダイカスト合資会社)
  • 1922年(大正11年) – 国産ダイカストマシン製造
  • 1935年(昭和10年) – 軍需産業でダイカスト製品の研究進展
  • 1940年(昭和15年) – ダイカスト製造各社に対し統制令発令、効率化のため100余社から25社に統合
  • 1947年(昭和22年) – 戦後民生品製造のためにいち早く復興。日本橋白木屋にてダイカスト展示会開催
  • 1949年(昭和24年) – 2 眼レフカメラボディのダイカスト化
  • 1952年(昭和27年) – 油圧電気制御ダイカストマシン初導入
  • 1952年(昭和27年) – JIS に関連規格が制定
  • 1953年(昭和28年) – 日本において高純度亜鉛開発成功
  • 1984年(昭和59年) – 日本のダイカスト生産量 50 万トン突破
  • 1988年(昭和63年) – コンピュ-タ制御マシンの導入本格化
  • 2002年(平成14年) – 日本のダイカスト生産量 80 万トン突破
  • 2006年(平成18年) – 日本のダイカスト生産量100 万トン突破

アダナ ・ プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ
特別企画展示
< 型形 まつり ― カタカタ マツリ― >

「 type 」 とは、「 活字 」  であり 「 型 」 そのものをあらわすことばでもあります。
「 型 」 という視点でとらえると 「 活字  Type 」 そのものが、文字情報を、広く早くたくさん伝播するための 「 印刷版 ・ 活字版 ・ カッパン 」 を構成するひとつひとつの 「 型 」 といえます。

その活字も、ふるくは簡便に砂でつくった 「 砂型 」 を使って複製したり、「 鋳型 」 や「 母型 」 という 「 型 」、その母型をつくるための 「 型 」 となる 「 パターン 」 や 「 父型 」・「 種字と蝋型 」、父型をつくるための 「 型 」 である 「 カウンター ・ パンチ 」 などの、さまざまな 「 型 」 を幾重にも利用して成り立っていることがわかります。

アダナ ・ プレス倶楽部の活字版 印刷機 Adana-21J のボディも、ロストワックスをはじめ多種の型を使って製造されています。
今回の特別企画展示では、「 活字 」 や 「 活版印刷 」  とは切っても切り離せない関係にある  「 型 」 という概念に注目し、「 型 」 にまつわるさまざまを展示いたします。

わたしたちの生活は、実にさまざまな 「 型 」 の活用とその応用技術によって支えられています。 そしてわたしたち生き物も、遺伝子の中にある 「 型 」 の組み合わせによって形づくられているのです。
「 型 」 を用いた自然の摂理や先人の叡智と技術におどろき、その多様さや合理性などに感心しながらも、「 型 」 そのものの形の面白さや美しさに触れて、わたしたちと 「 type 」 との深い結びつきを再認識していただければ幸いです。

【 基本情報 : 一般社団法人 日本ダイカスト協会 HOME
【 イベント詳細 : 2014年 日本ダイカスト会議・展示会のご案内
【 関連情報 : 朗文堂 アダナ  ・ プレス倶楽部ニュース No.49 活版凸凹フェスタ 2009 型形まつり

新聞発行150周年 ジョセフ 彦と<日本国新聞発祥之地>碑を訪ねて

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DSCN9168 DSCN9173DSCN9184 DSCN9187[ 台座碑銘 ]

日本国新聞発祥之地

[ 碑    文 ]

日本における新聞誕生の地

ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四
( 元治元 ) 年六月二十八日、 ジョセフ 彦が、
「 海外新聞 」 を発刊した居館の跡である。

彦は、 リンカーン大統領と握手した 唯一の
日本人であった。 リンカーンの民主政治が 勃
興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを
体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初
の新聞を創刊し、「 童子にも読める 」 新聞精神
を提唱した。読みやすく、判りやすい新聞を、
創世記の日本の新聞界に植えつけた 新聞の
父 彦 の功は大きい。

さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など
多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主
義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの
人々の心の奥に残る 文化の恩人であった。

一九九四 ( 平成六 ) 年六月二十八日
「 海外新聞 」  発刊一三〇年記念日に
                ジョセフ 彦記念会
──────────
日本で最初に発行された新聞は、1864年(元治元)に ジョセフ 彦 が横浜で発刊した 『 海外新聞 』 とされている。
すなわち本年は < 新聞発行150周年 > にあたり、ジョセフ 彦の郷里 : 兵庫県播磨町では各種の行事が予定されている。
【 関連情報 : 播磨町役場 新聞の父 ジョセフ ・ ヒコ ≪2014(平成26)年は、ジョセフ ・ ヒコ新聞発行150周年≫

ジョセフ 彦 (1837-97) は 播磨国加古郡古宮村 (現 : 兵庫県播磨町古宮) のひと/彦太郎で、1850年江戸から 船で故郷に帰る途中 暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流したのち アメリカの商船に救われアメリカに渡った。
税関長サンダースに可愛がられた彦太郎は、アメリカで教育を受け、カトリックの洗礼を受けた。 この時 「 ジョセフ 」 のクリスチャンネームを受け、のちにアメリカ国籍をえるとともに、「 ジョセフ   彦 」 と名乗った。

1859年 (安政06) アメリカ領事館の通訳として、 初代日本総領事ハリスとともに 開国直後の日本に着任した。  一旦アメリカに帰国後、1864年(元治元)年 再来日し、06月から横浜の (外国人) 居留地一四一番において、 < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊した。
『 海外新聞 』 は当初は 『 新聞誌 』 と称していた。 これはジョセフ  彦が外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵が、ひらがな交じりのやさしい日本文に直したもので、半紙 4-5 枚に筆写したものを こよりで綴り、横浜市内に 100 部程度配っていた。 翌年には 『 海外新聞 』 と改題し、木版刷りで 26 号まで発行している。
『 海外新聞 』 は、外国人が治外法権のもとで生活していた、居留地一四一番 ( 現 : 横浜市中区山下町 中華街 関帝廟直近の場所 ) で発行された。 月刊新聞で、半紙 4-5 枚を仮綴したもので、 最初は 手書きだったが、のちに木版印刷をもちいて、 02年間で 26号まで発行したとされる。
青山外人墓地に、ジョセフの名を漢字にあてた 「浄世夫  彦」 の名前で墓地がある (青山霊園  南01種イ04 1837-97年)。
【 関連情報 : ウィキペディア 浜田彦蔵

ここで、ジョセフ  彦とともに『 海外新聞 』 に携わった 岸田吟香 にも簡単に触れておこう。
岸田吟香 (1833-1905) は 岡山のひとで、江戸で漢学を学び、1864年(元治元)横浜で  J ・ C ・ ヘボン (James Curtis Hepburn 1815-1911) の和英辞書 『 和英語林集成 』 の編集に協力した。

1865年(慶応元)から新聞に関わるようになり、ジョセフ  彦の 『 海外新聞 』 創刊に参加。1868年(明治元)には、バン ・ リードと 『 横浜新報 もしほ草 』 を創刊した。
1873年(明治06)『 東京日日新聞 』 に入社、翌1874年台湾出兵に従軍し、日本最初の従軍記者となった。
1877年(明治10) 『 東京日日新聞 』 を退社し、その後は事業家として、中国との貿易、文化交流にも活躍した。  ヘボンから学んだ水性点眼薬 「 精錡水 セイキスイ 」 の製造販売でも名をあげ、視覚障害者の施設を設けるなどした。
また画家 岸田劉生の父であり、そのモデルとなった麗子の祖父でもあった。
──────────
< 日本新聞発祥之地 > 碑は 横浜市山下町の、いわゆる中華街の一隅、すこしわかりにくい場所にある。
横浜の港は、和暦では安政06年06月02日(太陽暦では 1859年07月01日)に開港された。
その直後から治外法権のもとでの外国人居留地が開設され、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、インド人などが居留して、活発かつ精力的な商業活動を展開し、コロニアル ( 植民地 ) スタイルの洋風商館が立ちならんでいた地である。
すなわちジョセフ  彦は、外国人としてこの地に居住していたことになる。

この居留地百三十五番には 「 清国 ( 現 : 中華人民共和国 ) 領事館 」 があり、中国人も多かった。 その後1899年(明治32)、いわゆる不平等条約の解消によって多くの外国人が去り、また関東大震災、第二次世界大戦の戦災などがかさなって、往事のおもかげをほとんどとどめないが、ここに精力的に中国人が進出して、いわゆる「中華街」を形成した。

< 日本新聞発祥之地 > 碑は、横浜 中華街  関帝廟カンテイビョウ、向かって左、およそ15 m ほど、横浜中華学院の塀にそった 歩道の植え込みに、歩道側を向いてたたずむ。
左斜め前には 「 横濱バザール 」 があって、このあたりが、かつては治外法権の外国人居留地であったことのおもかげをわずかにとどめている。

DSCN9219 DSCN9217 DSCN9225 DSCN9222 DSCN9207 DSCN9208 DSCN9203 DSCN9181 DSCN9194 DSCN9200 DSCN9201中華街のはずれ、地久門をでて、JR 石川町駅をめざす。
はやくからの開港地であった横濱には、興味深い施設がたくさんあった。
DSCN9232 DSCN9234 DSCN9237ここには短期間ではあったが、東京築地活版製造所の開設者、平野富二が、機械製造と造船業への進出初期に
かかわった <横浜製鉄所跡> 碑が設けられている。
すなわち明治初期のこのあたりは海辺であり、水運をおおいにもちいた <横浜製鉄所 > があった場所である。
『 平野富二伝 考察と補遺 』  第六章 「築地活版所の拡張と造船業への進出」 (古谷昌二、朗文堂)から、この場所をみてみよう。
平野表紙uu
横浜製鉄所の概要

幕府がフランスの協力のもとで横須賀製鉄所 (のちに横須賀造船所、横須賀海軍工廠となり、現在はアメリカ海軍横須賀基地となっている) を建設する一環として、横須賀製鉄所の建設に先立ち、以前に幕府がアメリカから買い付けてあった工作機械を用いて、当面の艦船修理と洋式機械製造技術の習熟のため、早急に横浜に製鉄所を開設することにしたものである。
当時は銅鉄を溶解して鋳造 ・ 機械加工する工場を 「 製鉄所 」 と称していた。

六 ― 二     横浜製鉄所での共同経営
明治九年(一八七六)五月、[平野富二は] 長崎製鉄所時代の同僚であった杉山徳三郎が実質的に経営していた 横浜製鉄所 の経営に参加し、ここで艦船修理や印刷関係を含めた各種機械器具類の製造を開始した。
同年八月、工部卿 山尾庸三ヨウゾウから紹介されて、イギリス人アーチボルド ・ キングを横浜製鉄所の職長頭として雇い入れた。
しかし平野富二は、海軍省から石川島造船所のドック借用で業務多忙となったため、同年一〇月、横浜製鉄所の共同経営から脱退した。 

日刊新聞発祥の地 『横浜毎日新聞』 の記念碑

日刊新聞発祥の碑 [ 写真提供 : 松尾篤史氏 ]

《 日刊新聞発祥の地-表面 碑文 》
碑 文

日刊新聞発祥の地

明治三年十二月八日 我が国日刊新聞が鼻祖「横浜毎日新聞」はこの地で誕生した
この新聞はまた冊子型木版刷りの旧型から 活字一枚刷りの現代型へと踏切った
我が国最初の新聞であった
これが端緒となって 日本が大新聞国へと発展したことを思うと文明開化の窓口としての
横浜の意義はきわめて大きい

こうした偉業を記念すると同時に その計画者 時の神奈川県令井関盛艮
社長島田豊寛  編集担当者子安峻 印刷担当者陽其二 資金協力者原喜三郎
茂木惣兵衛 吉田幸兵衛  増田嘉兵衛 高瀬英祐等諸氏の功績を後世に伝えるため
この記念碑を建立する

  昭和三十七年十月十日
    撰文  日本新聞学会会長 上野    秀雄
    書   神奈川県知事      向山岩太郎
    協賛          神奈川県
                 横  浜  市
                 日本新聞資料協会
    建立          神奈川新聞社

《 日刊新聞発祥の地-表面 銅板レリーフ 》
日刊新聞発祥の地 碑 横浜毎日新聞 第一号紙面
(明治03年12月08日発行)
[ 原本は国立国会図書館蔵 ]
横浜毎日新聞第一号《 日刊新聞発祥の地-裏面 碑文 》

 この記念碑は当初 昭和三十七年十月十日
 横浜市中区北仲通五丁目の旧生糸検査所の敷地
 内に建立されました。その後、再開発に伴い解
 体、撤去され 同敷地内に復元を予定していま
 したが、本来の創刊の地が同区本町六丁目のこ
 の地付近であることが分かり、横浜市の協力を
 得て、ここに記念碑を移設、再建しました。
      平成二十一年十二月八日
              神奈川新聞社

《 日刊新聞発祥の地-所在地とその再建の経緯 》
所在地 : 神奈川県横浜市中区本町06丁目
JR みなとみらい線、馬車道駅の「1 b 出口」を出ると、目の前に高さ119m の高層ビル「横浜アイランドタワー」がある。

このビルの西側広場に 高さ1.3m  幅2.1m の 灰色の御影石製の石碑 「 日刊新聞発祥の地 」 の碑が建立されている。
碑面には 「 横浜毎日新聞 」 創刊号の紙面写真が銅板に刻まれたレリーフが埋め込まれている。
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日本で最初に発行された新聞は、1864年(元治元)に ジョセフ 彦 が横浜で発刊した 『 海外新聞 』 とされている。
すなわち本年は <新聞発行150周年>にあたり、ジョセフ 彦の郷里 : 播磨町では各種の行事が予定されている。
【 関連情報 : 播磨町役場 新聞の父 ジョセフ ・ ヒコ ≪2014(平成26)年は、ジョセフ ・ ヒコ新聞発行150周年≫

ジョセフ 彦(1837-97)は播磨国加古郡古宮村(現 : 兵庫県播磨町古宮)のひと/彦太郎で、乗船が難破して漂流中のところをアメリカの商船に救助され、アメリカで教育を受けてカトリックの洗礼を受けた。
のちにアメリカ国籍をえるとともに、「ジョセフ」のクリスチャンネームを受け、ジョセフ 彦と名乗った。

1859年(安政06)アメリカ領事館の通訳として、 初代日本総領事ハリスとともに 開国直後の日本に着任した。 一旦アメリカに帰国後、1864年(元治元)年 再来日し、06月から < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊した。
『 海外新聞 』 は当初は 『 新聞誌 』 と称していた。 これはジョセフ彦が外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵が、ひらがな交じりのやさしい日本文に直したもので、半紙4-5枚に筆写したものを こよりで綴り、横浜市内に100部程度配っていた。 翌年には 『 海外新聞 』 と改題し、木版刷りで26号まで発行している。
『 海外新聞 』 は外国人居留地だった横浜(横浜市中区山下町 中華街 関帝廟直近の場所)で発行された。 月刊新聞で、半紙 4-5 枚を仮綴したもので、 最初は 手書きだったが、のちに木版印刷をもちいて、 02年間で 26号まで発行したとされる。
青山外人墓地に 「浄世夫  彦」 の名前で墓地がある。 1837-97。

これに付記すると、わが国における新聞のはじまりは、徳川幕府の施設 蕃所調所の 活字方によるもので、オランダ領東印度会社 総督府の機関誌で、週02回発行されていた 『ヤパッシェ ・ クーラント   Javasche Courant 』 の主要記事を 日本語に翻訳した、『 官板バタヒヤ新聞 』(文久02年)がある。
東京大学 明治新聞雑誌文庫で実見の機会をえたが、「蕃所調所 活字方」が手がけたとはいいながら、この新聞というより 小冊子にちかい情報誌は、木版印刷によるものとみたい。
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開港地長崎には、英人編集者にして、印刷人の名門にうまれた ハンサード(Albert William Hansard,  1821-65)がいた。
ハンサードは開国を待ちかねて1860年(万延元)12月に長崎に来て、英字新聞 『 Nagasaki Shipping List and Advertiser 』 を28号まで発行したが、これには長崎奉行の許可を得て、陽 其二 ヨウ-ソノシ ゙らの 本木昌造一門が研修をかねて助勢していたことが記録されている。

ハンサードは翌1861年(文久元)11月、新開地として興隆しつつあった横浜に転じて、『 英字紙 ジャパン・ヘラルド Japan Herald 』 を発行して、1865年ころに英国に帰国したとされている。
すなわち、本年は < 新聞発行150周年 > にあたり、横浜ではジョセフ 彦らによって1864年(元治元)06月から < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊されていた。
さらに英人 : ハンサードによって、1860年(万延元)12月、長崎での英字新聞 『 Nagasaki Shipping List and Advertiser 』 が発行され、翌1861年(文久元)11月、新開地として興隆しつつあった横浜に転じて、『 英字紙 ジャパン ・ ヘラルド Japan Herald 』が発行されていた。
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こうした新聞発行の基盤のあった開港地 横浜に、ハンサードから10年ほどのち、ジョセフ 彦から07年ほどのちになって、ときの神奈川県令 : 井関盛艮(いせき-もりとめ 1833-90)の発案によって、「明治三年庚午 十二月八日」 (旧暦。新暦では1871年01月28日)に、わが国初の日刊新聞 『 横浜毎日新聞 』 は呱呱の声をあげたのである。

20141027170907551_0001[ この項 『 本木昌造伝 』 島谷政一 朗文堂 編集子あとがきより ]
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日本語による日刊新聞のはじめは、1870(明治3)12月08日に発刊された『 横浜毎日新聞 』で、 これは 西洋紙の両面に最初は木活字、次第に鋳造活字を使って活字版印刷したものであった。
活字版印刷機の機種は判明しないが、いずれにしても人力による、写真のような 「 手引き活版印刷機 」 だったとみられ、当時の物価水準からみたら 相当高額な料金で販売された。
アルビオン『 横浜毎日新聞 』 はその後、1879(明治12)に東京に移り、『 東京横浜毎日新聞 』 という名前に改称され、さらに 『 毎日新聞 』、『 東京毎日新聞 』 と紙名を変えたが、時局の切迫した1941年(昭和16)に廃刊になった。
なお現在の 『 毎日新聞 』 は、銀座にあった 『 東京日日新聞 』 の系譜に属し、『 横浜毎日新聞 』 とは無関係である。

この <日刊新聞発祥の地> 碑は、かつて生糸検査所(現 ・ 横浜第二合同庁舎)前にあった[1062年(昭和37)建立]が、 生糸検査所が合同庁舎に建て替えられた時に撤去され、同所の駐車場に保管されていた。
今回は石碑を造りなおして、新しく判明した 『横浜毎日新聞』 の発行所があったこの場所に再建された。
[写真ならびに情報提供/松尾篤史氏]
 

Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO-Report 00 番外編 しろくまは カゴンマ de ゴアンド !

 

天文館「ママ」のしろくまくん

本項の初出は2013年09月20日であった。 好評をいただいて閲覧カウンター数も多かったようである。
この旅の目的のひとつに、本年の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の会場交渉があった。
<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の開催、2014年11月01-03日の開催が迫ったいま、ここに若干の補整を加えて再紹介したい。
―― 2014年10月15日
Goando-red【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間
【 時  間 】   開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕  尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主  催 】 朗文堂  アダナ ・ プレス倶楽部

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【 緊 急 の お 知 ら せ 】

◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>

◯ 今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に、重要文化財「木村嘉平関係資料」が特別展示されます。
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。
◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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《 いやぁ~ 南国 鹿児島での しろくま 結構なもので ごあんど ! 》

やつがれは下戸である。したがって甘党でもある。
糖尿病予備軍と医者に通告されてから及び腰になったが、ともかく甘いものには目がない。

完食寸前のアレの本物? カップアイスでは味わえない、本物のアレ。完食寸前でもう一杯食べたいおもいがある。

口惜しいことがあった。もう07年余も笑われ モトイ あざ嗤われてきた。
やつがれがお気に入りの、その 「アイス」 に囓りついていると、ノー学部が嘲笑を浮かべてボソッと口ばしる。

「 カチカチのカップ入りなんて……。 本物を知らないから、あわれなのよね~ 」
買い物は苦手だが、煙草の補給のためにときおりコンビニにいく。 帰り際にさりげなくアイスクリームのケースをのぞく。
「 アレ は本物じゃない、あわれなのだ 」
といわれたくないから、あくまでもさりげなくケースをのぞく。

人気の赤木乳業 「 ガリガリ君 」 はいつも中央部にデンと据わり、種類もまことに豊富だ。
「 ガリガリ君 」 なら、やつがれはあっさりめのソーダ味と梨味が好きだ。中央部はかき氷風で、外周部はキャンデーのようだ。
それ
でも 「 ガリガリ君 」 はあくまでも代替品であり、狙いのアレ、本命の アレ ではない。

その 「 疑似の アレ 」 は、気まぐれのように、時折コンビニのアイスケースの端のほうに、数個だけ置かれることがある。
家の近くにのコンビニは 「 ファミマ 」 が多いが、ときおりすこし遠い 「 セブン 」 に足を伸ばすのは、おなじ「 疑似の アレ 」 でも、セブンのアレのほうが、トロリと豊饒な甘さがあるからであある。 ファミマのアレは、カップの底までなめてやろうというまでの、恍惚たる至福感にいたることはない。

値段もファミマのほうは少し安いかもしれないが、あまり気にしていない。どうせ 「 アイス 」 だし、「 疑似の アレ 」 と罵られている代物だ。
しかもどこのコンビニも 「 ガリガリ君 」 の補充には熱心だが、もともと 「 疑似の アレ 」 は、専有面積が少ないし、同好の士もわずかにいるとみえて、アイスケースの手前右隅 ―― 一番目につきにくいところが定番の置き場所 ―― はポツンと空いていることが多い。

《 カゴンマ イキモンソ ! ウマカ ゴアンド ! ― 鹿児島にいきました。 悶絶する旨さでした !  》
2013年08月10日-12日、所用があって数年ぶりに鹿児島にでかけた。 主要な打ち合わせの相手が多忙ということで、こんなお盆休暇の直前での打ち合わせとなった。
旅の同行者はノー学部。

ノー学部は福岡で生まれ育ったが、父親が鹿児島大学を卒業し、母親の実家も鹿児島にあり、子供のころから長期休暇はイトコが多い鹿児島で過ごすことが多かったという。
そして父親が亡くなったいまは、母親が里の鹿児島にもどったために、ノー学部にとっては帰省の旅ともなった。やつがれは02泊03日の慌ただしい旅となる。

「むじゃき」
「むじゃき」2

「むじゃき」3 待望のしろくまくんに挑戦。

《 唖唖 遂に至福のときはいたれり。 やつがれ、鹿児島にて しろくま を食す 》
諸君 見て欲しい !
この天をもどよもす圧倒的なボリュームを、入道雲のごときふわふわ感を。なんとも圧巻ではないか !!  どうだ、これが本物の アレ、鹿児島名物 本物の「 しろくま 」 である。 

屈辱の07年余、軽蔑 ・ 侮蔑 ・ 嘲笑されながらも、ひとり黙黙と 「 コチコチで疑似のカップアイスの アレ 」 を食し、心中ひそか、せめて一度で良いから本物を食そうと、念願 祈願 切望してきた、これぞ 「 しろくま 」 の本物である !!!
鹿児島到着の夜、ホテルから近く、閉店間際に駆けこんだ、元祖 「 天文館むじゃき 鹿児島中央駅前店 」 での歓喜のひとこまである。
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コンビニのパックにはいった 「 アレ 疑似しろくま 」 しか知らなかったやつがれ、フルーツが山のように盛られ、蜜と練乳がたっぷりかけられた 本物の 「 しろくま 」 に陶然となった。
ところがやつがれ、かき氷はもちろん 「 アレ  疑似のしろくま 」 でも、食している最中にこめかみのあたりが痛くなり、最後は頭を絞りあげられるような傷みがはしる。

その怖れを抱きながら食したが、なんと本家 ・ 元祖 ・ 家元、鹿児島の 「 しろくま 」 は、1949年(昭和24) の発売開始のころから、ピュアな角氷を 「 カンナ削り製法 」 によって、ふんわりとやさしく仕上げてあるそうである。
そのせいかこのボリュームを食べても、こめかみにズキズキ感は無いし、むしろもっと食べたい気分にさせる。

「 フル-ティー & ミルキー  しろくま  ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

《 翌日は鹿児島市内を駈けまわったが、天文館の 「喫茶ママ」 で 「 しろくま 」 に再度挑戦 》

天文館「ママ」のしろくまくん

今回の鹿児島行きでは、車をふくめてすっかりノー学部の従姉 ・ ミカさんのお世話になった。
そのミカさんが繁華街/天文館の一隅、昭和のかおりがのこる喫茶店 「ママ」 に連れていってくれた。このひとは寡黙だが、薩摩おごじょであり、芯はつよいのかもしれない。
「 このママという店は、父と母が はじめてデートしたお店だそうです 」
「 やはりご両親も、初デートで しろくま をたべたのかなぁ 」
「 そこまでは聞いていませんが、それぐらいふるくからある喫茶店です 」

まつことしばし。 新種の 「 しろくま 」 登場。 昨夜よりいくらか落ちついて歓喜のときを迎えたが、「むじゃき」 とはいくぶん異なりながらも、これまた取り乱すほどの美味であった。
こちらは自家製の練乳を、これでもか、これでもかとかけて、おおきく切ったオレンジ、バナナ、スイカ、メロンがドカンと盛りつけられ、中央に餡豆が表情をつくるようにのせられている。
「フル-ティー &ミ ルキー しろくまくん ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

長島美術館から見た錦江湾と桜島。薩摩は人をもって城となす。薩摩鶴丸城は館づくりの平城であった。

鹿児島県立図書館の薩摩辞書の碑愛猫家の皆さんへのプレゼント!

シラス台地の海岸線東シナ海に没する夕陽

《 慌ただしい旅は終わった ―― 成果と宿題の多い旅となった 》
こうして久しぶりに鹿児島のタイポグラファとの再会をはたし、来年(つまりことし)の企画の打ち合わせもできた。また美術館、文学館、歴史資料館などでも打ち合わせを重ねることができた。
最終日の12日[日]は、アダナプレス倶楽部の鹿児島会員 : 陶芸家の窯と、手漉き紙工房の造形家のもとをたづねることができた。
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ことし(2013年)の夏、07月は北海道 《Viva la 活版 Viva 美唄》 にでかけ、08月はこうして鹿児島に出かけていた。
どちらも暑く、帰京してからも残暑がきびしかった。
そんなわけで暑さに負けて、すっかり脳内発酵をみて、この 《タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏》 の更新が滞っていた。
何人かの愛読者からは 「さぼるな」 「躰の調子でも悪いのか」 と、@メールでの叱声や、お心遣いをいただいた。

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たしかにいささか夏バテ気味ではあったが、本音は夏季休暇を終えて出社したノー学部が、
「 偶然、JAL の機内誌に、作家の浅田次郎さんが 『 しろくま 』 のことを書いていました。 面白いからお土産に貰ってきました 」
と、機内誌 『 SKY WARD 』 (620号、2013年07月27日) を差しだしたことにある。
その p.119-122 にわたって、文 : 浅田次郎 、絵 : 川上和生による 「 続 ・ しろくま綺譚」 が掲載されていた。

それによると、浅田氏は 5 年前の鹿児島訪問にあたって、取材のスケジュールに追われるあまり、 「 しろくま 」 を食べる機会を逸し、それ以後 5 年にわたり 「 しろくま 」 を食すことを渇望し、ようやく仇討ちにも似た気分で 「 しろくま 」 にありついたそうである。その感動を、軽妙な筆で描写していた。

浅田次郎氏といえば、やつがれはたいていの作品を読んでいる愛読者である。このとき浅田氏は宮崎での講演会を終えて、ひとり (ひそかに) 鹿児島を訪れて 「 天文館むじゃき 」 の 「 しろくま 」 を、二杯もむさぼったらしい。以下に 『 SKY WARD 』 の一部を抜粋したい。

旅の感動を言葉で表現するのは難しい。それを百も承知で書くと、たいそうすこぶるチョーメッチャうまかった。

カキ氷でもフラッペでもない。いったいどんなカキ方をすれば氷の粒子ががこんなに細かく、ふんわりとでき上がるのであろう。テンコ盛りのトロピカルフルーツと、クラシックな自家製練乳の甘みが相俟って、そのおいしさたるや、私がしろくまを食べているのか、それともしろくまに食われているのか、わからなくなるほどであった。

『 SKY WARD 』 のエッセイは、うれしくもあり、筆力の差を見せつけられたようで疎ましくもあった。 そのためと暑さ負けとで、ついついやつがれの駄文をしるす筆がおもくなっていた。
内心ではひそかに、
「 なんだよ、浅田次郎は 5 年のお預けかよ。こちとら、カタシオ ジロウは 7 年だぞ。俺のほうがずっとながく、臥薪嘗胆、艱難辛苦、かてて加えて 屈辱に耐えてきたぞ 」
「 文章家なら、感情表現に、もそっと気配りをせい。 『 たいそう すこぶる チョーメッチャ うまかった 』 とはなんだ。 テレビのグルメ番組のタレントでも、こんな寒いセリフは云わんぞ 」
と、悔し紛れの悪態をついていた。

ところでそこから浅田氏は奇矯に奔ることになったらしい。
つまり浅田氏はひとりでの鹿児島入りであり、仇討ちにも似た 「 しろくまを食した 」 ことの立会人 (つまり証人) がいないことにハタと気づいたという。
そこで、もちいたことのない写メールを、店員に操作を教えてもらいながら、5 年前に取材 (だけに) に引きずり回した担当編集者に 「 しろくま征伐、勝利の凱歌 」 の記録として送ったとしるしている。

『 SKY WARD 』 の挿絵は情感のある良い絵だが、この機内誌の編集者は、空前絶後かもしれぬ 「 浅田次郎の写メール 」 を紹介する、千載一遇の機会を逸しているのは残念である……。
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そしてやつがれ、火を吐く山 ・ 櫻島、錦江湾の紺碧の海、半島の尖端でみた東シナ海に没する夕陽、すなわち鹿児島のエトスにこころを奪われた。
エトス Ethos はギリシア語で、エートスとも音される。ご存知の パトス Pathos 感情 ・ 激情の対語である。そのことは本欄でもしるしたことがある。

【 花筏 : 朗文堂-好日録015  五日市のランドスケープ、佐々木承周老師 2011年11月23日 】

すなわちエトスとは、やつがれにとっては情念にちかく、簡略に述べると、ひとの性格 ・ 心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性 ・ 情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観でもあろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、火の山櫻島、紺碧の錦江湾、そして南国の氷菓 「 しろくま 」 にまで、地霊 ・ 山霊 ・ 岩霊 ・ 艸霊 ・ 木霊 ・ 水霊をおぼえるのである。そのふところに身をゆだねると安堵するエトス ── 情念 ・ 性癖ないしは心性があるらしい。
こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

これからしばし、エトスが存するまち、なんといっても 「 しろくま 」 が一年中食せるまち、「 鹿児島 」 に、内心ひそかに情念のほむらを燃やしながら、こだわるつもりのこの頃ではある。

タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星 : 吉田市郎氏が逝去されました

 

yoshida_sama[1]吉 田 市 郎
1921(大正10年)01月28日-2014(平成26年)09月29日 行年93

元株式会社晃文堂代表取締役/株式会社リョービ印刷機販売代表取締役、株式会社リョービイマジクス代表取締役、リョービ株式会社取締役、吉田市郎氏が、2014年09月29日肺炎によりご逝去されました。
ここに謹んで皆さまにご報告いたします。

吉田市郎氏にお世話になったのは、朗文堂:片塩二朗がまだ小学生のころに、日本橋丸善の店頭にあったスミスコロナ社の欧文タイプライター(パイカとエリートサイズを搭載していた)に惹かれ、神田鍛冶町二丁目18 にあった、株式会社晃文堂-欧文活字の晃文堂をオヤジとともに訪ねたのが最初でした。

以来半世紀余にわたり、筆舌につくせないご薫陶をたまわりました。
ご高齢でもあり、いつかこの日がくることは覚悟していたつもりでしたが、お知らせをいただいて、まさに <巨星 墜つ> のおもいで ことばもございません。

いずれ別項 <タイポグラファ群像> をもうけてご報告いたしますが、吉田市郎氏は、終戦後ようやく復員し、まもなく晃文堂を設立され、金属活字 ・ 活版印刷関連機器の製造販売からスタートし、写真植字、デジタル世代の三代にわたって、つねにその先頭にたって業界を牽引したかたでした。
またタイポグラファの見地から、印刷術をシステムとしてとらえ、その基盤の書体開発から、印刷までの、一貫したシステムの開発に尽力されました。

ともかく仕事一筋のかたでしたから、業界紙誌への寄稿はたくさんありますが、まとまった著述はのこされませんでした。わずかに吉田市郎氏からの聞き語りと、頂戴した資料をもとに記述した拙著 『逍遙 本明朝物語』 (オフセット印刷版は完売。樹脂凸版印刷版のみ在庫。朗文堂) が、わずかにそのタイポグラファとしてのお姿を伝えるばかりです。
【 朗文堂ブックコスミイク : 既刊書案内 『逍遙 本明朝物語』

また、吉田市郎氏は多年にわたる業界への貢献によって、数数の顕彰を受けてきましたが、2008年(平成20)タイポグラフィ学会による、第一回 平野富二賞を受賞されました。そのことをとても喜ばれて、
「活字と印刷機器の製造販売を担ってきた者として、平野富二賞の受賞はとても嬉しいことでした」
と再再述べられていたことも、鮮明なおもいでとしてのこっています。
第一回平野富二賞 吉田市郎氏吉田市郎氏賞状組版
受賞者 吉田市郎氏 について ── タイポグラフィ学会
吉田市郎氏は、終戦の翌年に晃文堂を創業されて、活字製造の事業を興され、その後リョービ印刷機販売株式会社(現リョービイマジクス株式会社)の経営にあたられ、総合的な印刷システムの開発と普及に尽力されました。
社会や技術の急速な変化の中にあっても、同氏は活字書体とタイポグラフィに対する深い理解と愛着を堅持され、その普及・発展に貢献してこられました。 
タイポグラフィ学会は同氏の功績を顕彰するため 「第 1 回 平野富二賞」 受賞者に選考いたしました。

【 タイポグラフィ学会 URL : 第一回平野富二賞受賞者 吉田市郎氏 2007.08.18 】

そこで、吉田市郎氏の晩年の2006年に発足した、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <ニュース第一号> にお寄せいただいたご祝辞を紹介させていただき、せめてもの吉田市郎氏のお人柄をしのぶよすがとさせていただきます。 DSC03368[1] DSC03405[1]
【 元記事 : アダナ・プレス倶楽部ニュース No.001- Adana-21J の誕生おめでとう 2006.09 
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ニュース No.001 【アダナ・プレス倶楽部便り】
── アダナ・プレス倶楽部は、登録商標<サラマ・プレス>にあわせて2014年04月に「サラマ・プレス倶楽部」に名称変更しているが、ここでは初出のママとした。

アダナ型印刷機 < Adana – 21 J > の誕生、おめでとう  !

吉田 市郎 株式会社リョービイマジクス顧問 (元 ・ 株式会社晃文堂代表取締役)

このたび、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部からアダナ型小型活版印刷機「 Adana – 21J 」が誕生されるとうかがい、大変嬉しく存じます。

古い話しになりますが、株式会社晃文堂の時代に 「アマチュア用印刷機 ADANA 」 を 2 機種 (3×5 inch, 5×8 inch) 輸入販売いたしました。
当時のわが国では活版印刷はとても盛んでしたが、国家そのものに外貨の蓄えがなく、外貨の為替管理がきわめて厳しくて、海外からの、活字、活版印刷関連機器など、物資の輸入には様々な困難がありました。

幸い多くのユーザーの皆さまを得て、アダナ印刷機はご好評をいただきましたが、その後イギリスのメーカーが製造を中止し、また活版印刷全般も衰勢をみせるようになって、アダナ印刷機の代理販売業務からは撤退いたしました。
従いまして、多くのユーザーの皆さまには、不本意ながらご迷惑をおかけすることになったことにたいして、内心忸怩たるものがありました。
それが今般、長年ご厚誼をいただいている朗文堂さんの新事業部門、アダナ・プレス倶楽部によって、新設計による国産活版印刷機 「 Adana-21J 」 が誕生するとうかがい、大変嬉しく思っております。

おそらく活版印刷と鋳造活字には、まだまだ寒風が押し寄せるでしょうが、それにめげず、創意と挑戦の意欲を持って、これからの開発 ・ 販売にあたって頂きたいと存じます。
「 Adana-21J 」 の試作機のご発表、おめでとうございます。

まるほり野菜園 ── 農にいきるひと 堀内 剛さんへのエール Ⅱ

まるほり野菜園の知られざる Boss。 気儘な野良 風の猫 ゴリ

《 2012年09月17日、はじめて 「まるほり野菜園」 堀内  剛 さんと会った 》
一昨年の秋、いくつかの所用があって北海道にでかけた。その旅の最終日、夕張郡由仁ユニ町の堀内 剛さんとはじめてお会いした。堀内さんは、この旅の同行者、ノー学部の同窓で、ゼミでの先輩だったとだけ聞かされていた。
ノー学部はいつもことば足らずで、詳細な説明も無く、ひとやモノを、唐突かつ勝手にやつがれに紹介する。だからこちらは事前の心づもりがないままに、おろおろしながら初対面となることがしばしばある。

そもそもここに来る前に、わざわざコースを外れて恵庭エニワ市によって、 「えこりん村」 の 「銀河庭園」、「花の牧場」 によってきた。それなりに面白かったし艸花がきれいだったので愉しんでいたが、それらの施設のほとんどをノー学修士 : 堀内 剛さんが中心になってつくってきたことの説明はノー学部はほとんどしなかった。
それを知ったのは、ご本人にお会いして、そのお口からポツポツとはなしをうかがってからのこと。
ヤレヤレ、いつものことながらノー学部の勝手放題には疲れるのだ。

                   まるほり野菜園 堀 内 剛 さん

    手前 4 棟のビニールハウスが、農にいきるひと 堀内剛氏の夢をのせた 「まるほり野菜園」

「美目 盼ハンたり」 ―― はじめて岩見沢駅前で堀内さんとお会いしたとき、なぜかやつがれの脳裡にそんなふるい中国の詩句が浮かんだ。
「美目盼 ビモク-ハン たり」とは、白目と黒目がはっきりわかれており、いわば明眸なことである。やつがれに向けられた堀内剛氏の目は、まさに 「美目盼たり」 そのものであった。

車中の雑談で、3人とも医者の息子 ・ 娘にうまれながら、ふしぎなことに、医者になることがどうにも嫌だったことを知った。
「カタシオさんは、ぜったい堀内先輩と気が合うとおもってた。だって、ふたりとも次男坊だし?!、家業にしがみつくより、自分で道を切り拓こうとするタイプだから。それと、ロマンチストだし、不器用で、財政管理ができないところもそっくり……」

その後もノー学部は、やつがれと堀内氏のふたりを、「ふたりとも専門バカ!」 だの、 「ふたりともオモト(万年青)クン なんだから~」 など、めいっぱい罵詈雑言を浴びせて、車中ひとりで悦にいっていた。
次男坊であろうと、金勘定や商売がヘタであろうと(ホントだけど)、余計なお世話である。
たしかに堀内氏とて、安穏な収入がはかれた大農園勤務を辞して、こんな時代に、あえて起農しようというのだから、世間さまからみれば、ともに暢気な次男坊ガラスとされても仕方無いのかもしれない。

やつがれは、もうノー学部のたわごとをきかず、堀内青年の「美目 盼 たり」の理由だけを考えていた。

まるほり野菜園で。左:園主/堀内剛 右:やつがれ。[1]一昨年は09月(上掲写真は09月17日)の中旬だというのに、北海道でも残暑がとびきりきびしかった。
岩見沢から30分ほどで、堀内剛氏の農園 「まるほり野菜園」 に到着。
すでに収穫の最盛期は終えたとされたが「まるほり野菜園」で収穫されたトレトレのトマトと、特製 ・ 無添加 ・ このときはまだ試作品だった 2 種類の 「トマトジュース」 をご馳走になった。

ともかくあまりにおいしいので、ひとりで、勝手に、夢中で、ムシャムシャ、ゴクゴクやりながら、無遠慮な質問をぶつけていた。
これらの記録は、この <タイポグラフィブログロール 花筏> にあらましを紹介した。

【関連URL : まるほり野菜園 ── 農にいきるひと 堀内 剛さんへのエール Ⅰ  2012年10月03日】  DSC00205suu[1] DSC00222suu[1] DSC00239suu[1] DSC00238suu[1]《 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 Viva la 活版 ―― すばらしき活版  Viva 美唄を開催 》
はじめて堀内剛氏とお会いした翌2013年、北海道美唄市の野外彫刻公園 : アルテピアッツァ美唄を会場として、<Viva la 活版  すばらしき活版 ―― Viva la 活版  Viva 美唄>を開催した。

【会 期】  2013年7月13日[土]―15日[月・祝] 9:00―17:00
【会 場】  ARTE PIAZZA BIBAI アルテピアッツァ美唄
アート ・ ギャラリー および アート ・ ストゥディオ
北海道美唄市落合町栄町   http://www.artepiazza.jp/
【主 催】   朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部

<Viva la 活版 Viva 美唄>に際しては、07月14日[日]に、『起農への挑戦 ―― ◯ をもらえる野菜づくり』 と題して、堀内氏に講演をしていただいた。
会期中は、アダナ ・ プレス倶楽部の会員を中心に、田圃も畑もまともに知らない東京からの会員06名が、<まるほり野菜園>に押しかけた。美唄にもどってきた会員は、会場にのこっていたメンバーに、
「もるほり野菜園の農場にはね、トンボがたくさん翔んでいて、田圃には蛙がいっぱい!」
昂奮さめやらぬ会員のはなしを小耳にはさみながら、信州のいなか育ちのやつがれ、畑や田圃には、トンボも 蝶も 蛙も たくさんいるものだが……、とおもいながら聴いていた。
【 関連URL : 活版アラカルト Viva la 活版 Viva 美唄レポート12 エピローグ タイポグラフィ・ゼミナールの報告+ご後援者:タイポグラフィ学会の記録

IMG_7533 !cid_71B09E65-63D9-4A18-868A-72402C7B5CE0 IMG_7276 IMG_7681 10300285_502349563231936_8852571138297416361_n IMG_4802

ことしの関東地方はなにかと天候が不順だったが、北海道由仁町の<まるほり野菜園>は豊穣な実りをむかえたようである。何度か宅配便でのトマトの取り寄せがつづき、そのメールで、ノー学部は双方の消息を伝えあっていた。おかげで07-09月にかけて、ほぼ毎日、色とりどりのトマトを楽しむことができたし、北海道との距離感をほとんど感じないで済んだ。
きのう(09月21日)もトマトが届き、30個ほどを一気に食した。のこりはきょう中に食すつもりである。
そして堀内剛氏から、ことしの<まるほり野菜園>の風景写真が届いた。

ことしの北海道の実りは豊かだったようである。あと一回くらいは生果でのトマトを食べたいが、これからはトレトレのジュースがおいしい季節になる。
これは部屋をがんがん暖め、キンキンに冷やしたトマトジュースをゴクゴクやるとしみじみ旨い。だから昨冬はずいぶんと楽しんだものである。

それよりなにより <風の猫 ゴリ> に、かわいいガールフレンドができたようである。
ウ~ン ゴリめ、なかなかやりおるわい。

『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念会ご報告

出版記念のつどい プリント顔写真鈴木篤氏 『 わたくしは日本国憲法です。』 著者 : 鈴木 篤氏DSCN7168 DSCN7188 01

<著者紹介> ────────────────────────
鈴木 篤 すずき あつし
1946年01月02日     山梨県石和町で出生。
1964年            長野県立長野高校卒業
1968年            東京大学法学部卒業
1970年            弁護士登録
1974年            江戸川法律事務所開設

地域の平和運動、組合運動などと連携しつつ、市民のための事務所つくりを進めて現在にいたる。 「江戸川憲法読む会」 に拠り学習会や講演会を重ねて、憲法問題への関心を市民に広げる活動を続け、原発問題では 「さようなら原発江戸川連絡会」 を結成して、原発に反対する地域の諸団体の連携強化に努めている。

この間、子どもを事故から防ぎ命と健康を守る会弁護団、出稼ぎ者 ・ 建設労働者労災弁護団、医療問題弁護団、患者の権利宣言運動、血友病 HIV 感染被害救済訴訟弁護団などに参加。
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鈴木 篤氏の著作はすくなくない。
◯ 『 医療事故と患者の権利 』 (エイデル出版、1988年)
◯ 「 患者の側からみた医療過誤訴訟 」 『 現代法律実務の諸問題 』 (日本弁護士連合会、1987年)
◯ 「 医療裁判を始める人の心得7ヶ条 」 『 弁護士研修講座 』 (東京弁護士会刊、1986年)
◯ 『 カルテはなにも語らない ― いのちの裁判の記録 』 (労働旬報社、1990年) ほか多数

医療問題への取り組みもながい。
◯ 1977年 医療問題弁護団結成に参画、初代事務局長(-79年)
◯ 1989年 血友病 HIV 感染被害者救済訴訟弁護団 副団長
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【イベント紹介】
殺さないで! 生かそう日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい

◎ 主   催 : 殺さないで!生かそう 日本国憲法 『 わたくしは日本国憲法です。』
出版記念のつどい 事務局

◎ 日   時 : 2014年09月06日[土] 午後01時-03時
◎ 場   所 : グリーンパレス 5 階 孔雀の間
                     〒132-0031  東京都江戸川区松島1丁目38-1
◎ 呼びかけ人(50音順/敬称略)
伊藤定夫(江戸川区職員労働組合委員長)/大野一夫(東洋大学・ 武蔵大学講師)/岡田隆法(泉福寺住職)/近藤芳和(小岩九条の会)/佐々木幸孝(弁護士)/楠田正治(世代を結ぶ平和の像の会代表幹事)/須能信一(葛飾区職員労働組合委員長)/高橋治巳(元江戸川区労働組合協議会議長)/平野敏夫(ひらの亀戸ひまわり診療所医師)/藤居阿紀子(NPO法人ほっとコミュニティえどがわ事務局長)/前田哲男(ジャーナリスト・軍事評論家)/村上達也(前東海村村長)/山崎 弘(江戸川元気にふれ愛う会事務局長)
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私たちの仲間であり 友人の弁護士、鈴木 篤さんが 『 わたくしは日本国憲法です。』 (朗文堂 2014年07月26日)と題する一冊の本を緊急上梓されました。 この本は、これまで江戸川区 ・ 葛飾区などの東京下町を中心に、民主主義と平和を守るためにともに闘ってきた多くの仲間が、安倍首相の暴走に対して、今抱いている 「 黙ってはいられない 」 という思いを、憲法自らが国民に向かって語る形をとって書かれたものです。

その意味で、この本は、命を守り、平和を守り、民主主義を守り、地域で人権を守り、権利を守り、生活を守って一緒に運動を進めてきた市民の闘いの中からうまれたといえます。 特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認など、次々と憲法を踏みつけにしている安倍政権の暴走を何としても食い止め、平和 ・ 人権 ・ 民主の日本国憲法を葬らせてはいけないという私たちの声が、この本の出版という形を取って表現されました。

ですからこの本の出版は、鈴木 篤さん個人によるものではなく、私たちみんなの力と、運動の蓄積が結実したものということができます。 ご案内する <殺さないで!生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい>は、この本の出版を記念して、私たち 鈴木 篤さんの仲間や友人が企画し主催するものです。

『 わたくしは日本国憲法です。』の中でも触れられているように、安倍首相の暴走を許している背景には、残念ながら国民の多くが、こうした問題について 「わからない」 「関心がない」 といっている実情があります。 私たちは、そうした 「わからない」 「関心が無い」 という人々にこそ、この本を手にとっていただき、今なにが起きているのかを真剣に考えていただければと考えています。 そうした人が一人でも増えていくことが、日本国憲法を葬り去ろうとする動きを食い止め、平和 ・ 人権 ・ 民主主義を守っていく力になっていくと私たちは考えています。

著者 : 鈴木 篤氏 冒頭挨拶  要旨 ──────────────
01日本国憲法前文は、「 専制 ・ 隷従 ・ 圧迫 ・ 偏狭 ・ 恐怖 ・ 欠乏等を地上から永遠に無くすための国際社会の取り組みにおいて名誉ある地位を占めたいと思う。日本国民は、国家の名誉にかけて、この崇高な理想と目的を達成することを誓う 」 としるしています。

専制、隷従等を、わが国から無くすだけでなく、地上つまり全世界から永遠に無くす取り組みで 「 名誉ある地位を占める 」 つまり、全世界の取り組みの先頭に立つといっているのです。そして、そのことを 「 国家の名誉にかけ 」 「 全力で 」 「 達成する 」 と約束しているのです。
「 全力で 」 ということは、国の総力を挙げてということです。 「 達成する 」というのは、「 達成できるかどうかはわからないけど、やるだけのことはやってみる 」 ではなく、「 達成する 」 ことを誓っているのです。

憲法前文は、日本国民は、全力をあげて、世界中から「専制 ・ 隷従……等」 を永遠に無くすため全力を尽くし、それを果たす、もし、そうしなかったときは、日本国の名誉がどのように貶められてもそれを甘受すると、全世界に向けて誓っているのです。
そして、そうすることだけが、世界の恒久平和を実現する唯一の道なのだと言っているのです。

すばらしい憲法ではないでしょうか。私たち日本国民は、こんなすばらしい、世界に誇れる憲法を持っているのです。
しかし、憲法が生まれて 68 年、歴代の政権は、この誓いを守ろうとはしてきませんでした。むしろ、この誓いと逆行する行動を重ねてきたのです。

そして今、安倍政権は、特定秘密保護法や共謀罪、盗聴法などによって、国民の知る権利をはじめとする民主主義的な権利をねこそぎ奪い、更に、集団
的自衛権の行使容認によって、武力 すなわち 恐怖 によって、また自国の意に沿わない他国に対して先制攻撃をするという 威嚇 によって、自国と自国の同盟国のみの利益を追求し、意に沿わない他国とその国民を押さえつける ( 圧迫 ・ 抑圧 ) という、憲法の上記のような理想と正反対の方向に、この国の在り方を変えようとしているのです。

「 国家の名誉にかけ」  「 全力で 」  「 達成する 」  と誓ったのに、その誓いを実現するための取り組みを一度もすることも無いまま、一内閣の独断で、この崇高な誓いを投げ捨てようとしているのです。それは、世界に向けた誓いを投げ捨てることであり、国家の名誉を投げ捨てることにほかなりません。

事態は深刻です。
でも、まだ憲法は生きています。私たち国民が、憲法のこの崇高な精神を、国民ひとりひとりのものとし、この誓いを国民ひとりひとりのものとして、心に刻みつけ、それを広げていくなら、そうした私たちの取り組みを、日本国憲法は必ず支えてくれるはずです。
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<殺さないで! 生かそう日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい>は、長年鈴木 篤氏とともに闘い、支えあってきた皆さんの製作による 《 鈴木 篤 半世紀 》 ともいえる DVD 画像が放映され、主催者を代表して、呼びかけ人 : 高橋治巳氏の挨拶があった。

それに続いて、スピーチには、やはり呼びかけ人であり、この記念会を支えてこられた、前田哲夫氏、大野一夫氏、藤井阿紀子氏らが、ブックレビューを兼ねながら、力強い運動の持続の決意を述べられていた。

つづいて先に紹介した著者 : 鈴木 篤氏の挨拶があって、宴の開始に際して、乾杯の音頭を葛飾区職員労働組合の野本 均氏が担っていた。
宴はにぎやかに、なごやかに続いたが、閉会直前に式場が暗転し、著者 : 鈴木 篤氏がもっともおもくみるという 『 日本国憲法 前文 』 が画面に投影され、それを小畑美智子さんが力つよく朗読され、会場は厳粛なふんいきにつつまれた。

来場者には 『 わたくしは日本国憲法です。』 に寄せられた <ひとこと集> が配布された。
散会ののち、この会のコアなメンバーによって記念撮影。
<ひとこと集> は、鈴木氏にあてた、ファクシミリ、電子メール、短文ブログ、ブログロールに寄せられたコメントをまとめたものだった。そのデーターをいただいたので、以下にご紹介しよう ( プリント配布物ではすべて実名だったが、ここでは発起人以外はイニシャルとした )。

鈴木 篤氏と 『 わたくしは日本国憲法です。』 に寄せて ひ と こ と 集 ───────

  ひ と こ と 集 

  • 現憲法の神髄を鈴木 篤先生の著書は、国家 ・ 国権ではなく、個人 ・ 人権 (特に13条)から解き明かしている。それが 9 条はじめ全体を規定しているのだと。
    「現憲法の精神をなめらかに、一気に理解できる好書だ」と言って私は薦めています。
    (東海村 ・ 村上達也/前東海村村長)

  • この度発行されました 『わたくしは日本国憲法です』 を拝見して、非常に分かり易く編集されているために、あまり本を読まない私でも吸い込まれるように頁を重ねています。
    ところで、私を含めて日本の最高法規である 『日本国憲法』 に関心を持って接した人たちはどの位居るのでしょうか? 日本国憲法制定から68年の長きに亘り、平和憲法として私たち日本国民の生きる権利と戦争をしない平和国家の番人として存在してきました。
    『日本国憲法』 が、一部政党の身勝手な 『憲法解釈』 によって骨抜きにされようとしています。憲法解釈が勝手に罷り通る国になれば、あらゆる法律であっても可能になり、立憲国家の滅亡に繋がりかねません。
    憲法解釈によって閣議決定された 『集団的自衛権行使容認』 は明らかに憲法違反です。憲法の危機は、団結権まで剥奪しかねません。これからの憲法論議は個人単位の場に終わらせることなく、労働組合の参加を得ながら幅広い場にして行き、関心をもって接する層を広げるべきだと思います。
    (江戸川区 ・ 山﨑 弘/江戸川元気にふれ合う会事務局長)

  • 青年弁護士として江戸川の地域に事務所を構え、40年余、社会派弁護士として輝かしい実績がある傍ら、お金にならないサラ金問題、会社側が雇った悪徳弁護士による労働組合潰しとの闘い、平和運動への限りない情熱など、枚挙にいとまがない先生の活躍の集大成ともいえる 『 わたくしは日本国憲法です。』 の出版おめでとうございます。日本の政治が益々危険な方向に邁進しようとしているこの時期に、私たちに反省と勇気を与えてくれました。心から感謝します。これからも健康に留意され頑張って下さい。
    米軍の辺野古移設工事が強行着工された名護にて
    (江戸川区 ・ 楠田正治/世代を結ぶ平和の像の会代表幹事)

  • 「 はじめに 」を読んだだけで全く同感です。85歳になる私も、護憲 ・ 脱原発で安倍という敵がいるから闘争心がわき、長生きさせて呉れています。
    (江戸川区 ・ 髙橋治巳/元江戸川区労働組合協議会議長)

  • このタイトルで、1人ひとりが憲法を語る、そんな手法を学びました。暮らし、人生を通して語りかけることで自らのものになります。マネしようと思います。
    (江戸川区 ・ O 氏)

  • なにげなく読み始めたら、なかなか面白く、やさしく、感心いたしました。
    私はゼミで 「憲法」 をテーマに教えているのですが、ユンカーマンの 「映画 ・ 日本国憲法」 への反応が、本に書かれていたのとそっくりだったので、笑ってしまいました。
    しかし、たんねんにゼミを続けていると、それなりに、学生たちもわかってきます。この本を秋には、みんなに読ませたいなと思っています。
    (新宿区 ・ H 氏男性)

  • 日本国憲法を主人公にして語らせたご本、正に時宜を得たものと言えます。第11条にあるように、まさに “不断の努力によってこれを保持しなければならない”。 その時が “今” であるのでしょう。
    (葛飾区 ・
    I 氏女性)

  • 日本国憲法は施行後 「還暦」 をはるかに超えましたが、多方面で試練にさらされています。特定秘密保護法・運用基準の策定や、集団的自衛権行使容認の憲法9条解釈変更閣議決定を経て、現憲法の価値選択擁護とその実現の課題が一層重くなってきております。
    鈴木篤先生の護憲の強い意志と情熱がよく伝わる本書が、広く多くの市民に読まれますよう期待申し上げます。
    (八千代市 ・
    F 氏男性)

  • 生活に直結する政治を政治家任せにせず、地域で暮らす普通の市民を議会におくる ―― 1990年にスタートした、そんな私たちの活動にとって、専門家として適切なアドバイスをして下さる鈴木篤さんは、困ったときの知恵袋的な存在です。
    日頃から 「憲法を読む会」 「さようなら原発江戸川連絡会」 などで、そして2012年、東京都に 「原発都民投票条例」 制定を求めた直接請求運動では、弁護士として唯一、請求代表人になられるなど、常に市民とともにある姿がステキです。
    格調高く、揺るぎない憲法前文に謳う真の 「恒久平和」 のために、これからもともに平和運動、脱原発運動をすすめていきましょう。
    (江戸川区 ・ 江戸川生活者ネットワーク)

  • 司法研修所時代の同級生として、鈴木君の永年にわたる地道な「世直し活動」に心から敬意を表します。
    この度の著書の発刊も大変時宜に適った快挙であると思っています。これからもお元気でご活躍を。
    (港区 ・
    M 氏男性)

  • 日中・日韓の首脳会談の早期実現というものの、安倍首相の本音は別のところにあるのではないかと思えます。昨今の中国、韓国の日本に対する姿勢を逆に歓迎しているのではないかと思えてなりません。
    なぜならば、かかる状況は、集団的自衛権やむなしとする風潮を醸成するに役立つからです。
    先の大戦において国民は、ただ被害を被った立場だけというものではなく、国民自身もそれを許した面のあることを自覚すべきであり、それだけに今日の状況については、神経を張り巡らし、真剣に生きていきたいです。
    (港区 ・
    Y 氏男性)

  • 69回目の 「終戦」 の日、安倍首相は 「不戦の誓い」 に触れませんでした。集団的自衛権行使、戦争国家体制へと突き進む姿が明らかになりました。
    残業代ゼロ法 (長時間タダ働き、過労死) で、自分や自分の大切な人が命を落とすような社会を変えていく。
    そのためには 「労働組合」 の反撃が必要です。安倍を倒そう。
    (江戸川区 ・
    F 氏男性)

  • 安倍政権を倒すには野党の連携が必要です。頑張りましょう!
    (江戸川区 ・
    N 氏男性)

  • いつか来た道は不戦を誓って69年が経った。今、各地での紛争ニュースに、幸せの原点は 「平和な社会」 だとつくづく思う。
    その時に、思いに逆らい、集団的自衛権容認、武器輸出緩和など、権力の迷走が恐ろしい。危機を感じる今、どう行動すべきか、この機に出版された 『わたくしは日本国憲法です。』 をもとに問い直してみたい。
    いつか来た道は、楽しかった思い出だけに限りたい。
    (江戸川区 ・
    Y 氏男性)

  • 本日はおめでとうございます。先約があるため、本日の集会に出席できず、大変申し訳ありません。
    私の弁護士としての出発点は江戸川法律事務所ですが、もう35年も前のことです。すでにその頃から鈴木弁護士は、憲法に関して強い思いを抱いていることを感じていましたので、その思いが昨今の政治・社会情勢に矢も楯もたまらず、この本を生み出したものと拝察しています。
    私がこの本を読んで感心したのは、とても 「やさしく」 「ゆっくり」 「丁寧に」 書かれていることでした。「やさしく」 「ゆっくり」 「丁寧に」 は人の理解を得るために欠かせないことではありますが、これは一見簡単なようで、実は大変難しいことです。
    この 『わたくしは日本国憲法です。』 は、憲法という一般人にとって難解な言葉で出来上がっているものを、誰にでも分かりやすい表現で、結論を急がず、いくつもの具体例を挙げながら、ゆっくりとしたペースで、しかも重要な点に関しては繰り返しを恐れず丁寧に書き込まれています。
    そのおかげで、日本国憲法が定めている民主主義、基本的人権、自衛権、教育などの、重要ではあるけれども、極めて難解な部分が、大変わかりやすく、しかもいくら法律の教科書を読んでも理解が容易ではない憲法の理念の核心部分を、ストンと心に落ちるように分からせてくれます。
    この本を読んで、日本国憲法の誇るべき内容と、今日的課題に対しても解決の道筋を示せる色あせないダイナミズムを改めて感じることができました。
    日本国憲法を葬り去ろうとする動きに反対し、憲法を生かす本日の集会が、盛会でありますよう、心よりお祈り致します。
    (亀戸 ・
    S 氏男性)

  • 特定秘密保護法 ・ 集団的自衛権容認の安倍内閣に危機を感じています。鈴木先生のご活躍と著書が広く読まれることを期待します。
    (千葉市 ・
    K 氏男性)

  • この度は 『わたくしは日本国憲法です。』 のご出版おめでとうございます。
    私の承知していることは、国民は法律を守ることを求められているのに対して、憲法は政治家が守ることを義務付けているということです。
    従って、憲法を限りなく無視に近い状態にした今回の政府の行動は、国民に法律を守るよう要求する資格が欠乏していると思います。
    (川崎市 ・
    F 氏男性)

  • 戦争の無い世界の恒久平和を希求するものです。微力ながら応援します。
    (さいたま市 ・
    M 氏男性)

  • 一気に読ませて頂きました。憲法と現実の政治 ・ 社会を並行して考え読み進めることができました。憲法はひとつの 「理想」 であり、それを実現するのは、1人1人の思想的営為であると受け取りました。また民主主義とは、多数決とイコールではなく、多数決原理はむしろ民主主義の限界を示すものであるということに注目させられました。
    民主主義とはあらかじめ決められた結論のむしろ対極に有り、十分に議論し、時間的制約等の中で 「結論」 が出たとしても、十分な議論は、その後の改変という柔軟性を準備し内在させるものだという指摘でした。
    私たちの身近に鈴木先生が居られることに誇りを感じます。
    (葛飾区 ・
    M 氏男性)

  • 私は、安倍政権は歴史に残る大罪を犯していると思います。3・11の原発メルトダウン以来、原発反対の運動に出るようになりました。また、それ以前より地元大田区の 「9条を守る会」 でビラ配りや集会に出ています。
    秘密保護法や集団的自衛権の行使と、次々に我々の望むのとは反対の方向へ進んでいることに怒りと絶望を交互に味わっているこの頃です。
    鈴木先生、本の出版おめでとうございます。
    (大田区 ・
    F 氏女性)

  • 凶暴、暴走、アメリカの走狗。とどまるところのない危険な道をひた走っています。私たちの手で、安倍内閣に天罰を与えるために手を携えましょう。
    M 氏女性)

  • 江戸川憲法を読む会での鈴木さんのお話を聞いて感銘いたしておりました。この本のチラシを拝見し、これこそまさに今必要な本だと直感しました。
    民主主義とは人々が自らの意見を主張してこそ成り立つもので、対立を恐れて発言しなかったら世の中は、なにも変わりません。この本を広め、中学校の副読本にしましょう。
    (江戸川区 ・
    S 氏男性)

  • 「ながいものにまかれ」 「みんなが望んだからわたしもと成り行きに身を任せ」 「追求しようともしない」 といういわゆる 「無関心層」 の存在ではないのか。
    その通りです。
    (古河市 ・
    T 氏夫妻)

  • 盆休みは、井伏鱒二の 『黒い雨』 を読みながら過ごしました。8月6日、9日そして15日と読み継ぎ、16日に了しました。9日長崎市長は、核兵器の恐怖は世界にとって 「今と未来の問題」 だという。集団的自衛権容認もまさに日本にとって同日に認識すべき問題だろう。
    戦争を葬り、平和を永らえるための最前線にある 「日本国憲法」 の意義と基軸を、今回の本から学びたい。そして 「ビリョクだけどムリョクじゃない」 (長崎の高校生たちの合い言葉) ことを示そう。
    (越谷市・
    S 氏男性)

  • 安倍首相を見ていると軍国少年とダブります。発言内容は他者を認めない懐の狭さを感じます。憲法は世界の宝物なのに。今日の政治家、高級官僚、財界のリーダーと呼ばれる人達、戦争を体験しない人も居ましょうが、震災、原発事故を経験したのに、原発を売り込んだり、生き方の力点を変えようとはしない。むしろ、国民の方がものを見る目を持っていて、地方発の創造的な人間本来の生き方を生きているニュースを見ます。
    鈴木弁護士は、心豊かな人間と社会を建設しようと実践されていて心から尊敬しています。
    本の出版を喜びと共に勉強したいです。
    (川崎市 ・
    Y 氏男性)

  • 御盛会をお祈りします。リタイアした大学時代の友人と集まると、とんでもない時代になってきたと嘆いています。
    これをどう結集していくのか、考えなければならないと思っています。
    (福岡市 ・
    I 氏男性)

  • 鈴木篤先生、やはりあなたは弱き者の真の味方。
    私の記憶の中で40年ブレ無し。これからも。御先導よろしく。
    (鹿嶋市 ・
    U 氏男性)

  • 鈴木篤さんの地道な努力には常日頃から頭が下がります。最近社会の 「ありかた」 に鈍感になっている日本人への大いなる警鐘としてしっかり読ませて頂きます。
    (長野市 ・ U 氏男性)

  • 先日、地元の本屋へ行き、おそらく 「置いてはいない(失礼)」 と思い、注文するために店員の方に御願いしたところ、「最後の1冊がまだあります」 と事務的な答え。しかも、持ってきてくれ、手に入れることが出来ました。ゆっくり読ませて貰います。
    (市原市 ・
    Y 氏男性)

  • 敗戦の日にこの知らせがきたことはなにかの力を感じました。
    亡き母が幼い私たち兄弟に 「あなたたちを戦争にやることを考えたら気が狂いそうになる」 といったことを思い出すこの頃です。
    生命からがら朝鮮から引き揚げてきた母の危惧がまさか現実のものにならないように力を合わせましょう。
    (世田谷区 ・ 鈴木一彦氏/著者実兄)

  • 医療事件で活躍されるだけでなく、憲法の分野にまで研究されていたのは驚きというほかありません。
    (西東京市 ・ I 氏男性)

  • 政治・経済・社会・教育・平和・暮らしetc。何を取っても閉塞感、危機感が強まる中、私たちに元気・勇気を与えてくれる本だと信じます。
    よく読んで考え、希望、展望のプロセスをしっかり組み立てたいと思います。
    (足立区 ・
    O 氏男性)

  • 日本の平和憲法はすばらしいと思います。戦争に負けたあと、69年間も内戦も起こらず、他国からせめられもせず、平和を維持しつづけているのは、国民の努力と忍耐と平和憲法のおかげだと思います。
    今後、将来にむけて北朝鮮や中国からミサイルなどを撃ち込まれた時、日本をどうやって守ったらいいのでしょう。
    我々は素手で何もできず、国を守るのは誰? と考えたときにわからなくなります。アメリカに守って下さいと御願いするのですか? 貧しい国々の人々を兵士として雇い入れるのですか?(集団的自衛権は、いろいろな問題を抱えていますが)。
    戦争が二度と起こらないようにするには安倍政権云々ではなく、政権がどう変わっても危険な道につきすすまないように、民間の有識者の団体をつくって、正しい判断をくだせる、ある程度力をもっているそんな機関をつくることではないでしょうか。
    (江戸川区 ・
    S 氏女性)

  • 日本は69年間平和で生活することが出来ています。安倍総理は、日本はこれからも戦争はしない国だと言っておりました。
    しかし集団的自衛権が決まって、他国の戦争に手助けをすると日本の将来はないと私は思っております。国民の声に耳を傾けていないように私は感じております。国民の生活の格差も広がっております。平等な生活が出来ていないと思います。
    私はこの国の将来は鈴木先生が総理大臣になってほしいとずっと思っております。鈴木先生頑張って下さい。
    (練馬区 ・
    氏男性)

  • ご出版おめでとうございます。
    先生のますますのご活躍を祈念してやみません。
    (目黒区 ・
    A 氏女性)

  • 御出版おめでとうございます。30年近く前に大変お世話になりました。お会いできるのが楽しみです。
    (江東区 ・
    K 氏女性)

  • 鈴木先生、この度のご出版おめでとうございます。
    (葛飾区 ・
    S 氏男性)

  • これからもますますご活躍下さい。
    (中央区 ・
    H 氏男性)

  • 悪政と何時も戦う先生に、微力ながらお手伝いをと、気持ちばかり先走りますが、術後の治療中なので、「出版記念の集い」 に参加できず残念です。
    (江東区 ・
    S 氏男性)

  • 久しぶりに皆さんとお会い出来るのが楽しみです。鈴木先生、お忙しいのによくもまあ本をまとめられましたね。熱意のほど感激しております。
    (葉山町 ・
    S 氏男性)

  • 特定秘密保護法の強行採決、集団的自衛権の行使容認閣議決定など、日本の進む方向にだまっていられません。
    (江東区 ・
    T 氏女性)

  • 当日は別の用件があり出席できないのが残念です。鈴木篤弁護士の 『わたくしは日本国憲法です。』 の出版は、反戦平和、人権、民主の実現のための私たちの運動に大きな力となると確信しています。
    会のご盛会を祈念しています。
    (江東区 ・
    I 氏男性)

  • 関心を持たない人が多いのが残念です。
    (江戸川区 ・
    T 氏男性)

  • 安倍内閣の強引な解釈改憲は許せません。このような安倍内閣のやり方を明白な形で挫折させる必要があります。1人ひとりが、いろいろなつながりを通じて国民1人ひとりに、日本国憲法が定める、平和主義、基本的人権、民主主義の大切さについて認識を深めていただく活動が重要と考えます。
    まず、みんなが1歩その足を踏み出しましょう。
    (新座市 ・
    G 氏男性)

  • 憲法99条に 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」 と書かれています。率直に読めば 【一内閣が憲法を批判し、憲法を軽んじ、また憲法を変えるような一切の行為を堅く禁じている】 と解釈するのが自然かと思います。
    すなわち、国政の暴走、を防ぐのが憲法の重要な目的の1つでしょう。憲法 “改正” などと言って、国民の義務をいたずらに増やそうとする傾向は到底容認できません。
    (台東区 ・
    N 氏男性)

  • 安倍政権は、1つの国民としての少数意見をまとめた行動と理解しています。今現在のルールを守れなければ、新しくルールを作成しても守れないと考えます。広く日本国憲法を理解し、深める活動は、大変感動しています。
    (江戸川区 ・
    H 氏男性)

  • 私は、脳梗塞を患って3年になります。右上下肢が不自由なままですが、補装具でリハビリ施設に送迎されるまでに回復しました。
    私が江戸川区で生活していたのは凡そ40年前のことです。鈴木篤先生とは残念ながらお会いする機会なく今日に至りました。古い仲間の多くの消息はなく、頭の中で懐かしい江戸川区労協や江戸川区職労のことが思い出されました。
    ただ誤解を招きたくないことは、私は 「現役」 です。デモには行けず、集会にも行けず……、これが今日の我が身ですが、私の心根は少しも変わっていません。
    そしてまた、デモや集会参加が可能となった時は、きっと大きな声を張り上げるのです。只それだけを伝えたく、妻の手を借りてしたためました。私たちの憲法闘争は結構いい勝負をしていると思います。
    (府中市 ・
    K 氏男性)

  • 急激な反動化に抗すべく、私も無党派ではありますが、駅前アピールやチラシ配布、集会やデモ参加程度のできることをやっております。静かにこの世におさらばするつもりで前橋に転居したのですが、一市民であれ、行動せざるを得ない状況です。
    鈴木さんとは、何年か前に同期の東京長高会に出席した時名刺交換した程度の面識しかありませんが、積極的に行動されていることを知り、うれしくも、ありがたくも、心強くも思っております。貴著を参考にさせていただき、私の行動にも生かすべく購入させて頂きます。情勢は厳しいですが、中核的存在としての御活躍を心から期待しております。
    (前橋市 ・
    S 氏男性)

  • 憲法が自分たちを守っていることを全ての人に知らせていきたいです。がんばりましょう!
    (江戸川区 ・
    N 氏女性)

  • 憲法の本というと、すぐ 「条文の解釈、解説本」 を連想すると思いますが、この本は全く違います。日本国憲法が訴えかけている原理・原則、憲法の精神を、著者が日本国憲法になりかわり、第一人称で語り掛けています。
    憲法の基本精神を “私をころさないで” との憲法(著者)の悲痛な叫びがヒシヒシと伝わってきます。
    必ずしも平易な言葉で語られている訳ではありませんが、「日本国憲法」 が伝えたかったことが何であったのか、日本国憲法の求めている原理・原則等を再度確認する必要がある、今日の状況にぴったりの本だと思います。
    必要とされている本がよくぞ今、この時に出版されたと快哉を叫びたい。学習会等に最適な本だと思います。わたくしも大いなる刺激を受けました。この本の読書会・学習会等を作って、自・公政権の 「改憲攻撃」 に一矢報いるよう、いっそう頑張りたいと思います。
    (千葉市 ・
    S 氏男性)

  • 鈴木篤さんと私は同じ学年ですが、1945713日生まれの私は、口の悪い人から 「戦中派だね」 と言われます。194612日生まれの鈴木さんは正真正銘の 「戦後派」。でも、二人は 「日本国憲法」 の屋根の下で育ちました。雨が漏らないのは当たり前でした。鈴木さんは 『わたくしは日本国憲法です。』 で、今、憲法の屋台骨が崩され、壊されようとしていると警告を発しています。
    壊されようとしている日本国憲法に新たな息吹を吹き込むために、「わたしたちが日本国憲法です」 という実践的な Constitution (構造、憲法) をつくりあげること、新たな立憲主義が必要に思います。そのために一人ひとりが日々日本国憲法を実践しているという自覚が不可欠です。たとえば信仰の自由(第20条)、保育園に子どもを預けること(13条)、集会やデモをやる権利(21条)、労働者の団結権(憲法28条)を活かす労働組合の活動などを、憲法が保障している権利として日々とらえ返すことが必要に思います。あなたは昨日、憲法が保障する国民の権利の何を使いましたか?
    『わたくしは日本国憲法です。』 を、「(小畑)が日本国憲法です=わたくし自身が日本国憲法で日々憲法を実践します」 に読み直して、日々憲法を生き返らせることが、鈴木さんへの答えだと思います。
    (江戸川区 ・
    O 氏男性)

  • 9月3日、百数十余名の参加が決まった時、正直ホッとしました。この数字は、鈴木篤さんの 「出版記念の集い」 参加者数です。 『わたくしは日本国憲法です。』 が発行され、本が手元に届いたのが7月の終わり、8月13日に案内状を発送。みなさまのお手元に届いたのが8月15日。そして集いは9月6日。 これほど急な出版記念会は他に例を見ないだろうと思います。
    安倍内閣が発足して2年足らずの7月1日の 「暴挙」 に、やむにやまれず緊急出版した鈴木篤さん。少しでも早く 「憲法の声」 を届け広めて、安倍政権の暴走を止める勢力の拡大につながればと、焦る思いは私たちにも伝わりこのような緊急出版会の運びとなりました。
    鈴木さんは40年前に江戸川区中央に事務所を開き、市民や働く人に開かれた敷居の低い法律事務所として実に多くの相談にのってきました。一方で、子どもの命と健康を守る運動や労働組合運動、平和運動の支援を行い、最近では憲法を読む会の活動、福島原発事故後は、今は学習の時ではないと 「さようなら原発江戸川連絡会」 結成。一貫して市民、労働者の側に立ち時代の空気を敏感に感じ取り、行動されてきた方だと言えます。そんな鈴木さんの意をくんで下さったみなさまに感謝申し上げたいと思います。
    「憲法の声(鈴木さん)」 に答え、私たちの幸せのために、未来のために、地域で、生活の場で、職場で、1人ひとりが憲法を生かしていきましょう。
    江戸川区 小畑美智子)

  • 『 わたくしは日本国憲法です。』の出版おめでとうございます。
    私たちNPO法人ほっとコミュニティえどがわは、高齢になり、たとえ寝たきりになっても、自分らしく暮らし続けたいと願う人々のための 「終の棲家」 となり得る住宅 「ほっと館」 の運営をしています。まさに、憲法で定める、人間が人間らしい生活をするうえで、生まれながらにしてもっている権利 「基本的人権」 の尊重に則った取り組みだと考えます。
    日本国民が、平和で幸せな生活を送れるように生まれてきた 「日本国憲法」 を守り、生かしていく取り組みが、それぞれの現場で実行されるよう、皆さんと共に運動をすすめていきたいと思います。
    NPO法人ほっとコミュニティえどがわ)

  • 『 わたくしは日本国憲法です。』 の出版、おめでとうございます。民主主義の原理と多数決原理の関係、そして民主主義政党の不在など、特に興味深く一気に読ませて頂きました。
    「人権を守り、民主主義を守るということで首尾一貫した立場を貫く政党が存在せず、そのような政党を持っていないことがこの国の人々の最大の不幸である。大事なことは、民主主義から出発し、民主主義に帰ることである」 との指摘に、日本の民主主義の成熟度について再考させられました。当日は先約があり、出席できませんが、出版記念の集いの盛会とこの本が多くの人に読まれんことをこころから祈念しています。
    (千代田区 ・
    N 氏男性)

  • タイムリーなご出版お慶び申し上げます。映画会の学習会、連絡会のおたよりでいつも的確なお話や文に接し励まされております。
    憲法の生きる日本になるため共にがんばりましょう。
    (江戸川区 ・
    I 氏女性)

  • 出版おめでとうございます。先約があり、残念ながら出席できません。本は読ませていただきましたが、すばらしいのひとことです。}
    憲法をないがしろにする閣議決定に対する反撃の大きな1つになるものです。俳句らしきものを作ってみました。
       憲法は 国民皆に風光る
            9条は きな臭くなく風薫る
    (江戸川区 ・ H 氏男性)

  • この度のご出版おめでとうございます。出版記念の集いに参加させて頂き、先生にお世話になってから18年ぶりにお逢い出来るとともに、この時を慶ばせて頂けることを嬉しく感謝します。ますますのご活躍を心より祈念いたします。
    (墨田区 ・
    T 氏女性)

  • 憲法9条を守ることが戦争参加への道を食い止める大きな力です。
    世論をないがしろにし、ひたすら戦争参加への道を突き進む安倍政権に対し、大きな力を結集しなければならないこの時期に、正にタイムリーヒットの本です。
    「集い」の日に南相馬市に行かなければならず出席できませんが、本の普及に少しでも貢献していきたいと思います。
    (江戸川区 ・
    O 氏男性)

  • ご案内いただきありがとうございます。「昔のみなさん」 といったら怒られるかもしれませんが、多くの方にお会い出来る機会なのに、体調思わしくなく残念ながら失礼します。
    「東京大空襲」 3月10日の3日前に新潟に疎開。一命をとりとめた小生もすでに78歳、先の大戦で父、中国虎頭にて戦死。
    「戦争」は、人間の全ての幸せをなくしてしまいます。「憲法を守り、二度とこの誤ちは絶対に許してはなりません」 その先頭で運動を進めておられる鈴木先生他多くのみなさんに心からの敬意を表します。大変な課題ですがこれからも頑張って下さい。
    (江戸川区 ・
    H 氏男性)

  • 集団的自衛権の行使は、絶対に許すことはできない。阻止するまで、組合の力を結集して闘うつもりです。
    (江戸川区 ・
    O 氏男性)

  • 『わたくしは日本国憲法です。』 の出版、おめでとうございます。平和憲法が、半分以上殺されている中で、貴重な出版です。
    原発は憲法3原則を踏みにじって作られ、運転されつづけてきました。原発を廃止する闘いと活動は、憲法を生かす活動でもあります。原発なくせ、憲法生かそう ―― の闘いを共に、集会の盛況を祈念します。
    (千葉市 ・
    Y 氏男性)

  • 鈴木先生とは江戸川区労協以来、約40年のおつきあいです。お互いに年齢は重ねましたが、当時の熱い思いは変わっていないことが不思議ですね。
    でも時代がどんどん悪くなっていることに責任を感じます。
    (杉並区 ・
    M 氏男性)

  • 大多数の支持を得て安倍政権は発足しましたが、最近はやりたい放題で目に余ります。
    景気に陰りが見えてきましたので、そろそろお灸を据える時期だと思います。
    (港区 ・
    S 氏男性)

  • 安倍政権の危険な企みに気づく国民は少なくない。しかし、安倍 「戦争行使」 政権をメディアの多くは支持・容認し、危険を訴える多くの声を無視、封殺している。近い将来、あの時が、「戦争前夜だったのか」 と後悔しないためにも、「戦争反対」 を訴え続けることは国民 の正当な権利だと思う。
    『わたくしは日本国憲法です。』 は、今の時代の社会状況を正しく認識し、批判的精神を貫いて執筆されている。戦争放棄を永遠に願い続ける人達の精神的・理論的支柱になることを信じて疑わない。
    (印西市 ・
    F
    氏男性) 

【ブックコスミイク】 2014年09月03日は本木昌造の139年忌です。

【ブックコスミイク】
わが国の活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの開拓者のひとり
本木昌造(1824年06月09日-1875年09月03日 享年51)の
ご命日にひそみ

朗文堂関連既刊書 『 本木昌造伝 』 をご紹介いたします。

2014年09月03日は、本木昌造の139年忌にあたります。
この既刊書紹介ページは、本木昌造の功績をしのびつつ、本木昌造ご命日にさいして、あらためて皆さまにご紹介するものです。
だいぶ以前の既刊書のため、現在では書店での店頭展示販売はほとんどございませんが、書店注文方式、オンライン書店経由、あるいは小社よりの直送でお求めいただけます。
この機会にご愛読たまわれば幸せに存じます。

本木昌造伝

朗文堂愛着版 本木昌造伝

島屋 政一著  朗文堂刊  上製本 A5判 480ページ
発 行 : 2001年08月20日
定 価 : 16,000円[税別]
ISBN4-947613-54-8 C1070

口絵カラー写真20点  本文モノクロ写真172点  図版196点
特上製本 スリップケース入れ
輸送函つき  背革に羊皮の特染めバックスキン
ヒラは英国コッカレル社の手工芸マーブル紙

──────── 【目 次】
◯ 本木昌造の誕生から通詞時代
◯ 長崎製鉄所時代の本木昌造
◯ 近代活字創製の苦心
◯ ガンブルの来日と活版伝習所の創設
◯ 新街私塾と長崎活版製造会社
◯ 長崎から東京へ/活版印刷術の普及
◯ 本木昌造の終焉と本木家のその後
◯ 凸版印刷と平版印刷、ライバルの登場
◯ 印刷界の二大明星 ・ 本木昌造をめぐるひとびと
◯ 野村宗十郎とアメリカン ・ ポイント制活字
◯ 印刷術の普遍化とわが国文化の向上 ・ 印刷界の現状
新街私塾の印本書の元原稿は、昭和24年(1949)10月に島屋政一氏によって脱稿されたものの、太平洋戦争の直後の混乱のなかで刊行をみることはなく、ほぼ半世紀にわたり、名古屋の活字製造業者 ・ 旧津田三省堂の篋底キョウテイふかく秘められてきました。

朗文堂愛着版 『 本木昌造伝 』 は、再発見された島屋政一氏による原稿をもととして、図版などに大幅な編集をくわえるとともに、ふたたびこの書物が篋底に秘められることがないように、朗文堂愛着版と銘うって上製本仕立てで刊行したものです。

本木昌造の裏紋とされるBmotoSozo[1]

【 例 言 】――島 屋  政 一
わが国の印刷事業はとおく奈良平安朝のむかしに寺院において創始され、久しきにわたって僧侶の手中にあった。江戸期にはいって勅版がでて、官版および藩版がおこり、ついで庶民のあいだにも印刷事業をはじめるものがあらわれた。

寛文(1661-72)以後、木版印刷術おおいに発達して、正徳、享保時代 (1711-35) から木版印刷術は全国に普及をみたが、それは欧米諸国の近代活字版印刷術にくらべてきわめて稚拙なものだった。

幕末の開国とともに洋学が勃興して、印刷術の改善にせまられた。そのときにあたり、近代活字鋳造と近代印刷術の基礎をひらき、善く国民にその恩恵をひろめたものが本木昌造翁だった。

筆者[島谷政一]はすでに 『 印刷文明史 』 を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所 ・ 青山容三[本名 : 青山督太郎]氏、森川龍文堂 ・ 森川健市氏の両氏から、活字の大小の格[ 活字ボディサイズ ]のことのあらたな教授もえた。

さらに筆者はすぐる太平洋戦争において、おおくの蔵書を戦禍にうしなった。また青山進行堂活版製造所、森川龍文堂の両社は、その活字の父型や母型のおおくをうしなっている。
このときにあたり、ふたたび日本の近代文明に先駆して、開化の指導者としておおきな役割を演じた本木昌造の功績を顕彰して、それに学ぶところは大なるものがあると信ずるにいたった。

本木昌造は、ひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり、教育者でもあった。本木昌造の設立にかかる諸施設とは、むしろ「まなびの門」でもあったのである。 そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。
昭和24年10月20日                                  著 者 識  シルス

長崎港新町活版所印

長崎活版製造会社之印

【お知らせ】 ブログ新開設 <弁護士鈴木篤のつれづれ語り>

『 わたくしは日本国憲法です。』 の著者 : 鈴木 篤 アツシ 弁護士がブログを開設した。

 < 弁護士 鈴木 篤のつれづれ語り >

プリント顔写真鈴木篤氏

鈴 木  篤 氏

著者 : 鈴木 篤氏、御年 6? 歳、四捨五入すれば70歳になろうかという年齢での、果敢な新デジタル・メディアへの挑戦である。
 開設は2014年08月26日[金]で、初日に一挙に三本の投稿がアップされた。
【 URL : 弁護士鈴木 篤のつれづれ語り 鈴木 篤氏08月26日 新規開設ブログ 】

08月26日[火]      ◯ はじめまして             
                                ◯ 恐ろしい世の中になったものです。
             ◯ てんやわんやの今日この頃
08月27日[水]   ◯ お知らせ
08月28日[木]   ◯ たくさんの人ありがとう   
08月29日[金]   ◯ 明日天気にな~れ
08月30日[土]              ──────
08月31日[日]      ──────
09月01日[月]   ◯ 盛況だった前田哲夫さんの講演会
09月03日[水]   ◯ 秋がすぐそこに

もともと法曹界ではワープロソフト「一太郎」のユーザーが多く、鈴木氏もその例にもれず、「一太郎」を縦横無尽、多彩に使いこなしていた。
どうやらその理由は、正確な文書作成がもとめられる法曹界にあっては、いち早く専用ワープロを導入し、それにつづいてNEC98 時代になると、文書作製ソフトとして「一太郎」の使用が盛んだったためらしい。
その分だけ、インターネット、ブログ、短文ブログなど、ソーシャルメディアへの対応には慎重だったともいえる。

また法曹界では いまもって紙メディアへの依存度がきわめてつよく、鈴木 篤著 『 わたくしは日本国憲法です。』 のフライヤー(チラシ・ビラ)を、小社では近年の傾向にあわせて1,000部を用意していたが、どんどん著者周辺で大量配布され、小社担当はフライヤーの増刷に追われるという、最近ではあまり経験しない「事件」もあった。
【 図書詳細情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』
──────────
鈴木氏はやつがれのふるい友人で、信州の高校時代の同級生でもある。クラブも新聞部で一緒だったが、やつがれは旧制中学さながら、バサラ者が多かった隣の部室(ベニヤ板で仕切っただけ)の、演劇部や弁論部でとぐろを巻いていることが多く、在校時代はどちらかといえば鈴木氏の印象はうすかった。
鈴木氏はさほどガリ勉型ではなかったとおもうが、成績は優秀で、東大法学部に現役で入学して弁護士となり、「江戸川法律事務所」を開設した。

もうふるいはなしになる。
小社刊行の図書 『ESPRIT』 ( Douglas Tompkins/Esprit De Corp 編著、1989年01月28日)が好評で、欧州でも大量に販売された。その際ハンブルグのディストリビューターが、数百万円の支払いを言を左右にして遅延させて紛争になったことがあった。
その相談を鈴木氏にもちかけたところ、
「国際問題は、そっちを得意にしている別の弁護士を紹介する」
とされて、東大での同級生だという虎ノ門の弁護士事務所を紹介されたことがあった。

気取りのない「江戸川法律事務所」とちがい、重厚で重重しい(大仰な)弁護士事務所だったが、名刺交換を終えてソファに腰をおろした直後から、その事務所の所長弁護士は咳きこむようないきおいで、、
「鈴木 篤先生とは、どんなご関係でいらっしゃいますか」
「信州の高校時代の同級生です」
「ご存じないようですが、鈴木先生は東大法学部の十年に一度の逸材とされていました。もし裁判官に任官されておられたら、最高裁長官もおありだったかたです。すごいかたです」

これには面食らった。やつがれ罰当たりなことに、鈴木 篤弁護士はさして勉強もせず、「地頭 ジアタマ」の良さだけで東大に現役入学したとおもっていたし、ときにはふるい癖で「篤 → 竹+馬 → タケウマ~」とも呼んでいたから……。
虎ノ門の所長は何度も繰り返して 「 もったいない、 欲のないかたで…… 」 とのべていた。たしかに鈴木 篤弁護士には通俗的な欲はないのは確かだ。
そのはなしはあながち大仰では無いようで、同席した東大での後輩とおぼしきスタッフ弁護士は、本題はそっちのけで、ほとんど憧憬としかとれない口調と表情で鈴木氏を褒め称えていた。
ともかくおどろいたこんな経験もあった。

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鈴木 篤氏の著作はすくなくない。
◯ 『 医療事故と患者の権利 』 (エイデル出版、1988年)
◯ 「 患者の側からみた医療過誤訴訟 」 『 現代法律実務の諸問題 』 (日本弁護士連合会、1987年)
◯ 「 医療裁判を始める人の心得7ヶ条 」 『 弁護士研修講座 』 (東京弁護士会刊、1986年)
◯ 『 カルテはなにも語らない ― いのちの裁判の記録 』 (労働旬報社、1990年) ほか多数

医療問題への取り組みもながい。
◯ 1977年 医療問題弁護団結成に参画、初代事務局長(-79年)
◯ 1989年 血友病 HIV 感染被害者救済訴訟弁護団 副団長
──────────
こうしてみると、鈴木 篤氏は正義感がつよく、いつも社会的弱者にあたたかい視線を向け、たとえ社会的弱者であっても、この国の憲法のもと、ひとりひとりの国民として、ひとしくその権利を有し、ひとしく義務を負う存在だとみなしていることがわかる。
そんな鈴木氏であるから、長年ふたことめには 「 民主主義 」 と口にして倦むことがない。

そして自民党多数体勢のもと、安倍晋三政権の、まさに暴挙としかいいようのない強引な施策の結果、憲法が危機的状況に陥っている現状に、矢も楯もたまらず、「日本国憲法」になりかわって、自分自身が読者にかたりかける図書の執筆を開始した。

それが 『 わたくしは日本国憲法です。』 として刊行されるまでの間、鈴木氏と小社の間にたくさんの電子メールが往復した。そこにはいつも、あふれるように熱い民主主義へのおもいと、憲法を損壊しようとする安倍政権へのつよい苛立ちがみられた。
それらの一部は『 わたくしは日本国憲法です。』にも収録したが、当然収録しきれないことがらも多かった。

そこで鈴木氏が年二回発行している情報誌 『 江戸川法律事務所だより 常磐木 トキワギ』 だけでなく、軽便なブログの開設を何度かすすめた。
それでも鈴木氏は多忙を理由に容易には腰をあげなかったが、「居残り会 佐平次」 こと、実兄/鈴木一彦氏のブログ 『 梟フクロウ 通信 』 のおおきな影響力などを知って、ようやくブログの開設に踏みきったようである。

【 関連情報 : 梟フクロウ通信~ホンの戯言  by saheizi-inokori  著者実兄 】
──────────
ところで……、このところ鈴木 篤氏からの@メールに、<ブログについてご相談>という件名が増加している。

すなわち、ことの成りゆきから、やつがれが鈴木氏のブログ相談係を押しつけられている。
ブログの立ち上げ設定は江戸川法律事務所の職員が担当したが、なにしろこの年になってはじめて経験するソーシャル・メディア、職員には聞きにくいことや、深夜でも対応してくれる相手が必要だったらしい


ここで、すべての<花筏>の愛読者の皆さん、とりわけ新宿私塾の修了生の諸君、なかんずく、和泉くん、千星くん、九鬼くん、米村くん、神村くん、ここは笑うところではありません。
どうやら見えないことをいいことに、真田幸文堂と 北くんは、腹を抱え、のけぞって嗤っているではないか! 失敬千万の沙汰である。
―― まぁやつがれも、なにかおかしいなぁとおもっているから、わかるけどネ。

朗文堂のホームページ本体は、当時ジャストシステムのコンサルタントをしていた関係で、同社に強引に押しつけられて、まだ閲覧者(URL 使用者)が 1,000 人も満たないころから開設されたふる~いものである。
それを長年にわたって社員が力をあわせ、つっかい棒をあちこちに入れてサポートしてきた(そろそろ限界説も)。そこでのやつがれの役割は、プレーンなテキストを作製すれば、あとはスタッフがまとめてくれていた。

ブログロール型のものは、2009年09月真田幸文堂が開設してくれ、その後は北くんが新規開設とサポートにあたってくれた。このときから徐徐にスタッフはブログ型から手を引いたために、よんどころなく、拙いながらも自分でブログロールを作製するようになっただけのこと。
もともとやつがれは、デジカメ、ケータイを購入したものの、落下するは、紛失するはで、「使う資格無し!」とされ、ノー学部に剥奪されたままである。
本人もデジカメやケータイは躯と脳と視覚にわるいとおもっているし、さらに <歩く化石> とおもっているほどのアナログ人間でもあり、当然 IT メディアに強いなどと一回も口にしたことはない。

またまたところで……、弁護士鈴木 篤氏は最初のうちこそ、
「ダブルクリックとはなんぞや? 画像のドラッグはどうすればいいのか?」
などとやっていたが、わずか数日でブログに写真画像までアップするまでに至っている。
見ておれ、御年 68 歳(アレッ、いっちゃった)、水彩画をこよなく愛し、東大卒などとえらぶること(そんなことをしたら、すぐにこちらから黙って縁を断つのがやつがれのいきかた)のまったくない、鈴木 篤氏の老人パワー(やつがれともども、老人とはつゆおもわぬらしい)がこれから炸裂するのだ。

ともあれ、図書 『 わたくしは日本国憲法です。』 が刊行された。
嬉しいことに同書の増刷(第二刷り)がたったいま決定した。―― この国、まだまだ見捨てたものではないとおもわせた。

そして著者のブログロールも開設された。
【 URL : 弁護士鈴木 篤のつれづれ語り 鈴木 篤氏08月26日 新規開設ブログ 】
これからは本格活動のときである。

【 URL :  イベント緊急紹介  殺さないで! 生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念の集い 】

一枚の絵はがき/Gallery Bar Kajima と オーナー 加島牧史のWebSite開設

ギャラリー バー カジマ

 <ギャラリー バー カジマの展覧会案内の絵はがきが URL になるのか? チトさびしい>
どこか気になるモノクロの絵はがきが、几帳面に三週間に一度ずつ送られてくる。
送り主は<ギャラリー バー カジマ>で、オーナーは加島牧史マキシなる人物である。
要は次回のギャラリー展示の紹介だが、そこに添えられた文章がいつも含蓄があっておもしろい。すなわちやつがれは<ギャラリー バー カジマ>と、オーナー加島の隠れたファンであった。

オーナー加島は、数奇な少年時代を送ったひとで、その父君は「伊那の老子」とされる奇妙人である。検索(詮索?)が得意のかたはすこしでも検索すると、オーナー加島のただごとならぬ前半生を知ることになる。
銀座でこんな個性あふれる店をひらく漢 オトコ には、やはり秘められたドラマがあるのは当然であろう。そしてこんな 漢 がすきなのがやつがれである。

彫刻と詩は最高の芸術の形態だといわれている。
しかしこれを生業にすることほど困難なことはない。
彫刻家になることは、彫刻の奴隷になることを意味する。その魅力は計り知れないからだ。
何もないところから形を削りだし、手によって、からだによって彫刻は生まれる。そこには意識ではとらえら切れない存在の深みに向かう魔力があるのだ。
川口茉莉は普段はデッサンのモデルをしながら、彫刻を作っている。すでに奴隷への道を歩きはじめたのだろうか。
「ジャコメッティーとともに」という本の中で、ジャコメッティーが矢内原に「自分は王様の奴隷となって、毎日デッサンを描いていられるなら、なんと幸せなことだろう」と告白した。三十五年前に夢中になったセリフをふと思い出した。 (加島)

http://gbkajima.jimdo.com/<ギャラリー バー カジマ>は銀座コリドー街の一画にある。
Gallery Bar Kajima  ギャラリーバーカジマ 
東京都中央区銀座7-2-20 山城ビル 2 階
営業時間 14 : 00-24 : 00
TEL : 03-3574-8720

江戸時代のこのあたりは、江戸千代田城の外堀にあたる山城河岸に面して水運に恵まれていた(現在は埋め立てられて首都高速道路に変貌している)。
そのために、山下町、山城町、鍋町などは、江戸城に近接していても、武家地ではなく町人地とされ、おもに刀槍、鍋釜などの金属関係の職人の町でもあった。

秀英舎 ・ 大日本印刷も、この一画にあった職人工房の印刷機器と活字を譲渡されて、ほどちかい数寄屋橋で創業している。
そんな歴史をたどってこの周辺を歩いたこともあった。
銀座とはいえコリドー街の周辺はいまでも庶民的な町で、古き良き新宿ゴールデン街にも似た猥雑さもある。
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<ギャラリー バー カジマ>が開店してから13年ほどが経過したらしい。当初の絵はがきはオフセット平版印刷だったが、オーナー加島のパソコンスキルの向上とともに? 最近はパソコンプリンター出力方式に変化してきた。
ところがオーナー加島は、あふれんばかりの豊穣なことばを有しており、次回展示の作家紹介 ・ 作品紹介をしるすうちに、ついつい筆(キーボード)がすべって !?、絵柄面がことばで埋まり、しかもあくまでもテキスト優先の紙面製作のために、作品図版や写真画像の紹介が切手サイズほどになることがあっておもしろかった。

<ギャラリー バー カジマ>に最初にいったのは、小社ノー学部の友人であり、やつがれもその真摯な創作姿勢に共感している、アーチストMM女史が「アートの奴隷」となって、しばらくの間この店の「日曜日担当特別ママ」になったためであった。いまはMM女史が両親の介護のために郷里に戻ったので日曜日は休業である。
四谷 ・ 新宿地区にながく、そこにかじりついた地衣類のようにほとんど新宿を動かないやつがれだが、なんどかノー学部に引っぱり出されて<ギャラリー バー カジマ>を訪ねた。
それでも下戸であるやつがれは「バー」を苦手とするが、なかなか旨い珈琲がでて居心地がよかった。

ところでそのオーナーの加島牧史氏であるが、御年 5? 歳にしてついにブロガーとして登場したらしい。
今回の絵はがきの宛名面の下部にはこうあった。

やっと自分でウェブサイトとブログを始めた。
全く見当がつかないけれど、書きたいことがいろいろあるから少し続けようと思う。
読者がいないとさみしいので、一度開いてみてください。

そして気になる一行もあった。
また、メールのDMもはじめようと思う。はがきから移行可とされるかたは、メールを送ってください。
【URL : GalleryBar Kajima 】
【Mail : gbkajima@gmail.com 】

銀座コリドー街の小道に、ギャラリー兼バーを開いて13年。
3週間ごとに変わる展覧会と、
メインディッシュにも、ご飯のおかずにもなる大盛料理、
ビール、ワイン、スコッチウィスキーなどお酒にもちょっとこだわって、
気楽にゆっくり美味しくお過ごしいただきたいと思ってます。
昼間の喫茶では、珈琲と数種のお茶と、手作りの甘いもの、ビールもあります。
作品と音楽やパフォーマンスのコラボレーションライブもやっています。
(営業時間 : 14 : 00-24 : 00 日曜 ・ 祭日休み)

◎ オーナー紹介
加島牧史 ( かじま まきし )
編集、ギャラリーマネージャーを経て、1999年ギャラリーバーとき、
2001年ギャラリーバーカジマをオープン。
以後はひたすらここでお客を待つ。
◎ 近年の翻訳本
『 もう殺さない 』 サティシュ ・ クマール著
『 アンサー 』 ジョン・アサラフ&マレー ・ スミス著

やつがれ、出力に手間取り、郵送費も莫迦にならないであろうが、まだ当分はわがままをいって絵はがきで情報をいただきたいとおもう。
そして【URL : GalleryBar Kajima 】を訪問した。開設から間もないとはいえ、そこはオーナー加島のことゆえ、すでにブログを中心に、あふれるようなコンテンツ(テキスト)に満ちていた。

與 談 ──────────────
やつがれ、オーナ加島とは大勢と店にいったときに一度お顔を拝見しただけで、別に親しい関係ではない。それでも 5? 歳にして URL に挑戦する勇気に拍手を送りたいし、銀座にでかけることがあったら、ぜひ<ギャラリー バー カジマ>に寄ってみたいものである。

そしてやつがれの友人弁護士が御年 6? 歳( 70 歳間近)にして、まもなくブロガーとしての登場に挑戦中である。こちらはおおいに心配のいまである。

皆さまの友人、台湾の林 昆範さんが Red Dot 賞を獲得されました。

列印 列印

台湾で活躍する林 昆範さん。
林 昆範さんは中国大陸の少数民族とその造形の調査を精力的に重ねています。

2014年05月には山東省に調査に出かけ、取材のさなかに肩を骨折されましたが、順調に恢復されて、07月02日久しぶりに来日されて、<タイポグラフィ講演会 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会>を担っていただきました。
08月にはいると、ふたたび大陸にわたり、中国広西チワン族自治区のまち、陽朔県にでかけられています。

林 昆範さんはまた、今年の春に二つの iF 賞を受賞されましたが、07月末には産学協同プロジェクトの成果として、中国南東部の少数民族衣装に使われた文様と伝統色を生かして、陽朔にある観光会社のブランドイメージをつくり、Red Dot 賞を獲得されました。 ここに受賞作の一部をご紹介いたします。

【 花筏 : 朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状 】
【 活版アラカルト : 林 昆範 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会の記録 】

【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

TFL_FLYER_01【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

朗文堂/アダナ・プレス倶楽部の皆さま
ご健勝のことと拝察、残暑お見舞い申上げます。
英国はもう冷え冷えとした秋です。

イアン・モーティマー氏 Ian Mortimer OBE が、今08月末に<TYPE FROM LONDON>のイベントに招かれて、はじめてめての日本訪問となりました。
イベントは日本でもファッション・デザインで著名なポール・スミス Paul Smith ギャラリー主宰で、わずか五日間ほどのタイトな日程で動かれるとか。

モーティマー氏は、気さくな優しい人物ですし、タイプ・アーカイブ(ミュージアム)の主力サポーターのひとりです。
また、活版印刷を通じた社会貢献により大英帝国勲章 OBE (Order of the British Empire) の称号を授与されており、英国でも超一流の活版印刷家として活動され、シェイクスピアのソネットなどの美しい活版作品を製作されています。
また、歴史上著名なブックデザイナーやタイポグラファや出版人のクラブ The Double Crown Club (DCC) と、The Wynkyn de Worde Society (WdeW) の一員でもあります。

【 Ian Mor­timer 氏の詳細 : http://imimprimit.com 】
【 展覧会の詳細 : http://typefromlondon.com/ 】

タイポグラファ群像*006 澤田善彦

澤田善彦澤 田  善 彦

(さわだ よしひこ 1930年(昭和05)07月15日-2014年(平成26)07月23日 享年84)
[写真提供 : 澤田嘉人氏]

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■ 澤 田 善 彦  略 歴 

  • 印刷人・活字人。東京都出身。1930年(昭和05)-2014年(平成26)。享年84
  • 1930年(昭和05)07月15日、東京都北区にて出生。
  • 1936年(昭和11)生家が板橋駅近く、新撰組関係者の記念碑付近に移転した。
  • 1937年(昭和12)滝野川谷端ヤバタ小学校入学。
  • 1943年(昭和18)戦時体制下にあった谷端国民学校卒。
    同年、水道橋の東京府立工芸学校金属工芸科に入学。同校印刷科の三年先輩に 野村保惠 氏、二年先輩に 故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 がいた。
    在学中は勤労動員が相つぎ、大日本印刷市ヶ谷工場写真凸版係、パイロット航空機風防組立工場などに動員された。
  • 1943年(昭和18)4月10日の東京大空襲で板橋の自宅が罹災し、目白通り沿いの下落合に転居。
  • 1948年(昭和23)03月改組改称された東京都立工芸高等学校卒。
    同年04月大日本印刷株式会社(DNP)研究所に入社。同月千葉大学(夜間部)に入学したが、1950年(昭和25)経済的理由で中退。
  • 大日本印刷株式会社(DNP)では活字版印刷部門、オフセット平版印刷部門を経て、1967年(昭和42)04月-75年(昭和50)にかけ、社命により海外勤務。
    香港の Asocial Printers Ltd. 工場長、Peninsula Press Ltd. 社長などを歴任。
  • 1975年(昭和50)香港勤務を終えて日本に帰国。CTS(Computer Typesetting System)大日本に勤務し、その後大日本製版株式会社、エスピー大日本株式会社などを経て、1983年(昭和58)よりCTS大日本工場長。
  • 1985年(昭和60)大日本印刷株式会社退社。
  • 1988年(昭和63)リョービイマジクス株式会社社長:吉田市郎氏に招かれ、同社プリプレス部部長として勤務。のち取締役情報システム部部長として平成明朝体などの開発にあたる。
  • 1994年以降、JAGATのDTPエキスパート認証制度に認証委員として参画。
  • 1995年(平成07)ダイナラブジャパン株式会社に入社し取締役副社長就任。
  • 1998年(平成10)1998年1月 ダイナラブジャパン株式会社退社。
    リョービイマジクス株式会社顧問に就任。
  • 2008年(平成20)大動脈瘤手術。
    退院後「和光市ゆめあい福祉センター」のパソコン講師などをつとめた。
    埼玉県和光市に在住して自宅療養に専念。
  • 2014年(平成26)07月23日逝去。 享年84
  • 【主要著作】
    『この一冊でDTPがわかる プリプレス用語集』 (印刷之世界社)
    『プリプレス用語1000語―CTS・DTP・CEPS』 (印刷出版研究所)
    『ページネーションのすべて―DTP & 組版の基本 & フォント環境』 (JAGAT)
    『変わるプリプレス技術』 (印刷学会出版部)
    『DTPエキスパート用語辞典』 (共著、JAGAT) ほか多数
  • 【JAGATのサイトに執筆したコラム】 
    『DTP玉手箱』 /『印刷100年の変革』/『フォント千夜一夜物語』など
    [本項は2011年07月 澤田善彦氏にお目通しいただき、加除修整したものである]

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《澤田善彦さんが亡くなった。だんだん本物の印刷人が減ってきてさびしくなっている》

印刷人:澤田善彦さんが逝去され、初七日忌もすぎた。
澤田善彦さんは圭角の無いお
ひとがらで、また組織人として、集団でものごとをまとめていくことにたけておられた。

だんだん本物の印刷人が減ってきて、さびしくなっている。
戦後東京の印刷人の主流をなしてきたのは、おもに以下のみっつの教育機関の出身者であった。
◎ 旧制東京高等工芸学校 → 新制大学になれなかった唯一の旧制高校とされる。
◎ 旧制東京府立工芸学校 → 現東京都立工芸高等学校
◎ 帝都育英学園専門学校 → 育英高等専門学校印刷科 → 現サレジオ高専

澤田善彦さんがまなばれたのは「東京府立工芸学校金属工芸科」であった。この学校はきわめて特殊な実業学校であったという。
すなわち旧制の小学校、いわゆる尋常小学校とされた06年間の履修ののちに入学する学生と、さらに旧制高等小学校(新制中学校に相当)を履修した学生が混在していた。
とりわけ当時需要が多かった、それだけに求人が多かった「印刷科」は入学がむずかしく、故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 は高等小学校を卒業後に受験したが、入試に失敗し、一年間の「浪人生活」をおくっている。

つまり東京府立工芸学校とは、実業教育期間(インターン制度)をそなえた授産教育施設であり、履修期間も3-5年間とながく、現東京都立工芸高等学校とはかなりおもむきをことにする。
現代ではむしろ、高等専門学校(いわゆる高専)としてとらえたほうが旧制東京府立工芸学校の概要がわかりやすいかもしれない。

澤田善彦さんは谷端ヤバタ小学校(谷端国民学校)を卒業後、現役で東京府立工芸学校に入学され、戦時下と戦後の大混乱のもとで、5年間の履修ののちに卒業されている。ともかく優秀なひとであった。
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はじめて澤田善彦さんにお会いしたのは、1988年(昭和63)旧晃文堂(リョービイマジクス株式会社)社長:吉田市郎氏のご紹介にはじまった。したがってリョービ時代からのおつきあいで、大日本印刷時代の澤田善彦さんのことはほとんど知らない。

あれからほぼ四半世紀、25年ほどが経過した。この間にはさまざまなことがあったが、ご逝去から間が無く、まだ気持ちの整理がつかない部分も多い。
ただひとつ、多大なご迷惑をおかけしたプロジェクトがあった。それは澤田善彦さんはどこにも書きのこされていないし、これからもやつがれが詳細をしるすことはないであろう。

1990年の頃、やつがれはボストンで日本語用書体開発のプロジェクトに携わっていた。ところが作業が5-6割かた進行したところで、このプロジェクトはそっくりシアトルの某社が買収するところとなった。
ボストンの企業の首脳陣は、株主への責任から辞任するということであったが、やつがれには継続してシアトルでプロジェクトの進行をはかるようにつよく説得した。しかしながらボストンのスタッフとは開発当初から労苦をともにしており、シアトルへの移転はやつがれには考えられなかった。

それでもボストンとシアトルからの再再にわたる督促をうけ、後任に澤田善彦さんを推薦して了解を得た。澤田さんは、
「ひとが途中までやったプロジェクトは、意外と面倒なことがおおいですよ」
と渋られたが、なんとか強引に押しつけてしまった。

その引き継ぎにニューヨーク経由ボストンへ、そこでの短時間のミーティングののちに、シアトルまで澤田善彦さんと同行した。
澤田善彦さんはそれから二年ほどで、見事にその書体をシアトルでまとめられ、その後のサポート体勢まで構築されて退任された。そしてそのデジタル書体は、いまも基幹書体として多くのパソコンにデフォルトで搭載されている。
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病を得られてからの澤田善彦さんからのメールは、当初は16pt.であったが、後半は36pt.のおおきな文字サイズで送られてきた。これらのデーターは、いまは使用をやめて保存してある Windous XP のなかでねむっている。
また遺稿と遺品がやつがれの手許にのこされた。
遺稿は未定稿で、既発表資料には記述されなかった事柄も多い。ただしご家族関連の事柄が多く、これはいずれ澤田家からの発表を待ちたいところである。

また以下に掲げたスナップ写真は、澤田さんが和光市のご自宅をすっかりバリアフリー体勢にリフォームされたおりに、友人の吉田俊一氏といっしょにお訪ねしたときのものである。いわゆるガラケー、それも旧式のガラケーを無理矢理奥様にお渡しして撮影していただいた。
忘れられない、そして貴重な写真となった。

その折、額にコンパクトにまとめられた活字資料を頂戴した。いちおう固辞したが、ご夫妻で、
「ぜひとも持っていってください」
ということで持ち帰った。これが澤田善彦さんの著作とともに形見となってしまった。
すこし時間をいただいて、この活字資料を整理・分析して紹介したい。
いまはただ、幽冥さかいを異とされた澤田善彦さんのご冥福を祈るばかりである。

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<字と呼ぶ國、漢字という国> 畑 畠 そして 手紙 嗚呼 !!

 

Web畑・畠《 畠中 結 さんとの往復書簡から  往 信 》
畠 中 結様  楊   黙  様 ── 片塩二朗  2014年05月25日

きょうは日曜(星期日)ですが、野暮用があって出勤しています。
お送りいただいた上海の活字鋳造所の写真データーは、さっそく〈朗文堂 アダナ・プレス倶楽部〉 と 朗文堂〉、双方の WebSite で使用させていただきました。ありがとうございました。

なおがき
いまは上海にお住まいの<畠中さん>のお名前をみるたびにおもいだすのですが、30-20年ほど前にしばしば中国にでかけていました。その折、上海の強 暁明さんという知性のあるかたと懇意になって、「手紙」の日中での意味のおおきな違いからはじまり、やがて日本製の字<国字>のはなしになりました。
強 暁明さんは、わたくしが手帳にしるした<畑 ・ 畠>の字をしばらくみつめて、
「これは<字>ではありませんね」
とニッコリとしながらも、断言されていました。

あれから20数年が経過しましたが、わたくしがときおりもちいている『 漢 典 』をみても、いまなお<畑 ・ 畠>ともにユニコード対応になっており、「日本の姓名につかわれる」とする程度の、素っ気ない解説をみるばかりです。
ユニコード対応の<字 / 畠>は、現在の中国ではどのように扱われているのか、お時間のあるときに
でもご教示いただけたら幸甚です。
朗文堂  片塩 二朗
畑 畠──────  日本の電子版 簡易 漢和辞典 での紹介
<畑>
教育漢字 小学校三年配当。常用漢字。 シフトJIS : 94A8
常読 : はた/はたけ
意読 : はた/はたけ

<畠>
人名漢字。 シフトJIS : 94A9
意読 : はた/はたけ

《 畠 中   結 さんとの往復書簡から  返 信 》
片塩 二朗様 ── 畠 中   結 2014年05月29日
メールありがとうございました!
月末月初はどうしてもバタバタしてしまい、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
また〈アダナ・プレス倶楽部ニュース〉、〈活版アラカルト〉、〈朗文堂ニュース〉を拝見いたしました。とても素敵です!

そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。
ただ、公的な名前という意味でいえば、中国でもアルファベット表記になりますので、日常生活では不便でも基本的には大丈夫です。

しかし中国では、英語よりもやはり漢字のほうが受け入れられますから、病院の受付などで英語で書くわけにもいかず……、それに見た目は外国人というわけでも無いですし……。
実は、わたしの<畠中>の名字は、「はたなか」とよく間違われるんですが、正しくは「はたけなか」なんです。
一時は日本の健康保険証のふりがなを間違えられていたことがあって、日本にいた時からすでに不便でした。それに大学のおなじクラスに、偶然にも「畠中 はたなか君」がいたもので、出欠をとるときも毎回間違われていました。

ですから今までずっと名字(姓)を訂正してきた人生でしたから、結婚したら名字が変わるんだ! と、ものすごく期待をもっていましたが、国際結婚のために夫婦別姓……ガーーン。
しかも中国に来ても、またまた不便な名前が<畠中>。
でももうこれが運命だと思って受け入れています(笑)。

最近の日本では、子供に複雑な名前を付けるブームがあるようですが、名字を訂正する人生の苦しみを知っているわたしは、誰でも読める単純な名前が一番良いかと思っています。ただ、名字は選べないですが。
また何かありましたら何でもご連絡下さい!
上海は今はもう夏です、このまま09月頃までヒートアイランド現象で暑くなります。
片塩さん、大石さんもお体には何卒お気をつけて!
畠 中  結

──────
《中国の(男性の)友人には、<手紙>を出さないほうがよい !? 》
30-20年ほど以前のはなしである。そのころ上海旅遊社の添乗ガイドだった強暁明さんに何度かお世話になった。強さんはいくぶんやつがれより年嵩だったが、のちに日本の大手建築会社に就職して、上海に日系のゴルフ場やビル(大楼・大厦)をつくるなどしていた。
このころの中国旅行とは不便なもので、旅行の最初から最後まで添乗するガイドと、それぞれの目的地の現地ガイドと運転手を引き連れての「お大名旅行」であったが、現地通貨/人民元ならぬ兌換券ダカンケンという名の、外国人専用の紙幣がつかえる場所-政府公認の場所にしかいけなかった。

強さんは上海大学を卒業して、流暢な日本語をあやつる知的なひとであった。このかたとすっかり親しくなって、上海から西安へ、上海から北京へ、上海から洛陽へ、上海から杭州・蘇州・無錫へと、数次にわたった列車(軟座か寝台車)での長い往復の旅行中に、さまざまな雑談もした[『逍遙本明朝物語』片塩二朗、1994年 p.60-]。

もちろん携帯電話も電子メールも無い時代のことゆえ、当初の連絡はもっぱら国際電話か書状(航空郵便)であり、のちにかろうじてファクシミリ(伝真・传真)となった。
その文中に、やつがれは無意識のうちに、なんども「手紙」と書いていた(らしい)。

たしかに日中は同文の国ではあるが、その意味するところがおおきく異なることがある。
たとえば「自動車」は、中国では「汽車」であり、わが国の「汽車」は、中国では「火車」である。

洛陽の茶館で、強さんがいいにくそうに、中国での「手紙」が意味するところを教えてくれた。当時のやつがれは「手紙」が「衛生紙」であり、トイレットペーパーを意味することは知っていたが、コノテーション(言外の意)としてまったく別の隠れた意味合いがあることは知らなかった。
漢 典 』にリンクしておいたのでご覧になってほしい。「手紙」から引いていくと「衛生紙」に誘導される。
すなわち、
ここでも「手紙」が中国で(あんに)意味するところ、とりわけ 2. ── が説くところはしるしにくい。
手紙《田 tián、圃 pŭ があれば十分でしょう。畑、畠の字は中国ではみたことがありません》
たぶん上海から蘇州への列車(火車)の車中だったとおもうが、車窓からみえる稲をつくっている「田圃/たんぼ」と、野菜をつくっている「畑/畠」をわけてはなしていたことから、いつのまにか<国字>のはなしになった。
【ウキペディア : 国  字 】  【URL : 漢字辞典 国字とは 】

強さんは最初のうちはニヤニヤして、
「漢字という呼び方は日本独自のもので、わたしたちは<字>がふつうです。まれに<国字>とも書きますが、それは日本でいう<漢字>のことで、中国でつくられた<字>ですよ」
「それはある程度わかります。強さんは国文学部出身でも、日本風にいうと、中国文学学部になるしね。ではこれからは<日本製の字>ということにしましょう」
「日本製の字といえば、この前日本にいったとき、寿司屋で<魚づくし>というのですか、魚偏の字だけで文[文様]にした湯呑みをみました。あの造字法はおもしろかったですよ」
「中国の魚偏の字は少ないからね。黄河に棲んでいた魚の字ぐらいしか無いようだ。内陸部では海をみたことがなかったのかな」
「殷商のみやこ、鄭州や安陽だけでなく、周、隋、漢など、造字活動がさかんだった時代のみやこは、ほとんど黄河の上流から中流域にありましたから、古代の神官などは海の魚を知らなかったのでしょう。その点では日本はきれいな水の河川が多いし、四方が海ですから。魚もおいしいですね。だから魚偏の字が多いのでしょう。」

「じゃぁ、まえからふしぎにおもっていることだけど、<鮎>は国字 モトイ 日本製の字ですか」
「あぁ前回の宿題ですね。大学の図書館で調べてきました。<鮎 nián>は、中国ではなまずのことでした。それがどういうわけか日本では清流に棲む<鮎 あゆ>に字義と字音がかわり、そして日本では「鮎」とは別に、わざわざ<鯰 なまず  nián>という字をつくったようです。それが中国に逆輸入されました。この「鯰」の字はいまの中国でも使えます」
「じゃぁ強さん、鮎・あゆ と 鯰・なまず は、同音・同義の異体字ということですか」
「中国には鮎が遡上するような清流は、すくなくとも中原にはありませんし、あの柳の葉のような美しい魚をみたことはありません。ですから中国での字としては、鮎も鯰も両方とも日本のなまずですし、中国音 nián です。ですから鯰は鮎の異体字(异体字)といえますね」
田 圃
「鯰を鮎の異体字だとするとは恐れ入ったね。いかにも中国的なおおらかさだ」
「いや、片塩さんもおおらかですよ。さっきから<たんぼ 田圃>といっていますね。わたしたちは<田 tián>と、<圃 Pŭ>は明確にわけていますよ」
「これは一本とられたな。日本では<たんぼ 田圃>を便利につかいすぎているところがあるのかもしれない。つまり田と畑・畠は別のもので、水を張って、おもに水稲をつくるところを<田・水田 or 田圃 たんぼ>といいます。そして平らな耕地に水を張らないで、おもに野菜や果樹・花卉を育てるところを畑といいます。そして畑のなかでも水利のわるいところは畠ではないでしょうか。これは個人的な意見ですが」

「その意見はおもしろいですね。許慎『説文解字』的にいうと、焼き畑でつくった<田 tián>が畑ということですね」
「そう。もとは焼き畑だったから火偏がのこった。そして 白+田 = 畠は、水利がわるいはたけということです」
「説文解字でも、余白・空白のように、白にはゼロ・零にちかい意味があるし、その個人的見解は納得できますね」
「なにかふたりだけで盛り上がったようだね。そろそろ蘇州が近いんじゃない」
というわけで、<畑/畠>は、火車のなかでの強 暁明さんによれば、やはり、
「これは 字 では無い」
ということになった。

《 なほかき なおがき 追伸 Postscript 》
中国では<田/畑・畠>を、ふつう明確にはわけて認識しないことは何度か本欄でもしるしてきた。
また「手紙」の例と同様に、中国での<異体字/異體字/异体字>には、コノテーション(言外の意)、あるいは含意として、「(おもに北朝などの非漢族の)異民族がのこしていった字」という、隠れた意味合いもある(『漢語詞典』)。

そこでふたたび畠中結さんのおたよりにもどってみよう。
そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。

中国では<田/畑>は、ともに中国音で<tián>であることは紹介した。すなわち同音であり、ほぼ同意の異体字とみなしていることになる。
したがって日本の姓の「畑山・畑野・畑中」などは、パソコンなどで表示できないばあいに「田山・田野・田中」などに置きかえられることがある。同音・同意なので悪意はないだろうし、むしろ「田」という姓は中国では名門に属する。

いっぽう<畠 zāi, zī>は同音・同意というわけにはいかない。こういうときには部首に注目するのが中国である。「畠 の部首は 田」である。またそこに「畑山・畑野・畑中」などを、「田山・田野・田中」に置きかえたのと同様な思考もはたらいたとおもえる。もちろんここにも悪意はないとおもってよいだろう。
こうして畠中さんのお名前は、中国ではときおり「田中」と表示されるのであろうとおもえる。

ことばとその音がかわるのとおなじように、字 ≒ 漢字はもとより、仮名 でさえもその変化のあゆみをとめない。これがして、<字学>のおもしろいところではなかろうか。

【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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★ 中国 上海の活字製造と活版印刷関連情報 ── 畠中結さんからのご報告

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楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
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《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
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西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
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ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたびその名称と使用法は広く知られるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所の江川次之進の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。この絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄託の予定となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
今回はこうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文が発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。

今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

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《初期印刷人が多く眠る谷中霊園  印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の墓》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長『活版印刷史』初版本  組版データー
大日本印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、16行、行間7.5pt
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長『活版印刷史』再版本  組版データー
杜陵印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文: 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間4.5pt
参考: 杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。この時代の杜陵印刷にはA全判、A半裁版活版印刷機が数台あり、本文活字は自家鋳造であり、ムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式(ステロ版)での活版印刷が多かった。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051  20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)
写真) 印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也。
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。痩身で大柄なひとであったようである。集合写真:「この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句」『印刷情報』(片塩二朗 2007年07月号)より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日

明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月      東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年          秀英舎入社。製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月      印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日   著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園 甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。

《啓蒙思想家、教育者/中村正直の撰並びに書の碑文》
江川活版製造所、江川次之進が、東京築地活版製造所を追随するために新書体開発をめざし、そのはじめに、原字版下を中村正直(なかむら-まさなお  中邨ともする 1832-91)に依頼したことは既述した。【ウィキペディア:中村正直
中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれた。徳川幕府の昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となった。幕府のイギリス留学生の監督として渡英して帰国後は静岡学問所の教授となる。

江戸徳川家が転封を命じられた静岡藩時代、静岡学問所教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳刊行した。すなわち『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で、最初は木版刊本11巻として、のち佐久間貞一の懇請をいれて近代活字本一巻として出版した。同書は100万部以上を売り上げ、秀英舎(現大日本印刷)の基盤確立に寄与するとともに、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。
またジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、一躍「自由」は明治のはやりことばとなった。同書では個人の人格の尊厳や、個性と自由の重要性を強調した。

1872年(明治5年)、大蔵省に出仕。女子教育・盲唖教育にも尽力。1873年(明治6年)、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、明治六年創立の「明六社」の機関誌、「明六雑誌」の主要な執筆者でもあった。
自助論の序文にある ‘Heaven helps those who help themselves’ を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも中村正直である。

中村正直は能筆であったことは下掲の碑文からもあきらかだが、活字の原字を書すという作業は、能筆家であることがかえって妨げになることがある。
そうした背景があって、江川次之進は中村正直の原字を中途で断念して、「版下の書」を書いていた久永其頴ヒサナガ-キエイに依頼して、江川活版製造所の代表的な活字書体「江川行書体」を製造した。

この石碑は谷中霊園にあるが、まだ研究の手はおよんでいない。参考までにご紹介する。
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タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。

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やつがれ & 片塩二朗

平野富二と活字*15 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅱ 明治初期の偉人たち-1

         

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告 Ⅱ》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前から、ときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・新聞人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。その「谷中霊園 掃苔会(2013年12月01日)の記録Ⅱ」を紹介したい。
紹介順は、基本的に「掃苔会」での墓参の順番になるが、平野富二ときわめて関係のふかかった渋沢栄一(社会実業家 1840-1931)の墓所が、現在大規模な修理中であり、ご紹介できないことをあらかじめお断りしたい。
なお掃苔会資料『苔の雫』はコピー版であるが、ご希望の向きには実費程度でおわけしたい。この連続紹介で、碑碣にみられる、刻字のおもしろさと、そのおもさを知っていただけたら幸いである。

[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]

『平野展』ポスターs平野富二伝記念苔掃会 0104

◎ 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 社会実業家 号:青淵 1840-1931) 
乙11号1側  塋域全体が工事中。

◎ 茂木 春太碑(もてぎ はるた 教育者・化学者 1849-81)
乙11号3側  中村正直撰 廣 群鶴刻。
能書家としてもしられた中村正直の楷書がみごとである。

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◎ 岸田 吟香(きしだ ぎんこう 新聞人・実業家・慈善事業家 1833-1905)
乙12号7側 本名:辰太郎 別名・号:銀次、まゝよ、東洋、桜草
1864年(元治元)ジョセフ・ヒコらと日本初の新聞『新聞紙』を創刊。『東京日日新聞』初代主筆。
ヘボンと上海にわたり『和英語林集成』の刊行に助力。水性点眼薬「精錡水セイキスイ」を製造販売。
_MG_0625uu _MG_0628uu _MG_0630uu _MG_0631uu◎ 西園寺 公成(さいおんんじ きみなり 旧名:松田雪江 事業家 1835-1904)
乙12号7側 第一銀行取締 石川島造船所の資金難にあたり、渋沢栄一の指示でそれを援助。
平野富二没後は石川島造船所の株式組織化に尽力し、取締役に就任。
_MG_0637uu _MG_0643uu _MG_0644uu _MG_0646uu◎ 内田 嘉一(うちだ よしかず 文部省役人、書家、かなの くわい幹事 1848-99)
乙13号1側 秀英体の原字の一部を担ったとみられる。福澤諭吉の初期の塾生で、福澤諭吉編『啓蒙手習之文』(木版刊本、内田嘉一版下)にみる「わかりやすい文字」は、その後の活字書体形成におおきな影響をあたえた。
_MG_0691uu _MG_0693uu _MG_0699uu◎ 井関 盛艮(いせき もりとめ 裁判官、官僚、実業家 1833-90)
乙8号11側 あざな:公敦 通称:斎右衛門 神奈川県令のとき、長崎の本木昌造一門の助力で、わが国初の日刊新聞『横浜毎日新聞』(明治5年)を創刊。その後名古屋県令、島根県令をつとめ、印刷術の普及に貢献した。
_MG_0701uu _MG_0704uu _MG_0708uu _MG_0712uu◎ 田口 卯吉(たぐち うきち 経済学者、文明史家、衆議院議員 1855-1905)
乙7号6側 本名:鉉 号:鼎軒 元幕臣。紙幣寮に出仕。沼間守一による櫻鳴社の設立会員。秀英舎役員。『日本開化小史』『大日本人名辞典』などの編纂。『東京経済新聞』の創刊など。_MG_0719uu _MG_0720uu◎ 條野 傳平(じょうの でんぺい 戯作者、新聞人、実業家 1835-1906)
乙7号甲2側 明治元年(1868)福地源一郎、西田傳助らと『江湖新聞』創刊。ついで毎日新聞の前身『東京日日新聞』を自宅を事務所として創刊し、ついで『警察新報』『やまと新聞』などを創刊。
◎ 鏑木 清方(かぶらぎ きよかた 日本画家、随筆家 1848-99)
乙13号左3側 幕末から明治初期きっての粋人・條野傳平の子ながら、長子ではなかったため、墓所は別にある。自著の装幀にみるべきものが多い(ここには鏑木清方関係の写真は省略した)。_MG_0723uu _MG_0725uu _MG_0730uu◎ 楠本 正隆(くすもと まさたか 裁判官、政治家、実業家、新聞人 1838-1902)
乙7号甲1側 備前大村藩士、維新後井上馨、野村宗七とともに長崎判事。新潟県令、東京府知事となって、平野富二の活字製造、造船事業、土木工事に多くの接点をもつ。のち『都新聞』を買収して社長となった。
_MG_0733uu _MG_0734uu _MG_0741uu◎ 藤野 景響碑(電信士、西南戦争で陣没 1857 ?-1877)
甲1号4側  通称「碑文通り」とされる中央通路に、杉の木がもたれかかるという、奇観を呈するこの碑の主人公は、父が紙幣寮に出仕しているとする以外詳細は詳らかにしない。
碑文の撰・書ならびに篆額は池原日南(長崎人、宮内省文学御用掛として明治帝に近侍。香穉とも号す。1830-84)である。池原の和様の書は著名だが、ここでは隷書味のある楷書でしるしている。当時評判の石工・廣 群鶴の石彫もみごとである。
_MG_0784uu _MG_0788uu _MG_0790uu
◎ 渡部 欽一郎君之碑(大蔵省書記官、号:柳圃 1845-86)
甲1号9側 松方正義:篆額、浦春暉:撰、並木時習:書、井亀 泉:刻
明治4-6年(1871-73)ころ、大蔵省権大書記官として井上馨に随伴して大阪造幣寮におもむき、合理的で整然とした西洋式簿記を目にして啓発され、帰京後大蔵省の簿記法を従来の和算から、アラビア数字による横書き・左起こしに改めることを進言し採用された。この碑はその事実を刻し、「このことを知るひとはすくないが、いずれあきらかにされるであろう」としている。
英和辞書などでの左起こし横組みの創始が話題になったことがあるが、簿記での左起こし・横組みは、1871-73年ころの渡部欽一郎が最初である。
篆額を書した松方正義は、ときの大蔵大臣である。なお渡部欽一郎の墓所は浅草・本願寺にあるという。
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_MG_0828uu _MG_0832uu _MG_0838uu_MG_0840uu  《これぞまさに歴史の皮肉か? 谷中霊園甲1号12側にならんで建つライバルの墓標》
谷中霊園甲1号12側の通路にそってあるくと、ちょっと奇妙な景色に遭遇する。中央通路からはいると、手前に福地源一郎の墓標があり、東京都指定史跡に登録されている。その奥、隣りに伊集院兼常の墓域がある。どちらも相当おおきな墓域だが、ふつう通路に向かってたつ墓標が、伊集院家のものだけが、いくぶん変わった向きに建立されていることに気づく。これはぜひとも現地に出むいて確認していただきたい。
1886年(明治19)この両者は熾烈な争いをしたライバルであった。それでもいまや黄泉のひととなった両者は、谷中霊園にならんでねむっている。
────────
1886年(明治19)海軍省から軍艦建造の依頼をうけた平野富二は、管轄官庁の変転で浮きあがっていた兵庫造船局を借用するために願書を提出した。ところが同時に、京橋区築地造船所の川崎正蔵(鹿児島うまれ、1837-1912)からも同様な願書が提出された。
そのため両者はそれぞれ同郷の代理人をたてて借用権を争った。そのときの代理人とは、平野側は福地源一郎、川崎側は伊集院兼常であったのである。ときはまだ旧薩摩藩・旧長州藩の勢力がつよく、伊集院はその旧薩摩閥を背景として貸し下げ競争を展開した。
結局薩摩閥勢力のちからに屈し、貸し下げ競争に敗れた平野富二は、憤激のあまり脳溢血の発作をおこしたと伝えられている。_MG_0847uu◎ 福地 源一郎
(号:櫻痴、吾曹、夢の家主人、星泓。通訳、新聞人、実業家、政治家、劇作家 1841-1906)
甲1号12側 長崎人。語学の才にめぐまれ、幕府直臣となって外遊をかさねる。このときの経験が新聞の必要性と、小屋がけではない、常設劇場「歌舞伎座」の創建につらなった。多芸多才なひとで、毀誉褒貶も多いが、條野傳平らと『江湖新聞』を発行して新政府批判を展開し、投獄され、新聞は版木もろとも焼却されて発行禁止となった。
維新のち大蔵省に出仕するも、まもなく下野して『東京日日新聞』に迎えられて、主筆兼社長となった。常設劇場「歌舞伎座」を開設し、九代目市川團十郎、河竹黙阿弥らと演劇改良運動に尽力し、歌舞伎の新作脚本もたくさんのこした。政財界でも華やかな活動を展開し、伊藤博文・井上馨らの「悪友」と、色里での艶聞も多い。号としてもちい、法名の一部にもなった「櫻痴オウチ」は、遊里吉原の芸子・櫻路サクラジに痴シれたおのれを自嘲したものとされる。
第一次『印刷雑誌』に「本木昌造君の肖像并履歴」、「平野富二君の履歴」などの貴重な記録をのこし、谷中の『平野富二顕彰碑』の揮毫にあたるなど、平野富二とはきわめて昵懇であった。
_MG_0848uu_MG_0862uu ◎ 伊集院 兼常(いじゅういん かねつね 鹿児島人。軍人、実業家、造園家。1836-1909)
甲1号12側 幕末は国事に奔走し、維新後海軍に出仕、海軍省主船局営繕課長をへて実業界に転進した。また伊集院は建築や造園、茶の湯に造詣がふかく、鹿鳴館の庭園造営が知られる。また京都の数寄屋づくりの別荘は、現在臨済宗の寺院「廣誠院」として観光名所になっている。

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◎ 宮城 玄魚(名:喜三郎 号:梅素玄魚、旧キサ、呂成、蝌蚪カト、オタマジャクシ子 1841-1906)
甲4号3側 経師士、庸書家、浮世絵士、戯作者。20歳のころ家業の経師職を継いだ。庸書(実用書芸)のほか、画にも長じ、合巻の袋絵、千社札、火消しの袢纏、商品の紙器などの意匠に独創性を発揮した。
また條野傳平、仮名垣魯文、落合芳幾らの粋人仲間との交流も篤かった。
清水卯三郎(1827-1910)がパリ万博に随行した際、玄魚の版下によってパリで仮名書体活字を鋳造し、その活字母型を持ち帰ったとされる。江戸刊本の字様を継承した玄魚の仮名書風は、東京築地活版製造所の仮名活字の一部に継承されたとみられている。
宮城家塋域はそんな玄魚の心意気を反映して、どことなく小粋で風情のある場所である。
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平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

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《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

『平野展』ポスターs

そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
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《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
────────

補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

_MG_0664uu _MG_0652uu _MG_0666uu _MG_0665uu _MG_0654uu _MG_0675uu _MG_0681uu _MG_0680uu _MG_0656uu _MG_0658uu _MG_0684uu _MG_0689uu平野家塋域にて
前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
────────
補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
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上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。

朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状

恭賀新年

台湾の友人、林昆範リン-クンファンさんから、春節(旧正月)の「年賀状」をいただいた。デザインのモチーフは、中国の少数民族の「文 ≒ 紋」である。
上から順に、「瑤族 YAO ZU」、「侗族 DONG ZU」、「壯族 ZHUANG ZU」、「苗族 MIAO ZU」の、それぞれの民族を象徴する「文」である。

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中国でのお正月「春節 旧暦の正月」のことは【アダナ・プレス倶楽部 NEWS:エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」】において紹介した。
古来中国では「暦」とは為政者が定めるものであった。したがって南北朝のように、国家が分立した際には、それぞれの国に「暦」があって、旅人などは難儀したことがあったとされる。

台湾も2014年(中華民国103年)の「暦」を、前年の2013年(中華民国102年)05月30日に、「行政院人事行政總處」が発表した【リンク:行政院人事行政總處 中華民國103年政府行政機關辨公日暦表】。
これは公務員の規定であるが、もちろん民間もこれに準拠することになる。すなわち中国と同様に、半年ほど前に、翌年の祝祭日と休暇が公示されている。

中国での2014年の法定祝日(旧暦元旦)は01月31日[金]で、休日は01月31日[金]-02月06日[木]の7連休であった。いっぽう台湾では01月31日[金]が祝日(旧暦元旦)であるのはおなじだが、休日は01月30日[木]-02月04日[火]の6日間となった
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林昆範さんと、その研究に関しては、このタイポグラフィ・ブログロール花筏でも触れてきた【朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で】。
林昆範さんはその研究を「字学研究」とされるが、わが国では「文字」ということばが普遍化しているために混乱を招きがちである。ご本人はいやがるが、「記号学」、「意匠学」とでもしたほうが「わが国では」わかりやすいかも知れない。

すなわち林昆範さんは、中国の観光産業と共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されている。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。
そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという。

その研究はだいぶ進捗をみたようで、紹介した「年賀状」もその一環である。また近近来日されるので、ご高説をうかがうことができそうで楽しみなことである。

近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心です。すなわち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。   林  昆範

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
────────
『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
────────
『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
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王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
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フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

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平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
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主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
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記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

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活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

朗文堂好日録-034 毎+水=? 【回答編】年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?
 【 回  答  編 】

弘法大師 空海が、みずからの名前「空海」に
「毎+水」を「海」の字としてもちいていました。
最末部に どんでん返しがお待ちしております(冷汗)。

空海中国書法大字典

空海 海_ページ_3空海 海_ページ_4
 ↑ 資料1) 中国の「字」の資料
        『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) 
                  p.853-4 「海」標本35例     内 「海」字体は35例 「毎+水」字体は00例

↓  資料2)  日本の「字」の資料
         『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日)
         p.563-4  「海」標本20例   内 「海」字体は16例 「毎+水」字体は04例

空海 海_ページ_1
空海 海_ページ_2
《海と、毎+水≒海 の使用例を日中両国の 字書 にみる》
上掲のよっつの図版は、中国とわが国の、書芸家・書法家による「字」の標本を収集したものである。

資料1) 中国の「字」の資料
      『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) p.853-4
ここには「海」の標本35例があり、 内「海」の字体が35例で、「毎+水」字体は紹介されていない。
中国ではながい歴史のなかで、「字」も少しずつ形象をかえてきたが、いわゆる「雑体」とされるもの以外は、後漢の時代(西暦100年、永元12)に成立した許慎『説文解字』があり、そこで定義された「六書の法」からおおきく逸脱することはほとんど無い。もちろん現代中国における「簡体字、簡体」もその範疇で展開されている。

資料2) 日本の「字」の資料
      『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日) p.563-4
ここには「海」の標本20例があり、内「海」の字体は16例、「毎+水」字体は04例となっている。
ここでも「毎+水≒海」としたのは空海が最初とみられる。これは字の形成からいうと、「氵サンズイを水とみたて、旁の毎の下に置いた」もので、やや類似した例としては「峰 常用漢字 → 峯 異体字」、「島 常用漢字 → 嶋、嶌 異体字」などをあげることができるが、それでも「毎+水≒海」としたのは空海の独創とみられる。

『書体大百科字典』の編者:飯島太千雄氏は、空海の書が好きとみえて、ほかの事例紹介でも空海の書による、いわゆる「則天文字」、「梵字」、「飛白」などの書を引くことが多い。
「海」の字体16例のなかでも、空海の書として、637.「海 伊勢正法寺観音堂額」、7.「海 二荒山碑銘」、8.「海、毎+水、併用 空海 綜芸種智院式」、6.「海 益田池碑銘」のよっつの例をあげている。

いっぽう「毎+水」字体のほうは、標題語「丸のなかに海」につづき、許慎『説文解字』の例のつぎに、篆書風の4.「孫 技秀 百体千字文」がある。この孫 技秀は、いわゆる「雑体」の書を多くのこし、その影印本は、『篆書百体千字文』としてマール社から発売されている。

また肉太の大字、394.「毎+水 後小松院 円覚寺額」がある。この書額は実見していないが、円覚寺 は臨済宗(禅宗)の寺であり、空海が開いた真言宗の寺では無い。
また後小松院とは、室町時代、北朝最後の天皇「後小松天皇」(1377-1433)の追号で、空海没後550-600年余の長期にわたり、また禅宗寺院にも、この「毎+水≒海」の「字」がもちいられたことがわかる事例である。また高野山西南院には『後小松天皇宸翰秘調伝授書一幅』(重要文化財)がのこされている。これをみると、後小松天皇とはきわめて能筆のひとであったようである。
あとはすべて空海の書からの標本で、 8.「海、毎+水併用 空海 綜芸種智院式」、10.「毎+水 空海 越州帖」となっている。

《真言宗の開祖:弘法大師 空海、天台宗の開祖:伝教大師 最澄》
あらかじめお断りすると、やつがれは宗教ひと、とりわけ開祖・始祖としてあがめられるひとは苦手である。
もちろん、すぐれた才能と、学識によって、この国のひとびとの、こころの安寧をもたらした功績は素直に評価するが、どうしても近寄りがたいものがあり、できたら敬して遠ざかっていたいとするおもいがつよい。
とりわけ空海の周辺には、史実よりも伝承とされるものが多くみられるだけに厄介である。

『空海の風景』を著した司馬遼太郎もそんなおもいがあったようで、「小説」のなかで空海を、「喰えないひと」、「あざとい一面がみられる」、などと評している。
やつがれはそこまで述べる胆力も学識もないので、単にふたりを平安時代初期のすぐれた宗教ひととして捉え、空海、最澄と呼びたい。
そして、「わがくにの真言宗の開祖:弘法大師 空海 774-835」と、「わが国の天台宗の開祖:伝教大師 最澄 787-822」の日本語版ウィキペディアにリンクをもうけて紹介を終えたい。
以下、『弘法大師の書とその周辺』(東寺宝物館編 1987年9月20日)からその書をみたい。

風信帖

資料3)  『弘法大師尺牘 セキトク(風信帖 フウシンジョウ)』
                一巻 紙本墨書 縦28.8センチ、横全長158.8センチ 平安時代前期 京都東寺蔵
「風信雲書 天自 ヨ り翔臨 ショウリン す 之を披 ヒラ き 之を閲 ケミ するに 雲霧を掲 カカ ぐる如し 云云」
からはじまる第一信があるために、ふつうは『風信帖フウシンジョウ』として知られる。
この書状は書風からみると草書であり、あきらかに王羲之をまなんだ形跡がみられる書である。『風信帖』は空海40歳ころ(812-3)の書とみられ、格調がたかく空海遺墨の第一とされている。
最終部日付の前の行は「不具 釋空(毎+水)海 状上」としるされている。

弘法大師御遺告 巻首部
弘法大師御遺告 巻末部資料4)  『弘法大師御遺告 ゴユイゴウ』
       絹本墨書 縦53センチ、横全長393センチ 平安時代(12世紀) 京都東寺蔵
空海が入定(逝去)に6-7日ほど先だって、弟子たちにあたえた遺誡の書。
空海の遺言は、弟子がしるしたとみられるものをふくめ6種類あるが、これは「承和二年三月十五日」(835年。空海は旧暦承和2年3月21日(新暦835年4月22日)卒。年と日は「則天文字」)の日付をもち、東寺の聖教中でも特に重要視され、秘蔵されてきたものである。
書風は隷書の味をもった独特のもので、「則天文字」の使用も多い。最終部に「入唐求法沙門空(毎+水)海」としている。

大和州益田池碑銘 部分

大和州益田池碑銘2
資料5)  『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』
       紙本墨書 縦31.5センチ、横全長790.1センチ 室町時代の模本 京都東寺蔵
825年(天長2)大和ヤマトの国高市郡に、干魃にそなえた溜め池「益田池」が完成した(現奈良県橿原市周辺に所在したと比定されるが、埋め立てられて現存しない)。空海はこれを喜び、同年9月25日に碑銘を撰し、揮毫したとされる。原碑は室町時代に高取城築城の際に石垣にもちいられて現存しない。現在これを模刻した石碑が橿原市の久米寺境内に建立されている。

この模刻碑を現地でみたが、やつがれがどうしても空海を苦手とする理由がはっきりした。
この碑は、書風からいうと草書を主とし、鳥などは象形というより、具象そのものの鳥を描き、篆書、隷書、そのほか、雲書、垂露、転宿星などの雑体書にあふれている。そしてここにも「則天文字」が縦横に駆使されていた。
つまりこの復元碑には、事大趣味、衒学趣味が表出しすぎて鳥肌がたった。
なぜ「大和國」ではなく「大和州」とするのか。なぜ「沙門 シャモン 梵語Sramana」として、いち僧侶として謙譲の姿勢をみせながら、「遍照金剛」などと、「密教における大日如来の別称。光明が遍アマネく照らし、さらに金剛などと、金カネのうちでも最も堅い」と豪語するのか……、とおもってみていた。

序文の書き出しは、
「大和州益田池
  碑銘 幷 序
   沙門遍照金
   剛 文 幷 書   」
である。
それでも『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』は、わが国ではその奇抜さのゆえか、空海が好んで書いていた「梵字」(ボンジ、梵語すなわちサンスクリットをしるすのにもちいる字。字体は種種あるが、日本では主として悉雲シッタン字をもちいてきた。光明真言を参考[広辞苑])や、「飛白」(ヒハク、漢字書体の一。刷毛ハケでかすれ書きにしたもの。後漢の蔡邕サイヨウの作という[広辞苑])とならんで、これを模す例が多い【リンク:空海の書 画像集】。

《最澄も使用していた、毎+水≒海の例》 
のちに袂を分かつことになったが、書簡『風信帖』にみるように、もともと最澄と空海は親密であった。
最澄は802年(延暦21)
桓武天皇より入唐求法ニットウグホウ還学生ゲンガクショウ(短期留学生)に選ばれた。

その2年後、804年(延暦23)空海も正規の 遣唐使 の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡ったが、なぜか滞在わずか二年にして帰国した。
入唐ニットウ直前まで、ひとりの 私度僧 にすぎなかった空海が、突然国費による留学僧として浮上する過程と、その滞在期間のあまりの短かさは、こんにちなお多くの謎をのこしている。
いずれにしても空海は、史実よりも伝承につつまれたひとである。

弘法大師請来目録 巻首 伝教大師筆

弘法大師請来目録 巻末 伝教大師筆

資料6)  『弘法大師請来ショウライ目録』 伝教大師最澄筆
       紙本墨書 縦27.1センチ、横全長885.0センチ 平安時代(9世紀) 京都東寺蔵
空海が唐から持ち帰った法文、仏具、仏画などの目録である。空海は804年(延暦23)唐にわたり、806年(大同元年)8月に帰国した。同年10月22日唐から持ち帰った経巻などを目録として朝廷に上奏した。

本巻は空海自筆とされていた時代もあったが、その書風と、17紙におよぶ料紙の継ぎ目のすべてに捺印されている「延暦寺」の朱方印などから、最澄の筆写であることに争いは無い。いっとき最澄は空海から真言密教をまなんでおり、この目録もその過程で空海から借用し、筆写したものとみられている。
図版には巻首部と巻末部を掲げたが、「空海」がすべて「空 毎+水≒海」になっている。とりわけ巻末の跋文バツブンと、日付、署名にみる「空 毎+水」は、いかにも苦しげにみえるのは気のせいだろうか。
説文解字第十一上 水部1 説文解字第十一上 海 説文解字 海資料7)  『説文解字 影印本』
       東漢・許慎撰 趙 國華編輯 黄山書社 2010年10月
説文解字 影印本『説文解字』は中国最古の部種別字書。中国字学の基本的古典で全15巻。東漢の許慎が撰して西暦100年(永元12)に成った。
540の部首にわけ、「正文」として小篆を字頭に置き、9,353の文と字を解説 → 説文解字したもの。
また古文[ふるい字画]、籀文[チュウブン ≒大篆]、异体[イタイ ≒異体字]、重文[≒合分・成句]など、1,163字も紹介している。したがって「文を説き、字を解する」ために、133,441字からなっている。
許慎は「海」を、「天池也 以納百川者 从水 毎聲 呼改切」、意訳「幾百もの川の水を納める、おおいなる池なり。水(氵)の部首に从(従)う。声(漢字音)はマイ、バイ、ハイ hai なり」としている。

中国(台湾)には、こうした影印本や、批評と注釈を加えた批注本の『説文解字』がたくさん発行されている。
8-9世紀をいきた空海(774-835)が、西暦100年に成った、許慎『説文解字』に関心を寄せていたなら、こんにちのわが国の字学 ≒ タイポグラフィは、そうとう異なった姿になっていたとおもうことがある。 

《なぜか気になるひと、空海のこと》
まだ中国旅行がきわめて不便だったころ、盛唐時代のみやこ 長安、現在の西安をたずねたことがあった。そのとき空海が西明寺に滞在しながら、恵果(ケイカ、エカ 746-806)から真言をまなんだとされる、西安郊外の「青龍寺」をおとずれた。
恵果は、不空【フクウ、(Amoghavajra)、705-74 中国版百度百科:不空】の弟子で、空海の声望をきいてその来訪を待ちわび、その真言の一切を伝授したとされる。
中国での資料は、インド僧ともされる不空に関しては饒舌だが、恵果【ケイカ、エカ 746-806 日本語版ウィキペディア:恵果、中国版百度百科:恵果にはみるべきものは無い】に関しては、なぜかわが国の資料からの引用にとどまる。
当時は現地のガイドも「青龍寺」の所在地を知らず、ずいぶん苦労して「青龍寺跡」にたどり着いた。

小高い丘、ひろい野菜園(はたけ)のなかに、ちいさな堂宇がポツンとあり、中には老婆がひとりで埃をかぶった土産物を並べているだけだった。
堂宇の周囲には、日本の真言の寺が寄進建造した、こぶりな碑や仏塔がいくつかならんでいた。一時間ほど周辺を歩きまわったが、やつがれらのほかにたれひとりとして、このちいさな堂宇をたずねるひとは無かった。

《現代の、これからの「文」と「字」のありようへの希望》
上に掲げた地図は、「長安城復元図」(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)である【リンク:地図の拡大版】。唐王朝第二代、貞観ジョウガンの治をしいた皇帝・李世明(リ-セイミン 598-649)に仕えた褚遂良(チョ-スイリョウ 596-658)の自邸、そして李世明の長男で自死させられた隠太子廟なども描かれているので、盛唐時代とされた6-7世紀の記録とおもわれる。

現在の西安のまちの城壁は明代に造築されたもので、上図の盛唐時代の広壮な長安城の 1/4 ほどの規模になっている。
空海がここをおとずれた唐時代の長安城(まち)は、三蔵法師の尊称で知られる、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602-664)が、インドから持ち帰った仏典の訳教にあたったとされる、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、下図の右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。
盛唐時代の「青龍寺」も城内にあった。下図では右下寄り、第五街皇城東第三街としるされた道に面し、延興門のすぐ脇の「新昌坊」にあった。
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数年前、北京オリンピックが終わったあとに西安に友人ができて、かれの案内でふたたび「青龍寺跡」をおとづれた。そこはすっかり「日本人向けの観光地」になっていて驚いた【日本語版:ウィキペディア:青龍寺 中国語版:百度百科:青龍寺】。
それでもここを再訪してはじめて、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)のうまれ、空海こと、佐伯眞魚サエキ-マオ、諡号で弘法大師とされる人物は、たしかにこの地に立っていたと実感することができた。
そして「文」と「字」に夢中になり、その反古ホゴや欠片カケラのようなものまでの一切合切を、一気呵成の勢いで頭陀袋ズダブクロにほうりこんで、あわただしく祖国日本に戻ったのであろうと想像すると、なにかほほ笑ましいものがあった。そのころ空海は、数えて32-33歳のときであろうか。

こうした空海を、風景として描いたのは司馬遼太郎であった。
やつがれにとっての空海とは、「文」と「字」のひとである。
空海は「字」の成立の背後にひそむ、「文」の「咒ジュ性 乃至 呪ジュ性」、あるいは単にその神秘性といいかえても良いが、それに惹かれたのではないかとおもう。それがして空海を宗教ひとたらしめた。
したがって宗教ひと、それもあらたな宗派の開祖として耳目を惹きつけるために、「海」の字の結構(偏と旁)を左右型から上下型とし、旁の部首を「氵から水」として、「毎+水 → 海」とした、空海の心象風景に、衒学趣味をみるとはいえ、これはこのひとに独特の パフォーマンス Performance として看過すべきことだとおもう年齢にたっした。したがっていまでは、
「オイ、空海さん、あなたはとても面白いな」
と、声をかけたい気持ちになっている。

たしかに中国にとどまらず、エジプト、中東、インドなどにおける、ふるい時代の伝達記号、「文」のおおくが、そして「字」の一部も、古代宗教の神官の手になったものがおおく、そこに霊感や神秘性のごときものをみることはある。
それでもやつがれは、そうした「文」と「字」の背後に埋み火のようにひそむ咒性や神秘性は、できるだけソッとしておくべきだと考えている。そのため「字」におおきな神秘性をみていたであろう、武即天による、いわゆる「則天文字」は、これまでも触れてきたこともあり、今回はあえて触れなかった。

むしろ、天下万民のリテラシーが向上した現代にあっては、「文」と「字」とは、普遍の、おおやけの、正確な伝達記号でありたいとおもうのがやつがれのいまである。
そしていつかまた、『空海の風景』をカバンに忍ばせて「青龍寺」に立ち、「文」と「字」につよく惹かれたであろう空海の、こころの風景をかたりあいたいとおもうのである。

《追加項目:お詫びと訂正 ──────── 中国版電子データ『漢典』のご紹介 2014年01月09日》
本項は2014年01月04日に掲載した。新年始業後、たまたま「畑」と「畠」の異同をしらべるために、時折訪問する中国版「字」のデータ【 漢  典 】にあたっていた。ついでに、なにかと気になる「海」にもあたってみた。
そこでナント! 【 漢典 海 】の「异体イタイ字 ≒ 異体字」に、下図の「异体イタイ字 海」が掲載されており、なおかつユニコード番号がまでが振られていた。
基本 CMYK

上掲のみっつの「字」が【漢典】には、いずれも「海」の「异体字 ≒ 異体字」として紹介されていた。字のコードはいずれもユニコードで、左からU+23CD7, U+23CE0, U+23D34である。近近買い換えを迫られているやつがれのウィンドウズXPでは表示できないが……。
しかもである。やつがれが調査済とした『玉扁』、『康熙字典』に「毎+水 海」が掲載されているという。

大慌てで『玉扁』を調べた。この字書は中国・梁の顧 野王撰、30巻で543年になった字書である。悲しいことにやつがれの所蔵書は、明治初期のわが国における活字本で、「毎+水 海」は紹介されていなかった。
しかしながら空海は『玉扁』をみることができたはずだし、こうした偏と旁をかえた「結構」の「海」は、当時の中国にあって、空海が実見していた可能性が否定できないことになった。

また『康熙字典』は複数所有しており、もっぱら使い勝手の良い活字本をつかっていた。そこでもう一度、影印本『康熙字典』(張 引之校改 上海古籍出版社 1996年1月)にあたってみた。結果は下図に掲げた。
「海」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十一丁最初の行にあり、その最末部に「毎+水 〔集韻〕或作 毎+水」がある。
「毎+水」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十六丁二行目最上部にあり、たしかに「毎+水 〔玉扁〕同海」とされていた。
『康熙字典』「毎+水」_ページ01 『康熙字典』「毎+水」_02まこともって、正月休暇をつぶしてポチポチしるしてきたことだが、しまりの無い仕儀となった。
ここに読者の皆さまにご報告するとともに、お詫びとともに、改めてご報告した次第である。
(この項2104年01月09日しるす)