《活字・図書離れが語られ、取次・書店の不振もあらばこそ――怒濤の勢いの北方謙三》
テレビ・新聞・図書出版・雑誌・印刷・製本など、ほとんどのメディア産業が総崩れとされ、青息吐息、気息奄奄、意気消沈のさなか、ひとり<集英社 北方謙三大水滸伝コーナー>が気を吐いている。
ここには先の<Club 楊令伝>のときと同様に<Club 岳飛伝>が結成され、逐次刊行される文庫版の発売日直前に、北方謙三名義で集英社から下掲のようなメールが配信される。
登録、ありがとう。これから、月に一回ずつメッセージを送る。
『岳飛伝』の本筋には関係ないが、知っているとにやっと笑ってしまうような、そんなことが伝えられればいい、と思っているよ。
じゃ、今度の発売日に。 北方謙三
集英社文庫 『岳飛伝』読破応援企画 ・ Club 岳飛伝
つまりやつがれ、北方謙三(以下ケンゾー)の読者(けしてファンではない⁉)として、<Club 楊令伝>のときと同様、<Club 岳飛伝>にも参加している。
北方謙三『岳飛伝 第一巻 三霊の章』 四六判図書
したがって、『大水滸伝』全51巻のうち、『水滸伝』全19巻の四六判図書と文庫版、『楊令伝』全15巻の四六判図書と文庫版をすでに所有し読破ている。もちろん『岳飛伝』全17巻の四六判図書は購入済みである。
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{新宿餘談}
ケンゾーの粗放で語彙のすくない(失礼。豪放にして簡潔な)文章を読むと、なまの立木に一刀彫りで刻んだ円空仏をみたような妙な衝撃がのこる。
つまりことしの05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついにというか、ようやく、北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結して安堵した。
たまたま家人が書棚をすこし整理してくれた。それを好機としてケンゾー離れを意図して、ほかの作家の図書にとり組んだがどうもうまくいかない。
とりわけ併読していた宮城谷昌光や、葉室 麟、浅田次郎はかえって抵抗感があった。
そこでふるい蔵書の三島由紀夫や川端康成など、語彙を駆使し、情感たっぷり、丁寧に書きこまれた図書に触手をのばしたものの、リズム感に欠け、情景描写が多すぎたりして鼻についた。
つまりケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達にも悪影響があるような気がする。
とどのつまり、ミシマもカワバタも中途で挫折して、結局はケンゾーの『史記』と『三国志』をもう一度読みなおしている惨状下にある。
ケンゾー『史記』は全七巻、ケンゾー『三国志』は全14巻である。
もともと吉川英治の『三国志』で長編小説のおもしろさを知り、司馬遷の『史記』に読みふけったやつがれであるからして、ケンゾー作品は原典無視もいいところである。したがって地下にある原作者にして厳格をもってなる史官の司馬遷は、ケンゾーの『史記』の存在を知ったら、悲嘆にくれるに違いないとおもえる。
ところがケンゾーはそんなことは一切頓着せずに、速く駈ける軍馬のこと、馬の乳から醸った酒はまずいが米の酒はうまいだの、射殺した鹿の骨つきのナマ肉に、手づかみで喰らいつくだの、死の床で家族に手を握られながら迎える漢オトコの死など、恥辱以外のなにものでもないなどととわめきちらし、戦場に疾駆し、全身に矢をあびてなお倒れず、絶命するのが真の漢の死だと断定するのである。こんなケンゾーにはただただ呆れるしかなかった。
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集英社からケンゾー名義の@メールがきた。
集英社文庫『岳飛伝』全17巻が11月18日[金]から発売されるとあった。
その日は帰宅をはやめ、近くの書店でケンゾーの集英社文庫『岳飛伝 第一巻 三霊の章』を買った。
うれしくもあり、どこかなさけなくもあった。
繰りかえすが ケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達(衰退の促進)にも悪影響がある気がするのである。
これがして、ひそかに読者諸賢におすすめするゆえんである。