『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年
著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ
版元 : 幻冬舎ルネッサンス新社
ISBN9784779005091
価格 : 1300円+税
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【 内容紹介 】
「いつお発ちになりますか?」航空会社からの電話がきっかけで、ひとりギリシャへ向かったノリコ。空港で彼女を待っていたのは、仕事で一度会っただけの、29歳年上の弁護士ミスター・ジョージだった。
ちょっと行ってくるつもりだったのに、一ヵ月後にプロポーズを受け、帰国することなくジョージと結婚。二人の息子と、ガイドという天職に恵まれて、あっという間に40年が過ぎた。
父の想いと母の教えを胸に、古希を迎えた現在もギリシャ政府公認ガイドとして活躍。
トレードマークの傘を片手に、著名人や企業、団体、学生や一般の観光客などをガイドし、ギリシャの魅力を伝えている。何があっても前向きに明るく生きる著者の人柄とユーモアがあふれ、読んでいるうちに元気になる半生記です。
【 著者紹介 】
1939年佐賀県生まれ。佐賀県立鹿島高等学校を経て、長崎県の活水女子短期大学英文専攻科を卒業。
1968年単身ギリシャに渡りヨルゴス・モネンヴァシティスと結婚。古澤宣子からノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティとなる。
1976年ギリシャ政府公認ガイド免許(ギリシャ語、英語、日本語)を取得し、現在もガイドとして活躍中。ギリシャ・アテネ在住。
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{ 新宿餘談 }
例年年末年始にかけて、連れのノー学部は郷里の母親のもとに帰省する。その間、家事一切、まったくなにもできないやつがれは、なにがどこにあるやら、なにをどうしたらよいのかわからず、ただ途方にくれる。
所在なく書棚をあさり、一番手前にあった連れの愛読書、『おにぎりオリーブ赤いバラ』をなんとなく手にした。そしていつの間にか耽読していた。
『おにぎり オリーブ 赤いバラ』は好評のようで、第二版の刊行をみている。
著者のノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティさん(旧姓:古澤宣子)は、アテネ大学出身の弁護士であったご主人、ジョージこと、ヨルゴス・モネンヴァシティス氏には先立たれたが、ふたりの息子さんにかこまれてお元気のようである。
ノー学部とはいつの間にか「メル友」になっていて、このごろはしばしば cc 添付でやつがれも@メールを頂戴している。
ご親族に、著名なヴァイオリニスト 古澤 巌氏 がおり、著者はアテネの「ヘロド・アティクス 音楽堂」で演奏会を開くのが「私の夢であり、使命だとおもっている」と同書で述べられている。
この音楽堂は西暦161年アテネの大富豪ヘドロによって建立され、およそ五千人の観客を収容可能だそうである。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、ギリシャ悲劇・喜劇をはじめ、音楽会・バレエ公演などが催されるという。
この「ヘロド・アティクス」は、わが国からも小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを伴って指揮をしているし、2004年8月のアテネ・オリンピックの際には、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演によるギリシャ悲劇『オイディプス王』が上演されている。
蜷川幸雄 が逝ってまもなく一年になるが、このひとはそれ以前にも、平幹二朗 主演による『王女メディア』を成功させ、日本でもギリシャでもいまだに語りぐさのようである。
一冊の図書、『おにぎり オリーブ 赤いバラ』が結んだ奇縁ではあるが、@メールの開始に際しては在京の古澤ご一族にもお世話になった。したがって「のりこさん」の夢の実現のために、万分の一のお手伝いができたらうれしくおもう。
《 長崎のアクロポリス、そして、東京のアクロポリスとは いずこに 》
「のりこさん」は佐賀県の代代の旅館にうまれた。父君は佐賀県庁勤務の建築技術士、五人兄弟の次女で、四姉妹で、末っ子に長男がいる。大学はミッション系の 活水女子大学 (2005年短期大学は廃止されている)に通われた。
活水女子大学は長崎の観光コースのひとつ「オランダ坂」をのぼりつめたところにある。この坂ののぼり口のホテルはやつがれのお気に入りのホテルで、何度か宿泊している。ところが、石畳がしかれた急峻なオランダ坂の「景色」はみているが、その勾配におそれをなしてのぼったことはない。
いずれにせよ、「のりこさん」とやつがれとの共通項は、いまのところ世代がちかいことと、「長崎」のまちということになる。
『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
日本に旅行したギリシヤ人グループの皆さんが、東京で「はとバス」観光中、
「ねェねェ、東京のアクロポリスは、一体どこにあんのよ」
と、ガイドさんに質問したとか。彼らにしてみれば、当然な質問ではある。
古代ギリシヤでは、紀元前九世紀頃より、ポリスと呼ばれる都市国家が成立していた。ポリスは大小さまざまで、その頃のアテネは人口約三十万人。それぞれが独立し、独自の政治を行っていた。
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。
ポリスは通常城壁で囲まれ、その中にある小高い丘、つまりアクロポリスは、守護神を祀る聖域であり、戦争の際には市民を守る要塞でもあった。
アテネのアクロポリス北麓に、当時政治・経済・文化の中心地であったアゴラが広がり、南斜面には、野外音楽堂が位置している。
この音楽堂は、ヘロドーアティクスと呼ばれ、一六一年アテネの大富豪ヘロドによって建てられ、彼は亡き妻レギラに捧げた。アーチ型の大窓を持つ典型的なローマ時代の建築で、約五千人収容可能。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの悲劇をはじめ、アリストファネスの喜劇、音楽会、バレエなどが催される。
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『世界大百科全書』(小学館)
【 アクロポリス akropolis 】
古代ギリシア都市(ポリス)の中核の丘。自然の丘を防壁で固め、その中に都市の守護神などの神殿を建ててある。非常時には最後の根拠地となるが、全市民を収容するため町全体にも城壁が巡らされるにつれて,軍事的よりも宗教的・精神的な中心となった。
代表的なのはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
今日では前5世紀後半の状態に可能な限り復元され、プロピュライア(楼門)、ニケ神殿、エレクテイオン、パルテノンが建ち、崇高な景観になっている。
南斜面にはディオニュソス劇場、オデオンなどの文化施設も建てられ、北側の麓の平地のアゴラ(広場)には政庁や市場があった。
アテナイ西隣のメガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つのなだらかな丘。
コリントスのものは、市の背後にそびえる巨大な丘で、アクロコリントスと呼ばれ、頂上にアフロディテ神殿などがあった。
アルゴスでは大小二つの丘がアクロポリスとして固められ、大きい丘の斜面に劇場、麓にアゴラがあった。
スパルタのものは目だたない低い丘で、上に神殿があり、ヘレニズム時代には南斜面に大劇場がつくられた。
これらは機能的にも美的にもアテナイのものに比すべくもないが、ロドス島のリンドスでは海に臨む断崖を利用して絶景となっていた。
『おにぎり オリーブ 赤いバラ』は、序章に「始まりは一本の電話から」がおかれ、
第一章 アテネの道
第二章 ギリシャは魅力がいっぱい
第三章 ギリシャ政府公認ガイドになる
第四章 それからの私
からなる。四六判 並製本 240ページの好著である。
おチビさんだったという娘時代のこと、厳格なミッションスクール活水でのおもいで多い学生生活、のちの夫:ジョージとの出会いなどが、てらいの無い平易な筆致で淡淡と描かれる。キリスト正教(トリニティ)の洗礼や受洗名(ミドルネーム)のことなどを興味深く読み進めた。
ところが第三章に紹介された「アクロポリス」の記述に、「そうだったのか!」と膝をたたくおもいであった。繰りかえしになるが「のりこさん」はこう述べていた。
〔アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる〕
ギリシャもわが国と同様に島嶼国家である。そして真っ先に脳裏に浮かんだのは、「長崎のアクロポリス」の光景であった。
すなわち長崎の地形と、現在の長崎県庁の前の案内板「岬の教会 西役所全景」の絵図と、その下部におかれた「イエズス会本部跡・奉行所西役所跡・長崎海軍伝習所跡」の解説であった。
「ここ長崎県庁は、長崎のアクロポリスだったのではないか」
そして「のりこさん」が学んだ活水女子大学(現:活水東山手キャンパス 長崎市東山手町1)も、もうひとつのアクロポリスだったのではないのか? というおもいであった。
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戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、中島川右岸(上流からみて右側)の、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたといわれている。
古地図をみると、その後埋め立てによって「出島」がつくられたので紛らわしくなっているが、県庁前庭にたつと、アテネのアクロポリスと同様に、海にむかってなだれ墜ちるような地形がのこる。
すなわち現在の長崎県庁所在地のあたりは、戦国時代には「岬上の町」と呼ばれていたようである。ここを中心とする長崎は、天正8年(1580)領主でありキリシタン大名でもあった大村純義によってイエスズ会に寄進されて「岬の教会」が設けられた。
この尖塔をもった建物は、入津してくる南蛮船(ポルトガル船)にとっては格好のランドマーク(陸標)であったろうし、長崎の住民(キリスト教徒)にとっては宗教的・精神的な中心となったとおもわれる。この時代、大村藩(現長崎空港の陸地側一帯)と長崎は、キリスト教一色に染めあげられていた。
その後天正15年(1587)、九州征伐を達成した豊臣秀吉は、長崎を没収して直轄領とし、キリスト教に厳しい姿勢に転じた。
文禄元年(1592)、長崎支配のために岬の上に奉行屋鋪(奉行所)が置かれ、のちに長崎奉行所西役所となり、幕末には長崎海軍伝習所がおかれた。そしていまは長崎県庁がおかれている。すなわち祭祀の地から転じて、軍事的・政治的・そして行政の中心となった。
【 参考URL : 平野富二 古谷昌二ブログ/町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡 】
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《東京のアクロポリスをもとめて、五月の連休にアテネ弾丸旅行を予定》
正月早〻斯様な次第で、それ以来熱病にうかされたように「東京のアクロポリス」を探索している。手がかりはすでにある。そのためにギリシャに行くことを「承諾」した。
というのは、ノー学部は年に一回、超過密スケジュールで海外旅行を設定している。同行するやつがれの喫煙癖のために、比較的「嫌煙」に喧しくない国を選んでくれているが、ことしはギリシャ旅行を昨年夏には決めていた。
ところがやつがれは、先年いったプラハへの三回目の旅を主張していた。
それには一切構わず、ノー学部は勝手にギリシャ神話・ギリシャ案内などの図書をどっさり買いこんでいた。そのうちのお気に入りの一冊が、『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年(著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ のりこさん)だったということになる。
訪問地はアテネと{アトランティス大陸伝説の「テラ(サントリーニ)島」}。アトランティスはもちろん当面はノー学部に任せている。
やつがれは希臘アテネのホテルのテラスで、煙草をくゆらせ、グリーク珈琲をたのしむだけでよい。
ホテルはさほどの料金ではないが、ともかくアクロポリスの眺望がウリのホテル。しかもテラスからはライトアップされたパルテノン神殿が眼前に展開するという。ネットのホテル情報はあまり信用しないが、多くの外国人ブロガーがそのホテルを絶讃していた。
ところで、五月ついたちは「メイデー」。勤労精神にいささか欠けるギリシャでは、真偽のほどはふたしかだが、タクシーはおろか、バスや電車などの公共交通機関も停止するとの情報がある。
そこでメールを往復させて、「メイデー」の日に、ホテルのテラスへ「のりこさん」をご招待することにした。
『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。
当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。
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『世界大百科全書』(小学館)
【 アクロポリス akropolis 】
代表的なものはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
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間もなくギリシャへの旅にでる。「のりこさん」にお会いできる。
ただ日頃「動かざること山のごとし」と嘯き、運動不足の極致にあるやつがれ、「60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘」を這いあがり、よじ登ることができるか、いささかの不安がのこる。