紙の博物館 ── 王子
ミニ展示「紙漉重宝記」
会 期 2018年06月16日[土]-2019年03月03日[日]
休 館 日 月曜日(9/17、9/24、10/8、12/24、1/14、2/11は開館)
『紙漉重宝記』は、江戸時代後期に石見(現 島根県)の紙問屋、国東治兵衛によって刊行された初の紙漉き解説書です。図絵を用いて分かりやすく説明され、英語、ドイツ語、フランス語などにも翻訳されています。
今回は『紙漉重宝記』の内容を、パネルで分かりやすくご紹介いたします。
* 当展はパネルのみで構成し、現物資料の展示はございません。
【詳細: 紙の博物館 】
{ 新 宿 餘 談 }
「王子の<紙の博物館>が子供のころからの遊び場だった」とされる、原啓志さんによる講演会{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}が続いている。
また紙の博物館では、7月20日-8月31日「夏休み図書室自由研究フェア」が開催され、また、すこしさびしくはあるが、特別展や企画展ではなく、ミニ展示「紙漉重宝記」がおよそ八ヶ月間の長期にわたって開催されている。こんな時こそ普段は見過ごしている常設展や図書室をじっくり観る機会としてとらえたい。
そこで炎暑をものともせず、国立国会図書館が公開している『紙漉重宝記』(請求番号 特1-3415)を読んでみたくなった。ところがなにぶん例の江戸期通行体「お家流書風」でしるされているために、判読に難航することになり、畏兄の古谷昌二氏に釈読をお願いした。
また事前に、「石見産紙の祖神」とされ地元で尊崇され、『紙漉重宝記』の冒頭部に登場する歌人:柿本人麻呂と柿本神社に関して、手元資料から調査した。
詳細は紙の博物館での紹介にゆずり、ここでは冒頭部の「柿本人麻呂」の歌(二ページ目)と、十一ページ目「とろろ草の種類」を、国立国会図書館蔵書による元版と、古谷昌二氏による釈読挿入版とで紹介し、紙の博物館での観覧の予習として、{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者に配布し、あわせてその一部をここに紹介したい。
『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏
【柿本人麻呂-かきのもとのひとまろ】
生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣-あそみ。奈良朝(710-)以前に活動した。〔『万葉集』成立以前の〕「人麻呂歌集」歌に、「庚辰-こうしん-年」(天武天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673-686)にすでに活動していたことが知られる。
また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌-あすかのひめみこばんか-(巻2・196-198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。このように柿本人麻呂は天武・持統朝を中心に、文武朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686-697)に集中している。
人麻呂の活動は天武朝にはじまるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌-いわみそうもんか(巻2・131-139歌)によって、石見国〔旧国名、いまの島根県西部〕に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249-256歌、303-304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。
なお、石見国での臨死歌とする「鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものとおもわれ、石見での死は信じがたい。
[参考:『日本大百科全書』小学館 神野志隆光]
※ 補 遺:ウィキペディア「高津柿本神社」には、上掲紹介とおなじ(巻2・223歌)は、辞世の歌として、「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」とされている。
歴史
晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌[『万葉集』巻2所収(223)]を詠んで、益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという。
【柿本神社-かきもとじんじや】[現]島根県益田市高津町
高津川左岸、東へ張出した鴨山-かもやま-にあり、主祭神は柿本人麻呂命。旧県社。神亀元年(七二四)柿本人麻呂が没した鴨島に社殿が建立されていたが、万寿三年(一〇二六)の地震による大津波のために島は海中に没したという。このとき神体が松崎に漂着し、この地に社殿を再建。延宝九年(一六八一)津和野藩主により現在地に移転再建された。
霊元上皇〔1654-1732〕の時、和歌において当社をとくに崇敬され、古今伝授にあたり当社に祈祷を命ぜられた。のちに宸筆の御製を奉納された。御製は霊元上皇・桜町天皇・桃園天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇まで、各時代の御製五〇枚、合計三〇〇枚の短冊が奉納された。
本殿は正徳二年(一七一二)の建造で、正面三間・側面三間、単層の朱塗の入母屋造妻入で、屋根は檜皮葺である。正面に唐破風の向拝を設け、背面を除く三方に高欄付縁をめぐらし、正面一間に縁付木階を置く。殿内は亀井家の四ッ目結び紋をつけた板扉によって内陣と外陣に画され、内陣の須弥壇に等身大の人麻呂神像が安置される。この本殿の形式は県内には類例の少ない建造物で、複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と豪華さが特筆される。県指定文化財。
享保八年(一七二三)柿本人麻呂千年祭にあたり、正一位柿本大明神の宣下があり、歌聖人麻呂に和歌を手向けて歌道の上達を祈念する風潮が流行。特別に法楽が行われ、歴代の天皇をはじめ親王や公卿の和歌も短冊に記されて数多く奉納された。
現在の柿本神社の社地一帯は中世の高津城跡であったが、江戸期に亀井茲親が大々的に社殿の造営をおこなったため、城跡としての面影は失われた。出丸鍋島-なべしま-も昭和四七年(一九七二)の切崩しでまったく旧観はない。高津小山-たかつこやま-城ともいう。高津川と沖田-おきた-の間の尾根の先端に築いたもので、北・東・南の三方は急峻で、西方は掘切った独立丘である。
[参考:『日本歴史地名大系』平凡社]
『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏
〇『紙漉重宝記』 二頁目
是を漉(すか)しめ、彼地(かのち)へ渡(わた)すにより、大に悦び是を賞(しやう)せし事書に伝(つた)へて詳(つまびらか)なり。唐土(もろこし)の製(せい)は今の唐紙(たうし)の類(たぐひ)のみなり。此紙書画(しょぐわ)の類(るい)の外(ほか)用ゆ事稀(まれ)なり。実(じつ)は下品(ひん)と謂(いひ)つべし。
御国のごとき紙の生(しやう)ずる事、異国(いこく)になし。これを扱(あつか)ふ賈人(あきうど)是等(これら)の事をさとり必(かならず)おろそかにする事を傷(いた)むべし。此紙、石州鹿足郡(せきしゅうかのあしこほり)美濃郡(みのこほり)の間(あいだ)に遺跡(いせき)せし事疑(うたが)ひなく、隣郡(りんぐん)浜田御領(はまだごりょう)、土州(としう)豫州(よしう)大洲(おほす)等(とう)各々(をのをの)彼地(かのち)より伝(つた)ふ。訳(わけ)て正一位柿本人麻呂明神是(これ)を製(せい)する御祖神(おんそしん)たれば、これを仰(あを)ぎ、尊敬(そんきゃう)すべし。世人(よのひと)其神慮(そのしんりょ)を知(し)らざるを歎(なげ)きかくふのみ。
〇『紙漉重宝記』 三頁目
「人麻呂(ひとまろ)の像(ぞう)」
石州美濃郡高角里に鎮座
[古谷昌二 釈読①]── 画像に挿入した釈読は ①
かもやまに/いわねしまける/我(われ)を/かも/知(し)らすと/いもか/待つゝ/あら/なん
[古谷昌二 釈読②]
鴨山に/磐根し枕(ま)ける/我を/かも/知らずと/妹が/待ちつつ/あら/なん
[『日本大百科全書』紹介/人麻呂歌集:巻2・223歌 釈読版]
鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ
[ウィキペディア 高津柿本神社](巻2・223歌)
鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん
古歌や古詩には異本がさまざまにあり、このような異同がしばしばみられる。ここでは古谷昌二氏の釈読を紹介した。
【 補 遺 2】
本項アップロード後に、古谷昌二氏より以下のようなメッセージを頂戴した。
人麻呂の歌について、当初は「いわねしまける」の意味がすっきりしないまま、太い根(磐根)を巻く(束ねる)と解釈しましたが、役人として赴任したとされる柿本人麻呂がこのような作業はしないはずですから疑問に思っていました。
改めて古語辞典を確認して、「まける」が「枕ける」と読めることを知りました。
これならば、「トロロアオイの太い根を枕にして寝ている」としてすっきり理解できます。
「いわね」については、「岩の付け根」の意味もあり、山中でもあるので、「岩を枕にして寝る」と解釈するのが一般的かもしれません。
すなわち、当時のひとは、人麻呂 ⇒ 紙 ⇒ トロロアオイの太い根と連想できたのではないでしょうか? [古谷昌二]
「とろゝ草(くさ)の種類(しゅるい)」
大豆(だいづ)小豆(せうづ)を作(つく)る
時候(じこう)等(ひと)し
春(はる)生(しやう)じ、花さく。花の中に
実(み)を生ず。ちいさく六角(かく)為(なり)。
胡麻(ごま)に似(に)たり。虱(しらみ)に似(に)たり。
これを塵(ちり)紙等漉(すく)う
用ゆ其(その)紙いろ赤(あか)くなる
としるべし。
〇『紙漉重宝記』 十二頁目
花しほるゝを引(ひき)ぬき、
五月梅雨(つゆ)の間(あいだ)に干(ほ)し、
かくいふ之根の大きさ
八分位(くらい)長く午房(ごぼう)の
ごとし。石原(いしはら)に出来(でき)る
は尺(たけ)短(みじか)し。
売買銀壱匁に
かけ目百廿目
安き時は壱匁に
かけ目五百目
ひげ皮(かわ)をこそげとり、擲(たゝ)く。
其(その)製(せい)とろゝ汁(しる)のごとく
水をさし入るゝなど、やはらか
に成としるべし。猶(なを)、かげん
あるべし
紙漉(すき)一船(ふね)に壹升ほど入と
心得べし
尤(もっとも)、はいのうにてこし、小桶(こをけ)に入
置(おき)、入用程づつつかふ。
紙漉重宝記-かみすきちょうほうき 参考:寿岳 文章(『国史大辞典』、吉川弘文館)
篤農家、国東治兵衛-くにさき じへい-の著書。一巻。寛政十年(一七九八)刊。
著者の遠祖は豊後国稙田-わさだ-郷(大分市)にいたが、いつのころか同国 国東郡-くにさきぐん-に移って国東を名のり、江戸時代石見国美濃郡遠田村(島根県益田市)に定住した。
治兵衛の生まれたのは元禄の末ごろと思われるが、生没年はつきとめられていない。享保十七年(一七三二)の大飢饉に触発されて、豊後(大分県の大部分)や、備後(広島県の東部)から藺草-いぐさ-をとりよせ、藺筵-いむしろ-の生産を年間六十万枚にのばすなど、殖産家としての業績も多いが、彼の名を後世内外に伝えることとなったのはこの小著。
紙問屋の主人でもあった彼が、名所図絵の画工:丹羽桃渓に挿絵を画かせ、方言もとり入れ、商品となるまでの石見半紙のすべてについて語ったもの。啓蒙的な著述ながら、製紙を図解した最初の書物であり、山村紙すきの苦労も視覚的にしのばれるためか、和紙文献としては最も早く海外に知られ、英・独・仏語による翻訳があとをたたない。本邦でもしばしば翻刻・複製された。『日本科学古典全書』、『製紙印刷研鑽会叢書』などに収められている。
[参考文献]矢富熊一郎『国東治兵衛翁之治蹟』
トロロアオイ/黄蜀葵
アオイ科の一年草。中国原産。草丈は本来2メートル近くになるが、最近は0.5-1メートルの丈の低い品種が多く栽培されている。葉は互生し、葉柄が長く、掌状に深く裂ける。
夏から秋、淡黄色で中心部が濃赤紫色、径15-20センチメートルのおおきな五弁花をつける。花は1日でしぼむが、茎の下位から上位へと順に次〻と開く。植物体全体、とくに根に粘質物を多く含み、これを手漉き紙を漉くときの糊料(ネリ)として利用する。また花を観賞用・食用ともする。糊原料をとるための栽培では、開花・結実させないために、つぼみがついたら先端部を刈り取って根に養分をたくわえる。
[参考:活版アラカルト[艸木風信帖]{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者のあいだで「フラックス 亜麻」が開花しました]