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宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-01

 

商標_聚珍倣宋印書局マークDSCN0899商標_聚珍倣宋印書局
《 稀覯書 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 について 》
2013年6月と11月、2014年01月と 中国 ・ 北京を訪問した。 さまざまなひとにおあいし、さまざまな企業、さまざまな場所にいった。 そのとき、なにかとやつがれらをサポートしていただいたのが 「 シンさん 」 であった。

11月の訪問のおり、「 シンさん 」 が、
「 大切にしている図書です 」
といって鞄から取りだしたのが、『 聚珍倣宋版式各種様張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう 』 であった。

そのときは撮影をゆるされ、01月に再会した折には低解像度の複写版をいただいた。 いずれきちんとした研究者の手によって、まとまった形での発表を 「 シンさん 」 は望まれていた。

もともと宋朝体活字にはこだわりがあった。 それ以来やつがれは、この資料と 「 宋朝体活字、聚珍倣宋版、仿宋体活字 」 の様様な資料を、折に触れては取りだして、周辺情報との突き合わせをしていた。
ところで最近、「 シンさん 」 が同書を北京のタイポグラフィ ・ イベントに展示したところ、SNS メ ディアに一斉に画像がながれてしまったという。
「 シンさん 」 は同書を個人所有していることを公表しないとしていたにもかかわらずである。展示会は撮影禁止で、鍵付き硝子ケースのなかに入れてあったのにと嘆いていた。

もちろん SNS メディアのユーザーの一部であろうが、昆虫採集に熱中する少年のように、ともかく目新しいものに飛びつき、あるいは、あたかも脊髄反射のようにメディアに掲載してしまうのは、わが国でもしばしば見られるところである。
こんないきさつがあって、「 シンさん 」 はやつがれに、はやい発表を督促してきた。 ところがやつがれは 「 きちんとまとめる 」 ことを苦手とする。すなわち適任ではない。

《 わが国の基幹書体の明朝体に愛着はあるが、さらなる発展を望むには おのずからなる限界がありそうだ 》
近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。
明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

さりながら、明朝体活字の初期開発は、近代化という名のもとに、欧米における産業革命の成果をとりいれ、さまざまな機器をもちいて開発された活字書体である。
明朝体活字は、ひろくは中国の楷書のカテゴリーにありながら、開発初期に、すでにモダンスタイル ・ ローマン活字をうんだ西洋合理主義の影響からか、造形としての 「 字 」 をあたかも突きはなすような姿勢がみられた。
すなわち、「 篇 ・ 旁 ・ 冠 」 などを組み合わせてもちいる、いわゆる 「 分合活字 」 開発の歴史にみられるように、「 字  ≒ 漢字」 にたいする徹底した割り切り、すなわち合理化、様式化、分業化された製造態勢がなされている。

そのためか、「 字 ≒ 漢字 」 がもともと内包している、ひととことばの歴史の堆積、手技の痕跡、身体性の発露などは、みごとなまでに消し去られている。
換言すれば、ふつうの生活者はもとより、書芸人、書写人でもこの 「 字 」 の書風を描くことができない。 また、一定の訓練を経ても、道具と機械 ( 現代ではコンピューターとソフトウェア ) の援助なくして、その原字をつくることもできない、いわば一種の工業製品ともいうべき、無機質な存在の 「 字 」 となっている。

こうして明朝体活字の 「 字 ≒ 漢字 」 には機能性がむき出しになり、水平 ・ 垂直線ばかりがめだつ、鋭利な線質となり、およそ自然界には存在しない機械製造による造形物、工業生産の産物として、近代明朝体活字は時をかさねてきた。
もちろんこの間、東京築地活版製造所の平野富二、その右腕 : 曲田 茂マガタ-シゲリ、後継者のひとり : 野村宗十郎らの献身的な改刻の努力があった。
さらに秀英舎 (現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一、第二代 : 保田久成、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎らの功績も看過できない。
それだけでなく、たくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたった。

さらに明朝体活字にとって追い風となっったのは、わが国の近代文章語における仮名、なかんずくひら仮名の存在と、その併用をあげたい。
わが国の近代文章語とは 「 字 ≒ 漢字 」 の上だけで形成されたものではない。 やわらかで、書芸や手技の痕跡をいかした柔軟な和字、ひら仮名、カタ仮名に加えて、「 字 ≒ 漢字 」 を併用することよって、無機質で、能面のような、近代明朝体活字 「 字 ≒ 漢字 」 の組み版は、表情豊かな、馥郁とかおりたつような印刷紙面を形成して、近代文章日本語の形成に貢献してきたといえよう。

ここに、わが国の読書人にみられる 「 ひら仮名活字と組み合わされた 」 明朝体活字への愛着と拘泥と、「 字 ≒ 漢字 」 の明朝体活字だけをもちいる 中国の民衆 ・ 読書人にみられる、明朝体活字への無関心、ないしは軽視の姿勢の、彼我の相違を理解することができる
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後述の機会を得たいが、高齢化して病床についた毛沢東 ( Mao Zedong  1893-1976 ) の読書への意欲はいっこうに衰えをみせず、魯迅の著作の全巻を読みたいと希望したという。
このころの毛沢東はさすがに視力が低下していたので、28pt 見当のおおきなサイズの活字を特別鋳造して、「 毛主席特別版 」 として刊行したことがあったと、紫禁城図書館 館長にうかがった。

その任にあたったのは、中国印刷 ・ 出版界で双璧をなす 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 であったが、指示された活字書体は 「 商務印書館 → 仿宋体 」、「 中華書局 → 聚珍仿宋版 」であったという。
なにしろときの最高権力者 : 毛沢東の「希望」であり、両社ともに全力をあげて活字の新鋳造にあたり、印刷したが、病床の毛沢東があまりにはやく読了してしまって、どんどん次巻を督促されて困惑がはげしかったという。
「 商務印書館 」 「 中華書局 」 といえば、わが国の 「 大日本印刷 と 凸版印刷 」 に相当するおおきな企業体である。 ところが両社ともに、印刷 ・ 製本はともかく、活字組版がまったく追いつかず、傘下の企業を総動員して活字組版をおこなって製作にあたったという。

このはなしは、中国紫禁城内紫禁城図書館長 : 翁 連渓氏にうかがった。 そのときは毛沢東が好んで通ったという中国湖南省料理店 「 澤園酒家  タクエン-シュカ」 で、遅い昼食をご一緒したときであった。
「 澤園酒家 」は、中国中央政府が密集している中南海への出入り口にある。 道路をはさんだ向かい側には一般人は立ち入ることができない。

帰国の日、「 シンさん 」 にホテルから空港まで送っていただいた。 高速道路が渋滞して搭乗時間が切迫していたが、最近、版画からタイポグラフィにすっかり関心を移行させた 「 シンさん 」 が、急に車を路肩に寄せて、あわただしく 「 毛主席特別版 」 の数冊の図書をとりだして、撮影をしろ、よく見てくれということだった。

活字スケールを持参しなかったのが悔やまれたが、それはたしかに 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の宋朝体 」 といってよい活字書風であった。
晩年の毛沢東が、わざわざ指示した活字書体が 「 仿宋体、 聚珍倣宋版、わが国の方体宋朝体 ( ほぼ真四角な宋朝体 )」であり、「 宋体活字 わが国の明朝体活字 」 でなかったという事実は、うすうす小耳にしていたとはいえ、実物を眼前にしておおきな衝撃であった。

これも徐徐に紹介したいが、『 珍倣宋版式各種様張 』 の巻首に置かれた 「 縁起 ≒ はじめに 」 は、丁 善之の筆になるとおもわれるが、浙江省杭州のひと丁 善之は、明朝体 ( 縁起では宋体 ) 活字を日本の字としている。 どうやら丁 善之は、明朝体活字が 「 上海租界地 ( 外国人居留地 )」 から日本にもたらされた事実を知らないようにみられるのである。

したがって、ここ「花筏」では、近代明朝体活字に代表される活版印刷機器と、活字版製造におおきな功績をのこした東京築地活版製造所の歴史を、もう一度整理する作業と平行して、「 聚珍倣宋版、仿宋体 」 活字と、わが国の 「 宋朝体 」 活字を紹介していきたい。

正直なところ、『 秀英体研究 』 (片塩二朗 大日本印刷 2004年12月12日 )をまとめ、「秀英体平成の大改刻 」 プロジェクトを終えて、ようやく東京築地活版製造所のまとめに着手したばかりのいまである。

したがって 「 聚珍倣宋版 ・ 仿宋体と、宋朝体 」 に言及するのはいささか荷が重いのである。
本稿シリーズと、やつがれの既刊書 「 津田伊三郎と宋朝体 ・ 正楷書体活字の導入 」 「 それでも活字はのこった 森川龍文堂と森川健市 」 『活字に憑かれた男たち』 (片塩二朗 朗文堂 1999年11月02日 )をお読みいただき、有意の皆さんのご参集をお待ちする次第である。

聚珍倣宋版表紙DSCN0892 DSCN0895 《 活字組版印刷見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 と、創成者 : 丁 輔之 と 丁 善之 》
『 聚珍倣宋版式各種様張 』 は、現存する中国有数の印刷 ・ 出版企業 「 中華書局 」 が発行したもので、図書 ・ 書籍というより、杭州の 「 聚珍倣宋印書局 」 から譲渡をうけて、あらたに 「 中華書局 」 に導入された活字書体、名づけて 「 中華書局聚珍倣宋版 」 による、活字組版と活版印刷の見本帳である。

この活字組版見本帳は、かつて長澤規矩也氏が所蔵していたとおもわれ、わが国にも紹介されたことがある。
『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の「図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「別冊 《 解説 》 図版77-79 」 である。まずこれを紹介したい。

図版77-79 聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。

これ以降、宋朝体に言及した文献のほとんどは、この長澤規矩也氏の解説を引用している。 筆者も前掲 『 活字に憑かれた男たち 』 で、この箇所を引用させていただいた。
これから順次 『 聚珍倣宋版各種様張 』 を考察するのにあたって、あらためてタイポグラフィの見地から、まず表紙から再考察に着手したい。

《 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 の構成 》
1.  表紙の考察
聚珍倣宋版表紙

題簽の様式を模したとみられる表紙は、本文用紙とは別紙で、六号無双罫によって四囲をかこまれ ( 単辺匡郭 キョウカク )、そこにタイトル 「 聚珍倣宋版式各種樣張 しゅうちん-ほうそう-はんしき-かくしゅ-ようちょう」 が二行にわかれて置かれている。

「 倣 」 の字は、本書のなかでもしばしば 「 仿 」 とされている。本稿では差し支えのないかぎり、これ以降はわが国の常用漢字の 「 倣 」 をもちいる。
「 樣 」 はわが国の常用漢字 「 様 」の異体字である。 これ以降は 「 様 」 をもちいる。
その大きさは初号倍角 (中国では初号を頭号とする。 ともに84pt 相当 ) に一致するが、ここまでのおおきなサイズの鋳造活字を製造したとは考えにくく、なんらかの凸版 ( 木活字、木版、電気版 ・ いわゆる電胎版 ) をもちいたとみられる。
また、後述するが、中華書局にはこの時代、わが国にさきがけて、すでにパンタグラフ理論を応用した 「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機 」 ( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) が導入されていた ( 中国印刷博物館資料 )。 したがって金属素材に直に凸状に機械彫刻していた可能性も否定できない。

中央には製作時期と、製作者名 「 癸亥初夏錢塘輔之丁仁題 」 が一号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝体 ) で、字間にわずかなスペースをいれてしるされている。
「 癸亥 キガイ、みずのと い、みずのと いのしし 」 は、中国 (わが国) の十干十二支で、ここでは1923年 ( 大正12 ) となる。
「 錢塘 銭塘 」は、近代中国では浙江省の中心都市のひとつ 「 杭州 ハンジュ」 である。
「 輔之 丁 仁」は、わが国でいうならさしずめ 「 源九郎 義経 」 のような標記であって、「あざな(字) : 輔之、姓 : 丁、名(元名) : 仁 」 (以下、 丁 輔之 テイ-ホシ) である。
整理すると、以下のようになる。
「 1923年 ( 大正12 ) の初夏、銭塘のひと、姓は丁、あざなは輔之、名を仁の、丁 輔之が、これを題した 」。

匡郭にかえて設けられた無双罫の枠外右側に、この見本帳の体裁がしるされている。
「 仿宋元版槧本封面式 」
最初の字 「 仿 」 は、「 仿 ・ 倣 ホウ、ならう ・ まねる ≒ 模倣 」 の意である。
この表紙でも、タイトル部分では 〈 聚珍 「 倣 」 宋版 〉 とされたように、「 仿 ・ 倣 」 は同音同意の字であり、置き換えが可能な字である。 しかしながら、現在の中国では簡体字の採用によって、「 仿 」 が中心となっている。

 「 槧本 さんぽん 」 は古文書の意。
「 封面式 」 の 「 封面 ほうめん 」 とは、表紙裏の扉ページをさすことが多いが、ここでは片面印刷で、中央に版心をあらわす 「 魚尾 」 をおき、それをセンターの目印として二つ折りにしてつづったものとした。

見開きにすると、版心には、右側に 「 中華書局聚 」 が置かれ、左側に 「 珍倣宋版印 」としたものがおおい。 また杭州時代の活字組版を流用したものか、一部に 「 聚珍倣宋 版印書局 」 とするものがある。
製本様式は専門外であり、また 「 和綴じ 」 といういささか困惑する名称があるの で詳細に及ばないが、簡便な綴じ本になっている。
これを整理すると、以下のようになる。
「 宋王朝と元王朝時代の木版刊本にならい、古文書を活版印刷にし、二つ折りにしてつづったもの 」

《 聚珍倣宋版 ≒ 宋朝体活字の創成者-丁 輔之 と 丁 善之の肖像写真 》
2. 創成者の肖像写真

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活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 には、別紙の表紙のあとに、「 縁起 ≒ はじめに 」 が二丁04ページあり、そのうしろに一丁02ページで 「 創辧人 丁 輔之」と、「創辧人 丁 善之遺像」の肖像写真がある。
画像は写真凸版印刷とみられるが、幾分鮮明度を欠く。

写真キャプション 「 創辧人 」 の 「 辧 」 は、弁の異体字で、ここでは創成者とした。
写真キャプションは右起こし横組みで、「 創辧人 丁 輔之」 では、二号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。
「 創辧人 丁 善之遺像 」 では三号サイズの聚珍倣宋版 ( 方体宋朝 ) にスペースがはいっている。

このふたりはどちらが年長かわからないが兄弟とみられている。 若いころは、杭州西湖の白堤 ( 白居易の築造とされるおおきな堤 ) にある 「 西泠印社 」 と関係が深かったようで、杭州にはこのふたりによる 「 聚珍倣宋印書局 」 がのこした、木活字本、金属活字本など、おおくの関連資料がのこっている。
その清朝最末期 ( 明治末期-大正初期)の製造と みられる木活字本の一冊を、最近都内の大学図書館が購入した。研究の進捗をまちたい。

丁 輔之 ( てい-ほし 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) は、70年ほどの人生をいきたひとで、篆刻家、書画家としてしられる。
丁 輔之は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 を刊行した1923年(大正12)には44歳ほどの年齢であったはずだし、清朝は1911年 ( 明治44 ) に崩壊して、中華民国の時代となって 十余年が経過しているが、頭髪はいまだに清朝時代の風習の 「 辮髪 ・ 弁髪 」 のようにもみられる。 あるいは単にひたいがはげ上がっていただけかもしれない。

いっぽう丁 善之は生没年ともにあきらかではなく、1923年 ( 大正12 ) のとき、すでに歿していたとみられ、写真は 「 遺像 」 として、相当修整の痕跡がのこる画像がしるされている。
したがって、実際に活字 「 聚珍倣宋版 」 の元字版下を製作したのは、このふたりのうちいずれが中心だったのかはつまびらかではない。

しかしながら、丁 輔之の遺作のほとんどは、篆刻と画文であり、活字紹介はきわめてすくない。
また、丁善之の没後まもなくとみられるが、丁 輔之が杭州の聚珍倣宋版印書局とその活字資料を、上海の中華書局に売却したこと。
また中華書局では 「 聚珍倣宋版 」 のサイズの拡張 ( シリーズ化 ) と、新聞扁平活字と同様に、「 批字模雕刻機。 機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」( わが国の俗称 : ベントン彫刻機 ) の縦横比を調整すれば、比較的容易に製作することができ、「 割り注 」 などにもちいられた 「 夾註字 ・ 双行字 」 ( わが国では長体宋朝活字とする。 わが国では方体宋朝活字より、本来は 「 割り注 」 などのために開発された長体宋朝活字が好まれた ) の開発に終始し、あらたな、めぼしい活字書体を発表していないことをあわせて考察すると、あくまで現状では、活字開発の中心人物は丁 善之であったとおもいたい。

《 聚珍倣宋印書局の登録商標に関して 》
3.   聚珍倣宋印書局の登録商標

DSCN0899商標_聚珍倣宋印書局マーク

丁 輔之、丁 善之による 「 聚珍倣宋印書局 」 は杭州におかれたが、その早期から類似活字の登場になやまされ、「 北京文嵐社 」 などとは、相当深刻な法廷闘争を展開していた記録ものこされている (シンさん蔵)。
このころの中国では、活字書体の権利関係の法規が十分ではなく、それにかえて、せめてものおもいから 「 商標登録 」 を申請していたものとみられる。
画像の一部の登録商標を取りだし、その一部に修整を加えたものを拡大紹介し、オリジナルデータはちいさく紹介した。

デザインは、中央に 「 宋 」 の字をおき、外周部両端中央にシンプルな形態の 「 魚尾 」 をおいている。 この魚の尾を模した文様は、刊本時代に版心 ( 折り目 ) の役割をはたしたもので、目的と機能があった。 現在では市販の 「 四百字詰め原稿用紙 」 の中央におかれることがある。
上部には企業名 「 聚珍倣宋印書局 」 をおき、下部には 「 股份有限公司 」 をおく。
股份グーフィン有限公司は株式会社の意ととらえたい。

表記された 「 民国紀元 ・ 中華民国暦 」 中華民国09年とは、1920年 ( 大正9 ) のことで、活字組版見本帳 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 刊行のわずか三年前のことであった。 [この項つづく]

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-02 縁起 ものごとのはじめ 釈読

わが国の近代印刷活字の 「 明朝体 ・ 宋朝体 ・ (正)楷書体 」 は、それぞれ19-20世紀初頭、中国の近代活字に源流を発するものであるが、かの国ではちがう名前でよばれている。
いくぶんくどくなるが、ここでは混乱をさけるために、できるだけ双方の呼び名を併記していきたい。

そこで早速、『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) の巻頭におかれた 「 縁起-ものごとのはじめ 」 から、中華民国時代の中国の、聚珍倣宋版 ( 中華書局の宋朝体活字 ) の原字制作者ともくされる、善之丁三在(丁 善之テイ-ゼンシ。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在。 生没年不詳)が、明朝体や宋朝体 ( 宋体字 ・ 明朝字、聚珍倣宋版 ) をどうみていたのか、興味ある資料があるので、拙訳ながら紹介したい。

なおこの 「 縁起 」 と組版例一例の 「 図版 」 の部分は、『 図解和漢印刷史 』 (長澤規矩也 汲古書院 昭和51年2月 ) の 「 図版集 縁起 論語巻之一  p.77-79 」 と、 「 別冊 《 解説 》 図版 77-79  」 に図版として紹介されたことがある。
長澤規矩也はこの紹介を 「 別冊 《 解説 》 」 で次のようにだけ簡略に紹介している。

図版 77-79   聚珍倣宋版各種様張 民國刊( 聚珍倣宋版 ) 縁起及一頁
錢塘の丁氏が創成し、丁仁が倣宋印書局を興し、後、中華書局が使用権を獲得した。 倣宋聚珍版、見本帖から抽印した。縁起は漢字活字の歴史にも及ぶので、全文を収録し、見本組の一ページをも示す。
聚珍倣宋版表紙 DSCN0895 DSCN0892

 

聚珍倣宋版01 聚珍倣宋版02聚珍倣宋版03『 聚珍倣宋版式各種様張 』 に紹介された活字組版例/縁起/
一号聚珍倣宋版 ( 一号方体宋朝活字 )。 縦組み、ベタ組。 一行23字。 10行。 行間四分。

『 聚珍倣宋版式各種樣張 』( 中華書局 1923年 ・ 大正12 )
縁 起 ―― ものごとの はじめ ―― 釈 読

中国上古には、糸の結びかたで物事を記録した。 文と字が発明されてからは、物事の記録が容易になったが、木簡と竹簡が用意されるまでにはまだ多くの苦労があった。
春秋戦国時代の大国にして、中国史上最初の中央集権国家となった秦王朝時代 ( BC 221-BC 206 ) の蒙恬モウテン将軍が筆を発明 ( モウテン。 秦の武将。 始皇帝のとき匈奴を討ち万里の長城を築いたが 丞相李斯リシらに投獄され 二世皇帝のとき自死。 蒙恬の筆の発明説には異論もある。 ?-BC210 ) してから書がはじまった。
つづく漢王朝時代の蔡倫(サイリン。 東漢の宦官カンガン、あざなは敬仲。 生没年不詳 ) が、105年に樹皮 ・ ぼろ布 ・ 魚網などから紙を製して、和帝 ( 穆宗。 劉 肇。在位88-105)に献上したとされる ( 蔡倫の紙の創始説には異論もある )。  紙が発明されてから巻物が登場した。

隋王朝 ( 581-619 ) のはじめ、宮廷で書物の作製がさかんになり、「 鋟版  シンパン 」 という彫刻版が登場して、唐王朝 ( 618-907 ) と、五代の諸王朝 [ 唐から宋への過渡期に華北に興亡した、後梁 ・ 後唐 ・ 後晋 ・ 後漢 ・ 後周の五王朝。 907-60 ] がこれを踏襲した。
この技術はその後、北宋 ( みやこは黄河中流の汴 ベン、開封 Kaifeng。960-1127 ) の時代にはおおいに整備されて盛んなものがあった

北宋までの時代の印刷版は、能書家の文字を版に彫ったので、書風はその都度ちがっていた。 したがって北宋時代の図書をみると、唐代の欧陽詢 ( オウヨウ-ジュン 557-641 ) の書風をまねた 「 欧体字 」 がおおく、その字画の構造は力強く、端麗適切で充実して、歪みや、崩れもなく立派なものであった。

近代のいわゆる宋体字 [ 明朝体活字 ] はこの書風に由来している。 しかしながいときのなかで、宋王朝の字様は失われ、とりわけ北宋の木版刊本にみられた、端麗適切で充実した、欧陽詢の書風は徐徐にうしなわれて、ただ漠然と、その刻字の外周をなぞり、形を真似る ( 膚郭之字 ) だけとなっている。

北宋から臨安 ( 杭州 ) にみやこをおいた 南宋 ( 1127-1279 ) を経て、元王朝 ( 蒙古族王朝。 みやこは大都 ・ 現北京。 1271-1368 ) の時代になると、木版の書風には 「 趙松雪チョウーショウセツ の書風 」 [ 趙子昂 チョウースゴウ。 姓は趙、あざなは子昂、名は孟頫 モウフ、号は松雪、松雪道人。 宋の皇族の末、元の文人。 1254-1322 ] を用いるものがふえて、明の隆萬年間 ( 1566一1620 ) には、木版専門に「方体書」の書き手、すなわち能書家にかわり、版下の書き手を職業とするものもあらわれた。

すでに宋の時代に、木版による刊本印刷だけではなくて、よりコストが安い、活字による印刷がおこなわれていた。 そこでは泥字 [ 膠泥活字。 ニカワを焼結した活字 ]、瓦字 [ 磚 ・ 練り瓦。土 ( 粘土 ) を扁平に焼き、方形 ・ 長方形の活字としたもの ]、錫字 [ スズを主要素材とした金属活字 ]、銅字 [ 銅を主要素材とした金属活字 ]、木字 [ 木製の駒に字を裏字にして直刻した活字。 木活字 ] といった各種の素材が試みられていた。

清王朝(1616-1912)のはじめのころは、満洲王朝だったにもかかわらず、むしろ漢民族の文化が推奨されていた。 清の乾隆年間 ( 1735一95 )、北京の有名な刻書処、紫金城内の武英殿では、『 大清一統史 』、『 明史 』、『 四庫全書 』 などの数おおくの古今の図書を刊行し、その木活字は25万個を超え、活字かえて、縁起のよい 「 聚珍版 」 [しゅうちん-ばん]とよばれ、北宋についで活字版印刷の中興の時代となった。

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清朝末期のわが国 [ 中国 ] は、海禁 [ 鎖国 ] をおこなっていたが、わずかに外国にむけて開放されていた香港には、キリスト教の宣教師たちが、鉛製の活字と印刷機械をもちこんで、漢字の活字一セットをつくった。 これはいわば 「 香港字 」 というもので、現在の四号活字にちかい寸法であった。

日本では書籍印刷のために、明朝字 [ 明朝体活字 ] という鉛製の活字を、大小のサイズで七種類もつくり [ 明治後期のわが国では、初号、一号 ― 八号、都合九種類の活字サイズが存在していた ]、活字印書の業 [ 活版印刷業 ] が大繁盛して、この明朝字なる活字書体を便利なものとしていた。
そこである中国人が、印刷のために日本から明朝字 ( 明朝活字 ) の七種類をわざわざ輸入した。 それをみると、書風としては 「 膚郭宋体 ≒ 字の魂魄がぬけて、輪郭をなぞっただけの宋体 」 であり、しかもひとつの書風しかなかったのである。

べつにふるさだけにこだわるつもりはないが、日本の明朝字 [ 明朝体活字 ] は、北宋刊本の刻字にみるような、端正な彫刻風の味わいがなかった。
そこでここに、北宋時代の木版刊本の字様 [ 木版上の書風 ] と、紫金城武英殿の木活字 「 聚珍版 」 からまなび直して、方体と長体の、大小のサイズの活字をつくり、ここに 「 聚珍倣宋版 」 と名づけた。 印刷業者の利用を待つゆえんである。
銭塘善之丁三在記於春江寓齋
──銭塘のひと。姓 : 丁、あざな : 善之、名(元名) : 三在 ( 丁 善之 ) 春江寓齋においてしるす
[翻訳協力 : 林 昆範老師]

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ながい引用になったが、この文章は 『 聚珍倣宋版式各種様張 』 ( 中華書局 1923年 ・ 大正12 ) という、一種の活字組版見本帳の 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」として、浙江省銭塘 ( 杭州 ) ・ 善之 丁 三在 ( 以下、丁善之 テイ-ゼンシ 生没年不詳 ) の記録としてのこされたものである。

『 聚珍倣宋版式各種様張 』 が発行された1923年 ( 大正12 ) には丁 善之は物故していたとみられ、巻頭に 「 丁 善之 遺像 」 として写真が紹介されていることは前回報告した。
またその兄弟とみなされている 丁 補之 ( テイ-ホシ 1879-1949 清朝末期-中華民国時代 明治12-昭和24 ) が同書の表紙を題している。 

丁善之は 「 縁起 ( ものごとのはじめ )」 のなかで、奇妙なことに、わが国ではよく知られている、また浙江省銭塘 ( 現 杭州 ) からはさほど遠くない、上海にあった美華書館の動向についてはひとことも触れておらず、日本の明朝体活字 ( 宋体字 ・ 明朝字 ) とは、その最初期には、美華書館のもののほとんど模作であったことを知らないようある。
そしてなにより驚くのは、中国における近代活字 「 金属活字の宋体字 ( 明朝体活字 )」は、明治末期-大正初期にかけて、どうやら日本から中国への逆輸出されたものであったと想像できることである……。

近代明朝体活字が 「 上海租界 ( 外国人居留地 ) の美華書館 」 からわが国に導入されて、160年ほどの時間が経過した。 明朝体活字は、疑いもなく、わが国、明治の文明開化と近代化をもたらし、国民の読書、情報伝達におおきな役割と貢献をはたしてきた。

たしかに長崎に伝来した美華書館版活字は、平野富二 ( 1846-92 ) が東京に進出して、東京築地活版製造所を設立して活字製造と印刷機器製造を開始し、曲田成 ( マガタ-シゲリ  1846-94 )、野村宗十郎 ( 1857-1925 ) ら歴代の経営陣の意欲的な取り組みや、名はのこらなかったが、曲田茂が招聘した数名の中国人工匠や、竹口芳五郎 ( 1840-1908 ) らの東京築地活版製造所の職人の改刻をへていた。
さらに秀英舎 ( 現 : 大日本印刷 ) にあっては、創業者 : 佐久間貞一 ( 1848-98 )、第二代 : 保田久成 ( 1836-1904 )、関連企業 : 製文堂  逸見久五郎 ( 生没年不詳 ) らの功績も看過できない。

それだけでなく、わが国にあってはたくさんの有名 ・ 無名の活字製造業者が明朝体の改刻に取り組んできた。 その結果、明治の後期ともなると、
「 上海租界 ( 外国人居留地 ) 美華書館からもたらされた…… 」
というより、見方をかえれば、わが国独自の活字書風としての完成をみるにいたったものである。

その結実は明治20年代の末ころ、ほぼ明朝体活字は完成の域にたっしたとみられるので、中華民国時代 ( 大正時代 - 戦後まもなくの1949年まで。 現在は台湾政府となっている ) の 丁 善之からみたら、まったく美筆書館のものとは異質の書風にみえたかもしれない。
それよりも、「 上海租界 ( 外国人居留地 )」とは、換言すれば 「 治外法権の外国占領地 」 ともいえたきわめて特殊な場所であり、キリスト教の広報宣伝機関でもあった美華書館の存在などは、ほとんど一般市民は知らなかったとみたほうがよいであろう。
聚珍倣宋版04 『聚珍倣宋版式各種様張』に紹介された活字組版例/論語巻之一 朱熹批註本を例として
半葉(01ページ)ごとに

基本組版 : 一行20字。10行。
単辺匡郭枠 : 六号無双罫、天地55倍、左右39倍。
界線 : 五号 1/8 罫線(中国呼称不明。わが国の通称 トタン罫。1.3125pt)
本文 : 二号聚珍倣宋版(二号方体宋朝)、字の脇に圏点(けんてん 小丸)を加えている。
双行註(割り注) : 三号長体聚珍倣宋版(三号長体宋朝)。

聚珍倣宋版05

 『 唐確慎公集 』( 中華書局刊 1920年代 )/筆者所蔵。 近近詳細紹介。

平野富二と活字*02|東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から再生する鋳物
-活字鋳造-に執着した特殊技能者の心性

《ふしぎなビルディングがあった …… 》
このビルの敷地は、旧住所:京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所:東京都中央区築地1-12-22 コンワビルが建つあたりにあって、長崎から上京してきた平野富二らによって、1873年(明治6)から建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として使用されてきたものである。

明治6年-大正末期までもちいられた東京築地活版製造所の本社工場

築地川を埋め立てたポケットパークからみた東京築地活版製造所の跡地に建つコンワビル

築地川にあった万年橋の名は交差点名にのころ。

宇都宮 & 活字発祥の碑 136uu
晴海通りにある案内板

それが1921年(大正10)、当時の専務(東京築地活版製造所では社長職に相当)野村宗十郎(1857-1925)の発意によって、旧本社工場を取り壊しながら、その跡地に1923年(大正12)3月-9月にかけて、あたらしい本社工場として、順次竣工をみたものであった(現住所・東京都中央区築地1-12-22 コンワビル)。

1923年(大正12)関東大震災の寸前に竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。

このあたらしいビルは、地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。
ところがこのあたらしく建造されたビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。
下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。
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《活字鋳造士/鋳物士の伝統と、独自の心性と風習》
もともと「活字  Type」とは、鋳型をもちいた鋳物の一種である。
明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鍛冶や鋳物業者などと同様に、熔解釜や蒸気ボイラーなどの加熱に、木材・炭・石炭・骸炭(ガイタン  コークス)などの裸火をもちいていた。

そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解し、地金を鋳型に流し入れて「イモノ」をつくっていた。
フイゴはふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

その裸火のために、鋳物工場や、活字鋳造所では、しばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火・火焔・火災を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

このタタラという名詞語は、ふるく、用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる。在位推定585-87)の『職人鑑』に「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまりフイゴやタタラとは、高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)や鍛冶士が、とてもふるくからもちいてきた用具である。
そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、あさな、ゆうなに灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがることを、火の神の衰退とみて、昼がもっとも短くなる冬至の日には、ほかの鍛冶士や鋳物士などと同様に、東京築地活版製造所では「鞴 フイゴ 祭り」が、ほかの活字鋳造所でも「鞴 フイゴ 祭り、蹈鞴 タタラ 祭り」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわち東京築地活版製造所とは、総体としてみると、近代産業指向のつよい企業ではあったが、こと鋳造現場にあっては、「鋳物士」のふるい伝統とならわしを色濃くのこしていた。

現代では加熱に際して電熱ヒーターのスイッチをいれるだけになって、鋳造「工場」所などでも神棚をみることはほとんど無くなったが、刀鍛冶士の鍛造現場などでは、作業のはじまりには神事をもって作業にはいる習俗としてのこっている。
こうした習俗は、明治-大正期の東京築地活版製造所だけではなく、わずか30-40年ほど前までの活字鋳造業者、すなわちここで取りあげている全日本活字界の業界誌『活字界』が発行されていたときでも、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火焔を神としてあがめ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった職能者であった。
かつて牧治三郎は、以下のようにしるし、以下のように筆者にかたっていた([  ]内は筆者による)。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長[専務]には遠慮して話さなかったが、当時の築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、 [印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
「続・旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(牧治三郎『活字界  22』昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が,、裏鬼門、それももっとも忌まれる死門にあることを意識してなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入りしなかった。
オレや[印刷同業]組合の連中だって、建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

こうしたイモノを扱う業者が、火を怖れあがめる風習は、わが国だけに留まる習俗では無い。中国の歴史上にはもちろん、現代のフランス国立印刷局にもそうした風習のなごりをみることができる。
フランス国立印刷所uu
欧州における中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともに「火の精霊」とされたサラマンダーである。

「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされ畏怖されていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊(地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフ)のうち、火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火喰い蜥蜴 ヒクイトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
さらにこの生物のアルビノ個体が、カップ麺のCMによって、ひろく「ウーパールーパー」として親しまれたために、サラマンダーの「火の精霊」「火喰い蜥蜴」としての奇っ怪な側面は知られることがすくない。
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《フランス国立印刷局における、火の精霊・サラマンダー》

朗文堂 アダナプレス倶楽部は2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。

ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字と「火の精霊」サラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として、
「汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す 金青石[鉱石]は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する  ── 火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

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我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  2008年01月

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《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、「一陽来復 ── 陰がきわまって陽がかえってくること」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性と、特殊な職能をもった職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。
【詳細情報:花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダー ウーパールーパーとわが家のいきものたち

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して、市街地中央部に工場を設置したために、類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。

ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれたおおきな厄災とは、関東大地震にともなうものではあったが、おもには鋳物士らがもっとも忌み怖れる、紅蓮の火焔をもっておそった「火災」であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を数えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。
2011年(平成23)の東日本大震災が、地震にともなう津波による死傷者が多かったのにたいして、関東大地震では、ちょうど裸火をもちいていた昼時でもあり、火災による死傷者が目立ったことが特徴である。
このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への本格移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった …… 。

津田太郎写真
津田 太郎(1908-不詳)
名古屋:津田三省堂第二代社長 全日本活字会会長などを歴任。
[写真:『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)より。当時59歳]

140年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災・震災・戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂・第二代社長、津田太郎(名古屋在住。全日本活字会会長などを歴任。 1908-不詳)が「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」と題して『活字界4号』(昭和40年2月20日) に報告しているので、該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に「物資統制令・故鉛」ということばが出ている。これを記憶しておいてほしい。

  • 「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」── 津田三省堂 津田太郎
                  『活字界4号』(昭和40年2月20日。 [ ]内は筆者による)

     明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字[取次販売]業を開始する。
    最初は[それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の]江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた[ために熱変形を生じた、不良の]活字母型を使用したため 、活字[の仕上がりが] 不良で、評判[が]悪く、翌43年2月から、津田三省堂は東京築地活版製作所の代理店として再出発した。
  • 明治42年、現在の鶴舞公園[愛知県名古屋市昭和区鶴舞一丁目。名古屋で最初に整備された公園]で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。
    この頃の印刷界は[動力が]手廻しか、足踏式の機械が多く、動力(石油発動機、瓦斯機関)が稀にあった程度で[あった。]
    [四六判]8頁 [B4 サイズほど]の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で(現代の人にこの意味が判るでしょうか)あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。
  • 活字界も太田誠貫堂が堂々手廻し鋳造機[ブルース型活字手回し鋳造機]5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。
    もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区[を含めた商圏]が市場であり、後年に至り、津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み?の経営(コンナ言葉はなかったと思う)で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。五号活字が1個1厘8毛、初号[活字]が4銭の記憶である。
    [現在では初号明朝体は1本800見当で販売されているので、明治末期にくらべると、およそ2千倍の価格となる。これは米価とほぼ等しい]
  • 取引きも掛売りが多く、「活字御通帳 カツジ-オカヨイチョウ」をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。
    活字屋風景として夜[になって]文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ(説明しても現代っ子には通じないことです)をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。
  • 盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火(これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい)をボウボウ燃やして、その下で[作業をし]、また津田三省堂は 蝋燭を使用(燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの)、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル(説明を省く) [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、のちに漸く電灯になった。
    当時は10燭光(タングステン球)であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ!と叱られた記憶すらある。
  • 当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う(当時の『新愛知』、『名古屋新聞社』共に[社内にブルース型]手廻し鋳造機が2―3台あり五号[本文用活字]位を[社内で]鋳造していた)。
  • 大正元年[1912]大阪の啓文社が支店を設け[たために、地元名古屋勢は]大恐慌を来したが、2―3年で[大阪に]引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。
    当時は着物前垂れ掛で「小僧」と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。
  • 大正3年(1914)、津田三省堂が9ポイント[活字]を売り出した。
    名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。
    [大正]7年は全国的に米騒動が勃発した。この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。
  • 大正11年(1922)、盛功社[が取次だけでなく、名古屋でも]活字鋳造を開始。国語審議会では当用漢字2,113字に制限[することを]発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。
  • 大正12年(1923)9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[も]残さず灰燼に帰す。
  • 大正14年(1925)秋、津田三省堂は鋳造機(手廻し[ブルース型手回し]活字鋳造機 6台)を設置[して関東大地震によって供給が途絶した活字販売を、みずからが鋳造業者となって]再起した。活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。
  • 大正15年(1925)、硝子活字(初号のみ)、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。
  • 昭和3年(1928)、津田三省堂西魚町[名古屋市西区]より、鶴重町[名古屋市東区]に移転。鉛版活字(仮活字[初号角よりおおきな文字を電気版で製造し、木台をつけて活字と同じ高さにして販売])を売り出す。
    また当時の欧文活字の系列が不統一[なの]を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。
  • 昭和5年(1930)1月、特急 “つばめ”が開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年(1964)10月の超特急[開通したばかりの新幹線のこと]は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。
  • 昭和5年(1930)、津田三省堂は林栄社の[トムソン型]自動[活字]鋳造機2台を新設、[ブルース型]手廻し[活字]鋳造機も動力機に改造して12台をフルに運転した。
  • 昭和6年(1931)、津田三省堂で宋朝活字[長体活字先行。もとは中国上海/中華書局聚珍倣宋版の活字書体を導入して、それを宋朝体と呼称したのは、津田伊三郎の命名による]を発売した。
  • 昭和8年(1933)、津田三省堂が本木翁の[陶製]胸像3,000余体を全国の祖先崇拝者[本木昌造讃仰者]に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。
  • 昭和10年(1935)、満州国教科書に使用せられた正楷書[中国上海/漢文正楷書書局が元製造所とされるが、津田伊三郎はわが国の支配下にあった満州(中国東北部)から原字を入手した]を津田三省堂が発売した。当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる[2012年226万人余]。
  • 昭和12(1937)年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉(いずれも故人)の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923 吋 と決定するという歴史的一頁を作った[これは1941年(昭和16)東京印刷同業組合活字規格統制委員会が追認したが、1958年(昭和33)全国活字工業会は23.45mmと決めた。活字の高さの統一は世界的にもいまもって容易ではない]。
  • 昭和12年(1937)7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。
    物資統制令の発令 [によって]活字の原材料から故鉛に至るまで[が]その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。
  • 次第に空襲熾烈となり、昭和20年(1945)3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに、
「新社屋を新築して その[本格]移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した」
のである。
活版印刷機と関連機器の製造工場は「月島分工場」にすでに移転していたが、その「月島分工場」も火焔に没した。また東京築地活版製造所本社工場の活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰した。

不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。すなわち地震にともなう火災によって、東京築地活版製造所の設備のほとんどは灰燼に没した。すでに引退を決めていた野村宗十郎であったが、さっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所系の企業からも支援をうけて再興にとりかかった。

津田三省堂は、関東大地震までは活字販売業者であったが、震災で主要仕入れ先の東京築地活版製造所からの活字の供給が途絶したため、このときをもって活字鋳造業者に転ずることになった。
津田太郎はまた、名古屋を中心とした中京地区の活字鋳造所は、第二次世界大戦の空襲によって、すべてが灰燼に没したとしている。

ところが……、本来なら、あるいは東京築地活版製造所設立者の平野富二なら、おそらく笑い飛ばしたであろう程度のささいなことながら、関東大震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去(事実はことなっていたが)と、新築ビルの易学からみたわるい風評がじわじわとひろがり、それがついに専務・野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。
こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版をパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。

1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所の本社工場の写真。

上掲の明治36年版『活字見本帳』口絵図版とおおきな違いはみられない。

1923年(大正12)野村宗十郎専務の発意によって竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。