梅津パピールファブリック製紙場跡 記念碑銘板を読みとる
京都市右京区梅津大縄場町所在
梅津パピールファブリック製紙場跡
梅津パピールファブリックは、京都府が東京遷都による産業衰退を懸念した明治天皇の御下賜金をもとに、この地に明治5年10月ドイツ人レーマン兄弟の指導により建設に着手し、明治9年1月ドイツ式抄紙機を用いて、操業を開始した我が国初の*01 洋紙製造工場であります。桂川の水力を動力源として、京都の産業活性化のために大いに活躍しました。
明治13年8月、磯野小右衛門に払い下げられ民営になりました。大正7年〔1918〕11月、表門と門衛所、一部の赤レンガを残して全工場を焼失しました。翌大正8年5月には再建され、その後大正13年に富士製紙(株)梅津工場に、昭和8年5月に王子製紙(株)梅津工場に、昭和18年に日本擬革製造(株)にそれぞれ移行し、幾多の変遷を経て昭和25年4月以降は日本加工紙(株)京都工場になりましたが、昭和46年〔1971〕に工場は閉鎖となり、操業以来95年*02 にわたるそのながい歴史をとじました。
この地はまさに明治初期我が国の洋紙製造発祥の記念すべき遺跡地であります。
なお[PAPIRE・FABRIC]と彫られた門扉、[明治天皇御幸所製紙場]の碑、[土橋嘉右衛門顕彰]の碑、京都府によって立てられた[梅津パピールファブリック製紙場跡]の高札など貴重な資料が東京王子飛鳥山公園内の「紙の博物館」の記念碑コーナーに保管、陳列されています。
平成15年 10月吉日 設立
有 志 林 忠治・太田 忠志・大西 賢市
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*01 本石碑正面には「日本最古の洋紙製紙場跡」と彫りこまれているが、下掲の資料で紹介する「紙の博物館」では、同社を「わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ」とする。
ウィキペディア「パピール・ファブリック」の項では、── 1876年(明治9年)京都梅津の桂川の畔で開業した製紙会社。日本の製紙業黎明期の6社の一つ ── とする。同項では「日本で最初に開業した製紙会社は1874年(明治7年)開業の有恒社であり、蓬莱社や抄紙会社(王子製紙)もパピールファブリックより先に開業している。ただし、動力に水力を使う、官営である、ドイツ製機械を使うなど日本の製紙業黎明期の6社の中では特異な存在ではある」と述べている。
また注釈1)では、─── 日本で最初の製紙会社は、有恒社、および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、神戸製紙所と、パピール・ファブリック。日本の製紙黎明期にはこの 6 社に加えて大蔵省印刷局も製紙機械を導入して紙を抄いている ─── とさらに詳細にしるしている。
*02 操業以来95年 ── とあるが「創業」の誤りか。
☆ 紙の博物館URL資料
『紙博だより』第40号(解説ボランティア 小杉睦裕さん 平成21年10月1日発行)所収
ひっそりと昔を語る『パピールファブリックの門扉』
パピールファブリック
明治10年、明治天皇が工場へ行幸された。
紙の博物館の 1 階図書室前に、わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ、『パピールファブリック』の門扉が古色蒼然と立っています。これは木製で、お洒落なことに、欄間の透かし彫りの様に、ドイツ語で『 PAPIER FABRIK 』の文字が記されています。他の二つの工場が東京に建設されたイギリス式なのに対し、こちらは京都嵐山の近くに、京都府が政府からの勧業基立金15万円で建設したドイツ式の製紙工場でした。
明治 7 年〔1874〕11月にこの門や守衛室等が建てられ、明治 9 年に操業を始めます。その後、経営は 磯野製紙所 → 富士製紙 → 王子製紙 → 日本加工製紙 と変わるのですが、大正 7 年〔1918〕11月、この門と守衛室・赤煉瓦室を残して工場はほぼ全焼しました。
その後工場は再建されます。場所は渡月橋の一つ下の松尾橋の東詰南にありましたが、京都市民には戦前の「王子製紙」の名が浸透して、タクシーでは「王子製紙へ行ってくれ」と言ったものです。門はその中央、桂川の反対側の正門にあり、戦後新調されました。歴史の証人の様な創業当時の門扉は、昭和30年〔1955〕に日本加工製紙から、紙の博物館に移譲されたのです。
さて、この工場は驚いた事に、地下水だけで紙を抄いていました。近くに松尾大社・梅宮神社といった醸造や酒造の神社がある位ですから、綺麗で豊富な水脈があったのです。ひと頃、琵琶湖から引いている市の水が「カビ臭い」ことがありました。当時工場では、異臭を嫌う煙草の外装紙を製造していましたが、地下水のおかげで苦情を起こさずに済みました。
明治・大正・昭和と、長年洋紙を作り続けた工場でしたが、都市化の波には勝てず昭和46年に閉鎖しました。その跡地にはマンションが建っていますが、その東端に往時を偲んで小さな石碑が立っています。
青山霞村著『山本覚馬』(同志社 1928/ 国会図書館蔵 請求記号 289-Y317ウ)
※ 同書、一三四-一四三ページ を現代通用文に書きかえてみた。
※ 〔 亀甲括弧 〕内は稿者の補遺である。また WebSite 環境に配慮して、行頭字下げはせず、改段を増やしたことをお断りしたい。
※ 読みくだし終了後に新装複刻版、『山本覚馬伝』(原著:青山霞村、校閲:住谷悦治、編集:田村敬男、宮帯出版社)を入手した。工場写真は宮帯出版社版から紹介した。
失明した山本覚馬の肖像写真はウィキペディア「山本覚馬」から紹介した(PD データ)。
山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)-明治25年(1892年)12月28日)
幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
両親は父:山本権八(会津藩砲術師範。会津戦争で討死)、母:山本佐久。この夫婦は3男3女をあげたが、1男2女を幼児期に失う。妹・八重:慶応元年(1865年)は、川崎尚之助と結婚。会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城。戦後に尚之助と離別し、明治9年(1876年)に新島襄と再婚して新島八重。弟・山本三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死。
維新後に失明してから展開された兄:山本覚馬と、妹:新島八重による活版印刷事業に関しては、同書にも記載されているが、若干の混乱がみられるので整理して後述したい。
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伏 見 製 作 所
観月橋四條大小橋の鉄材を供給
伏見製作所は時代の需要に応じ、土木建築の鉄材や鉄の機械を製作するため明治六年十月新設された模範鉄工場である。水車に依って水力を利用するため、伏見向島、豊後橋(観月橋)の下手に工場が建てられ、大熔鉄炉、送風器、鋳床、錐盤、円転機、削平盤、その他精巧なる舶来の鉄工機械を金に飽かせて備付け、〔京都〕府下は勿論近府県の注文に応じて盛に鉄工業を営み、その頃板橋が鉄橋に架けられて、珍らしがられた。四條の大橋小橋も観月橋の鉄材も同所が供給したものである。鉄管、喞筒、その他の機械製作から伸銅などもこの工場で行われ、その能力と信用と大阪造幣局長の仲介で韓国政府の造幣機械一切の注文を受けたことによって明かである。
梅津製紙場 一名パピールファブリック
大工事 独楽のように横に廻る水車 詩人廣瀬青村が府の官員 塾
生に洋学を勧める 下河邊独語学校から製紙場へ 技師の後を慕っ
てきた独逸の恋人 原料は洛中洛外の襤褸〔ボロ〕 市中の間屋に
販売を命じた 西郷戦争で新聞売上げ激増
梅津製紙場も時代の要求を察し、洋紙を製するために設立せられたもので、一名パピールファブリックといったのは、独逸の機械技師によって創めたから、記念のためにそう名づけたのである。梅津は桂川左岸〔上流からみて左側〕、平家物語の横笛が瀧口入道を慕ってゆく叙事に「梅津の里の春風によその匂もなつかはしく」とあるその梅津である。紙漉きは多量の清水を要し、且つ機械の動力は当時水力によらねばならなかったのに、京都の加茂川では水車を作る十分の落差がなかったから、桂川沿岸の地を卜した〔定めた〕のである。
明治9年1月ドイツから製紙機械を買入れ製紙工場を梅津につくり、洋紙製造販売にあたった。
明治五年〔京都〕府は山本顧問と親しかった独逸商人ハルトマン、レーマンを通じて、独逸に新式の製紙機械一台を注文したが、輸送の途中に故障〔事故〕があって、三年後の明治八年に工場に掘付けられた。この工場建築は中〻の大工事であった。石垣などの石材は別項記載の童仙房から献上するといって、石は無代であったが、毎日牛車四台五台が重い石を挽いてくるので、道路や橋梁を破損し、その修繕費なども中〻かかり、普通四、五万円の工事が二十万円もかかったそうである。併し資源〔しかしながら資金〕は藝娼妓の莫大な賦金〔芸妓に課税した〕が勝手に使えたので心配はなかったのである。
工場の鬼瓦には牛の頭がつけてあった。多分牛肉、牛皮、牛乳等から、文明開化の象徴としてつけられたのであらう。此処の動力用の水車は日本のではなく西洋式で、丁度独楽が廻るように横に廻り、縦に廻るよりはその力が優って居った。そして工場は一般に参観させた。
日本人の誰も知らない洋紙製造だから、その技師として独逸人エキスネルを月給金貨二百円で雇入れ、通弁〔通訳〕には後に医家へ養子にいって、その姓と医業を継いだ馬杉氏を雇った。
これより数年前中学校の歐学舍のできた時、府庁の典事に青村廣瀬範治という儒者があった。詩を以て海内に鳴らした淡窓の義子で「火船烟散海濛々 破浪双輪去向集」など汽船を新題にして作った人であった。同じ淡窓の咸宜園の塾頭をして居って、漢法書で京都に老いた櫻井桂村が明治十一、二年のコレラ病を古詩に作ったなど何れも固陋な人ではなかった。
この廣瀬が自宅で四、五名の少年に読書の世話をして、塾とはいえない程の事をもして居ったが、ある日府庁から帰り、槇村大参事が今後大いに洋学をやらねばならぬからといって、歐学舎を起こされ、独逸人の教師が来るから、お前等も洋学の稽古をせよといった。
少年に下河邊光行という者があった。帰って父に相談すると父もその気になり、それでは英仏独語何れを学ぶがよいかとなると、勧めた青村先生も分らない、教師は独英語を兼ねるが独逸人だから独逸がよかろうと、下河邊は独逸語学校へ入った。
梅津の製紙場設立に就いては何時までも高給の外人を雇っておけない、速くその技術を習得せねばならぬ。それも京都繁榮のためだから京都人にという所から、当時独逸学校に居った下河邊を通訳兼見習のために製紙場へ入れた。
その頃品川彌二郎の世話で、独逸へ留学して居った山崎喜都眞という人が帰朝した。製紙術を学んできたが、中央攻府でもまだその技術を要する処までいって居らぬので、品川が同藩〔長州藩〕の槇村に梅津の製紙場へ使ってやってくれと頼みこんだ。槇村は否ともいえず、月給四十円を与えてこれをも技師に雇った。
この山崎には独逸で契り交わした女があった。この女は山崎の帰朝後一人の母親を振棄て、恋人の後を慕って遙遙日本へ渡ってきた。所帯道具一式を携へて来たので、山崎はその女と早速西洋風の所謂〔いわゆる〕愛の巣を営んだ。この細君は賢い女で何もかも日本に同化しようと力〔つと〕めたけれども、何分彼我生活の程度が違ったから、山崎は四十円では暮しがつかず、品川に泣きついたが、暫く辛抱せよといわれ、後三、四年すると品川の農商務省の方へ使われた。エキスネルは契約期限が満ちると解雇し、それまでに下河邊は相当意に覚えこんだから、その後は日本人のこの技師二人で技術方面を担当しておったのである。
製紙の原料は主として木綿襤褸〔ボロ〕を用いたのである。それまで紙屑屋が最早古着屋の顧みない、破れ着物、破れ足袋、その他の木綿ボロを洛中洛外で買集めた分量は莫大なものであったが、それからは染料の藍を抜きとるばかりで、ボロその物は用途がなく、空しく捨てたものであった。
そのボロの廃物を利用して紙にすいたのである。その製せられた紙は今の新聞紙用のザラ紙の上等の物であった*03。のちに藁をも原料に用いて、これはボール紙に製造せられた。その外色紙半切半紙なども製せられた。製造能力は毎日二千ポンド〔≒ 907 kg〕で常時の価ポンド十錢、金額二百円程の物であった。
販売方については、府は京の紙問屋中井三郎兵衛、大森治郎兵衛その他初田など都合五人を府庁へ呼出して販売を命じ、その店へ名誉ある京都府御用達の看板を掛けさせた。〔ところが〕紙屋が製紙場へ行くと、幅六尺長さ無制限という〔巻き取り、ロール〕紙なので、日本紙を扱って居った人達は驚いて居る有様、使う道がない、製品は堆積するばかり。それで紙屋の請求に応じて、半紙版や美濃版〔半紙判や美濃判〕に切ってやって売らせた。府は損益をあまり眼中におかなかったから、その収支は苦しい計算であった。
然るに梅津製紙場に息をつかせたのは西南戦争であった。山木覺馬先生は江藤新平の乱で桑苗が売れなくなり損をされたが、梅津製紙場は西郷戦争で大いに儲けた。それまで洋紙は大抵舶来品で、新聞用紙には和製の駿河半紙や唐紙を用いて居った。西郷が戦争を始めた、新聞がそれを報道する、熊本の籠城、田原坂の激戦、桐野利秋がどう、篠原國幹がどうしたのと、人々が新聞を引っ張り合って読むようになって、新聞の売れ高が激増した。そしてその新聞用紙が梅津でどしどし出来たのである。
引続いて地券の用紙を一手で製造して大儲けした。全国の土地所有者に地券を交付〔地租改正にともない1872年・明治05年以後、政府が土地所有者に交付した証券。この地券記載の地価にもとづいて地租が賦課された。土地台帳の整備にともない1889年廃止。地券状〕するのに東京でもその紙がなかった。それで梅津で一手に引受けたのである。この製紙場は更にまた印刷機械を据えつけて、当時益々需要の増加しゆく、諸官署や銀行会社の帳簿を調製して、東京その他諸方面へ売り込んだ。
梅津製紙場はこんな風に成功の途を濶歩して居ったのに、府の事業整理のために。大阪の相場師磯野小右衛門に払い下げられ、磯野は松原烏丸に店を開いて製品を売り捌いた。払い下げ金は三万円と残金は有名無実の年賦といふことである。この工場は、今は富士製紙株式会社の工場になって居る。
数年前英国の雑誌「評論の評論」誌上に紹介せられた医術公営の可否論と、府立療病院設立の社会政策であった事とを比較し、この官業梅津製紙場と露西亜の産業官営主義などを思い合わせて見ると、明治初年京都の行った府政の治績は今もなお経世家に何かの暗示と例とを与えて居るのでなかろうか。
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*03 わが国の手漉き紙(いわゆる和紙)は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの灌木の靱皮繊維を主原料としてもちいたが、明治最初期の洋紙製造では、お雇い外国人の指導もあって、原料は襤褸(綿ボロ・木綿の古布)が良いとされた。
そのため製紙会社各社はいずれも襤褸(いわゆる綿ボロ)を入手しやすい大都市周辺に工場を設けていた。木材パルプが洋紙の原料になり、豊富な水源と、港湾輸送に便利な沿岸部に製紙工場が移転するのは明治20年代(1887-1896年)以降である。
原資料提供:春田ゆかりさん 〔この項つづく〕