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【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ18}── 本木昌造の活版事業

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae004317611-300x75明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
古谷07月

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業

<本木昌造の活版事業 主要内容>
1)活版研究の取り組み
2)事業化の試み
3)活版事業の本格化
4)活版所の設立と中央への展開
5)私塾の経営
6)本木昌造没後の活版事業
〔新街私塾〕、〔新町活版所〕、〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕、〔京都點林堂〕、〔横浜活版社〕、〔文部省御用活版所〕、〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕

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【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

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本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

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朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【ブックコスミイク】 2014年09月03日は本木昌造の139年忌です。

【ブックコスミイク】
わが国の活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの開拓者のひとり
本木昌造(1824年06月09日-1875年09月03日 享年51)の
ご命日にひそみ

朗文堂関連既刊書 『 本木昌造伝 』 をご紹介いたします。

2014年09月03日は、本木昌造の139年忌にあたります。
この既刊書紹介ページは、本木昌造の功績をしのびつつ、本木昌造ご命日にさいして、あらためて皆さまにご紹介するものです。
だいぶ以前の既刊書のため、現在では書店での店頭展示販売はほとんどございませんが、書店注文方式、オンライン書店経由、あるいは小社よりの直送でお求めいただけます。
この機会にご愛読たまわれば幸せに存じます。

本木昌造伝

朗文堂愛着版 本木昌造伝

島屋 政一著  朗文堂刊  上製本 A5判 480ページ
発 行 : 2001年08月20日
定 価 : 16,000円[税別]
ISBN4-947613-54-8 C1070

口絵カラー写真20点  本文モノクロ写真172点  図版196点
特上製本 スリップケース入れ
輸送函つき  背革に羊皮の特染めバックスキン
ヒラは英国コッカレル社の手工芸マーブル紙

──────── 【目 次】
◯ 本木昌造の誕生から通詞時代
◯ 長崎製鉄所時代の本木昌造
◯ 近代活字創製の苦心
◯ ガンブルの来日と活版伝習所の創設
◯ 新街私塾と長崎活版製造会社
◯ 長崎から東京へ/活版印刷術の普及
◯ 本木昌造の終焉と本木家のその後
◯ 凸版印刷と平版印刷、ライバルの登場
◯ 印刷界の二大明星 ・ 本木昌造をめぐるひとびと
◯ 野村宗十郎とアメリカン ・ ポイント制活字
◯ 印刷術の普遍化とわが国文化の向上 ・ 印刷界の現状
新街私塾の印本書の元原稿は、昭和24年(1949)10月に島屋政一氏によって脱稿されたものの、太平洋戦争の直後の混乱のなかで刊行をみることはなく、ほぼ半世紀にわたり、名古屋の活字製造業者 ・ 旧津田三省堂の篋底キョウテイふかく秘められてきました。

朗文堂愛着版 『 本木昌造伝 』 は、再発見された島屋政一氏による原稿をもととして、図版などに大幅な編集をくわえるとともに、ふたたびこの書物が篋底に秘められることがないように、朗文堂愛着版と銘うって上製本仕立てで刊行したものです。

本木昌造の裏紋とされるBmotoSozo[1]

【 例 言 】――島 屋  政 一
わが国の印刷事業はとおく奈良平安朝のむかしに寺院において創始され、久しきにわたって僧侶の手中にあった。江戸期にはいって勅版がでて、官版および藩版がおこり、ついで庶民のあいだにも印刷事業をはじめるものがあらわれた。

寛文(1661-72)以後、木版印刷術おおいに発達して、正徳、享保時代 (1711-35) から木版印刷術は全国に普及をみたが、それは欧米諸国の近代活字版印刷術にくらべてきわめて稚拙なものだった。

幕末の開国とともに洋学が勃興して、印刷術の改善にせまられた。そのときにあたり、近代活字鋳造と近代印刷術の基礎をひらき、善く国民にその恩恵をひろめたものが本木昌造翁だった。

筆者[島谷政一]はすでに 『 印刷文明史 』 を著わし、本木昌造のことをしるしたが、いささか冗長にながれ、またいささかの訛伝の指摘もあった。
さらには畏友にして活字界の雄たりし、青山進行堂活版製造所 ・ 青山容三[本名 : 青山督太郎]氏、森川龍文堂 ・ 森川健市氏の両氏から、活字の大小の格[ 活字ボディサイズ ]のことのあらたな教授もえた。

さらに筆者はすぐる太平洋戦争において、おおくの蔵書を戦禍にうしなった。また青山進行堂活版製造所、森川龍文堂の両社は、その活字の父型や母型のおおくをうしなっている。
このときにあたり、ふたたび日本の近代文明に先駆して、開化の指導者としておおきな役割を演じた本木昌造の功績を顕彰して、それに学ぶところは大なるものがあると信ずるにいたった。

本木昌造は、ひとり近代印刷術の始祖にとどまらず、むしろ研究者であり、教育者でもあった。本木昌造の設立にかかる諸施設とは、むしろ「まなびの門」でもあったのである。 そうした本木昌造のあらたな側面を中枢にすえて本書をしるした。
昭和24年10月20日                                  著 者 識  シルス

長崎港新町活版所印

長崎活版製造会社之印

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

A Kaleidoscope Report 005 『東京築地活版製造所紀要』紹介

A Kaleidoscope Report 005


資料/『東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式會社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
だから、この小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ稿者の手許にあるのかもわからない。
つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所 昭和4年10月)

本文ページ/四号明朝体  26字詰め  12行  字間五号八分  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。

天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表  紙  皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨1色片面刷り
口  絵  部  5葉
     (裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷とみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本   文  10ページ(非塗工紙に活字版墨1色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版  四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ
刊  記  無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)

『株式會社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。しかし「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。
もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」として公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容である。

本ブログロールには、この全文を現代文として釈読し、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば読者にはこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には、筆者が私見を述べた項目をこれから随時挿入する予定である。したがって本稿を閲覧される読者は、面倒でも「更新アイコン」をクリックしていただきたい。筆者の挿入部分は黒く表示し、釈読部と他文献からの引用部分は青く表示してある。

当時の専務取締役社長は、第六代松田精一(- 調査中)であった。このひとは、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取でもあったことは本ブログロールでも既述した。
ここでは
まず、『株式會社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。つまり同社がなぜ、『株式會社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の真の目的を探るためである。

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

・大正12年(1923年) 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋完成。地下1階地上4階竣成。

・大正12年(1923年) 9月
関東大震災により築地本社及び月島工場の全設備が羅災。

・大正14年(1925年) 4月
野村宗十郎社長病歿、享年69才、正七位叙賜。

・大正14年(1925年) 5月
常務取締役に松田精一社長就任 [長崎十八銀行頭取を兼任] 。

・大正14年(1925年)11月
『改刻明朝五号漢字』 総数9,570字の見本帳発行。

・大正15年(1926年) 2月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。

・大正15年(1926年)10月
『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。

・昭和 3年(1928年)
大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。

・昭和 4年(1929年) 9月
『欧文見本帳』 を発行 (68頁)。

・昭和 5年(1930年) 1月
時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。

・昭和 5年(1930年) 6月
五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。

・昭和 6年(1931年)12月
業務縮小のため 小倉市大阪町九州出張所を閉鎖。

・昭和 7年(1932年) 5月
メートル制活字及び 『号数略式見本帳』 を発行。

・昭和 8年(1933年) 5月
『新細型9ポイント明朝体』 8,500字完成発売。

・昭和 9年(1934年) 5月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。
つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。

東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。
『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。
また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。
渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社 I H I の主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。
渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。
渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。
もしかすると、東京築地活版製造所第五代社長であり、中興のひとともされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。
また新築の本社工場ビルが移転作業の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた東京築地活版製造所第六代社長:松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた根強い長崎系の人脈・血脈が細ったとみることが可能かもしれない。
すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第七代社長として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳ながら長崎人とみられる)を専務取締役・第八代代表に選任している。

当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い ── 日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にも登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、この唐突な吉雄永寿の専務取締役社長就任は、長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第八代社長が辞任した。この後任には、
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」阪東長康専務取締役第九代社長が就任した。そして宮内省関係者であって、国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康が、どこかから ── 稿者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが ──「派遣」され、その指揮下、就任からわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」東京築地活版製造所専務取締役・第九代社長阪東長康は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事とみるのは酷であろうか。
いずれにせよ、ついに東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、当時の印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。
そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社清算解散を決議。従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。── この間の詳細は記録されないままに終わった。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。
それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界関連紙誌は、東京築地活版製造所の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。
どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、稿者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『活字界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 〔大阪活版製造所社長を兼任〕、 曲田 成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。
社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕 鋳造機は、手廻機 〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕 120台、米国製トムソン自動〔活字〕 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 〔活字〕鋳造機〔詳細不明。 調査中〕1台で、フユーサー機は日本〔製の活字〕母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀〔勧業銀行〕から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 〔 い〕にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器輸入代理店〕西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

※ 東京築地活版製造所の正門が「写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである」とした牧治三郎の記述には『活字界』が発行された昭和45年当時の活字業界人を震撼させた。
牧治三郎は東京築地活版製造所の新ビルの正門を「南西の角、すなわち裏鬼門」と記述し、稿者にも語っていたが、近年の資料発掘によって、正門は万年橋方向ではなく、祝橋方向に向いており、むしろ北西の方向にあたることが判明した。なんらかの事実誤認があったとみられるにいたっている。

次の〔東京築地活版製造所第六代社長〕松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、たれが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 〔で〕 の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧銀〔勧業銀行〕から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

受賞経歴

東京築地活版製造所の象徴的存在・本木昌造

第1代代表/平野富二 第2代社長心得/本木小太郎(写真には掲載されていない) 第3代代表/曲田 茂 第4代代表/名村泰蔵 第5代代表/野村宗十郎

小図:明治7年の同社 大図:明治37年の同社

小図:第5代代表/松田精一 大図:昭和4年ころの同社

*      *

株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年〔一八七三〕七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来 ジライ 一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年〔1873-1929年、およそ56年〕、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン〔世のなかのひと〕より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年〔一八二四〕六月九日、肥前ヒゼン〔旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県〕長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ〔西洋〕諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年〔一八五一〕ころに至って、はじめて「流し込み活字」〔流し込み活字は後出するが、どちらもハンド・モールドとされる素朴な活字鋳造器を用いた活字とみられる〕ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。
〔このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない〕

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間〔1868年1月25日より明治元年〕にいたって、米国宣教師姜氏〔後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利 ガンブル である。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた〕が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型〔活字母型〕をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏〔維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910〕が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡〔現在の長崎市立図書館〕に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年〔1872〕東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局〔現、独立行政法人・国立印刷局〕となったのであります。

明治四年〔1871〕夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する〔素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドと従来型のハンドモールを併用したとされる〕不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。
同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・千代田区和泉町一)〔神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩上屋敷に隣接した町人地であった。現在の神田佐久間町は商住地である〕に設けました。

翌明治六年〔1873〕に至り、いささか販路も拓け、工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年〔1874〕には本建築をなして、これを震災前 〔関東大震災 大正12年9月1日、1923〕迄事務室として使用していました。
同八年〔1875〕九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年〔1876〕には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年〔1879〕)活字改良及その他工業視察のために、社員曲田 成 マガタ-シゲリ を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年〔1882〕に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに〔活字版〕印刷部を設けて、石版・活版の〔平版印刷と凸版印刷の〕両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏〔大阪活版製造所社長を兼任〕を副社長に、松田源五郎〔長崎・十八銀行頭取〕、品川東十郎〔本木家後見人格〕の二氏が取締役として選任せられました。〔ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所はきわめて長崎色のつよい企業であった〕

明治二十二年〔1889〕六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が〔お目付役兼任として〕取締役として選ばれました。
同二十三年一月、本木〔小太郎〕氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。〔本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長には就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間隆次の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている〕

明治二十六年〔1893〕十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏 ナムラ-タイゾウ 氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役〔明治37-38 1904-05〕後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪 タオ れました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

〔野村宗十郎〕氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年〔1890〕入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年〔1908〕三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[月島分工場のこと。実際は名村泰蔵が十年がかりで建造にあたった。大正十二年九月一日、関東大震災で焼失〕、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年〔1921〕十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑 イトマ ないほどでありました。

かくして〔野村宗十郎〕氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰 トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有 ウユウ に帰してしまったのであります。〔この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は軽微な被害であったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、後継の歴代社長はそのうわさに脅かされることになった〕

剛毅に富んだ〔野村宗十郎〕社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年〔1924〕七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四〔1925〕年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年〔1925〕六月、取締役松田精一〔長崎・十八銀行頭取を兼任〕氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。

社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。
同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。
明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。

四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。
社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。
其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。

斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月