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Hermann Zapf ヘルマン・ツァップ氏逝去 ー Mit einer aufrichtigen Anteilnahme

ツアップを偲ぶ20150608134232723_0001  Hermann Zapf  ヘルマン ・ ツァップ
1918年-2015年 享年96 (遺影は1995年ころのもの)

<Hermann Zapf  ヘルマン ・ ツァップ 略  歴(おもに1995年頃まで)>
◯ 1918年11月08日、ドイツのニュルンベルクにて生まれる
カリグラファ、タイプデザイナー、タイポグラフィ教育者
◯ 1972年より ドイツのフラックフルトとハイデルベルクの間に位置する学術都市、ダルムシュタットに居住
◯ 1947-56年
D. Stempel AG 活字鋳造所/フランクフルト アートディレクター
◯ 1948-50年
Werkkunstschule Offenbach オッフェッバッハエ芸学校でレタリングを教える
◯ 1960年
Carnegie Institute of Technology カーネギーエ科大学/ピッツバーグ 客員教授
◯ 1972-81年
Technische Hochschuie Darmstadt ダルムシュタットエ科大学でタイポグラフィを教える
◯ 1977-87年
Rochester Institute of Technology ロチェスターエ科大学/ニューヨーク州ロチェスター
タイポグラフィック ・ コンピュータープログラム教授
◯ 1977-85年
Design Processing International/ニューヨーク バイスプレジデント
◯ 1986年より
Zapf, Burns & Company(ニューヨーク)および URW Master Design GmbH(ハンブルク)のパートナーとなる
◯ 2015年
2015年06月04日逝去 享年96

メタルタイプ、写真植字、デジタルシステム用アフレフアベット 176種類をデザイン。
各国で講演および展覧会。

<Hermann Zapf  主要著作(おもに1995年頃まで)
“ William Morris ” 1948
“ Pen and Graver ” 1950,1952
“ Manuale Typographicum ” 16ヵ国語(1968年に18ヵ国語) 1954
“ Typographic : Variations ”  独・英・仏語版 1963
“ About Alphabets ” 1960, 1970
“ OrbisTypographicus ” 1980
“ Hermann Zapf: Hora fugit-Carpe diem ” 1984
“ Creative Calligraphy ” 独 ・ 英 ・ 仏 ・ 西語版 1985
“ Hermann Zapf and his design philosophy ”  独 ・ 英 ・ 日 ・ 伊版 1987
“ ABC-XYZapf ”  1989

ツァップ夫妻朗文堂未刊書 『活字と夢と』にお寄せいただいたツァップ夫妻の写真とシグネチュァ

朗文堂既刊書 『ヘルマン・ツァップのデザイン哲学』 製作のおりおりのおもいで
Zapf 型押し用亜鉛凸版 花トビラABC1C 花4C_Z 花2C_Z
9784947613158The Design Philosophy of
HERMANN ZAPF
ヘルマン ・ ツァップのデザイン哲学

発行日
1995年4月11日
著     者
Hermann Zapf
翻 訳 者
池 野  晴 美
発   行
株式会社  朗 文 堂
定   価   16,800円[税別]
ISBN4-947613-15-7
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The Design Philosophy of HERMANN ZAPF
ヘルマン ・ ツァップのデザイン哲学
HORA FUGIT – CARPE DIEM 烏兎匆匆 光陰矢のごとし ―― まえがき
Carl Zahn  Museum of Fine Arts, Boston (カール ・ ツァーン ボストン美術館)
20150608134232723_0005 20150608134232723_0002 20150608134232723_0003

20150608134232723_0004HORA FUGIT – CARPE DIEM

この<HORA FUGIT – CARPE DIEM 烏兎匆匆 光陰矢のごとし>の銘文は、 Hermann Zapf が原図を描き、アルミニウムに彫刻したものである。ドイツのダルムシュタットの自宅アトリウムにある、カリグラフィック ・ スカルプチュアである。

この絡み合わされた文字は、カリフォルニア・ホビーの咲き乱れる、心地よい環境に囲まれて立つ。アトリウムの向こうにガラスのドアが開け放たれ、ひろびろとした芝生が見渡せる。その周りをめぐる花壇は Zapf 自身が花を植え世話をしているものだ。とりどりの実のなる木々が庭のそちこちに生え、鬱蒼と茂った公園の樹葉を借りて風景を完成させる。

この愛すべき家でのつれあいは、妻のGudrun Zapf-von Hesse (グートルン ・ ツアップ-フォン ・ ヘッセ)である。妻もまた、才能あるカリグラファであり、またタイプデザイナーと製本家でもある。その先祖は名高いフランクフルトの活字鋳造者、17世紀から続く Luthersche Giesserei (ルテルシュ活字鋳造所)の Luther(ルター)家である。

この牧歌的な家での時間は、彼にとっては文字どおり矢のごとく、腕が頼りのタイプデザイン、カリグラフィ、ブックデザインの仕事とともに飛び去っていく。
Zapf は一秒たりともむだにしないマスタープランナー
であるが、忙殺されているようには決して感じられない。いつも友人たちのため、あるいは何か有意義なことのために時間を使っているらしい。〔中略〕

60歳をこえた Zapf に、この分野で並ぶ者はない。今なお新技術に挑戦する意気込みから察するに、これからも頂点にとどまるに違いない。
Zapf は、若いころは、電気エンジニアになるのが夢だった。その性向はいまも変わらないが、1933年当時、ドイツがおかれていた政治的状況のために、ニュルンベルクの工業大学に通うことはかなわず、第二志望の美術学校もあきらめた。かわりに進まざるをえなかった道は地元の印刷業者の徒弟であり、そこで 4 年間写真の修整に携わることとなった。

その間 Zapf は、カリグラフィとタイプデザインの美しさに開眼した。きっかけは、ニュルンベルクを同郷とする Rudolf Koch  (ルドルフ・コッホ)の遺作展である。 Zapf はその後 1938年になって Koch の息子ポールのところで働いた。フランクフルトの Hauszum Fürsteneck というプライベートプレスである。

Zapf は、Edward Johnston の “ Writing and Illuminating and Lettering (邦題:『書字法・装飾法・文字造形』エドワード・ジョンストン著、 遠山由美訳、朗文堂)” という本を見てカリグラフィを勉強し、実習に励んだ。
その勤勉ぶり(そして天性の才能)のおかげで、ほどなくして、本人の言葉によると “ なかなかよい字を描ける ” ようになった。

Zapf は独学のカリグラファで、また一般には知られていないが、独学のタイポグラファでもある。修業の年季を終えるとフランクフルトに移り、そこで活字史研究家の Gustav Mori (グスタフ・モリ)と親しくなった。Mori の膨大な蔵書を使って、Zapf は独学を続けた。
Mori に紹介された Stempel(シュテンペル活字鋳造所)で、Zapf はAugust Rosenberger (アウグスト・ローゼンベルガー)という有名なパンチカッターに出会った。その後二人は力を合わせ、いくつかのプロジェクトに取り組むことになるのである。

Zapf の最初のタイプデザインは Gilgengart (ギルゲンガルト)という Fraktur (フラクトゥール : ドイツの亀の子文字)であり、1938年にStempel 活字鋳造所で採用された。 Zapf はまだ20歳そこそこの年齢だった。
そして最初の偉大なる書物の仕事も始まった。“ Feder und Stichel (ペンと彫刻刀)″ というその本のプレートは、Rosenberger が戦時中に手で彫った。ただし当時は Zapf でさえ、徴兵されており、戦時中のほとんどを南フランスで過ごし、ボルドーで地図の作成にかかりきりという状態であった。

ユニークなスケッチブックが数冊、ひまを見ては仕上げられた。どのページにも戦争のシーンはなく、花々や、フランス各地で描いたスケッチでうまっていた。そして “ Das Blumen-ABC (フラワー アルファベット)″ のためのドローイング制作を始めている-この本には、自然の美しさに Zapf が寄せる共感と、観察結果を紙に描き移す能力がよくあらわれている。

Zapf の本やアートワークは全世界の公共・民間コレクションに所蔵されている。印刷部数が少ない出版物もあったため、すぐコレクター・アイテムになったのである。
戦後 Zapf はフランクフルトに戻り、Stempel 活字鋳造所のプライベート・プリンティングオフィス(私家版印刷部門)のアートディレクターとなった。まもなく、みごとな新しいタイプデザインがつぎつぎと誕生した。[後略]
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万感のおもいを込めて-朗文堂ホームページのメーンタイトルの使用書体について
The type design depends on Hermann Zapf
プリント
朗文堂ホームページ メーンタイトル
Michelangelo Titling,   Zapfino - 1999 biginning to
use

  • ROBUNDO ―― ミケランジェロ・タイトリング(Michelangelo Titling)。この活字書体は、ヘルマン・ツァップによってデザインされたオールキャップスの活字書体で、いくつかのオルタナーティブ・キャラクター(異体字)を含む。D. Stempel AG /フランクフルト 1950年。
  • We love Typography ―― このツァッフィーノ (Zapfino) は、ヘルマン・ツァップによってデザインされ、1998年にライノタイプ社によって発表されたスクリプト(筆記体)系の書体である。 
  • ツァップと小林 章による2003年 Zapfino の改刻版がデジタルタイプとして Mac OS X にバンドルされており、その後さらに改刻を加えた Zapfino Extra も発売されている。

タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。