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【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、生家跡資料発掘・現地訪問。タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

{Viva la 活版 ばってん 長崎} 14 活版印刷作品展示紹介

長崎タイトル

103096327-7-50001    
◎ 田中智子(はな工房)
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【作品名】 『栞』
【作者名】 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 箔押
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【作品名】 『MY TYPE』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 『風景』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『かごっまことば』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『風のうた』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(ゴム版印刷)

◎ 加久本真美
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【作品名】 『活字見本帳』
【作者名】 加久本真美(東洋美術学校 タイポグラフィ・サークル QP 卒業生)
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)
一昨年から学校に残る金属活字の整理を開始し、見本帳を制作。
掃除 → 分類(書体・活字サイズ別)→ 印刷の手順で、活字の状態と種類を調査している。

◎ 日吉洋人
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【作品名】 THIS IS A PRINTING OFFICE
【作者名】 言葉:Beatrice Warde   組版・印刷:日吉洋人
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)

◎栃木香織(文香―Fumikou―)
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【作品名】 『photo book』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)  写真:上野隆文(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版)  写真:インクジェット印刷
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【作品名】 『モンヨウ誕生記念』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版、ゴム版画)

宗則和子(botaniko press)
宗則和子(botaniko press)さんの出品は、展示とあわせ受付でも展示して販売されました。
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【作品名】  スズラン 二種類/ワスレナグサ 三種類/スノードロップ 二種類/アンティーク押し花 スミレ 二種類/アンティーク押し花 スミレ/アンティーク押し花 アネモネ 二種類/タマゴタケ・ベニテングタケ
/アマタケ・イッポンシメジ/タマゴタケ/ベニテングタケ/ イッポンシメジ
【作者名】 宗則和子(botaniko press)
【版式・技法】 凸版(樹脂凸版) 

◎ 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室

DSCN7484【作品名】 『SORA 2012』
【作者名】 版画 : 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室
装丁:西尾 彩
【版式・技法】 凸版、平版(リトグラフ)
「キのスプーンのあじがするキセツに」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「そらが さびしくないように」 AOYAMA YUKIE 青山由貴枝
「ソラノオト」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「いつも見あげております」 ISHIAI HIROKO 石合広子
「ソラ タカク」 YUKO SASAI 笹井祐子
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DSCN7480【作品名】 『THE LOVE OF BOOKS ― Old English Song
【作者名】 版画:日本大学藝術学部 美術学科
高浜利也、菊池史子、笹井祐子、宮澤真徳、山﨑香菜、大槻孝之、
日比野絵美、宮澤英理子
活字組版 : 大石 薫(アダナ・プレス倶楽部)
製 本 : 栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 版画 : 凸版(リノカット、木版)、凹版(銅板)、平版(リトグラフ)、モノタイプ(モノプリント)など    文字 : 凸版(活字版印刷)

本書は、第35回全国大学版画展(主催:大学版画学会/町田版画美術館)において、日本大学藝術学部 美術学科 笹井祐子准教授(当時)と、大学版画学会所属のアダナ・プレス倶楽部 大石薫による公開セミナー「版画と活字」のための参考展示作品として制作されたものである。
活字版印刷を導入した授業展開の一例として、同じ詩をテーマに、各々でイメージをふくらませながら、それぞれのイメージに合った技法で版画を制作し、一冊の折本のかたちにまとめた試みである。手製本はアダナ・プレス倶楽部会員 栃木香織の協力による。

◎ Bonami
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【作品名】 かみきりサックル
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)   絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 さくらとカトリ
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)  絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】日々への手紙
【作者名】作者:三木葉苗
装丁・印刷・手製本:Bonami
【版式・技法】凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 dear my sister
【作者名】 絵 : 三木咲良 文 : 三木葉苗
装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 凸版(活字版印刷、樹脂凸版)   平版(オフセット平版印刷)

関 宙明 ユニバーサル・レタープレス
DSCN7507【作品名】 『わが友ユダ』
【作者名】 詩 : 新井延男      版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『草地の時間』
【作者名】 詩 : 村野美優      版元:港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『鈴を産むひばり』
【作者名】 歌 : 光森裕樹       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『夜の甘み』
【作者名】 詩 : 伊藤啓子       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷:内外文字印刷
表紙箔押し:真美堂手塚箔押所
デザイン:関 宙明
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【作品名】 『詩への途中で』
【作者名】 詩・エッセイ : 高橋 馨        版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
―――
これら一連の書籍のアートディレクション・デザインを担当した関 宙明氏は、Adana-21J をもちいた活版印刷部門ユニバーサル・レタープレスでのみずからの活版印刷実践を、本職であるグラフィック・デザインにも活かし、活版印刷所とのコラボレーションによる書籍づくりを展開しています。

杉本昭生 ぢゃむ
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【作品名】 活版小本
印刷・製本 : すぎもとあきお(ぢゃむ)
【版式・技法】 文字 : 凸版(樹脂凸版)

『芥川龍之介の遺書』芥川龍之介/『マーク・トウェインの箴言集』マーク・トウェイン/『菊池寛』菊池寛/『實語敎』/『盈満の咎』/『黒猫・餅饅頭』薄田泣菫/『漢詩抄』/『子規随筆』正岡子規/『死生に関するいくつかの断想』ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)/『狂訳 小倉百人一首』/『盈満の咎 弐』/『獨樂吟』橘曙覧/『Greise  老人』リルケ・森鴎外訳/『冬日の窓』永井荷風/『老嬢物語』ギ・ド・モーパッサン/『舞鶴心中の事実』高浜虚子/『我が子の死』西田幾多郎/『電車の窓』森鴎外/『尾生の信』芥川龍之介/『夢十夜より  ─第三夜─』夏目漱石/『てがみ・二十一のことば』チェーホフ/『蜜柑』芥川龍之介/『老人の死』シャルル・ルイ・フィリップ/『ごぜくどき地震の身の上』/『道理の前で』 フランツ・カフカ/『変な音』 夏目漱石/『名家遺詠集』/『挽歌詩三種』 陶淵明

◎ タイポグラフィ学会創立10周年 特別参加
Print
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【作品名】 タイポグラフィ学会創立10周年 特別展示
【作者名】 タイポグラフィ学会 有志
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【作品名】 タイポグラフィ学会「本木昌造賞表彰状」
【作者名】 紙面設計 : タイポグラフィ学会
活字組版・印刷 : 大石 薫(タイポグラフィ学会会員)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)
オーナメント、プリンターズ・マーク : 凸版(銅凸版)
オーナメントは『BOOK OF SPECIMENS』活版製造所
平野富二(明治10年)より採録

◎ Lingua Florens(桐島カヲル)

DSCN7495【作品名】 断片小説
【作者名】 Lingua Florens(桐島カヲル)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)      図版 : 孔版(シルクスクリーン)

インキローラー鋳型とその鋳込み法-欧文印刷の権威:小宮山清さんからお便りがありました

長崎タイトルDSC03576 DSC03579 DSC03586小宮山清氏。昭和6年2月26日うまれ。[1]インキローラー鋳型とその鋳込み法-Ink roller mould & ink roller casting

活版 à la carte : 2016年05月19日}に欧文印刷の大ベテラン:小宮山印刷工業の小宮山清さんからお便りを頂戴した。
小宮山さんは{Viva la 活版 ばってん 長崎}にご夫妻で参加され、{崎陽長崎・活版さるく}には最長老のおひとりだったが、終始若者にまじって、きつい坂道もものともせず行動をともにされていた。

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。会長だの顧問といった肩書きに類するものはまったくない。
ところが小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  8?歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関して、わが国有数の知識と経験を有されている。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね*020
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[小宮山 清]
今回の長崎では貴重な物、珍しいところ、存分満喫させて頂きました。

会期終了の次の日に「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」の記念館に寄ってきました。宮田和夫様に長時間ご案内していただき申し訳なかったです。 特に上智大学(イエスズ会)のことで共通の話題などがありました。  

帰りがけに記念館のショップで、雑誌「楽」を買ってきました。 本木昌造、平野富二、二十六聖人のことが書かれてまして。今回の旅行のためのようでしたが、宮田さんがこれを執筆されたのは2012年の発行なのでびっくりしました。
戦前派には欠かせない「原爆資料館」にも行ってきました。本当に楽しい旅行でした。 有難うございました。

ローラー鋳型の写真   20160523222018610_0001 20160523222018610_0002 20160523222018610_0003 20160523222018610_0004『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』 (活版製造所 平野富二 伝明治10年版 平野ホール蔵) p.102 右肩にインキローラー鋳型が MOULD とされている図版記録をみる

最近の朗文堂のブログで見たのですが、インキをつけるローラーの鋳型のことです。
これはとても貴重な写真です。
わたしの手もとには見当たらないので、
よろしかったら、この写真のデーターを送って頂きたいのですが。  

これはわが家にもありましたが、戦前にテキンを購入すると附属品としてついてくるものでした。戦前のインキローラーは、ゴムではなく「にかわ」でした。夏になると印刷中にとけてしまってとても大変でした。
戦前でも勿論ローラー屋さんがあって「たき替え」をしてもらいました。 古いローラーをもう一度「煮なおし」て、各印刷屋に届ける商売です、ローラー屋さんの工場の中は湯気でもうもうでした。

戦後の復興にあたり、わが家でも昭和22年にまたテキンを設備しましたが、ローラー屋さんがまだ再開していなかったので、「にかわ」を買ってきて、テキンと一緒についてきたローラー鋳型でローラーを作って印刷したりしました。  

私事ですが、山の会の友人で印刷用ローラーを作っている知人に、昔は「にかわ」を使って印刷のロールを作っていた事を話した事があります。 この写真を見たとき、これは、どうしてもその知人(『ゴム工業便覧』1,300ページの図書の著者)に、この写真を見せなければと思い、このメールを書いた次第です。

{Viva la 活版 ばってん 長崎}13 新町活版所・境賢治と 貴重資料 インキローラー鋳型 Ink roller mould

長崎タイトル

2-1-49043 32-1-49545-2<Viva la 活版 ばってん 長崎>主会場となった長崎県印刷会館に、長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が明治期に使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が所蔵されている。
きわめて貴重なものではあるが、平素は収蔵庫のなかにしまわれている。今回のイベントに際し、これも貴重品の同館所蔵の「アルビオン型手引き印刷機」二台とあわせ、主会場中央に展示した。

設営日に一時間ほどをかけて清拭し、機械油で注油もして、脇には日吉洋人氏製作のB4判の解説パネルもおいて展示したが、なにぶん今回はコンテンツが多すぎて、この一見地味な機具はあまり注目はされなかったようである。
なにより会場写真として「インキローラー鋳型 Ink roller mould」をアップして撮影した資料はまだ手もとには到着していないのが現状である。したがって「インキローラー鋳型 Ink roller mould」の写真紹介は、前日に収蔵庫にあったときのものを紹介する。
総鉄製で重量は20キログラムほど、重厚感と迫力のあるものである。
DSC03576 DSC03579 DSC03586  インキローラー鋳型1030949

インキローラー鋳型とその鋳込み法
Ink roller mould & ink roller casting

【 roller casting 】  Walzenguss
膠ローラーの鋳込み。インキローラー鋳型(mould)は、円筒状もしくは半円筒状のものを合わせて円筒にしたもので、この筒孔の中心に鉄心棒(roller stock)をたてて、液状のローラー材料(roller composition)の融解せるものを流しこんだり、圧搾空気で注入してインキローラーを製作する。いずれの方法によるも、表面に気泡の生ぜざるように注意するを要す。
『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)

このように、翻訳書としてインキローラー鋳型とその鋳込み法(Ink roller mould & ink roller casting)を解説した『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)は、現在はいわゆる『印刷辞典』の第一版とみなされている。

ところが、第二版以降は、この項目は省略されて第五版にいたっている。
すなわち明治の末ころになるとインキローラー専門の工場が誕生し、一般にはこの機器の解説が不用となったためのようである。
機器や技術の変転がはげしかった「印刷」をつづった『印刷辞典』には、版を重ねるごとに、このようにふるい機器や技術の記載は、仕方がないとはいえもれている事例が多い。

インキローラー(ink roller)は、印刷インキを練ったり、印刷版面にインキをつけたりするための丸棒である。活字版印刷では、ふるくは皮革製のインキボール(タンポとも)をもちい、近年ではニカワ製のインキローラーが多くもちいられてきた。印刷の品質に関わる重要な機材のひとつである。

67現在では一定の耐久性のあるゴム製ローラー、合成樹脂製ローラーが多く使われている。明治中期ころのニカワローラーは7-10日ぐらいで摩耗・劣化がみられ、職人がみずから「巻きなおし(たき替え・煮なおし)」作業にあたっていたとされる。
日日の清拭作業、使用状況と保存状況によるが、いまでも、ときおりは鉄心棒(ローラー軸)と両端のコロを添えてローラー専門工場に依頼し、「巻きなおし」作業が必要になる。
この作業は「養生」を含めて相当の日数を要するため、本格印刷工場ではインキローラーをはじめから交換用予備を含めて複数セットを設備することが多い。

現在ではインキローラー専門の製造・巻きなおし工場も充実している。そこでは耐久性にすぐれたゴムローラーの製造がほとんどで、まれに簡便な樹脂ローラーをみるが、かつては臭気がつよい天然ニカワ(膠)をもちいて、作業者自身が煩瑣な「インキローラー(境賢治は肉棒としるしている)巻きなおし」を頻繁に実施していた。

境 賢治長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が長崎県印刷工業組合に所蔵されている。 またその鋳込み法(ink roller casting)に関する記録が『本邦活版開拓者の苦心』にみられるので紹介する。

我が国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所
境 賢治氏 ── 煮方の秘奥を公開す ──

膠ローラーに就いては、今日尚、研究している人が多いくらいであるから、明治初期の関係者が如何に多くの苦心をこれに費やしたかは恐らく想像外であろう。本木[昌造]先生の創設された新町活版所に在って霊腕ママを振るっていた境賢治氏は、明治十年頃から、膠に色々の物を混合して、ローラーの耐久力に関する研究をしていたものである。

明治二十三年になって、其当時としては稍稍理想的なるものを発見することが出来たと云うから、研究にだけ(でも)十何年かを要したことになる。
然るにこの尊い経験を惜しげもなく一般に公開したのであるから、昔のひとは流石に寛容で恬淡で何となく大きいところがあったように思う。
[境賢治]氏の経歴其の他に就いては、調査未了なまま惜しくも省略して、此処には単に氏が公開した肉棒煮方秘訣の一文を記載することにした。

拝啓 ローラーの煮き方に就いては、貴所も随分御苦心致し居られ候も、今回当所にては、肉棒を練るに塩を少々宛入れて練り、殆ど一ヶ年間試験を致し見候処、暑寒により塩を増減し、冬分は膠八斤一釜に塩十六匁を加えて煮き、夏は塩四匁、此割合を用いれば肉棒堅くなること普通法より長く日数を保つのみならず、煮直しをなす時にも早く砕くるに付、其利益莫大なり、最も之は昨春以来当所に於て試験の成績に有之候故宜敷御心懸御実験可然と奉存候。其煮直しにも是迄十日間保つものは十五日間位は必ず差支無之候間兎も角御実験可然と奉存候。
二白 砂糖蜜又は蜂蜜は是迄の如く膠に加え候上に塩を加う事に御座候。
明治二十四年五月
長崎新町活版所  境    賢  治
「わが国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所 境 賢治氏-煮方の秘奥を公開す-」 『本邦活版開拓者の苦心』 (伝三谷幸吉執筆、津田伊三郎編、津田三省堂、昭和9年11月25日、p.171-172)

このように境賢治の記録を『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)にのこした三谷幸吉は、境賢治とは面識がなかったとみられ、半世紀余も以前の、たれに向けたのか判然としない境賢治の書簡を紹介するのにとどまっている。
長崎の新町活版所は、おおくの逸材が大阪・横浜・東京へとあいついで去り、新街私塾(新町私塾)関係者としてはひとり境賢治が孤塁をまもっていた。
ちなみに文末の「二白」は追伸と同義である。

 この新町活版所の孤塁を守りつづけたとされる境賢治に関する記録はすくない。
このすくない記録を整理すると、境賢治は1844年(弘化元)にうまれ、明治帝の最末期に贈位にもれたひとを詮議した1911年(明治44)には67-68歳で健在であったようである。
またこの世代の長崎印刷人の多くは新町私塾の終了生であったが、境賢治は塾生としての記録は見ない人物である。

わずかに『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 朗文堂 p.353)に肖像写真と以下のような記録をみる。
境 賢治20160519202753637_0001

 

 

 

 

 


本木昌造御贈位の詮議があった明治四四年(1911)のころには、長崎在住のおおかたの本木昌造の友人や子弟は物故していたが、高見松太郎(新町私塾出身 貿易商)、岡本市蔵(新町私塾出身、同塾会計掛をつとめた。長寿をたもち反物商)、立花照夫(新町私塾出身、長崎諏訪神社宮司)の三氏が健在で、ほかにはわずかに長崎新町活版所の境賢治(1844-?)が長命をたもっていた。したがって本木昌造の事績調査は主としてこの四名がその任をつとめたのである。

《活字組版術に長けたひと 長崎新町活版所/境賢治による『聖教歴史指南 完』》
本木昌造一門のうち活版印刷術の技術者の多くは、紙幣寮(印刷局)、大阪活版製造所、東京築地活版製造所などに旅立ったが、長崎に残留したのが境賢治であった。

境賢治がのこした印刷物は『長崎新聞』(初代)、『西海新聞』などの新聞印刷のほかにも数点しられるが、『長崎古今学芸書画博覧』(西道仙 海人艸舎蔵版 明治13年 新町活版製造所)、『書画雑記』(筆記幷出版人・西省吾 肥前長崎区酒屋町51番戸 西道仙か?)など大判の枚葉印刷物も多い。すなわち明治12年頃の新町活版所には、手引き印刷機ではなく、相当大型の円圧シリンダー型の印刷機があったと想像されるのである。

 ここに紹介したのは冊子本で『聖教歴史指南 完』(米国聖教書類会社蔵版 明治17年5月)である。「聖教」はキリスト教の意であり、また聖書をも意味した。
最終ページには、振り仮名(ルビ)以外にはあまり使用例をみない「七号明朝活字」字間二分アキで、
「 印 行 長 崎 新 町 活 版 所 」
とちいさくしるしている。
聖教歴史指南 表紙 聖教歴史指南扉 (この項つづく)

{Viva la 活版 ばってん 長崎}12 ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。
平野富二
<平野富二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町司(町使)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。
1872年(明治05)婚姻とともに引地町をでて外浦町に平野家を再興。平野富二と改名届出。同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)など、在京わずか20年でわが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用して、活字品質と鋳造速度の向上をはかり、東京進出直後から、在京活字鋳造業者を圧倒した。
federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]三階主会場には平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出されていた。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、福地櫻痴筆とされる)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391また平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋さんで、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。今回は家祖の出身地長崎にきて、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。
1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize下掲写真は平野富二生誕地、長崎町司「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)である。
{5月7日 崎陽長崎・活版さるく}参加者のみなさんとの記念写真となった。
今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、{活版さるく}で皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
上写真/懇親会会場入口にて 右) 山本太郎さん 左) 日吉洋人さん  横島大地さん撮影
下写真/受付業務担当日の横島大地さん、松尾愛子さん  ほか日吉洋人さん提供写真
横島撮
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DSCN74231030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会