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<字と呼ぶ國、漢字という国> 畑 畠 そして 手紙 嗚呼 !!

 

Web畑・畠《 畠中 結 さんとの往復書簡から  往 信 》
畠 中 結様  楊   黙  様 ── 片塩二朗  2014年05月25日

きょうは日曜(星期日)ですが、野暮用があって出勤しています。
お送りいただいた上海の活字鋳造所の写真データーは、さっそく〈朗文堂 アダナ・プレス倶楽部〉 と 朗文堂〉、双方の WebSite で使用させていただきました。ありがとうございました。

なおがき
いまは上海にお住まいの<畠中さん>のお名前をみるたびにおもいだすのですが、30-20年ほど前にしばしば中国にでかけていました。その折、上海の強 暁明さんという知性のあるかたと懇意になって、「手紙」の日中での意味のおおきな違いからはじまり、やがて日本製の字<国字>のはなしになりました。
強 暁明さんは、わたくしが手帳にしるした<畑 ・ 畠>の字をしばらくみつめて、
「これは<字>ではありませんね」
とニッコリとしながらも、断言されていました。

あれから20数年が経過しましたが、わたくしがときおりもちいている『 漢 典 』をみても、いまなお<畑 ・ 畠>ともにユニコード対応になっており、「日本の姓名につかわれる」とする程度の、素っ気ない解説をみるばかりです。
ユニコード対応の<字 / 畠>は、現在の中国ではどのように扱われているのか、お時間のあるときに
でもご教示いただけたら幸甚です。
朗文堂  片塩 二朗
畑 畠──────  日本の電子版 簡易 漢和辞典 での紹介
<畑>
教育漢字 小学校三年配当。常用漢字。 シフトJIS : 94A8
常読 : はた/はたけ
意読 : はた/はたけ

<畠>
人名漢字。 シフトJIS : 94A9
意読 : はた/はたけ

《 畠 中   結 さんとの往復書簡から  返 信 》
片塩 二朗様 ── 畠 中   結 2014年05月29日
メールありがとうございました!
月末月初はどうしてもバタバタしてしまい、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
また〈アダナ・プレス倶楽部ニュース〉、〈活版アラカルト〉、〈朗文堂ニュース〉を拝見いたしました。とても素敵です!

そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。
ただ、公的な名前という意味でいえば、中国でもアルファベット表記になりますので、日常生活では不便でも基本的には大丈夫です。

しかし中国では、英語よりもやはり漢字のほうが受け入れられますから、病院の受付などで英語で書くわけにもいかず……、それに見た目は外国人というわけでも無いですし……。
実は、わたしの<畠中>の名字は、「はたなか」とよく間違われるんですが、正しくは「はたけなか」なんです。
一時は日本の健康保険証のふりがなを間違えられていたことがあって、日本にいた時からすでに不便でした。それに大学のおなじクラスに、偶然にも「畠中 はたなか君」がいたもので、出欠をとるときも毎回間違われていました。

ですから今までずっと名字(姓)を訂正してきた人生でしたから、結婚したら名字が変わるんだ! と、ものすごく期待をもっていましたが、国際結婚のために夫婦別姓……ガーーン。
しかも中国に来ても、またまた不便な名前が<畠中>。
でももうこれが運命だと思って受け入れています(笑)。

最近の日本では、子供に複雑な名前を付けるブームがあるようですが、名字を訂正する人生の苦しみを知っているわたしは、誰でも読める単純な名前が一番良いかと思っています。ただ、名字は選べないですが。
また何かありましたら何でもご連絡下さい!
上海は今はもう夏です、このまま09月頃までヒートアイランド現象で暑くなります。
片塩さん、大石さんもお体には何卒お気をつけて!
畠 中  結

──────
《中国の(男性の)友人には、<手紙>を出さないほうがよい !? 》
30-20年ほど以前のはなしである。そのころ上海旅遊社の添乗ガイドだった強暁明さんに何度かお世話になった。強さんはいくぶんやつがれより年嵩だったが、のちに日本の大手建築会社に就職して、上海に日系のゴルフ場やビル(大楼・大厦)をつくるなどしていた。
このころの中国旅行とは不便なもので、旅行の最初から最後まで添乗するガイドと、それぞれの目的地の現地ガイドと運転手を引き連れての「お大名旅行」であったが、現地通貨/人民元ならぬ兌換券ダカンケンという名の、外国人専用の紙幣がつかえる場所-政府公認の場所にしかいけなかった。

強さんは上海大学を卒業して、流暢な日本語をあやつる知的なひとであった。このかたとすっかり親しくなって、上海から西安へ、上海から北京へ、上海から洛陽へ、上海から杭州・蘇州・無錫へと、数次にわたった列車(軟座か寝台車)での長い往復の旅行中に、さまざまな雑談もした[『逍遙本明朝物語』片塩二朗、1994年 p.60-]。

もちろん携帯電話も電子メールも無い時代のことゆえ、当初の連絡はもっぱら国際電話か書状(航空郵便)であり、のちにかろうじてファクシミリ(伝真・传真)となった。
その文中に、やつがれは無意識のうちに、なんども「手紙」と書いていた(らしい)。

たしかに日中は同文の国ではあるが、その意味するところがおおきく異なることがある。
たとえば「自動車」は、中国では「汽車」であり、わが国の「汽車」は、中国では「火車」である。

洛陽の茶館で、強さんがいいにくそうに、中国での「手紙」が意味するところを教えてくれた。当時のやつがれは「手紙」が「衛生紙」であり、トイレットペーパーを意味することは知っていたが、コノテーション(言外の意)としてまったく別の隠れた意味合いがあることは知らなかった。
漢 典 』にリンクしておいたのでご覧になってほしい。「手紙」から引いていくと「衛生紙」に誘導される。
すなわち、
ここでも「手紙」が中国で(あんに)意味するところ、とりわけ 2. ── が説くところはしるしにくい。
手紙《田 tián、圃 pŭ があれば十分でしょう。畑、畠の字は中国ではみたことがありません》
たぶん上海から蘇州への列車(火車)の車中だったとおもうが、車窓からみえる稲をつくっている「田圃/たんぼ」と、野菜をつくっている「畑/畠」をわけてはなしていたことから、いつのまにか<国字>のはなしになった。
【ウキペディア : 国  字 】  【URL : 漢字辞典 国字とは 】

強さんは最初のうちはニヤニヤして、
「漢字という呼び方は日本独自のもので、わたしたちは<字>がふつうです。まれに<国字>とも書きますが、それは日本でいう<漢字>のことで、中国でつくられた<字>ですよ」
「それはある程度わかります。強さんは国文学部出身でも、日本風にいうと、中国文学学部になるしね。ではこれからは<日本製の字>ということにしましょう」
「日本製の字といえば、この前日本にいったとき、寿司屋で<魚づくし>というのですか、魚偏の字だけで文[文様]にした湯呑みをみました。あの造字法はおもしろかったですよ」
「中国の魚偏の字は少ないからね。黄河に棲んでいた魚の字ぐらいしか無いようだ。内陸部では海をみたことがなかったのかな」
「殷商のみやこ、鄭州や安陽だけでなく、周、隋、漢など、造字活動がさかんだった時代のみやこは、ほとんど黄河の上流から中流域にありましたから、古代の神官などは海の魚を知らなかったのでしょう。その点では日本はきれいな水の河川が多いし、四方が海ですから。魚もおいしいですね。だから魚偏の字が多いのでしょう。」

「じゃぁ、まえからふしぎにおもっていることだけど、<鮎>は国字 モトイ 日本製の字ですか」
「あぁ前回の宿題ですね。大学の図書館で調べてきました。<鮎 nián>は、中国ではなまずのことでした。それがどういうわけか日本では清流に棲む<鮎 あゆ>に字義と字音がかわり、そして日本では「鮎」とは別に、わざわざ<鯰 なまず  nián>という字をつくったようです。それが中国に逆輸入されました。この「鯰」の字はいまの中国でも使えます」
「じゃぁ強さん、鮎・あゆ と 鯰・なまず は、同音・同義の異体字ということですか」
「中国には鮎が遡上するような清流は、すくなくとも中原にはありませんし、あの柳の葉のような美しい魚をみたことはありません。ですから中国での字としては、鮎も鯰も両方とも日本のなまずですし、中国音 nián です。ですから鯰は鮎の異体字(异体字)といえますね」
田 圃
「鯰を鮎の異体字だとするとは恐れ入ったね。いかにも中国的なおおらかさだ」
「いや、片塩さんもおおらかですよ。さっきから<たんぼ 田圃>といっていますね。わたしたちは<田 tián>と、<圃 Pŭ>は明確にわけていますよ」
「これは一本とられたな。日本では<たんぼ 田圃>を便利につかいすぎているところがあるのかもしれない。つまり田と畑・畠は別のもので、水を張って、おもに水稲をつくるところを<田・水田 or 田圃 たんぼ>といいます。そして平らな耕地に水を張らないで、おもに野菜や果樹・花卉を育てるところを畑といいます。そして畑のなかでも水利のわるいところは畠ではないでしょうか。これは個人的な意見ですが」

「その意見はおもしろいですね。許慎『説文解字』的にいうと、焼き畑でつくった<田 tián>が畑ということですね」
「そう。もとは焼き畑だったから火偏がのこった。そして 白+田 = 畠は、水利がわるいはたけということです」
「説文解字でも、余白・空白のように、白にはゼロ・零にちかい意味があるし、その個人的見解は納得できますね」
「なにかふたりだけで盛り上がったようだね。そろそろ蘇州が近いんじゃない」
というわけで、<畑/畠>は、火車のなかでの強 暁明さんによれば、やはり、
「これは 字 では無い」
ということになった。

《 なほかき なおがき 追伸 Postscript 》
中国では<田/畑・畠>を、ふつう明確にはわけて認識しないことは何度か本欄でもしるしてきた。
また「手紙」の例と同様に、中国での<異体字/異體字/异体字>には、コノテーション(言外の意)、あるいは含意として、「(おもに北朝などの非漢族の)異民族がのこしていった字」という、隠れた意味合いもある(『漢語詞典』)。

そこでふたたび畠中結さんのおたよりにもどってみよう。
そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。

中国では<田/畑>は、ともに中国音で<tián>であることは紹介した。すなわち同音であり、ほぼ同意の異体字とみなしていることになる。
したがって日本の姓の「畑山・畑野・畑中」などは、パソコンなどで表示できないばあいに「田山・田野・田中」などに置きかえられることがある。同音・同意なので悪意はないだろうし、むしろ「田」という姓は中国では名門に属する。

いっぽう<畠 zāi, zī>は同音・同意というわけにはいかない。こういうときには部首に注目するのが中国である。「畠 の部首は 田」である。またそこに「畑山・畑野・畑中」などを、「田山・田野・田中」に置きかえたのと同様な思考もはたらいたとおもえる。もちろんここにも悪意はないとおもってよいだろう。
こうして畠中さんのお名前は、中国ではときおり「田中」と表示されるのであろうとおもえる。

ことばとその音がかわるのとおなじように、字 ≒ 漢字はもとより、仮名 でさえもその変化のあゆみをとめない。これがして、<字学>のおもしろいところではなかろうか。

【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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★ 中国 上海の活字製造と活版印刷関連情報 ── 畠中結さんからのご報告

──────
楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
14_dscf5048[1] 1_1[1] 6_work02[1] 7_privarte10_v2[1] 9_work03[1] 8_privarte112[1]

《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
──────
西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
──────
ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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