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【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
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中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

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【ことのは】版画同人誌『月映』|恩地孝四郎 ── 田中恭吉わかくして逝き そののこすところの作、あまた。

『田中恭吉作品集』
(著者:田中恭吉、編者:三木哲夫、1997年、玲風書房)

  上版のことば
一人あり。ここにいのちをこめてつくしたるこの世のわざ、あはれ
漸くその扉を開きしのみにしてその身を失ひたり。 田中恭吉わか
くして逝きそののこすところの作、あまた。 そのいける時心願就
らざりしかば、なげきいくばくぞや。さはれ、そののこせるもの、
未だ彼のすべてを張らざりといへ既にそののちの姿を潜ましむ。捨
つるに惜し。そをとりあつめて世に遺さむ願、ただに己の私情にあ
らず。彼、世をあいしいのちをあいし、我、世を愛しいのちを愛す
れば、ここに版に上して、心を齊しうする人々のまへに置き、彼を
愛する人とともに、彼世にありしを記銘せむ希ひなり。
一九一六年二月                 恩地孝四郎

【『月映』の三人の同人と田中恭吉を巡って】

◯ 恩地孝四郎(おんち-こうしろう 1891-1955)
大正-昭和時代の版画家、装本家。明治24年7月2日うまれ。東京出身。東京美術学校(現東京藝術大学)中退。抽象木版画の先駆者。竹久夢二と親交をむすび、大正3年同人誌『月映』を創刊する。
愛書家・活字狂を自認していた志茂太郎の委嘱により、愛書誌『書窓』シリーズの著作とデザインにあたった。日本創作版画協会、日本版画協会の創立に参加。萩原朔太郎の『月に吠える』や『北原白秋全集』などの装幀も手がけた。昭和30年6月3日死去。63歳。著作に『本の美術』、『工房雑記』など。

◯ 藤森 静雄(ふじもり-しずお 1891-1943)
大正-昭和時代前期の版画家。明治24年8月1日生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と詩と版画の同人誌『月映』を刊行。大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。『新東京百景』(恩地孝四郎らとの共同制作)や『大東京十二景』が代表作。昭和18年5月28日死去。53歳。福岡県出身。

◯ 田中 恭吉(たなか-きょうきち 1892-1915)
大正時代の版画家。明治25年4月9日うまれ。白馬会洋画研究所をへて、明治44年東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。その後恩地孝四郎との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森静雄も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯『月映』〔いわゆる私家版『月映』-つくはえ-* 01 〕を刊行した。
しかし恭吉は大正2年(1913年)頃から肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
その作品はエドヴァルド・ムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。帰郷後は躰に負担のかかる版画ではなく、詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年(1914年)9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
遺作が萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵として紹介された。装幀は友人の恩地孝四郎。和歌山県出身。号は未知草。
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『田中恭吉作品集』には「田中恭吉小伝 ── 大槻憲二」(p.79 – 90)が収録されているが、その最終部には以下のようにある。

〔前略〕最後にあたって彼の遺友たる我々十数名の者の彼に対する友愛と、さゝやかな努力の集積とが、変して彼の遺作展覧会となりたる事を、自分は附記しておかねばならぬ。
それは一九一五年(大正四年)十二月三、四、五日の三日間、日比谷美術館で催された。
それは可成りの成功を収めたようであった。一堂の下に集められた彼の生涯の作品は、実によくまとまった立派なものであった。
また恩地の努力と好意とによって、今や彼の遺作集は出版される事になり、自分はその内に収めるために、彼の小伝の筆をとる事になった。

[追 記]
併しその出版は成功しなかったようで、私の書いた「伝記」も空しく筐底に埋もれることとになって今日に至った。

この大槻憲二による「田中恭吉小伝」がおよそ八十余年ののちに筐底を脱するのには、当時和歌山県立近代美術館・学芸課長/三木哲夫氏(のち国立国際美術館学芸課長、現兵庫陶芸美術館館長)の常にあらざる努力によった。
『田中恭吉作品集』「あとがき」(p.134 – 5)からみてみたい。

あとがき

田中恭吉は、大正四年十月二十三日、自らの生命を燃焼させ、生と死とのすさまじい緊張を表現した作品を残して、二十三歳の短い人生を閉じた。
数日を経て、和歌山から東京の友人たちに訃報が伝えられると、その死を追悼するに当たって、藤森静雄は遺作展の開催を、恩地孝四郎は遺作集の出版を主張したという。

この二つの計画は、直ちに実行に移され、遺作展は十二月三日-五日の三日間、日比谷美術館で開催されたが、遺作集の方は、恩地の懸命の努力にもかかわらず、大正五年二月、資金難のために出版を断念するに至った。
恩地はこのことを生涯負目として持ち続けていたようで、私が恩地家に保管されていた恭吉の作品を一括して和歌山県立近代美術館に譲っていただくために、昭和五十四年頃から恩地孝四郎の長女三保子さんをお訪ねするようになった時にも、

「父は恭吉さんの遺作集を出版できなかったことを生涯悔やんでいました」
としばしば聞かされた。

またその後、昭和五十九年に恭吉の作品・資料を一括して当館に寄贈することを内諾された折にも、三保子さんが当館に示された条件は、
「一、作品を大切に保管すること。二、展覧会を開催すること。三、きっちりとした画集を出版すること」
の三つであり、三保子さんご自身も父孝四郎の遺作集断念を相当気に掛けられていたようであった。(なお、この寄贈の話は、同年十二月に三保子さんが急逝されたため一時中断したが、六十二年六月に恩地孝四郎の長男邦郎氏から、恭吉の友人であった香山小鳥の作品・資料とともに一括して当館に寄贈された。)

この三保子さんと当館が結んだ公約の三番目、画集出版は経費面からなかなか難しいと思っていたが、幸いにも玲風書房の生井澤幸吉氏からお話をいただき、ここに実現の運びとなった〔後略〕。

【奇遇でした。三木哲夫氏とはほぼ同世代。
       1980年代の初頭、ほぼ同じころに荻窪の恩地邸を訪ねていたようです】
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【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

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【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
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【ことのは】印刷業界用語|インキ|いつの間にか「インク」に押されているようですが|国立印刷局と本木昌造・平野富二関連調査の端緒

独立行政法人 国立印刷局お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展 お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
’18年12月18日-’19年3月3日 フライヤー裏面ゟ部分

お札や切手の印刷に使われるインキは、他とは一線を画した特殊なインキです。それは、偽造を防ぐため、門外不出の製法によって開発する特製品であり、また、色と印刷を知り尽くした職人が編み出す特別な色だからです。
印刷局は、創業後間もない明治5-1872年からインキ事業を開始し、日本で初めて洋式の印刷インキを製造しました。その後も、技術の進歩に合わせ、時代の要請に応えながら、インキの技術開発を続けてきました。
本展では、およそ150年にわたる歴史のうち、明治・大正期を中心に、当時編み出したインキや「色」にまつわる資料をご紹介します。激助の時代を乗り越え、連綿と絖く印刷局のインキ開発によって生み出された、伝統あるインキの美をぜひご覧ください。
独立行政法人 国立印刷局 お札と切手の博物館、通称国立印刷局の特別展フライヤーから一部を紹介した。この短い文章の中に「インキ」ということばが八回出てくる。
すなわち国立印刷局では、創立直後には「印肉」とも呼んだようであるが、いつのころからか「インキ」といい、いまもって「インク」とはいわないことがわかる。

当然それは民間にも影響を与えた。
印刷・出版業界、なかんずく印刷用インキの製造・販売業者は、社名の一部にインキを用いている業者が多く、「インク」というと露骨に嫌な顔をするか、丁重にいいなおしてくることが多かったが …… 。それでも近年は「インク」に馴れて、次第に「インキ」派は少数勢力になっているようである。業界用語とはいえ時代の趨勢とともにあり、そんなものかも知れないとおもうことがある。
以下『印刷辞典』からその推移をみたい。

◎『印刷辞典』の第一版『英和 印刷=書誌百科事典』(印刷雑誌社、昭和13年01月15日)
  ink  インキ。書冩、印刷等に用ふる着色料の總稱。
◎『印刷辞典』の第二版『印刷辞典』(昭和33年10月20日初版、昭和41年6月20日第6刷、大蔵省印刷局)
  インキ ink ; Farbe, Tinte 書写・印刷などに用いる着色料の総称。筆記用インキ・印刷インキ、製版に用いる腐食用インキ・転写インキなどがある。
◎『印刷辞典』の第三版『新版 印刷辞典』
(昭和49年9月10日、大蔵省印刷局)

  「インキ」の単独項目は見られない。インキ=アジテーター以下20項目の派生語を紹介。
◎『印刷辞典』の第四版 所有せず
◎『印刷辞典』の第五版『印刷辞典
第五版』(平成14年1月7日、財団法人 印刷朝暘会)
「インキの単独
項目は見られない。インキ=アジテーター以下33項目の派生語を紹介。「インキローラー冷却装置」に続き、はじめて「インクジェット記録・インクジェットプリンタ・インクジェット用紙」の三項目に「インク」が登場するが、単独項目の「インク」は見られない。お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展
お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
開  催  日  平成30年12月18日[火]-平成31年3月3日[日]
開催時間   9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月10日[日]
開催場所  お札と切手の博物館 2階展示室
入  場  料  無  料

【 詳細: お札と切手の博物館 】
『印刷辞典』は印刷局にあった矢野道也と、その膝下にあった川田久長の貢献によって初版が刊行され、こんにちまで書名・編輯団体名・発行所名を変えながらも継続刊行されている図書である。
矢野道也は大蔵官僚という立場をこえて、ひろく印刷業界人と交際し、印刷学会を創立した。川田久長は秀英舎・大日本印刷の社員であったが、印刷図書館の創立に貢献した。

小社周辺では、タイポグラフィ学会と足並みを揃えながら、幕末の先端地であった長崎から、たれが、どこへ、どのように、当時の最先端技術・産業であった「活字版印刷術  ≒ タイポグラフィ」を江戸・東京にもたらしたのかの調査にあたっている。
その報告は「Viva la 活版  ばってん 長崎」『崎陽探訪・活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』09、2016年11月26日)、「メディア・ルネサンス」『江戸・東京活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』11、2018年11月15日)になされている。

これらの成果をもとに、明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕の地を長崎歴史文化博物館と国立公文書館所蔵「長崎諸役所絵図 引地町町使長屋-ひきじまちちょうじながや」の資料から特定することができた。
次いで「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭を2018年11月23-25日、かつて引地町町使長屋が存在した長崎県勤労福祉会館を主会場として、記念碑の除幕、記念祭をおこなうことができた。

この記念碑は<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>が浄財を募って建立にあたったが、同会ではその記録を仮称:『平野富二生誕の地碑建立の記録』として刊行するために日々努力を継続している。もちろん<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>は、あくまでも民間の任意団体であり、補助金や助成金などは一切受け取っていない。

そんな努力に対して、近年少しずつ国立印刷局の役職員が関心を寄せてくれるようになったことは嬉しいことである。
かつて国立印刷局のお札と切手の博物館では、【 平成26年【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館 】を開催しており、その際の図録には長崎 ── 本木昌造と平野富二のふたりの肖像写真を掲げ、長崎との強い結びつきがかたられていた。同展を含む特別展の記録は、同館の WebSite に PDF データーが公開されていたが、現在は「改修工事中」ということで閲覧いただけないのが残念である。
上掲リンク先に川田久長、矢野道也の両氏を通じて国立印刷局と長崎の先端技術の交流の記録の一端をみていただけたら幸いである。

「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)

敗戦からまもなく、東京での家屋を戦災で焼失し、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に撮影された。当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より:佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より:馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

「この一冊の書物から」『印刷情報』(片塩二朗 2000年07月 p.73 – )
すこしつらい記録ですが、わが国そのものが狂奔していた戦時下の貴重な記録です

【 資  料 】
矢野道也(1876-明治9年-1946-昭和21年)
日本の印刷工業に科学的研究を導入した工学者。東京帝国大学応用化学科卒業。大蔵省印刷局に入り1945年6月退官。この間、紙幣、銀行券などの有価証券類の製造と、官報その他の重要活版印刷物の作成を研究指導し1919-大正8年工学博士。

1928-昭和3年6月「日本印刷学会」の創立を提唱して初代会長に就任。印刷技術者の教育に熱意をもち、官職にありながら東京高等工芸学校(現千葉大学工学部が一部を継承)、東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京美術学校(現東京藝術大学)の各学校で、色彩学、印刷術などの講義をおこなった。印刷関連の著書が多い。

川田久長(1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日)
明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月    東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年      秀英舎(現大日本印刷)入社。 同社関連企業の活字製造所:製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月    印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日  著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。 

【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日

肥州長崎図 安永7(1779)年(国立公文書館)

中央部、扇状に円弧を描いて海中に突出しているのが出島。はじめポルトガルが使用し、のちオランダ人が居住した。その下部の長方形の海中の島が新地荷蔵 並 御米蔵。その下部の唐人屋敷とは橋でつながっていた。唐人屋敷では家屋が密集していたため火災が頻発し、開港後に多くの中国人が新地に移動した。
この周辺は埋め立てがすすみ、唐人屋敷はわずかに石垣と濠跡をみるばかりとなり、昔日の光景を偲ぶよすがは少ないが、長崎空港からのアクセスが便利で、観光客が集中する繁華街。

長崎諸役所絵図 唐人屋敷(国立公文書館)

【唐人屋敷-とうじんやしき】
江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で、長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて、1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449 ㎡ ほど)、居住の建物は2階造りの19棟、部屋数50。市中の中国人はこの唐人屋敷に集められ、そこで暮らしていた。

各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ、階上は商人用、階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫、借地料3貫970匁余で、ともに唐人側の負担。
1701年の記録によれば、館内常置の役人は乙名(おとな-諸事の総支配管理役)3名、組頭(乙名の助役)4名、唐人番19名、探-さぐり-番(探偵)4名で、ほかに医師が内科10名、外科3名、眼科2名、牢屋医師が8名置かれていた。
一般日本人で出入りできる者は遊女、禿-かむろ-のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で、同年の来航唐船は5艘である。

1859(安政6)年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870(明治3)年に焼失。
その後、長崎に住む中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、現在の長崎新地中華街につながっている。
福建会館は唐人屋敷時代の孔子を祭る聖人堂の跡といわれ、福建省泉州出身者により創設された八会所がその起源。孫文は1913(大正2)年3月22日、華僑主催の歓迎午餐会で、福建会館に足を運んでいる。前庭には上海市より寄贈された孫文の銅像が建っている。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

長崎諸役所絵図 新地荷蔵 並 御米蔵(国立公文書館)

【長崎貿易・長﨑会所・長崎新地】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい、
(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代
(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代

(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代に区分される。

(1)南蛮貿易期
開港後まもなく、長崎は一時イエズス会領になったので(1580)、それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や、マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり、江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明、ついで清朝船だけでなく、東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し、さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

これに対し後発のオランダ、イギリスは、それぞれ1609年(慶長14)、13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが、直轄地長崎での糸割符制、キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は、しだいに平戸へも拡大された。

(2)鎖国貿易期
1633-41年の間に、日本人の出入国禁止、唐船貿易の長崎限定、対ポルトガル断交と、空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ、長崎は唐、オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも、鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易、実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易、松前藩による蝦夷地貿易があり、江戸中期には朝鮮貿易、末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。

唐、オランダ船が長崎に入港すると、奉行所役人や唐通事、オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し、人別改めや唐人は踏絵をして、上陸や荷揚げとなる。
唐人ははじめ市内に分宿したが、元禄以降になると身柄は唐人屋敷、貨物は新地蔵に収容され、出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。

取引方法は、糸割符、相対-あいたい-貿易法、市法貿易法、糸割符復活、代物替-しろものがえ-併用などと変化し、海舶互市新例(正徳新例)で確立したが、要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化、年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法)、元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出、後期には海産物(俵物、諸色)の輸出強化が注目される。
しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2)、90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ、漸次取引を縮減し、和糸や砂糖などの競合国産品の台頭、海外の戦乱などにより衰退した。

(3)開港後
唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが、長崎の独占は崩れ、武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴として、イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし、関税は輸入2割、輸出5分が平均的で、開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず、横浜・箱館などの取引に抑えられて、地位の低下は否めなかった。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

中国最大のお祭り、春節-シュンセツ-旧正月のお祝い
出島のエキゾチズム、異国趣味で賑わう長崎も

旧唐人町と、新地地区を中心に、いつもとは異なる風情をみせています

【 詳細: 長崎市公式観光サイト:あっと!ながさき 】
[ 関連: 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日 ]  初掲載:2018年11月29日

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【ことのは】ゆっくり、急げ!── FESTINA LENTE

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の時候のご挨拶。今回のテーマは
「ゆっくり、急げ!」

[参考:朗文堂ブックコスミイク『普及版 欧文書体百花事典』
[参考:花筏 タイポグラフィ あのねのね*014 アルダス工房、ドベルニ & ペイニョ活字鋳造所、アーツ&クラフツ運動]
現存するアルダス工房跡

【ことのは】烏 兎 匆 匆 ── う と そうそう

烏 兎 匆 匆 ウト-ソウソウ
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏 兎 匆 匆

先達の資料に惹かれ、あれこれの図書を渉猟し、おちこちの旅を重ねた。しかし 吾ながらあきれるほど喰い囓っただけのテーマが多い。文字どおり、
「うかうか三十、キョロキョロ四十」はあっという間に過ぎ去り、いたずらに馬齢を重ねた。

歳月-サイゲツ・としつき-とは、中華の国では、烏  カラス が棲む 太陽 と、 兎 ウサギ がいる 月 とが、 あわただしく行きかうことから「烏 兎 匆 匆 ── うとそうそう」 という。
そろそろ残余のテーマを絞るときがきた。 つまり中締め(大締め?)のときである。後事を俊秀に託すべきときでもある。
おあとはよろしいようで …… なのか、 おあとはよろしく …… なのかは知らぬ。

【ことのは】水仙-スイセン-Narcissus 花のことのは egotism-自己中心

空中花壇に咲く「日本水仙」。背景の赤い花は四季咲きのゼラニウム
水仙-スイセン-Narcissus 花言葉 egotism-自己中心

アマリリス科スイセン属の球根植物の総称;黄または白色の花をつける。
[1548.<ラテン語<ギリシャ語 nárkissos(球根に麻酔作用があるため nárkē「麻痺-まひ」と結びついた植物名)→ NARCOTIC]
〔ギリシャ神話〕 ナルキッソス:美しくてうぬぼれの強い青年が、泉に映った自分の姿に恋をして、満たされない望みにやつれ果ててスイセンに化したという。
[参考:『ランダムハウス英和大辞典』小学館]

正月三が日の間に、突如茎が仔鹿の脚のようにスクッと伸びてきて、フラワーポットの中央を占拠して咲きつづけているのが水仙。たしかにワガママだし、自己中心ともいえそうで納得。

【ことのは】明治150年祭|日本工学の父|山尾庸三| 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシー|

明治日本の産業革命遺産 紹介映像
萩美術館 掲載日:2016年1月28日
日本政府がユネスコへ提出した「明治日本の産業革命遺産」の推薦書に附属した、概要や資産などを紹介したビデオ(DVD)のホームページ版です。

* ナレーションは英語ですが、日本語がテロップ(文字)で紹介されています。
* 拡大画面で閲覧希望のばあいは、画面右下の YouTube の文字部 をクリックすると、YouTube com の別画面でご覧いただけます。

【 YouTube 明治日本の産業革命遺産  製鉄・製鋼、造船、石炭産業  音が出ます  36:22 】

Yozo_Yamao_011山 尾  庸 三(やまお-ようぞう 1837-1917)

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―

たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ
山 尾  庸 三
01-03.長州ファイブ(後列段左より:遠藤謹助、野村弥吉(井上 勝)、伊藤俊輔(博文)、前列左より:井上聞多(馨)、山尾庸三)長州ファイブ/長州五傑
前列右より時計回り、山尾庸三(工学の父)、井上聞多(通称:ぶんた 馨。政治家・実業家)、遠藤謹助(造幣局長)、野村弥吉(井上 勝/鉄道の父)、伊藤俊輔(博文。政治家)
Kobu_Daigakko工学尞 ⇨ 工部大学校・工部美術学校 → 東京大学工学部の前身のひとつ
所在地/千代田区霞が関ビル周辺(もと日向国〔宮崎県〕延岡藩 内藤能登守上屋敷)
01-01.工部大学校阯碑01-02.工部大学校阯碑解説板「工部大学校阯碑」および解説板(千代田区霞が関三丁目2-1)
旧校舎の避雷針と煉瓦をもちいて卒業生有志によって建造された〔撮影:時盛 淳〕
e761bbdd02ec5f6ee4c276186b64ce9e萩博物館フライヤー <日本工学の父 山尾庸三展> 2018年9月16日ー10月01日
{活版アラカルト関連:【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展「日本工学の父 山尾庸三」
tetukoto_omotephoto02井 上  勝(幼名:野村弥吉 いのうえ-まさる 1843-1910)
{活版アラカルト関連:【展覧会】萩博物館 萩の鉄道ことはじめ「日本鉄道の父:井上 勝」

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工部大学校 と 山尾庸三
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身のひとつ。
伊藤博文・山尾庸三の建議に基づいて設置され、1873年(明治04)専門教育はイギリス人の教頭・機械工学者 H. ダイアー ほか 8 人のイギリス人教師を招いて「工部省工学寮」が開校。工学頭-こうがくのかみ-は山尾庸三、教頭はダイアーであった。工部省工学寮は1877年(明治10)「工部大学校」と改称した。のち工作局長:大鳥圭介が総理となった。

土木、機械、造家、電信、化学、冶金-やきん、鉱山の 7 学科をもつ 6 年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。
工部大学校は1879年(明治12)に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年(明治12)工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学、現東京大学工学部となった。辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋-いのくちありや-ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。

山尾庸三(やまお-ようぞう 1837−1917)
幕末-明治時代の武士,官僚。
天保8年10月8日生まれ。長門(ながと-山口県-萩藩士。1863年(文久3)伊藤博文らと密航渡海してイギリスで工業をまなぶ。1870年(明治3)帰国し、工部省、工学寮の設立にかかわり、13年工部卿。のち宮中顧問官、法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。
[参考資料:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】真名-漢字 真仮名-万葉仮名とひら仮名 カタ仮名|かぎろひ-の【陽炎の】枕詞-まくらことば

奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア  ⓒ Yahoo  Japan  ⓒ ZENRIN
『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされる奈良県宇陀市大宇陀地区を中心に

真名と仮名
奈良県:宇陀郡>安騎野-あきの

『日本書紀』天武天皇元年六月二四日条に「菟田の吾城-うだのあき」がみえる。
『万葉集』巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」として長歌とともに、

阿騎-あき-の野に宿る旅人打ち靡き寐-い-も寝-ぬ-らめやも古思ふに

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

の短歌を載せる。
『大和志』には「吾城野」として「在迫間本郷二村間」とあり、現大宇陀町大字迫間-はさま・本郷-ほんごう-に比定[およそ定める]する。
また本郷村東南の拾生-ひろお-村(現大宇陀町)に「旧名明城野-あきの」とある。
なお迫間には式内社[しきないしゃ 延喜式神名帳に記載された3132座の神社]に比定される阿紀-あき-神社がある。

歌学書『八雲御抄』には「あきのおほ野」とある。

こうした歴史を背景として、この地域には神社の名称として「阿紀-あき-神社」がのこり、公園施設の名称として「阿騎野・人麻呂公園」がのこり、ひろくは「安騎野」と呼ばれ、しるされるようになった。
[参考資料:『日本歴史地名大系』平凡社]
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奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリアは、こんにち『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされるが、ここにみるように「万葉仮名」の残渣ないしは残り香があちこちにのこっている。

「万葉仮名」は、漢字の音・訓を仮借-かしゃーして、日本語の音韻表記に用いた表音文字である。漢字の音を仮借した「安-あ、加-か」などの音仮名と、訓を仮借した「三-み、女-め」などの訓仮名とに大きく分類される。
漢字の表音的用法は古く中国にみえ、固有の字がなかった日本でもこの方法を用いたもので、『万葉集』に豊富にみえることから万葉仮名とよぶ。ひら仮名、カタ仮名はこれから成立した。漢字(真名)と形が同じであることから真仮名-まがな-ともいう。

枕詞-まくらことば

かぎろひ-の【陽炎の】〔カギロイ-ノ〕

〔枕 詞〕 「春」「心燃ゆ」などにかかる。
〔  例  〕 「味さはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ悲しび別れぬ」〈万葉・9・1804長歌〉
〔  訳  〕    夜昼の区別もなく心は燃え続けて、悲しみ別れたことだ。
〔  注  〕       田辺福麻呂(タナベノサキマロ)ガ弟ノ死去ヲ悲シンデ作ッタ歌。
「味さはふ」ハ「夜」ノ枕詞。

[参考資料:『全文全訳古語辞典』小学館]
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枕 詞-まくらことば

おもに和歌に用いられる古代的な修辞のひとつ。
和歌においては五音一句に相当する句(四音や六音もある)をなし、独自の文脈によって一つの単語や熟語にかかり、その語を修飾し、これに生気を送り込む。一首全体に対しても、気分的・象徴的に、または声調上・構成上に微妙な表現効果をもたらす。

枕詞の起源は古代の口誦詞章のきまり文句で、そのうち最も重要なのは神名や地名にかぶせる呪術的なほめことばである。記紀歌謡において枕詞を受ける単語や熟語の半数以上が固有名詞であるのは、その辺の消息を示すものにほかならない。のちのちまで枕詞のかかり方が、固定的、習慣的、伝承的でありつづけながら、なお有機的に働くのもそのためである。枕詞は平安朝に入ってからは使われることが少なくなっていく。

枕詞のかかり方は、同音・類音のくり返しや懸詞-かけことば-によるものと、意味の上で説明したり、形容したり、比喩したり、連想を働かせたりするものとさまざまであるが、すでにかかり方の不明となった慣用句も多い。これらはすべて神託などの呪術的な古代的発想法から展開してきたものとみられている。

枕詞と似た和歌の修辞に序詞-じょし-があって、両者はその長さの違いや、文脈の性格の違いによって区別されているが、個々の例では区別のつきにくいものもある。
本質を異にする両者が混雑を生じたものか、本質を同じくする両者が別々に発達したものか両説があるが、古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。

柿本人麻呂は、古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり、新しい枕詞を作ったり、用言を修飾する枕詞を多用したりして、枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人である。その作品
〈玉藻刈る敏馬-みぬめ-を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)
の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は、実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。
なお、老・病・死をおもにうたった山上憶良は、枕詞をほとんど使っていない。
[参考資料:『世界大百科事典』平凡社]

例年の「かぎろひを観る会」の様子

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト
第47回かぎろひを観る会
開催施設  自然公園かぎろひの丘万葉公園
開催日時  2018年12月23日[日・祝] 04:00-07:00
所 在 地  〒633-2166 宇陀市大宇陀迫間25番地
      入園無料  事前申し込み不要 
問い合せ  0745-82-3674(宇陀市役所 公園課)
アクセス  最寄り駅からの交通
      近鉄 榛原駅より 大宇陀行きバス「大宇陀高校前」下車 徒歩3分 
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「かぎろひを観る会」は今年で47回目を数える歴史ある催し。
柿本人麻呂が詠んだ秀歌、

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

にちなみ、かがり火を囲みながらかぎろひの出現を待ちます。
かぎろひとは厳寒の晴れた早朝、夜明けの一時間前に空を染め上げる陽光のことと、宇陀市観光協会では考えています。
時を越えて記紀万葉のロマンに浸ることができるひと時をお楽しみください。

【 詳細: なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト 特設コーナー 】

【ことのは】明治四年 HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──[展覧会]国立公文書館|平成30年度 第3回企画展|「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」 11月20日-12月22日ゟ

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平成30年度 第3回企画展 
「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」
会  期  平成30年11月20日[火]-12月22日[土]
開館時間  月-土曜日 午前9時15分-午後5時00
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無 料
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遠く離れただれかに情報を伝えたい。そんな時みなさんはどうしますか? 今では電話や電子メール、S N S などで手軽に素早くつながることができます。しかし、郵便や電信、電話など現在に通じる情報通信の制度や技術が導入された明治初期には、試行錯誤が重ねられ、相当な努力が払われたことは想像に難くありません。

本展では、郵便、電信、電話、無線通信の制度やこれらと関わりの深い人物の資料を展示し、明治期に進められた情報通信の近代化を描きます。また明治期の情報通信網が、日本と海外の諸国をつないでいく過程もご紹介します。

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郵便切手の発行
明治4年(1871)から明治15年までに発行された切手、はがき、封筒の見本を貼り付けた資料です。画像は明治4年と明治5年に発行された切手を添付した箇所。  これらは日本で最初の切手になります。額面の両側に龍をあしらったことから、「龍文-りゅうもん-切手」と呼ばれています。

3011_02

逓信省の設置
明治18年(1885)12月22日、内閣制度の創設に伴い、逓信省(ていしんしょう)が新設されました。  逓信省は、農商務省から郵便・管船を、工部省から電信・灯台を引継ぎ、通信運輸行政を一手に担う中央行政機関として誕生しました。画像は『公文類聚-こうぶんるいしゅう』に収録された太政官達第70号です。

3011_03

外波内蔵吉の叙勲
無線通信の有用性に着目した海軍は、明治33年(1900)、無線研究の必要性を訴えていた海軍中佐の外波内蔵吉(となみくらきち)を中心とした無線電信調査委員会を組織し、 無線電信機の開発を目指しました。外波らは苦心の末に、明治36年に無線電信機を完成させます。この無線電信機は、翌年に始まる日露戦争で利用されました。

☆     ☆      ☆

「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」ゟ
{新宿餘談}

20181205172548_0000120181205172548_00002HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた
『広辞苑』 は、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  すなわち整理が付かないままに「端書・葉書・ハガキ・はがき」がもちいられている。
今回の国立公文書館展には、『郵便切手端書-はがき-封皮-ふうひ見本』が展示され、明治4年(1871)から明治15年までに発行された、切手、端書(解説表記は はがき)、封筒 の見本を貼りつけた見本が展示されている。
すなわち ── HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──

【 詳細: 国立公文書館 】

【ことのは】アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱-きあんこう

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで …… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の幹部社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いともかたられる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。
そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村-ひごのくににしそのぎぐんたかはまむら」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。[中略]従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。[中略]

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。[後略]

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、熊本県天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ活字箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

【ことのは】新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ|歌舞伎美人-かぶきびと


歌舞伎公式総合サイト ── 歌舞伎美人-かぶきびと ニュース 10月25日号 ゟ

新開場の京都四条南座で初の「吉例顔見世興行」まねき上げ

2018年10月25日[木]、南座で11月「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき上げが行われました。

「吉例顔見世興行」恒例のまねき上げ。
最後の一枚、坂田藤十郎のまねきが上がり、計53枚の看板がずらりと並ぶと、2年ぶりとなる南座の「まねき看板」を見ようと集まった、多くの歌舞伎ファンから拍手が起こりました。今年の顔見世興行は、新開場を祝う11月と12月の2ヶ月にわたる大興行となります。

また11月は、新開場の幕開けにふさわしく高麗屋三代襲名を兼ねた公演。式典に参加した松本幸四郎は南座が休館している間、真っ暗な南座の前を通っては寂しく思っていたと明かし、
「歌舞伎発祥の地におきまして、襲名披露興行が執り行われるということ、また新開場の舞台に立つことができるということを、本当に幸せに思っています」
と、顔見世興行にかける熱い思いを語りました。同じくこの日を待ちわびていた皆さんからも、「高麗屋!」と声がかかり、大きな拍手でまねき上げを祝福しました。
2018年11月1日[木]に初日を迎える「當る亥歳 吉例顔見世興行」は、東西の俳優たちが顔をそろえる、歴史ある歌舞伎の祭典です。豪華な出演者、演目とともに盛大に祝う新開場の南座へ、ぜひお越しください。

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