かきしるす」カテゴリーアーカイブ

【公演】第33回 新宿御苑 森の薪能|新宿御苑 風景式庭園|10月24日

第33回 新宿御苑  森の薪能

森の薪能とは
かがり火に浮かび上がる幽玄の世界

高層ビルの林立する大都会の中に残された、新宿御苑という比類ない環境のもと、
かがり火の中で、選りすぐられた演者・演目による格調高い能舞台が作り出す幽玄の世界。
毎年秋に開催されている、恒例の伝統芸能イベントです。
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開催日時   令和元年10月24日[木]
開  場  午後6時00分  開演 午後7時00分  終演 午後9時15分(予定)
会  場  新宿御苑 風景式庭園 
主  催  新宿御苑森の薪能実行委員会/新宿観光振興協会/国民公園協会新宿御苑
演目演者

狂言      「首 引」               野村    萬斎(和泉流)

  能       「安達原・白頭」  観世銕之丞(観世流)

総  監  督  観世銕之丞     企画制作  銕仙会

雨天の場合 :雨天時には「新宿文化センター」にて開催します。
      * 当日の12時30分に事務局より発表します
事務局 一般社団法人新宿観光振興協会
〒160-0023 新宿区西新宿6-8-2 BIZ 新宿 3 F
TEL:03-3344-3160 FAX:03-3344-3190

[詳細:新宿観光振興協会] 初掲載:2019年09月02日

◉ {新宿餘談} 10月25日は颱風20号・21号の接近で風雨が強く新宿御苑での薪能は中止。
かわって「新宿文化センター」大ホールでの上演となりました。
和装姿の女性もチラホラと、華やいだ雰囲気の客席はギッシリ満員で、狂言と能の幽玄の
世界が特設舞台に展開しました。

【かき・しるす】 ラグビー W杯2019 東京 |愈〻ファイナルステージ|残り四試合の激闘を楽しみたい

 ラグビー W杯2019 東京  ファイナルステージ
ベスト 4 による準決勝二試合、三位決定戦、決勝戦をのこすのみ

NHK ラグビー W杯2019 東京 特設サイトゟ

9月20日、東京スタジアムで開幕した ラグビー W杯2019 東京 は、早いものでプール戦全 40 試合を終え、ベスト 8 が出そろった。
ついで準々決勝四試合がおこなわれ、イングランド、ニュージーランド、ウェールズ、南アフリカが勝利し、日本代表は南アフリカに敗退した。

大会はいよいよ最終盤、準決勝二試合、三位決定戦、決勝を残すのみとなった。
ホームでこの最終盤の激戦を楽しめることを至高の歓びとしたい。

{ NOTES ON TYPOGRAPHY   ラグビー W杯2019 東京  まとめ }

【かき・しるす】 ラグビー W杯2019 東京 |プール戦全40試合を終了|荒ぶる魂{闘球}はベストエイトによるノックダウン式トーナメントに突入| რაგბის მსოფლიო ჩემპიონატი 2019 ტოკიო | დასრულდა აუზში მიმდინარე 40 თამაში | უხეში სული {Battleball} შემოდის რაუნდის ტურნირში

【 YouTube Rugby World Cup 2019 opening ceremony 公式 22:50 】

ラグビーワールドカップ2019™ 日本大会 プール戦を終えて
The World in Union
2019年10月15日

ラグビーワールドカップ2019日本大会は、10月13日(日)に全プール戦を終了いたしました。
開幕からのプール戦全40試合について、以下の通りご報告いたします。

◆ 観客動員数およびチケット販売
プール戦では、中止となった 3 試合を除く37試合で、観客動員数は延べ 128 万人を超え、1 試合の平均観客数は、34,596 人を記録しました。
日本全国全ての会場でチケットはほぼ完売の状態が続いており、高い注目度が感じられます。

10月13日に横浜国際総合競技場で行われた日本対スコットランドの試合では、今大会のプール戦で最多となる67,666人にご来場いただきました。
観客動員数上位 10 試合の内、日本戦以外の 7 試合の平均観客数も 51,439 人を記録するなど、局地的ではない盛り上がりを示しています。チケット販売も好調に進み、現在までに 180 万枚を超える販売があり、販売可能席の約 99 %が販売済みとなっています。
決勝トーナメントの試合についても、リセール等により試合直前までチケットご購入のチャンスがございます。チケットは必ず  公式チケットサイト からのお申込をお願いします。
〔中略〕
 ☆ プール A-D までの上位 2 チーム、ベストエイトが、ノックダウン式のトーナメントに進出。

決勝トーナメント組み合わせ表

◆ ワールドラグビー ビル・ボーモント会長コメント
私たちは、台風 19 号の影響を受けた人々の気持ちと共にあり続けています。私たちは皆様のそばに立っています。
カナダとナミビアのチームが、プール戦最後の試合が中止になったことを知ってから、わずか数時間後に、釜石でのボランティア活動を支援したことを称賛します。
この週末にこのような困難な状況の中で、試合を開催することに尽力いただいた全ての関係者に、感謝と敬意を表します。

この感動的なラグビーワールドカップのプール戦を通じて、最高のラグビーと素晴らしい日本の雰囲気を体験することができました。ウェブ・エリス・カップを目指す戦いは 8 チームに絞られましたが、このカップはその過程を楽しんだ全ての人のものです。
現在、素晴らしい雰囲気のスタジアムやファンゾーンから、ソーシャルメディア上まで、世界中のファンの皆様が友情、喜び、おもてなしの瞬間を様々な形で共有しています。

また、開催都市は素晴らしい役割を果たしてきました。過去の大会において、これほどまでに統一感を持った素晴らしい雰囲気はありませんでした。さらに、キャンプ地、宿泊ホテルのおもてなし、そして公開練習にこれほど多くの方が訪れことを見たことがありません。これは、本当に驚くべきものでした。そして私は、釜石に特別な敬意を表したいと思います。震災に負けない釜石の精神は世界中の心を間違いなくとらえました。

ウェブ・エリス・カップを目指す戦いはまだ続きますが、ファンの皆様には、ご観戦いただくチャンスはまだあります。不正なサイトなどを通じで購入したチケットは利用できませんので、チケットの申込は、必ず 公式チケットサイト から行うように改めてお願いします。

◆ ラグビーワールドカップ2019 組織委員会 嶋津昭事務総長コメント
このたびの台風19号の被害にあわれた皆様に謹んでお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

9月20日、東京スタジアムで開幕したラグビーワールドカップ2019日本大会は、たいへん早いものでプール戦全 40 試合を終え、ベスト 8 が出そろいました。
台風の影響により 3 試合を中止しなければならなかったことは、たいへん残念ではありますが、選手の皆さんはすばらしい全力のプレーで、世界中のファンと日本の国民を魅了してくれています。日本全国からラグビーに元気をもらったという声をいただいき、たいへん嬉しく思っております。

特に被災地の方々からのお声には、我々一同が励まされる思いで、感激しております。また、選手の皆さんは、そのプレーのみならず、グラウンド上で対戦相手や、ファンを称える美しい立ち居振舞いや、台風19号の被災地において支援活動や交流を行ってくださったカナダ代表、ナミビア代表の行動など、多くの感動も与えてくれました。参加全選手にお礼を申し上げたいと思います。

今週末からは決勝トーナメントに突入、大会はいよいよ佳境を迎えます。私ども組織委員会一同、ここから更に気を引き締めて、全力で大会運営にあたって参ります。皆さまの引き続きのご声援、よろしくお願いいたします。
最後に大会開催にあたって尽力いただいた多くのスタッフ、ボランティアの皆様の献身的なご協力に心から感謝を申し上げます。
[ 参考: ラグビーワールドカップ2019™ 日本大会 公式 WebSite ]


— 日本ラグビーフットボール協会 (@JRFUMedia) 2019年10月14日

10月13日をもって、
RWC2019日本大会™の予選プールが幕を閉じました。
日本にラグビーの素晴らしさを教えてくれた、
母国へと戻る12カ国の代表チームに、心から感謝いたします。@rugbyworldcup @rugbyworldcupjp #RWC2019 pic.twitter.com/7ELa6MR6Ng

{ NOTES ON TYPOGRAPHY   ラグビー W杯2019 東京  まとめ }

【もんじ・ことのは】 ── რაგბის მსოფლიო თასი 2019 ტოკიოს რაუნდი, იაპონიის ეროვნული ნაკრები გამარჯვება და საქართველოს ნაკრები წააგო|ラグビー W杯2019 東京 第四戦 日本代表 勝利 & ジョージア代表 敗退

第一ラウンド プール A 最終成績 日本代表4戦全勝 勝ち点19のトップで決勝トーナメント進出 プール B 第二位の南アフリカと準々決勝で対戦
რაგბის მსოფლიო თასი 2019 ტოკიოს რაუნდი, იაპონიის ეროვნული ნაკრები გამარჯვება და საქართველოს ნაკრები წააგო|ラグビー W杯2019 東京 第四戦 日本代表 勝利 & ジョージア代表 敗退

◉ 2019年10 月 13 日[日]横浜国際競技場:横浜市 プールA第四戦
日本代表 28 - スコットランド代表 21
日本代表の勝利と初のベスト8進出を伝え熱狂するスポーツ新聞 下)日刊スポーツ上)サンスポ
スコットランド戦に勝利した直後のラグビー日本代表(THE ANSWER ゟ 写真:Getty Images)

◉ラグビー W杯2019 東京 、プール A 日本代表、プール最終第四戦、スコットランドとの歴史的激戦を制して四連勝、トーナメント準々決勝進出を果たし、超満員の横浜が熱狂の坩堝と化した
 ラグビー W杯2019 東京 は13日[日]、横浜国際総合競技場での A  組最終戦で日本とスコットランドが決勝トーナメント進出をかけて激突。
超大型の颱風19号の影響で中止が懸念されたこの一戦は、日本が 28 - 21 で勝利し、史上初の 8 強入り。4 連勝で堂々の首位通過を決め、20日の準々決勝では、前回のイングランド大会で「ラグビー史上最大のアップセット ──〝ブライトンの奇跡〟とされて勝利した南アフリカと対戦する。
当然南アフリカは〝ブライトンの奇跡〟の屈辱を晴らすべく、直前の対抗戦のときと同様、牙をむいて襲いかかってくることが予想される。

ラグビー W杯2015 イングランドで苦杯をなめたスコットランドとの対戦は、第三戦までの勝ち点が日本14点、スコットランド10点で、日本は引き分け以上で悲願の8強入りが決定する。いっぽうスコットランドはポイント数で劣勢にあり、勝たなければ先がないとうプレッシャ-があった。どちらかが敗退を喫するゲームで先手を取ったのは、やはり後がないスコットランドだった。

わが輩はこの試合をスコットランドの主将・スクラムハーフ:グレイグ・レイドロー No 9、スタンドオフ:フィン・ラッセル No 10、フルバック:スチュアート・ホッグス No 15 にフォーカスしてテレビ桟敷に座った。
コットランドは前回のロシア戦から中 3 日の日程だったが、第三戦のサモア戦では主力を温存するターン・オーバー策をとっており、15人中12人を主力選手に入れ替えたチームは休養十分で、立ち上がりから出足が鋭い。

やはりきた! 開始直後 No 8 レイドローからの右奥タッチ付近へのキック。いきなりの奇襲攻撃に、No 15 ホッグスが飛びこんでキャッチしたが、No 10 田村優が鬼の形相で飛びこんでボールを奪取、フォローもよく、なんとか危機を脱した。
わが輩はこの田村優を明治の学生のころからみていた。当時から才能は十分に発揮していたが、アタリにいくのは嫌いなようで、アタックもブロックも「ダンディ」なのが物足りなかったが、ここでの田村の形相は凄まじく、これはいけるとおもわせた。

続いて開始06:20 日本のゴール前で第6波の攻撃(Phase)を重ね、No 9 レイドローの素早い球出しをキャッチして、 No 10 ラッセルの大きな展開でチャンスを作り、最後はラッセル自身が右中間にトライ。カバーは田村優と No 9 流 大だったがおよばなかった。
レイドローによるコンバージョンも決まり 、スコットランドが 7 点を先行する。ビール片手でほろ酔いの日本のファンで埋まった観衆が静まり返った。

15分には No 10 田村優がPGを狙うがこれは決められない。
ところがその直後、No 11 福岡堅樹からのオフロードパスを受けた No 14 松島幸太朗が、中央に今大会自身 5 つ目となるトライ。田村がしっかりとコンバージョンを決めて、7-7と追いついた。

21分にはプロップ No 3 具 智元(拓殖大卒、本田所属、韓国籍)が右脇腹付近を痛め、急遽ヴァルアサエリ愛(トンガ出身。埼玉工業大、パナソニック所属、日本国籍)に交代するアクシデントもあった。
それでも25分に No 11 松島幸太朗が相手のタックルをものともしない突破から、細かくオフロードパスをつなぎ、最後は No 15 ウィリアム・トゥポウ(ニュージーランド出身、コカコーラ)からのパスを受けた No 1 プロップ:稲垣啓太が代表七年にして初トライ。
ベンチの控え選手は、やはりプロップの中島レイシルはピョピョン跳びはねて歓んだが、ほかの選手は「アレって本当に稲垣か?」と歓ぶより驚き。なによりも「笑わない男」として一躍人気者となった稲垣が「エッ、エッ、オレなの」とパスをつないで驚いた表情だった、田村もゴールを決めて 14 - 7 と逆にリードを奪う。

38 分には田村が PG を外したが、その直後、前半終了間際に福岡が左サイドを駆け上がり、3 試合連続のトライ。先発に抜擢されて結果を残した。こうして日本代表は前半を21-7で折り返した。
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後半も開始直後 2 分に福岡がビッグプレー。自陣から相手ボールをむしりとり、一気にターンオーバー。相手ディフェンスの間を割り、ぐんぐん加速するとそのまま中央にトライ。この日 4 つ目の福岡のトライで、大きな大きな意味を持つ「ボーナスポイント」の獲得に成功。
これで日本は勝ち点を15に押し上げるとともに 28-7 とリードを広げた。すなわちスコットランドを「勝利+あと三つのトライでのBP獲得」を取らなければならない絶体絶命状況に追いこんだ。

それでもスコットランドはあきらめること無く、後半 9 分にプロップ:ネルのトライで反撃の狼煙を上げると、12分には主将・スクラムハーフ:グレイグ・レイドロー No 9を含む 5 選手を一気に交代させた。このときベンチに下がるレイドローには涙があった。15分にはプロップ:ファーガソンがトライ。7点差まで一気に追い上げたが、もはや選手の表情は硬かった。

さらにスコットランドは猛攻を仕掛けてきたが、気迫のディフェンスで凌ぎ切った日本は 4 連勝。南アフリカから大金星を挙げ3勝(1敗)した前回大会でもなしえなかった史上初の決勝トーナメント進出を決めた。20日の準々決勝(東京スタジアム)では、南アフリカと相まみえる。

【 日本の過去のW杯成績 】
第 1 回(1987年)予選敗退 0 勝 3 敗
第 2 回(1991年)予選敗退 1 勝 2 敗
第 3 回(1995年)予選敗退 0 勝 3 敗
第 4 回(1999年)予選敗退 0 勝 3 敗
第 5 回(2003年)予選敗退 0 勝 4 敗
第 6 回(2007年)予選敗退 1 分 3 敗
第 7 回(2011年)予選敗退 1 分 3 敗
第 8 回(2015年)予選敗退 3 勝 1 敗
第 9 回(2019年)予選突破 4 戦 0 敗

試合直後のスコットランドチーム(THE ANSWER ゟ 写真:Getty Images)
レイドロー(最前列右)はインタビューで「ひとりになって考えたい」と引退を示唆した。

【 YouTube Extended Highlights  :   Japan  v  Scotland 12:02 】

◉ 2019年10 月 11日[金]静岡スタジアム・エコパ:静岡 プール D 第四戦
オーストラリア代表 27 - ジョージアス代表 8

エンジ色のユニフォームがジョージアチーム。(THE ANSWER ゟ 写真:Getty Images)

 ラグビー W杯2019 東京 は、10月11日[金]颱風19号接近のため、風雨の激しい静岡・エコパスタジアムで、オーストラリア、ジョージアがプール戦最終の第四戦を戦った。
すでにベスト 8 進出を決定していたオーストラリアであったが、ジョージアの堅守に試合最終盤まで苦戦していたが、試合終盤の後半34分過ぎから疲労をみせたジョージアから立てつづけにトライを二本取り、27-8として順当勝ちを収めた。


悪天候を物ともせぬ熱戦が展開された。この荒天の中参加した3万9802人の観客は両チームに大声援を送っていたが、やはりそこは「判官贔屓」でろうか、ジョージアへの声援が多かった。
すでにベスト 8 入りを決めているオーストラリアは 1 位通過を、どうしても勝って同組 3 位となり、次回W杯の自動出場権を手に入れたいジョージアの対戦となった。

強い風雨というコンディションの悪さもあり、試合は開始直後からしばらく膠着状態が続いた。15分過ぎにオーストラリアは敵陣ゴールライン手前まで攻め込むが、ジョージアが強固なディフェンスで死守。だが22分、再び攻め込んだオーストラリアはラックからスクラムハーフ:ホワイトがダミーパスから飛び込んでトライを決めた。コンバージョンも決まり、7点を先制。

直後のキックオフで敵陣へ攻め込んだジョージアは、ゴール前でペナルティーを誘い、27分にスタンドオフ:フマラゼがペナルティーゴールを成功させて 3 点を返した。
その後はジョージア陣内での攻防が続き、オーストラリアは連続攻撃を仕掛けるが、ジョージアの鉄壁の防御をなかなか破れない。
さらに34分にはオーストラリアの No 8:ナイサラニがイエローカードで10分間の退場処分。
14人での戦いを強いられるが、37分にスタンドオフ:トゥームアがハーフウェーライン付近からペナルティーゴールを決め、10-3 オーストラリアのリードで前半を折り返した。
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後半も一進一退の攻防を続けたが、19分にオーストラリアのウイング:コロイベティがハーフウェーライン付近に転がったボールを拾い上げて疾走。相手ディフェンスをステップでかわしながら約40メートルを独走してトライ。コンバージョンも決まり、7点を加えた。
点差を広げられたジョージアだが、30分に自陣でのラインアウトからバックスへ展開。敵陣10メートル付近でパスを受けたウイング:トドゥアが左サイドライン際を駆け上がってトライを奪うと、ほとんどが日本人の観客のスタジアムは割れんばかりの歓声に包まれた。

ところが疲れをみせはじめたジョージアに対し、オーストラリアは試合終盤の、34 分、38 分に 2 トライを奪取。試合を通じてジョージアの防御に苦しめられたが、27-8で勝利した。
すでに決勝トーナメント進出を決めているオーストラリアは、ボーナスポイントを含め勝ち点5を加算。勝ち点16でD組の暫定首位に浮上。勝ち点14のウェールズは13日[日]にウルグアイ戦を残している。

{ショージアの復習}

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたり、西アジアとも東ヨーロッパともされ、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。
国土は 69,700 ㎢ で、北海道 83,424 ㎢ よりいくぶん狭いが、富士山よりよほど高い 5,000 m 級の高山がふたつもある。人口は 3,720,000 余人で、わが国第8位:福岡県よりより人口は少なく、第9位の静岡県の人口 3,675,000 余人より少し多い程度の、ちいさな国である。

地政学的に古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教(グルジア正教)信仰をはじめとして、独自の言語と文字(もんじ グルジア語・カルトリ語ともする)と、独自の通貨「ラリ」を持ち、伝統文化を守り通してきた。
また辛党には、温暖な気候を利用して、甕に入れて地中で熟成させる高級ワイン生産の盛んな国としても知られる。
ラグビー W杯2019 東京 でのキャンプ地は徳島県鳴門市で、同市は町をあげてジョージアを熱狂的に応援していた。 

[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)

ジョージア ラグビー W杯2019 東京 プール戦、全四戦を終了し 1 勝 3 敗となり、同成績のフィジーにボーナスポイント差で負けて、次回 ラグビー W 杯 2023 パリ での自動出場権を得ることができなかった。
欧州予選にはロシア、ルーマニア、ポーランド、チェコ、ドイツなどの強勢国がひしめき、また2012年からヘッドコーチを務めていたミルトン・へイグ(ニュージランド出身)が、来季から日本のトップリーグ:サントリーの H C に就任することもあって予選突破も容易ではなさそうである。
それでも人口37万余の小国ながら、ラグビーを国技とするジョージアの再登場を期待したい。
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マムカ・ゴルゴゼ(Mamuka Gorgodze  195 cm, 118 kg,  35歳)RWC 公式WebSiteゟ

ジョージアチームのキャプテン:マムカ・ゴルゴゼは、 ラグビー W杯2015 イングランド大会でニュージーランドと対戦し、最終盤こそ力負けして一気に得点されたが、前半は強力なスクラムで圧倒し「もしかすると …… 」という期待を持たせた選手である。
快活な性格らしく、試合中もチームメイトをリードし、審判に「世間話」をもちかけて「注意」を受けたりすることでも知られていた。

イングランド大会後はフランスのクラブでプレーし、 ラグビー W杯2019 東京 には不参加の意向をもらしていたが、直前になって参加を決定し、プール戦四試合にスタメンのフランカー(背番号7)として出場していた。
スタッツをみると、タックル34回、成功率で97%、トライ1、得点5を獲得している。後半20分ほどで交代してベンチにさがると、ジョージ国旗を背中にかけて自チームの応援にあたっていた。
残念ながら、今大会は目標としていたベスト8進出はならず、またプール四位となって、次大会は予選から戦うことになった。

同じくプール戦で敗退したスコットランドの主将・スクラムハーフ:グレイグ・レイドロー No 9 と同様、マムカ・ゴルゴゼも、今大会を最後にフル代表からの辞退をもらしている。
ラグビーとは厳しいもので、ほとんど報酬はなく、ただ名誉をかけてプール戦を闘い、敗者はひっそりと帰国の路につくことになる。プール戦を終えいま、日本代表の準決勝進出を歓ぶとともに、ジョージアの敗退には幾分さびしいおもいもある昨今である。

【 YouTube Extended Highlights :  Australia  v  Georgia 23:12 】


{ NOTES ON TYPOGRAPHY   ラグビー W杯2019 東京  まとめ }

【タイポグラフィ学会】第 5 回 平野富二賞 授賞式と記念講演のご案内|10月14日


第 5 回 平野富二賞 授賞式と記念講演のご案内

タイポグラフィ学会(会長:山本太郎)は、平野富二の研究でご功績のある古谷昌二氏(「平野富二の会」代表)に、「第 5 回 平野富二賞」を授与することとなりました。
つきましては授賞式と記念講演を下記の日程にておこないます。

日 時:2019年10月14日[月曜・祝日] 15時40分より
    15時30分にはご参集ください
場 所:NATULUCK(ナチュラック)四ツ谷駅前 大会議室(セミナールーム)
    「日本調剤 四谷薬局」の看板のあるビルです
    新宿区四谷 1-2 三浜ビル 3 階
内 容:15:40-17:30 頃   第 5 回「平野富二賞」授賞式 古谷昌二氏
    記念講演(古谷昌二氏)
    平野家所蔵品(新装「池原香穉書画軸」他)お披露目

    18:30-20:30頃 懇親会(近隣別会場にて) 会費:3000円

[ 詳細: タイポグラフィ学会

【展覧会】江戸東京博物館 特別展|サムライ ── 天下太平を支えた人びと|9月14日-11月4日

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江戸東京博物館 特別展
サムライ──天下太平を支えた人びと
会  期  2019年9月14日[土]-11月4日[月・休]
会  場  東京都江戸東京博物館 1階特別展示室 (東京都墨田区横網1-4-1)
開館時間  午前9時30分-午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)
      * 入館は閉館の30分前まで
休  館  日  月曜日(9月16日・23日、10月14日、11月4日は開館)、9月24日、10月15日
主  催  公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、朝日新聞社
観  覧  料  一般1,100円、大学・専門学校生880円  * 特別展・常設展共通券もあります
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日本をイメージするキーワードとして国内外を問わず多く用いられる〝サムライ〟。しかし、そのことばから何を連想するのかは人によって様〻です。武家・武士・侍・浪人など、サムライが表す人びとについて、歴史的な実態をふまえてこのことばを使用しているとはいいがたいのではないでしょうか。
そこで本展では、現代のサムライイメージの原点である江戸時代のサムライ〝 士 〟の暮らしや仕事のありさまをご覧いただき、サムライのイメージを見直してみたいと思います。

本展覧会では、いわゆる武士道書に登場するような、抽象的なサムライの姿を紹介するにはとどまりません。徳川将軍の居所として、当時、世界有数の大都市であった江戸の風景の中で、サムライがいかに活動していたのか、絵画作品や古写真から浮き彫りにしていきます。
また、有名無名を問わず、サムライの家に伝来した所用品の数〻から、江戸時代の人びとが見聞きし親しんでいた生のサムライの生活をご覧いただきます。
当時、最大の武家人口を誇っていた都市江戸と、その近郊に暮らしたサムライの姿をここに再現していきます。

[ 詳細: 江戸東京博物館 ]

黒田藩江戸上屋敷 江戸東京博物館蔵明治になって官舎に転用された旧大名屋敷 写真に残るその面影
「温古写真集」霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷表玄関 明治時代初期 東京都江戸東京博物館蔵初代外務省庁舎明治初期に外務省庁舎として使われていた頃の旧霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷
「ウィキペディア:黒田藩 ゟ」

福岡藩は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。
藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩-のうがたはん)があった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより同藩が成立した。国主、本国持の大名家である。

徳川将軍家は福岡藩・黒田氏を優遇し、2代・忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与(偏諱)した。江戸城内の席次は大広間松の間、9代斉隆以降、大廊下上之部屋。松平筑前守黒田家として幕末に至る。

筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。
同時に領内において福岡藩と小倉藩の藩境に筑前六端城(益増城、鷹取城、左右良城、黒崎城、若松城、小石原城)を築き、黒田八虎で筆頭重臣の栗山利安、井上之房をはじめとする家臣らが城主となる。
なお、長政は質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷や、大名庭園などは築庭しなかった。黒田家は6代藩主継高が隠居屋敷、数寄屋庭園の友泉亭(現・友泉亭公園)を建立した程度である。

明治初期に外務省庁舎として使われていた頃の福岡藩江戸屋敷
黒田家江戸屋敷は、現在の千代田区霞が関2丁目2番、外務省庁舎の位置に上屋敷があった。明治時代になってからは、創設されたばかりの外務省初代庁舎として使われていたが、1877年(明治9年)2月1日に焼失した。現在も外務省外周には当時の石垣が残り、藩屋敷の面影が残っている。
桜田屋敷と呼ばれ、隣接する芸州浅野家屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされた。歌川広重作『名所江戸百景』中の「霞かせき」がそれである。

名所江戸百景 霞かせき 国立国会図書館蔵歌川広重  名所江戸百景「霞かせき」 国立国会図書館蔵 請求記号:寄別1-8-2-1

最後まで残った「海鼠壁ーなまこかべ」の長櫓は旧国宝に指定されていたが、太平洋戦争時の空襲で消失。なお、屋敷の巨大な鬼瓦(雲紋瓦)が東京国立博物館に常時屋外展示してある。
ほかに赤坂に中屋敷、渋谷と白金に下屋敷、郊外には御鷹屋敷、深川に蔵屋敷があった。
長崎、京都、大坂にも屋敷があり、天王寺公園内大阪市立美術館の横には中ノ島にあった黒田家蔵屋敷表門が、移築保存されている。また、秋月藩江戸屋敷の表門は、東京よみうりランドに移築保存されている。
〔なおしばしばもちいられる〝藩邸〟は、明治期になってからのことばで、江戸期ではもっぱら大名屋敷・武家屋敷であった〕

kazari-upperdc44109c143b79f8034291efa598041d「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年
(平野富二の会 所蔵)

上掲図は「伊勢国 津藩 藤堂家上屋敷」を描いた錦絵である。この建物は明治期には政府に公収されて、おもには医学校と附属病院としてもちいられ、東京大学医学部の発祥の地となった。
またここには文部省活版所が設けられ、ついで明治6(1873)年には平野富二一行八名によって長崎新塾出張活版製造所が開設された、近代医学と近代活版印刷発展の起点となった地である。

廣景による錦絵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町」安政六年-を平野富二の会が購入しているが、この門長屋は明治13(1880)年当時は医学校の寄宿寮としてもちいられており、森鷗外は著作『雁』にそれをしるしている。
福岡黒田家江戸屋敷は明治9年には焼失しているが、このたび錦絵とあわせて写真も公開された。
したがって明治13年(1880)までは確実に存在していた、「霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷表玄関」と同様な「伊勢国 津藩 藤堂家上屋敷」の古写真が撮影されていた可能性は高い。もしも、こうした古写真を所蔵されておられる方がいらしたら、ぜひともご一報たまわれば幸甚である。

[ 参考: 平野富二の会「藤堂和泉守上屋敷と門長屋-日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地 ]

【展覧会】文京区立森鷗外記念館|特別展「荷風生誕140年・没後60年記念 永井荷風と鷗外」|’19年10月12日-’20年1月13日

文京区立森鷗外記念館
特別展「荷風生誕140年・没後60年記念 永井荷風と鷗外」
会  期  2019年10月12日[土]-2020年1月13日[月・祝]
会  場  文京区立森鷗外記念館 展示室 1、2
開館時間  10時-18時(最終入館は閉館30分前)
休  館  日  11月26日[火]、12月24日[火]、12月29日[日]-1月3日[金]
観  覧  料  一般 500円、中学生以下無料
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永井荷風は、明治12(1879)年に東京市小石川区(現・文京区春日)に生まれました。森鷗外を文学上の師と仰ぎ、昭和34(1959)年に亡くなるまで尊敬し続けました。鷗外もまた、自分より17歳若い荷風の実力を認め、明治43(1910)年には慶應義塾大学部文学科の教授に推薦し、荷風が主宰する雑誌「三田文学」の刊行を後押ししました。文豪として知られる二人の、こうした接点や交流にもう一度照明を当てたいと思います。

本展では、明治36(1903)年1月の荷風と鷗外の初対面から、荷風の海外体験、「三田文学」での二人の共演、そして鷗外没後に荷風が鷗外作品を再読する時代、さらに晩年にかけて荷風が追った鷗外の面影を紹介します。 

「文学者にならうと思つたら大学などに入る必要はない。鷗外全集と辞書の言海とを毎日時間を決めて三四年繰返して読めばいゝと思つて居ります。」
(荷風『鷗外全集を読む』、昭和11年)

明治、大正、昭和と生涯繰り返し鷗外作品を読んだ荷風。死の床には、数冊の本とともに鷗外の『渋江抽斎』が開かれていました。荷風の鷗外敬慕の念は、昭和37(1962)年の当館の前身である文京区鷗外記念本郷図書館開鷗外館へと受け継がれました。荷風生誕140年・没後60年の記念年に、鷗外を敬愛した荷風を追います。

[ 詳細: 文京区立森鷗外記念館 ]

【展覧会予告】東京国立近代美術館|鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開|2019 年 11 月 1 日-12 月 15 日

東京国立近代美術館
鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開
会  期  2019 年 11 月 1 日[金]-12 月 15 日[日]
会  場  東京国立近代美術館 所蔵品ギャラリー10 室(東京都千代田区北の丸公園 3-1)
開館時間  午前 10 時-午後 5 時、金曜・土曜は午後 8 時まで * 入館は閉館の 30 分前まで
休  館  日  月曜日(ただし 11 月 4 日は開館)、11 月 5 日
観  覧  料  一般  800円、大学生 400円
主  催  東京国立近代美術館、文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会
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東京神田に生まれ、挿絵画家として画業をスタートさせた 鏑木清方(かぶらき きよかた   1878-1972)は、美人画で上村松園と並び称された日本画家です。
今年、当館では、清方の代表作として知られながら、1975(昭和50)年以来所在不明であった《築地明石町》と、あわせて三部作となる《新富町》《浜町河岸》の三点を新しく収蔵しました。
これを記念し、三部作のお披露目と、所蔵の清方作品をあわせた特別展示をおこないます。
小規模ですが、重要文化財《三遊亭円朝像》や、12幅対の《明治風俗十二ヶ月》など、粒よりの名作が並ぶ贅沢な展示です。

[ 詳細: 東京国立近代美術館    同館特設サイト ]kazari-upper

鏑 木  清 方 ── かぶらき・きよかた   (写真:根本章雄氏 提供)

鏑木清方(根本章雄氏 提供)

鏑木清方(1878-1972)は東京神田に生まれ、浮世絵系の水野年方に入門し、挿絵画家として画業をスタートさせました。日本画では文展、帝展を主たる舞台とし、美人画家として上村松園と並び称されました。

清方は明治末から大正にかけて、浮世絵をもとにした近世風俗を主なテーマとしていました。しかし関東大震災を大きなきっかけとして、失われゆく明治の情景を制作のテーマに加えます。そうして生まれたのが《築地明石町》(1927年)や、《三遊亭円朝像》(1930年)、《明治風俗十二ヶ月》(1935 年)といった名作の数々でした。

また、その頃から展覧会向きの絵とは別の、手もとで楽しめる作品を「卓上芸術」と名づけ、手がけるようになり、晩年は画帖、絵巻などの制作に打ち込みました。
文筆家としても名高く、『銀砂子』、『築地川』、『こしかたの記』などの著作があります。

これぞ清方の代表作
美人画家として上村松園と並び称された清方ですが、本人はそう呼ばれることを嫌っていました。清方が理想としたのは、ともすれば絵空事として社会から遊離してしまうような芸術ではなく、我が事として多くの共感が得られるような芸術だったからです。やがて清方は、明治20年代から30年代の人々の生活というテーマに行き着きました。
《築地明石町》は、そのスタートラインに位置する作品であり、早くも清方会心の作となりました。ここに描かれているのは、清方がじかに体験した明治半ばのひととき。そして、清方が実際に遊び場とし、慣れ親しんだ町の情緒そのものでした。《築地明石町》は、発表されるや否や、美術界のみならず一般からも絶賛され、清方を名実ともに帝展を代表する日本画家のひとりに押し上げたのです。

なぜ幻の名作?
《築地明石町》が「幻の名作」といわれてきたゆえんは、歴史に残る近代日本画の名作であるにもかかわらず、1975(昭和50)年以来 44 年もの間、所在不明となっていたからです。
戦禍を免れた《築地明石町》が清方のもとにもたらされたのは1955(昭和30)年のことでした。それを機に、清方自身が出品の仲介役を果たすことで、《築地明石町》はしばしば展覧会に出品されるようになりました。
しかし、1972(昭和47)年に清方が亡くなると事情が変わります。翌年から3回にわたってサントリー美術館で開催された「回想の清方」シリーズの3回目(1975 年)に出品されたのを最後に、《築地明石町》は忽然と姿を消したのです。以来44年、多くの人々が《築地明石町》の再登場を待ちわびてきました。

【もんじ・ことのは】 რაგბის მსოფლიო თასი 2019 ტოკიოს განყოფილება 2 იაპონიის ნაკრები და საქართველოს ეროვნული გუნდი-გამარჯვება ერთად ! ── ラグビー W杯2019 東京 第二戦 日本代表 & ジョージア代表-ともに勝利!

 ラグビー W杯2019 東京  第二戦  日本代表 & ジョージア代表-ともに勝利!
რაგბის მსოფლიო თასი 2019 ტოკიოს განყოფილება 2 იაპონიის ნაკრები და საქართველოს ეროვნული გუნდი-გამარჯვება ერთად !

◉ 2019年 9月 28日[土]エコパスタジアム 静岡県・袋井市 プールA
日本代表 19 - アイルランド代表 12
 ラグビー W杯2019 東京  日本列島が沸きかえった。日本代表の勝利を伝える翌朝のスポーツ新聞
下)スポーツ報知 一面&最終面見開き 右上)デイリースポーツ 最終面 (写真:青葉水龍)

ラグビー W杯 2019 東京 は、9月28日[土]、プール A 第 2 戦が静岡・エコパスタジアムで開催。世界ランク 2 位アイルランドと、同 9 位の日本が対戦した。
アイルランドとは過去 9 回対戦して全敗の強敵であったが、アイルランドは不動の司令塔:ジョニー・セクストンを負傷欠場で欠き、自慢のスクラムも日本に押し込まれていた。
日本代表は 19-12 で歴史的な金星をあげ、世界のラグビーファンは「アップセット-番狂わせ」と驚愕し、日本では「ジャイアント・キリング」として沸きかえった。

日本代表 勝利の瞬間  N H K  オンデマンド版 

なにしろ世界ランク 2 位で、ニュージーランドとならんで優勝候補のひとつのアイルランドが相手であった。いかにホームでのアドバンテージがあり、コーチ陣とメンバーは自信ありげに振る舞っていたとはいえ、吾輩は厳しい戦いになるとおもっていた。
ところが2015年イングランド大会での、対南アフリカ戦の激闘・撃破を彷彿とさせる「アップセット-番狂わせ」に、世界は愕き、日本列島は昂奮のるつぼと化した。

勝因はやはり F W の頑張りであった。スクラム、ラインアウトのモールディフェンス、タックルのすべてに、畏れずひるまず果敢に挑み、全てのプレーを徹底してやっていた。
ゲーム開始早〻から、アイルランドはキックパス(わが輩の時代は チョン蹴り といった)でトライをとったり、流れは悪くなかった。ところが前半35分、自慢のスクラム、それもアイルランドボールで日本に押し負けてペナルティを取られた。自分たちが強いと思っていたはずのところでやられ、そこから歯車が狂っていった。あのスクラムで一気に日本代表に風向きが変わっていった。
ラグビーには魔物が棲むという格言を彷彿とさせた大きなプレーであった。

吾が代表チームの結束は、フォワード、バックスを問わず、試合全体をとおして固く、終始素晴らしい戦いを展開していた。
つまり、前後半80分の最終プレーを告げるホーンが会場に鳴り、ラストワンプレーでアイルランドチームがボールをライン外に蹴り出し、プライドを捨てて、なにがなんでも僅差敗戦(7点差以内の敗者にあたえられる)勝ち点 1 を獲得するために、屈辱的な選択肢を選ばざるを得ないところまで精神的に追いこんでいた。それでもこの1ポイントは2015年W杯の例もあり無視できない意味を持つこともあるから怖い。なにせ「ラグビーには魔物が棲むという」から …… 。
それでも勝利確定の瞬間、わが輩はテレビ桟敷のまえで大声を出し、欣喜雀躍、おもわず飛びあがって歓んだ。

これでわが国は勝ち点を 9 としたが、まだ残りの二戦、圧倒的なフィジカルを誇るサモア戦、難敵の対戦相手:スコットランド戦をのこして警戒は許せない。なにしろ前回イングランド大会では、三勝一敗のチームが三チームとなり、わずかなポイント差でベストエイトと決勝リーグへの進出を逃した悔しさは忘れられない。それでも目標に掲げたベスト 8 と、初の決勝トーナメント進出に一歩だけ前進した。
歓ぶのはスポーツ紙に任せて、まだこれからの展開を固唾をのんで見守っていたい。

【YouTube ロングハイライト/日本代表 v アイルランド代表 ラグビーW杯 東京 2019 09:43】

◉ 2019年 9月 29日[日]熊谷ラグビー場 埼玉県・熊谷市 プールD
ジョージア代表 33 - ウルグアイ代表  7
勝利後に、応援団に挨拶するジョージアチーム  N H K  オンデマンド版 ゟ

ジョージアはかつて旧ソ連邦の一部だったため ラグビー W杯 代表としての歴史は浅く、2003年・2007年・2011年・2015年と連続五大会出場も、いずれも予選プールで敗退している。
世界と渡り合えるようになったのもここ20年ほどのこと。だが近年は目覚ましい進化を遂げて、前回の2015年イングランド W 杯では 2 勝をあげた。

また、レスリング(特にグレコローマンスタイル)・柔道・相撲(栃ノ心・臥牙丸・引退した黒海)といった格闘技の大国を自負するなかでも、ラグビーはいまや国技ともいえる人気スポーツとなり、スクラムの強さでは世界屈指の圧力を誇っている。チームの愛称の「レロス」は、古くからあるラグビーに似た民族スポーツの「レロ」に由来する。

ラグビー W杯2019 東京 初戦の相手は「ティア 1ー伝統的強豪国」のウェールズだった。ジョージアは、前半はウェールズにやりたい放題にやられていたが、あきらめることなく、終盤にモールを押し込んで 1トライ、最終盤に自慢のスクラムからの展開で 1トライをあげた。それでもジョージアは初戦のウェールズに 43 対 14 と惨敗した。

「プールD」はW杯 2 回の優勝をほこるオーストラリア、世界ランキング 2 位のウェールズといった強豪がひしめき「死の組」とも評される。
グループ五ヵ国のうちジョージアは世界ランキングでは12位といった中堅国で、わが国と同様にベストエイト初進出を狙っての第二戦への登場である。

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ラグビー W杯2019 東京 で、はじめての決勝トーナメント進出を目指すプール D のジョージアは、埼玉県の熊谷ラグビー場で行われた1次リーグ第2戦でウルグアイと対戦、ジョージア 33  対 ウルグアイ7 で勝ち、今大会初勝利を挙げた。

ジョージアは前半8分、ゴールライン手前で持ち味のスクラムから素早いパス回しを展開し、ウイングのアレクサンダー・トドゥア選手が先制のトライを決めた。さらに29分にもスクラムから相手を崩して2つ目のトライを奪い、12 対 7 とリードして折り返し。
ジョージアは後半もフォワードが力を発揮して3つのトライを奪うなどウルグアイを圧倒、今大会初勝利を挙げ、通算成績を1勝1敗とした。またジョージアは4つ以上のトライを決めたチームに与えられるボーナスポイントも獲得して、勝ち点を5とした。

ウルグアイは初戦で世界ランキングが上位のフィジーに勝って、ワールドカップで4大会ぶりの勝利を挙げたが、2連勝はならず、勝ち点は4のままとなった。
わが輩は、ラグビー W杯2019 東京 では、プール A の日本と並んで、プール D のジョージアを熱烈に応援している。

【YouTube ロングハイライト/ジョージア代表 v ウルグアイ代表 ラグビーW杯 東京2019  08:42】


{ NOTES ON TYPOGRAPHY   
ラグビー W杯2019 東京  まとめ

【展覧会】お札と切手の博物館 特別展示|令和元年度秋の特集展|改元と歴代天皇 ~ 印刷局の逸品から ~|10月1日-11月4日

お札と切手の博物館 特別展示
令和元年度秋の特集展
改元と歴代天皇 ~ 印刷局の逸品から ~
開  催  日  令和元年10月1日[火]-11月4日[月・祝]
開催時間  9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)

開催場所  お札と切手の博物館 2 階展示室
入  場  料        無    料
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国立印刷局(以下、印刷局)は、明治4(1871)年の創設以来、お札や切手、官報、諸証券類の製造に携わっており、これらの重要製品に欠かせない高度な製紙・印刷技術の研究開発、実用化を続けています。

印刷局が携わる製品の中で、歴代の改元や、天皇の即位等の重要な皇室行事に最も関係が深いのは、官報や記念切手です。

一方、明治から昭和にかけて、印刷局の独自技術を用いて製造した献納品や、宮内庁からの受注品のほか、技術練磨を目的とした試作品等のなかにも、歴代天皇に関連するものを見出すことができます。
天皇にまつわる記念切手や製品の数〻は、見た目に華やかなだけでなく、当代の印刷局の最高技術を駆使した特別仕様のものが多く、印刷局製品のなかでも特に歴史的、技術的に意義深い「逸品」といえます。
本展では、令和改元を記念し、初公開を含む印刷局の逸品を取り上げ、特別にご紹介します。

[ 詳細: お札と切手の博物館

【展覧会】世田谷美術館|奈良原一高のスペイン ── 約束の旅|’19年11月23日-’20年1月26日|

世田谷美術館
奈良原一高のスペイン ── 約束の旅
会  期  2019年11月23日[土・祝]-2020年1月26日[日]
開館時間  10:00-18:00(入場は17:30まで)
休  館  日  毎週月曜日(祝・休日の場合は開館、翌平日休館)
会  場  世田谷美術館 1 階展示室
観  覧  料  一般 1000円/65歳以上 800円/大高生 800円/中小生 500円
──────────────
人間が生きる条件とは何かを思索しながら、戦後日本の新しい写真表現を切りひらいた奈良原一高(1931-  )。本展では、1960 年代のシリーズ〈スペイン 偉大なる午後〉に着目します。
1962 年から 65 年まで、自らの表現を問い直そうとヨーロッパに滞在した奈良原は、憧れのスペインで濃密な日々を過ごしました。分け隔てなく人を迎え入れる祭りの熱気、町から村へと車を走らせ出会った人々の姿、そして劇的な闘牛。若き写真家が生んだダイナミックなイメージの奔流には、すべては時とともに失われるという微かな予感も、潜んでいるようです。

本展は〈スペイン 偉大なる午後〉から 120 点を厳選し、ニュープリントにより 3 章構成で紹介します。同時期の対照的なシリーズ〈ヨーロッパ・静止した時間〉の静謐さをたたえる 15 点も含め、135 点で奈良原の「約束の旅」の軌跡をたどります。

[ 詳細: 世田谷美術館 ]

【ちいさな勉強会】 戦後の復興期から高度学術書の組版・印刷に挑戦を重ねたひと ── 講師:小宮山 清さん

講師:小宮山 清さん ── 1931年(昭和6)2月26日うまれ

【朗文堂 ちいさな勉強会】「戦後の復興期から高度学術書組版・印刷に挑戦を重ねたひと」が、小宮山清さんを講師にお迎えして、8月23日[金]に開催された。

小宮山清 さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、とりわけ、わが国の有力大学出版局、欧米著名大学東洋学などの分野における「欧文・漢文(中国語)、欧文・和文」などが混用となる「高度学術書の組版・印刷」に関しては、わが国有数の知識と経験を有されている。

『 Cambridge History of China 組版指示書』(1981年9月)

受講者は、良きアマチュアであることを自覚している活版印刷の実践者であり、現在では DTP システムを駆使されているかたがほとんどであったが、次〻と机上に提示される「組版指示書」と、それにもとづく図書の実物をみて、なかば茫然。
しかもそれらが数年-十数年がかり、何十巻もの図書の一部であり、現在も刊行が継続されているものがあると聞いて唖然という状態であった。

もちろん現在は「小宮山印刷工業」には大量に電子機器が採用されているが、一部の活字版時代から継続刊行されている図書では、上掲図のような「組版指示書」は現在も有効であるとされた。懇談に移ってすぐに、待ちかねたように同社の組版機器とソフトウエアに関して質問があったが、
「エヘヘ、ね、みんなと同じじゃこういった仕事はとれないからね、エヘヘ」
と、いつものように「小宮山スマイル」で躱されていた。
まぁ、これこそ企業に営々と蓄積されたノウハウということであろう。

稿者の知る限りでは、小宮山さんはいまなお大型コンピューターを駆使されているし、つい近年まで、特殊組版処理システム「 TeX  ; テフ、テック 」などにも習熟されていた。また「小宮山印刷工業」を含むページ物印刷業者では、画像処理はパソコンでも、文字組版は「業務用専用組版機」をもちいている企業も多い。
ともあれ今回の勉強会は、端物印刷とページ物印刷の典型的な違いを知る刺激的な機会となった。

【ちいさな勉強会】戦後の復興期から高度学術書印刷に挑戦を重ねたひと ── 講師:小宮山 清さん

[以下の記事は{ 活版 à la carte }8月19日 に掲載された記事に一部加筆修整したものです]

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【会員情報】私の獨逸日記 戸叶勝也ブログ 新シリーズ+バウハウス美術館 デッサウ 新設オープンのお知らせ

ブログ著者紹介 ── 戸叶 勝也

とかの かつや 1938年 うまれ

DSCN2591-300x242ドイツ史学・ドイツ文学、日本大学元教授。 
東京生まれ。1961年 東京大学文学部西洋史学科卒業。N H K 教育局、国際局勤務。その間ドイツ海外放送勤務。88年日本大学経済学部助教授、91年教授、2009年定年退任。専攻、ドイツ近現代史。

特にドイツ出版文化史、ドイツの冒険作家カール・マイの翻訳・研究を行う。

 

戸叶さんは連載ブログ「ドイツの冒険作家カール・マイの生涯」の執筆とあわせて、ことしの夏、永年にわたって滞在された独逸を旅行されました。
その旅行記「2019年7月ドイツ鉄道の旅」を三回シリーズでの掲載を発表され、その第一回目がアップロードされました。皆さまのご訪問をお勧めします。
[ 参考: 私の獨逸日記 戸叶勝也ブログ ]

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バウハウス美術館 デッサウ 新設オープンのお知らせ

颱風一過の9月9日、戸叶勝也さんからのメールで「バウハウス美術館」が昨9月8日にオープンしたことをお知らせいただきました。戸叶さんはすでに帰国されていますが、いまなおご自宅でも独逸テレビの視聴をされており、速報ともいえる早さでした。
「バウハウス美術館」はバウハウス創立百周年にちなんで、デッサウ(旧東独)に開設され、9月8日に「バウハウス美術館」がオープンしました。

その記念式典には独逸のメルケル首相も出席して挨拶したそうです。メルケル首相は旧東独出身ですから、思い入れがあるのかもしれません。同館はコンペを経てスペインの建築家グループが設計したもので、総ガラス張りの建物です。所蔵品は4万9千点。
新しい建物が総ガラス張りで透明なことについて、市民の反応は賛否両論のようです。館長さんは女性です ── とお知らせいただきました。

撮影・図版製作:青葉水龍

ところで …… 、一昨年はオランダの{ DE STIJL }の創立(1917年-大正6 デザイン同人誌  DE STIJL 創刊)100年であった。
そして、ことしは{ BAUHAUES }の学校創立百年(1919年-大正8 創立)記念の年である。
このふたつの造形運動、とりわけバウハウスはわが国でも関心が高い。ところが稿者の知る限り、わが国では 京都国立近代美術館が「バウハウスへの応答」と題して、同校がインドとわが国の造形に与えた影響を整理して、2018年10月にコレクション展示をおこない、小規模な学会が記念講演を開催したと聞くばかりであった。
ようやく …… という思いと、またあらたな「神話」ができなければ良いがという思いもある。

[ 詳細: Bauhaus Dessau ]
[ 参考: 日吉洋人 Facebook  9月9日

【 AtypI 2019 Tokyo 】Associtation Typographique Internationale|日本科学未来館|9月4日-7日

Associtation Typographique Internationale

2019年9月4日[水]-7日[土]、日本科学未来館で開催された「AtypI 2019 Tokyo」。
AtypI カンファレンスは、タイプとタイポグラフィのあらたな可能性と普遍的な価値を、世界に向けて発信する場となることを期して開催されている。
ことしのテーマは「Rediscover ── 変化と伝統の都市、東京でタイポグラフィを再発見しよう!」であった。そのカンファレンスで、タイポグラフィ学会会員の山本太郎さん、春田ゆかりさんが登壇しました。

山本太郎  Taro Yamamoto

戦後日本の二人のタイポグラファとモダニズム
第二次世界大戦後の日本のタイポグラフィとブックデザインの領域で活躍した二人の傑出したタイポグラファ、清原悦志とヘルムート・シュミットによる作品を入念に吟味する。
そして西洋から導入したモダニズムの様式上の影響、彼らの独自の解釈、戦後とそれ以後の歴史的な状況について詳しく論じる。20世紀のモダニズムが日本でつくられたタイポグラフィの実作にいかに反映されたか、その重要な側面を明らかにする。

春田ゆかり  Yukari Haruta

明治初期に「活字の版下を書いた」人物、池原香穉について
明治初期より隆盛した近代活字については、それらを長崎で導入・実用化させた中心人物である本木昌造、事業として全国に広めた平野富二、また当時製造された活字そのものについても丹念な調査や研究が進められている。
しかし、本木昌造らによって製造されたその「活字の版下を書いた」人物、池原香穉(かわか)については、近代活字書体成立の源点ともなりうる人物であるにもかかわらず、タイポグラフィ史においてはまだ充分な周知がされていない。またその書体は、江戸時代末までに育まれた日本独自の書(和様)が、明治時代にはいって活字用書体へと転換していく、まさに「過渡期の姿」といえるものでもあり、文字史のうえでもより注目をされるべきであると考えている。
今回は、この池原香穉という人物とその活字について、日本語タイポグラフィ史における明確な位置づけとさらなる周知をおこないたいと思う。

[ 参考: タイポグラフィ学会

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎〔シリーズ全七回最終回〕


東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
    2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
       (一)伝票制会計
       (二)設備の更新
       (三)不用部門の切捨て
       (四)別工場
       (五)内政から外交
          終 焉
    2-2 その他の事績
3.解散を決議した第9代社長松田一郎について
    3-1 東京築地活版製造所との関わり
    3-2 取締役としての事績
    3-3 第9代社長としての事績
まとめ
シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するのに当たって
──────────
ま と め

第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。
この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。
吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたとされている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。
当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。
しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。
松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、東京築地活版製造所とはある意味では松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。
したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。

この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。
なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

【 古谷昌二ブログ : 東京築地活版製造所 歴代社長略伝 全七回まとめ 】
◉ 第一回 東京築地活版製造所 初代社長 平野富二
◉ 第二回 東京築地活版製造所 第二代社長(空席)、社長心得 本木小太郎
◉ 第三回 東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成
◉ 第四回 東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵
◉ 第五回 東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎
◉ 第六回 東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一
◉ 第七回 東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

【ちいさな勉強会】研究社・研究社印刷の百余年に及ぶ歴史からまなぶ ── 講師:小酒井英一郎さん

講師/研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん

《朗文堂 ちいさな勉強会 ── 研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん》
去る07月19日[金]、皆さん親しいお仲間ばかりのご参加でしたが、研究社印刷株式会社:小酒井英一郎さんを講師にお招きして、朗文堂/タイポグラフィ学会/サラマ・プレス倶楽部/平野富二の会 ── 合同による「ちいさな勉強会」を開催。
歴史と伝統を誇る研究社/研究社印刷の百余年にわたる歴史をお話しいただきました。

◉ 第一部 研究社百年の歩みを中心に

『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版 B 5 判 160 ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。高島義雄 → 加藤美方をへて朗文堂に譲渡された。研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

 

 

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
研究社印刷 1937(昭和12)年 同社蔵) B 5 判 160ページ かがり綴じ 上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded, Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond, Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。

 

『研究社八十五年の歩み』
1992年(平成4)12月15日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社本社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:黒田製本所、B 5 判 上製本、312ページ ケース函入り

『研究社百年の歩み』
2007年(平成19)11月3日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:株式会社ブロケード、B 5 判 上製本 520ページ ケース函入り

《研究社と研究社印刷》
◉ 研 究 社 は、
1907(明治40)年、小酒井五一郎(当時26歳)が「英語研究社」の名称で麹町区富士見町6丁目10番地に創業以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。1916(大正5)年、社名を「研究社」と改称した。
創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。現在の住所表記:東京都千代田区富士見 2ー11ー3

◉ 研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

[ 関連: 研究社 HOME   研究社会社案内  研究社印刷株式会社 ]
[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000 ]

◉ 第二部 研究社の辞書の刊記(奥付)をみる ── 武信和英大辞典を中心に

『武信和英大辞典』初版刊記(奥付)
武信由太郎編、研究社発行、印刷:東京築地活版製造所

『武信和英大辞典』昭和2年〔1927〕10月1日訂正第五十九版刊記(奥付)
特製総皮製本 武信由太郎編、研究社発行、印刷:研究社印刷所

創業から20年余ののち、小酒井五一郎率いる研究社は画期的な大型辞書に挑戦した。それは武信由太郎編『武信和英大辞典』の刊行であった。当時はまだ英和辞典ですら稚拙なものが多かった時代にあって、いきなり大型の和英辞典の刊行は無謀ともいえた挑戦であった。ところが『武信和英大辞典』は市場で熱狂的な好評を博し、研究社では増刷につぐ増刷を重ねることとなった。

研究社は創業以来、読み物は秀英舎、辞書・辞典類は東京築地活版製造所に組版・印刷を発注することが中心であった。したがって『武信和英大辞典』の当初の印刷担当は「東京市京橋区築地二丁目十七番地 東京築地活版製造所」であった。
印刷者として記録されている「大久保秀次郎」は東京築地活版製造所印刷部門の有能な責任者であったとみられ、岩波書店『漱石全集』の印刷者としてもこの名をみることができる。

研究社は1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場を新設し、1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転したのち、1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場を完成させている。したがっていつからこれだけの大冊図書を、東京築地活版製造所に代わって組版と印刷をはじめたのかはわからないが、最終図版に紹介した「昭和二年十月一日訂正第五十九版」の印刷所は「東京市麹町区飯田町六丁目一番地 研究社印刷所」となっている。影印からみる限り活字書体は東京築地活版製造所製とみられる。
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昭和15年ころになると、一部に「皇国史観」がみられ、英語は敵性言語とされて排斥される風潮が芽ばえた。また日中戦線が拡大し、太平洋戦争の予感が強まるのにつれて、物資が困窮をきたし、印刷活字界には官制の国民運動「変体活字廃棄運動」が横行した。研究社ももちろんその埒外にあるわけではなく、過酷な移転命令・活字没収・企業合同の荒波に翻弄されることとなった。
残念ながら小酒井英一郎さんによる講演はここで時間切れとなった。戦後の研究社/研究社印刷を中心に、再度の講演を依頼して歓談に移った。

ともあれ、研究社が「英和辞書」にとどまらず、「和英辞書」の刊行に挑んだ功績は大きかった。
また「和英辞書」刊行の功績者として、武信由太郎(たけのぶ よしたろう 1863-1930)の名が知られたことも大きかった。
この辞典は、武信没後の1940年に『新和英大辞典』と改題して刊行され、現在にいたるまで研究社の和英辞典として確固たる名声を得ている。

ここでは同様に、三省堂における「漢和辞書」への挑戦も再度記録しておきたい。
わが国における「漢和辞書」成立の功績者は 三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)である。三島は旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、そこには「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」と刻されていることが多い。

三島 毅は 重野 安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。

研究社における「和英辞典」の刊行(大正7年9月25日)と同様に、「国語辞書」の成立に較べると、近代「漢和辞書」の成立は大きく遅れている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない特殊な漢字活字の開発と発展をまってから、ようやく「漢語 ⇄ 和語 漢和辞典」をつくることができるようになった。

一九〇三(明治三六)年、重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。

[ 参考: 花筏 【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる ]

【かきしるす】淳化閣帖ーじゅんか-かく-じょう|中国北宋王朝|石に刻され伝承された図書

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)
『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

【 淳化閣帖ーじゅんか-かく-じょう 】
中国宋代の集帖。正式名称は「淳化秘閣法帖」、略して「閣帖」ともする。
宋王朝(北宋)第2代皇帝・太宗(976-997)が淳化3年(992)に 、宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王 著(オウチョ ?-990)に命じて、編輯、摹勒(もろく 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿した記録がのこるので、現代では 王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。
内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之、2巻が王献之で、王家の「二王父子」が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖-ほうじょう-とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 「法帖仕立て」である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停雲館帖』、清の『余清斎帖』『三希堂法帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 チョウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣・廷臣に賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、また金王朝による「靖康の変」の影響も甚大で、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられない。
わずかに東京都台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツホン』と、『最善本』(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されているのにすぎない。
[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY 【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

書道博物館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。『夾雪本』命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。
所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カ-ジドウ 1213-75) による『賈刻本-カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本-せさいどうほん』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コ-ジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本-ぎょくおうかんほん』、潘雲龍 ハン-ウンリュウ による『潘氏本、五石山房本-ごせきさんぼうほん』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

参考資料/『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
     『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
     『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日

【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

山種美術館 広尾開館10周年記念特別展
生誕125年 速 水  御 舟
会  期  6月8日[土]-8月4日[日]
      * 会期中一部展示替えあり(前期:6/8-7/7、後期:7/9-8/4)
会  場  山種美術館
主  催  山種美術館、日本経済新聞社
開館時間  午前10時-午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 1200円・大高生 900円・中学生以下無料
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本年は、日本画家・速水御舟(はやみ ぎょしゅう 1894-1935)の生誕から125年、そして山種 美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。この節目の年を記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌を紹介する展覧会を開催いたします。

当館創立者の山崎種二(1893-1983)は御舟とは一つ違いでしたが、御舟が40歳という若さで早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、機会あるごとにその作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。
一方、御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」
という御舟の言葉どおり、彼は生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。

御舟は40年という短い生涯に、およそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」とも称されていました。1976年、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入の相談が種二のもとに持ち込まれ、種二は購入の決断をします。その結果、すでに所蔵していた作品とあわせて計120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となり、以来当館は「御舟美術館」として親しまれてきました。

本展では、御舟の代表作ともいえる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめとして、《錦木》など初期の作品から《牡丹花(墨牡丹)》など晩年の作品まで、各時代の作品をまとめてご覧いただきます。
当館の御舟コレクション全点公開は2009年の広尾開館以来10年ぶりとなります。この機会に、御舟芸術の真髄をお楽しみください。

[ 詳細: 山種美術館 ]

速水御舟「桃花」1923(大正122)年(山種美術館蔵)
日付と署名に「瘦金体」の書がみられる ── 山種美術館図録並びに市販絵はがきゟ
山種美術館 2016年11月13日のツィターゟ
日付と署名・落款に「瘦金体」の書がみられる。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも 図書(書物)製造の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周など、現在の開封(カイホウ、  Kāifēng) にみやこをおいた王朝を中心に木版図書製造技術が温存されて、10世紀・北宋(趙氏、九代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典図書としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある 開封(カイホウ)であった。いまもなお開封は、雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。 前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して「大梁-タイリョウ」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦 によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ「東都」となり、つづいて後晋・後漢・後周もここにみやこをおいて「東京-トウケイ」 と称した。
すなわち「分裂時代」とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた「後唐  923-936」 以外の四つの国は、開封(東都・東京・汴-ベン)をみやことしていたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国(現在の四川省)に建朝された「後蜀  934-965」 では、965年ころには、あきらかに、
「蜀地の文化の新展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 (『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 )のである。
「 木版印刷の創始は宋代から 」 という説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ『周礼-シュライ』がわが国の 静嘉堂文庫(東京都世田ヶ谷区)に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル・タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」(製作・欣喜堂、販売・朗文堂)である。これがして、稿者が北宋・南宋の両方の宋王朝と、多様で多彩な展開例をのこした宋朝刊本字様 ── 宋朝体 ── に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤(チョウ-キョウイン、宋の太祖、在位 960-976) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を「汴-ベン、 東京開封府-トウケイカイホウフ」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武(文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール)につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹-キッタン-族の遼、チベット系タングート族の 西夏-セイカ-の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金(女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打-アグダ-の建てた国 ) が、会寧府(吉林省阿城県)、燕京(エンケイ-現ベイジン、北京 )を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて、二次にわたる大攻勢の結果「汴-ベン、東京開封府」 を占拠して、宋 (北宋)を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康-セイコウーの変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 -キソウ(趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。「 楷書千字文 」「 牡丹詩帖 」「 穠芳詩巻 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を「痩金体- ソウキンタイ」と名づけた。

趙佶は初唐の書家・薛曜(セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 の原本は、いまは上海博物館の所蔵で、ここでは真筆をみて、C D R 版を含む、できのよい複製版を購入することができる。『宋徽宗書法全集』(王 平川、北京・ 朝華出版社、2002年1月)

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこ「 汴 ・ 東京開封府」を陥れた。 ここに宋(北宋)は九代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝、上皇・徽宗(趙 佶、在位1100-25 )、皇帝・ 欽宗(趙 桓、在位 1125-27) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城(現黒竜江省)に幽閉した。これが「靖康の変」とされる事件である。

風流皇帝とされ、芸術に惑溺していた徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓(欽宗)に帝位を譲って上皇となったが、「靖康の変」に際しては上皇・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓「永祐陵」は、旧南宋領内のみやこ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[本項は 『大観  宋版図書特展』  台北・故宮博物院、2007年12月を主要資料とした]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業(図書出版)であるが、この時代( 10-12世紀 )の木版刊本の書物「北宋刊本 ・ 北宋図書」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様(木版刊本のうえにあらわれた字の形姿)や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物「インキュナブラ」の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗(976-997) が、淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書-カンリン-ジショ-であった王 著 (オウチョ  ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒(もろく-摸倣によって木石に彫刻)させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて『淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ』である。

『淳化閣帖』は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「夾雪本」( 東京・書道博物館 )と、「最善本」(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇・徽宗帝、皇帝・欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵「内府」や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国(民族)はのちに女真文字(満州文字)をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

この女真-ジョシン-文字の形成に成功した満州族の一部族、「愛新覚羅-アイシンカクラ・アイシンギョロ」のヌルハチがのちに勃興して、1616年帝位(太祖)について、国号を「後金-ゴキン」と称して奉天(現瀋陽)にみやこした。その子ホンタイジ(太宗)は1636年に国号を「清 qīng」とあらため、孫の世祖のときに長城を越えて中国に入って北京をみやことした。「清 qīng」は12代の皇帝の治世をみたが、孫文らによる辛亥革命によって1912年に滅亡した。
したがってその城地:北京紫禁城(現故宮博物院)の外朝はともかく、皇帝をはじめ皇族が居住していた内廷では、いまなお扁額などに満州文字がおおくみられる。
また稿者の知人のほとんどは、「清 qīng」とは呼ばずに「後金-ゴキン」と呼ぶ。

清王朝(1616-1912)の存在はそんなにふるい時代のはなしではない。
わが国でいうと徳川家康が江戸幕府をひらき、その基礎をかためて将軍職を秀忠にゆずり、駿府に隠居して大御所とされ、逝去した年がわが国の元号でいうと、元和元年-1616年のことである。また清王朝が崩壊した1912年は明治から大正への改元のときでもあった。
すなわち「清王朝」とわが国の歴史は、江戸時代初期から明治・大正期の歴史と重なる。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY  【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

つまり金軍は『淳化閣帖』などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石・版木のほとんどすべてと、その工匠までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる『淳化閣帖』の複製原版が、石刻だったのか、梓 や 棗 材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明していない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋( 北宋 )の版本のほとんどは 「汴、東京開封府」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で「覆刻術-かぶせ彫り-のために費消」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における「 文字獄 」によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「北宋刊本」 がのこったのである。

すなわち、わが国では「 文字獄」はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく清王朝初期の皇帝らによって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。

こうした過酷な時代を乗りこえて、みかどの書 ── 瘦金体は原本が相当数のこっている。またわが国へも江戸の後期にはなんらかの手本がもたらされたとみられ、あちこちの金石のうえに瘦金体の書をみることができる。
速水御舟は良い意味での好奇心のつよい画家であったとみられている。したがってそうした宋朝の文人画にあこがれ、書藝の瘦金体の手本をどこからか入手していたのであろう。

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第六代専務取締役社長 松田精一

東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一

(1)第六代社長として松田精一が就任
(2)松田精一の前歴
(3)東京築地活版製造所との関わり
(4)第6代社長松田精一による経営
      1.増資・借入金と各期の決算結果
      2.役員の改選
      3.博覧会への出品
      4.活字鋳造設備の縮小
      5.月島分工場の廃止と九州出張所の閉鎖
      6.その他
(5)東京築地活版製造所の社長辞任とその後
ま と め
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ま と め ゟ

松田精一は、明治34年(1901)4月から大正14年(1925)4月までの24年間、東京築地活版製造所の取締役として第4代社長名村泰蔵と第5代野村宗十郎の下で取締役をつとめた。
野村社長の病死により、大正14年(1925)4月に第6代社長に就任してから昭和10年(1935)4月に病気で退任するまで10年間社長職をつとめた。その後も相談役をつとめたが、2ヶ月後の同年6月に辞任した。
このように34年余りの長い年月にわたって、松田精一は東京築地活版製造所の経営に関わって来たことになる。

この間、わが国の経済情勢は、明治34年(1901)の銀行恐慌、大正12年(1923)の関東大震災による震災恐慌、そして昭和2年(1927)の金融恐慌、さらには昭和4年(1929)にはじまる世界大恐慌下の昭和恐慌にいたる、まさに、わが国の経済情勢は「恐慌から恐慌へ」と揺れ動く動乱の時代だった。

前々代の名村社長による積極経営と、前代の野村社長によるポイント活字販売によって、東京築地活版製造所は順調に経営の拡大がなされてきた。しかし、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で罹災し、新築したばかりの本社ビルは鉄筋コンクリートの建物が焼け残っただけで、月島分工場を含めてほとんど壊滅状態になった。

前代野村社長の陣頭指揮の下で震災復興がおこなわれ、翌13年7月には本社ビルの補修と増築工事が完成して活字製造を開始した。それに続いて月島分工場も復旧工事が完成した。
復興事業はその後も続いたが、本社ビルの完成から1年後の大正14年(1925)4月23日になって、野村社長は復興計画未完成のまま入院して間もなく病死した。

あとを引き継いで社長となった松田精一は、野村前社長の未完成の計画を引き継ぎ、震災から3年後に活字製造設備を中心とした製造諸設備を完成させた。
その復興資金は、日本勧業銀行からの融資と資本金の増資によってまかなわれた。日本勧業銀行からは大正13年度に30万円、大正15年度と昭和2年度にそれぞれ10万円、合計50万円の融資をうけた。大正14年(1925)に30万円の倍額増資を行い、資本金60万円となった。

しかし、震災後の復興需要が一巡すると、活字の需要は減退し、月島分工場で製造する従来型の活版印刷機もその需要は低迷した。そのため、銀行融資の利払いが負担となり、株主への配当ができない状態に陥ってしまった。
原因は、野村社長の復興計画が、印刷業界の趨勢を無視して、復興の重点を活字製造事業に置き過ぎたこと、自動化、省力化の最新型製造設備への転換が疎かにされたことであったと見られる。
明治初期からの中小企業的な体質をそのままの形で大企業化をはかったため、もはや、後戻りして体質改善をおこなう余裕すらない状態に追い込まれていた。

この間、社長として経営を任された松田精一は、前社長の野村宗十郎の復興投資の後始末に追われて、活字鋳造設備を半減処分し、月島分工場を閉鎖するなどで経営上の負担を軽減させたが、時代に適合した方向への軌道修正ができないまま、病気により退陣を余儀なくされた。
また、社長に代わって強力なジーダ―シップを発揮し、社内を新しい方向へ引っ張って行く人材が育成されていなかったことも苦境からの離脱ができない要因の一つであった。

松田精一は、父の松田源五郎が本事業の開祖本木昌造と業祖平野富二に、終始側面から協力した結果として設立された東京築地活版製造所の第6代社長として経営を任されたが、長崎の十八銀行頭取などの本務がある制約から、経営改善の筋道をつけることができないまま、激務による病気で引退することになった。

その後は、長男の松田一郎が取締役として経営に参画することになるが、時代の趨勢は厳しくなる一方であった。
伝統ある東京築地活版製造所の最後の幕引きは、松田一郎が倒産でなく、解散という形で締めくくる役目を負った。そのことについては次回のブログで紹介する。

【かきしるす】タイポグラファ群像*02|国立国会図書館所蔵|東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略伝』|附:東京築地活版製造所第二代社長(心得)本木小太郎|WebSite 改定・増補版

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/株式会社東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/株式会社石川島造船所(現 I H I) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13 享年53

本木小太郎に関する資料は極めて少ない。東京築地活版製造所の役員であり、後見人:平野富二、岳父:品川藤十郎、本木昌造の高弟:谷口黙次、最大の支援者:松田源五郎らも、ついに小太郎に匙をなげるにいたった原因は、断片情報からおおむね解ってはいたものの、ここにようやく公開された『曲田 成略伝』をお読みいただけるとわかるようになった。

しかしながら曲田成以外の役員はすべて長崎出身者であり、たれもが故人となった本木昌造に対する「惻隠の情」のなせるところがあり、本書でも明確には伝えられていない。そのため本書の記述の「行間」を注意ふかく読みとっていただくことになる。
本木小太郎の最後は、現在の銀座松屋近辺の三間 ミツマ 印刷(大阪活版所:谷口黙次次男、三間隆次宅)で、墓地は長崎大光寺本木家塋域、本木昌造墓標の右脇、ひとつだけちいさな石標に、仏画を刻した墓が本木小太郎の墓標である。これは知るひともすくないままにひっそりとある。

曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49
元阿波国蜂須賀藩藩士、徳島本藩と淡路島の稲田家の騒動に巻きこまれて士籍を捨てた。
菩提寺・墓所・親類縁者はいまだに判明していない。なお幼名は岩本壮平とされる

《東京谷中霊園 平野家墓地に石に刻されてのこっていた曲田 成の名前》

IMG_1914IMG_1915谷中霊園甲十一号十四側、平野家墓地の背の高い石柱の門を入った参道の右側に、石の水盤が置かれている。
この水盤は東京石川島造船所の関係者によって捧げられたもので、その左側面に、重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。
これらの名前は東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった(『平野富二伝 考察と補遺』古谷昌二、朗文堂)。

IMG_1885IMG_1888

MG_0689uu[1]その先の参道に左右一対の石灯籠がある〔掃苔会 案内人:松尾篤史氏、撮影:時盛淳氏〕。
上掲写真「掃苔会」のおりの集合写真では、向かって左側の石灯籠をみることができる。
三段重ねの基壇があり、そのうえに台座がしつらえられており、軽やかで瀟洒なものである。
平野富二の墓標と同様に、太平洋戦争に際して上野駅周辺に投下された焼夷弾の油煙をあびているが、火袋を交換修復しただけで創建時の状態をよく保っている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。
向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて、曲田 成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科 衛など役員・幹部社員とみられる総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。
秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎 努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡 洵。
しかしながら、ここには本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)にして明治43年9月まで存命していた本木小太郎の名はみられない。
このころの小太郎はおもに関西方面にあって、旧長崎新町私塾の門下生をたずね歩いては、あまり好ましくない足跡を断片記録として残している。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第三代社長:曲田 成を取りあげる。
これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田 成 まがた-せい 1846−1894】
明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣・本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所第二代社長-心得-に就任 一八五七-一九一〇)の名はみられない。(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。
本木小太郎は一八八九年(明治二二)の暮れも押しつまった一二月三〇日に東京築地活版製造所に社長心得の辞職届けを提出したものとみられるが、年明け早早の一月二日にはほどんどの職員・職工は再任・再雇用されたものの、そこにはすでに本木小太郎の名はなかったのである。
このことに関しては『曲田成君略伝』の編著者も論及には及び腰であり、読者にはその「行間」に込められた真意を読みとっていただくしか無い。
かくいう稿者も惻隠の情はある。したがって「口ごもらざるを得ない」状況にある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』ゟ
当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。
そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもと、その効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

平野富二──明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ}
東京築地活版製造所歴代社長略歴 第三代社長 曲田 成 ゟ
明治22年(1889)12月30日、曲田 成は、東京築地活版製造所の臨時株主総会において 経営改善 7 ヶ条の条件を委任されて社長に就任した。翌31日、事務員一同に辞職届を提出させ、各部の職工を解雇した。
年明け早々の明治23年(1890)1月2日、経営改革に協力する事務員を再雇用し、その中から信任の度合いに応じて事務を分担させた。また、職工の再雇用などを行わせた。
なお、明治22年と同23年の職工数を見ると、男性214人が5人減、女性30人が21人増となっており、男性に代えて女性を増やしたと見られるが、大幅な変動はない。

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あらかじめお断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。
また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資・合併と変遷をへて現 I H I につらなっている。
商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。


本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。
平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田 成」に関して、近年国立国会図書館によって 公開紹介された新資料「株式会社東京築地活版製造所社長『曲田 成君略伝』」から見ていきたい。

 曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり、一部資料にまがた-せい)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・ダウンロード用 PDF  『曲田 茂 君略伝』 3.62MB

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』

明治二八年一〇月一六日発行  (非売品)
編輯兼発行者   松尾 篤三         東京市京橋区築地一丁目七番地
印  刷   者    野村宗十郎         東京市京橋区築地一丁目二十番地
印  刷   所    東京築地活版製造所           東京市京橋区築地二丁目十七番地
【 国会図書館資料 請求記号:特29-644 】

《知られざる人物だった 『曲田 成君略伝』について》

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二

東京築地活版製造所創設者/初代社長  
弘化三年八月一四日-明治二五年一二月 三日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田  成
東京築地活版製造所第三代社長
弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田 成は出張先の 姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。
わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。
それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが異様なまでに熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、本木昌造の継嗣にして二代社長(心得)/本木小太郎にはほとんど触れられず、三代社長/曲田 成、四代社長/名村泰蔵に関しては 黙殺にちかい状況にありながら、なぜか、ポンと飛んで第五代社長/野村宗十郎だけが喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長 曲田 成君略伝』は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながらこれまで本書から引用された論考をみたことは無い。
序文は校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。
本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。

本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆  不詳)がある。
最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙 八番目にその名をみることができる。 また長崎の宮田和夫氏からは、長崎師範学校に在籍していたとする記録をいただいた。
印刷者として、支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として、東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。
すなわち従来は平野富二・本木小太郎(本木昌造の継嗣)・曲田 成・名村泰蔵に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、東京築地活版製造所創設当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。

野村宗十郎建立概要_表紙さらにことばをかさねれば、原稿が完成していながら、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書と、こののちに紹介する「故野村宗十郎翁略伝」『野村宗十郎翁胸像建立概要』(昭和五年八月)の中であきらかになってくる。
ここに(2016年09月23日{活版 à la carte}{文字壹凜})読者諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の存在をお知らせし、ともに本書をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。
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このように、ほぼ三年前に諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』公開の情報をお知らせした。それ以来多くの方が国立国会図書館のデーターをダウンロードされ、ともに研究をすすめてきた。
したがって本稿はまだ読了されていない諸賢に、再度データーの存在をお知らせするとともに、まず旧漢字片かなまじりで明治文語体の、いささか読みにくい本文を、常用漢字におきかえ、あわせて文意を損なわない程度に現代通行文にした記録である。
原文との参照には、国立国会図書館の PDF データをご覧いただきたい。

この間、古谷昌二氏をはじめ、宮田和夫氏、板倉雅宣氏、桜井孝三氏(故人)、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、日吉洋人氏、大石 薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

曲田成略伝序
〔福地源一郎 Ⅰ-Ⅳ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕
東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎・櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長 : 曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

わが東京築地活版製造所にこんにちある者は、曲田の功績は実に多大であったとしています。福地先生は曲田を識るひとです。願わくば先生がこの略伝を閲覧たまわり、あえてお願いいたしますが、文章・字句などの悪いところをけずり改める〔刪正〕加工をしてくださいと。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益〻曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。
而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。
嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。
明治二八年〔一八九五〕一〇月               福地源一郎 しるす

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曲 田 成 君 略伝
〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体 30字詰め 10行 字間四分アキ 行間五号全角と二分  ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひと p.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。 いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。 まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張・改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。 そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔 『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。 弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年 曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすか なりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすか もちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。
しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。
しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized『江戸名所道尽 外神田佐久間町』歌川広景 安政六年(1860)
平野富二・曲田成の東京での出発点となった藤堂和泉守上屋敷の門長屋の風景。

江戸期以来、町人地とは異なり武家地と社寺地には町名がなく、この絵士:歌川広景も「外神田佐久間町」として庶民の正月風景を描いているが、外神田佐久間町は画面左手にあたり、ほとんど描かれていない。
実際に描かれたのは現・東京都千代田区神田和泉町一にあたる、藤堂藩の藩屏たる門長屋の風景である。この藤堂藩三十二万三千石屋敷(上屋敷)の敷地と門長屋はおおきく、平野富二は画面右側の最奥部あたり(現千代田区和泉公園の南端あたり)に仮工場を設置したものと見られる。

平野富二がここを本拠地とした期間は、一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現・東京都千代田区神田和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校 だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。
 (平野の会:古谷昌二・平野正一氏同日情報提供 『江戸名所道外尽 神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館 請求記号:寄1-9-1-7)
現在はこの歌川広景の錦絵を「平野富二の会」も所有するにいたっている。

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守屋敷門長屋の一隅・現千代田区神田和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区神田和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。 しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。
まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生・自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉 ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。
累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

長崎新塾出張活版製造所uu[1]

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、
木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子(日本大学藝術学部教授)

この図版の版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根  勝、八木書店  pp 246)、その通説をくつがえす報告である。

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのは、まだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。
平野富二がこの上京に際して、上海 → 長崎 → 神戸 → 横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。
このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻・こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八 上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船を乗り換えながら、品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋河岸-かし-あたりで荷物を降ろしたものと想像される。
すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区神田和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて一年前に先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。
この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、平野富二が大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。
したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。一部の記録には下掲の「大坪活版所」に合流したともされている。
また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

東京日本橋のたもとに設置されている銀座大火の記録。この大火のために銀座地区の復興に際して耐火性にすぐれた煉瓦がもちいられ、次第にガス灯がともって、一大商業地が登場した。[画像提供:青葉水竜]

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩屋敷から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。
この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府はこの周辺から寺社と墓地の移転をはかり、銀座周辺を耐火構造の煉瓦をもちいて、西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校 文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様になにかと居心地がわるかったとみえる。
そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。
上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。
東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。
同展には先行したパリ万博・ウィーン万博での中心展示となった漆器・陶磁器・扇子・屏風・浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書 日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。
この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地フィラデルフィアに派遣し、活字類・手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。
この俗称「平野活版所活字見本 明治九年版・明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の縦長看板があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店  p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。
その文に曰く、
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乞 家 禄 奉 還 書 (家禄奉還を乞う書)
士族  曲 田  成 謹言す

名東ミョウドウ県令公閣下 維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。
このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。
不肖 曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。
それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。 これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。
不肖 曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖 曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生 曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。
しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。 ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族 東京築地二丁目四八番地寄留
明治九年六月二六日                曲 田   成(印)
頓首再拝     

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

        東京築地二丁目二〇番地        平 野 富 二(印)
────────────────────────────────────────────────────
名東県令富岡敬明公閣下

※名東ミョウドウ県は、明治初期に、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。
※富岡敬明 最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令・富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体・原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

M7,M37社屋それでも活版印刷の需用者は、平野君およびその他の尽力と、社会の進歩の刺激にともなって、都下はもちろん、ひなびた地方〔隦陬〕にまでおよび、その発達を誘導して、活版の利便であることを知ると同時に、その地金の良し悪し〔精錬〕を論じ、活字書体〔字体〕の良否によって活字を選択する傾向があることを察していた。
平野君は社員のなかで、がまん強く、困難に屈しない〔堅忍不撓〕精神を持ち、かつ熱心に事にあたる事業家を採用して活字書体の改良を計ろうとしていた。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈〻迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益〻あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13
長崎大光寺本木家墓所、本木昌造(あざな:永久)の墓標のすぐ右側にある「本木小太郎」墓
小ぶりな墓標正面には仏の座像が刻まれ、その下に六字名号:南無阿弥陀仏が刻されている。
向かって左側面には「本木永久次男俗名小太郎行年五十三歳 明治四十三年九月十三日東京卒」とある。 このとき同道した掃苔会会会員:故 桜井孝三氏は「ここには十何回はきているけど、小太郎さんのお墓が、長崎に、しかも本木昌造さんのお墓のこんなすぐ近くにあるこ
とは知らなかった」と感慨深げにかたられていた。

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願 ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。
そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益〻工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〻〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんがらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一 のち『花の栞』四号・五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎・佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〻〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎・佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

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曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木・平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形・片画〔ママ 罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内・国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良・進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。
東京活版印刷業組合頭取
明治二七年一〇月二一日                  佐久間貞一再拝
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曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業・偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、
病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。
これにより肉親・知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。
喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

 よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

     父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日    密厳の末に資する 栄隆 謹んで申す
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※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。
早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。
惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。
君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。 

『印刷雑誌』(明治27年10月号)に掲載された追悼記事「曲田成君を弔う文」
明治27年10月21日 東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一
同号雑篇には「本誌に挿入せる曲田成君の肖像は写真半色版製造〔ママ〕を以て有名なる小川一真氏の寄送せらるたるものなり」とある。小川一真の渡米費用の一部は曲田成が拠出していた。

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跋 〔あとがき〕
〔名村泰蔵 Ⅰ-Ⅱ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。 君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

ここに社員に委嘱して君の略伝を作製し、福地先生に閲読、刪正〔文章・字句などをけずり改める〕をお願いした。こうして原稿が完成し、これを印刷し、社友および曲田君を知る諸君に贈呈する。これは社員一同のこころざしなり。
明治二八年一〇月
東京築地活版製造所社長  名村泰蔵しるす

【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
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篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記

【展示】国文学研究資料館|2019年通常展示|「和書のさまざま」|1月15日ー9月14日

国文学研究資料館
2019年通常展示「和書のさまざま」
会  期  平成31(2019)年1月15日[火]ー9月14日[土]予定
      * 土曜日は北側通用口(正面玄関左手)よりお入りください。
休  室  日  日曜日・祝日・展示室整備日(7月10日、8月13-15日、9月11日)
開室時間  午前10時-午後4時30分 * 入場は午後 4 時まで
場  所  国文学研究資料館1階 展示室
主  催  国文学研究資料館
入場無料
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この展示が対象とする「和書」とは、主として江戸時代までに日本で作られた書物を指します。堅い言葉で言えば「日本古典籍」ということになります。ただし、明治時代頃までは江戸時代の書物の系統を引く本が作られていましたので、それをも取り扱っています。
「和書」と似た言葉で「国書」という語がありますが、これは古典籍の内で、日本人の著作した書物を言います。「和書」はそれより広く、漢訳仏典や漢籍、あるいはヨーロッパ人の著作も含め、江戸時代以前に日本で製作されたすべての書物を指す言葉です。

一般に書物が製作されるには、それを支えまた受容する文化的背景があり、そうして製作された書物が、新たな文化-文学、芸能、思想、宗教など-を生み出す基になるという現象が普遍的に見られます。書物によって展開した日本の文化を考える上で、日本人の著作か否かを問わず、日本で製作されたすべての本を視野に入れなければならない理由がここにあります。
国文学研究資料館は、創設以来四十年以上にわたり、全国の研究者の御協力をいただき、所蔵者各位の御理解のもとに、国内外に所在する日本古典籍の調査を継続して行ってきました。調査を通して得られた、古典籍に関する新たな知見も少なくありません。この展示には、その成果も反映しています。

この展示では、和書について、まず形態的、次に内容的な構成を説明した上で、各時代の写本・版本や特色のある本を紹介し、併せて和書の性質を判断する場合の問題をいくつか取り上げてみました。全体を通して和書の基本知識を学ぶとともに、和書について考えるきっかけとなることをも意図しています。
和書の広大な世界を窺うためにはささやかな展示ではありますが、以て日本古典籍入門の役割を果たすことを願っています。

[ 詳細: 国文学研究資料館

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。
当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (かとう-よしかた 1921-2000)

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第二次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
終戦ののち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、のちリョービイマジクス株式会社社長・会長 1921-2014)に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79
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《研究社と研究社印刷》
研究社 は、1907(明治40)年の創立以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。

研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

加藤美方(1987年 アステ No. 5 より)本稿の初出は{花筏 2011年6月7日}であった。当時の(小社の)WebSite の容量はきわめて少なくて、スキャン画像などは圧縮して、ちいさく掲載されていた。データーを開いてみたところ、さいわい画像の元データーも保存されていたので、ここに{花筏}の掲載分はそのままのこし、一部を補整、補遺し、また図版を大きくして再度本欄に紹介した。

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
しばしば電話を頂戴した。どちらかというと加藤美方は電話魔ともいえた。
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。

また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の部長 兼 室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、すぐさま直属上司と大げんかの末、そこを三ヶ月もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、叱声も頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の判定や調査とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありませんから」。


高島義雄 → 加藤美方をへて筆者に譲渡された
『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版
B 5 判    160 ページ かがり綴じ  上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。昭和02年完成。同書口絵ゟ
同社の印刷部門は1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立して現在に至る

研究社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して、英語教育・理科学書・辞書関連の印刷・出版事業を展開している。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に自社ビルを所有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。
いっぽうグループ企業の研究社印刷は、創業:大正9年4月、設立:昭和26年2月1日で、現在は埼玉県新座市野火止7-14-8で事業展開を継続中である。

このころの研究社の活字自動鋳植機はライノタイプマシンが主力だったが、こののち、辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷株式会社が所有していたモノタイプマシンと、研究社が所有していたライノタイプマシンと交換という形で、順次モノタイプマシンに設備を変更した。

欧文書体(マシンセット)は、Century Expanded,  Granjon がおもで、Century Expanded は 6 points - 14 points のシリーズ、Granjon は 8 points - 11 points のシリーズが紹介されている。ほかには New Style No.21 が 9 points の 1 サイズだけ、アップライト・ローマンとイタリックの双方を所有している。
マシンタイプの紹介は、すべて左右組幅 27 picas ,  外枠の子持罫は 左右 31.5 picas,  天地 45.5 picas である。
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上掲図のうち、pp 59 の上部を拡大表示した。見落とされがちで、またわが国の活字のほとんどが正方形であるために解りにくいが、これは重要な情報で、中央部にちいさく「 Set 12 Point Body 」とある。
欧文活字の大きさとは A ,  B ,  a ,  b ,  i ,  l ,  M ,  W のように、活字鋳型をスライドさせることによって、左右(字幅)は可変型である。したがって欧文活字の大きさとは、活字ボディの天地のサイズを表すことになる。

上掲図では、「10 points の Granjon 書体の活字母型(文字面の型)をもちいて、天地 12 points ボディの鋳型で鋳込んだもの 」をあらわす。すなわち行間が適度にあくため、インテルの挿入が不要乃至は簡略化することができ、組版効率を向上させることができる。

[参考:NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

研究社の和文活字は昭和6年版ではここに紹介した一ページだけが紹介されている。
明朝体は東京築地活版製造所系とみられるが、ゴシック体の供給元はまったく不詳である。
同社ではすでに本文用サイズの活字は、自動活字鋳植機による自家鋳造体制となっており、また欧文組版が主流の企業だけに、初号 42 points,  二号 21 points,  五号 10.5 points,  七号 5.25 points の倍数関係であることを知悉したうえで、和文活字を展開し、もちいていることがわかる。したがってこのページも、左右の組幅は、欧文書体と同様に 27 picas になっている。
後述するが、当然ながらここに見る「明朝体 初号」は、図書の標本を計測しても 初号 = 42 points になっている。 

研究社は好運なことに、関東大震災、第二次世界大戦での被害は比較的軽微であった。また空襲が激化する前に設備の大半を疎開させていたため、この本社ビルとともに、活字と活字母型は戦後も継続使用が可能となった。

それでも1938年(昭和13)以降の研究社は、東京築地活版製造所からの供給が清算解散によって途絶えていたため、戦後は、吉田市郎によって創立間もない晃文堂から「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」を、印刷局朝暘会、明和印刷、厚徳社、技報堂、清和印刷など、大手ページ物印刷を得意としていた企業とともに率先して導入し、順次和文自動活字鋳植機用の活字母型を購入して、ふたたび活字自家鋳造にあたった。

そのため現在の研究社の自社和文専用書体、とりわけ明朝体は、いまなお60年余以前に導入した「晃文堂明朝」を、自社内でカスタマイズしたものをデジタル化して、ハウス・フォントとしている。
[ 参考:『逍遙 本明朝物語』片塩二朗、朗文堂 pp 42 ]


ところで、このとき「印刷局朝暘会」名義で晃文堂から購入した明朝体の活字母型の動向に関心が持たれることは稀である。もともと「印刷局」は秘密のベールの彼方の存在とされるが、近年は意外に大胆かつ率直に情報公開がなされている。

印刷局「お札と切手の博物館」2014年の展示に際しては、稿者も驚くほど(かつては関与者には秘密厳守がつよく要求された)率直に、官報の書体 ── 明朝体の由来が展示・解説されていた。
すなわち、活字自家鋳造の企業のほとんどと同様に、ひら仮名・カタ仮名を中心に、若干のカスタマイズはされている。とりわけ印刷局では両仮名とも、大正期からの形象に近いものに全面的に変更されている。さらに偽造防止のためもあって、さまざまな工夫が随所にされているが、現在の官報書体の源流を含めて丁寧な展示解説がされていた。

そしてそのデジタル化に際し、最初の TrueType フォーマットでの作製は、晃文堂の後身企業であったリョービイマジクスがあたり、O T F フォーマット変換に際してはモリサワが担当したことが展示解説でなされていた。

[ 参考:活版 à la carte よき日がいつも-日日之好日*03【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
(1937〔昭和12〕年  研究社印刷 同社蔵)

B 5 判  160ページ   かがり綴じ   上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded,  Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond,  Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。
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はなしが若干脇道にそれるが、東京築地活版製造所第四代社長:名村泰蔵の社長時代に「東洋一の活版製造所」を自他ともに許す存在であった東京築地活版製造所は、そののち後継者にめぐまれず、この研究社(印刷所)の見本帳が発行された翌年、1938年(昭和13)3月17日、臨時株主総会の決議によって清算解散を迎えた。

その理由としては、関東大震災の影響をあげることが多いが、同社は震災後もポイントシステムの活字の販売に熱中するばかりで、辛いことではあるが、活字自家鋳造業者への適切な対応、和欧文の活字自動鋳植機への高度な対応、なによりも印刷術の進歩を見据えた国際化に向けた関心と対応に欠けていたことは指摘せざるを得ない。
すなわち研究社も比較的軽微であったとはいいながら、関東大震災の被害がありながら、ここまでにみてきた、昭和 6 年版、昭和12年版の冊子型活字見本帳をのこしている事実が厳然としてあるからである。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937〔昭和12〕年  研究社印刷)扉ページ

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』(1937年[昭和12]   研究社印刷) 本文ページ 

《加藤美方の慨嘆 ── 秀英体初号明朝活字=42 points が、ポイント制活字に切りかえ作業以降 40 points に鋳込まれていた件》
大日本印刷(旧秀英舎)のフラッグ・シップともいうべき代表書体は、四号明朝体活字 ≒ 13.75 points と、初号明朝体活字=42 points である。

秀英舎は明治最末期のころから、順次号数制活字からポイント制活字に切りかえていた。四号明朝体活字は、増刷などに備えて近年まで少量温存されていたが、主体は 14 points に切りかえられていった。その差はわずかに  0.25 poits  ≒ 0.03385 mm であったが、戦後の機械式パントグラフ(いわゆるベントン)の導入に際しては、全面的に手を加える必要に迫られる結果となった。
[参考:「大日本印刷の文字原図となり現在につらなった秀英体明朝四号」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、pp 606-649]

『 和文活字  DAINIPPON PRINTING SPECIMEN BOOK 』(大日本印刷  1978年)
製作:大日本印刷CDC事業部、組版:市谷第一工場和文課、表紙デザイン:清原悦志

「いつ、たれがやったかわからない。おおきな組織だから …… 」と加藤美方は述べていた。
すなわち、いつのころからか「秀英体初号明朝活字」は、活字字面はそのままで、42 points から 40 points の活字ボディに鋳込まれるようになっていた。
すなわち活字のボディサイズが 0.7028 mm 四方ちいさくなった。換言すると 95.238 . . ..%ちいさな 40 points の活字ボディの上に 42 points の「秀英体初号明朝活字」は存在することになった。

その差わずか 2 points, 0.7028 mm とはいえ、これは視覚印象には決定的な相違ともいえる、おおきな変化を与えることになった。先に紹介した研究社の「明朝 初号」の資料や、上掲図の 36 points のゆったりと風通しのよい組版表情は、ここでの 40 points になると一変し、まさに湯こぼれ寸前、隣の字画と接触するかという危惧をいだかせるほどまでに字間が窮屈になった。これはもはや誇り高い「秀英体初号明朝活字」とは呼べないものとなっていたのである。

「あれは、わたしにも責任があります」と加藤は明言していた。
この「秀英体初号明朝活字」のデーター(活字清刷り)が株式会社写研に提供された。当時の大日本印刷の担当役員は加藤美方であった。 写研には字面率が本来のものとは異なることを十分説明したそうであるが、この時代、写植組版では「ツメ組み」と称して、広告業界を中心に字間をタイトにして組版することが流行していた。

加藤の忠告をよそに、写研では字枠(仮想ボディ)にたいする字面率を最大限にまで拡張して ── ある意味では提供されたデーター通りに ── 写植活字として販売した。しかもその名称は「秀英明朝体 S H M」という誤解を招きかねないものであった。
すなわちオプティカル・スケーリング(個別対応方式)の鋳造活字の「秀英明朝体」は、サイズごとにさまざまな表情があった。「秀英明朝体四号」と「秀英明朝体初号」では、おおきさ、太さの違いだけでなく、字画形象にもおおきな差異があるのは当然であった。

ところが写植活字では原字はひとつで、さまざまなサイズに対応するリニア・スケーリング(比例対応方式)である。そのため金属活字の初号= 42 points  ≒ 14.7588 mm 角だけでない、15.5 mm 角の 62 Q,  4 mm 角の 16 Q,  5 mm 角の 20 Q でも用いられたし、適性を欠くかとおもえる 2 mm 角の 8  Q でさえ、広告デザイナーは使用に遠慮も容赦もしなかった。
こうして、写植活字を愛用した広告デザイナーには、「秀英明朝体 S H M は、字間がタイトで緊張感がある?」という誤った認識がすり込まれるにいたったのである。

ふしぎなえにしで稿者ものちに、大日本印刷の「秀英体平成の大改刻」に携わることになった。スタッフの獅子奮迅の頑張りで無事プロジェクトを終了できた。この間さまざまな問題が起こるたびに、加藤美方のことを想起した。
「加藤役員なら、笑ってすますだろうな …… 」とおもうことにしていた。


《加藤美方からの資料の譲渡 ── 図書の有効利用に向けて》

手術からしばらくして、加藤夫妻は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の、貴重な印刷関連機器と活字の文書資料であった。

加藤はすでに胃がんの再発を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎〔故人〕 さんにあげました。
わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社時代の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」

とあった。
不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は ── そして奇妙なことに晃文堂:吉田市郎も ── 1921年(大正10)辛酉-カノト -トリ-のうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉-キノト -トリ-のうまれであった。

{追記 2019年06月12日}
加藤美方に関する{花筏}掲載データーが古くなりすぎていたので、その補整をはじめたおりもおり、故吉田市郎の家人からひと抱えの資料を届けていただいた。この授受はこれで三度目ほどになるが、今回はふるい写真が多く、筆者がはじめて吉田市郎と出会ったころの資料も含まれていた。

なにぶん晃文堂・リョービ印刷機販売・リョービイマジクス時代の吉田市郎関連資料は膨大である。なんとか稿者がボケないうちに整理だけでもしたいものである。
それよりなによりも、吉田市郎に関しては「訃報」を伝えただけになっっていることを、迂闊なことに今回はじめて気づいた。これはとてつもなく反省すべきことである。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術  1 – 2 』(樹立社   2005年3月10日)と改題されてデジタルプリントでの復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。

それでも研究社に在職中に、『 The Printing of Mathematics   数学組版規定』(The T.W. Chaundy,  P.R. Barrett and Charles Batey,  Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。

同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判   本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷   中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも  ’ メクラ蛇におじず ’ のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文活字書体は「晃文堂明朝  9 points,  8 points 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。
『 The Printing of Mathematics   数学組版規定 』 本文ページ

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。稿者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがってこの『NOTES ON TYPOGRAPHY』ブログロールは、ご面倒でも時〻更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また加藤美方は、『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とは、わずかにその謦咳に接したことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77 〔板倉雅宣氏の実兄〕

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86
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加藤が卒業し、上記編集委員にも大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。
東京府立工芸学校は 3-5 年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。

現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

東京高等工芸学校は、正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5 月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。

すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。
この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94  2011. 4 – 5 印刷学会出版部)に詳しく論述されているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者の人脈が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、研究社印刷株式会社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を刊行していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこで稿者がお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年〔2010〕までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。また稿者が所有している加藤役員の写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションの電話も、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の 29 日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。
葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあって稿者は、

「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。

【かきしるす】図書紹介|新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018|武蔵野美術大学 美術館・図書館

新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行   年  2018年

判   型  縦 26 ㎝ × 横 19.8 ㎝、上製本、223ページ
価   格  一般:2,000円

発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館
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米国イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。
また1999年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に着任して以降はデザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本書では、ポスター、造本、C I などの代表的な新島作品を収録し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。


新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018:卒業生編

展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行    年  2018年
判   型  縦 26 cm × 横 19.6 cm、159ページ
価   格  一般:1,200円 [完売]
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

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本書は『新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018』と対をなすもので、多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。

和語表記による和様刊本の源流
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12166/
発    行    年  2018年
判   型  縦 36.4 cm × 横 25.7 cm 二分冊
ペ ー ジ 数  図版編:224ページ、論考編:352ページ
価   格  一般:5,000円
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

[ 詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館

{ 新 宿 餘 談 }

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【かきしるす】国指定重要文化財|水海道風土博物館 坂野家住宅|<銅版画> 大生郷 坂野伊左衛門|茨城県常総市デジタルミュージアムⅡ

国指定重要文化財
水海道風土博物館 坂野家住宅
坂野家住宅は「四間取り」を基調に江戸時代後期に母屋を大幅に増築したもので、東側の土間や南面する客間は、入母屋作りの屋根とともに大型農家の特色をよくあらわしています。また、1 ヘクタールに及ぶ広大な屋敷は、従来武家屋敷に設けられた薬医門と土塀に囲まれ、昭和43年に国の重要文化財の指定を受けました。
現在は、周辺の里山風景や便益機能の整備、主屋の保存修理工事を終え、水海道-みつかいどう-風土博物館として、一般公開しています。
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開館時間  9:00-18:00(04月-10月)* 受付は17:00まで
      9:00-17:00(11月-03月)* 受付は16:00まで
定  休  日  月曜日(祭日の場合、翌日)、年末年始
料  金  一般300円、児童・生徒100円、65歳以上無料
利用予約  予約不要
所  在  地  茨城県常総市大生郷-おおのごう-町2037

問い合わせ先  水海道風土博物館 坂野家住宅 TEL. 0297-24-2131
ホームページ  http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/1420716457308.html

[ 詳細: 常総市 水海道風土博物館 坂野家住宅

常総市 デジタルミュージアム
水海道風土博物館  坂野家住宅

<水海道風土博物館 坂野家住宅>には、既述した『大日本博覧図』のほかに、木製の木箱に収納された同様の資料「坂野家住宅」が保管されている。
箱の表書きは「銅版摺 宅地家屋之図 坂野」、裏書きには「干時 明治二十三年十月」とある。中には『大日本博覧図』に収録されているものとおなじ銅版絵図「坂野伊左衛門」邸宅の鳥瞰図があり、それと同一印刷原版とみられる銅版原版がある。

「干時」は聞きなれないことばだが、慣用的に「ときに、とき まさに」と読まれ、購入 乃至は 収納のときとみられる。それが「干時 明治二十三年十月」とされているので、『大日本博覧図』の刊行時:明治二十五年十二月より二年ほど早いときのことである。また印刷業者は印刷原版、とりわけ銅版原版は傷つきやすいので、厳重に管理していた。また銅版印刷専用印刷機を持たない顧客に渡しても意味をなさないし、ふつうならまずみられないことである。

この「坂野家住宅」資料が『大日本博覧図』に先行して坂野家に伝わったことの意図はわからない。可能性としては、『大日本博覧図』の掲載先が突出して茨城県・埼玉県・千葉県に集中していることである。
編輯者であり、発行者でもあった精行社・青山豊田郎は、この地域の有力者「坂野伊左衛門」になんらかの支援を受けたか、あるいはこれを見本として、北関東一円の富農・富商・起業者に向けて(有料での)掲載の働きかけをおこなったものとみられる。

この精行社、青山豊太郎は、このころに秀英舎:佐久間貞一、東京築地活版製造所第三代社長:曲田 成ーまがたしげる-らによって結成された、印刷同業組合、東京石版印刷業組合のどちらにも名前が見あたらない。また手許の人名録などでもみあたらなかった。
おおかたの銅版印刷業者は松田禄山(敦朝)玄玄堂の影響力がつよく、活版印刷業界・石版印刷業界とはあまり交流がなかったものとみられる。
ちなみに玄玄堂印刷所の看板には「銅鉛木石諸版製造 並 摺立所松田敦朝」と大書して、いっとき斯業はおおいに栄えた。鉛版 ≒ 活字版は平野富二がひきいた東京築地活版製造所系ではなく、神崎正誼による弘道軒清朝体活字が主であった。
「坂野家住宅」資料の由来、画像と現状との関係などは、すでに守屋 正彦(筑波大学教授)ほかの研究が発表されているので、以下は主に印刷術と銅版に刻された書風を中心にみていきたい。
「坂野家住宅」絵図右上部、枠で囲まれた掲載者名の表示部をみてみたい。
枠内には坂野家家紋とみられる柏紋が十二ヶ所に描かれている。「茨城県」は大きく、若干隷書味をおびた楷書でえがかれ、明治二十年代の住所「岡田郡管原村大字大生郷-おおのごう」が端整な楷書でしるされている。主部をなす「坂野伊左衛門」(埜は野の異体字)はいくぶん扁平で、八分隷書とみられる書風である。この八分隷書とみられる書風に関しては、再度「石川島造船所 平野富二」の項の紹介で触れたい。

ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるいが、すこし気になるのは「岡田郡管原村大字大生郷」にみる、タケカンムリの「管原村」である。大生郷-おおのごう-には村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)があり、それが村名「菅原村-すがはらむら・すがわらむら」に連なったとみられるからである。
幸いこのアーカイブは筑波大学との連携のもとに展開されている。研究の一助になればとおもい、以下をしるした。

もともと「管 菅」は、字としても、詠みとしても、しばしば混用・誤用されている。元内閣総理大臣は「菅 直人-かん なおと」であり、やっかいなことに現内閣官房長官は「菅 義偉-すが よしひで」である。
わが国には漢字音・和訓音のほかに、「名づけ」とされる(漢)字の慣用的な詠み(便法)があるために、こうした混乱は避けられないが、それにしても最近の「キラキラネーム」とされる宛字(当て字)のなかには、将来禍根をのこさねば良いがとおもわれるものも多い。

[ 参考: ウィキペディア 菅原村 (茨城県)]
菅原村-すがわらむら-は、茨城県の西部、岡田郡・結城郡に属していた村。現在の常総市の中部にあたる。
村名の由来
村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)による。
沿   革
1889年(明治22年)04月01日 – 町村制施行により、大生郷村、大生郷新田、伊左衛門新田、笹塚新田、五郎兵衛新田、横曾根新田が合併して岡田郡菅原村が発足。
1896年(明治29年)04月01日 – 岡田郡が結城郡に統合されたため、所属郡が結城郡に変更。

1954年(昭和29年)07月10日 – 水海道町-みつかいどうまち-に編入。水海道町は市制施行して水海道市となる。同日菅原村廃止。「坂野家住宅」絵図、左下外枠と内枠の間に「東京精行舎印行」と楷書で彫刻されている。『大日本博覧図』をみると、この行の位置は一定せず、左下にも右下にもしるされていることがわかる。主部の図版とのバランスで配置されたものとみられる。
また青山豊太郎は、自序には「東京精行社」としているが、「坂野家住宅」、『大日本博覧図』ともに、「印行-いんこう-図書を印刷し発行すること」名では、「精行社ではなく精行舎」としている。

簡便な装飾に囲まれた掲載者の欧文表記も興味ふかい。まだヘボン式などの欧文表記のルールが無い時代、また、おそらくローマ字教育なども不十分だったであろうこの時代に、サンセリフ系のローマ字を懸命に彫刻していることがわかる。
NIPPON ,  IBARAKI – KEN,  SHIMŌSANO – KUNI,  OKADA – GŌRI,   SUGAHARA – MURA,   SAKANO. IZAIMON〔 , で改行。一部バケて表示されているのは O の上に横棒を置く〕。

「IBARAKI – KEN ── 茨城県」は、現代でもしばしば「いばらぎけん」と濁音で表記されるが、ここにみる「いばらき」が正しい。
「SHIMŌSANO – KUNI ── 下総国」は、しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくになどとされてきたが、棒引き仮名遣いでの「しもーさのくに」は、口語ではあったとおもわれるが、現代でも慣用的に「下総国 ── しもうさのくに」とされている。
「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」もとても興味ふかい標本である。「IZAIMON ── 伊左衛門」であるから「いさえもん・いざえもん」とおもえるが、この周辺では意外と訛りがあって、いまでも高齢者などは「い  え」が判別しにくい発音をする。そんなことから「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」とあらわされたとおもえる。

なにを隠そう、亡妻の母方の実家がこの水海道ーみつかいどうーで、ときおり従妹が遊びにくると「英語の先生いい先生」っていってみて …… とからかっていた。従妹は切りかえして「日比谷で潮干狩り」っていってみて …… と笑いあっていた。
従妹は「い・え」が曖昧であった。また亡妻は東京下町、葛飾柴又の育ちで「ひ・し」の発音が苦手で、地下鉄日比谷線などは乗るのも嫌がったほどであった。

「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」の最後は「N」である。最後に彫工の緊張がゆるんだのか、ちょっとしたへまをやってしまったようでおもわず苦笑。
一部にこうした「タイポ ≒ タイポグラフィカル・エラー」を事事しくとりあげる向きがある。これがして、冒頭で「ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるい」としたゆえんであり、稿者はこうしたエラーを犯しがちな自分を畏れるばかりである。
「坂野家住宅」銅版絵図右下に、画工とみられる名称「土方雲外」と花押風の印影がある。
右下外枠と内枠の間には、彫工とみられる名称「村上楳山刻」が刻まれている。
このふたりは職人乃至は工人とみられ、こういう職種の常ながら、手許資料を繰ってみたがなにも手がかりは得られなかった。
「坂野家住宅」絵図、『大日本博覧図』が刊行されて百二十五年ほど、もし関係者のご子孫がおられたらご一報をたまえると嬉しい。

【かきしるす】図書紹介|木口木版のメディア史 近代日本のヴィジュアルコミュニケーション|人間文化研究機構 国文学研究資料館編|勉誠出版

勉誠出版
木口木版のメディア史
近代日本のヴィジュアルコミュニケーション
人間文化研究機構 国文学研究資料館 編

定価 8,640円 (本体8,000円)
ISBN 978-4-585-27048-5
B5判・上製  328頁
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繊細・稠密な線が描き出す〈世界〉
明治20年代から大正初期にかけて、繊細・稠密な線による独特な表現で一世を風靡した複製技術、木口木版。
報道や出版・広告の発展に伴う〈世界〉のひろがりのなか、写真と見紛うほどのそのリアルな描写は、近代的なヴィジュアルイメージを伝えるものとして驚きをもって受け入れられ、雑誌や新聞附録、教科書、チラシや商品パッケージなど、様々なメディアを席巻した。

木口木版の日本への導入と展開に大きな役割を果たした合田清、そして彼の興した生巧館の営みを伝える諸資料から、これまで詳らかに知られることのなかった近代日本の視覚文化の一画期を描き出す。
新出の清刷をはじめ、400点以上の貴重図版を収載!

[ 詳細: 勉誠出版

【かきしるす】大日本博覧図|東京石川島造船所 平野富二|茨城県常総市デジタルミュージアムⅠ

常総市デジタルミュージアム
「東京 石川島造船所 平野富二」
大日本博覧図 明治25年12月 東京精行社刊
〔茨城県〕常総市-じょうそうし-デジタルミュージアム は、同市が合併以前から保管していた歴史資料の一部をデジタル化し、WebSite にて広く公開しているもので、「様々な学習・研究の機会に是非御活用ください」と表示されている。

「大日本博覧図」は、名勝旧跡・寺社、豪農豪商の邸宅・庭園、会社・工場、学校の校舎など様々なものを掲載した銅版画集。掲載希望者を募って印刷されたものである。北関東を中心として、東京市29、埼玉県45、茨城県63、千葉県23、群馬県29、栃木県22の、都合221箇所の銅版画が所収されている。

現常総市内では、水海道町 鹿島屋利兵衛・山中彦兵衛・五木田総右衛門、菅原村大字大生郷 坂埜伊佐衛門といった豪農・豪商の屋敷や店舗が鳥瞰図として掲載されている。

常総市/デジタルミュージアム掲載資料によると、『大日本博覧図』は、識別番号: 0030-0000-0000-0000-0000-0000-0010、所蔵機関:坂野家、編輯者:青山豊田郎〔青山豊太郎〕、出版者・製作者等:精行社(東京市浅草区茅町)、撮影、作画年:明治25年(1892)12月、数量:211 pp、形状:冊子(バラ)、大きさ:縦 32 cm、横 21 cm、欠損・保存状況: 表紙、裏表紙 奥付欠落 とされている。

* 紹介ページのなかには『日本博覧図』『大日本博覧図』が混用されているが、本稿では『大日本博覧図』とした。
* 『大日本博覧図』には異体字やいわゆる旧漢字がみられるが、固有名詞の一部をのぞき、常用漢字で表記した。
* 『大日本博覧図』国立国会図書館資料
著者:青山豊太郎編輯 出版者:精行社 出版年月日:1892年12月 請求記号:YQ11 – H199 館内閲覧書
レファレンス協同データベース

いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、篤志者や富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造された図書とみられている。類書に『日本博覧図』が紹介されている。
  『日本博覧図』第拾弐編 
  編輯者:東京府平民青山豊太郎(東京市浅草区茅町二丁目三番地)
  発行兼印刷者:東京府平民秋谷楳之助(東京市神田区富松町二番地)

  発行所:精行社(東京市浅草区茅町二丁目三番地)
  発行所:精行社京都出張所(京都市下京区寺町通高辻上ル)
  明治30年4月 3円50銭

【巻首部 1】序文 1 明治廿五年第十二月 従四位 金井之集
【巻首部 2 】大日本博覧図締約者一覧表
【巻首部 3 】自序 明治廿五年十二月 下浣〔下旬〕 編者 青山豊太郎
【巻末部】謹告 大日本博覧図 発行所 精 行 社

謹  告 〔活版印刷のページ。平易な文章として紹介した〕
一 銅版・石版・木版彫刻及び印刷
一 活版印刷並びに製本装訂

〔営業〕課目
株券 手形 切符 印紙
商標 名刺 広告等ノ類

弊社儀 起業以来幸いにして江湖の諸兄のご愛顧をたまわり、陸続ご注文を受け、漸次繁栄に趣きそうろう段、有り難く感謝奉りそうろう。
一層勉励いたし、卓抜巧妙の職工を増備し、要するに美麗鮮明を主とし、価も低廉を旨とし、且つ敏速を専一に、毫もご使用の時期を欠かさず、勉めて需要諸君のご便利を計ります。
府下及び諸県のお得意には、引き続き間断無く相伺いそうろう間、多少に拘わらず御用の向きはお申しつけ下されたく伏して願い奉りそうろう。
日本博覧図発行所 精行社       敬 白

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[古谷昌二氏コメント]
この絵図は、小生にとって初見のものです。この絵図は、横浜 石川口製鉄所 の諸設備が、東京 石川島造船所に移設されたのちのもので、明治17年から同25年の間に描かれたものと推測されます。
造船所内の諸設備が良く描かれていて貴重なものです。  [この項つづく]

[ 詳細: 常総市-じょうそうし-デジタルミュージアム ]

常総市と国指定重要文化財【坂野家住宅】について

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【朗文堂ブックコスミイク】好評既刊書|『評伝 活字とエリックギル』(河野三男 訳・著)|在庫僅少

産業としての印刷と、文化としての文字活字、すなわち文明と文化の狭間で
もがきくるしんだエリック・ギルの
『AN ESSAY ON TYPOGRAPHY』の全訳を中心に

近代思想と産業主義に、つよい疑念を表明した
エリック・ギルとその活字にせまります。

原著:ERIC GILL   An Essay On Typography(撮影:青葉水竜)
An Essay On Typography は自主製作活字 Joanna の完成をまって、ハンドセットで1931年初版、1936年第二版が刊行された。第二版からはファンドリー・タイプで 12 points, 左右 19 picas, 3 points leading(行間)の活字組版であった。1941年第三版、1954年第四版と刊行され、1988年には第五版が Linotron 202 13 機によって 13 points で組版された。
本書『評伝 活字とエリック・ギル』は第二版と第五版を比較検討しながら翻訳され、第四章「エリック・ギル設計の活字」pp 279-356 には「パペチュア書体/ギル・サン書体/ジョアンナ書体」が詳細に紹介されている。 

主な内容 ── 目次より

  まえがき
Ⅰ エリック・ギルを読むために
Ⅱ エッセイ・オン・タイポラフィ (全訳)
Ⅲ エッセイ・オン・タイポラフィ (解説にかえて)
Ⅳ エリック・ギル設計の活字

『評伝 活字とエリック・ギル』
河野三男 訳・著

四六上製本 360ページ 図版多数
発 行:1999年12月14日

定 価:本体2900円+税
ISBN4-947613-49-1

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小社直送のばあいは、送料のご負担をいただきます。
※ 残部僅少となっております。また保存データーが製版フィルム方式(C T F)のため
増刷は事実上不可能となりますのであらかじめご了承たまわりたく存じます。
{関連:朗文堂ブックコスミイク 『詳伝 活字とエリック・ギル』

朗 文 堂

TEL. 03-3352-5070 FAX. 03-3352-5160
E-Mai l: typecosmique@robundo.com

【編著者:まえがきより 部分】
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【ことのは】THIS IS A PRINTING OFFICE|ここは印刷所なり|Beatrice Warde (Paul Beaujon)|

THIS IS A PRINTING OFFICE

Beatrice Warde (Paul Beaujon)

ここは印刷所なり

文明の十字街頭にして

芸術のこもれるところ

時の浸食にめげず

真実の剣が安置されるところ

風聞や浮説にくみせず

機械はうねりをあげる

ここよりひろくことばは飛翔して

電波のように浪費されることもなく

物書きの気ままに左右されることもなく

刷りをかさねて明瞭となり

時空を超えてとどまる

友よ! 君は聖地に足をふみいれた

ここは印刷所なり

Beatrice L. Warde

  • THIS IS A PRINTING OFFICE ── この銘板はワシントン D C のアメリカ合衆国政府印刷所のエントランスに設置されている。
  • Beatrice Warde (ビアトリス・ウォード アメリカうまれの女性 1900-69 Paul Beaujon-ポール・ビュージョン は、当時女性の進出が少なかった印刷界に向けてもちいた男性名前のペンネーム ウィキペディア )。
  • タイポグラファ、印刷史研究家、編集者・評論家。タイポグラフィ・ジャーナル『The Fleuron』,『The Monotype Recorder』誌などで活躍。16編からなるエッセイ集のうち『The Crystal Goblet ── 印刷は不可視である』でも知られる。
  • 16世紀の活字父型彫刻士 Claude Garamont 製作とされてきた活字の多くが、90年ほどのちのジャン・ジャノン-Jean Jannon 作であり、当時では標準的な図書本文用活字であった …… とした論考はおおきな話題を呼び、英国 Lanston Monotype Corporation では『The Monotype Recorder』の非常勤の編集ポストを提供したところ、若い女性の登場で驚愕したという逸話がのこる。彼女の「設定」では、ポール・ビュージョンはながい灰色の髭をはやし、四人の孫をもつ高齢の男性としていたが、実際はまだ20代の女性だった。

{参考:「Garamond Types  大陸を横断したフランス活字 ── ギャラモン活字の行方」『欧文書体百花事典』白井敬尚、朗文堂}
{ 参考: Thoughts On Typography    タイポグラフィ格言集