月別アーカイブ: 2018年12月

【もん】歌舞伎は伝統芸能|そこには様〻な もん がみられます|櫓-やぐら 梵天-ぼんてん

  ニュース   歌舞伎座で櫓揚げ 2013年06月06日
歌舞伎座で、櫓揚げ-やぐらあげ-がおこなわれました。

歌舞伎座櫓揚げ

歌舞伎座正面玄関で朝から本格的に始まった櫓揚げの作業は、昼過ぎには無事終了、2年10カ月ぶりに歌舞伎座に櫓が揚がりました。
江戸時代、幕府公認の証として芝居小屋の正面に揚げられていた櫓は、現代では、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座に欠くことのできないものの一つとなっています。

櫓は幅3.3m、高さ2.7m。5本の槍を横たえ、2本の梵天-ぼんてん-が組まれており、また、正面に歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸-ほうおうまる」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文を染め抜いた三方の幕で囲われています。

作業を行った鳶頭の石津弘之さんは、
「この作業は、これから〝新しく始まる〟という大変喜ばしいものです。非常に名誉なことで、うまく揚げることができてよかった」
と胸をなでおろし、はじめておこなった歌舞伎座の櫓揚げを順調に終えた満足感を表しました。

 

 ニュース  京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました 2018年09月25日

京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました。
かなり高い位置なので、道路をはさんで向かい側からご覧ください。

南座の正面には新調された「櫓」が上がり、その両側には白い御幣「梵天-ぼんてん」も立ちました。八百万-やおよろず-の神と見なした数である 800 枚の美濃紙を使い、2 週間かけてつくられた梵天は、神の依代-よりしろ-としての役目も担います。

大提灯が四条通のランドマークの一つとして帰ってきました!

そして、南座のシンボルともなっている赤い大提灯も新調され、劇場正面玄関の左右に掲げられました。手すきの越前和紙でつくられた大提灯がいつもの位置に収まると、光を放つような輝きを得て四条通によみがえりました。

{新宿餘談}

櫓 - やぐら 梵天 - ぼんてん

劇場用語。芝居や相撲の興行場に付属している高い構築物のこと。やぐらとはもともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉・矢座から出たものとおもわれる。城郭建築で敵に対して弓矢・礫などによる防戦や物見のために建造された高楼から転じて、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場において、正面出入口の上にのせた構造物をいう。
炬燵櫓のような形で、屋根はなく、大きさは江戸中期には九尺四方(歌舞伎)と、七尺四方(人形浄瑠璃)とほぼ定まっていた。

櫓には座元の紋を染め出した〈櫓幕〉が引きめぐらされており、江戸初期の形式には、上に梵天-ぼんてん(幣束-へいそく ≒ 御幣)をたて、毛槍を五本並べたものが多い。梵天をたてることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて高く構築されたものであったことを示しているといえる。

櫓の中では〈櫓太鼓-やぐらたいこ〉を打って興行のあることを知らせた。そのことから〈太鼓櫓〉ともいった。江戸の歌舞伎の櫓太鼓は文化期(1804-18)以後ほとんど廃されたが、相撲興行では今日なおおこなわれている。

また、櫓は官許の興行権所有のしるしとして重要な意味をもっていた。そこで、興行権を与えることを〈櫓を許す〉、興行を開始することを〈櫓を上げる〉といい、興行権を〈櫓権〉、興行権の所有者の座元のことを〈櫓主〉と呼んだ。江戸の歌舞伎の興行権は、正徳四(1714)年以後、中村座・市村座・森田座の〈江戸三座〉の座元に限って与えられる世襲の特権であった。
この三座が興行不能に陥った場合には、代わって興行する〈控櫓〉の制度が設けられていた。享保一九(1734)年に森田座が借財のため休座するに至ったため、その休座中に限り河原崎座に興行代行の許可がおりたのがはじまりで、中村座には都座・玉川座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が控櫓と定まったのである。
この控櫓(〈仮櫓〉ともいう)に対して、江戸三座を〈本櫓〉(〈元櫓〉ともいう)と呼んだ。官許の常設劇場以外の宮地芝居を〈笹櫓〉と呼んだ。櫓の下に掲げた看板は〈櫓下看板〉といい、人形浄瑠璃でもここに一座を代表する芸人の名を記した〈櫓下看板〉を掲げた。
[参考資料:『新版 歌舞伎事典』(平凡社)]

【ことのは】明治150年祭|日本工学の父|山尾庸三| 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシー|

明治日本の産業革命遺産 紹介映像
萩美術館 掲載日:2016年1月28日
日本政府がユネスコへ提出した「明治日本の産業革命遺産」の推薦書に附属した、概要や資産などを紹介したビデオ(DVD)のホームページ版です。

* ナレーションは英語ですが、日本語がテロップ(文字)で紹介されています。
* 拡大画面で閲覧希望のばあいは、画面右下の YouTube の文字部 をクリックすると、YouTube com の別画面でご覧いただけます。

【 YouTube 明治日本の産業革命遺産  製鉄・製鋼、造船、石炭産業  音が出ます  36:22 】

Yozo_Yamao_011山 尾  庸 三(やまお-ようぞう 1837-1917)

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―

たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ
山 尾  庸 三
01-03.長州ファイブ(後列段左より:遠藤謹助、野村弥吉(井上 勝)、伊藤俊輔(博文)、前列左より:井上聞多(馨)、山尾庸三)長州ファイブ/長州五傑
前列右より時計回り、山尾庸三(工学の父)、井上聞多(通称:ぶんた 馨。政治家・実業家)、遠藤謹助(造幣局長)、野村弥吉(井上 勝/鉄道の父)、伊藤俊輔(博文。政治家)
Kobu_Daigakko工学尞 ⇨ 工部大学校・工部美術学校 → 東京大学工学部の前身のひとつ
所在地/千代田区霞が関ビル周辺(もと日向国〔宮崎県〕延岡藩 内藤能登守上屋敷)
01-01.工部大学校阯碑01-02.工部大学校阯碑解説板「工部大学校阯碑」および解説板(千代田区霞が関三丁目2-1)
旧校舎の避雷針と煉瓦をもちいて卒業生有志によって建造された〔撮影:時盛 淳〕
e761bbdd02ec5f6ee4c276186b64ce9e萩博物館フライヤー <日本工学の父 山尾庸三展> 2018年9月16日ー10月01日
{活版アラカルト関連:【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展「日本工学の父 山尾庸三」
tetukoto_omotephoto02井 上  勝(幼名:野村弥吉 いのうえ-まさる 1843-1910)
{活版アラカルト関連:【展覧会】萩博物館 萩の鉄道ことはじめ「日本鉄道の父:井上 勝」

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工部大学校 と 山尾庸三
日本最初の工学教育機関。東京大学工学部の前身のひとつ。
伊藤博文・山尾庸三の建議に基づいて設置され、1873年(明治04)専門教育はイギリス人の教頭・機械工学者 H. ダイアー ほか 8 人のイギリス人教師を招いて「工部省工学寮」が開校。工学頭-こうがくのかみ-は山尾庸三、教頭はダイアーであった。工部省工学寮は1877年(明治10)「工部大学校」と改称した。のち工作局長:大鳥圭介が総理となった。

土木、機械、造家、電信、化学、冶金-やきん、鉱山の 7 学科をもつ 6 年制の官費の専門学校で、学理面と実地面とを融合した、当時世界でも進歩的な工学教育機関であった。
工部大学校は1879年(明治12)に最初の卒業生19人を出し、1882年に造船科を増設、1885年(明治12)工部省廃止に伴い文部省に移管され、翌年東京大学工芸学部と合併し、帝国大学工科大学、現東京大学工学部となった。辰野金吾、高峰譲吉、藤岡市助、井口在屋-いのくちありや-ら明治の工学界・産業界の指導者・技術者を輩出した。

山尾庸三(やまお-ようぞう 1837−1917)
幕末-明治時代の武士,官僚。
天保8年10月8日生まれ。長門(ながと-山口県-萩藩士。1863年(文久3)伊藤博文らと密航渡海してイギリスで工業をまなぶ。1870年(明治3)帰国し、工部省、工学寮の設立にかかわり、13年工部卿。のち宮中顧問官、法制局長官。また楽善会訓盲院(現筑波大付属盲学校)の創立につくした。大正6年12月21日死去。81歳。
[参考資料:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】真名-漢字 真仮名-万葉仮名とひら仮名 カタ仮名|かぎろひ-の【陽炎の】枕詞-まくらことば

奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア  ⓒ Yahoo  Japan  ⓒ ZENRIN
『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされる奈良県宇陀市大宇陀地区を中心に

真名と仮名
奈良県:宇陀郡>安騎野-あきの

『日本書紀』天武天皇元年六月二四日条に「菟田の吾城-うだのあき」がみえる。
『万葉集』巻一に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」として長歌とともに、

阿騎-あき-の野に宿る旅人打ち靡き寐-い-も寝-ぬ-らめやも古思ふに

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

の短歌を載せる。
『大和志』には「吾城野」として「在迫間本郷二村間」とあり、現大宇陀町大字迫間-はさま・本郷-ほんごう-に比定[およそ定める]する。
また本郷村東南の拾生-ひろお-村(現大宇陀町)に「旧名明城野-あきの」とある。
なお迫間には式内社[しきないしゃ 延喜式神名帳に記載された3132座の神社]に比定される阿紀-あき-神社がある。

歌学書『八雲御抄』には「あきのおほ野」とある。

こうした歴史を背景として、この地域には神社の名称として「阿紀-あき-神社」がのこり、公園施設の名称として「阿騎野・人麻呂公園」がのこり、ひろくは「安騎野」と呼ばれ、しるされるようになった。
[参考資料:『日本歴史地名大系』平凡社]
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奈良県北東部 ── 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリアは、こんにち『古事記』『日本書紀』『万葉集』ロマンのさととされるが、ここにみるように「万葉仮名」の残渣ないしは残り香があちこちにのこっている。

「万葉仮名」は、漢字の音・訓を仮借-かしゃーして、日本語の音韻表記に用いた表音文字である。漢字の音を仮借した「安-あ、加-か」などの音仮名と、訓を仮借した「三-み、女-め」などの訓仮名とに大きく分類される。
漢字の表音的用法は古く中国にみえ、固有の字がなかった日本でもこの方法を用いたもので、『万葉集』に豊富にみえることから万葉仮名とよぶ。ひら仮名、カタ仮名はこれから成立した。漢字(真名)と形が同じであることから真仮名-まがな-ともいう。

枕詞-まくらことば

かぎろひ-の【陽炎の】〔カギロイ-ノ〕

〔枕 詞〕 「春」「心燃ゆ」などにかかる。
〔  例  〕 「味さはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ悲しび別れぬ」〈万葉・9・1804長歌〉
〔  訳  〕    夜昼の区別もなく心は燃え続けて、悲しみ別れたことだ。
〔  注  〕       田辺福麻呂(タナベノサキマロ)ガ弟ノ死去ヲ悲シンデ作ッタ歌。
「味さはふ」ハ「夜」ノ枕詞。

[参考資料:『全文全訳古語辞典』小学館]
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枕 詞-まくらことば

おもに和歌に用いられる古代的な修辞のひとつ。
和歌においては五音一句に相当する句(四音や六音もある)をなし、独自の文脈によって一つの単語や熟語にかかり、その語を修飾し、これに生気を送り込む。一首全体に対しても、気分的・象徴的に、または声調上・構成上に微妙な表現効果をもたらす。

枕詞の起源は古代の口誦詞章のきまり文句で、そのうち最も重要なのは神名や地名にかぶせる呪術的なほめことばである。記紀歌謡において枕詞を受ける単語や熟語の半数以上が固有名詞であるのは、その辺の消息を示すものにほかならない。のちのちまで枕詞のかかり方が、固定的、習慣的、伝承的でありつづけながら、なお有機的に働くのもそのためである。枕詞は平安朝に入ってからは使われることが少なくなっていく。

枕詞のかかり方は、同音・類音のくり返しや懸詞-かけことば-によるものと、意味の上で説明したり、形容したり、比喩したり、連想を働かせたりするものとさまざまであるが、すでにかかり方の不明となった慣用句も多い。これらはすべて神託などの呪術的な古代的発想法から展開してきたものとみられている。

枕詞と似た和歌の修辞に序詞-じょし-があって、両者はその長さの違いや、文脈の性格の違いによって区別されているが、個々の例では区別のつきにくいものもある。
本質を異にする両者が混雑を生じたものか、本質を同じくする両者が別々に発達したものか両説があるが、古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。

柿本人麻呂は、古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり、新しい枕詞を作ったり、用言を修飾する枕詞を多用したりして、枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人である。その作品
〈玉藻刈る敏馬-みぬめ-を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)
の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は、実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。
なお、老・病・死をおもにうたった山上憶良は、枕詞をほとんど使っていない。
[参考資料:『世界大百科事典』平凡社]

例年の「かぎろひを観る会」の様子

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト
第47回かぎろひを観る会
開催施設  自然公園かぎろひの丘万葉公園
開催日時  2018年12月23日[日・祝] 04:00-07:00
所 在 地  〒633-2166 宇陀市大宇陀迫間25番地
      入園無料  事前申し込み不要 
問い合せ  0745-82-3674(宇陀市役所 公園課)
アクセス  最寄り駅からの交通
      近鉄 榛原駅より 大宇陀行きバス「大宇陀高校前」下車 徒歩3分 
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「かぎろひを観る会」は今年で47回目を数える歴史ある催し。
柿本人麻呂が詠んだ秀歌、

東-ひむかし-の野に炎-かぎろひ-の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

にちなみ、かがり火を囲みながらかぎろひの出現を待ちます。
かぎろひとは厳寒の晴れた早朝、夜明けの一時間前に空を染め上げる陽光のことと、宇陀市観光協会では考えています。
時を越えて記紀万葉のロマンに浸ることができるひと時をお楽しみください。

【 詳細: なら旅ネット ── 奈良観光公式サイト 特設コーナー 】

【しるす】 ぢゃむ 杉本昭生|活版小本51冊目の新作 ── 宇野千代『 夜 』ゟ + α

次の本が出来るまで その112

『活版小本』数えたら50冊

50冊になりました。覚えとしてリストを掲載します。感慨にふけることも、分析することもありません。そんな値打ちの無いことは本人が一番分かっていますから。
ニ、三人の友人と自分のために、飽きるまでこっそりと続けようと思っています。
[杉本昭生]

右) 杉本昭生氏。2015.12.05 京都太秦 広隆寺仁王門前。左) やつがれ

おもえば、京都市吉田山のちかくにオフィスをかまえる『活版小本』製作者/じゃむ・杉本昭生氏との交際もながくなった。
いつの間にか『活版小本』も50冊の刊行をみた。なんらの報酬も評価も期待せず、ただ黙々と製作をつづけるその姿勢にはただただ畏敬の念をいだくばかりである。
2018年12月13日、師走もなにも関係なく、いつものようにさりげなく『活版小本』51冊目の新作 ── 宇野千代『夜』が届いた。

【 詳細  ぢゃむ 杉本昭生 活版小本 】 { 活版アラカルト 活版小本 既出まとめ 

【ことのは】明治四年 HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──[展覧会]国立公文書館|平成30年度 第3回企画展|「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」 11月20日-12月22日ゟ

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平成30年度 第3回企画展 
「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」
会  期  平成30年11月20日[火]-12月22日[土]
開館時間  月-土曜日 午前9時15分-午後5時00
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無 料
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遠く離れただれかに情報を伝えたい。そんな時みなさんはどうしますか? 今では電話や電子メール、S N S などで手軽に素早くつながることができます。しかし、郵便や電信、電話など現在に通じる情報通信の制度や技術が導入された明治初期には、試行錯誤が重ねられ、相当な努力が払われたことは想像に難くありません。

本展では、郵便、電信、電話、無線通信の制度やこれらと関わりの深い人物の資料を展示し、明治期に進められた情報通信の近代化を描きます。また明治期の情報通信網が、日本と海外の諸国をつないでいく過程もご紹介します。

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郵便切手の発行
明治4年(1871)から明治15年までに発行された切手、はがき、封筒の見本を貼り付けた資料です。画像は明治4年と明治5年に発行された切手を添付した箇所。  これらは日本で最初の切手になります。額面の両側に龍をあしらったことから、「龍文-りゅうもん-切手」と呼ばれています。

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逓信省の設置
明治18年(1885)12月22日、内閣制度の創設に伴い、逓信省(ていしんしょう)が新設されました。  逓信省は、農商務省から郵便・管船を、工部省から電信・灯台を引継ぎ、通信運輸行政を一手に担う中央行政機関として誕生しました。画像は『公文類聚-こうぶんるいしゅう』に収録された太政官達第70号です。

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外波内蔵吉の叙勲
無線通信の有用性に着目した海軍は、明治33年(1900)、無線研究の必要性を訴えていた海軍中佐の外波内蔵吉(となみくらきち)を中心とした無線電信調査委員会を組織し、 無線電信機の開発を目指しました。外波らは苦心の末に、明治36年に無線電信機を完成させます。この無線電信機は、翌年に始まる日露戦争で利用されました。

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「つながる日本、つながる世界 ── 明治の情報通信 ── 」ゟ
{新宿餘談}

20181205172548_0000120181205172548_00002HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた
『広辞苑』 は、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  すなわち整理が付かないままに「端書・葉書・ハガキ・はがき」がもちいられている。
今回の国立公文書館展には、『郵便切手端書-はがき-封皮-ふうひ見本』が展示され、明治4年(1871)から明治15年までに発行された、切手、端書(解説表記は はがき)、封筒 の見本を貼りつけた見本が展示されている。
すなわち ── HAGAKI のはじめは 端書 とあらわされた ──

【 詳細: 国立公文書館 】

【ことのは】アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱-きあんこう

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで …… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の幹部社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いともかたられる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。
そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村-ひごのくににしそのぎぐんたかはまむら」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。[中略]従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。[中略]

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。[後略]

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、熊本県天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ活字箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

【もん】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸の中村座で、ある俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)