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【平野富二の会】『通運丸開業広告』から|石川島平野造船所が最初に建造した「通運丸」シリーズ|東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城梅素-玄魚」

本項は、近日発行『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B 5 版、ソフトカバー、384頁)より。
その抜粋紹介の記事として「平野富二の会」のウエブサイトに掲載されたものを転載した。
表紙出力『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』表紙Ⅰ

表紙の画像は以下より採取した。
◉ 右上:最初期の通運丸 ──『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告ゟ
◉ 右下・左上:『東京築地活版製造所 活版見本』(明治36年 株式会社東京築地活版製造所)電気版図版から採録

◉ 左下:『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所 平野富二)アルビオン型手引き活版印刷機ゟ
◉ 中心部の図案:『本木號』(大阪印刷界 明治45年6月17日発行)を参考とした。

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【 石川島平野造船所 ── 現:石川島資料館 】

石川島資料館入口石 川 島 資 料 館
[ 所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階 ── もと佃島54番地 ]
digidepo_847164_PDF-6東京石川島造船所工場鳥瞰図『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵)

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間のながきにわたって、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:I H I )開設の起点としている。

石川島資料館は、このような長い歴史を持つ石川島造船所の歴史を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

web用_200090 300dpi 通運丸開業広告 印刷調整 軽量化-1『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 宮城梅素-玄魚 傭書 物流博物館所蔵

『通運丸開業広告引札』(物流博物館所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。
平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。
隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。
同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、もっぱら川蒸気と呼ばれて話題をあつめ、盛況を呈した。

これらの「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。
したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく「通運丸」の船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

帆柱のある通運丸を描いた「内国通運会社」新聞広告。当初は一本の帆柱を備えていた。
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載。(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

web用_200097 300dpi 東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 野沢定吉画-1 軽量化船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
『東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館所蔵

上掲の『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年は、画は山崎年信、傭書は宮城梅素ー玄魚の筆になる。以下に詳細を掲載した。

【山崎年信 ── 初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

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「傭書家: 宮 城 梅 素-玄 魚 」

通運丸開業広告引札』の撰並びに傭書は、宮城梅素・玄魚(みやぎ・ばいそーげんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。[釈読:古谷昌二]

廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〻なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〻
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の 序  梅素記

梅素_画像合成_02『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵の広告文を釈読に置き換えたもの

宮城梅素-玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。
文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。
條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作したとされる。

明治一三年二月七日没。享年六四。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子-おたまじゃくし-など。
江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちの活字かな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所五号かな活字_03

東京築地活版製造所 五号かな活字(平野ホール所蔵)
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所)

2013平野富二伝記念苔掃会-10一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城梅素-玄魚
『芳潭雑誌』より

【 詳細: 平野富二の会 】

【 内国通運会社 】 & 【 日本通運 WebSiteゟ 沿革と歴史 】

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【もんじ】そこにも徳本・ここにも徳本|徳本行者六字名号碑|広島県福山市から発見報告

昨年から職場も住居も岡山に移転して、子育てに専念しているマッチャンこと松尾さんです。
順調に第二子も誕生して元気なようですが、アレですアレ、あの ── どこか飄逸な『徳本行者名号碑-南無阿弥陀仏』をみると心が騒ぐようです。
今回は稿者にとっては最西端の地、広島県からの『徳本行者名号碑』発見報告です。
[松尾さんからのお便り]
先週の日曜日(2019年04月07日)に、子どもの寝かしつけもかねて
広島県の鞆の浦までドライブに出かけました。

なんの下調べもなく出かけたのですが、鞆の浦グリーンラインという道路の路肩の
展望ポイントで、久しぶりにあの字 ── 徳本行者名号碑 ── に出会いました。
碑は 鞆の浦 (広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域)に
向かって建っています。背後は尾道方面。
じつに見晴らしのよいところに建っていました。

『徳本行者名号碑』
碑正 面  徳本行者六字名号 南無阿弥陀仏
碑右側面  文政十一戌子年五月建立〔1828年〕
碑左側面  発願主藤江村 岡本内松兵衛

[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

《徳本行者》
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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
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【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
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株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

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【展覧会】五文庫連携展示|東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅 ──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う|特殊文庫の古典籍

五文庫連携展示
東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅
──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う

特殊文庫の古典籍

大東急記念文庫(五島美術館)・慶應義塾大学三田キャンパス(斯道文庫)・東洋文庫・静嘉堂文庫・金沢文庫と「五文庫連携展示 特殊文庫の古典籍」と題して、同時期に書物に関する展覧会を連携して開催します。
詳しくは こちら(リンク先:https://www.gotoh-museum.or.jp/classic.html)をご覧下さい。

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日 * 4月29日[月]・5月6日[月]は開館
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館 
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人が人へ情報を伝える、それを不特定多数で共有する、そして世界共通の命題を解決するために役立つコミュニケーション・デザインの歴史は、19世紀に遡ります。人々の生活をより良くし、未来を拓く道具、空間や都市をテーマとする他の領域も同様です。モダニズム(近代主義)の確立、二つの世界大戦、地球環境に対する意識の高まりなど、私たちの暮らし・生き方を変貌させる出来事が次々と起こった20世紀は、デザインがいっそう身近になりました。デザイナーの活躍の場も広がり、その役割が重要となったのはいうまでもありません。

こうした背景を踏まえ、激動の時代を経験してきた勝井三雄-かついみつお-は、常に世の中とデザインの動き、現在の有り様に鋭い視線を注ぎ、明日を見据える創造的な挑戦を60年余にわたって続けています。グラフィック、エディトリアル、C I を中心に、サイン、ディスプレイ、空間構成ほか、多様な媒体のアート・ディレクターを務めるなかで、領域の枠組みにとらわれることなく、デザインの理論・表現について、その可能性と普遍性を模索してきたのです。
すなわち、状況にふさわしい視覚伝達を介して、物事の本質に触れるスムーズなコミュニケーションがどれほど人々の相互理解を促し、生活、文化、社会、環境を充実させることができるか、その優れた手段・取り組みの提案こそが、勝井三雄の仕事の根幹にあります。

本展は、まず「時代」に焦点を当て、今日に至るデザインの社会史と、国内外のデザイナー、写真家、美術家、建築家、音楽家、評論家、編集者、小説家、科学者、民族学者ら、勝井三雄が影響を受け、協働した人々とのつながりを示すところから展示が始まります。続いて、ポスターや映像など「色と光」の分析・実験・展開に基づく作品群、小冊子のエディトリアルから国家的規模の博覧会ディスプレイまで、あるいは企業・学校・文化施設の存在意義を体現するCI、地球を俯瞰するインスタレーションなど「情報の編集」に係る業績の集大成を紹介します。

未発表の資料、最新作も含む今回の展示は、空間構成そのものが勝井三雄の総合的なディレクションにより、「なぜ人間はヴィジュアル・コミュニケーションを必要とするのか」を体感的に考えるための場となります。
長年にわたり宇都宮美術館の C I を推進してきた勝井三雄の活動を通じて、当館が主眼とする「20世紀のアートとデザイン」を視覚伝達の観点からひもとく手がかりにもなるでしょう。
── デザインは、単なる色とかたちの描出、その成果物ではありません。時代・人々・空間と共振する思想であり、これを実践的に構築し、質の高い可視化を担うのがデザイナーの役割です。
勝井三雄のすべての仕事には、そのことが凝縮されています。

【 詳細: 宇都宮美術館 】