【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

山種美術館 広尾開館10周年記念特別展
生誕125年 速 水  御 舟
会  期  6月8日[土]-8月4日[日]
      * 会期中一部展示替えあり(前期:6/8-7/7、後期:7/9-8/4)
会  場  山種美術館
主  催  山種美術館、日本経済新聞社
開館時間  午前10時-午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 1200円・大高生 900円・中学生以下無料
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本年は、日本画家・速水御舟(はやみ ぎょしゅう 1894-1935)の生誕から125年、そして山種 美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。この節目の年を記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌を紹介する展覧会を開催いたします。

当館創立者の山崎種二(1893-1983)は御舟とは一つ違いでしたが、御舟が40歳という若さで早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、機会あるごとにその作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。
一方、御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」
という御舟の言葉どおり、彼は生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。

御舟は40年という短い生涯に、およそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」とも称されていました。1976年、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入の相談が種二のもとに持ち込まれ、種二は購入の決断をします。その結果、すでに所蔵していた作品とあわせて計120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となり、以来当館は「御舟美術館」として親しまれてきました。

本展では、御舟の代表作ともいえる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめとして、《錦木》など初期の作品から《牡丹花(墨牡丹)》など晩年の作品まで、各時代の作品をまとめてご覧いただきます。
当館の御舟コレクション全点公開は2009年の広尾開館以来10年ぶりとなります。この機会に、御舟芸術の真髄をお楽しみください。

[ 詳細: 山種美術館 ]

速水御舟「桃花」1923(大正122)年(山種美術館蔵)
日付と署名に「瘦金体」の書がみられる ── 山種美術館図録並びに市販絵はがきゟ
山種美術館 2016年11月13日のツィターゟ
日付と署名・落款に「瘦金体」の書がみられる。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも 図書(書物)製造の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周など、現在の開封(カイホウ、  Kāifēng) にみやこをおいた王朝を中心に木版図書製造技術が温存されて、10世紀・北宋(趙氏、九代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典図書としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある 開封(カイホウ)であった。いまもなお開封は、雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。 前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して「大梁-タイリョウ」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦 によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ「東都」となり、つづいて後晋・後漢・後周もここにみやこをおいて「東京-トウケイ」 と称した。
すなわち「分裂時代」とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた「後唐  923-936」 以外の四つの国は、開封(東都・東京・汴-ベン)をみやことしていたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国(現在の四川省)に建朝された「後蜀  934-965」 では、965年ころには、あきらかに、
「蜀地の文化の新展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 (『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 )のである。
「 木版印刷の創始は宋代から 」 という説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ『周礼-シュライ』がわが国の 静嘉堂文庫(東京都世田ヶ谷区)に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル・タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」(製作・欣喜堂、販売・朗文堂)である。これがして、稿者が北宋・南宋の両方の宋王朝と、多様で多彩な展開例をのこした宋朝刊本字様 ── 宋朝体 ── に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤(チョウ-キョウイン、宋の太祖、在位 960-976) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を「汴-ベン、 東京開封府-トウケイカイホウフ」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武(文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール)につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹-キッタン-族の遼、チベット系タングート族の 西夏-セイカ-の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金(女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打-アグダ-の建てた国 ) が、会寧府(吉林省阿城県)、燕京(エンケイ-現ベイジン、北京 )を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて、二次にわたる大攻勢の結果「汴-ベン、東京開封府」 を占拠して、宋 (北宋)を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康-セイコウーの変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 -キソウ(趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。「 楷書千字文 」「 牡丹詩帖 」「 穠芳詩巻 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を「痩金体- ソウキンタイ」と名づけた。

趙佶は初唐の書家・薛曜(セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 の原本は、いまは上海博物館の所蔵で、ここでは真筆をみて、C D R 版を含む、できのよい複製版を購入することができる。『宋徽宗書法全集』(王 平川、北京・ 朝華出版社、2002年1月)

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこ「 汴 ・ 東京開封府」を陥れた。 ここに宋(北宋)は九代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝、上皇・徽宗(趙 佶、在位1100-25 )、皇帝・ 欽宗(趙 桓、在位 1125-27) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城(現黒竜江省)に幽閉した。これが「靖康の変」とされる事件である。

風流皇帝とされ、芸術に惑溺していた徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓(欽宗)に帝位を譲って上皇となったが、「靖康の変」に際しては上皇・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓「永祐陵」は、旧南宋領内のみやこ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[本項は 『大観  宋版図書特展』  台北・故宮博物院、2007年12月を主要資料とした]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業(図書出版)であるが、この時代( 10-12世紀 )の木版刊本の書物「北宋刊本 ・ 北宋図書」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様(木版刊本のうえにあらわれた字の形姿)や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物「インキュナブラ」の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗(976-997) が、淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書-カンリン-ジショ-であった王 著 (オウチョ  ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒(もろく-摸倣によって木石に彫刻)させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて『淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ』である。

『淳化閣帖』は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「夾雪本」( 東京・書道博物館 )と、「最善本」(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇・徽宗帝、皇帝・欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵「内府」や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国(民族)はのちに女真文字(満州文字)をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

この女真-ジョシン-文字の形成に成功した満州族の一部族、「愛新覚羅-アイシンカクラ・アイシンギョロ」のヌルハチがのちに勃興して、1616年帝位(太祖)について、国号を「後金-ゴキン」と称して奉天(現瀋陽)にみやこした。その子ホンタイジ(太宗)は1636年に国号を「清 qīng」とあらため、孫の世祖のときに長城を越えて中国に入って北京をみやことした。「清 qīng」は12代の皇帝の治世をみたが、孫文らによる辛亥革命によって1912年に滅亡した。
したがってその城地:北京紫禁城(現故宮博物院)の外朝はともかく、皇帝をはじめ皇族が居住していた内廷では、いまなお扁額などに満州文字がおおくみられる。
また稿者の知人のほとんどは、「清 qīng」とは呼ばずに「後金-ゴキン」と呼ぶ。

清王朝(1616-1912)の存在はそんなにふるい時代のはなしではない。
わが国でいうと徳川家康が江戸幕府をひらき、その基礎をかためて将軍職を秀忠にゆずり、駿府に隠居して大御所とされ、逝去した年がわが国の元号でいうと、元和元年-1616年のことである。また清王朝が崩壊した1912年は明治から大正への改元のときでもあった。
すなわち「清王朝」とわが国の歴史は、江戸時代初期から明治・大正期の歴史と重なる。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY  【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

つまり金軍は『淳化閣帖』などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石・版木のほとんどすべてと、その工匠までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる『淳化閣帖』の複製原版が、石刻だったのか、梓 や 棗 材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明していない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋( 北宋 )の版本のほとんどは 「汴、東京開封府」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で「覆刻術-かぶせ彫り-のために費消」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における「 文字獄 」によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「北宋刊本」 がのこったのである。

すなわち、わが国では「 文字獄」はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく清王朝初期の皇帝らによって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。

こうした過酷な時代を乗りこえて、みかどの書 ── 瘦金体は原本が相当数のこっている。またわが国へも江戸の後期にはなんらかの手本がもたらされたとみられ、あちこちの金石のうえに瘦金体の書をみることができる。
速水御舟は良い意味での好奇心のつよい画家であったとみられている。したがってそうした宋朝の文人画にあこがれ、書藝の瘦金体の手本をどこからか入手していたのであろう。

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