「明朝体は横線が無くても読める」
水井 正さん1971年2月製作|シルクスクリーン印刷 B全判2色刷り ポスター|
水 井 正(1932- )
『 TheTYPEBANK 』(1995年、タイプバンク編、朗文堂)ゟ
マップケースの底から、半世紀ほど前のポスターが出てきた。製作者は水井 正さん。
このころの水井さんは、麹町にあった「原デザイン研究所」に所属しながら、ほとんど千代田区紀尾井町の文藝春秋社に昼夜とも詰めきりで、『文藝春秋』『オール讀物』『文學界』などの月刊誌と、創刊間もない『週刊文春』のタイトルの「書き文字」を担当されていた。
筆者が水井さんと交誼を得たのは「TYPO – EYE」が結成された1975年からのことである。したがって45年ほどのお付き合いということになる。
このポスターはそれ以前の製作であるが、実験作品ともいえたこのポスターを、おそらく1975年にお譲りいただいた。また独立前の「原デザイン研究所」にも一度だけお邪魔したことがある。
「書き文字」が繁忙を極めるようになったのは『週刊文春』が創刊されてからのことだとされたが、デザイン事務所というより、むしろ寝室部分のほうがひろく、埼玉県入間市の自宅に帰るのは「月に二-三度かな」と苦笑されていた。
また、「これまで若さに任せて無理を重ねてきたが、40歳にもなると徹夜はきつくてね …… 」
とこぼされていたことも覚えている。
こののち写真植字法の興隆・進展があり、書き文字の仕事は次第に減少気味であったが、水井さんは、株式会社タイプバンクを設立直後の タイプディレクター:林 隆男(1937-94) の委嘱を受けて、写植活字「ナウ」シリーズの書体設計に専念するようになった。
実験作品:ポスター「明朝体は横線が無くても読める」は、水井さんがタイトルをレタリングされた、海音寺潮五郎『武将列伝』(全三巻、文藝春秋社刊)の作業のなかでの実感をこめて製作されたものである。
ところが一箇所「字画を間違えた」ままで印刷してしまい、刷り直しの時間と予算もないままに、赤版「蒲生氏郷」の「蒲」の字画をレタリングによって修正して、それを象嵌 * して展覧会に間に合わせたとされた。
お譲りいただいととき、一緒に立ちあわれた「TYPO – EYE」の同志:吉田佳広氏は、
「このポスターが、写植活字や金属活字の清刷りじゃなくて、レタリングだって解るなによりの証拠だよ」
と笑われていた。
水井さんは鋭利な両刃のカミソリで修正・象嵌したとされたが、確かに象嵌の跡はほとんど痕跡を残していなかった。しかしながらほぼ半世紀余ののちのこんにち、象嵌部分は脱落し、所在不明となり、裏面からみると、補強のために貼付したセロファンテープの劣化の痕跡が痛〻しい。
* ぞうがん【象眼・象嵌】
工芸用語では様様な用例があるが、[印刷用語]では、鉛版・銅版・版下製作などで「象嵌-ぞうがん」とあらわし、修整箇所を切り抜いたり、剝ぎ取り、そのあとに同寸法の修正した活字などを挿入すること。
◉ 水井 正 Mizui Tadashi プロフィール
◉ 水井 正 Mizui Tadashi プロフィール
1932年三重県生まれ。上京後複数のタイポグラフィを中心としたデザイン事務所勤務を経てフリーランスとなる。
リョービイマジクス、タイプバンクなどを通じてタイプフェイスデザインに専念。代表書体「ナウ G シリーズ」「ナウ M シリーズ」「ウッデイ」(現在はデジタルタイプとなり、モリサワ取扱書体)など。
専門学校中央美術学園講師。レタリング技能検定試験採点委員等を歴任。
大谷四郎(1930-2001)、篠原榮太(1927- )氏らを中心として1964年に発足した「日本レタリング協会 → 現 NPO 法人 日本タイポグラフィ協会」の設立メンバーのひとり。また吉田佳広(1933-2016)・馬場雄二(1938- )氏ら日本タイポグラフィ協会会員有志による「暮らしの中にタイポグラフィを」のスローガンを掲げて活動した「TYPO – EYE」(1975-1984)の設立メンバー。日本タイポグラフィ協会、日本グラフィックデザイナー協会などに所属していた。
国内・海外の団体グループ展に多数出展。『タイポグラフィ年鑑』に連続8回入選。ニューヨークにおいてグラフィックデザイン展金賞。ニューヨーク TDC 展入賞。ニューヨーク Cooper – Hewit Museumにパーマネントコレクション。埼玉県入間市居住。