私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……
わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..
上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。
{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。
本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。
隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。
国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会 期 平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時 毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
* 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
* 日曜・祝日は休止
会 場 国立公文書館 本館
千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入 場 料 無 料
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日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。
【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
上野国(群馬県)伊勢崎を藩庁とした藩。藩主はいずれも譜代。
慶長六年(一六〇一)上野・下野両国に采地三千石をもち、上野国勢多郡新川にいた稲垣長茂が加封されて一万石の初代藩主となった。長茂は三河国牛久保の出身。牧野康成に従って家康の東海制覇、小田原征伐に功をあげ、関ヶ原の戦には大胡城主となっていた康成が出陣した留守を預かって大胡城を守った。
同十七年その子重綱(初名重種)が襲封したが、大坂の陣の軍功により元和二年(一六一六)十二月、越後国刈羽郡藤井に移封(同六年越後三条城主)。藩領は前橋藩主酒井重忠の子忠世の所領となった。
ついで寛永十四年(一六三七)正月、忠世の孫忠清が襲封の時、弟忠能に伊勢崎領二万二千五百石を分与して支藩としたが、忠能は寛文二年(一六六二)六月、信州小諸城に移り、藩域は再び前橋藩領となった。
天和元年(一六八一)二月、忠清のあと次男忠寛が二万石を分封され、以後前橋藩の支藩として酒井氏が忠告・忠温・忠哲・忠寧・忠良・忠恒・忠強・忠彰と九代約二百年つづいて明治維新に至った。
酒井氏は代官を置いて陣屋支配を行なった。稲垣氏の時、城下町経営を始めているが、検地は寛永十九年酒井忠能入封後に行われた。藩域は佐位・那波両郡に分散し、旗本領などと錯雑していた。
忠温は闇斎流[山崎闇斎。江戸前期の儒学者、名は嘉、あざなは敬義。京都のひと、はじめ僧と成ったが朱子学をまなび、京都に塾をひらき門弟数千人に達した。のちに神道と朱子学を融合させた垂加神道をおこした]の学問を奨励して安永四年(一七七五)藩校:学習堂を開き、歴代藩主も学問を民政に反映させるため、五惇堂・嚮義堂・遜親堂など多くの郷学校を育成したので有名。維新後、家禄五百五十一石。明治四年(一八七一)七月、旧藩は伊勢崎県となり、同年十月、第一次群馬県に編入された。
[参考:『国史大辞典』吉川弘文書館ゟ抜粋]