平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二 http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。
鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。
この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕
古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海
◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]
① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
⑫ 官営時代の長崎製鉄所(その1)
⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
⑯ 長崎新聞局とギャンブルの伝習
⑰ 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
⑳ 活字製造事業の経営受託
㉑ 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海
< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >
まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め
わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙
題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。
{新宿餘談}
このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。
読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。
[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]
平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。
この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。
* 本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)
標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋
『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
『国史大辞典』(吉川弘文館、西田長寿執筆)
【宇田川文海 うだがわ-ぶんかい】 一八四八-一九三〇
明治・大正時代の小説家。嘉永元年(一八四八)二月江戸本郷新町屋(文京区湯島)道具商伊勢屋市兵衛の三男として生まれた。本名鳥山棄三、号半痴居士。早く父母を喪い、一時仏道に入ろうとしたがのち心変り、明治七年(一八七四)二月『遐邇新聞-かじしんぶん』(秋田)記者となる。
翌八年秋、秋田を去り阪神に赴き、兄茂中貞次によって『神戸港新聞』に入る。同年十二月『浪花新聞』を創刊し、十年夏退社、その年創刊の『大阪日日新聞』に入り雑報主任となる。大阪日日は間もなく『大阪新聞』と改題、十一年三月『大阪日報』に合併するが、文海は両新聞の記者をかねた。十三年八月『魁新聞』に入り、翌十四年九月『朝日新聞』に入った。
このころすでに関西における小説家としての地位を確立、以後三十年ごろまでは関西文壇の大御所的存在であった。彼の朝日在社は明治二十二年九月に及ぶが、その間、同十八年十月二十七日創刊の『日本絵入新聞』に半年ほど在社。同二十六年四月末『大阪毎日新聞』に入り以後十年ほど在社した。その後は新聞や雑誌の寄稿家として世を送ったらしいが、その間明治三十五年七月創刊の『大阪朝報』には記者として相当主要な地位についたらしい。管野スガ はかれの門人として ここの婦人記者であった。
晩年は豊臣秀吉の研究に力を入れていた。昭和五年(一九三〇)一月六日大阪住吉町の自宅で没。八十三歳。墓は東京都台東区寿二丁目の宗円寺にある。作品には『(勤王佐幕)巷説二葉松』(明治十七年)などがある。
[参考文献]宇田川文海『喜壽紀念』(私家版、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵)、大塚豊子・松葉晨子・三浦阿き子「宇田川文海」(『近代文学研究叢書』三一所収)
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『国史大辞典』(吉川弘文館、西田長寿執筆)
【大阪新聞-おおさかしんぶん】
(一)
明治五年(一八七二)三月創刊。当時の大阪府権知事渡辺昇が外務課長加藤祐一に命じ、千円の補助を与え書籍会社の柳原喜兵衛・前川善兵衛・吉岡平助・中島徳兵衛・島村専助・村上勘兵衛らに経営させた大阪府後援の新聞。
当初は月二、三回、第一一号から原則として隔日発行となったらしい。半紙二ツ折り表紙とも九枚、のち四、五枚となり、同六年初めごろから活版印刷であった。編集人は寺島易堂で、藤村紫朗がその販路拡張に努力して、管内官庁・町村役場などに購読させたが、七年藤村が山梨県に転任ののち衰微し、八年四月廃刊。発行部数は千部位と伝えられている。明治五年七月第九号から同六年六月第一一七号まで、おおむね東大明治新聞雑誌文庫所蔵。
[参考文献:日本新聞協会編『地方別日本新聞史』]
(二)
明治十年(一八七七)八月三日創刊、同十三年四月第七五二号(?)までで終っている『大阪新聞』がある。これはタブロイド判八頁の日刊紙で社説を有するいわゆる大新聞で、上野寛三・波部主一・茂中貞次らが関係したが、やがて、波部・茂中らは去ったらしい。
大新聞としては、すでに『大阪日報』があったため、『大阪新聞』は経営難から幾何もなく休刊。翌十一年三月二十八日、西川甫らの『大阪日報』に合併せられたが、紙名は『大阪新聞』のまま変更せず、その廃刊時に至った。
この『大阪新聞』には宇田川文海が創刊後幾何もなく入社しているらしいが、署名は合併後にもない。その間、同十年七月創刊の『浪花実生新聞』の主幹と署名している。この点から考えると、『大阪新聞』『大阪日報』の二紙の雑報欄は宇田川の指導下にあったのではなかろうか。なお『大阪新聞』は大阪雑喉場〔ざこば-小魚(雑魚-ざこ)など大衆魚を扱う魚市場を指し「雑魚場」「雑喉場」などと表記される。 狭義では1931年(昭和6年)まで大阪市に存在した雑喉場魚市場を指す〕の魚問屋仲間二、三人の出資で出発したものである。一日発行部数は不明である。なお第一次・第二次の『大阪新聞』の八〇%位は東大明治新聞雑誌文庫所蔵。
[参考文献:宇田川文海『喜寿記念』]
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『国史大辞典』(吉川弘文館、伊吹順隆執筆)
【神戸新聞-こうべしんぶん】
(一)
港新聞社発行。『神戸港新聞-こうべみなとしんぶん』を明治九年(一八七六)六月に『神戸新聞』と改題。『神戸港新聞』は港新聞社発行、明治六年五月創刊、西日本最初の日刊新聞。兵庫県令神田孝平は政府の新聞発行奨励策により、『神戸港新聞』の発行を積極的に奨励、援助した。
明治七年十月茂中貞次(本木昌造の弟子)は神田県令の招きによって来神、県庁の近くに印刷所を設け、県庁その他の注文に応じていた。現存の八年九月八日付第五八号によれば、社長兼印刷人茂中貞次、編集長赤荻文平、主筆関徳(のちの『朝日新聞』記者)。紙幅縦三一・五センチ、横二四センチ、四頁、定価一部二銭三厘、一ヵ月前金五十銭、一ヵ年前金四円二十銭。
編集に宇田川文海(茂中貞次の弟)・浮川福平のほか久松定憲(神戸始審裁判所判事、のち『朝日新聞』記者)・伊東巳代治(兵庫県訳官)らが関与。
紙面構成は、一頁は官令、二頁・三頁は公聞(県布達)・雑報・外報・寄書、四頁は広告、別に『神戸物価日報』を発行。外国商館にも多く読まれ、外国商館の広告も多かった。
明治七年十月西日本最初の日刊新聞となり、九年六月社名はそのままで『神戸新聞』と改題した。改題後の『神戸新聞』は紙運栄えるかにみえたが、『神戸港新聞』創刊の蔭の人で援助者・寄書家でもあった神田県令は、同年九月三日元老院議官に転じ、後任の権令森岡昌純は新聞を好まず、県立学校生徒に新聞購読禁止令を出して世人を驚かせ、吏員に新聞社への出入り、寄書を禁じ、また『神戸新聞』への奨励金を打ち切り、印刷物の発注を差し止めて糧道を断ったため、『神戸新聞』は財政難に陥り、同九年十一月第三八〇号で廃刊した。
同社は五種の定期刊行物と大阪の『浪花新聞』を印刷していた。
[参考文献:宇田川文海『喜寿記念』、神田乃武編『神田孝平略伝』、朝日新聞社編『上野理一伝』、晨亭会編『伯爵伊東巳代治』上、『関遂軒(徳)自伝』、伊吹順隆「神戸と新聞」(『神戸市史編集ノート』二)]
(二)
神戸新聞社発行。明治二十二年(一八八九)七月創刊、翌二十三年十二月二十八日廃刊。二十二年九月六日付第五一号によれば、編集人八木芳太郎、発行兼印刷人大野惣吉。紙幅縦四三センチ、横三二・五センチ、四頁、定価一部八厘、一ヵ月十七銭。立憲改進党系。東大明治新聞雑誌文庫所蔵(第五一号―六八号)。
[参考文献:『国民新聞』明治二十四年一月五日]
(三)
神戸新聞社発行。明治三十一年(一八九八)二月十一日創刊、現在に至る。社主川崎芳太郎、社長松方幸次郎(川崎造船所社長)、主幹岩崎虔、主筆白河鯉洋、硬派主任久留島武彦、軟派主任江見水蔭。紙幅大型B3、六頁建、定価一部一銭五厘、一ヵ月三十三銭。中立紙。第一年の総発行部数二百五十三万三百三十三部。
川崎資本が『神戸新聞』を発行するに至ったのは、『神戸又新日報-こうべゆうしんにっぽう』の川崎造船所攻撃とも、松方正義首相兼蔵相(松方幸次郎の父)の財政政策の攻撃ともいわれ、対抗紙として「打倒又新-ゆうしん」を秘めて創刊された。
大正九年(一九二〇)七月十三日川崎芳太郎の死後株式会社に改組、資本金二十二万二千九百五十円(現在二億円)。創刊以来紙運に恵まれたが、社運を左右する大事件もあった。
戦時下特別高等警察の言論干渉弾圧で社長進藤信義の退陣、神戸新聞社株の譲渡を強要され、進藤は涙をのんで退陣した。大正七年八月十二日米騒動の余波で社屋全焼。昭和二十年(一九四五)三月十七日の大空襲でも全焼したが、朝日新聞社の代行印刷で新聞は一日も休まず発行を続けた。
戦時下ローカル紙の一県一紙の統廃合で県下の有証日刊八十六紙は『神戸新聞』に統合された。神戸市立中央図書館所蔵(欠号あり)。
[参考文献:『神戸新聞社七十年史』、『兵庫県統計書』明治三十一年、昭和十五年]