【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

内田九一奥城 長崎大光寺内田家墓地 吉雄圭斎建立
【もんじ】長崎大光寺上段墓地にある内田家・間淵家墓地と内田九一奥城
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831  長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

【内田九一 うちだ-くいち 1844-1875】
幕末-明治初期の写真家。
弘化元年肥前長崎うまれ。蘭法医:吉雄圭斎の甥。圭斎の妻が九一の従姉であったため、九一が4歳のおり、妹菊とともに吉雄圭斎によって種痘(牛痘)の施術をうけた。13歳のおり父を亡くし、九一は松本良順が、菊は八歳で伯父の吉雄圭斎が引き取って養育した。松本良順(順)と吉雄圭斎に関してはのちに触れる。

明治天皇の束帯姿(明治5年4月、内田九一撮影)
明治天皇肖像写真(明治6年10月、撮影:内田九一 神奈川県立歴史博物館蔵)
明治帝御真影として官公庁・学校などに下賜されたもの(明治21年1月)。
お雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの。

長崎でポンペに化学を、上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大阪に滞在していた松本良順をたずね、大坂で写真館をひらき、のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影、西国九州巡幸にも写真士として供奉してその名を知られた。
内田九一はその九州巡幸の折とみられるが、父祖のねむる大光寺本堂の写真ものこしている(長崎大学中央図書館蔵)。

ここで大光寺住職夫人に紹介いただいた、同寺所蔵:イタリアにうまれ英国に帰化したベアト(Felice Beato  1825-1903)による「大光寺本堂の前に立つ上野彦馬」(フェリーチェ・ベアト撮影、鶏卵紙、慶応年間ころ 長崎大学中央図書館蔵)の複製写真を紹介する。
おりしも2018年3月-5月「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」が開催され、長崎歴史文化博物館にも巡回展示されていた。この撮影は同年11月下旬になしたものである。

上掲写真部分拡大:中央で棕櫚の幹に手をかけているのが上野彦馬とされるベアト撮影、上野彦馬とほぼ同じ位置に立った日吉洋人氏。2018年11月

この取材の同行者は、日吉洋人・大石 薫の両名であった。大光寺の複製写真はガラス付きの額に入った写真だったが、蘇鉄-ソテツ-に右手をかけた上野彦馬と同じ場所に立った日吉洋人氏を紹介する。蘇鉄の枝ぶりがかわり、慶応年間には無かった松があるが、百五十年余のこんにちでもほとんど大光寺本堂前の景観に変化がないことに驚いた。

これとほぼ同様のアングルからは、「慶応年間」のベアトに続き、上野彦馬が「明治初期」に撮影し、内田九一も「明治5年ころ」に撮影している。いずれも長崎大学中央図書館蔵であるが、「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」の市販図録 pp 127-128 に見開きページで紹介されている。

本木昌造肖像 撮影:内田九一 推定明治7年

また小社周辺でもちいている本木昌造のおもな写真は、撮影日時は不明ながら、白髪と眼くぼの落ちこみ具合からみて、本木昌造最後の上京となった明治7年(1874)夏ごろの撮影とみられている。また台紙の記載から内田九一が東京で撮影したものとされている。

この写真はだいぶ前のことになるが、上杉千郷氏(当時:鎮西大社諏訪神社宮司)のご好意で、諏訪神社「文学の杜」で複製撮影をしたもので、簡便なカメラで稿者が撮影したものを、小社スタッフが階調補整したものをもちいている。
額入りで裏面は撮影できなかったが、『贈従五位本木昌造先生略傳』(古賀十二郎、昭和9年5月、印刷図書館・長崎歴史文化博物館蔵)には、いくぶん不鮮明ながら同一原版からとみられる写真とともに、台紙の影印も紹介されている。
羽織の家紋は本木家歴代の「◯ に 本」の家紋 ではなく、草体の仮名「も」に丸をあわせたもので、印刷・活字界で俗に「◯ も」とされる、本木昌造の創作による替え紋のようにみられる。

本木家塋域 大型墓前列右端 本木昌造墓
本木家塋域に数ヶ所みられる「◯ 本」の家紋
本木昌造の墓標には家紋・替え紋ともみられない

正面)故林堂釋永久梧窓善士 最勝院釋全託貞操大姉 右端にちいさく 贈 従 五 位 が追刻
右側面) 諱永久通稱昌造久美之義子也以文政十年甲申六月九日乙亥九月三日病歿千家享年五十二 追刻:明治四十五年二月二十一日宣下
左側面) 天保九年戊戌閏四月十二日生安政五年戌年七月十二日卒行年廿一歳本木久美實女永久妻俗号縫

本木昌造は明治8年春、東京での撮影の翌年関西に出向いたがそこで躰調をくずし、大阪活版製造所:谷口黙次(初代)、京都點林堂:山鹿善兵衛(号:栢年-はくねん)をはじめ、東京から駆けつけた平野富二らの介護をうけて、洛外の「落柿舎」で静養し、ようやく帰崎することができた。しかしその後も病床にあることが多く、明治8年(1875)9月3日に長崎で病没した。享年52。
内田九一は本木昌造の撮影後からまもなく持病の肺病が悪化し、本木昌造に先立って明治8年(1875)2月17日肺結核によって東京で逝去した。享年32。
ふたりはともに肥前長崎出身。長崎大光寺山内、本木家墓地に「本木昌造墓」、内田家墓地に吉雄圭斎建立による供養塔「内田九一奥城」がある。

[参考:『日本人名大辞典』(講談社)]

明治最初期の写真家:内田九一を偲ぶよすがは生誕地長崎ではすくない。わずかに「内田九一奥城」(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑乃至は供養塔をいう)が、長崎寺町のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の傾斜地、大音寺と崇福寺の墓地にはさまれた大光寺墓地にある。
寺の山内ではあるがこの奥城は神式で、戒名や墓誌めいたものはなく、内田家塋域の向かって右端に、「内田九一奥城」とのみきざまれて建立されている。建立者は長崎の蘭法医:吉雄恵斎によった。森重和雄氏の報告によると以下のようにしるされている。

この墓は『フォトタイムス』(昭和8年10月号)掲載の、松尾矗明「写真秘史古老達の話と諸方の記録(三)内田九一寫眞記(四)」によれば、長崎の吉雄圭斎が、内田九一が亡くなったことを悼みこの墓域内に供養墓を建立したものである。
[参考:幕末明治の写真師列伝 第六十一回 内田九一 その二十六 森重和雄

東京で歿した九一の墓は、はじめ東京王子に設けられ、松本順とその遺族が世話をしていたが、のちに妻:おうたが遺骨のはいった骨壺と「内田九一墓誌銅板」とともに大阪に移設したとされる。

内田家塋域は大光寺本堂左手から「登坂」をはじめ、本木家墓地を経てさらに上部、右手に岡部家の広大な墓地の先を左に折れる。
境界の目印が無いから解りづらいが、岡部家の墓地は隣の崇福寺墓地にあたり「元崇福寺末庵廣徳院」の跡とされる。崇福寺は禅宗のひとつ黄檗宗の寺で、唐寺とも呼ばれ中国との関係が深い古刹である。
その角、大光寺側にある「中島家塋域」 石闕の甲骨文の釈読 {先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え}は、古谷昌二氏の協力を得て既に紹介した。

内田家の塋域入口には石塀があり、蔓草がからんでいるが「間淵 内田」と もんじ があり、上部に半円形の「図形」乃至は もんじ が彫りこまれている。この「図形」はひとまず措いて、もんじからみてみよう。
「間淵」はのちに刻されたもので、大光寺住職夫人によると、現在は間淵家がこの塋域の使用者であるとされる。また内田家縁者が関西方面から毎年訪崎して供養にあたっているという。
塋域中央部に間淵家の墓があり、石灯籠をはさんで右手に二基の石塔、内田家の墓と内田九一奥城がある。間淵家と内田家の関係は不詳である。

また内田家の来歴はつまびらかにしないが、もっともふるいとみられる中央の「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標に刻された もんじ は興味ふかいものがある。

浄土真宗の寺なので、墓石正面の六字名号「南無阿弥陀仏」はあたりまえだが、二字目が「無 → 无」になっている。これは「无 U+5B83   字音:ム・ブ 意読:ない」であり、易経・乾に「无咎-咎なし」をみる。
したがってここでは「無 → 无」と同音同義の異字に置きかえられたとみられる。これはどこかの墓標か経文で類似のものをみた記憶があったので手許資料を探したが見つからなかった。

最終の「佛」はいわゆる旧字体だが、四字目の「彌 → 弥」は新字体にちかく、よくみると旁の屈曲にみるように、いまも俗字とされる結構になっている。
最大の難関は五字目の「陀」である。阜偏-こざとへん-に、旁・色をあてたような字である。本来「陀」は梵語 ダ を中国音に訳すときに当てられた字で「佛陀 ブッダ」とされた。「解字」によれば「陀 会意兼形声。阜〈こざとへん〉+音符 它 タ ── 長くのびる」の意である。

そこで「它」をみると、「它 U+5B83  字音:タ  tā 意読:へび・ほか」となる。意味は名詞:へび → 蛇 ダ・ジャの原字で「竜它 → 竜蛇」の使用例をみる。
「解字」によれば「象形。毒へびを描いたもの。古代には毒へびが多かったので、{它〈タ〉無キヤ}ときいた。転じて「別状ないか」の意となり、そこから 它 は別のこと、ほかの、などの意となった」とあり、必ずしも吉字とはいえないようである。

したがってここでの六字名号「陀」は、阜偏-こざとへん-はのこして、旁を「般若心経 ── 色即是空・空即是色」、あるいは難読語とされるが「色陀-しこだ」などにより、吉字とみなされた「色」に置きかえたが、やはり憚るところがあったのか、減筆によって一画を減じて書きあらわしたのではないかと解釈した。先行事例ほか、ご意見をたまわれば幸甚である。

餘談になるが…… 、庶民藝能として誕生した歌舞伎は、役者も観客も庶民信仰が篤かった浄土宗・浄土真宗の信徒がおおく、「南無阿弥陀仏」の六字名号を敬し、歌舞伎の演目に六字からなる題名を避けるならわしがある。

また、かつて稿者は東京文京区千石の一行院に 徳本行者 の足跡をたずね、慶応四年刊・お家流書風による木版刊本『徳本行者傳』の活字による現代語訳を試みた経験がある。
徳本は紀州和歌山出身の浄土宗の僧侶で、徳川十一代:家斉の庇護をうけて一行院(文京区千石1丁目14)をもうけて念仏三昧の日々をおくり、また各地に行脚して、そこの浄土の寺には、独特の書風による「徳本名号碑」が建立された。それをどこかの雑誌に書いたが、いまとなるとチト恥ずかしいものがある。

「徳本名号碑」はおよそ能筆とはいえず、六字を単体でばらしたら判読に悩みそうな字であるが、そこは六字名号のありがたさ、たれもが「南無阿弥陀仏」と唱え、その遊行行脚の地には多数の信者からの寄進がよせられた。それらのすべてを滞在先の浄土の寺にのこして去った徳本行者を慕って、文京区小石川:傳通院、長野:善光寺、伊豆や近江、都内の各地をはじめ、東日本を中心に浄財をもとにした「徳本名号碑」がのこされた。

琵琶湖畔彦根にある簡素な浄土宗の寺、宗安寺山門脇の「徳本行者名号碑」
彦根市本町2丁目3-7に宗安寺はある。この通称赤門とされる「山門」は
石田三成の居城、佐和山城の表門を移築したものとされる。

長崎大光寺墓地にある内田家塋域にある六字名号「南無阿弥陀仏」が刻された墓標
徳本名号碑をみたあと、改めて長崎の墓標をみた。やはり特異な もんじ である。

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

[参考:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

《 内 の金文 内 の角字 》

ここで保留にしていた内田家塋域入口の石塀と、「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標の献花台・燭台にみる奇妙な「記号」に戻りたい。

『書体大百科字典』(長坂一雄、雄山閣出版、平成8年4月 pp 108)
本書「内」の三段目「51. 西周金文」の標本「内」にきわめてよく似ている。

長崎異国情緒というと、近年はオランダ出島観光を中心にかたられることが多いが、江戸期長崎はまた、中国福建省出身者を中心とする「唐人屋敷」があり、清国との貿易も盛んであった。したがってこんにちでも長崎では、春節 ── 旧正月の祝いが「ランタンフェスティバル」とされて、盛大に催されている。また大光寺は隣接して唐寺とも呼ばれている崇福寺があり、漢学・儒学・字学の素養にたけた人材がいたことは忘れられがちである。
[関連:活版アラカルト 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の墓標では、『書体大百科字典』にみる「金文-きんぶん- 内」を実に精妙に図形化して献花台・燭台・石塀などに刻されている。この墓の建立者・被葬者は明確でないが、おそらく内田九一の両親の墓とみて良いとおもわれる。建立者も未詳だが、成人になった折りの内田九一による可能性があり、そうすると「字」では無く、瀟洒な「文 ≒ 紋に見立てた「金文 内」の使用も首肯できる。

【 参考:金文 きんぶん 周 しゅう Zhōu 
中国古代の王朝名、またこの王朝が存立した時代・文化の名にも使用する。紀元前1050?-前256年。司馬遷『史記』によると、尭帝の農官であった后稷-こうしよく-が始祖とされる。后稷の15世のちの子孫の武王が、前1050年ころ商と自称していた国家、商王帝辛を牧野(河南省淇県)で破り、ここに商を倒して殷とし、帝辛を紂王(蔑称)として、あらたな王朝「周」を鎬京-こうけい-(陝西省西安近郊)に創設した。
この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王-たんおう-のとき戦国七雄のひとつ秦によって完全に滅ぼされた。
そのため前771年を界として、それ以前は都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。近年の研究では周も商と同様にふるくから甲骨文-こうこつぶん-をもちい、金文(きんぶん-青銅器などにのこされたもんじ)をのこしている。周が王朝としての実力を保持していたのはおもに西周時代である。

ちなみに戒名にみる「嵒」は「嵒 U+5D52  字音:ガン・ゲン 意読:いわお・いわ」で、同音同義の異体字「嵓」をもつ。「解字」では「会意 口印三つでゴロゴロした石+山」で、山中にころがる岩石をあらわす。
[参考:活版アラカルト【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

最後に「内田九一奥城」は本名(俗名)だけがしるされた簡素なものだが、仔細にみると台座と水盤に「◯ 内」ともみられる同一の紋様がみられる。前述の半円形の金文「内」とは異なり、軽やかさが無く重厚である。

『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)
「伊呂波寄名頭字儘 ── 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし」[釈読:この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし]

いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』を紹介した。こ のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。
同書「う」の項目に「内」はなかったが、『伊呂波引定紋大全』などの実用書によれば、10×10の格子目にあわせて、左右対称形の「内」は容易に描くことができる。これは「 内 の角字-かくじ」に丸を冠したもので、ほかにも類例がありそうな「家紋・紋様」であろう。

[関連:花筏 タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

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長崎にあまりにも内田九一の資料がすくないので、ついムキになって資料漁りをした。本稿はまだ松本良順(維新後は松本順)、吉雄圭斎に関しては保留したままになっている。
ここまでの間、岩永正人(本木昌造顕彰会前会長)、宮田和夫(日本二十六聖人記念館)、春田ゆかり、日吉洋人各氏の支援をいただいた。特にしるして謝意を表したい。[この項つづく]

【符号 ≢ もんじ】本木良永|長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって「ー」と制定|『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿

『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿 ── 本木良永
長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって、「ー」と制定した

【本木良永 もとぎよしなが 1735-1794】
江戸中期の蘭学者。通称栄之進、のち仁太夫-にだゆう、あざなは士清、蘭皐-らんこう-と号した。長崎の医師:西 松仙-にし しょうせん-の次子として生まれる。伯父本木良固-りょうこ-の嗣子-しし-となり、本木家第三代の通詞となる。オランダ商館長の江戸参府にも随行した。

わが国にはじめて「地動説」を『天地二球用法』(1662年刊のオランダのブラウ Willem J. Blaeu(1571-1638)の著書の抄訳本)から訳出して1774年(安永3)に紹介した。
さらに1791年(寛政3)、長崎奉行の命を受けて、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』7巻325章附録1巻(イギリスのアダムスGeorge Adams(?-1773)の1769年刊のものの蘭訳本が原著とされる)を1793年に訳了、幕府天文方に献上した。
これらの書物は公刊されなかったが、当時長崎に留学してきた蘭学者らによって広まり、とくに司馬江漢-しばこうかん-の『刻白爾-コッペル-天文図解』(1808年刊)などは有名である。ニュートン力学を紹介した志筑忠雄-しづき ただお-は彼の弟子である。
[参考:『日本大百科全書』小学館、『日本人名大辞典』(講談社)]

本木良永肖像 肩衣と羽織に本木家歴代の正紋「本」を図形化したものがみられる
『医家先哲肖像集』(藤浪剛一、刀江書院、1936年)国会図書館デジタルコレクションゟ
長崎大光寺にある本木家塋域:本木良永墓標 燭台に家紋「本」をみることができる
『太陽究理了解説 和解草稿』第二巻冒頭  凡例に相当するページ
(「本木家文書」長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 稿者立ち会い)

算数文字別形
1  一  2   二    3  三   4   四  5  五   6  六  7   七   8   八   9  九  0  十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。
濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。
その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。
また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、
長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。
かつカタ仮名の[以下数文字判読不能)新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。
そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字[当て字]をあわせてしるすなり。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回紹介したようなおどろくべき事実がしるされている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。
またここではあくまで印刷術研究の一環としてふれたものであり、記号論・音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。だからこそ『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

[関連:花筏 タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』
[参考:国立天文台 暦計算室 貴重資料展示室 江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

【ことのは】国立公文書館|あの日の公文書|暦年-1月1日ゟ12月31日迄と会計年度-4月1日ゟ3月31日迄のはじまり

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

会計年度はなぜ四月はじまりなのか

4月は新しい年度を迎え心弾む時期。このように私たちの生活に密接な「年度」は、明治時代の会計年度が元になりました。当初から4月はじまりだったわけでなく、明治政府により会計年度がはじめて制度化された明治2年(1869)は、10月はじまり。続いて西暦を採用した明治6年からは1月はじまりになりました。つまり、暦年と年度のはじまりが同じ時代があったのです。
明治8年からは、地租の納期にあわせるという目的で、7月はじまりになりました。

次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884)。その頃の日本は国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施。この施策は珍しくなく、当時はよくおこなわれていました。
そして予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は一策を講じました。明治19年度の会計年度のスタートを7月はじまりから4月はじまりに法改正したのです。この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。

こうして会計年度は4月はじまりになりましたが、この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になっていきました。その後、現在まで4月はじまりの年度は続いています。

「会計法制定弁会計検査院職制章程更定ノ件」。会計年度を7月から翌年6月とする旨が記され、はじめて会計年度が法制化された。
公文類聚-こうぶんるいしゅう-に収録された「会計年度ヲ改定ス」。明治19年から会計年度を4月はじまりに変更するなどの改定内容と、改定により予算繰り上げの問題が解決する旨が記されている。

【 詳細: 国立公文書館 】 { 活版アラカルト まとめ }

【かきしるす】国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

新元号〝 平  成 〟を発表する小渕恵三官房長官(当時)

【 平 成 】
昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇の崩御に伴って、政府は新元号を「平成」と制定。

1月8日午前0時から平成元年がはじまった。
政府によって発表された首相談話では、「平成」の出典として、『史記』五帝本紀の「内平外成ー内平かに外成る」、『書経-偽古文尚書』大禹謨の「地平天成-地平かに天成る」が示され、「『平成』には国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められている」とされた。

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

左)元総理府辞令専門官:河東純一氏  右)元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏

平成への改元に際しては、ときの小渕官房長官が、額入りの書「平成」をかかげて国民に新元号を披露しました。
披露にあたって額入りとするアイデアは、元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏とされます。
この「平成」の揮毫者と、国立公文書館 館名の書藝者は同一人物で、元総理府辞令専門官:河東純一氏(1946-)によりました。
[参考:人事院総裁賞 第18回(平成17年)「人事院総裁賞」個人部門受賞者]加藤純一氏

昭和から平成の改元とはことなり、今回は生前退位によりますから、すでに新元号発表の準備はなされているはずです。それでもこうした裏方ともいえるひとの貢献が公開されるのには時間が必要なようです。

【かきしるす】 ぢゃむ 杉本昭生さん|エスプリに富んだ「次の本ができるまで」京風いろは ── 二句切、四句切短歌の連続でテンポよく都ぶりをくさす田舎者

次の本が出来るまで その122
京風いろは

※ ボロクソに言われてます[杉本昭生]。

次の本が出来るまで その121
俳諧の妙

服部元好という医者の家が火事で全焼した時、誰かが 

「お医者さん家の黒焼何になる」

と茶化すと、元好は澄まして

「大工左官の腹薬なり」

と応えたという。

※ 落語のルーツがこのあたりに[杉本昭生]。


【 詳細  ぢゃむ 杉本昭生 活版小本 】 { 活版アラカルト 活版小本 既出まとめ 

【かきしるす】宮川雅一著『高島秋帆』長崎文献社|東京板橋区の「高島平」は長崎町年寄・砲術師:高島秋帆にちなむ

シリーズ 長崎偉人伝
高島秋帆     
宮川雅一著
定 価 1600円+税
体 裁 四六判 並製
ISBN978-4-88851-282-4 C0023
長崎文献社

東京「高島平」に名をのこす。
砲術師の生涯をひもとく。
門弟たちの業績が「明治産業革命遺産」に輝く。
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著 者 宮 川 雅 一 氏 紹 介

宮川先生2018年11月24日「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「祝賀会」にて
ご祝辞をいただき、乾杯の音頭をとっていただきました

宮川雅一〔みやがわ まさかず〕 続きを読む

【ことのは】クリスマスローズ Christmas rose|花ことのは-わたしの不安を救い給え

【クリスマスローズ Christmas rose】  [学]Helleborus niger L.

吾が「空中庭園」ではクリスマスローズが花をつけた。例年着花状況がおもわしくなかったが、鉢植えにかえ、施肥を十分に施したら、スミレに続いて寒風のなかで元気に花をつけた。
実際には花弁はうつむき加減で咲いているが、撮影者のノー学部が強引に上向きにしたらしい。キンポウゲ科の常緑多年草。ヨーロッパの原産で明治のはじめに渡来した。根茎は太く短い。葉は根生し、15-30センチメートル、掌状複葉で革質、暗緑色。小葉は7-9片で先端部に鋸歯がある。花茎はよく分岐して1-3花をつける。花の大きさは径5-6センチメートルであるが、花弁は小さく、筒状で、雄しべより短く目だたない。萼-がく-の5片が大きく花弁状をなして美しく、咲き始めは白色で、のちに紫色を帯びる。

根にはサポニンが含まれていて強心剤、利尿剤として用いられる。
変種も多いが、オリエンタリス H. orientalis Lam. は西南アジアの原産で、花茎が分岐して3-6花をつける。緑色または黄緑色で縁辺は紫色。花期は4、5月で、栽培されるものの多くは本種の系統が主体になる。寒さに強く、排水のよい半日陰地を好む。繁殖は11月ころの株分けが普通で、実生-みしょう-もできる。

<民間伝承>
クリスマスローズはその黒い根に魔力があると信じられ、古代ギリシア時代には狂気をなおす霊薬の一つに数えられていた。また、頭を良くする薬として当時の劇作家や哲学者が服用したともいわれ、イギリスではこの根を取るための魔術的な方法が定められていた。それは、花のまわりに剣で円を描き、呪文を唱えて引くというものである。
また、引き抜いている姿をワシに見られると、採取者は死ぬともいわれた。《セルボーンの博物誌》には、イギリスの婦人が子どもの虫下しにこの葉の粉末を飲ませるとある。

俗説によれば、アダムとイブが楽園を追われたとき、きたるべき罪の浄化の象徴として持ち出したのが、この花であったとされ、以来、この花を〈楽園の思い出〉の象徴とする美意識も生まれ、コールリジや H.G.ウェルズ らがそれを文学化した。花のことのは〈私の不安を救いたまえ〉。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)]

【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
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中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

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【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

『欧文組版入門』の原著者:ジェームス・クレイグ氏 1989年

『欧文組版入門』本体4369円 A4変形判 208p 在庫極僅少 最終案内

計測単位 Measuring Type

デザイナーなら必ず知っておきたい文字の計測単位に、ポイント (points)、パイカ (picas)、ユニット (units) の 3 つがある。
デザイナーにとってのこれらの計測単位は、いわば建築家のフィ
ートやインチにあたるものであり、これらの計測単位によってデザイナーは印刷物の紙面を整える。


ポイント ── は文字サイズを表す単位であり、パイカ ── は行の長さを表す単位として使われる。
12 ポイントは 1 パイカ、そして 6 パイカ(または 72 ポイント)は 1 インチに相当する。


インチをフィートに換算できるように、ポイン卜もパイカに換算できる。ただし文字サイズを指定する時には、パイカではなく常にポイントを使う。

ユニットはアルファベット各文字の幅や、字間のアキ、語間のアキを表す単位として使われる。

注:本書ではインチ、ポイント、パイカ、ユニットという単位を使っている。しかし、イギリスやヨーロッパでは、文字組版の基準になる計測単位にメートル法を採用しようという活発な動きがあるので、読者はこのことを知っておいたほうがよい。

[『欧文組版入門』20ページゟ]
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もう30年余ほど前のこととなる。
『欧文組版入門』(ジェームス・クレイグ著、朗文堂、1989年12月5日)の原著は『 Basic Typography A Design Manual 』(James Craig,  Watson – Guptill Publication, New York,  1978)であった。
原著の刊行年、1978年(昭和53)とは、アメリカでもまだ DTP システムの夜明け前であったが、いわゆる「電算写植」システムが普及して、次世代の大変革を予感させる微妙な年であった。したがって同書の巻頭扉ページの著者の献辞には以下のようにあった。

「あいまいな知識だけで欧文写植を使っているデザイナー諸氏に本書を捧げる」

当時 J・クレイグ 氏とはしばしば続編のはなしがあり、ジョークとしてその献辞は、

「あいまいな知識でパソコン組版をおこなっているデザイナー諸氏に本書を捧げる」

にしようと同氏は嗤っていた。

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【恥ずかしながら かきしるす】吾がふるさとは信州信濃の国|豪雪でなる飯山なり|されど故郷忘じがたく候

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている

「手前自慢」と「郷里-いなか-自慢」はとかく格好がわるいとされる。
ところがやつがれ、いつの間にか郷里:信州信濃の国、飯山市の応援団団員になり、「菜の花大使」なる証明書まで支給される惨状とあいなった。読者諸賢にはしばしのご寛恕を願う次第である。
上掲写真は飯山が町制から市制による飯山市になった昭和30年の古写真である。やつがれ時に10歳、この写真でみえる山・川・野面の一帯で悪さのかぎりをして育ち、15歳で郷里をはなれた。
オヤジ・オフクロ・アニキと順次黄泉のひととなったいまでは、帰省はおろか冠婚葬祭でも逃げまわっているのが実情である。

さりながら四月下旬、遅い雪解けのころ、千曲川の河川敷と対岸の田畑では一斉に菜の花が開花し、櫻も桃も杏も何もかもが一斉に開花するのはまさに桃源郷としかいいようがない。
疎林にわけいると濃い紫のカタクリの花が可憐に咲いている。
雪国ならではの歓びと、辛さが同居しているのが吾がふるさと ─── 飯山 ─── である。

たまたま国立公文書館で「諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図」を入手した。15年ほど前に「諸国城郭絵図」の特別展があり、その折りにはモノクロながら原寸のコピーを購入した。現在はデジタルアーカイブでダウンロードもできるようになっていた。あえてご紹介するゆえんなり。
[参考:『飯山町誌』(飯山市公民館、昭和30年11月3日)、飯山市公式 WebSite ]
飯山市は長野県の最北西部にあり、千曲川沖積地に広がる飯山盆地を中心に、西に関田山脈・東に三国山脈が走る南北に長い地形をもっており、南西部には斑尾高原、北西部には鍋倉山、東部には北竜湖などがあり、多くの自然資源に恵まれた地となっている。
近傍都市への距離は、長野市へ36キロメートル、中野市へ15キロメートル、新潟県妙高市へは25キロメートルである。
主要交通網としては、北陸新幹線飯山駅があり、関越・上信越高速自動車道の「豊田・飯山インター」がある。また国道117号・292号・403号が市内を走り、長野市から新潟県十日町方面へ JR 飯山線が走っている。

飯山市の歴史

飯山は、古くから山国信州と日本海を結ぶ交通の要所として栄え、塩、魚などの海産物の集散地、また大和朝廷時代の越後・出羽開拓における重要な駅路としての役割を担ってきた。
戦国時代においては、上杉謙信の川中島出陣の際の前線基地として、戦略的にも重要な地となり、永禄7年(1564年)には千曲川左岸に飯山城が築かれた。飯山の都市形成は、この飯山城を中心になされ、江戸時代には幾度かの城主の変転を重ねる中で、しだいに城下町としての機能を整えてきた。

江戸時代の初期から中期にかけては、千曲川を利用した舟運と、越後に通じる街道を使った物流機能が発達し、また新田開拓とかんがい用水の整備が積極的になされ、農業の基盤が確立された。

明治維新後は、明治4年の廃藩置県によって飯山県となり、さらに長野県に編入され、町制は明治22年に施行された。
戦後の昭和29年8月の町村合併促進法の施行により、飯山町を中心に秋津村・柳原村・外様村・常盤村・瑞穂村・木島村の1町6村が合併して飯山市が誕生した。飯山市はその後、昭和31年に太田村・岡山村を編入し、現在の姿にいたっている。

明治26年、飯山を経由しない信越本線の開通により、徐々にその物流拠点としての機能を失い、その後は農業を中心として、飯山仏壇、内山紙などの伝統工芸をはじめとする地場産業により発展。しかしながら昭和30年代後半からの高度経済成長期において、産業が立地する条件をもたなかったこと、さらに豪雪地帯であるというハンディもあって経済成長が停滞し、若年層を中心とした人口の流出を生じた。現在の飯山市の人口は過疎化がすすんでおよそ二万人まで減少している。

飯山市の気象

飯山市の特徴として、四季の変化とその折々の景観の豊かさがあげられている。飯山の気候は、春から秋にかけては内陸盆地型気候となっているが、冬季は日本海からの季節風が、南西の斑尾山から北西の鍋倉山にかけて連なる関田山脈の影響によって上昇気流を生じるため、日本でも有数の豪雪地帯となっている。最深積雪平均は平地で176センチ、山間部では350センチを上回り、一年のうち12月下旬から3月下旬まで、およそ3分の1の期間が雪におおわれている。

諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図(国立公文書館蔵 請求記号:169-0335)

【飯山藩-いいやまはん】

信濃国飯山(現長野県飯山市)を藩庁とした藩。関ヶ原の戦後、飯山城には関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多の諸氏が交替して藩政を行なった。
関一政は慶長六年(一六〇一)二月より同八年二月まで高井郡・水内郡の両郡のうち四万石を領し、ついで松平忠輝(譜代・城持)が信濃国川中島を領するや、彼の傅役を勤めた皆川広照が飯山城代となって四万石を支配したが、同十四年二月松代城代花井吉成の悪政を非難したために領知を没収された。その後堀直寄が同十五年閏二月入部して四万石を知行し、千曲川の氾濫をおさめ、置目を定めて広大な新田の開発を行なった。

越後高田城主となった松平忠輝が大坂の陣の失態で改易となり元和二年(一六一六)七月移封され、飯山城には佐久間安政が入部して三万石を領し、佐久間安長についで佐久間安次にいたったが、同家には嗣子がなく寛永十五年(一六三八)除封された。

寛永十六年(一六三九)三月松平忠倶(譜代・城持)が遠江掛川より入部し、四万石を知行、孫の松平忠喬が旧領掛川に移封されるまで治世六十八年間におよんだ。慶安より延宝年間(一六四八-八一)にかけ、領内総検地、千曲川の治水、野田喜左衛門を起用しての新田開発など民政に尽くし、大坂城加番たることも四度におよび、また慧端禅師(正受老人)に深く帰依して城下西郊に「正受庵」を与えた。
宝永三年(一七〇六)正月永井直敬(外様・城持)が三万三千石を領して在城五年、青山幸侶(譜代・城持)は正徳元年(一七一一)二月より四万八千石を領したが七ヵ年の在城で転封された。

これについで越後糸魚川(一万石)より入部したのが本多助芳(譜代・城持)で、領知二万石と領高一万五千石を支配し、九代助寵-すけたか-まで百五十余年間にわたって藩政をおこない維新を迎えた。
元来本多氏はその祖広孝より譜代の家臣として勲功があったが、利長は故あって遠江横須賀城(五万石)を召し上げられた。のちに殊遇により飯山城主となった甥の助芳は家門の復興を祖先に謝し、旧臣を招致して治政にあたった。
しかし千曲川沿岸の所領は連年の水害を被り、増封の喜びもつかの間、水災との戦いに財政は窮乏し、やむなく領地替えの嘆願を重ね、享保九年(一七二四)その目的を達した。今まで高井郡と水内郡の二郡にまたがっていた所領は、水内郡の山手にまとめられ、領内は城下・外様・山ノ内・川辺の地区に分け、代官をして支配し、藩政に治績をあげた。

たまたま明治元年(一八六八)四月、旧幕府の古屋作左衛門らの浪人軍が越後の諸藩を説き、親藩の高田藩を説得しようとして500余人の軍勢で飯山城下に迫った〔浪人の役・飯山戦争〕。この際200名ほどの藩士からなる飯山藩の藩論は官軍に傾いたので、浪人は家中屋敷および町方に放火しして甚大な被害を与えて去った。
同四年七月廃藩置県により、一時飯山県が設けられたが、やがて同年北信濃の諸県とともに長野県に統合せられ、九年、南信濃の筑摩県と合併して現在の長野県となった。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文書館ゟ抜粋]

【関連:花筏 朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候 

【ことのは】版画同人誌『月映』|恩地孝四郎 ── 田中恭吉わかくして逝き そののこすところの作、あまた。

『田中恭吉作品集』
(著者:田中恭吉、編者:三木哲夫、1997年、玲風書房)

  上版のことば
一人あり。ここにいのちをこめてつくしたるこの世のわざ、あはれ
漸くその扉を開きしのみにしてその身を失ひたり。 田中恭吉わか
くして逝きそののこすところの作、あまた。 そのいける時心願就
らざりしかば、なげきいくばくぞや。さはれ、そののこせるもの、
未だ彼のすべてを張らざりといへ既にそののちの姿を潜ましむ。捨
つるに惜し。そをとりあつめて世に遺さむ願、ただに己の私情にあ
らず。彼、世をあいしいのちをあいし、我、世を愛しいのちを愛す
れば、ここに版に上して、心を齊しうする人々のまへに置き、彼を
愛する人とともに、彼世にありしを記銘せむ希ひなり。
一九一六年二月                 恩地孝四郎

【『月映』の三人の同人と田中恭吉を巡って】

◯ 恩地孝四郎(おんち-こうしろう 1891-1955)
大正-昭和時代の版画家、装本家。明治24年7月2日うまれ。東京出身。東京美術学校(現東京藝術大学)中退。抽象木版画の先駆者。竹久夢二と親交をむすび、大正3年同人誌『月映』を創刊する。
愛書家・活字狂を自認していた志茂太郎の委嘱により、愛書誌『書窓』シリーズの著作とデザインにあたった。日本創作版画協会、日本版画協会の創立に参加。萩原朔太郎の『月に吠える』や『北原白秋全集』などの装幀も手がけた。昭和30年6月3日死去。63歳。著作に『本の美術』、『工房雑記』など。

◯ 藤森 静雄(ふじもり-しずお 1891-1943)
大正-昭和時代前期の版画家。明治24年8月1日生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と詩と版画の同人誌『月映』を刊行。大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。『新東京百景』(恩地孝四郎らとの共同制作)や『大東京十二景』が代表作。昭和18年5月28日死去。53歳。福岡県出身。

◯ 田中 恭吉(たなか-きょうきち 1892-1915)
大正時代の版画家。明治25年4月9日うまれ。白馬会洋画研究所をへて、明治44年東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。その後恩地孝四郎との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森静雄も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯『月映』〔いわゆる私家版『月映』-つくはえ-* 01 〕を刊行した。
しかし恭吉は大正2年(1913年)頃から肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
その作品はエドヴァルド・ムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。帰郷後は躰に負担のかかる版画ではなく、詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年(1914年)9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
遺作が萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵として紹介された。装幀は友人の恩地孝四郎。和歌山県出身。号は未知草。
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『田中恭吉作品集』には「田中恭吉小伝 ── 大槻憲二」(p.79 – 90)が収録されているが、その最終部には以下のようにある。

〔前略〕最後にあたって彼の遺友たる我々十数名の者の彼に対する友愛と、さゝやかな努力の集積とが、変して彼の遺作展覧会となりたる事を、自分は附記しておかねばならぬ。
それは一九一五年(大正四年)十二月三、四、五日の三日間、日比谷美術館で催された。
それは可成りの成功を収めたようであった。一堂の下に集められた彼の生涯の作品は、実によくまとまった立派なものであった。
また恩地の努力と好意とによって、今や彼の遺作集は出版される事になり、自分はその内に収めるために、彼の小伝の筆をとる事になった。

[追 記]
併しその出版は成功しなかったようで、私の書いた「伝記」も空しく筐底に埋もれることとになって今日に至った。

この大槻憲二による「田中恭吉小伝」がおよそ八十余年ののちに筐底を脱するのには、当時和歌山県立近代美術館・学芸課長/三木哲夫氏(のち国立国際美術館学芸課長、現兵庫陶芸美術館館長)の常にあらざる努力によった。
『田中恭吉作品集』「あとがき」(p.134 – 5)からみてみたい。

あとがき

田中恭吉は、大正四年十月二十三日、自らの生命を燃焼させ、生と死とのすさまじい緊張を表現した作品を残して、二十三歳の短い人生を閉じた。
数日を経て、和歌山から東京の友人たちに訃報が伝えられると、その死を追悼するに当たって、藤森静雄は遺作展の開催を、恩地孝四郎は遺作集の出版を主張したという。

この二つの計画は、直ちに実行に移され、遺作展は十二月三日-五日の三日間、日比谷美術館で開催されたが、遺作集の方は、恩地の懸命の努力にもかかわらず、大正五年二月、資金難のために出版を断念するに至った。
恩地はこのことを生涯負目として持ち続けていたようで、私が恩地家に保管されていた恭吉の作品を一括して和歌山県立近代美術館に譲っていただくために、昭和五十四年頃から恩地孝四郎の長女三保子さんをお訪ねするようになった時にも、

「父は恭吉さんの遺作集を出版できなかったことを生涯悔やんでいました」
としばしば聞かされた。

またその後、昭和五十九年に恭吉の作品・資料を一括して当館に寄贈することを内諾された折にも、三保子さんが当館に示された条件は、
「一、作品を大切に保管すること。二、展覧会を開催すること。三、きっちりとした画集を出版すること」
の三つであり、三保子さんご自身も父孝四郎の遺作集断念を相当気に掛けられていたようであった。(なお、この寄贈の話は、同年十二月に三保子さんが急逝されたため一時中断したが、六十二年六月に恩地孝四郎の長男邦郎氏から、恭吉の友人であった香山小鳥の作品・資料とともに一括して当館に寄贈された。)

この三保子さんと当館が結んだ公約の三番目、画集出版は経費面からなかなか難しいと思っていたが、幸いにも玲風書房の生井澤幸吉氏からお話をいただき、ここに実現の運びとなった〔後略〕。

【奇遇でした。三木哲夫氏とはほぼ同世代。
       1980年代の初頭、ほぼ同じころに荻窪の恩地邸を訪ねていたようです】
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【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
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長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【かきしるす】顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿-さいてつぶんこう』をめぐって

東京国立博物館で開催されている「顔 真卿展」は中国でも関心が高い  Photo : DOL
DIAMOND online  2019年02月04日

「 DIAMOND online  2019年02月04日 」に王 青(おう せい 日中福祉プランニング代表)女史が<顔真卿-王羲之を越えた名筆>展に関して、五ページにわたって興味深い報告をしてる。

それによると、台湾故宮博物院所蔵、顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿』が東京で展示されることが広報された直後から、書藝の至宝ともいえる『祭姪文稿』が中国ではなく、日本での公開となったことに対して、中国の SNS メディアを中心に、愕き、嘆き、悲しみ、怒りの情報が溢れ、いわゆる炎上状態になったそうである。

ところが、たまたま中国の旧暦の正月「春節休暇」と重なったため、多くの中国人が展観に駆けつけ、東京国立博物館での展示・広報記録の丁寧さをみて、さっそく好意的な報告をしたためたため、炎上は鎮火し、逆に東京展への人気が高まっているという。
【 詳細:  DIAMOND online  2019年02月04日 】

中国陝西省西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像

西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵 ゲンジョウ-サンゾウ ゆかりの慈恩寺大雁塔 ジオンジ-ダイガントウ にいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民 在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。

唐の太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山-キュウソウザン-にある「昭陵」

近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。
管理人が十人ほど番小屋のような建物の前でゲームに耽っていた。この山稜のいずこかに太宗・李世民は偏愛した王羲之の書とともにねむっているという。このあたりに墓碑があったとされるが、現在はアメリカにあると聞いた。
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【顔 真卿  がん しんけい  709-785】

中国、唐代中期の政治家、書家。顔氏一族は「琅邪臨沂-ろうやりんぎ 山東省」の人であるが、父:顔 惟貞-いてい-の任地であった陝西長安に生まれた。あざなは清臣。北斉の学者:顔之推-がんしすい-五世の従孫にあたり、代々学者、能書家を輩出した名家の出である。
幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧みであった。734-開元22年、26歳で進士に合格し、のち刑部尚書、吏部尚書、礼儀使などの高位に上った。

唐の中期、玄宗皇帝の755-天宝14年、安禄山-あんろくさん-と、史思明-ししめい-による反乱、いわゆる「安史の乱」に際しては、平原太守として義兵をあげ、唐朝のために気を吐いた。わが国では「安禄山の乱」として知られるが、楊貴妃に溺れて治世を怠りがちだった玄宗皇帝の晩年に、節度使の安禄山と史思明らが起こした反乱をいう。763年、粛宗の代に鎮圧。以後、唐の中央集権型封建体制はおおきく弱体化した。

その後の顔真卿は魯郡開国公を封ぜられ、太子太師-たいしたいし-を授けられたが、生来剛直な性格の彼は人と相いれることすくなく、とかく敬遠されがちで官界を転々とした。
やがて李希烈-りきれつ-謀反のとき、死を覚悟して諭しに出向いたが逆に捕らえられ、拘留三年ののち蔡州(河南省)竜興寺において弑された。

書は顔氏一族歴代の書法を継承し、石碑にのこる書は「一碑一面貌」とも評される。また楷・行・草の各体に多肉多骨の書風を創始した。肉太の線と胴中を張らせた構成、それにどっしりした量感は顔真卿の全人間性を表出したものであり、開元・天宝期の書藝様式を確立した中心人物であるといっても過言ではない。
すなわち初唐のころ盛行した優美な王羲之-おうぎし-風とはまったく異なる、強烈な書風を示している。おもな作品に多宝塔碑、祭姪文稿-さいてつぶんこう、麻姑仙壇記-まこせんだんき、争坐位稿-そうざいこう、顔氏家廟碑-がんしかびょうひ-などがあり、『顔魯公文集』などの著がある。

[ 関連: 花筏 新・文字百景*004 願真卿生誕1300年+王羲之 2012年07月10日 ]

bnr_ganshinkei_3_224_1先行チラシ_A4_表東京国立博物館
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
会  期  2019年1月16日[水]-2月24日[日]
会  場  東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間  9:30-17:00(入館は閉館の30分前まで)
      * 会期中の金曜・土曜は21:00まで開館
休 館 日  月曜日 * 2月11日[月・祝]は開館、翌12[火]は休館
観覧料金  一般1600円、大学生1200円、高校生900円、中学生以下無料
主  催  東京国立博物館、毎日新聞社、日本経済新聞社、NHK
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中国の歴史上、東晋時代(317-420)と唐時代(618-907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(おうぎし、303-361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂良(ぐせいなん、おうようじゅん、ちょすいりょう)ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。
そして顔真卿(がんしんけい、709-785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。

本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。

* 本展は「祭姪文稿」コーナーを中心に相当な混雑が広報されています。
* 混雑状況は Twitter @ganshinkei2019 にて確認できます。
   また下掲ページ、本館開催の関連展 王羲之書法の残影-唐時代への道程-もお勧めです。

【 詳細: 東京国立博物館 】 { 関連: 活版アラカルト

【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

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【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
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【ことのは】印刷業界用語|インキ|いつの間にか「インク」に押されているようですが|国立印刷局と本木昌造・平野富二関連調査の端緒

独立行政法人 国立印刷局お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展 お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
’18年12月18日-’19年3月3日 フライヤー裏面ゟ部分

お札や切手の印刷に使われるインキは、他とは一線を画した特殊なインキです。それは、偽造を防ぐため、門外不出の製法によって開発する特製品であり、また、色と印刷を知り尽くした職人が編み出す特別な色だからです。
印刷局は、創業後間もない明治5-1872年からインキ事業を開始し、日本で初めて洋式の印刷インキを製造しました。その後も、技術の進歩に合わせ、時代の要請に応えながら、インキの技術開発を続けてきました。
本展では、およそ150年にわたる歴史のうち、明治・大正期を中心に、当時編み出したインキや「色」にまつわる資料をご紹介します。激助の時代を乗り越え、連綿と絖く印刷局のインキ開発によって生み出された、伝統あるインキの美をぜひご覧ください。
独立行政法人 国立印刷局 お札と切手の博物館、通称国立印刷局の特別展フライヤーから一部を紹介した。この短い文章の中に「インキ」ということばが八回出てくる。
すなわち国立印刷局では、創立直後には「印肉」とも呼んだようであるが、いつのころからか「インキ」といい、いまもって「インク」とはいわないことがわかる。

当然それは民間にも影響を与えた。
印刷・出版業界、なかんずく印刷用インキの製造・販売業者は、社名の一部にインキを用いている業者が多く、「インク」というと露骨に嫌な顔をするか、丁重にいいなおしてくることが多かったが …… 。それでも近年は「インク」に馴れて、次第に「インキ」派は少数勢力になっているようである。業界用語とはいえ時代の趨勢とともにあり、そんなものかも知れないとおもうことがある。
以下『印刷辞典』からその推移をみたい。

◎『印刷辞典』の第一版『英和 印刷=書誌百科事典』(印刷雑誌社、昭和13年01月15日)
  ink  インキ。書冩、印刷等に用ふる着色料の總稱。
◎『印刷辞典』の第二版『印刷辞典』(昭和33年10月20日初版、昭和41年6月20日第6刷、大蔵省印刷局)
  インキ ink ; Farbe, Tinte 書写・印刷などに用いる着色料の総称。筆記用インキ・印刷インキ、製版に用いる腐食用インキ・転写インキなどがある。
◎『印刷辞典』の第三版『新版 印刷辞典』
(昭和49年9月10日、大蔵省印刷局)

  「インキ」の単独項目は見られない。インキ=アジテーター以下20項目の派生語を紹介。
◎『印刷辞典』の第四版 所有せず
◎『印刷辞典』の第五版『印刷辞典
第五版』(平成14年1月7日、財団法人 印刷朝暘会)
「インキの単独
項目は見られない。インキ=アジテーター以下33項目の派生語を紹介。「インキローラー冷却装置」に続き、はじめて「インクジェット記録・インクジェットプリンタ・インクジェット用紙」の三項目に「インク」が登場するが、単独項目の「インク」は見られない。お札と切手の博物館
平成30年度第2回特別展
お札の色・切手の色 ~ 偽造を防ぐ技と美 ~
開  催  日  平成30年12月18日[火]-平成31年3月3日[日]
開催時間   9:30-17:00
休  館  日  月曜日(祝日の場合は翌平日)、2月10日[日]
開催場所  お札と切手の博物館 2階展示室
入  場  料  無  料

【 詳細: お札と切手の博物館 】
『印刷辞典』は印刷局にあった矢野道也と、その膝下にあった川田久長の貢献によって初版が刊行され、こんにちまで書名・編輯団体名・発行所名を変えながらも継続刊行されている図書である。
矢野道也は大蔵官僚という立場をこえて、ひろく印刷業界人と交際し、印刷学会を創立した。川田久長は秀英舎・大日本印刷の社員であったが、印刷図書館の創立に貢献した。

小社周辺では、タイポグラフィ学会と足並みを揃えながら、幕末の先端地であった長崎から、たれが、どこへ、どのように、当時の最先端技術・産業であった「活字版印刷術  ≒ タイポグラフィ」を江戸・東京にもたらしたのかの調査にあたっている。
その報告は「Viva la 活版  ばってん 長崎」『崎陽探訪・活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』09、2016年11月26日)、「メディア・ルネサンス」『江戸・東京活版さるく』(『タイポグラフィ学会誌』11、2018年11月15日)になされている。

これらの成果をもとに、明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕の地を長崎歴史文化博物館と国立公文書館所蔵「長崎諸役所絵図 引地町町使長屋-ひきじまちちょうじながや」の資料から特定することができた。
次いで「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭を2018年11月23-25日、かつて引地町町使長屋が存在した長崎県勤労福祉会館を主会場として、記念碑の除幕、記念祭をおこなうことができた。

この記念碑は<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>が浄財を募って建立にあたったが、同会ではその記録を仮称:『平野富二生誕の地碑建立の記録』として刊行するために日々努力を継続している。もちろん<「平野富二生誕の地」碑建立有志の会>は、あくまでも民間の任意団体であり、補助金や助成金などは一切受け取っていない。

そんな努力に対して、近年少しずつ国立印刷局の役職員が関心を寄せてくれるようになったことは嬉しいことである。
かつて国立印刷局のお札と切手の博物館では、【 平成26年【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館 】を開催しており、その際の図録には長崎 ── 本木昌造と平野富二のふたりの肖像写真を掲げ、長崎との強い結びつきがかたられていた。同展を含む特別展の記録は、同館の WebSite に PDF データーが公開されていたが、現在は「改修工事中」ということで閲覧いただけないのが残念である。
上掲リンク先に川田久長、矢野道也の両氏を通じて国立印刷局と長崎の先端技術の交流の記録の一端をみていただけたら幸いである。

「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)

敗戦からまもなく、東京での家屋を戦災で焼失し、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に撮影された。当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より:佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より:馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

「この一冊の書物から」『印刷情報』(片塩二朗 2000年07月 p.73 – )
すこしつらい記録ですが、わが国そのものが狂奔していた戦時下の貴重な記録です

【 資  料 】
矢野道也(1876-明治9年-1946-昭和21年)
日本の印刷工業に科学的研究を導入した工学者。東京帝国大学応用化学科卒業。大蔵省印刷局に入り1945年6月退官。この間、紙幣、銀行券などの有価証券類の製造と、官報その他の重要活版印刷物の作成を研究指導し1919-大正8年工学博士。

1928-昭和3年6月「日本印刷学会」の創立を提唱して初代会長に就任。印刷技術者の教育に熱意をもち、官職にありながら東京高等工芸学校(現千葉大学工学部が一部を継承)、東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京美術学校(現東京藝術大学)の各学校で、色彩学、印刷術などの講義をおこなった。印刷関連の著書が多い。

川田久長(1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日)
明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月    東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年      秀英舎(現大日本印刷)入社。 同社関連企業の活字製造所:製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月    印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日  著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。 

【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日

肥州長崎図 安永7(1779)年(国立公文書館)

中央部、扇状に円弧を描いて海中に突出しているのが出島。はじめポルトガルが使用し、のちオランダ人が居住した。その下部の長方形の海中の島が新地荷蔵 並 御米蔵。その下部の唐人屋敷とは橋でつながっていた。唐人屋敷では家屋が密集していたため火災が頻発し、開港後に多くの中国人が新地に移動した。
この周辺は埋め立てがすすみ、唐人屋敷はわずかに石垣と濠跡をみるばかりとなり、昔日の光景を偲ぶよすがは少ないが、長崎空港からのアクセスが便利で、観光客が集中する繁華街。

長崎諸役所絵図 唐人屋敷(国立公文書館)

【唐人屋敷-とうじんやしき】
江戸幕府が密貿易やキリスト教の伝播防止の目的で、長崎に来航する中国人を収容した施設。長崎町年寄に命じて、1689年(元禄2)長崎郊外の官有地十善寺村に竣工。工費は銀634貫余。竣工当時の敷地面積8015坪余(2万6449 ㎡ ほど)、居住の建物は2階造りの19棟、部屋数50。市中の中国人はこの唐人屋敷に集められ、そこで暮らしていた。

各棟を来航船の出航地別に区分して入居させ、階上は商人用、階下は船員用とした。家賃は年額銀160貫、借地料3貫970匁余で、ともに唐人側の負担。
1701年の記録によれば、館内常置の役人は乙名(おとな-諸事の総支配管理役)3名、組頭(乙名の助役)4名、唐人番19名、探-さぐり-番(探偵)4名で、ほかに医師が内科10名、外科3名、眼科2名、牢屋医師が8名置かれていた。
一般日本人で出入りできる者は遊女、禿-かむろ-のほかは指定された商人のみ。1689年の入居唐人数4888名。1738年(元文3)の遊女入館数は延べ1万6913名で、同年の来航唐船は5艘である。

1859(安政6)年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870(明治3)年に焼失。
その後、長崎に住む中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、現在の長崎新地中華街につながっている。
福建会館は唐人屋敷時代の孔子を祭る聖人堂の跡といわれ、福建省泉州出身者により創設された八会所がその起源。孫文は1913(大正2)年3月22日、華僑主催の歓迎午餐会で、福建会館に足を運んでいる。前庭には上海市より寄贈された孫文の銅像が建っている。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

長崎諸役所絵図 新地荷蔵 並 御米蔵(国立公文書館)

【長崎貿易・長﨑会所・長崎新地】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい、
(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代
(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代

(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代に区分される。

(1)南蛮貿易期
開港後まもなく、長崎は一時イエズス会領になったので(1580)、それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や、マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり、江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明、ついで清朝船だけでなく、東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し、さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

これに対し後発のオランダ、イギリスは、それぞれ1609年(慶長14)、13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが、直轄地長崎での糸割符制、キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は、しだいに平戸へも拡大された。

(2)鎖国貿易期
1633-41年の間に、日本人の出入国禁止、唐船貿易の長崎限定、対ポルトガル断交と、空屋になった出島へのオランダ商館移転がおこなわれ、長崎は唐、オランダ船に限る外国貿易の唯一の開港場となった。もっとも、鎖国期には取引額は少ないが対馬藩による釜山の倭館での朝鮮貿易、実質は薩摩藩経営の琉球国による福州琉球館での中国貿易、松前藩による蝦夷地貿易があり、江戸中期には朝鮮貿易、末期には薩摩藩の交易が長崎貿易に大きな影響を与えた。

唐、オランダ船が長崎に入港すると、奉行所役人や唐通事、オランダ通詞が乗船して海外の情報を聴取し、人別改めや唐人は踏絵をして、上陸や荷揚げとなる。
唐人ははじめ市内に分宿したが、元禄以降になると身柄は唐人屋敷、貨物は新地蔵に収容され、出島とともに日本側の厳重な管理下におかれた。

取引方法は、糸割符、相対-あいたい-貿易法、市法貿易法、糸割符復活、代物替-しろものがえ-併用などと変化し、海舶互市新例(正徳新例)で確立したが、要は主要輸出品である銀や金の流出抑制のための買手市場化、年間取引額(定高)の設定であり(定高貿易法)、元禄期からは長崎会所を通じて貿易利潤の幕府財源化と銅輸出、後期には海産物(俵物、諸色)の輸出強化が注目される。
しかし輸出銅の不足を理由に1742年(寛保2)、90年(寛政2)の〈半減令〉をはじめ、漸次取引を縮減し、和糸や砂糖などの競合国産品の台頭、海外の戦乱などにより衰退した。

(3)開港後
唐船貿易は引き続き長崎会所が管掌したが、長崎の独占は崩れ、武器・雑貨の輸入と茶・石炭の輸出を特徴として、イギリスを主体とする欧米諸国貿易が活発化した。しかし、関税は輸入2割、輸出5分が平均的で、開港前の総平均18.5割にははるかに及ばず、横浜・箱館などの取引に抑えられて、地位の低下は否めなかった。
[参考:『世界大百科辞典』平凡社]

【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

中国最大のお祭り、春節-シュンセツ-旧正月のお祝い
出島のエキゾチズム、異国趣味で賑わう長崎も

旧唐人町と、新地地区を中心に、いつもとは異なる風情をみせています

【 詳細: 長崎市公式観光サイト:あっと!ながさき 】
[ 関連: 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日 ]  初掲載:2018年11月29日

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【国立公文書館】企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」|一筆啓上仕候 …… 私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札|面倒なものです

私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札
一筆啓上仕候 ……

わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ
いっぴつけいじょうつかまつりそうろう ……..

上野国伊勢崎藩の前藩主酒井忠恒(寸升)は、元治元年(1864)に幕府へ湯治願を提出しました。本資料は、酒井寸升が幕府老中宛に差し出した湯治願が許可されたことに対する御礼の書状です。

{新宿餘談}
国立公文書館本館で、平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」が開催されている。展示資料のなかに上掲「私儀就病気湯治願之儀願之通御差図被下ニ付御礼一札-わたくしぎびょうきにつきとうじねがいのぎねがいのとおりおさしずくださるにつきおれいいっさつ」があった。
本資料は、伊勢崎藩[前橋藩の支藩。維新時には二万石]の前藩主:酒井忠恒(寸升)が、幕府閣老・老中に湯治願を提出し、255年ほど前の元治元年(1864)にその湯治願が許可されたことに対する御礼の書状と解説されていた。

本文は文語、いわゆる候文で、仮名の使用はみられない。文末に署名し、さらに花押(かおう-署名の下に書く判、書き判ともいう。草書で書いた名をさらに様式化したもの)があり、その上部にちいさく忠恒としるしてある。さらに老中の姓と官職名を列記する大仰さであった。

隠居した大名でも、江戸・任地を離れる際にはこんな願い書を出し、許可が出れば礼状をしたため、戻れば報告するのが決まりであったようである。
町人も旅に出るのにはしかるべき町方の許可を得て、旅手形が発行され、それがない者は各地に設けられた関所を通過できず、宿にも泊まれなかったとされる。
明治維新後、大名は藩知事などの変遷を経て華族となったが、民衆の移動の自由が保障されたのは明治憲法の発布を待ってからのことになる。温泉にいくのにも容易ではなかったことがわかる。

国立公文書館
平成30年度 第4回企画展「温泉 ~江戸の湯めぐり~」
会  期  平成31年1月26日[土]-3月9日[土]
開館日時  毎週月曜日-土曜日 午前9時15分-午後00分
      * 閲覧室の開室日時とは異なります。ご注意ください。
      * 日曜・祝日は休止
会  場  国立公文書館 本館
      千代田区北の丸公園3-2 1階展示場
入  場  料  無  料
────────────────
日本人が古くから親しんできた温泉。江戸時代には、名所図会、紀行文などを通して情報が広く流布し、多くの人々が温泉地に訪れました。本展示では、江戸時代の資料を中心に、人々と温泉の関わりをご紹介します。

【 詳細: 国立公文書館 】 {関連:活版アラカルト

【 伊勢崎藩-いせさきはん 】
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【かきしるす】平野富二 31歳のころの写真Ⅱ|三谷幸吉の記録ゟ+石川島平野造船所の集合写真との関係は如何に

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1876年(明治9)31歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

上掲写真を公開したところ、周辺でおもわぬ波紋が拡がっている。
① 横浜製鉄所の共同経営者で同郷の、杉山徳三郎はこの写真のどこにいる?
② 平野富二が手にしているのと類似する、帽子を被った巨躰の人物が「東京石川島造船所」関連の職員集合写真のなかでみたことがある。
あまりに豆粒のように小さく紹介されていて、平野富二とは断定できなかったが、この横浜製鉄所の写真との類似性からいって、平野富二とみてよいとおもわれるが?

① の疑問にこたえて
この写真は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』p.155に記載されているように、「横浜石川口製鉄所」時代のものです。拙著『平野富二伝 考察と補遺』図8-16に掲載し、解説を述べてありますが、「横浜石川口製鉄所」は明治13年1月に平野富二が単独で借用したものです。
杉山徳三郎は、明治10年の西南戦争の特需で利益を得てから横浜製鉄所の経営から手を引いて、明治12年に九州に戻り、明治13年から炭坑経営に身を転じています。したがってここには杉山徳三郎はおりません。[古谷昌二]

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古谷昌二氏のご指摘を受けて
本図は『東京日日新聞』(明治14年2月19日)に掲載されたもので、東京と横浜とが一体運営であることを示している。

大小蒸気船及び帆走船
大小蒸気船幷陸用蒸気機械製造
このほか諸機械汽罐お好みに応じ製造仕りべく候
   東京  石川島造船所
   横浜  石川口製鉄所

横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所
「横浜製鉄所」は横須賀海軍工廠の前身をなす官営造船所であった。江戸幕府が海防に備えて、フランスの全面的な援助を得て、江戸近辺に艦船建造修理工場の創設を計画したことからはじまる。
幕府は慶応元年(一八六五)八月横浜本村(横浜市中区吉浜町)に「横浜製鉄所」を建設し、佐賀藩から献上されたオランダ製蒸汽船用機械を活用し、さらに咸臨丸遣米使節が購入した工作機械を追加据え付けし、小型艦船の修理のほか西洋技術の伝習を兼ねる工場とした。

ひきつづき地中海のツーロン軍港をモデルにして地形の類似する横須賀湾に立地し、同年九月「横須賀製鉄所」の起工式を挙行、翌二年工場建設、三年第一ドック開削に着手した。
フランスの海軍技師ベルニ François L.Verny が首長に任命され工事を指揮監督し、江戸幕府崩壊後も滞在。明治新政府はこれを継承し明治四年(一八七一)二月ドックを完成、製鋼・錬鉄・鋳造・製罐各工場も落成した。

横須賀製鉄所は明治三年十月から工部省の管轄に入り、雇用フランス人の技術力と据付け輸入機械の高い水準を生かし、造船にとどまらず一般産業分野にも活用され、政府の殖産興業政策を実施する日本最大の総合工場となった。採鉱機械を製作し生野鉱山で使用したり、富岡製糸場の建築に技師を派遣して協力したりしたのはその一例である。

明治四年四月「横須賀造船所」と改称され、五年十月海軍省の強い意向で同省の管轄に移され軍艦建造を目的とし、八年末ベルニらを解雇して邦人のみで艦船の造修を主体的に行う体制に切り替えた。その結果、フランス人技師や労務者も十年中に全員帰国した。
この間九年六月最初の木製軍艦清輝(八九七トン)、十三年七月木製砲艦磐城(七八〇トン)、十四年八月日本最大の木製二本マスト艦迅鯨(一四六四トン)を竣工した。十六年イギリスから技師を招き甲鉄艦の建造を学び、以後木製艦船の建造を中止した。

横浜石川口製鉄所の写真
本図は『幕末・明治のおもしろ写真』に掲載されている写真の一部である。明治15年頃の撮影とみられる。
本図は神奈川県立横浜博物館編『横浜銅版画』に掲載されている横浜石川口製鉄所の絵図である。上掲図とは方位が逆で、やや変形して描かれているが、工場の細部にわたって描かれているのが興味ぶかい。表門の門柱に「石川口製鉄所」の表札が掲げられ、その傍らに人力車が待機している。構内では組み立て手動式レールを用いてボイラーを人力で移動させている。

このように横須賀造船所の整備に伴い、補助的な役割を果たすにすぎなくなった横浜製鉄所は不要となり、明治十二年末平野富二に貸し下げられた。
平野はみずから経営する東京石川島造船所の分工場とし「横浜石川口製鉄所」と改称した。これは横浜製鉄所の位置が石川町の入口にあたることから「石川口製鉄所」と命名し、石川の文字を石川島と共有させることを狙ったものとみられる。

同所では翌年一月から舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場と合併することを得策と考え、十七年末分工場を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。
[参考:『国史大辞典』(吉川弘文館)、『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二)]

② の疑問にこたえて
この写真は『石川島技報』の「石川島物語」に開催されている集合写真(部分)である。
写真の右手に洋服を着た役員・職員が並んでいるが、その前列中央のやや背の低い肥って丸顔のひとが平野富二、その右となり(画面)が稲木嘉助とされている。その背後に背の高い髭面のひとは技師長:アーチボルト・キングとみられる。
対する左手には職長や棒心らしき人々が法被-はっぴ-を着て立っており、中央には職工たちが四列に並んでいる。総勢七、八十人を数えることができる。
[引用:『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二 p.248)]

【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺うしろ山(風頭山-かざがしらやま)の大光寺と崇福寺墓地の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
どんな文、はたまた、どんな字がつづられ、どんな意味があるのでしょう?

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【かきしるす】平野富二 34歳のころの写真Ⅰ|三谷幸吉の記録ゟ

横浜石川口製鉄所職員 ── 前列中央が平野富二 1880年(明治13)34歳のころ
『本木昌造 平野富二 詳伝』ゟ
(発行兼編輯人:三谷幸吉、昭和8年4月20日、同書頒布刊行会 154ページ)

巨躯であったと記録される平野富二の数少ない写真資料のひとつ。写真撮影が苦手だったようで、どの写真も視線はカメラ目線ではありません。また洋装の社員と和装の社員が混在し、この時代の風潮をあらわしている。
横浜石川口製鉄所は明治13年01月から平野富二が経営にあたり、舶用機関や一般諸機械を製作したが、本社工場(東京石川島造船所)と合併することを得策と考え、17年末横浜石川口製鉄所を取り壊して石川島へ移築合併したため、横浜製鉄所 → 横浜石川口製鉄所は消滅した。

天地53×左右75ミリ、ちいさな写真凸版図像から補整紹介[日吉洋人]

【ことのは】ゆっくり、急げ!── FESTINA LENTE

朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の時候のご挨拶。今回のテーマは
「ゆっくり、急げ!」

[参考:朗文堂ブックコスミイク『普及版 欧文書体百花事典』
[参考:花筏 タイポグラフィ あのねのね*014 アルダス工房、ドベルニ & ペイニョ活字鋳造所、アーツ&クラフツ運動]
現存するアルダス工房跡

【ことのは】烏 兎 匆 匆 ── う と そうそう

烏 兎 匆 匆 ウト-ソウソウ
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏 兎 匆 匆

先達の資料に惹かれ、あれこれの図書を渉猟し、おちこちの旅を重ねた。しかし 吾ながらあきれるほど喰い囓っただけのテーマが多い。文字どおり、
「うかうか三十、キョロキョロ四十」はあっという間に過ぎ去り、いたずらに馬齢を重ねた。

歳月-サイゲツ・としつき-とは、中華の国では、烏  カラス が棲む 太陽 と、 兎 ウサギ がいる 月 とが、 あわただしく行きかうことから「烏 兎 匆 匆 ── うとそうそう」 という。
そろそろ残余のテーマを絞るときがきた。 つまり中締め(大締め?)のときである。後事を俊秀に託すべきときでもある。
おあとはよろしいようで …… なのか、 おあとはよろしく …… なのかは知らぬ。

【ことのは】水仙-スイセン-Narcissus 花のことのは egotism-自己中心

空中花壇に咲く「日本水仙」。背景の赤い花は四季咲きのゼラニウム
水仙-スイセン-Narcissus 花言葉 egotism-自己中心

アマリリス科スイセン属の球根植物の総称;黄または白色の花をつける。
[1548.<ラテン語<ギリシャ語 nárkissos(球根に麻酔作用があるため nárkē「麻痺-まひ」と結びついた植物名)→ NARCOTIC]
〔ギリシャ神話〕 ナルキッソス:美しくてうぬぼれの強い青年が、泉に映った自分の姿に恋をして、満たされない望みにやつれ果ててスイセンに化したという。
[参考:『ランダムハウス英和大辞典』小学館]

正月三が日の間に、突如茎が仔鹿の脚のようにスクッと伸びてきて、フラワーポットの中央を占拠して咲きつづけているのが水仙。たしかにワガママだし、自己中心ともいえそうで納得。

【ことのは】森鷗外|少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす

文京区立 森鷗外記念館|コレクション展
「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
1月19日-3月31日

文京区立 森鷗外記念館
コレクション展「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」
会  期  2019年1月19日[土]-3月31日[日]
      * 2月25日[月]、26日[火]、3月26日[火]は休館
開館時間  10時-18時(最終入館は17時30分まで)
会  場  文京区立森鷗外記念館 展示室 2
料  金  一般 300円
──────────────── 
東京で近衛師団軍医部長を務めていた森鷗外は、明治32(1899)年6月、小倉(現・福岡県北九州市)の第十二師団軍医部長として赴任を命ぜられます。
東京での鷗外は家族とともに暮らし、職務や文業に専念してきましたが、小倉では自ら家政をとる新たな生活が始まります。東京を離れて小倉にあることによって、軍医部等の動静や文学界を、距離を置いて眺めます。そのことが、自分と他者との関係を考える機会となりました。

一方、鷗外は土地の人々と交流し、勉強会を行い、外国語の学習をはじめ、史跡を巡るなど、新たな学びの機会を得ました。明治33(1900)年12月、親友・賀古鶴所に宛てた手紙には「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」と記されており、小倉での充実した日々がうかがえます。鷗外は、明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月を小倉に暮らしました。

本展では、鷗外の小倉での生活、職務、関心事を日記『小倉日記』『小倉日記附録』、友人や家族へ宛てた手紙などの資料から紹介します。また、作家・松本清張が鷗外の『小倉日記』から着想を得た小説『或る『小倉日記』伝』などを併せて展覧します。

【 詳細: 文京区立森鷗外記念館 】

【もん】三升紋-みますもん|歌舞伎界の宗家市川家の定紋|市川團十郎と成田屋一門

三升-みます-紋

市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門〔成田屋〕の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

その市川團十郎家の定紋は「三升-みます-紋」とされる。「三升紋」は大中小の三つの升形-ますがた-が、入れ籠-いれこ-になったもので、世間によく知られた図柄だが、その誕生のヒントは初代市川團十郎(1660-1704)が、不破伴左衛門の衣裳にある稲妻からとったとか、その役に添え柄としたとか、諸々の説がある。
しかし、その初代の父:堀越重蔵と親友だった侠客:唐犬十右衛門(初代の幼名海老蔵の名付親)から初舞台に贈られた三つの升にちなむという話をとりたい。役者と侠客、義理と人情、ありそうな事だ。
宗家以外の一門は、三升の中に頭字を入れる。市川左團次は「左」を、市川段四郎は「段」を。市川團蔵はどうすると聞かれ、これは困った。縦長-たてなが-三升か、丸に結柏-むすびがしわ-がその答。
[ 参考:成田屋 市川團十郎市川海老蔵公式 Web サイト  成田屋早わかりゟ補整

  

歌舞伎美人ニュース 2019年01月14日

2020年5月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表

2020年、5月、6月、7月の歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。
同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-かんげん-が八代目市川新之助として初舞台を行います。

「この度、私、十三代目市川團十郎白猿を襲名させていただく運びと相成りましてございます。歌舞伎界におきまして市川團十郎は大きな名跡でございます。このうえは己の命の限り、懸命に歌舞伎に生きてまいりたい所存でございます」。
歌舞伎座の緞帳が上がり、緋毛氈に勸玄とともに並んだ海老蔵は、しっかりと前を見据えて襲名への決意を語りました。

團十郎という名跡の大きさ
十二代目が平成25(2013)年2月3日に亡くなってから7年となる来年、再び團十郎の名跡が十三代目としてよみがえります。俳名として二代目團十郎から栢莚-はくえん-を名のり、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信をふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。
「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」。

團十郎という名跡について海老蔵は、
「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております。初代から父の十二代目まで、歌舞伎十八番、新歌舞伎十八番、荒事を中心にやっている家でございまして、いろいろなものを背負い、抱え、その時代に責任をもっていくことが必須になる。そのなかで自分が今できることを、少しずつやっていこうと思います」。
父を見てはいたけれど、
「なってみないとわからない、計り知れない重みがあるんだと思う」
と、その名前の大きさに自ら気を引き締めていました。〔中略〕

新團十郎とともに八代目新之助の初舞台
海老蔵が35歳で父を失った翌月に生まれた勸玄-かんげん-が、十三代目團十郎襲名と同時に、八代目新之助を名のって初舞台を踏みます。
この4月から小学生となる勸玄は、平成27(2015)年11月歌舞伎座『江戸花成田面影』で初お目見得以来、今月の新橋演舞場まですでに4度、本興行に出演、7歳での初舞台となります。團十郎襲名の公演で初舞台を踏むのは父と同じです。

「この度、父も名のっておりました市川新之助の名跡を、八代目として相続いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」。
はっきりと通る大きな声で挨拶した勸玄。
「襲名を決める以前から彼は(自分を)新之助と思っているところがあり、本当は海老蔵を継ぎたかったみたい」
との紹介にちょっと照れ笑い、子どもらしい可愛らしさがのぞきました。
『玉兎』『幡随長兵衛』がやってみたいと、すでに父の背中を追って歩み出しています。

海老蔵は、「歌舞伎の家に生まれたということでやっていますが、あとは、本人がどのような気持ちで歌舞伎というものに向き合っていくのか。これからさまざまなことがございまして、未熟な私がどの程度支えられるかわかりませんけれど、彼がどういうふうに逃げずに受け止めていくのか」。
堂々と挨拶する姿に目を細め、遊ぶより稽古が好きという頼もしい息子に、
「お稽古が好きというのは舞台が楽しいのかなと。舞台が好きなのは歌舞伎の家に生まれてよかったのではないかと感じます」。

十三代目市川團十郎白猿襲名披露の興行は、歌舞伎座、2020年5月、6月、7月のほか、11月博多座、2021年2月大阪松竹座、4月名古屋御園座、11月京都南座と続きます。
また、2021年3月と9月は全国各地での巡演も行われます。八代目新之助の初舞台は、歌舞伎座の3カ月興行のなかで行われる予定です。

「十三代目團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」記者会見の模様は、ニコニコ動画「歌舞伎チャンネル」で、ダイジェスト版をご覧いただけます。

【 詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人
[ 参考:成田屋 市川團十郎 市川海老蔵 公式 Web サイト

【もんじ】歌舞伎と勘亭流の書芸|歌舞伎座|壽 初春大歌舞伎|平成31年1月2日-26日

歌舞伎美人 ニュース 2019年01月03日

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」初日開幕

2019年1月2日[水]、歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」の初日が幕を開けました。
平成最後の正月、縁起物の三番叟で幕を開けた歌舞伎座。中村魁春の千歳、中村芝翫の三番叟が舞台に現れ、『舌出三番叟-しただし さんばそう』がはじまりました。

三番叟の大地を力強く踏みしめる音が響き渡り、千歳はゆったりと祝祭の舞を見せます。五穀豊穣を祈る厳かで儀礼的な踊りのなかにも、婚礼の支度の様子を面白く当て振りで踊ったり、松竹梅を描いた衣裳を見せたりして楽しませます。
「千穐万歳、万々歳の末までも、賑わう御代とぞ舞い納む」
と二人がきっちりきめると、歌舞伎座にすがすがしい空気が満ち満ちました。[後略]
────────────────

{ 新 宿 餘 談 }

いまなお脈々と生きつづける「勘亭流」の書芸

歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻頭番組表
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 表紙
歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」公演パンフレット 巻末刊記

2018年は松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎の高麗屋三代同時襲名披露で賑わった歌舞伎界であった。
また1月14日には、2020年5月、6月、7月、歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表された。同時に、海老蔵長男の堀越勸玄-ほりこし かんげん -が八代目市川新之助として初舞台を行うという。
歌舞伎美人ニュース 2019年1月14日

慶事がつづく歌舞伎界であるが、家人が1月2日、木挽町歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」を観劇した。実にけしからんというか、羨ましい限りである。やつがれは風邪が抜けきらず寝正月をきめこんでいたが、家人の報告によると、友人の松本金吾も昼の部「一條大蔵譚-いちじょう おおくら ものがたり」に 八剣勘解由役 で元気に舞台を務めていたそうである。

manekigaki_c20181011-300x225歌舞伎を象徴するのはやはり勘亭流の書である。歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」では何枚もの懸垂幕に力強く書かれた勘亭流の書をみることができた。岡崎屋勘六による「勘亭流」の創始から240年、この書風をみただけで歌舞伎であることがわかるからすごい。
それも WebSite やフライヤーでは味わえない魅力が、本物の劇場と舞台には横溢している。

さきに京都南座「當る亥歳 吉例顔見世興行」のまねき看板と口上の勘亭流の揮毫現場を紹介した。京都の書芸家は井上 優氏であった。
家人が「壽 初春大歌舞伎」の観劇パンフレットを購入してきてくれた。巻頭の番組表はすべて勘亭流の書を版下としている。東京での書芸家は山中福壽氏であった。
こうした書芸家を傘下においている座主の松竹もすごいものがある。復習のためにあらためて勘亭流を紹介した。

【勘亭流-かんていりゅう】
歌舞伎の看板、絵本番付(プログラム)などに用いる独特の書体。筆太で、隙間なく、内へ丸く曲げるように書く。寄席、相撲などで使う書体とは違う。内へ丸く曲げるのは、観客が入るという縁起をかついだものである。
安永八(1779)年、江戸堺町の書藝指南:岡崎屋勘六(1746-1805)が中村座のために創始したのがはじまり。勘六は号を勘亭といい、そこから勘亭流という書芸の流派がうまれた。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 】
[関連: NOTES ON TYPOGRAPHY ]

【かきしるす】平野富二|世の中を空吹く風に任せ置き 事を成す身は国と身のため|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|I H I Corporation


【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


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I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ 】
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株式会社 I H I の公開展示施設 i – muse の全面リニューアルに際して、拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗、朗文堂、2002年2月3日)74ページに紹介した「平野富二の歌」の出典確認の依頼が担当者からあった。

この二首の出典は、いずれも『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、昭和8年4月20日)である。
同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
  世の中を空吹く風に任せ置き
        事を成す身は國と身のため
172ページ

遺 族 挨 拶
平野〔富二〕先生二女津類〔つる〕女史は感激に滿ちて。
  吹きながす五色のはたも雲にさえ
        なき魂まつる人の眞心
256ページ

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i – muse の全面リニューアルが完成し、それからしばらくして同館の大型ディスプレーで「I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~」をみた。
拙著『富二奔る 近代日本を創ったひと・平野富二』では、僭越かつ無礼な紹介をしていたことを恥じいることになったが、平素は比較的地味な広報展開をしている I H I が、本編では高揚した動画となっていることがうれしかった。
そのお礼とお詫びの意味をふくめて、巨大化し多様化した株式会社 I H I をすこしでも理解できるように、同社公開動画「 I H I 会社案内映像  日本語版 」を紹介したい。

【 YouTube I H I 会社案内映像(日本語)  音が出ます  04:07 】

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】
[関連:【会員情報】I H I Corporation|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|YouTube 動画を共有紹介 

【もん】歌舞伎は伝統芸能|そこには様〻な もん がみられます|櫓-やぐら 梵天-ぼんてん

  ニュース   歌舞伎座で櫓揚げ 2013年06月06日
歌舞伎座で、櫓揚げ-やぐらあげ-がおこなわれました。

歌舞伎座櫓揚げ

歌舞伎座正面玄関で朝から本格的に始まった櫓揚げの作業は、昼過ぎには無事終了、2年10カ月ぶりに歌舞伎座に櫓が揚がりました。
江戸時代、幕府公認の証として芝居小屋の正面に揚げられていた櫓は、現代では、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座に欠くことのできないものの一つとなっています。

櫓は幅3.3m、高さ2.7m。5本の槍を横たえ、2本の梵天-ぼんてん-が組まれており、また、正面に歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸-ほうおうまる」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文を染め抜いた三方の幕で囲われています。

作業を行った鳶頭の石津弘之さんは、
「この作業は、これから〝新しく始まる〟という大変喜ばしいものです。非常に名誉なことで、うまく揚げることができてよかった」
と胸をなでおろし、はじめておこなった歌舞伎座の櫓揚げを順調に終えた満足感を表しました。

 

 ニュース  京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました 2018年09月25日

京都四條南座に櫓-やぐら-が上がりました。
かなり高い位置なので、道路をはさんで向かい側からご覧ください。

南座の正面には新調された「櫓」が上がり、その両側には白い御幣「梵天-ぼんてん」も立ちました。八百万-やおよろず-の神と見なした数である 800 枚の美濃紙を使い、2 週間かけてつくられた梵天は、神の依代-よりしろ-としての役目も担います。

大提灯が四条通のランドマークの一つとして帰ってきました!

そして、南座のシンボルともなっている赤い大提灯も新調され、劇場正面玄関の左右に掲げられました。手すきの越前和紙でつくられた大提灯がいつもの位置に収まると、光を放つような輝きを得て四条通によみがえりました。

{新宿餘談}

櫓 - やぐら 梵天 - ぼんてん

劇場用語。芝居や相撲の興行場に付属している高い構築物のこと。やぐらとはもともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉・矢座から出たものとおもわれる。城郭建築で敵に対して弓矢・礫などによる防戦や物見のために建造された高楼から転じて、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場において、正面出入口の上にのせた構造物をいう。
炬燵櫓のような形で、屋根はなく、大きさは江戸中期には九尺四方(歌舞伎)と、七尺四方(人形浄瑠璃)とほぼ定まっていた。

櫓には座元の紋を染め出した〈櫓幕〉が引きめぐらされており、江戸初期の形式には、上に梵天-ぼんてん(幣束-へいそく ≒ 御幣)をたて、毛槍を五本並べたものが多い。梵天をたてることは、櫓が元来神を勧請するために天へ向けて高く構築されたものであったことを示しているといえる。

櫓の中では〈櫓太鼓-やぐらたいこ〉を打って興行のあることを知らせた。そのことから〈太鼓櫓〉ともいった。江戸の歌舞伎の櫓太鼓は文化期(1804-18)以後ほとんど廃されたが、相撲興行では今日なおおこなわれている。

また、櫓は官許の興行権所有のしるしとして重要な意味をもっていた。そこで、興行権を与えることを〈櫓を許す〉、興行を開始することを〈櫓を上げる〉といい、興行権を〈櫓権〉、興行権の所有者の座元のことを〈櫓主〉と呼んだ。江戸の歌舞伎の興行権は、正徳四(1714)年以後、中村座・市村座・森田座の〈江戸三座〉の座元に限って与えられる世襲の特権であった。
この三座が興行不能に陥った場合には、代わって興行する〈控櫓〉の制度が設けられていた。享保一九(1734)年に森田座が借財のため休座するに至ったため、その休座中に限り河原崎座に興行代行の許可がおりたのがはじまりで、中村座には都座・玉川座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が控櫓と定まったのである。
この控櫓(〈仮櫓〉ともいう)に対して、江戸三座を〈本櫓〉(〈元櫓〉ともいう)と呼んだ。官許の常設劇場以外の宮地芝居を〈笹櫓〉と呼んだ。櫓の下に掲げた看板は〈櫓下看板〉といい、人形浄瑠璃でもここに一座を代表する芸人の名を記した〈櫓下看板〉を掲げた。
[参考資料:『新版 歌舞伎事典』(平凡社)]