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【ことのは】アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱-きあんこう

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで …… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の幹部社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いともかたられる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。
そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村-ひごのくににしそのぎぐんたかはまむら」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。[中略]従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。[中略]

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。[後略]

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、熊本県天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ活字箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。