《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。
平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。
そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。
ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。
旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会 昭和46年5月20日)
《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。
《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。
同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。
幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。
上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁 出門 治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。
これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。
宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7 貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
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絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。
この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。
下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。
【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 : collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。
技 法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。
欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。
歴 史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では 小川一真 が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。
便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。
効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。
小 川 一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。
『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。
《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》
『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>
東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎
野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925
安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]