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【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
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篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記