Viva la 活版 Let’s 豪農の館
開催期間 2015年10月10日[土]-12日[月・祝] 09:00-17:00
会 場 「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」(登録有形文化財)
新潟県新潟市江南区沢海 2丁目15-25
主 催 朗文堂 アダナ・プレス倶楽部(現:サラマ・プレス倶楽部)
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《 豪農の館-北方文化博物館と、同館館長・第八代 伊藤文吉翁 》
活版礼讃<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>の会場、北方文化博物館を訪問するのは四回目、宿泊地となった北方文化博物館の付属施設「Museum 大呂菴-だいろあん/かたつむりのいおり」に宿泊したのは二度目であった。
最初に北方文化博物館を訪問したのは、あの地震の年、2011年10月08-10日の三連休、二泊三日の新潟旅行のときであった。
ふりかえってみると、あの年はなにかがおかしかった。だから友人のたれかが、
「日本海に没する夕陽をみたい」
といいだし、それがきっかけとなってなんとなく新潟まででかけた。
その旅の記録は下記のページ、とりわけⅡに詳しい。
◯ 花筏 朗文堂好日録012 新潟旅行Ⅰ
◯ 花筏 朗文堂好日録013 新潟旅行Ⅱ
◯ 花筏 朗文堂好日録014 新潟旅行Ⅲ
最初の旅で北方文化博物館館長・伊藤家第八代・伊藤文吉(世襲名:本名 吉彦 1927-2016)翁とお会いした。今夜は「大呂菴-だいろあん」に宿泊予定であることをつげたら、文吉翁はだまって手をさしのべ、かたく掌を握りしめてきた。
おもえば北方文化博物館の訪問にあわせ、あのとき「Museum 大呂菴」に宿泊することがなければ、かくまでこの越後平野の 複合型博物館 にこだわることはなかったとおもう。
◯ 花筏 朗文堂好日録013 新潟旅行Ⅱ より <大呂菴での宿泊>
ここまでやるのか …… とおもった。すべてがおおぶりで隙だらけ、一見豪放かつ大胆、なんにもしていないようににみせながら、大呂菴はじつにこまやかなこころ配りがなされていた。それもわざとらしくなく、さりげなくである。
「大呂菴-だいろあん」は隣接する「北方博物館の関連施設」であるが、同館は全域にわたって落ち葉をふくめて入念に手入れが行きとどいている。しかし農薬を散布しないとみえて、周囲からチョウやトンボや蛙などが敷地内にわんさかおしよせていた。もちろん夕べともなると秋の蟲が艸叢ですだくように鳴いている。
食事は食器のひとつひとつがすごい。それもチマチマとした京懐石のまねごとではなく、ど~んと大胆な盛りつけと、繊細な味つけの料理が山をなしていた。あちこちに置かれた生花は、翌朝にはあたらしい野草にかわっていた。やつがれ真底、本当に、
「まいった、降参!」
< 写真展示と対談:細江英公 人間写真展 気骨 >
このときに得た情報をもとに、翌11月21日、日帰りで、北方文化博物館本館で開催された<細江英公 人間写真展 気骨>を参観し、同時開催された細江英公氏と文吉翁の対談を最前列に陣取って聴講した。
細江さんのアトリエは四谷舟町にあり、わが住吉町と隣接している。この住吉町・四谷愛住町・四谷三栄町・荒木町・舟町界隈は、街道をはずれてすこしでも路地に入ると、急峻な傾斜地が多く、また一部の作家・画家・カメラマンなどが「四谷は トウキョウ の モンマルトル !?」と称して住居やアトリエを好んで置いた。さきに紹介した「アンパンマンショップ」のやなせたかしさん、細江英公さんもそんなおひとりであった。
聞き手は伊藤文吉翁で洒脱な話題の連続に〝細江英公カメラの大家〟も軽妙に応じていた。話題はもっぱら「コンパクトなデジタルカメラは面白いよ」とその能力と可能性をわかりやすく語られていた。和室での聴講席は座布団で、ノー学部はその最前列から怖れもなく「写真界の最長老」に、こちらも〝おもちゃのような小型カメラ〟を向けていた。どうやらはじめは、隣組のオジサンくらいにおもったらしいが、北方文化博物館本館のあちこちに「置かれている」『気骨』と題された展示写真をすでに見ていたから、ノー学部にしては恐る恐るだったのかも知れない。
この日、常磐荘(吉ヶ原民家の向かい)では、伊藤夫人がちいさな席札をかかげて<お茶会>を開いていた。うかがえば 「綺麗さび」で知られる小堀流 だとのことであった。
会場にはこれもちいさく「すべての収益は東日本大震災の被災者に向けた席」であることがしるされていた。
2014年の暮れ、常磐荘を会場候補として<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>の開催交渉に、これも日帰りで北方文化博物館にでかけた。同館のスタッフは小社WebSiteをときおりご覧になっていた。したがって開催は快諾されたが、会場としては常磐荘よりも、むしろ向いにある「吉ヶ原民家」のほうが効果的ではないかという提案をいただいた。
これまでその民家の内部には入ったことが無かったが、百年余のときを刻んだ「吉ヶ原民家」の障子を開けはなった空間はすばらしかった。
こうして<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>は、エアコンが無く、蟲よけの網戸もない、なによりもことさらな照明設備もない「北方文化博物館 吉ヶ原民家」を会場ときめた。
このため清涼な気候の2015年10月10日[土]-12日[月・祝]の三日間を会期とし、一泊はできるだけ「大呂菴での宿泊を推薦」ということに決定した。
伊藤文吉翁は1927年うまれであるから、まもなく90歳になるはずであるが、<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>の開催中、会場の吉ヶ原民家までおいでいただき、うれしそうに活版印刷機とその製作品をご覧になっていた。
伊藤夫人からは、おいしいお酒の差し入れが「大呂菴」にあった。
《 場の力、ひとの力 》
活版礼讃イベントとして開始した、東京での<ABC dé タイポグラフィ >、<活版凸凹フェスタ>を一旦中断して、地方での活版印刷の普及を後押しし、その土地の『場の力』をバックにしながら、あらたな展開を<活版礼讃 Viva la 活版>では試みてきた。
おもへらく、『場の力』とはエトスのごとく自然ジネン自ばえのものも存するが、その根底にはアルテピアッツァ美唄における安田侃氏の力があり、尚古集成館における島津家歴代の蓄積があった。そして「北方文化博物館」館長で豪農とされる伊藤家も、阿賀野川の氾濫とたたかい、荒蕪地を田畑に開墾し続けた伊藤家八代にわたる『ひとの力』があった。
『場の力』とは『ひとの力』と両両相まってその本当の力を発揮するものとおぼえた。
2015年もあとわずかでおわるこのとき、伊藤文吉翁にきちんとお礼を述べて帰るのをわすれていたことがくやまれる。それよりなにより、会場ではサラマ・プレス倶楽部会員の何台かのカメラが稼働していたはずだが、たれも伊藤夫妻の写真を抑えていなかったことにおどろかされている。
『ひとの力』とは、その存在がおおきすぎるときには、ときとしてオーラのごとき風圧となって、カメラも向けられなかったのかもしれないともおもえた。
まもなく2016年がはじまる。そしてすでに「来年の」<活版礼讃 Viva la 活版>の開催候補地との交渉がはじまっている。
{ご報告 伊藤文吉翁のその後}
八代伊藤文吉となる伊藤吉彦は、1927年(昭和2年)に誕生した。
八代伊藤文吉は、多くの人びとに愛され、惜しまれつつ、2016(平成28)年10月に他界しました。 また、250年余りの歴史をもつ伊藤家の遺構、北方文化博物館は、郷土新潟をはじめ、日本、そして世界から訪れる人びとへ、この歴史と、育まれた文化をいまなお伝え続けています。