【イベント】出島長崎と異なる彩りにつつまれて-長崎燈會|100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2020長崎ランタンフェスティバル|’20年1月24日-2月9日

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100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2020長崎ランタンフェスティバル
開催期間  2020年1月24日[金]-2月9日[日]
      * 開催期間は旧暦の1月1日(春節)から1月15日(元宵節)までです。
会  場  長崎県長崎市新地中華街、観光通りアーケード、中央公園 ほか
電話番号  095-822-8888 (長崎市コールセンターあじさいコール)
時  間  〔点灯時間〕期間中17:00-22:00まで点灯
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中国の旧正月を祝う行事「春節祭」を起源とする、長崎の冬の一大風物詩「長崎ランタンフェスティバル」では、長崎新地中華街をはじめ、湊公園、中央公園、眼鏡橋周辺、浜市・観光通りアーケードなど、長崎市内の中心部に、約15,000個にも及ぶ極彩色のランタン(中国提灯)や、大型オブジェが幻想的に飾られ、街を華やかに彩ります。
期間中は毎日各会場で、龍踊り、中国雑技、二胡演奏など、中国色豊かなイベントが繰り広げられます。

【前夜祭】2020年1月24日[金] 点灯は18:00-22:00
  * 前夜祭では15:00から新地中華街会場、中央公園でぜんざいを配布します。
【後夜祭】2020年2月09日[日] 点灯は17:00-21:00
◉点灯時間:17:00-22:00(点灯式の日のみ18:00-22:00、金曜・土曜は23:00まで)
  * 新地中華街会場、浜んまち会場、中央公園会場については12:00-22:00まで点灯
  * 1月31日[金]、2月1日[土]、7日[金]、8日[土]は ~23:00まで点灯
       * 雨が降っても点灯しています。

[ 詳細: 長崎市公式観光サイト あっ!とながさき

【 YouTube 長崎ランタンフェスティバル 公式   2:00 】

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ28}|国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

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古谷12月ブログ

平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が
近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の
情報を記述しています。

本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる
充実した内容となっております。読者諸賢の訪問をお勧めいたします。

古谷昌二ブログ ── 国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

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(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
    博覧会の概要
    清水卯三郎の参加
    清水卯三郎の輸入した印刷機
(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
    博覧会の概要
    平野富二の出品
    活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
    政府事務官として渡航した吉雄永昌
(3)第一回内国勧業博覧会
    博覧会の概要
    平野富二による鉛版活字の出品
    印刷機の出品
    平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)

    府下縦覧工場として指定
まとめ

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国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)  古谷昌二まとめ ゟ ]

幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と、浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアにおいて、アメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小型手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

【News Release】千代田区|まちの記憶保存プレート|1872年 明治五年 活字を用いた近代印刷の起点|千代田区神田和泉町1和泉小学校地先 植栽帯内に設置

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千代田区「まちの記憶保存プレート」
設  置  者:東京都千代田区
設置場所:東京都千代田区神田和泉町1和泉小学校地先 区道植栽帯内
設置年月:2019年12月24日

◉ JR中央線・総武線「秋葉原」駅 昭和通り口より徒歩5分

まちの記憶
1872年
明治五年
活字を用いた近代印刷の起点
鋳造活字製造の事業化を果たした平野富二は、津藩主藤
堂和泉守屋敷の門長屋を再活用した活版製造・販売所を
開設し、これを機に全国的な規模で活版印刷が普及した。


[ 詳細: 平野富二の会
[ 参考:活版 à la carte【平野富二の会】日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地|東京都千代田区神田和泉町 1 資料|「江戸名所道外盡 外神田佐久間町 廣景画」安政六年(1858年)披露

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ27}|活版印刷機械の製造体制


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furuburo11平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が
近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の
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本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる
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古谷昌二ブログ ── 活版印刷機の製造体制

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(1)神田和泉町における活版印刷機製造
(2)築地二丁目に移転後の印刷機製造
    初期の活版器械製造工場
    活版器械専用工場の建設
    部品・素材の調達:当初は街の鋳物師に発注
    大形部品の製造:石川島造船所と横浜製鉄所に依頼
(3)築地にあった鉄工部の石川島移転
(4)印刷機械部の解散と離職者の独立支援
    離職従業員の独立支援
    当時の印刷機製造業者
(5)大阪活版製造所での印刷機製造
(6)月島分工場での印刷器械製造
ま と め
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[ 活版印刷機の製造体制  古谷昌二まとめ ゟ ]
平野富二にとって活版印刷機の製造・販売はあくまでも活字・活版の販売を促進するための手段だった。活版印刷をおこなう用具として見れば共通であるが、活字・活版の製造と活版印刷機の製造は異質のもので、その製造設備は全く異なるものである。

したがって、活版印刷機の製造をはじめた当初の神田和泉町時代は、細かい手細工を除いて、ほとんどを外部に依存していたが、築地二丁目に移転してからは金属加工機械を輸入して活版の製造と印刷に用いられる諸々の器械・器具の製造を兼ねて自社内での生産体制を整えた。

しかし、活版印刷機の製造に必要な鋳造設備や鍛冶設備が無いため、小物部品は街の鋳物師や鍛冶師に外注し、大物部品は石川島造船所に鋳造・加工を依頼していた。
明治9年(1976)になって、平野富二が杉山徳三郎の経営する横浜製鉄所に経営参加すると、横浜製鉄所で活版印刷機の製造をおこなうようになった。しかし、同じ年の内に平野富二が海軍省から旧石川島造船所の跡地を借り受けて石川島平野造船所を設立したのに伴い、築地活版所にあった印刷機部門と製造設備を石川島造船所構内に移転させた。当初、石川島造船所には機械加工設備がなかったため、築地から移転させた設備を使用して船舶用機器の製造もおこなった。

平野富二にとっては、活版印刷機の製造は一般産業機械の製造の一環としておこなわれるものであって、活版印刷機専用の製造設備を保有することは無駄で、勿体ないと思っていたに違いない。このような製造設備があれば、船舶用はいうに及ばす、他の一般産業分野で必要とする機械、器具類を製造して、広くわが国の産業発展に寄与できると考えていたと思われる。
平野富二は、江戸の職人だった者たちを積極的に雇用し、また、築地活版製造所で技術を身につけた従業員の退社に際しては、むしろその技術を生かして独立するよう支援している。これも、わが国産業発展の基盤とすることを意図したものと見られる。

東京築地活版製造所における活版製造と活版印刷機製造の営業上の位置付けを見ると、株式組織となった明治18年(1885)の売上高は活字類が23,521円(80%)に対して5,750円(20%)にすぎない。活字の売上高が圧倒的に高いことは後年になっても変わらず、活版印刷機の売上高比率はむしろ低下している。
東京築地活版製造所は、明治9年(1876)に築地にあった印刷機製造設備を石川島に移設して以来、第4代社長名村泰蔵が計画・建設した月島分工場が完成した明治40年(1907)まで、自社内に印刷機の製造設備を持つことは無かった。

名村泰蔵が活版印刷機の自社内製造を決意した背景には、大阪活版製造所での事業整理による印刷機製造部門の廃止があるが、新聞・雑誌類の発行部数が大きく伸びて大型印刷機の需要が増大したこと、高いレベルにある自社の印刷技術を印刷機に反映させることができることを念頭に置いたと見られる。
しかし、明治後期から大正にかけて、世の中の動きは活版をそのまま使用する活版印刷機の時代から、輪転印刷機、石版印刷機、オフセット印刷機の時代へと移行しつつあった。

東京築地活版製造所では、活字・活版の製造・販売を主業務としていたため、活版印刷機の製造・販売にこだわって、活版をそのまま使用することのない輪転印刷機や、平版に属する石版印刷機、オフセット印刷機の製造については関心を示さなかった。
関東大震災による罹災から復旧はしたものの、印刷分野の技術革新に乗り遅れたこともあって、活版印刷機の受注は伸びず、昭和9年(1934)になって月島分工場は廃止されるにいたった。
その4年後に伝統ある東京築地活版製造所は解散に追い込まれた。

昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、株主総会の承認を得て清算業務に入った。
会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったのかは、業界紙誌も沈黙を守っており明らかになっていない。

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎〔シリーズ全七回最終回〕

無題
東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
    2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
       (一)伝票制会計
       (二)設備の更新
       (三)不用部門の切捨て
       (四)別工場
       (五)内政から外交
          終 焉
    2-2 その他の事績
3.解散を決議した第9代社長松田一郎について
    3-1 東京築地活版製造所との関わり
    3-2 取締役としての事績
    3-3 第9代社長としての事績
まとめ
シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するのに当たって
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ま と め

第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。
この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。
吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたとされている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。
当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。
しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。
松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、東京築地活版製造所とはある意味では松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。
したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。
この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。
なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

6a9d7b967230809909039bcc1bc4829e吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

【 古谷昌二ブログ : 東京築地活版製造所 歴代社長略伝 全七回まとめ 】
◉ 第一回 東京築地活版製造所 初代社長 平野富二
◉ 第二回 東京築地活版製造所 第二代社長(空席)、社長心得 本木小太郎
◉ 第三回 東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成
◉ 第四回 東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵
◉ 第五回 東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎
◉ 第六回 東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一
◉ 第七回 東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

【会員情報】長崎大村市つじ印刷:辻 義宣さん|坂本龍馬の大ファン|Viva la 活版 ばってん 長崎の思いで写真

20190729185004_00001亀山社中記念館 市販絵はがきゟ(高知県立坂本龍馬記念館提供)
20190729185004_00002坂本龍馬立像(長崎市亀山社中記念館)市販絵はがきゟ

2016年05月 Viva la 活版  ばってん 長崎 開催
早いものです、あれから三年。長崎県大村市に新会員が誕生

b8e5804fb494123badf17905fc073dec-723x1024 b0612f29a783c99675385c03b72c3288-724x10242016年5月6-8日《Viva la 活版  ばってん 長崎》は五月晴れの長崎で開催されました。
主会場は長崎県印刷会館の四階と一階を拝借してのイベントでしたが、全国各地からサラマ・プレス倶楽部会員が長崎に集結して、とてもにぎやかなイベントでした。
ご存知のように、長崎はわが国の近代活版印刷術導入の地であり、本木昌造や平野富二をはじめ、多くの印刷人ゆかりの地であります。その「長崎」においてのイベント開催は、活版印刷の「知と技と美」を研鑽されてきた造形者の皆さんにとって、集大成の、そしてまた、あらたなる進化・発展の第一歩となりました。
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新会員:株式会社 つじ印刷 代表取締役社長:辻 義宣 さんは、長崎空港にちかい大村市を本拠地として MANBOW 事業部、福岡営業所などを併設されています。そして大の坂本龍馬ファントして、自社のレターヘッドにも坂本龍馬像を用いるほどの入れ込み様です。今回は「長崎市亀山社中記念館」市販の絵はがきをたくさんお送りいただきました。
《Viva la 活版  ばってん 長崎》の「崎陽探訪・活版さるく」では、風頭山の伊良林公園も訪問しましたが、亀山社中記念館は前を通りすぎて、寺町通りの禅林寺方向に向かって歩きましたから、この絵はがきは初見でした。

辻さんご提供の絵はがきとともに、三年前のおもいでの地:長崎と「崎陽探訪・活版さるく」の折の写真を紹介いたします。[写真提供:春田ゆかり会員]

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【艸木風信帖】空中庭園に謎のキノコが大量発生|連日異常繁殖展開中|灼熱の夏よ早く来たれ

コガネキヌカラカサタケかねがね雑艸という名の艸は無いといいつづけてきた。ところがことしの異常気象 ── 気温の低下と長雨にはいささか困惑している。「海の日」を過ぎても梅雨があけず、吾が空中庭園では、なんと謎のキノコが大量発生した。

高層階のベランダの内側に固定して設置してある小型の植木鉢だが、写真は鉢植えのランタナ(パニックドーム)の咲き終わりの姿で、右は蚊よけの「蚊連艸」である。
長雨で水遣りは控えていたつもりだったが、昨週週末にニョキッとキノコの発生をみた。7月21日[日]は参議院議員選挙で、投票から戻ったらニョキニョキと、もっとたくさん生えていた。

さっそくノー学部が「きのこ図鑑」で調べたところ「コガネキヌカラカサコケ」ではないかと診断した。

ウィキペディア ゟ
和名:コガネキヌカラカサタケ 英名:flowerpot parasol ,  plantpot dapperling
コガネキヌカラカサタケ (黄金絹唐傘茸  Leucocoprinus birnbaumii )は、ハラタケ目ハラタケ科に属するキノコである。 
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熱帯性であり、沖縄などでは夏から秋にかけ、植え込み、芝生の上、室内の植木鉢などあらゆる場所に発生する。傘は綿くず状の片鱗に覆われ、高さは 7 cm ほど。腐葉土など養分の多い土壌を好み、本州でも見られるが、自生はせず、熱帯地方から持ち込まれた腐葉土に混ざった菌から発生することが多い。子実体の色はおおむね白褐色から黄色になる。
<食  毒>
本種に関する詳しい文献はまだ少なく、食毒不明として扱われているが、その一方で非常に美味であるともいわれる。詳しいことはわかっていないので食べるべきではない

サラマ・プレス倶楽部では、かつてはこの「海の日」の三連休にさまざまなイベントを実施していた。ところが地球温暖化がやかましくなり、2013年のこの時期のイベントは、東京をはなれ、北海道美唄市で<Viva la 活版  Viva 美唄>を展開した。このときは北海道でも例年にない暑さということで、来場者もスタッフも疲労困憊状態となったので、それ以降夏のイベントは控えるようにしていた。
[ 関連: 活版 à la carte Viva la 活版  Viva 美唄

最近は新潟での地震があり、長崎五島列島では渇水をうれえていたら、集中豪雨に見舞われ、全島避難騒ぎとなったという。全国各地にサラマ・プレス倶楽部の会員が増えてきた今、どの地域・地方でも、つつがなく梅雨が明け、蟬がうるさく啼きつのる猛暑の夏を待つきょうこのごろである。
[関連:活版 à la carte 【Lingua Florens 草木風信帖】雨にうたえば|合歓木/サルビア・ガランチカ/ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)|ことしも元気に開花中

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

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【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

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平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!


平野富二は長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひとと伝わった。

ようやく生家が長崎の町司長屋(現 長崎県長崎市桜町九番六号)にうまれたことが古文書の渉猟から判明した。この家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。
さっそく「平野富二生誕の地」碑建立有志の会が結成され、多くの有志の献身的な協力を得て、二〇一八年一一月生誕地の一画に碑の建立がなった。

幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。

のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。
素志である機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。

そもそも明治の国家も企業社会も、まだうそのようにちいさな時代で、なにもかもが草むらからわきあがる時代でもあった。したがってたれもが無我夢中おもう存分にはたらき、家を建て、名を挙げることができたというのが、明治初期の愉快さであり、あかるさでもあった。
平野富二はこうした時代をおもうまま奔放にいき、おおきな成果をあげつつ、こころざしなかばにして明治二六(一八九一)年に病にたおれた。
それでも在京わずかに二〇年ほどであったが、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発 …… と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会にはさまざまな分野と年齢の会員が、重層的に折りかさなるように存在していた。こうした会員はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。
すなわち明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。

【Information Release 14】「平野富二生誕の地」碑建立有志の会|日本二十六聖人記念館:宮田和夫会員ゟ|長崎直近情報-碑前三の堀の櫻が満開に!

DSC_0681 「平野富二生誕の地」碑 正面

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 ── 皆さま
[日本二十六聖人記念館 宮田和夫]

ご無沙汰しております。
本日〔4月9日〕「平野富二生誕の地」記念碑の様子を見にいきました。
碑の表面側からみると、真正面に、なんと満開の桜が!
富二さんが毎年ちょうどこの季節に、満開の桜を愛でることができるようになった
気がしまして、
この場所に設置してよかったな、とはじめて思えました。

(撮影ポイントの制約で、添付写真では分かりにくいかもしれません)

長崎は風がつよく、ことしは春の黄砂? もありました。
碑の文字がかなり深く、太く彫り込まれている関係もありますが、

大切な碑文に土ぼこりが溜まりやすいことが分かりました。
ときどきふき取り作業にあたりたいと思います。

また今日は渋沢栄一の肖像が新一万円札に採用とのニュースもあり、
感慨深い一日となりました。

平野富二の会 ── 皆さまお元気でご活躍ください。[宮田和夫]
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「平野富二生誕の地」碑は2018年11月24日、長崎県勤労福祉会館
(長崎県長崎市桜町9 ― 6)脇、長崎市の歩道に設置されました。
碑は江戸時代の三の堀跡の方向をむいていますが、ここが櫻の名所だとは
知りませんでした。

宮田会員の写真で、前方突き当たり、満開の櫻並木を左手に曲がると、
そこから信号ひとつ、三分ほどで長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館)裏門です。
すなわち、安政4年-1857-数えて12歳の矢次富次郎少年 ── のちの平野富二が
当時のならいで、家僕(中間)ひとりをともなっての「通勤路」にあたります。
表門にまわっても七-八分ほど、どうやら富次郎少年の運動不足はいなめないようです。

長崎訪問の折は、ぜひともここにお立ち寄りいただき、平野富二「通勤路」を追体験いただき
できましたら碑周辺の清拭にあたっていただけたらと勝手なお願いを。
そして宮田さん、いつもながらご負担をおかけしまして恐縮です。

[ 参考: 長崎歴史文化博物館 日本二十六聖人記念館