【さようなら 越中哲也翁】郷土史家として長崎学の発展に貢献 99歳/平野富二の会にもご支援を賜った

DSC_1256「長崎新聞」2021年9月26日
越中哲也さん死去 99歳 郷土史家として長崎学の発展に貢献
「長崎新聞」は2021年9月26日、第一面のトップ記事として、長崎学の体系化やその継承に長年貢献し、長崎くんちのテレビ中継解説などでも活躍した、郷土史家の越中哲也(えっちゅう・てつや 99歳)氏が、25日午前6時50分、老衰のため長崎市内の病院で死去されたことを報じた。

DSF0300「平野富二生誕の地」碑建立記念祭 除幕式で祝辞を述べられた折りの越中哲也氏
2018年11月24日

越中哲也〔えっちゅう てつや〕翁を偲んで
大正10年(1921)長崎市に光源寺の子息としてうまれる。龍谷大学文学部を卒業して間もなく応集。復員後、長崎市立博物館に学芸員として勤務。昭和49年(1974)長崎市立博物館館長に就任。昭和56年(1981)長崎市立博物館館長を定年退職。
昭和57年(1982)長崎歴史文化協会設立、理事長就任。
昭和58年(1983)純心女子短期大学英米文化科教授となる。平成10年(1998)純心大学長崎学研究所研究員となり、長年顧問に就任。

最晩年まで長崎歴史文化協会理事長。長崎地方文化歴史研究家であり、『ながさきぶらぶら節』(なかにし礼、新潮文庫)に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子、『崎陽論攷』(親和銀行済美会)を著した渡辺庫輔の弟子を自認していた。
長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら、数多くの執筆活動や監修を手掛ける。
「長崎くんち」や「精霊流し」の季節になると、解説者としてテレビに出演し、軽妙洒脱な語り口と、含蓄のあそのる内容で長崎の人びとに愛された。著書に『長崎の西洋料理』(第一法規出版株式会社)、「写真集・長崎」(国書刊行会)ほか多数。
2012年9月25日、午前6時50分、老衰のため長崎市内の病院で逝去。99歳

DSCN3496長崎市桶屋町の「長崎歴史文化協会事務所」かつての入口

長崎歴史文化協会
昭和57(1982)年5月、長崎における歴史文化を研究し、各文化団体とも連携の上、地域文化の発展に寄与することを目的として設立。

関係図書資料を整備し、必要に応じて一般に公開し、長崎に関する歴史文化の調査研究に対し適切な助言・指導をおこなう。
また、長崎に関する古文書・史料で未刊・未発表のもの、その他学術的に価値あるものについて整理し発刊をおこなった。

長崎歴史文化協会事務所は創設以来「十八銀行」が全面支援にあたっていた。稿者もなんどかこの門をたたき、二階の事務所で越中哲也翁の含蓄あるおはなしをうかがった。2019年3月をもって同会事務所は閉鎖されると報道された。
2018年11月24日、「平野富二生誕の地」碑建立記念祭の除幕式に際しては、ご臨席をたまわり、祝辞を頂戴した。また、次世代を担う若者とともに、お元気な越中哲也翁の謦咳に接し、それを記録する機会を得たことを喜びとし、故人のご冥福を衷心より祈る次第です。

[ 関連 : 活版 à la carte 2019年3月7日【長崎歴史文化協会】越中哲也翁-本年三月で三十六年に及んだ幕をおろす ── 今後ともご壮健で{長崎越中節}を熱望するいま ]

【平野富二の会】長崎直近情報|「平野富二生誕の地」碑前、三の堀跡の櫻が満開に!|日本二十六聖人記念館:宮田和夫会員情報ゟ|

DSC_2551 DSC_2552 DSC_2554「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 ── 皆さま
[2021年03月31日 日本二十六聖人記念館 宮田和夫]

大変ご無沙汰しております。
一昨年昨 年 に続き、昨30日に撮影した「平野富二生誕の地」碑の写真を添付します。
ニュースで話題になっております通り、ここ数日長崎では黄砂の飛来がひどく、
深く彫られた碑文の字の中には黄砂が溜まっておりました。
碑文の字の汚れは大抵は雨で流されるのですが、汚れが溜まっているときには
時折ふきとっておりますのでご安心ください。
長崎の桜は例年より少し早めの開花で、少しづつ散りはじめております。[宮田和夫]
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「平野富二生誕の地」碑は2018年11月24日、長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9 ― 6)脇、長崎市の歩道に設置されました。
碑は江戸時代の「三の堀跡」方向をむいていますが、ここは現在桜並木になっています。

平野富二武士装束月代-さかやきを剃らずに髷を結い、帯刀し、東京での旅姿を撮影した平野富二(富次郎)。
明治4年(1872)、数えで26歳、初冬のころの撮影と推定されている(平野ホール蔵)

宮田会員の写真で、前方突き当たり、満開の櫻並木を左手に曲がると、そこから信号ひとつ、三分ほどで長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館)裏門です。すなわち、安政4年-1857-数えて12歳の矢次富次郎少年 ── のちの平野富二が、幼少ながら「特例をもって」、また当時のならいで、家僕(中間)ひとりをともなって長崎奉行所へ勤務した「通勤路」にあたります。
奉行所表門にまわっても10分ほどでしょうか、どうやら富次郎少年の運動不足はいなめなかったようです。

長崎訪問の折は、ぜひともここにお立ち寄りいただき、平野富二の「通勤路」を追体験していただき、またできましたら碑周辺の清拭にあたっていただけたらと勝手なお願いを。
そして宮田さん、いつもながらご負担をおかけしまして恐縮です。

[ 参考 : 長崎歴史文化博物館 日本二十六聖人記念館 ]
[ 関連 : 平野富二-明治産業近代化のパイオニア ]

【News Release】千代田区|まちの記憶保存プレート|1872年 明治五年 活字を用いた近代印刷の起点|千代田区神田和泉町1和泉小学校地先 植栽帯内に設置

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千代田区「まちの記憶保存プレート」
設  置  者:東京都千代田区
設置場所:東京都千代田区神田和泉町1和泉小学校地先 区道植栽帯内
設置年月:2019年12月24日

◉ JR中央線・総武線「秋葉原」駅 昭和通り口より徒歩5分

まちの記憶
1872年
明治五年
活字を用いた近代印刷の起点
鋳造活字製造の事業化を果たした平野富二は、津藩主藤
堂和泉守屋敷の門長屋を再活用した活版製造・販売所を
開設し、これを機に全国的な規模で活版印刷が普及した。


[ 詳細: 平野富二の会
[ 参考:活版 à la carte【平野富二の会】日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地|東京都千代田区神田和泉町 1 資料|「江戸名所道外盡 外神田佐久間町 廣景画」安政六年(1858年)披露

【平野富二の会】長崎直近情報|「平野富二生誕の地」碑前、三の堀跡の櫻が満開に!|日本二十六聖人記念館:宮田和夫会員情報ゟ|

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「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 ── 皆さま
[2020年04月06日 日本二十六聖人記念館 宮田和夫]

ご無沙汰をいたしております。
何かと心落ち着かない日常が続きますが、当地長崎は今まさに桜が満開の時期となりました。
代わり映えしませんが 昨年同様 長崎桜町の桜と「平野富二生誕の地」碑の写真をお送りします。
冨二さんはことしも花見を楽しんでおられることと思います。
平野富二の会 ── 皆さまお元気でご活躍ください。[宮田和夫]
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「平野富二生誕の地」碑は2018年11月24日、長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9 ― 6)脇、長崎市の歩道に設置されました。
碑は江戸時代の三の堀跡の方向をむいていますが、ここは現在桜並木になっています。

宮田会員の写真で、前方突き当たり、満開の櫻並木を左手に曲がると、そこから信号ひとつ、三分ほどで長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館)裏門です。すなわち、安政4年-1857-数えて12歳の矢次富次郎少年 ── のちの平野富二が幼少ながら「特例をもって」、また当時のならいで、家僕(中間)ひとりをともなって長崎奉行社へ勤務した「通勤路」にあたります。
奉行所表門にまわっても七-八分ほどでしょうか、どうやら富次郎少年の運動不足はいなめなかったようです。

長崎訪問の折は、ぜひともここにお立ち寄りいただき、平野富二の「通勤路」を追体験していただき、またできましたら碑周辺の清拭にあたっていただけたらと勝手なお願いを。
そして宮田さん、いつもながらご負担をおかけしまして恐縮です。

[ 参考 : 長崎歴史文化博物館 日本二十六聖人記念館 ]
[ 関連 : 平野富二-明治産業近代化のパイオニア

【展覧会】安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄|企画展2020「こころを彫ること」展|’ 20年4月29日-5月6日

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安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
企画展2020「こころを彫ること」展
開催期間  2020年04月29日[水]-05月06日[水]
会期中無休
開館時間  水曜日-月曜日 午前9時-午後5時
会  場  木造校舎(ギャラリー)
料  金  無 料
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「石と向き合う時間は、自分を見つめる時間」 安 田  侃  YASUDA Kan
安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄で毎月開催している「こころを彫る授業」。この授業では、目には見えない自分の “ こころ ” を石でかたちにしていきます。
この授業を始めた彫刻家の安田侃さんは「石と向き合う時間は、自分を見つめる時間」といいます。
参加者は自分の心と向き合いながら、時には無心になってノミをふるい、唯一無二の自分だけの「こころのかたち」を作ります。

今回の展示では、「こころを彫る授業」で使っているイタリア・カッラーラ産の大理石やイタリア製の道具、またこれまで授業に参加した方が彫った「こころのかたち」なども展示します。
「こころを彫る授業」の魅力に迫る展覧会、ぜひご覧ください。

* 感染症「COVID-19」対応のため変更も予想されます。参観前には下掲詳細でご確認を。
[ 詳細 : アルテピアッツァ美唄 ] 

{ Arte 通信 Vol. 35 ゟ}
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あのときは、暑く、そして熱かった。
Viva la 活版-すばらしき活版。<Viva la 活版  Viva 美唄>。

東日本大震災を契機として、それまで 5 年間 4 回にわたり東京で開催してきた<活版凸凹フェスタ>にかえて、地方からの底上げを測ることとして、2013年07月、北海道美唄市、アルテ・ピアッツア美唄で開催された活版礼讃イベント <Viva la 活版  Viva 美唄> の記録。当時は美唄に適当なホテルが無く、参加者の多くは隣接している岩見沢市からの「電車通勤」でした。
映像製作:川崎孝志会員   BGM:AdRev for a 3rd Party

【 YouTube Viva la 活版  Viva 美唄 音が出〼 14:39 】

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ28}|国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)

明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を精力的に記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる充実した内容となっています。読者諸賢の訪問をお勧めいたします。

古谷昌二ブログ ── 国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199-300x199まえがき
(4)第二回内国勧業博覧会
     博覧会の概要
     築地活版製造所からの出品
     「字見本帳」について
     他社による活版印刷機の出展
     弘道軒神崎正諠とのひと悶着
(5)ロンドン万国発明品博覧会
  (International Inventors Exhibition, London)
(6)第三回内国勧業博覧会
(7)コロンブス世界博覧会(シカゴ万国博覧会-1893年)
   The World’s Columbian Exposition at Chicago, 1893
(8)第四回内国勧業博覧会
(9)第五回内国勧業博覧会
(10)その他の地方博覧会
    1)東京勧業博覧会
    2)東京大正博覧会
    3)平和記念東京博覧会
    4)大礼記念関連の地方博覧会
      ・大礼記念国産振興東京博覧会
      ・ 東北産業博覧会
      ・御大典奉祝名古屋博覧会
      ・大礼記念京都大博覧会
ま と め

図 29-1 第二回内国勧業博覧会案内図(国文社)
図 29-2 明治12年6月版『BOOK OF SPECIMENS』の扉ページ
図 29-3 第三回内国勧業博覧会場之図
図 29-4  大阪活版製造所の広告チラシ
図 29-5 明治36年11月版『活版見本』の表紙

[ 国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)  古谷昌二まとめ ゟ ]

前回の(その1)では、その最初として1867(慶應3)年に開催されたパリ万国博覧会で渡仏した清水卯三郎が「フランスみやげ」とした石版印刷機と足踏印刷機について紹介し、1876(明治9)年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会と明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に出品した活字と印刷機について紹介した。

今回は(その2)として、明治11年(1878)9月に平野富二が本木小太郎に築地活版製造所の経営を返還・移譲し、本木小太郎の後見人となって以降について紹介した。

明治14年(1881)に第二回内国勧業博覧会が開催され、本木小太郎の名前で各種印刷機と各種活版、字見本帖を出品した。また、1885(明治18)年にはロンドン万国発明品博覧会には平野富二が本木小太郎の代理として活字見本と活版印刷見本を出品した。

明治18年(1885)4月、有限責任の株式組織として本木家から独立した東京築地活版製造所は、平野富二を初代社長に選任した。明治22年(1889)6月になって平野富二は社長を辞任して、第二代社長は空席のまま、本木小太郎が社長心得となった。以後、平野富二は東京石川島造船所の経営に専念して、自ら東京築地活版製造所の経営に関与することはなかった。この間、明治23年(1890)に開催予定だった第三回内国勧業博覧会の出品準備が行われたが、博覧会開催は曲田成が社長に就任した後のことである。

明治23年(1890)1月、本木小太郎の辞任により、曲田成が第三代社長に就任した。野村宗十郎は社長曲田成の下で明治25年(1892)8月に副支配人、明治26年(1893)8月に支配人となった。この間、明治23年(1890)4月から第三回内国勧業博覧会が開催され、東京築地活版製造所から活版組立板と石版印刷物が出品された。また、大阪活版製造所から十六片紙ロールマシンと活字額面が出品され、会場内で活版印刷機の図入り広告が印刷、配布された。

明治27年(1894)10月、社長曲田成の病死により名村泰蔵が第四代社長に就任した。この間、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会では改正明朝体活字を出品、明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会ではポイント活字を出品して名誉銀牌を授賞、明治40年(1907)の第六回内国勧業博覧かに代わる東京勧業博覧会では仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。

明治40年(1907)9月、名村泰蔵の病死により支配人野村宗十郎が第五代社長に就任した。大正14年(1925)4月、野村宗十郎の病死により松田精一が第六代社長に就任した。
この間、府県庁またはその関係団体主催の各種博覧会に活字を出品して名誉賞を受賞している。

東京築地活版製造所は、業界の老舗でリーダーであったことから、出品した活字・活版については毎回、何らかの賞牌を授賞している。しかし、印刷機については、途中から自社内での製造を中止し、大阪活版製造所に委託したことから、機械分野での出品は見られなくなった。一方、明治17年(1884)から社内に印刷部を新設して印刷事業に本格進出し、石版印刷に力を注いだことから、石版印刷物の出品で受賞するようになった。

本稿では、平野富二が関わった博覧会の出品については詳しく述べたが、それ以降の博覧会については概要を述べるにとどまった。国立国会図書館には博覧会関係資料が数多く保管されており、それらは「国立国会図書館所蔵博覧会関係資料目録」(『参考書誌研究』、第44号、1994.8、国立国会図書館発行)に掲載されている。参考になる筈である。

【公演】長崎歴史文化博物館|第28回 長崎奉行所 新内寄席 長崎枝幸会発表会|3月8日|長崎ぶらぶら節はいかがでしょう

長崎歴博

長崎歴史文化博物館
第28回 長崎奉行所 新内寄席
長崎枝幸会発表会
日  時  2020年3月8日[日] 13:30-16:00(開場 13:00)
会  場  長崎歴史文化博物館 1階ホール
観  覧  料  1,000円(友の会800円)

[ 詳細 : 長崎歴史文化博物館 ]

◉ 長崎歴史博物館 プレスリリース No.37  2020年2月27日
長崎歴史文化博物館では、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、第28回新内寄席 長崎枝幸会発表会イベントを中止いたします。

ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
このほかのイベント・講座につきましても現在調整中ですが、中止・延期の可能性があります。
振り替え公演など今後のスケジュールにつきましては、決定次第改めてご案内いたします。

kazari-downnerしんない‐ぶし 【新内節】
浄瑠璃の流派の一。俗に「新内」とも。延享2年(1745)宮古路加賀太夫が豊後ーぶんご-節から脱退、富士松薩摩ーふじまつさつま-を名のったのが遠祖。この富士松から出た鶴賀若狭掾-つるがわかさのじょう-は鶴賀節を立てたが、文化年間(1804ー1818)に二世鶴賀新内が人気を博して以来、新内節というようになった。早くから劇場を離れ、座敷浄瑠璃として発展した。

しんない ‐ ながし 【新内流し】
二人一組で、二挺-にちょう-の三味線を弾き合 わせながら街頭を練り歩き、客の求めに応じて新内節を語って聞かせるもの。また、その芸人。

長崎ぶらぶら節
長崎には、京の島原、江戸の吉原と並び称された丸山遊廓があった。ふるくは廓内を新内流しが練り歩き、遊客から声がかかれば座敷にあがって新内節を演じたのであろう。

今回の演目にもある「長崎ぶらぶら節」は、なかにし礼『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋)ですっかり著名となったが、老いた芸妓:愛八と古賀十二郎の掛け合いで、テンポ良く物語がしるされている。また愛八を吉永小百合、古賀十二郎を渡哲也が主演して映画にもなった。

この物語には松森ーまつのもりー神社脇にあった料亭:千秋亭(のち伊藤博聞が提唱して 富貴楼 と改称-平成26年6月閉店)も登場する。
古賀十二郎 は郷土史家で 長崎史談会を組織した人物である。また印刷史にも関心をむけて、長崎でも忘れられがちであった人物として、
本木昌造を『贈従五位本木昌造先生略伝』(贈従五位本木昌造先生頌徳会 1934)としてのこしている。以下 YouTube 動画で紹介する。

【 YouTube なかにし礼「長崎ぶらぶら節」ながさきがんばらんばチャンネル 2:02 】

【 YouTube 長崎ぶらぶら節 愛八 歌 長崎県民謡-日本民謡 レコード 3:10 】

【イベント】出島長崎と異なる彩りにつつまれて-長崎燈會|100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2020長崎ランタンフェスティバル|’20年1月24日-2月9日

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100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!
2020長崎ランタンフェスティバル
開催期間  2020年1月24日[金]-2月9日[日]
      * 開催期間は旧暦の1月1日(春節)から1月15日(元宵節)までです。
会  場  長崎県長崎市新地中華街、観光通りアーケード、中央公園 ほか
電話番号  095-822-8888 (長崎市コールセンターあじさいコール)
時  間  〔点灯時間〕期間中17:00-22:00まで点灯
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中国の旧正月を祝う行事「春節祭」を起源とする、長崎の冬の一大風物詩「長崎ランタンフェスティバル」では、長崎新地中華街をはじめ、湊公園、中央公園、眼鏡橋周辺、浜市・観光通りアーケードなど、長崎市内の中心部に、約15,000個にも及ぶ極彩色のランタン(中国提灯)や、大型オブジェが幻想的に飾られ、街を華やかに彩ります。
期間中は毎日各会場で、龍踊り、中国雑技、二胡演奏など、中国色豊かなイベントが繰り広げられます。

【前夜祭】2020年1月24日[金] 点灯は18:00-22:00
  * 前夜祭では15:00から新地中華街会場、中央公園でぜんざいを配布します。
【後夜祭】2020年2月09日[日] 点灯は17:00-21:00
◉点灯時間:17:00-22:00(点灯式の日のみ18:00-22:00、金曜・土曜は23:00まで)
  * 新地中華街会場、浜んまち会場、中央公園会場については12:00-22:00まで点灯
  * 1月31日[金]、2月1日[土]、7日[金]、8日[土]は ~23:00まで点灯
       * 雨が降っても点灯しています。

[ 詳細: 長崎市公式観光サイト あっ!とながさき

【 YouTube 長崎ランタンフェスティバル 公式   2:00 】

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ28}|国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

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古谷12月ブログ

平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が
近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の
情報を記述しています。

本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる
充実した内容となっております。読者諸賢の訪問をお勧めいたします。

古谷昌二ブログ ── 国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199-300x199まえがき
(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
    博覧会の概要
    清水卯三郎の参加
    清水卯三郎の輸入した印刷機
(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
    博覧会の概要
    平野富二の出品
    活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
    政府事務官として渡航した吉雄永昌
(3)第一回内国勧業博覧会
    博覧会の概要
    平野富二による鉛版活字の出品
    印刷機の出品
    平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)

    府下縦覧工場として指定
まとめ

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国内外の博覧会国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)  古谷昌二まとめ ゟ ]

幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と、浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアにおいて、アメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小型手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ27}|活版印刷機械の製造体制


6e6a366ea0b0db7c02ac72eae004317611-300x75明治産業近代化のパイオニア

furuburo11平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が
近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の
情報を記述しています。

本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる
充実した内容となっております。読者諸賢の訪問をお勧めいたします。

古谷昌二ブログ ── 活版印刷機の製造体制

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199-300x199まえがき
(1)神田和泉町における活版印刷機製造
(2)築地二丁目に移転後の印刷機製造
    初期の活版器械製造工場
    活版器械専用工場の建設
    部品・素材の調達:当初は街の鋳物師に発注
    大形部品の製造:石川島造船所と横浜製鉄所に依頼
(3)築地にあった鉄工部の石川島移転
(4)印刷機械部の解散と離職者の独立支援
    離職従業員の独立支援
    当時の印刷機製造業者
(5)大阪活版製造所での印刷機製造
(6)月島分工場での印刷器械製造
ま と め
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[ 活版印刷機の製造体制  古谷昌二まとめ ゟ ]
平野富二にとって活版印刷機の製造・販売はあくまでも活字・活版の販売を促進するための手段だった。活版印刷をおこなう用具として見れば共通であるが、活字・活版の製造と活版印刷機の製造は異質のもので、その製造設備は全く異なるものである。

したがって、活版印刷機の製造をはじめた当初の神田和泉町時代は、細かい手細工を除いて、ほとんどを外部に依存していたが、築地二丁目に移転してからは金属加工機械を輸入して活版の製造と印刷に用いられる諸々の器械・器具の製造を兼ねて自社内での生産体制を整えた。

しかし、活版印刷機の製造に必要な鋳造設備や鍛冶設備が無いため、小物部品は街の鋳物師や鍛冶師に外注し、大物部品は石川島造船所に鋳造・加工を依頼していた。
明治9年(1976)になって、平野富二が杉山徳三郎の経営する横浜製鉄所に経営参加すると、横浜製鉄所で活版印刷機の製造をおこなうようになった。しかし、同じ年の内に平野富二が海軍省から旧石川島造船所の跡地を借り受けて石川島平野造船所を設立したのに伴い、築地活版所にあった印刷機部門と製造設備を石川島造船所構内に移転させた。当初、石川島造船所には機械加工設備がなかったため、築地から移転させた設備を使用して船舶用機器の製造もおこなった。

平野富二にとっては、活版印刷機の製造は一般産業機械の製造の一環としておこなわれるものであって、活版印刷機専用の製造設備を保有することは無駄で、勿体ないと思っていたに違いない。このような製造設備があれば、船舶用はいうに及ばす、他の一般産業分野で必要とする機械、器具類を製造して、広くわが国の産業発展に寄与できると考えていたと思われる。
平野富二は、江戸の職人だった者たちを積極的に雇用し、また、築地活版製造所で技術を身につけた従業員の退社に際しては、むしろその技術を生かして独立するよう支援している。これも、わが国産業発展の基盤とすることを意図したものと見られる。

東京築地活版製造所における活版製造と活版印刷機製造の営業上の位置付けを見ると、株式組織となった明治18年(1885)の売上高は活字類が23,521円(80%)に対して5,750円(20%)にすぎない。活字の売上高が圧倒的に高いことは後年になっても変わらず、活版印刷機の売上高比率はむしろ低下している。
東京築地活版製造所は、明治9年(1876)に築地にあった印刷機製造設備を石川島に移設して以来、第4代社長名村泰蔵が計画・建設した月島分工場が完成した明治40年(1907)まで、自社内に印刷機の製造設備を持つことは無かった。

名村泰蔵が活版印刷機の自社内製造を決意した背景には、大阪活版製造所での事業整理による印刷機製造部門の廃止があるが、新聞・雑誌類の発行部数が大きく伸びて大型印刷機の需要が増大したこと、高いレベルにある自社の印刷技術を印刷機に反映させることができることを念頭に置いたと見られる。
しかし、明治後期から大正にかけて、世の中の動きは活版をそのまま使用する活版印刷機の時代から、輪転印刷機、石版印刷機、オフセット印刷機の時代へと移行しつつあった。

東京築地活版製造所では、活字・活版の製造・販売を主業務としていたため、活版印刷機の製造・販売にこだわって、活版をそのまま使用することのない輪転印刷機や、平版に属する石版印刷機、オフセット印刷機の製造については関心を示さなかった。
関東大震災による罹災から復旧はしたものの、印刷分野の技術革新に乗り遅れたこともあって、活版印刷機の受注は伸びず、昭和9年(1934)になって月島分工場は廃止されるにいたった。
その4年後に伝統ある東京築地活版製造所は解散に追い込まれた。

昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、株主総会の承認を得て清算業務に入った。
会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったのかは、業界紙誌も沈黙を守っており明らかになっていない。