【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】   
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。
その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察したのち、ロンドン大学で学び、グラスゴーで実習生として造船術を習得した。この時の同行者のなかには、のちの伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。
また明治四年(一八七一)には工部大学校(現東京大学工学部)設置を建白した。当時の日本では「未ダ我国二於テ為スペキエ業ナシ、学校ヲ立テ大ヲ作ルモ何ノ用ヲカ為サン」という反対が強かったという。
この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触も多かった。 印刷局活字系譜修整版その後山尾庸三は宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
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山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科事務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、五年におよんだ英国留学を終え、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は、算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。

それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は富二に好感をもったようである。
富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。日本工学会は山尾庸三の設立によるものであり、その会長を三六年間にわたって勤めていた。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した
DSC_1337 DSC_1333工部大学校時代の山尾庸三は以下のようなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代工業と産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-16  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました

バーナー20171126221422_00001メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
東京築地活版製造所アンソロジー

全日程を無事終了いたしました
メディア・ルネサンスロゴ01メディア・ルネサンスロゴ03メディア・ルネッサンス

プレイベント : 「江戸・東京 活版さるく」をふくめ、全日程とも好天に恵まれ
本イベント : 日展会館新館での展示・WS・講演会にも多くのお客さまを迎えて
全日程を無事に終了いたしました。

協賛をたまわりました、株式会社 I H I、株式会社イワタ、株式会社モリサワをはじめ、力強い協力とご支援を頂戴しました、平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会の皆さま、そしてサラマ・プレス倶楽部会員の皆さまにあつく御礼を申しあげます。
またプレイベント「江戸・東京 活版さるく」、本イベントにご参集いただきました多くの皆さまに、衷心より御礼を申しあげます。
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<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>は、開港地の長崎にうまれ、27歳にして上京、それからの20年間、明治産業の近代化におおくの功績をのこして47歳で逝去した平野富二の生涯をつうじて、メディアの越したかたをさぐり、ゆくすえを見定める機会でした。

ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

【継続情報は、おもに { 朗文堂 花 筏 } になります。あわせて { サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ } に収録されますので、引きつづきご声援・ご支援のほどお願いいたします】
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【速報写真集】
日展会館新館 一階講演会場 講師 : 平野正一氏 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」、谷中霊園・明治産業人{掃苔会}を中心に
会員 : 春田ゆかりさん・真田幸治さん・中村将大さん提供写真_1040429R0064147 R0064178 R0064160 R0064208 R0063842 R0063972 R0063863 R0063873 image2 R0063808 R0063818 image3R0064021全日程終了後 一階講演会場で平野家・矢次家・山口家の皆さんの記念撮影

23b1e68c3c4de01a96de74855e4a9c45[1]平 野  富 二
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
OLYMPUS DIGITAL CAMERA前列右) 平野義和・順子夫妻〔富二曽孫〕、 前列左・後列左端) 山口家〔富二 三女・平野幾みが嫁した家〕のおふたり  後列右四名) 〔富二の生家〕矢次家の関係者、後列二名)平野正一氏〔富二玄孫〕・平野健二氏〔富二玄孫〕

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-16  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました

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東京築地活版製造所アンソロジー

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本イベント : 日展会館新館での展示・WS・講演会にも多くのお客さまを迎えて
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ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

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【速報写真集】
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会員 : 春田ゆかりさん・真田幸治さん・中村将大さん提供写真_1040429R0064147 R0064178 R0064160 R0064208 R0063842 R0063972 R0063863 R0063873 image2 R0063808 R0063818 image3R0064021全日程終了後 一階講演会場で平野家・矢次家・山口家の皆さんの記念撮影

23b1e68c3c4de01a96de74855e4a9c45[1]平 野  富 二
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
OLYMPUS DIGITAL CAMERA前列右) 平野義和・順子夫妻〔富二曽孫〕、 前列左・後列左端) 山口家〔富二 三女・平野幾みが嫁した家〕のおふたり  後列右四名) 〔富二の生家〕矢次家の関係者、後列二名)平野正一氏〔富二玄孫〕・平野健二氏〔富二玄孫〕

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こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

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【速報写真集】
日展会館新館 一階講演会場 講師 : 平野正一氏 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」、谷中霊園・明治産業人{掃苔会}を中心に

会員 : 春田ゆかりさん提供写真
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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-15  東京築地活版製造所アンソロジー 日展会館新館での展示・WS/講演会二日目を迎えてヒートアップ

バーナー_1040429 _1040541 _1040542東京築地活版製造所アンソロジー
日展会館新館での展示・WS/講演会
二日目を迎えてヒートアップ

本日はご来場ありがとうございました。
あす26日[日]は最終日。二階展示 ・ WS は10時開始
フィールドワークで{ 掃 苔 会 } そうたいかい が早朝10時半出発
13:30-14:30 【最終講演会】
講師 : 平野正一 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」

より一層パワーアップしたコンテンツでご来場をお待ち申しあげます。
15時(午後三時で終了です。お早めにご来場ください)

【速報写真集】 日展会館新館 二階 主会場、一階講演会場をを中心に
会員 : 日吉洋人さん提供写真 _1040572 _1040556 _1040586 _1040433 _1040611 _1040613 _1040614 _1040578 _1040544 _1040516 _1040522 _1040518 _1040520 _1040525 _1040526 _1040524 _1040519 _1040521 _1040519 _1040523 _1040552 _1040561 _1040574 _1040575 _1040579 _1040581 _1040582 _1040515 _1040429 _1040498 _1040501 _1040502 _1040514 _1040566 _1040590 _1040567 _1040593 _1040601 _1040607 _1040595 _1040455 _1040456 _1040457 _1040460 _1040473 _1040475 _1040472 _1040485_1040494 

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-14  東京築地活版製造所アンソロジー 愈〻日展会館新館での展示・WS/講演会スタート

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メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭年祭
11月24日[金] 会場点景報告

本日はご来場ありがとうございました。
あす25日[土]も、より一層パワーアップしたコンテンツで
ご来場をお待ち申しあげます。

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日展会館新館 二階 主会場を中心に 会員 : 時盛 淳さん提供写真
20171124_105125 20171124_105413 20171124_105430 20171124_113355 20171124_124230 20171124_124251 20171124_124402 20171124_124629 20171124_124650 20171124_124716 20171124_125109 20171124_124757 20171124_124901 20171124_124930 20171124_125024 20171124_125055 20171124_125742 20171124_124757 20171124_125808 20171124_125822 20171124_125833 20171124_151841 20171124_151809 20171124_151825 20171124_151852 20171124_125841 20171124_151905 20171124_152005 20171124_152016 20171124_125024 20171124_152058 20171124_152116 20171124_152153 20171124_152203 20171124_152215 20171124_152242 20171124_152251 20171124_152325 20171124_152333 20171124_152439 20171124_152452 20171124_152500 20171124_152539 20171124_152549

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-13 東京築地活版製造所アンソロジー 東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地/津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋  

バーナー江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized東京築地活版製造所アンソロジー
東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地
津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
 大名屋敷とは、参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。
以下に『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 (人文社)から「東都下谷絵図」を紹介した。

 「切絵図」では、家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

江戸切り絵図秋葉原周辺この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、神田川左岸に「和泉町」という呼称はまだなかった。
「和泉町」の起立は『千代田区史』によれば明治5年であるが、一般社会にその名が知られるのにはだいぶ時間がかかった。

現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢の国 津藩 藤堂和泉守  二十七万九百五十石の上屋敷と門長屋》
<メディア・ルネサンス>の本番に先立ち、11月11日[土]開催のプレイベント「江戸・東京 活版さるく{愛称 :ブラ富二}」が開催された。
平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野の生誕地:長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーであった。

詳細な報告はいずれタイポグラフィ学会誌でなされるが、参加者のほとんどがおどろかれたのが、近代医学と近代タイポグラフィの揺籃の地が、ともにこの「東京都千代田区神田和泉町一」であり、明治最初期にはまさに激動のさなかにあったことであった。
詳細報告までの間、今回のイベントの AD をつとめられた日吉洋人さんの報告が日展会館でパネル展示によってなされることになった。
旗resized 缶バッジresizedブラ富二引率責任者日吉洋人さん医学館跡プレート 引率:日吉洋人神田某所一亀店主:山本氏・エミリー・字遊人 

津藩上屋敷-01 津藩上屋敷-02 【 プリント用PDF  津藩藤堂和泉守上屋敷・門長屋 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-12  東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会+掃苔会

バーナー

!cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会
三日間 ・ 五人の講師による 連続七回の講演会

*     *     *
講演会場は日展会館新館一階になります。
講演時間は各講師とも一時間を予定しております。
貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。
友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください(聴講・参加費無料)。
講座開始五分前までに一階会場にご集合ください。

──────────
★ 11月24日[金]

講演会 ① : 11:00-12:00
講師 古谷昌二氏
「第一部 平野富二、長崎から東京へ」
古谷昌二さんuu[1] DSCN0377 c878506326f7b271f6b5598137212bce[1] 平野DM表 平野DM裏

★ 11月24日[金]
講演会 ② : 13:30-14:30
講師 春田ゆかり氏
「本木一門創始による 京都〔點林堂〕」
1点林堂外観-M16-tei
★ 11月24日[金]

講演会 ③ : 15:00-16:00
講師 真田幸治氏
「明治の文芸雑誌と東京築地活版製造所 〔文芸倶楽部〕 と 〔新小説〕 」
明治28年 文藝倶楽部 第六編 泉鏡花「外科室」1頁目 明治28年 文藝倶楽部 第六編 表紙 明治28年 文藝倶楽部 第六編 木版口絵 水野年方
──────────
★ 11月25日[土]
講演会 ④ : 11:00-12:00
講師 板倉雅宣氏
「〔もとき〕 か 〔もとぎ〕か 本木昌造の呼称」
板倉雅宣 タイポグラフィ論攷_表紙 タイポグラフィ論攷フライヤー表 タイポグラフィ論攷裏

★ 11月25日[土]
講演会 ⑤ : 13:30-14:30
講師 古谷昌二氏
「第二部 平野富二、神田和泉町から築地・石川島へ」
古谷昌二さんuu[1]
江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized東京築地活版製造所変遷
★ 11月25日[土]
講演会 ⑥ : 15:00-16:00
講師 春田ゆかり氏
「近代ひらがな活字の幕開け、池原香穉と周辺の人々」
2池原香穉書-抜刀隊50395-tei 3吉田晩稼碑63413-tei──────────
★ 11月26日[日]
講演会 ⑦ : 13:30-14:30
講師 平野正一
「子孫からみた 平野富二と縁者たち」
正一さんと平野富二 新旧長崎地図 e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5[1] 平野富二-206x300[1]──────────

東京築地活版製造所アンソロジー
掃 苔 会

{掃苔会}は主会場の日展会館新館に隣接する谷中霊園を中心に
明治近代産業とメディアの勃興に貢献した著名人の
記念碑・顕彰碑・墓地・墓標などをめぐります。

プレイベント<江戸・東京 活版 さるく>をうけて、より一層充実した内容となります。
版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。
歩きやすい靴と服装でご参加ください。また道中に自動販売機がありませんので飲み物を各自ご用意ください。
(26日[日]10:10  二階の受付前にご集合ください。資料代として参加費1,000円)。

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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-11  特別展示 : 東京築地活版製造所アンソロジー/『花の栞』全5回の刊行

バーナー東京築地活版製造所アンソロジー
『花の栞』 全五回

【展示協力】
第一回 ・ 第三回 株式会社モリサワ所蔵
第四回        きくもとグラフィックス株式会社・菊本裕三氏所蔵 兵庫県丹波市

花の栞第3回活版之部 表紙 1898(M38) 花の栞第3回活版之部 草創時三代肖像

『花の栞』第三回 明治31年10月 東京築地活版製造所出品
創業期の経営者三人、とりわけ第二回の編輯を終え、刊行を目前にして急逝した曲田成を偲んでの東京築地活版製造所「生徒」の製作である。
東京築地活版製造所では明治中期まで、本木昌造は翁、平野富二は先生、長崎新街私塾出身者を生徒とする慣わしがあった。
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『花の栞』は、東京築地活版製造所第二代社長 : 曲田 成が、英国 『British Printer』 にならい、創刊直後の『印刷雑誌』をつうじて全国の印刷業者に呼びかけ、印刷技術の向上と新技術の普及をめざして発行したもので、現代のグラフィックデザイン年鑑・タイポグラフィ年鑑などのデザイン年鑑類のさきがけともいえる図書である。

『花の栞』の事務局は「印刷交換会」と称して東京築地活版製造所社内におかれ、印刷物の現物を公募収集し、それを冊子にまとめて発行したもので、公募作品は商用印刷物の提出は不可とされた。また印刷所名だけでなく、作業にあたった職工名、組版方式、印刷技法を明記するようもとめるなど画期的な逐次刊行物であった。
* 表題はいわゆる変体仮名で-はなのしほり・花のしをり-であるが、本稿では国立国会図書館にならってすべてを『花の栞』とした。

創始者の曲田成を第二号の刊行直前に急逝によって失い、逐年刊行はならなかったが、その遺志をうけた第三代社長:名村泰蔵によって刊行がつづけられ、
①明治26年12月 ②明治27年11月 ③明治31年10月 ④明治35年3月 ⑤明治41年6月
都合五回の刊行をみた。ただし名村泰蔵は貴族院議員でもあったので、印刷人は支配人:野村宗十郎の名で刊行されている。
発行部数は回を追うごとに漸減しているが、応募提出部数規定からみても最大150部程度とみられる。印刷図書館に全五回揃いがあり、国立国会図書館ではマイクロフィルム(モノクロ)で第1回・4回・5回を公開している。
また積極的に海外メディアにも送付していたため、海外の博物館にも一部が残存している。

花の栞4-0 花の栞4-1 花の栞4-2 花の栞4-3『花の栞』第四回 明治35年3月製本より

曲田成曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49

ここで東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期の四人の社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二
東京築地活版製造所創設者/初代社長、長崎うまれ・元長崎製鉄所所長
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田 成
東京築地活版製造所第二代社長、淡路島洲本うまれ・元徳島蜂須賀藩士(士籍返上)
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49
◯ 名村 泰蔵
東京築地活版製造所第三代社長/長崎うまれ・原姓北村、高級司法官僚・貴族院議員
天保11年11月01日-明治40年09月06日 1840. 11. 24-1907. 09. 06 享年68
◯ 野村宗十郎
東京築地活版製造所第四代社長/長崎うまれ・原姓服部、長崎製鉄所職員、元大蔵官僚
安政04年05月04日-大正14年04月23日 1857. 05. 26-1925. 05. 04 享年69
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平野富二は開港地であった長崎にうまれ、曲田成は当時徳島藩領であった淡路島中央東部、現洲本市にうまれた。ふたりはともに海をみながら幼少期を送ったが、1846(弘化3)年という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に脳溢血に倒れそのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。わずかな違いは、曲田が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒した。

近年国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』(編輯兼発行/松尾篤三 明治28年10月16日 請求記号:特29-644)が公開されてさまざまな事柄が判明した。そのひとつが、英国の印刷業界誌『British Printer』とのやりとりから曲田が発案した「印刷物交換 『花の栞』」の刊行企画である。

曲田成は創刊直後の『印刷雑誌』(第1巻2号 明治24年3月28日)に、「印刷様本ノ交換」とする記事を投稿している(原文は文語調片かなまじり。若干意訳)。
「英国ロンドンに印刷用紙および印刷業の日報を発行する会社がある。近来その創意によって万国印刷者の印刷物様本〔見本〕の交換がなされている。それをわが国でも企画し、毎年一回これをおこないたい」
として、英国での現状を細かく紹介した。

ついで『印刷雑誌』(第3巻6号 明治26年7月28日)に11条にわたる詳細な「第一回日本全国印刷物交換方法」の応募規定を掲げて公募を開始した。 それによると、
「第1 条 本法は活版・石版・木版・銅版・亜鉛版・写真版・電気版・細網版・およびその他の製版方式などの各種の版式による印刷物をたがいに交換し、技術の進歩を計ることをもって目的とする。交換とは同様同数の印刷物と、異種の同数の印刷物を交換することの意である」
としている。 さらに寸法は天地 ≒ 31.5cm、横 ≒ 24.5cm(製本時に三方化粧断裁されている)、厚さはボール紙・台紙・合紙したものは不可としている。
事務局は東京築地活版製造所内におき、営利目的ではないので、出品者(有料)と広報のための配布のほか、市場販売はおこなわない旨がしるされている。

国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』が公開されたこととあわせ、現在『花の栞』に関する研究も進行中である。
すなわち現在伝承されている東京築地活版製造所に関する事柄から、初代社長/平野富二、二代社長/曲田 成、三代社長/名村泰蔵の業績が抜けおち、象徴的な創業者/本木昌造が常にあらざるほど喧伝されてきた理由が判明しつつあり、その欠落部を埋める調査がなされている。
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◎ 花の栞 第一回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所構内
第一回印刷物見本交換事務所 曲田 成
序文執筆者/無署名(第二回と同一人物)
明治26年12月製本(118点収録)
◎ 花の栞 第二回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/無署名(第一回と同一人物)
明治27年11月製本(111点収録)
◎ 花の栞 第三回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/陽 其二
明治31年10月製本(110点収録)
◎ 花の栞 第四回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治35年3月製本(106点収録)
◎ 花の栞 第五回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治41年6月製本 (86点収録)

Seiichi_Tejima[1]手島精一(1849―1918)

創業から間もない平野富二、曲田成にフィラデルフィア万国博覧会(1876年・明治09年)へ漆器・陶磁器・扇子・屏風などのそれまでの博覧会の出展物だけでなく、文明開化の成果として、近代鋳造活字と活版印刷機の出展をうながし、また英国の印刷業界誌『British Printer』を紹介したのは手島精一だった。
手島精一は技術教育の先駆者。アメリカに遊学し(1870-1874)、帰国後東京開成学校監事、東京教育博物館長、東京図書館主幹を歴任した。その間フィラデルフィア、パリの万国博覧会に日本代表として出席、その後も内外博覧会に主役を演じた。

東京高等工業学校本館東京高等工業学校本館(ふつう蔵前の高等工業と呼ばれた)

1890年(明治23)東京職工学校校長に招かれ、以後、同校の後身である東京高等工業学校(現東京工業大学)の校長を1916年(大正5)まで務め、現場技術者の養成に貢献した。
東京高等工業学校は「蔵前の高等工業、芝浦の高等工芸」とされ、工業と技芸教育の双璧をなした拠点校であったが、関東大震災の被害が甚大で、現在地の目黒区大岡山に移転し、1929(昭和4)年に東京工業大学に昇格し現在にいたる。
手島精一は東京築地活版製造所にフィラデルフィア万博のころから支援をかさね、『花の栞』第四・五巻に序文をしるし、より創意にみちた意欲ある製作を呼びかけ激励している。

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-10  特別展示 : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所-内田百間「築地活版所十三号室」

バーナー田中智子内田01 田中智子内田02
【作品名】 内田百間 『築地活版十三号室』より

【作者名】 著者 : 内田百間
                印刷 : 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)

東京築地活版製造所アンソロジー : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所
内田百間「築地活版所十三号室」

夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日)は、1916(大正5)年12月9日に持病の胃潰瘍が原因で永眠した。
『漱石全集』は岩波書店が刊行した夏目漱石の著作集。第一次全集は1917(大正6)年-1919(大正8)年にかけて全14巻で刊行された。
活字組版・印刷製本は東京築地活版製造所であった。 後年刊行のものに「普及版」「新輯 定版」などがあるが、1935(昭和10)年の「決定版」は小宮豊隆により原稿を尊重して編纂されたもので、以降の漱石全集の基礎となった。
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『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)
「築地活版所十三号室」内田百間

大正六年の漱石全集初版の校正にあたつたのは、森田草平、石原健生、林原耕三の諸氏と私との四人である。
但し第十何巻日記書簡からは小宮豐隆氏が専らその任にあたられた。
私共がその仕事に取りかかつたのは、何年何月からであつたか、はつきりした記憶はないが、毎日みんなの顔を合はした場所は築地活版所の第十三号室である。〔中略〕

十三号室は本館に隣つた川添ひの煉瓦建の二階で、教室ぐらゐの廣さがあつた。その階段の下が職工達の通路になつてゐたので、夕方ぞろぞろと流れる様に帰つて行く職工達の間にふと老人の顔を見附けたり、綺麗な髷のお神さん風の姿に目を惹かれたりして何となく感慨を起こす様な事もあつた。
大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた様である。〔後略〕

M7,M37社屋Uchida_Hyakken内田 百間
(うちだ-ひゃっけん、戦後筆名を百閒と改めた〔読みは同じ〕。1889-1971)

夏目漱石門下の日本の小説家・随筆家。本名は内田榮造。別号百鬼園(ひゃっきえん)。
得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。
1910年(明治43)東京帝国大学文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
1911年(明治44)療養中の夏目漱石を見舞い門弟となる。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平らと知り合う。

『夏目漱石全集』(岩波書店)の校閲に従事したのは1917年(大正6)28歳のころ。
夏目漱石没後20年に際して刊行された『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)に、「築地活版所十三号室」、「漱石全集は日本人の經典である」をしるしたのは46歳のころ。
また「築地活版所十三号室」には「大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた樣である。」とあるが、東京築地活版製造所の本社工場は大正11年のはじめに全面的に取りこわされ、新築がなって、移転の当日に関東大震災に襲われている。此の部分は百間の記憶違いである。
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内田百間による「築地活版所十三号室」の既述と、残された写真とを照合すると、運河沿いの二階角部屋、通路脇の一室が出張校正室につかわれていたことが判明し、大正年代、関東大震災襲来までの東京築地活版製造所の部屋割りの一部があきらかになった。

また東京築地活版製造所はもっぱら活字鋳造所として知られるが、明治初期からさまざまな版式の印刷を手がけており、活字版印刷も『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)をはじめ、岩波書店『漱石全集』14巻を二年ほどでまとめている。

◯ 『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)
菊判 本文606ページ、印刷者・野村宗十郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行33字詰め 字間五号四分 一頁13行 行間五号全角
20171122144039_00001 20171122144039_0000420171122144039_00005
◯ 『漱石全集』(第五巻 著作権者・夏目純一、漱石全集刊行会、大正7年5月5日)
菊判 本文970ページ、印刷者・大久保秀次郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行44字詰め 字間ベタ 一頁14行 行間五号全角
20171122144039_00002 20171122144039_00003 20171122144039_00006
〔推奨参考図書 『漱石全集物語』(矢口進也著 2016年11月 岩波書店)〕