【図書紹介】『夢と次代への挑戦』|平野富二の生涯 ─ 日本初の造船会社「石川島造船所」創業者|株式会社 I H I

20190405172141_00001『夢と次代への挑戦』
平野富二の生涯 ─ 日本初の造船会社「石川島造船所」創業者
株式会社 I H I
2019年4月1日発行

発行者  株式会社 I H I
     135-8710 東京都江東区豊洲三丁目1番1号
仕 様  新書判 128ページ モノクロ

編 集  広報・I R 部 社内報グループ   非売品
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《 主要内容 ── 目次より 》

はじめに
01 近代日本の幕開けとともに
02 機関手として、幕末の海をわたる
03 土佐藩に一時雇われ、龍馬と熱く語る

04 造船への道と、大きな挫折
05 恩師・本木昌造に導かれ、活版印刷の世界へ
06 新都・東京への旅立ち
07 東京築地活版製造所の誕生と、悲しい別れ
08 民間ではじめての造船所をひらく
09 約束を果たし、さらなる夢に挑む
10 試練のとき
11 夢の結晶~軍艦「鳥海」進水へ
12 富二がおこした新事業と、描いた理想
     ◯ 平野土木組
     ◯ 東京平野汽船組合
     ◯ 鉱山事業の機械化
     ◯ 東京中央市区改造計画論
     ◯ 官業払い下げをめぐる怒り
     ◯ わが国初の商業用水力発電所建設の提言
     ◯ 果たされなかった大規模物流計画
     ◯ 民間メーカー初の近代橋を建設
13 石川島造船所を支えた、澁澤榮一発案の「匿名組合」
14 闘病を経て、近代経営への道をあゆむ
15 永遠の熱き思いを胸に
監修あとがき

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~ 

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~  音が出ます  03:57 】


* 拡大画面をご希望の際は、画面右下 YouTube の文字部をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ 】
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I H I 会社概要
I H I は総合重工業メーカーとして、資源・エネルギー、社会インフラ、産業機械、航空・宇宙の4つの事業分野を中心に新たな価値を提供しています。

1853年創設の日本初の近代的造船所「石川島造船所」を起源とする I H I は、造船で培った技術をもとに陸上機械、橋梁、プラント、航空エンジンなどに事業を拡大し、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
現在の I H I は、石川島造船所の流れをくむ石川島重工業が1960年に播磨造船所と合併して「石川島播磨重工業(Ishikawajima-harima Heavy Industries)」となった後、2007年にグローバルブランドの強化を促進するため、社名を「 I H  I」に変更して誕生しました。
I H I は「技術をもって社会の発展に貢献する」という経営理念のもと、今後もものづくり技術を中核とするエンジニアリング力で世界的なエネルギー需要の増加、都市化と産業化、移動・輸送の効率化などの社会課題の解決に貢献していきます。

社   名  株式会社 I H I / I H I  Corporation
本社所在地  〒135-8710 東京都江東区豊洲三丁目1-1 豊洲 I H I ビル
代表取締役社長  満岡 次郎
創   業  嘉永6年(1853年)12月5日
設   立  明治22年(1889年)1月17日
資 本 金    1,071億円
年間売上高    7,217億円(2018年3月期)
連結売上高  15,903億円(2018年3月期)
従 業 員 数  8,256名 連結対象人員:29,706名(2018年3月末)

* 創業:水戸藩 徳川斉昭が幕命により江戸・石川島の地に造船所を創設した日
* 設立:有限責任石川島造船所が設立された日

[株式会社 I H I 会社概要ゟ抜粋 2019年01月08日情報]

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株式会社 I H I / I H I  Corporation の公開展示施設の紹介
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株式会社 I H I 本社 ( I H I ものづくり館 アイミューズ)

所在地 江東区豊洲3丁目1-1 豊洲 I H I ビル1階
概 要
この地は大型船を建造できる新立地として、昭和14(1939)年に開設された。それ以来、東京石川島造船所の研究・設計・製造の拠点であったが、豊洲地区の開発により広大な工場群を閉鎖し、平成18(2006)年に本社ビルを新築した。

それを機会に、I H I の企業史、製品史を展示・紹介するコーナーを設けて一般に公開し、「ものづくり」の大切さを伝える場とした。この開設に当たっては I H I のOBからなる「平野会」の働き掛けがあった。平成30(2018)年にリニューアルされ、受付近くのコーナーに創業者:平野富二に関する展示が追加された。

石川島資料館(石川島平野造船所 跡)
所在地 中央区佃1丁目11-8 ピアウエストスクエア1階 (もと佃島54番地)
概 要
この石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設した所で、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場だった。

この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸-あさひまる」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現 I H I )開設の起点としている。
石川島資料館は、長い歴史を持つ石川島造船所を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア
古谷03月

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
本稿もこれまでの「印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜寿記念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。

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わが国最初期の新聞のひとつ、『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)の表紙

「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

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【平野富二の会】日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地|東京都千代田区神田和泉町 1 資料|「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」安政六年(1858年)購入・披露

広景 3

「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年(1858年)
「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」所蔵

「津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋」
日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地
東京都千代田区神田和泉町 1
[関連:「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」

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平野富二の東京初進出の場所を特定する

このたび「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」が、「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」(安政六年)を購入した。経緯は以下の通り。

  • 2016年12月20日、「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」の結成直前。
    板倉雅宣・櫻井孝三・古谷昌二・片塩二朗・大石 薫・日吉洋人氏が本会事務局に集合。
    長崎での平野富二 生誕地が判明した現在、平野富二の東京初進出の場所の確定が話題になる。
  • 文書記録では「神田佐久間町三丁目」が多く見られるが、それはどうも違うようだとの話となり、現:和泉公園の辺りではないか …… と活発な議論と成るも結論を得ずに散会。
  • 2016年年末-2017年正月、片塩氏が「ミミズのうわごと」状態となって、司馬遼太郎『本郷界隈』、森鷗外『雁』、石黒忠悳『懐旧九十年』、三谷幸吉『本木昌造・平野富二 詳伝』、第一期『印刷雑誌』など関連資料を乱読。
  • 第二次種痘所が幕府に移管され西洋医学所 → 医学所となり、維新後に公収され、また隣接していた津藩藤堂和泉守上屋敷(現:東京都千代田区神田和泉町 1 )に移転。同所は維新後の混乱のなかで、医学所 → 軍陣病院(合併)→ 医学校 → 大病院 → 医学校兼病院 →(大学校分局)→ 大学東校 → 東校 → 第一大学区医学校 → 東京医学校と短期間に呼称が変遷したことを東京大学医学部図書館資料などから確認。
  • 津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋(現:東京都千代田区神田和泉町 1 )に本木昌造らによる「文部省御用活版所」が開設され、その隣接地に平野富二一行が進出したことを確認。
  • 2017年01月初旬、「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」結成。同会にて神田和泉町関連資料の抜粋が紹介された。
    あわせて天文方にはじまり、蕃所調所、洋書調所、開成学校から大学南校 → 東京開成学校となった系譜の調査と、昌平坂学問所(昌平黌)、昌平学校、大学となって、この三つの系譜が現東京大学の枢要部(法学部・理学部・医学部)に連なったおおきな潮流の把握が「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」の研究テーマとして設定された。
  • まもなく古谷昌二氏より都立中央図書館所蔵、まったく同日に、平野正一氏より国立国立国会図書館所蔵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」デジタルデーターが発掘された。
  • 2017年11月11日、「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」のプレイベントとして、バスツアー「江戸・東京 活版さるく」(主催:朗文堂 サラマ・プレス倶楽部)が開催され、参加者とともに、神田佐久間町と神田和泉町(明治5年起立『千代田区史』)を訪問し、位置関係を確認、「神田佐久間町三丁目」としか記録できなかった当時の状況を参加者とともに理解した。
  • 2017年11月24日[金]-26日[日]、「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」(日展会館新館)にて開催され、展示・講演資料として「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」(国立国会図書館所蔵・東京都立中央図書館所蔵)を公開。
  • ここまでの研究の成果は、翌2018年秋『タイポグラフィ学会誌 11』(タイポグラフィ学会発行)に発表され、江戸錦絵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画 安政六年」が、ひろく知られるようになった。 
  • 2019年02月06日、懇意の古書店より「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」(安政六年 1858年)を「平野富二 生誕の地碑 建立 有志の会 → 平野富二の会」として購入した。

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「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」展示資料
「津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋」
【 プリント用PDF  津藩藤堂和泉守上屋敷・門長屋 】

また「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」代表:古谷昌二氏のブログにて、下記の関連記事が公開されている。
[関連:古谷昌二ブログ 2018年10月 文部省御用活版所の開設
[関連:古谷昌二ブログ 2019年01月 東京進出最初の拠点:神田和泉町

bc3c96ef94bc9b6103fa4d238de187f1御用活版所の設立認可(『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵)

この公文書によって本木昌造は、大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、御用活版所の用地拝借を願い出た結果、大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。
この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。

65660edef684f9d89514f4d8993eff66上野下谷外神田辺絵図(近吾堂版、嘉永2年)

津藩藤堂家上屋敷の東西(絵図で左右)の長さは約350メートルで、その周囲は堀と門長屋に囲まれていた。屋敷の南側(上方)の道路に面して豪華な表門が設けられていた。神田川に架かる和泉橋を通る道路は和泉橋通りと称し、現在の昭和通りに相当する。
もう一つの新シ橋-あたらしばし(現、美倉橋)を通る道路は現在の清洲橋通りに相当する。

91c5b93791e1fcb16a3133bec141b742明治4年 藤堂和泉守上屋敷跡絵図(吉田屋又三郎板『東京大絵図』〈明治4年8月改正〉)

藤堂和泉守の上屋敷は新政府に接収されて大病院となった。ここに医学校が移転してきて、大学東校、東校、第一大区医学校、東京医学校と改称を繰り返して、1876(明治9)年に本郷元富士町、現東京大学医学部敷地に移転した。

90f447fb8c8840e3d119534e879f5f51旧東校表門通りの現状写真

画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、道路沿いに堀と門長屋が表門を介して続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、この一画に平野富二一行によって「長崎新塾出張活版製造所」が設けられたとみられる。手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

[関連:活版アラカルト メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-13 東京築地活版製造所アンソロジー 東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地/津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋] 

【長崎歴史文化協会】越中哲也翁-本年三月で三十六年に及んだ幕をおろす ── 今後ともご壮健で{長崎越中節}を熱望するいま

_DSF0300「平野富二生誕の地」碑建立記念祭 除幕式で祝辞を述べられた折りの越中哲也氏
2018年11月24日

越中哲也〔えっちゅう てつや〕
大正一〇年(一九二一)長崎市に光源寺の子息としてうまれる。龍谷大学文学部を卒業して間もなく応集、復員後、長崎市立博物館に学芸員として勤務。昭和四九年(一九七四)長崎市立博物館館長に就任。昭和五六年(一九八一)長崎市立博物館館長を定年退職。
昭和五七年(一九八二)長崎歴史文化協会設立、理事長就任。
昭和五八年(一九八三)純心女子短期大学英米文化科教授となる。平成一〇年(一九九八)純心大学長崎学研究所研究員となり、現在顧問。

現在、長崎歴史文化協会理事長。長崎地方文化歴史研究家であり『ながさきぶらぶら節』(なかにし礼、新潮文庫)に出てくる長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子にあたる。
長崎史や長崎を中心とした美術・工芸の研究と紹介に努めるかたわら、数多くの執筆活動や監修を手掛ける。
「長崎くんち」や「精霊流し」の季節になると、解説者としてテレビに出演し、長崎の人びとに愛されている。著書に『長崎の西洋料理』(第一法規出版株式会社)、「写真集・長崎」(国書刊行会)ほか多数。

DSCN3496長崎市桶屋町の「長崎歴史文化協会事務所」入口

長崎歴史文化協会事務所は創設以来十八銀行が全面支援にあたっていた。稿者もなんどかこの門をたたき、二階の事務所で越中哲也翁の含蓄あるおはなしをうかがった。2019年3月をもって同会が閉鎖されると報道された。一抹のさびしさはあるが、多年・多岐にわたった越中翁のご功績にふかく感謝申しあげる次第である。
また「平野富二生誕の地」碑建立記念祭の除幕式に際してご臨席をたまわり、祝辞を頂戴した。また、次世代を担う若者とともにお元気な越中哲也翁の謦咳に接し、それを記録する機会を得たことを喜びとしたい。

長崎歴史文化協会
昭和五七(一九八二)年五月、長崎における歴史文化を研究し、各文化団体とも連携の上、地域文化の発展に寄与することを目的として設立。

関係図書資料を整備し、必要に応じて一般に公開し、長崎に関する歴史文化の調査研究に対し適切な助言・指導をおこなう。
また、長崎に関する古文書・史料で未刊・未発表のもの、その他学術的に価値あるものについて整理し発刊をおこなっている。

長崎歴史文化協会 2019年3月で幕 ── 越中さん36年を振り返る

2018/12/16 10 : 1212/16  10:22updated ©株式会社長崎新聞社
[ 参考:  47 NEWS  地方紙と共同通信のよんななニュース
DSCN3496「長崎そのものが一つの文化」-。長きにわたり長崎学の研究や発信に貢献してきた長崎歴史文化協会が、2019年3月末で36年の歴史に幕を閉じる。発足当初から理事長を務める郷土史家の越中哲也さん(97)に、これまでの歩みを振り返ってもらった。

長崎県長崎市桶屋町にある事務所は毎週月、水、金曜日に開いており、そこにはいつも越中さんの姿がある。「越中先生、こんにちは」。約110人の会員をはじめ全国各地からその人柄や知識を慕ってひっきりなしに人が訪れ、歴史談議や世間話に花を咲かせていく。

 同協会は、越中さんが旧市立博物館の館長を定年退職した翌年の1982年、当時の十八銀行頭取・故清島省三さんの肝いりで発足した。
「この土地とみごとに調和している人文的風物の根源を探り、広くその成果を地域の皆さんとともにいたしたい」。
初代会長となった清島さんは、同協会の発行する短信「ながさきの空」第1号でそう寄せている。それ以来同行が長年、公会堂前出張所2階を事務所として提供し、常駐スタッフも派遣している。越中さんは

「十八銀行が全面的に支援して、好きなようにしていいと言ってくれたから、これまで活動できた」
と感謝する。

発足当初から越中さんが抱いてきたのは、「長崎学を一般の人に」という思いだった。戦後の何もない時期、故古賀十二郎さんをはじめとした郷土史家らが県立長崎図書館に集まって、ただ自由に語らった。“ 遊び ”として参加していた越中さんは、
「長崎の人が集まって世間話をすることが長崎学。あの時の雰囲気を協会でもう一度再現したかった」
と話す。

その思いを体現し、同協会は越中さんを中心にした社交場のようにさまざまな人が集う。年間の訪問者数は延べ約2千人に上る。作家の故遠藤周作さんやなかにし礼さんといった著名な文化人も、調査などのために数多く訪れたという。
また会員向けの古文書や食文化といった各種講座の開催や、機関紙の発行といった活動も充実。毎週月曜の「長崎学を学ぶ講座」は、これまでに570回以上開き、毎回さまざまな分野の講師を招いて長崎の歴史文化を学んでいる。
「長崎の歴史が日本の文化にどう影響を与えて、それが現代にどのようにつながっているのか。基礎的なことをここで皆さんと考えてきた」

越中さんの歴史とともに同協会は幕を閉じる。時を重ねるように、戦後の長崎学の拠点だった県立長崎図書館も2018年11月末で休館した。「時代の流れでしょうね」と越中さん。
「託された役割は十分に果たせた。また次に長崎学の “ 幕 ” が自然に上がる時が来るでしょう」。
そう語る表情は充実感をたたえている。

【会員情報】宮川雅一著『高島秋帆』長崎文献社|東京板橋区の「高島平」は長崎町年寄・砲術師:高島秋帆にちなむ

20190304152709_00001シリーズ 長崎偉人伝
高島秋帆     
宮川雅一著
定 価 1600円+税
体 裁 四六判 並製
ISBN978-4-88851-282-4 C0023
長崎文献社

東京「高島平」に名をのこす。
砲術師の生涯をひもとく。
門弟たちの業績が「明治産業革命遺産」に輝く。
────────────────
著 者 宮 川 雅 一 氏 紹 介

宮川先生2018年11月24日「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「祝賀会」にて
ご祝辞をいただき、乾杯の音頭をとっていただきました

宮川雅一〔みやがわ まさかず〕

昭和九年(一九三四)長崎市の老舗の酒類・食料品店にうまれる。勝山国民学校・新制長崎中学校・長崎東高等学校卒。
昭和三二年(一九五七)東大法学部卒業後、自治庁(自治省を経て現・総務省)に入る。
以来、自治省・大蔵省(現・財務省)・公営企業金融公庫(現・地方公共団体金融機構)・福岡・滋賀・愛媛・香川各県庁に勤務。
昭和五四年(一九七九)公益財団法人日本都市センター研究室長から長崎市助役に就任。昭和六一年(一九八六)助役を退職し、長崎都市経営研究所を設立。

現在、長崎史談会会長を経て同理事、長崎釈尊鑚仰会会長、長崎近代化遺産研究会会長、唐寺研究会代表幹事、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表、長崎ちびっ子くんち実行委員会会長、出雲大社長崎分院・松森天満宮・伊勢宮の各責任役員など。著書に「長崎散策」シリーズ、『宮川雅一の郷土史 岡目八目』(長崎新聞社)、『長崎偉人伝 高島秋帆』(長崎文献社)ほか。

【Information Release 13】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|特別 YouTube 映像公開

披露01 披露02明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭

◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会  11月24日[土]11:00より開催
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 入  場 料

    無  料 
    *展示のほかに、講演会、活版ゼミナール、ミニ・活版さるくを開催。
◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9 朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp  WebSite : http://hirano-tomji.jp

kazari-downner昨年晩秋に大型イベント<明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭>を終えた「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会は、引きつづき、仮称『平野富二生誕の地碑 建立の記録』(B5判 並製本 380ページ見当)の編集作業を継続しております。
その記録収集に際しては、画像提供:上野隆文・木村雅彦・日吉洋人・大石 薫会員の協力をいただきました。

今回ご紹介する動画は、グラフィックデザインが専門の福士大輔会員の撮影によるものを提供いただきました。来賓の祝辞・挨拶などは編集部でテープ起こしをし、ご本人の確認と補整を加えたものを記念誌には収録予定です。したがいまして本動画収録内容と若干の変更があるかたもいらっしゃることをお断りいたします。
動画は「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会によって特別映像三点を YouTube にアップロードされているものを共有しました。大きな画面でご覧になりたいかたは「 YouTube の文字部」をクリックされると、別ウインドウで拡大画面が開きます。

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特別映像

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◉ 01 【「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「除幕式」音が出ます 27:44 】


◉ 02【「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「祝賀会」音が出ます 40:32 】


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◉ 03【「平野富二生誕の地」碑建立記念祭 ミニ・活版さるく 平野富二ゆかりの地 音が出ます 28:29 】


【 詳細:「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ23}|神田和泉町での平野富二の事績

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。

あらたな市場を東京にもとめて進出した平野富二一行の最初の拠点、東京都千代田区神田和泉町時代は、わずかに一年ほどの間であったが、平野富二の記録によると、明治5年(1872)の活字販売高は、僅か7月から12月の6ヶ月に満たない期間に244,236個(6貫448匁、24.18㎏)の実績を挙げている。
それが翌年になると、神田和泉町から築地に移転した空白期間があるにも関わらず、年間2,772,851個(357貫388匁、1,340.21㎏)を記録している。個数で11.3倍、重量で55.4倍となる。
東京進出直後、はじめて埼玉県から活字350個を受注して、ようやく一息ついた頃から見ると、隔世の観がある。
こうして平野富二による活版製造事業は確実に軌道に乗り、平野富二はさらなる発展を目指して築地の新立地に移転することを決意した。

本稿もこれまでの「印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 神田和泉町での平野富二の事績

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績

< 神田和泉町での平野富二の事績 主要内容 >
はじめに

1)活字の製造体制整備
2)地方府県庁の文書活版化促進:埼玉県庁への活版納入
3)広報宣伝活動:『横浜毎日新聞』に広告掲載
4)広報宣伝活動:『新聞雑誌』に「崎陽新塾製造活字目録」を掲載
5)新聞の活版による印刷化動向
6)勧工寮による活字の外販開始と平野富二の対応
7)政府文書の印刷請け負い
まとめ
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【 Information Release 7 】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|全日程を無事に終了 ── ご協力ありがとうございました

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明治産業近代化のパイオニア 「平野富二生誕の地」 碑 建立記念祭

◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会  11月24日[土]11:00より開催
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9  朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp   Web : http://hirano-tomji.jp/

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<明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭>に際し、多くの有志の皆〻様からたまわりました力強いご支援を背景に、 11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]── の全日程を、連日抜けるような青空、あっぱれ日本晴れの長崎で盛況裡に終了いたしました。
続報は【 詳細:「平野富二生誕の地」碑建立有志会 】と本欄でも引きつづき紹介いたします。

除幕碑1碑2碑3!cid_FB1F9B4E62D94BA9814902C2B3C631FB@robundoNEC序幕をおえた「平野富二生誕の地」碑 は 長崎市に贈呈されました。
左)長崎市長:田上富久氏  右)「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二

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【 詳細:「平野富二生誕の地」碑建立有志会 】

【展覧会】国立科学博物館|特別展 明治150年記念「日本を変えた千の技術博」|’18年10月30日-’19年3月3日

kahaku01 kahaku02国立科学博物館
特別展 明治150年記念「日本を変えた千の技術博」
会  期  2018年10月30日[火]-2019年3月3日[日]
時  間   9時-17時(金曜日、土曜日、10月31日[水]、11月1日[木]は20時まで)
      ※入場は各閉館時刻の30分前まで
      ※今後の諸事情により、開館日や開館時間等について変更する可能性がございます
休  館  日  月曜日、12月28日-1月1日、1月15日[火]、2月12日[火]
      (12月24日[月・休]、1月14日[月・祝]、2月11日[月・祝]、2月25日[月]は開館)
主  催  国立科学博物館、日本経済新聞社、BSテレビ東京
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明治150年を記念した本展では、明治から平成にいたるまでの、日本を変えた科学技術に焦点を当て、ストーリーやキーパーソン、製品・部品、文書、写真資料などを一堂に集めて紹介します。日本の科学技術の歩みを振り返り、その強みや面白さにスポットライトを当てることにより、科学・技術の未来を考えます。

【 詳細: 国立科学博物館
{初掲載:2018年11月15日} XdRByAh6

【会員情報】I H I Corporation|I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~|YouTube 動画を共有紹介

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~  音が出ます  03:57 】


* 拡大画面をご希望の際は、画面右下 YouTube の文字部をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開
嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

【 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/
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I H I 会社概要
I H I は総合重工業メーカーとして、資源・エネルギー、社会インフラ、産業機械、航空・宇宙の4つの事業分野を中心に新たな価値を提供しています。

1853年創設の日本初の近代的造船所「石川島造船所」を起源とする I H I は、造船で培った技術をもとに陸上機械、橋梁、プラント、航空エンジンなどに事業を拡大し、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
現在の I H I は、石川島造船所の流れをくむ石川島重工業が1960年に播磨造船所と合併して「石川島播磨重工業(Ishikawajima-harima Heavy Industries)」となった後、2007年にグローバルブランドの強化を促進するため、社名を「 I H  I」に変更して誕生しました。
I H I は「技術をもって社会の発展に貢献する」という経営理念のもと、今後もものづくり技術を中核とするエンジニアリング力で世界的なエネルギー需要の増加、都市化と産業化、移動・輸送の効率化などの社会課題の解決に貢献していきます。

社   名  株式会社 I H I / I H I  Corporation
本社所在地  〒135-8710 東京都江東区豊洲三丁目1-1 豊洲 I H I ビル
代表取締役社長  満岡 次郎
創   業  嘉永6年(1853年)12月5日
設   立  明治22年(1889年)1月17日
資 本 金    1,071億円
年間売上高    7,217億円(2018年3月期)
連結売上高  15,903億円(2018年3月期)
従 業 員 数  8,256名 連結対象人員:29,706名(2018年3月末)

* 創業:水戸藩 徳川斉昭が幕命により江戸・石川島の地に造船所を創設した日
* 設立:有限責任石川島造船所が設立された日

[株式会社 I H I 会社概要ゟ抜粋 2019年01月08日情報]

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株式会社 I H I / I H I  Corporation の公開展示施設の紹介
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株式会社 I H I 本社 ( I H I ものづくり館 アイミューズ)

所在地 江東区豊洲3丁目1-1 豊洲 I H I ビル1階
概 要
この地は大型船を建造できる新立地として、昭和14(1939)年に開設された。それ以来、東京石川島造船所の研究・設計・製造の拠点であったが、豊洲地区の開発により広大な工場群を閉鎖し、平成18(2006)年に本社ビルを新築した。

それを機会に、I H I の企業史、製品史を展示・紹介するコーナーを設けて一般に公開し、「ものづくり」の大切さを伝える場とした。この開設に当たっては I H I のOBからなる「平野会」の働き掛けがあった。平成30(2018)年にリニューアルされ、受付近くのコーナーに創業者:平野富二に関する展示が追加された。

石川島資料館(石川島平野造船所 跡)
所在地 中央区佃1丁目11-8 ピアウエストスクエア1階 (もと佃島54番地)
概 要
この石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設した所で、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場だった。

この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸-あさひまる」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現 I H I )開設の起点としている。
石川島資料館は、長い歴史を持つ石川島造船所を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

【 詳細: 株式会社 I H I   i – muse     石川島資料館 】