【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間
【 時 間 】 開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕 尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主 催 】 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部
尚古集成館 http://www.shuseikan.jp/ 仙巌園 http://www.senganen.jp/
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 http://robundo.com/adana-press-club/
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【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 04 薩摩藩と三代木村嘉平の活字 】
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【 緊 急 の お 知 ら せ 】
◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。
◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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第三代 木村 嘉平 ( 名は房義。1823/文政6年-1886/明治19年 行年64 )
[図版出典 : 田村省三 「木村嘉平と川本幸民」 『日本の近代活字』 p.232 – 237 朗文堂]
木村嘉平 (きむら かへい。三代。名は房義。1823年/文政06年-1886年/明治19年03月24日) とは、初代から五代にわたる江戸と東京の木版彫刻士の世襲名であり、しばしば木村の村を 「村の異体字 邨」 につくり、また略して 「邨 嘉平、邨 嘉」 などと唱えたり、彫刻していました。
現在鹿児島 尚古集成館が所蔵する、活字資料(重要文化財)を製作したのは、江戸神田小柳町 第三代 木村嘉平(木村房義)といい、18歳で父をうしなって三代嘉平を襲名しました。
三代嘉平は筆意彫りを得意とする名工とされ、藩政時代には 薩摩藩、加賀藩の御用をたまわって、数多くの木彫作品や木版製品をのこしています。
その三代嘉平の製作物のひとつに、鹿児島県立図書館所蔵の、薩摩府學蔵版の数冊の木版刊本があり、『中楷古文孝経』(1850年/嘉永03年)の跋文最終ページの欄外には、上掲図のような「 邨 嘉 平 刻 」がみられます。
また、おなじく薩摩府學蔵版のうち、『施治攬要 セジランヨウ』(1857年/安政04年)は、あきらかに木活字によるものであると田村氏はしるされています(p.235)。
すなわち三代嘉平は、活字駒彫りを、すでに1857年以前、すくなくとも安政年間から実践していたことになる貴重な資料といえるでしょう。
三代木村嘉平が開発した活字は、徳川幕府膝元の江戸や、開港地長崎での活字開発者とは幾分文脈を異とする貴重なものです。
三代嘉平は江戸に居住していましたが、薩摩島津家28代、薩摩藩11代藩主 : 島津斉彬 (なりあきら 1809-58 ウィキペディア : 島津斉彬 ) の委嘱をうけ、もっぱら蘭書などの文献資料にまなびながら、まったく独自に活字製造に着手して、パンチド ・ マトリクス方式からスタートして、やがて電鋳法 (電胎法とも) にいたって一定の成果をみました。
三代嘉平が斉彬によって、わずかに一冊のオランダ語訳本 『Engelsche Spraakkunst』 (エンゲルセ ・ スプラークキュンスト 英人 Murray, Lindrey 著)をあたえられ、鋳造活字製造の委嘱をうけたのは1854年 (安政元年)とされています。
この斉彬による委嘱の時期は、先に紹介した 『施治攬要 セジランヨウ』 (1857年/安政04年) より以前であったことも注目したいところです。
すなわち三代嘉平は木版にかえて、木活字を平行ないしは先行させて彫刻していたこととなります。この木活字での経験は、「電鋳法による活字原型」 としての 「活字駒」 の製造に際しておおいに有効だったと想像できます。
そして三代嘉平は幕府には内密のまま作業をすすめ、ようやく鋳造活字の製作が完了したのは、1864年(元治元)、数えて実に11年後のことでした。
『遠西奇器術 第二輯』 電気模造機の項。『江戸の科学古典叢書』(国立国会図書館蔵)
上掲書 、田村省三 「木村嘉平と川本幸民」 『日本の近代活字』 のなかで、田村氏は、
「五代嘉平が記した 『木村嘉平献上安政年間製活字略傳書類 全』 に、嘉平が電胎法を学んだのは、江戸の薩摩藩邸で講義していたオランダ人からであると書かれている。しかしこの時代、オランダ人が大名の屋敷に滞在し、長期間の講義をおこなうようなことはまったく不可能だったはずだ」 (p.236)
と のべています。さらに、
「とすれば、嘉平は誰から電胎法を学んだのか。筆者 [田村] は現在、川本幸民 乃至は その周辺の人物ではなかったかと考えている。実は、川本幸民の 『遠西器術』 [国立国会図書館蔵] にその手がかりがあった」
とされています。
これらの和欧文活字をはじめ、活字の製作工程を知ることのできる諸道具類は、三代嘉平房義、四代嘉平 : 房義の長男、五代嘉平 : 房義の末子の歴代にわたって木村家に継承されていましたが、1879年(明治12)、同81年の二度にわたる神田の大火によって一部を消失しました。
しかし大半の資料は、三代嘉平の末子/五代嘉平によって、1907年(明治40)島津邸におさめられ、その後鹿児島の尚古集成館に所蔵され、1998年(平成10) 「木村嘉平関係資料」 として 重要文化財 に指定されました。
今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> に際して、木村嘉平活字研究の第一人者にして、尚古集成館館長/田村省三氏による特別講演会が予定されています。
また講演後に、今回 <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に特別展示されている 「木村嘉平関係資料」 のギャラリー ・ トークも、館長みずからその任にあたってくださいます。
これ以上のご紹介は、尚古集成館でのご講演に待ちましょう。
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《 きわめて太いパイプでつながっていた 幕末薩摩藩と 長崎製鉄所 》
巷間、これまでは、明治初期、長崎製鉄所の活版伝習所に 「電鋳法 ・ 電胎法」 が伝わったとされてきました。 またこのことは一部の文書記録にものこっています。
しかしながらこれらの文書記録は、もともとは印刷人でも活字人でもない文章家によって、明治中期ころからしるされ、それが繰り返し引用されてきたために、技術的見地からみると多くの問題点や齟齬を抱えています。
もともと幕府直営の製鉄所であった長崎製鉄所は、幕末ともなると、溶鉱炉こそなかったものの、艦船の航行や修理などに必要とされる、相当高度な工業技術と工業設備をゆうしており、「大規模な鉄工所」とされるほどの存在でした。
そのことが 『創業150周年記念 長船よもやま話』 (同書編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所、平成19年10月)、『平野富二伝 考察と補遺』 (古谷昌二、朗文堂、2013年11月22日) などの刊行によって次第にあきらかになりました。
その結果 ―― 明治初期、長崎製鉄所の活版伝習所に 「電鋳法 ・ 電胎法」が伝わった ―― とする従来の記録には、工業技術者から疑念が提示されています。
すなわち個個の事象をとりあげるだけではもはや不十分かもしれません。時系列にそって印刷史研究も見直していただきたいときになってきたようです。
いずれにしても、薩摩藩は幕府にはこの鋳造活字製造事業への取り組みを伏せ,、おおやけには内密裡に進行したために、未解決の問題は多多のこされています。
すなわち1873年(明治06) 平野富二が東京に本格的に進出したとき、東京にはすでに <三代 木村嘉平> の鋳造活字は存在していました。
さらには、大関活字、志賀(志気ともされる)活字など、詳細は不明ながらも、あきらかに鋳造活字のための 「活字母型」 を所有していた 「鋳造活字製造所」 が複数存在しており、いっときは平野富二と競合した史実と整合がとれなくなります。
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上) 海岸にそって手前の工場群が集成館、奥が仙巌園。 1872年(明治05)天皇巡幸記念として撮影されたもの。 現在は尚古集成館 ・ 仙巌園。
下) 長崎飽の浦に設けられた長崎製鉄所 (左手奥) の明治最初期の写真。 現在は三菱重工業株式会社長崎造船所の本社工場となっている。
《 鹿児島と長崎 ―― 太い絆で結ばれていた近代工業化と活字版製造の歩み 》
鎖国から開国へ、幕藩制度から近代化へ ―― 国をあげ、欧米列強諸国に追いつき追いこそうと、一心不乱になったのが明治初期でした。
以前から、鹿児島の 「 前浜/磯庭園 」 とされるあたりの光景が、長崎飽の浦の長崎製鉄所(現 : 三菱重工業株式会社長崎造船所 本社工場)の光景と、とてもよく似ていることがふしぎでした。
その疑問を尚古集成館館長 : 田村省三氏になげかけたところ、あっさりと、
「 それは似てますよ。 集成館は長崎製鉄所を意識して造営されましたから…… 」
こういう返答があって、呆然としたことがありました。
とかく看過されがちですが、このとき、ふるくからの開港地であった長崎と、海外への飛躍をはやくからこころみていた薩摩藩とは、活字と印刷術でもふとい絆でむすばれていました。
簡略にあげても以下のようになります。
◯ 本木昌造は池原香穉カワカを通じ、薩摩藩儒臣: 重野安繹ヤスツグから活版印刷機を購入した。
◯ 本木昌造が関与した大阪活版製造所は元薩摩藩士 : 五代友厚の資金援助により設立された。
◯ 平野富二は東京への進出に際し、五代友厚に 「首証文」 を提出して資金援助を受けたとされる。
◯ 東京築地活版製造所第四代代表 : 野村宗十郎の父は長崎在勤の 薩摩藩士だった。
「大阪活版所跡」碑 (所在地 : 大阪市東区大手通二丁目。 写真 : 雅春文庫提供)
大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「 明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした 」
大阪商工会議所ビル,、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚のおおきな立像が建つ。 また鹿児島中央駅前には 「若き薩摩の群像」 の巨大な彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が、前方を指さす勇壮な姿で刻されている。
【 関連情報 : 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢 】
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<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>の準備が佳境に入りつつあるころ、奇妙な指摘がなされました。
「この 邨 嘉平 刻 ―― の画軸を平野ホールでみたことがある……」
これまで、平野富二と東京築地活版製造所の事業では、鹿児島県との関係を、五代友厚(幼名 : 才助)だけからとらえ、平野富二が石川島平野造船所を創立したのちは、薩摩閥を背景とした、川崎重工の創立者 : 川崎正蔵との抗争にもっぱら目を奪われていましたから、この指摘はおどろきました。
下掲写真で紹介するのは、「平野富二研究会」 のメンバーと、平野ホールの 「虫干し会」 に訪問した折りの記録です。
この画軸は木版画とみられ、滅亡した明国から渡来し、徳川水戸藩主 : 水戸光圀の政治顧問になった 「 朱 舜水 」 による書画を ― 水府 (水戸) の藩校 : 尚義館の木村氏が所蔵していたものを、後世のいつのころか木版に刻み、ばれん刷りしたもので、俗に水戸拓本 ・ 水戸拓とよばれるものを軸装したものとみられました。
この書軸の左下隅に、いくぶん不鮮明ながら、たしかに薩摩府學蔵版と同様な 「 邨嘉平刻 」 がみられました。 薩摩府學蔵版の刻者署名と比較すると、「平」 の字の一画目の特徴あるさばきとがことなりますので、いまは三代嘉平の作と断定することは慎みたいとぞんじます。
それにしても平野富二と水戸藩との接点、そして薩摩藩と縁がふかかった木村嘉平との接点までもが平野ホールにはのこされていました。 研究に終わりはないようです。