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【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合|アルビオン型手引き印刷機一号機 復旧再稼働成功報告|愈〻研究本格展開|初出 ‘17年1月23日

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
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《 熱意が通じました!
 イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》

長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の重要性と、その保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに、二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A (現:Salama-21A)や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「ハ-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン上掲写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリが、アメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、重いオモリにかえて、圧盤を頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が、商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(長崎県南高来郡有家町ミナミタカキグンアリエチョウ 現:長崎県南島原市有家町石田に住所表示変更)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣はハンドプレス・手引き印刷機(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現存しているが、加圧ハンドル、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1]切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている、俗称「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名とマークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、
「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のどちらで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見された印刷機は、平野富二関連では『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の再発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・機械工学界の研究者が、ひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究
── 活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》

長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく転換していた。

同書刊行の直前、筆者であり発売元の朗文堂:片塩二朗は、肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)には、主要展示に同館が所蔵する三台の「アルビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引き印刷機に取り組み、論述したものである。著者:板倉雅宣は、国内各所に現存している手引き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造元・製造年度に関して詳述している。

それによると、長崎の一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマークの採用時期と照らして、明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のパイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業を、IHI出身の古谷昌二氏が、まったくあらたな視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をはじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1]DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたって蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったため、工具も足りず、部品の補充もできず、わずかに「チンパン Tympan」を新設した程度で、稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎されて、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった 境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキローラー鋳型」かあり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

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《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業組合の力により「アルビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。
板倉雅宣『手引き印刷機』より20160914163336_00002[1]20160914163336_00001[1]DSCN6742-627x470[1]DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたったサラマ・プレス倶楽部会員:日吉洋人さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1]DSCN6687-627x470[1]ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、朗文堂:片塩二朗が簡単ではあったが解説にあたった。
DSCN6804-627x352[1]{ 関連記事:文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露 

【展覧会】京都工芸繊維大学美術工芸資料館|鐔・髪飾りのかたちとデザイン ― 新収蔵品を中心に|’25年3月3日-7月12日|開展參个月

京都工芸繊維大学美術工芸資料館
鐔・髪飾りのかたちとデザイン―新収蔵品を中心に
Shapes and Designs of Tsuba (Sword Guards) and Hair Ornaments:
Focusing on Newly Acquired Works
開催期間  2025年3月3日[月]- 7月12日[土]
休  館  日  日曜日・祝日
開館時間  10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
会場案内  京都工芸繊維大学美術工芸資料館 1階
      〠 606-8585 京都市左京区松ヶ崎橋上町
      電話番号 075-724-7924 ファックス 075-724-7920
入  館  料  一 般 200円、大学生 150円、高校生以下 無料
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
協  力  京都・大学ミュージアム連携
主  催  京都工芸繊維大学美術工芸資料館
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刀剣を装飾する刀装具は、鐔 -つば-と三所物と呼ばれる目貫 -めぬき・笄 -こうがい・小柄 -こづか- が代表的です。柄と鞘のあいだに位置する鐔は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄と小柄(小刀)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました。
京都工芸繊維大学美術工芸資料館で刀装具や髪飾りの所蔵がされてきたのは、意匠性と機能性を兼ね備えるものとして、恰好なデザイン教材と考えられたからでしょう。このたび新たに鐔をはじめとする刀装具約670点と髪飾り約180点を収蔵し、大きくその幅を拡げることとなりました。
本展は、新たにコレクションに加わった刀装具や髪飾りの一部を公開するとともに、鐔を中心にそのデザイン教材としての可能性を探ります。鐔は円や角、木瓜などさまざまなかたちを持ち、戦いのための適切な大きさ・重さといった条件を満たしながらデザインされています。そんな鐔そして髪飾りのかたちとデザインを通して、日本において育まれてきた身に着けるものへ美を追い求める心に学んでいただければと思います。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 京都工芸繊維大学美術工芸資料館

{ 新宿餘談:かねて 円形乃至は楕円形の 刀剣の「つば・鞘・鐔」にある、複数の穴の存在が気になっていた。東京国立博物館本館で刀剣展があったおりに、チョット調べたことがある。本展では真っ向からそのテーマに切り込んでいる。説明するとどうしてもくどくなるし、展覧会開催者には失礼になるが、それを怖れず本稿読者に「メモ」として紹介したい。
編輯 ▷ 刀剣において……柄と鞘-鞘・鐔 ともに漢音:タン 意読:しおで、さや-のあいだに位置する 訓読:つば-、刀の柄ー漢音:ヘイ 意読:え・がら・つか-は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄ー漢音:ケイ、和訓:こうがい、たばねた髪をとめるかんざしーと、小柄ー意読:こづか・こがたな-(ちいさな刀、小刀-ショウトウはより大きい)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました}

【展覧会】茅ヶ崎市美術館|美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき|’25年4月1日-6月8日|会期末/ 保存推奨資料

茅ヶ崎市美術館
美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき
Art Museum Architecture: Where Art and Architecture Harmonize
会  期  2025年4月1日[火]- 6月8日[日]
休  館  日  月曜日(ただし、5月5日は開館)、5月7日[水]
開館時間  10:00 - 17:00(入館は 16:30 まで)
料  金  一 般 800円、 大学生 600円 茅ヶ崎市内在住65歳以上 400円
      * 高校生以下、障がい者およびその介護者は無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
会場案内  茅ヶ崎市美術館
      〠 253-0053 神奈川県茅ヶ崎市東海岸北1-4-45
      TEL 0467-88-1177 FAX 0467-88-1201 ▷ アクセス
協  賛  鹿島建設株式会社、丸井産業株式会社、大成建設株式会社
協  力  WHAT MUSEUM 建築倉庫、株式会社シラヤマ
共  催  茅ヶ崎市、文化庁国立近現代建築資料館
主  催  公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
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地域に根ざした建築設計で知られる山口 洋一郎の「茅ヶ崎市美術館」は、鳥が翼を広げたような屋根が特徴的です。この湘南の軽やかな空気をまとう当館を舞台に、場の特性を活かす “サイト・スペシフィックな芸術” として、5つの珠玉の「美術館建築」を取り上げます。
石見地方特産の石州瓦で建物全体を覆い、釉薬の違いにより玉虫色の建築を創り上げた内藤 廣「島根県芸術文化センター」。
広島の造船技術を活用した可動展示室を中心に、所蔵作品から着想を得たエミール・ガレの庭、10棟のヴィラ、レストランからなる海辺にたたずむ坂 茂「下瀬美術館」。
瀬戸内の島につくられた銅製錬所の遺構を活用し、周囲の丹念なリサーチのもと、風・水・太陽を “動く素材” として扱い、自然エネルギーによる循環型建築を創り出した三分一 博志「犬島精錬所美術館」。
環境・アート・建築が一体となり、上部に大きく開けた穴からうつろう自然を採り込む、唯一無二の空間で知られる西沢 立衛「豊島美術館」。
加えて、国内の建築資料のアーカイブを行う文化庁国立近現代建築資料館が所蔵する3つの美術館、坂倉 準三「神奈川県立近代美術館」、ル・コルビュジエ「国立西洋美術館」、高橋 靗一 *+第一工房「群馬県立館林美術館」のオリジナル図面も公開します。

本展では、模型や設計図面に加え、初期アイデアスケッチ、建築素材、実験過程がわかる資料を通じ、建築家の思考を辿るとともに、その場所にその美術館がある意味を探っていきます。

* 高橋 靗一 / 読み方:ていいち 靗一の「靗」は青偏に光。以下全て同様。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 茅ヶ崎市美術館 ] 

【展覧会予告】渋谷区立松濤美術館|黙然たる反骨 安藤照|没後・戦後80年 ー忠犬ハチ公像をつくった彫刻家-|’25年6月21日-8月17日

渋谷区立松濤美術館
黙然たる反骨 安藤照
― 没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家 ―
会  期  2025年6月21日[土]-8月17日[日]
入  館  料  一 般 1,000円、大学生 800円、高校生・60歳以上 500円、小中学生 100円
      * 土・日曜日、祝休日及び夏休み期間は小中学生無料
      * 毎週金曜日は渋谷区民無料 
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
休  館  日  月曜日(ただし7月21日、8月11日は開館)、
      7月22日[火]、8月12日[火]
会場案内  渋谷区立松濤美術館
      〠 150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
      TEL:03-3465-9421  ▷ アクセス
主  催  渋谷区立松濤美術館
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渋谷駅前のモニュメント《忠犬ハチ公像》(初代) の作者、安藤 照〔あんどう てる 1892-1945〕。没後80年を記念した本展は、彼の彫刻家としての活動を網羅的に紹介するはじめての展覧会となります。
安藤は、数々の彫刻家がしのぎを削った昭和戦前期の彫刻界で活躍を期待された存在でした。1917年に東京美術学校に入学し、在学中の1921年に帝国美術院展覧会 (帝展) で彫刻家としてデビュー。翌年に帝展特選、そして1926年には帝国美術院賞を受賞するなど、はやくから頭角をあらわします。
1927年には帝展彫刻部の審査員に任命されたほか、1929年には中堅彫刻家の作品研究の場として結成した団体「塊人社」のリーダーとして活躍しました。そして、1934年には《忠犬ハチ公像》、1937年には《西郷隆盛像》(鹿見島県鹿児島市)と、現在も語り継がれるモニュメントを制作し、彫刻家としての地位を築いていきます。しかし、その道半ばの1945年5月、渋谷区代々木の自宅兼アトリエが空襲にさらされ、安藤もその犠牲となりました。
本展では、誰もが知る《忠犬ハチ公像》の影に隠れ、これまで語られる機会の少なかった安藤照の生涯について、戦火をのがれた現存作品約30点のほか、関連する作家の作品とともに迫ります。
激動の彫刻界、そして戦争に向かう不安定な時代の中でも「ただ黙々と仕事をして居ります」と語った安藤の作品は、時世の雰囲気に逆らうかのごとく、素朴で静謐です。激しくうつろう社会を生きる現代のわたしたちにとって、時代と黙然と戦った安藤の彫刻は新鮮に映ることでしょう。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 渋谷区立松濤美術館 ] 

【展覧会】書の美術館 春日井市道風記念館|館蔵品展 - 一回性の美学 -|’25年4月23日-7月13日

書の美術館 春日井市道風記念館
館蔵品展 - 一回性の美学 -
会  期  令和7年(2025年)4月23日[水]- 7月13日[日]

開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
展示解説  学芸員が初心者向けに展示品の解説をします。事前予約は不要です。
      令和7年(2025年)5月10日[土]6月1日[日]
      各 日 午前10時30分-11時、午後2時-2時30分 道風記念館1階展示室
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3 電話 0568-82-6110
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  一点一画すべてが一回きり。その潔さが書の魅力。

筆で書いた一本の線の軌跡が “書” です。いちど書いた線の上から線を重ねて修正することは基本的にありません。二度と同じ作品が生まれないのはもちろん、一点一画すべてが一回きりのものなのです。
そして書は、その筆脈を多くの人が共有できるところに大きな特徴があります。書には筆順があり書き直しをしないため、鑑賞者が筆の動きを読み取り、時間の経過をたどって作品が仕上がる様を追体験することができます。たとえ古い時代に書かれたものからでも、書いた人の息づかいを感じることができるのです。
今回の館蔵品展では、筆の動きを読み取りやすい行書・草書の作品や、淡墨で書かれた作品を中心に展示します。書においての「一回性」という特徴をこころに留めながら作品を鑑賞してみてください。書のおもしろさ、奥深さを感じるきっかけとなれば幸いです。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

[ 動画紹介:春日井市公式動画チャンネル  YouTube

             春日井市 道風記念館館蔵品展「一回性の美学」紹介 2:56 ]

【展覧会予告】書の美術館 春日井市道風記念館|企画展 「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~|’25年7月18日-8月31日

書の美術館 春日井市道風記念館
企画展
「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~
会  期  令和7年(2025年)7月18日[金]- 8月31日[日]
開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3
      電話 0568-82-6110 ▷ 交通アクセス
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小野道風(おののとうふう 894-966)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。道風の日本書道史上における功績を一口でいえば、従来の中国の書の模倣から脱して、日本風の書を創造したことです。その優美な書は和様の書と呼ばれ、後世に大きな影響を与えました。和様の書は、藤原佐理に継承され、藤原行成によって完成されたといわれ、この三人を三跡とよびます。
春日井市は道風の偉業を讃え、後世に伝えるため、昭和56年、道風生誕の地と伝えられる松河戸町に春日井市道風記念館を開館しました。全国的にも数少ない書専門の美術館です。

今回の企画展では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します。柳と蛙の逸話にもみられる努力の尊さ、古きを学び、それを活かして新しい書を生み出した道風の革新的な精神に触れていただきたいと思います。

※ 夏休み企画として、盛りたくさんなイベントが設定されています。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご参加・ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

{ 新宿餘談 }今回の企画展のテーマ<~ 小野一族のひみつ ~>では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します──とある。
これはおよそお子様向け企画とはいえない。つまり慌ててググったら これに触れた記録が散見 され、資料を繰ったら記録があった。小野道風の一族は長大なつながりと拡がりをもっており、小野小町と小野道風はいとこという関係になる。これは迂闊にも知らなかった。稿者はかつて春日井市でイベントを開催したこともあり、この「春日井市道風記念館」にも数回足をはこんでいる。いまはただ己の無知を羞じるばかりである。

【展覧会】G U C C I - グッチ銀座ギャラリー|横尾忠則 未完の自画像-私への旅|’ 25年4月23日-8月24日|開展壹个月

G U C C I - グッチ銀座ギャラリー
横尾忠則 未完の自画像-私への旅
期  間  2025年4月23日[水]- 8月24日[日]
会  場  GUCCI-グッチ銀座ギャラリー
      〠 104-0061 東京都中央区銀座4-4-10 ダッチ銀座7階
      東京メトロ銀座駅B2出口
時  間  11:00 - 20:00(最終入場19:30)
      入場無料、予約優先制、会期中無休
      * 開催内容・時間は予告なしに変更となる可能性がございます。
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2025年、グッチは、創造性を通じたコミュニティとの共創をテーマに日本国内でアートプロジェクトを多面的に展開いたします。その取り組みのメインとなるのが、日本を代表するアーティストである横尾忠則氏との展覧会「未完の自画像 – 私への旅」の開催です。
「旅」を想起させるテーマを描いた 横尾作品を中心に、今回初公開となる自画像や家族の肖像など最新作を含めた20点以上の作品が展示されます。
本展を通して、芸術の創造性は完成された瞬間よりも、むしろ未完成であることにこそ宿るという、横尾氏が一貫して掲げてきた美学を感じていただけます。

常に進化を続けるグッチというブランドの在り方とも響き合う展覧会「横尾忠則 未完の自画像 – 私への旅」は、2025年4月23日[水]より開催します。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : G U C C I - グッチ銀座ギャラリー

【輝安鉱標本】本木昌造が谷口黙次を派遣して採掘したとされる熊本県天草市天草町産出-輝安鉱の鉱石標本

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【 独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium 】
本木昌造が谷口黙次を派遣して採掘したとされる
「肥後国西彼杵郡高原村-熊本県天草市天草町」の

鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】――広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで……》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力社員であるが、ご本人の強いご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一著 2001年8月20日 p.106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありである。全国規模で同好の士も多いとされる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも「現地調査」をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石標本程度は入手できるそうである。
「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ―― 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
上掲写真のお譲りいただいた輝安鉱の原石は、手のひらに載るほどわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産のレアメタルになっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査がなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからの指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい〔管見ながら印刷業界からのみるべき報告は無かった〕。目下の調査では、本木昌造が社員某、あるいは初代谷口黙示に採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

〔福 地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴筆 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891年 p.6)
〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933年 p.61-62)
〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『本邦 活版開拓者の苦心』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934年 p.21-22)
〔島 屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p.102-6, p.175)
〔福 地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844-1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、〔大阪活版製造所代表の初代〕谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。
而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844-1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島 屋〕 本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)
上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。
そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)
明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村 ─── 熊本県天草市天草町》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられた。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市町村かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。その結果、たしかに同市にはいまも高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって、東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようである。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎・熊本行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという、矮小化された誤解を生じさせたような気もする昨今である。

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《活字地金とアンチモン》
活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増し、表面の平滑性をたかめる働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることのほうがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途、企業によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状などの活字地金〔インゴット〕にもどして利用されている。

〔 初 出 : 朗文堂ブログ 花筏 タイポグラフィあのねのね*004 アンチモンの原料鉱石、輝安鉱 2011年3月3日 〕── 若干補筆・整理を加えて転載した。

【展覧会】サントリー美術館|酒呑童子ビギンズ|25年4月29日-6月15日

サントリー美術館
酒呑童子ビギンズ
会  期  2025年4月29日[火]- 6月15日[日]
      * 作品保護のため、会期中展示替を行います。また、本展は撮影禁止です。
開館時間  10:00-18:00(金曜日は10:00-20:00)
      * 5月3日[土・祝]-5日[月・祝]、6月14日[土]は20時まで開館
      * いずれも入館は閉館の30分前まで
休  館  日  火曜日 * 4月29日、5月6日、6月10日は18時まで開館
入館料金   一 般     当  日   ¥1,700   前  売   ¥1,500
      大学・高校生 当  日   ¥1,000   前  売   ¥   800
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
主  催  サントリー美術館
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酒呑童子は、日本で最も名高い鬼です。平安時代、都で貴族の娘や財宝を次々に略奪していた酒呑童子が武将・源頼光とその家来によって退治される物語は、14世紀以前に成立し、やがて絵画や能などの題材になって広く普及しました。なかでも、サントリー美術館が所蔵する重要文化財・狩野元信筆「酒伝童子絵巻」(以下、サントリー本)は、後世に大きな影響を与えた室町時代の古例として有名です。このたびの展示では、解体修理を終えたサントリー本を大公開するとともに、酒呑童子にまつわる二つの《はじまり》をご紹介します。

酒呑童子の住処といえば、物語によって丹波国大江山、あるいは近江国伊吹山として描かれ、サントリー本は伊吹山系最古の絵巻として知られます。以降、このサントリー本が《図様のはじまり》となり、江戸時代を通して何百という模本や類本が作られました。
さらに近年注目されるのは、サントリー本とほぼ同じ内容を含みながらも、酒呑童子の生い立ち、すなわち《鬼のはじまり》を大胆に描き加える絵巻が相次いで発見されていることです。
本展では、これらの《はじまり》に焦点をあて、絵画と演劇(能)の関連にもふれながら、酒呑童子絵巻の知られざる歴史と多様な展開をたどります。現代のマンガやアニメにも息づく、日本人が古来より親しんできた鬼退治の物語をお楽しみください。

酒呑童子は、酒伝、酒顛、酒典、酒天とも表記されます。
本展では、作品名は基本的に題箋の表記を尊重し、
物語や鬼の汎称として「酒呑」の語を用いています。

>展示構成 <
◇ 第1章 狩野元信筆「酒伝童子絵巻」の大公開
サントリー美術館が所蔵する重要文化財「酒伝童子絵巻」(以下、サントリー本)は、成立時期やその経緯が判明する点で貴重な絵巻です。すなわち、大永2年(1522)に、小田原の北条氏綱の依頼によって制作が始まり、絵は狩野元信が担当したことが知られています。
狩野派の確立者・元信によって描かれた酒呑童子絵巻は、以降、同派を代表する画題のひとつとなり、江戸時代を通して、さらに流派も超えて繰り返し描き写されました。いわば、サントリー本こそが《図様のはじまり》といえるでしょう。
また、サントリー本の図様は、能の演出にも影響した可能性があります。例えば、能「大江山」(替之型)では、酒呑童子の初登場場面で、まるでサントリー本の絵を見るかのように、童子が二人の童を両脇に従えて現れるのです。
このようにサントリー本は重要な作例でありながら、これまでは状態が悪く、十分に展観することができませんでした。そこで本章では、2020年に解体修理を終えたサントリー本を当館史上最大規模に広げて展示し、物語の全容をご紹介します。
◇ 第2章 エピソード・ゼロ ― 展開する酒呑童子絵巻
源頼光とその家来による鬼退治の物語は、室町から江戸時代に人気を博し、『伊吹童子』や『羅生門』、『土蜘蛛』などのスピンオフ作品も誕生しました。
さらに近年、サントリー本「酒伝童子絵巻」とほぼ同じ内容を含みながらも、その前半に《鬼のはじまり》ともいうべき、酒呑童子出生の秘密を大胆に描き加える絵巻が相次いで発見され注目されています。すなわち、スサノオノミコトによって酒に酔わされ退治されたヤマタノオロチの亡魂が、伊吹山に飛んで伊吹明神となり、その息子として生まれたのが酒呑童子だというのです。
なかでも、ライプツィヒ・グラッシー民族博物館(GRASSI Museum für Völkerkunde zu Leipzig)が所蔵する住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(以下、ライプツィヒ本)は、明治10-15年(1877-82)に来日していたドイツ人お雇い医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)が祖国へ持ち帰ったもので、これまで日本ではその存在がほとんど知られていませんでした。
本章では、ドイツに渡って以来初の里帰りとなるライプツィヒ本(六巻のうち二巻)、さらに展覧会初出品となるライプツィヒ本の下絵などを通して、酒呑童子絵巻《エピソード・ゼロ》の世界へご案内します。
◇ 第3章 婚礼調度としての酒呑童子絵巻
サントリー本「酒伝童子絵巻」とライプツィヒ本「酒呑童子絵巻」には共通点があります。それは、いずれも姫君の所持品であったということです。
徳川家康の娘・督姫(良正院)は、初め小田原の北条氏直に嫁いでいましたが、氏直との死別後、文禄3年(1594)に池田家へ再嫁し、その際に北条家伝来のサントリー本を持参したと伝わります。一方のライプツィヒ本は、第10代将軍徳川家治の養女であった種姫が、天明7年(1787)に紀州徳川家へ輿入れした際の嫁入り道具であったことが明らかになりました。
ではなぜ、若い娘たちが誘拐される血なまぐさい絵巻が、婚礼調度として選ばれたのでしょうか。江戸時代を通して、サントリー本の模本や類本が盛んに制作されたことも、婚礼調度としての需要と無関係ではなかったと考えられ、その人気の《はじまり》もサントリー本であった可能性があります。
そこで本章では、サントリー本の伝来に注目し、酒呑童子絵巻が婚礼調度として好まれた背景に迫ります。単なる物語や絵巻の一画題にとどまらない、酒呑童子絵巻に込められた政治性が浮かび上がります。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : サントリー美術館

【展覧会】樂美術館 RAKU MUSEUM|特別展 樂歴代|’25年4月26日-8月3日

樂美術館 RAKU MUSEUM
特別展 樂歴代
会  期  2025年4月26日[土]- 8月3日[日]
休  館  日  月曜日(但し 祝日は開館)
時  間  10:00 - 16:30 (入館は16時まで)
料  金  一 般 1,200円、 大学生 1,000円、 高校生 500円、 中学生以下 無料
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日本には焼物の産地が各地にあり、それぞれが長い歴史を紡ぎ、様々な魅力を現在に伝えています。その中でも、特に特殊な焼物が “樂焼” です。一 樂、二 萩、三 唐津などと伝わってきたように、茶の湯の中で大切にされてきた焼物です。
殆どの焼物は産地や一定の地域で多くの人の手により発展し今に繋がって来た経緯があります。しかし樂焼は、“樂家の当主” による個人の作品の連続がその根幹を支え、連綿と数百年も続いて参りました。“樂家 樂焼” は、現在十六代を数え、初代 “長次郎” より全ての代の茶碗が残されており、初代の作品を模倣するのではなく、それぞれにオリジナル性や特色を備え、作者の視線や考えを作品に色濃く落とし込んでおります。日本の陶芸に於いても稀有な焼物といえます。

樂焼のはじまりは、“侘び茶” を大成させた “千利休” が自身の考える “茶” に叶う和物の茶碗を、陶工・長次郎に造らせたところからはじまります。当然ながら、利休居士や長次郎は400年以上前に生きていました。その大きなエネルギーをただ受け、消費するだけでは、伝統というものは腐っていきます。樂歴代がどのように “侘び茶” を捉え、茶碗を通してそれぞれの歩みを歴史に刻んで来たのか。”茶碗には、その人が宿る” ともいわれるように、様々な時代の中、必死に生きた歴代の痕跡が茶碗に込められています。
茶碗を通し “茶” に対して色々な想いや美意識、魅力を発見したり、また感じて頂けたら幸いに存じます。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 樂美術館

【展覧会】印刷博物館|企画展 グーテンベルクとドイツ出版印刷文化|’25年4月26日-7月21日

印刷博物館
企画展
グーテンベルクとドイツ出版印刷文化
会  期  2025年4月26日[土]- 7月21日[月・祝]
開館時間  10時 - 18時(入場は17時30分まで)
休  館  日  毎週月曜日(ただし祝日・振替休日の場合は翌日) / 展示替え期間
         * 詳細は展示予定スケジュールをご参照ください。
入場料金  一 般:500円、学 生:200円、高校生:100円、
      中学生以下および70歳以上の方無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
会場案内  印刷博物館
      〠 112-8531 東京都文京区水道1丁目3番3号 TOPPAN小石川本社ビル
      詳細地図は こちら(マピオン提供)
      TEL 03-5840-2300(代) FAX 03-5840-1567
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  グーテンベルクの発明は魔術だったのか
1000年以上の歴史を有する印刷史のなかでもグーテンベルクによる活版印刷術の発明は大事件でした。中世末期の15世紀なかばに確立されたこの技術は、テキストの複製手段が主に手写だったヨーロッパを瞬く間に席巻しました。発祥の地ドイツでは、魔術や魔法を意味する「ディ・シュヴァルツェ・クンスト(die schwarze Kunst)」と呼ばれ、独自の出版印刷文化が形成されます。
本展では、今日産業の領域で過去のものとみなされている活版印刷術と活字書体が国の文化形成に大きく影響を与えてきた様子を、その技術を生み、誇りとして現代に継承するドイツを通じて振り返るとともにグーテンベルクの功績に迫ります。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 印刷博物館 ] 

【NEWS】慶應義塾大学アート・センターが 改正博物館法の定める「登録博物館」として新規登録|‘25年4月

慶應義塾大学アート・センター Keio University Art Center

慶應義塾大学アート・センターが
改正博物館法の定める「登録博物館」として
新規登録されました

慶應義塾大学アート・センターは、2011 年に現在の所在地である三田キャンパス南別館に移転し、同館1階に専用展示施設「アート・スペース」を開室しました。さらに、2013年に東京都教育委員会に申請し、旧博物館法のもと「博物館相当施設」に指定されました。博物館法において、学芸員資格取得のために必要な単位のうち博物館実習に関しては、登録博物館または相当施設における実習により習得することが明記されています。これまでアート・センターは博物館相当施設として学生の学芸員資格取得を支えてきました。

2022年4月「博物館法の一部を改正する法律」が公布され、2023年4月から施行されました。約70 年振りの単独での法改正となり、博物館の登録要件についても見直しがありました。旧博物館法においては、学校法人が設置する博物館は、相当施設としての申請しか認められませんでしたが、改正博物館法において、学校法人の博物館も新たに登録博物館となることが認められました。

この度の法改正を受け、慶應義塾大学アート・センターは改めて「登録博物館」として東京都教育委員会に申請し、審査の結果、2024 年12 月23 日付で「登録博物館」として新規登録されました。 今後もアート・スペースでの展覧会の開催、研究アーカイヴの構築と運用、学内収蔵品の調査・研究、博物館実習をはじめとする大学および一貫教育校を対象とした教育活動、地域との連携などに取り組み、国内外の芸術研究の進展に寄与してまいります。

慶應義塾大学アート・センター(三田キャンパス南別館1F アート・スペース)
〠 108-8345 東京都港区三田2-15-45
慶應義塾大学三田キャンパス南別館
TEL 03-5427-1621 FAX 03-5427-1620 ac-tenji☆adst.keio.ac.jp

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 慶應義塾大学アート・センター 当該資料掲載ページ
[ 参 考 : 文化庁 博物館法の一部を改正する法律(令和4年法律第24号)について

【展覧会】JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク|特別展示『臺灣蘭花百姿 – 東京展』|’25年2月15日-6月8日|開展貳个月

JPタワー学術文化総合ミュージアム  インターメディアテク
特別展示『臺灣蘭花百姿 – 東京展』
会  期  2025年2月15日[土]- 6月8日[日]
時  間  11:00 − 18:00 (金・土は 20:00まで 開館)
      * 時聞は変更する場合があります。
休  館  日  月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休館、ただし4月28日は開館)、
      その他館が定める日
会場案内  インターメディアテク2階 「GREY CUBE(フォーラム)」
      〠 100-0005 東京都千代田区丸の内2-7-2 KITTE 2・3階
      ▷ アクセス: JR東京駅丸の内南口から徒歩約1分 
協  力  東京大学大学院理学系研究科附属植物園、東京大学農学生命科学図書館、
      東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究室、
      国立台湾大学植物標本館、国立台湾大学図書館、
      農業部林業試験所植物標本館、国立台湾博物館、国立台湾歴史博物館、
      国立台湾美術館、国立公共資訊図書館、高雄市立歴史博物館、
      英国キュー王立植物園
主  催  東京大学総合研究博物館+国立歴史博物館

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【関連イベント】
 シンポジウム『植物芸術 – 日本と台湾からの視点

入館無料

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JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」の展示企画をになう東京大学総合研究博物館では、東京大学が蓄積してきた学術標本を基軸とする研究活動を展開している。
学術標本とは、研究や教育の過程で研究者が収集したり、製作したり、利用したりしたモノ資料をいう。それらのモノは学術という背景がなければ、一般の方々にとっては何の変哲もない石片や骨片、見慣れた茶碗のかけらに見えることが少なくない。
しかしながら、研究者が研究をとおして紡ぎ出すストーリーを有しているとなれば全く違って見える。インターメディアテクでは、学術標本の魅力、言い換えれば研究の面白さそのものを審美的かつ独創的な手法で公開発信することを試みている。

今般、開催する特別展示『台湾蘭花百姿』は、台湾の蘭という植物をめぐる日台の学術的ストーリーをひもとく。蘭を巡っては東京大学が所蔵する日本産蘭の植物画をテーマとした『蘭花百姿』、コロンビアの蘭花植物画を考察した『カトレヤ変奏』とこれまでに二度の展示企画を開催してきたから、今回は台湾ヴァージョンということになる。
台湾と日本は地理的に近く、歴史的にも密な交流があった。台湾当地だけでなく、東京大学にも植物学的見地から台湾の蘭を収集調査してきた研究の歴史が蓄積されてきた。それらに見える過去から現在にいたる蘭への日台研究者のまなざし、ならびに、その美に惹かれたアーティストらの営みをインターメディアテク的手法で提示するのが東京展である。
今回の特別展示は、総合研究博物館と台湾の国立歴史博物館が2024年に締結した学術交流協定の成果の一部である。まずは、東京会場(インターメディアテク)で開催した後、ついで台北会場(国立歴史博物館)において東京とは装いを変えた展示を開催する。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 東京大学総合研究博物館 インターメディアテク 

【展覧会】文京区立森鷗外記念館|特別展 本を捧ぐ ― 鷗外と献呈本|’25年4月12日-6月29日

文京区立森鷗外記念館
特別展 本を捧ぐ ― 鷗外と献呈本
会  期  2025年4月12日[土]- 6月29日[日]
      * 会期中休館日 4月22日[火]、5月26日[月]・27日[火]、
       6月23日[月]・24日[火]
開館時間  10時 - 18時(最終入館は17時30分)
会場案内  文京区立森鷗外記念館 展示室 1、2
      〠 113-0022 東京都文京区千駄木1-23-4
      TEL  03-3824-5511
観  覧  料  一 般 600円(20名以上の団体:480円)
      * 中学生以下無料、障害者手帳ご提示の方と介護者1名まで無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
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鷗外の居宅・観潮楼(現・森鷗外記念館)は、妻・志げが「宅では本が箪笥を追い出します」とこぼすほど本が溢れていました(後藤末雄『鷗外先生を顧る』)。内容は文学、医学、哲学、歴史、自然科学、美術など多岐に渡り、鷗外が持つ豊かな知識はこの読書量に支えられていました。
蔵書には自ら買い求めた本以外に、鷗外に贈られた本 — いわゆる献呈本も含まれています。北原白秋、木下杢太郎、石川啄木など若い文学者は、それぞれの著書に鷗外への敬慕をうかがわせる献辞を記し、評論家・内田魯庵や美術史家・大村西崖は鷗外が関心のある分野の本を贈りました。そうした現存する本には、鷗外が読み大切に保管した痕跡が認められます。
いっぽう鷗外も、夏目漱石や与謝野寛・晶子など信頼のおける文学者に自著を贈り、家族にも本をプレゼントしました。本の贈答は鷗外の若い頃から見られますが、活躍の場と人脈が広がると共に、その数も増えていったようです。

本展では、東京大学総合図書館の鷗外旧蔵書コレクション「鷗外文庫」を中心に、鷗外に贈られた本を、そして鷗外日記や書簡をたよりに鷗外が贈った本を展覧します。蔵書を「最も大切にした」(森於菟『砂に書かれた記録』)という鷗外の、〈本〉をとおしてうかがえる幅広い人物交流の様をご覧ください。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 文京区立森鷗外記念館
{ 新宿餘談:
鷗外の時代は、図書は貴重であり、家庭には立派な書棚があり、書斎もあった。某古書店店主によると、住居に図書の収納場所を失った現代、新刊で真っ先に古書店に持ちこまれるのは、著者による「俗称:お配り本-献呈図書」。節分の豆まきよろしく無償で入手したモノが、置く場所も無いし、
有償換金できるかと持ってくるそうだ。そんな話題で苦笑するしかない現代図書の憐れさよ

【展覧会】京都 ddd ギャラリー|第246回企画展  書藝問道|ブックデザイナー 呂敬人の軌跡|’25年4月10日-6月4日

京都 ddd ギャラリー
第246回企画展 
書藝問道 ブックデザイナー 呂敬人の軌跡
会  期  2025年4月10日[木]- 6月4日[水]
休  館  日  月曜日(祝日・振替休日の場合はその翌日)、祝日の翌日(土日は開館)
      会期中休館日:4月14日㈪/4月21日㈪/4月28日㈪/4月30日㈬/5月7日㈬/
      5月12日㈪/5月19日㈪/5月26日㈪/6月2日㈪
開館時間  火曜 - 金曜は11:00 - 19:00 土日祝は11:00 - 18:00
会場案内  京都 ddd ギャラリー
      〠 600-8411  京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町620   COCON烏丸3F
      TEL:075-585-5370 FAX:075-585-5369 ▷ 交通・アクセス
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☆ NOTES ON TYPOGRAPHY 掲載図版の多くは図版をクリック or タップすると拡大表示可能 ☆

本展は、現代中国の多様な造本文化の礎ともなった呂敬人氏の書藝を日本ではじめて大々的に紹介したギンザ・グラフィック・ギャラリー第406回企画展の巡回展です。
中国の豊かな出版文化の歴史を再発見し、新たなブックデザインの道を切り開いたパイオニア、呂敬人(リュ・ジンレン)氏が1989 年に初来日し、杉浦康平氏との運命的な出会いを果たした当時、中国ではブック デザイナーという独立した職種がまだ確立されていませんでした。そのような時代に、杉浦デザイン事務所での学びを通して本の内容から全体を構築していく「ブックデザイン(書籍設計)」に開眼した呂敬人氏は、自国の豊かな伝統文化を研究しながら独自の方法論を確立していきました。
会場では、宋代の拓本を原寸大復刻した『朱熹榜書千字文』をはじめ、全長 10mの巻物 10 巻を納めた『絵図五百羅漢詳解』、解説を読みながら実際に囲碁が打てる『忘憂清楽集』など、目を見張る豪華本をダイナミックに展開。お茶や扇子他、中国の豊かな芸術文化、生活にまつわる多彩な書物を、呂氏による丁寧な解説とともにご紹介します。また、手にとって楽しめる作品集や自著なども展示します。中国芸術の核心に迫る精緻なブックデザインの世界をぜひ体感ください。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 京都 ddd ギャラリー

古記録発掘【花筏 朗文堂-好日録005】ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補修’25.4.10

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
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★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチト遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、ごちゃごちゃした美術館のように、作品がくっつきあって、たがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
2010年12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」がおおいに苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。
なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代錯誤、勘違いの輩ヤカラがいて、翌朝に新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。

トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心の「ズダ袋」を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけで吾輩のアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録を新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいたので気になっていた。しかし横須賀は制服アレルギーの発作がこわかったので逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあって浦島太郎よろしくよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。吾がふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。‘10年12月18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか]トおもう。

ただし、若きエリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代前半の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160
年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B-Pre-Raphaelite Brotherhood」と名乗った。その構成員の名前はしばらく内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在として否定した。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされ、わが国では「◯リス神話」まであるので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じている吾輩にとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで大活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらつぎの週末、再度いきたいものである。
’10
年12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日也

【展覧会】台東区立書道博物館|みんなが見たい優品展パート20 中村不折コレクションから|龍門二十品 -北朝の書を中心に-|’25年4月1日-7月13日|前後期二期制開催

台東区立書道博物館
みんなが見たい優品展パート20 中村不折コレクションから
龍門二十品 -りゅうもんにじっぴん-  -北朝の書を中心に-
期  間  2025年4月1日[火]- 7月13日[日]
          前期展示:4月  1日[火]-5月25日[日]
          後期展示:5月27日[火]-7月13日[日]
開館時間  午前9時30分 - 午後4時30分(入館は午後4時まで)
休  館  日  月曜日(祝休日と重なる場合は翌平日)、特別整理期間等
入館料金  一 般 500円、 小、中、高校生 250円
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
会場案内  台東区立書道博物館
      〠 110-0003 東京都台東区根岸2丁目10番4号
      TEL:03-3872-2645  FAX:03-3871-5467
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龍門二十品 -りゅうもんにじっぴん-」とは、中国三大石窟の一つである龍門石窟に刻された造像記の中から、優れた二十種を選んだものです。「龍門二十品」は、北魏時代の楷書の力強さと豊かさが存分に発揮されています。また、書道博物館創設者である中村不折が、書道研究を志す契機となった清国滞在中に入手した拓本でもあり、その後の不折の書道研究における方向性や不折白身の書風にも大きく寄与しました。
本展では、「龍門二十品」をはじめとする北魏時代の石刻拓本や敦煌写本など、北朝の書を中心に紹介し、中村不折が北朝の書の影響を受けた作品もあわせて展示いたします。
展示目録TES

※ 今後の諸事情により、会期や展示期間、展示作品などが変更になることがあります。あらかじめご了承ください。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 台東区立書道博物館 

【展覧会】渋沢史料館|企画展 渋沢栄一と喜賓会 ― 明治時代のインバウンドー|’25年2月22日ー5月11日|開展壹个月

渋沢史料館
企画展
渋沢栄一と喜賓会 ―明治時代のインバウンド―
会  期  2025年2月22日[土]ー 5月11日[日] ▷ 開館カレンダー 
休  館  日  月曜日、祝日の翌平日(月曜日が祝日の場合は開館)
開館時間  10:00 - 17:00  * 最終入館は16:30
会  場  渋沢史料館    企画展示室
      〠 114-0024 東京都北区西ケ原2-16-1 飛鳥山公園内
入  館  料  一 般 300円、小 中 高 100円
後  援  株式会社帝国ホテル、万博学研究会     
主  催  公益財団法人渋沢栄一記念財団 渋沢史料館
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渋沢栄一が力を注いだ外国人観光客誘致団体「喜賓会」の活動をご紹介します。
1893年(明治26)に創立した喜賓会(きひんかい/英語名 Welcome Society of Japan)は、外国人観光客誘致と、旅行者の支援を目的として活動した非営利の民間団体です。国際交流を重視する渋沢栄一は、創立から1914年(大正3)に解散するまで同会の活動に力を注ぎました。
喜賓会の活動は主に旅館・ホテルへの助言、通訳や旅行ガイドの監督奨励、見学先の調整、案内書や地図の発行など、近代的な旅行業のさきがけとも言えるものでした。
本企画展では、渋沢栄一がどのような思いで喜賓会の事業に尽力したのかを探ります。

< 展示構成 >
第1章 喜賓会の創立
第2章 喜賓会の活動
第3章 喜賓会が発行した旅行案内書
第4章 第五回内国勧業博覧会と喜賓会
第5章 喜賓会の解散

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 

【展覧会】京都工芸繊維大学美術工芸資料館|鐔・髪飾りのかたちとデザイン ― 新収蔵品を中心に|’25年3月3日-7月12日|

京都工芸繊維大学美術工芸資料館
鐔・髪飾りのかたちとデザイン―新収蔵品を中心に
Shapes and Designs of Tsuba (Sword Guards) and Hair Ornaments:
Focusing on Newly Acquired Works
開催期間  2025年3月3日[月]- 7月12日[土]
休  館  日  日曜日・祝日
開館時間  10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
会  場  京都工芸繊維大学美術工芸資料館 1階
      〠 606-8585 京都市左京区松ヶ崎橋上町
      電話番号 075-724-7924 ファックス 075-724-7920
入  館  料  一 般 200円、大学生 150円、高校生以下 無料
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
協  力  京都・大学ミュージアム連携
主  催  京都工芸繊維大学美術工芸資料館
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刀剣を装飾する刀装具は、鐔 -つば-と三所物と呼ばれる目貫 -めぬき・笄 -こうがい・小柄 -こづか- が代表的です。柄と鞘のあいだに位置する鐔は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄と小柄(小刀)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました。
京都工芸繊維大学美術工芸資料館で刀装具や髪飾りの所蔵がされてきたのは、意匠性と機能性を兼ね備えるものとして、恰好なデザイン教材と考えられたからでしょう。このたび新たに鐔をはじめとする刀装具約670点と髪飾り約180点を収蔵し、大きくその幅を拡げることとなりました。
本展は、新たにコレクションに加わった刀装具や髪飾りの一部を公開するとともに、鐔を中心にそのデザイン教材としての可能性を探ります。鐔は円や角、木瓜などさまざまなかたちを持ち、戦いのための適切な大きさ・重さといった条件を満たしながらデザインされています。そんな鐔そして髪飾りのかたちとデザインを通して、日本において育まれてきた身に着けるものへ美を追い求める心に学んでいただければと思います。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 京都工芸繊維大学美術工芸資料館 ]

【朗文堂既刊書】『タイポグラフィ論攷』板倉雅宣著 発売中|WebSite 討論会 本木昌造の呼称ーもとき か もとぎ か|WebSite 討論会参加へのお願い

タイポグラフィ論攷_表紙『タイポグラフィ論攷』 板倉雅宣著
B5 判 112ページ  並製本 図版多数

定価:本体2000円+税
    ISBN978-4-947613-94-3
【詳細 : 朗文堂ブックコスミイク 】【 アマゾン通販:ダイレクトサイト 】

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〔主要内容〕
目 次 から
まえがき
本木昌造の呼称
本木昌造 長崎ゆかりの地
『學問のすゝめ』活字版
グーテンベルクが作った活字の高さをめぐって
ギャンブルがつくった日本語かな活字
マージナルゾーンの語源を探る
[史料]中国の母型と活字に関するホフマンの報告 日本語訳

板倉雅宣

<板倉雅宣 タイポグラフィ論攷 フライヤー  PDF 1.92 MB
タイポグラフィ論攷フライヤー表タイポグラフィ論攷裏kazari-upper長崎オランダ商館長 ── 1855年9月30日の記録 下部に本木昌造の自筆サイン・捺印がある。
20201012180943_0000120201012180943_0000220201012180943_00003ほかの文書に見る本木昌造の自筆サイン・捺印の例
IMG_20200728_0001 (002)IMG_20200709_0001 (002)

朗文堂 担当者様                     板 倉 雅 宣  2020年08月04日

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の冒頭を拝見すると、
── 本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう、文政7年6月9日(1824年7月5日) – 1875年9月3日)は江戸幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。── と記されています。

そこで Wikipedia を直接訂正したいと思い、Wikipedia の訂正規定を読むと、なかなか難しく、小生には理解できません。そこで朗文堂のホムページの「朗文堂NEWS」の『タイポグラフィ論考』の紹介記事に、下記の文章を追加掲載していただけないかと思い、お願いする次第です。
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私の調べでは、翻訳者本木昌造本人の署名捺印が欧文で、長崎のオランダ商館長の1855年9月30日の記録として残っています。本木昌造は諱を永久と言い「永久」を印鑑にして押印しています。わが国では、正式書類には、名前を署名して捺印するのは、当然のしきたりとなっています。
そこでは「Motoki Shiozo」となっていて、これが正式の呼び名です。また、「本木」を「M. K.」とした署名も多く見られます。

以下に、その証拠を示します。
「MOTOGI」という呼称は、先代の本木良永(仁太夫 1735 – 94)や、本木正栄( 庄左衛門 1778 – 1812)らまで使われていた呼称で、その後、養子の本木昌栄(昌左衛門 1801 – 73)や、昌造(永久 1824 – 75)になると「MOTOKI」と名乗っています。このことは『タイポグラフィ論考』に詳細を記してあります。

「MOTOGI」は本木昌造が亡くなった明治8年以降に、東京築地活版製造所の平野富二が活字見本帳『Book of Specimens Motogi & Hirano』(1877年)や「The Life of MOTOGI NAGAHISA Japan’s Pioneer Printer」(1893年)に「MITOGI」と記したので、その後「もとぎ」が使われるようになりましたが、正しくありません。当時、日常、通称 MOTOGI と呼ばれていたことと推測されます。

[Motoki Shiozo] という本木昌造の自筆署名と捺印は、東京大学史料編纂所の日本関係海外史料オランダ商館文書のマイクロフィルム 「An Inventory of Microfilm Acquisitions in the Library of the Historiographical Institute the University of Tokyo. Volume III. The Netherlamds. Part III.」の No.6998-1-119-5. 「191a. Verzekering. Get. door Arawo Iwamino Kami en Kawamoera Tsoesimano Kami en Arawo Ikkakf. 30. Woero Kocgoeats (9. November 1855). 」の 1855年の「保証書」の荒尾石見守、川村対馬守、浅野一角の署名のある書類に、
「出島のオランダ人は 1855年10月22日 以降は監視なしに自由に出島を出ることができる」というオランダ語に翻訳した文書に、オランダ通詞、品川藤兵衛と印鑑、本木昌造の自筆署名と諱の永久という印鑑の捺印があります。(読みくだし省略)

kazari-upper『タイポグラフィ論攷』(板倉雅宣著、朗文堂刊)
愛読者の皆さまへ 

「 WebSite 討論会  本木昌造の呼称 ー もとき か もとぎ か」

著者:板倉雅宣氏は、上掲文書のように、『タイポグラフィ論攷』で解明・主張された「本木昌造の呼称ーもとき か もとぎ」については「もとき説」を主張されています。ウィキペディアは両論を併記しており、またウィキペディアは論争の場ではないと小社では回答したのですが、板倉雅宣氏はもう一度議論を深めて欲しいとされ、再検討を希望されています。
そこで感染症「COVID – 19」が終息したら、講演会・討論会などを設定して議論を深めようと計画しておりましたが、現下の「COVID – 19」の感染状況はいまだ予断をゆるさず、高齢者の参加が予想される、討論会などの開催は当分無理だと判断せざるを得ない状況となりました。

ついては、まだ『タイポグラフィ論攷』を購入されていないかたのために、該当部を PDF データー公開して、本欄と姉妹サイト{ NOTES ON TYPOGRAPHY }をもって「 WebSite 討論会 |本木昌造の呼称ーもとき か もとぎ か」として、皆さんのご意見を頂戴し、さらに論攷を深める手段を選択いたしました。
著者と版元の意のあるところをお汲みたまわり、ご意見を頂戴できたら幸甚です。

◉ ご意見賜り先:朗文堂/片塩二朗(jk@robundo.com)
お名前・ご連絡先・公開可(公開時限定ペンネーム可)・非公開希望かを明記してのご参加をお待ちしております。

【 PDF   motoki or motogi    タイポグラフィ論攷 抜粋 本木昌造の呼称   板倉雅宣  】

kazari-downner

【ことのは】ローマ字表記の周辺を巡ってⅠ|和文表記・欧文表記(ローマ字表記)いずれも邪険に除けもの扱いの「づ」をきっかけに

◉『広辞苑』(第六版、2012、岩波書店)
【 づ 】

「つ」の濁音。鎌倉時代までは舌尖有声破裂音〔du〕であったが、のちに舌尖有声破裂摩擦音〔dzu〕となり、室町末期には「ず」〔zu〕と混同しはじめ、現在一般には「づ」「ず」の区別はない。
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◉ 平野富二の会:平野正一さんからのメール紹介  ’20年02月27日

冬らしい寒さもほとんど無く、春の足音が近づいてきました。
おかわりありませんか。
ところできょうは、つまらない質問をさせていただきたく Mail しました。
テレビのニュースで手塚治虫が紹介されていたのですが、そこでは手塚治虫のローマ字表記は TEZUKA とZU になっていました。念のため調べたネットのオフィシャルサイトでも「 TEZUKA OSAMU OFFICIAL 」になっていました。

ローマ字では、TEDUKA、つまり「づ」はDUと標記すべきなのではないかと思いました。発音では「ず」「づ」はほぼ同じ(厳密にいえば違うのかもしれませんが)なのですが、手塚治虫の塚は〔ひら仮名表記では〕「づか」であって「ずか」ではありません。
ローマ字標記はこだわらなくていいものなのか …… 。ルールがあるのか、無いのか、アバウトなものなのか、この周辺状況をご教授くださいませ。
お忙しいところ、申し訳ありません。
ポストカード」の一件もあったので妙にこだわっています。

{新宿餘談}
きさらぎ二月の末、会員の平野正一さんから@メールが到着した。
このローマ字表記法に関しては随分以前に印刷業界誌にまとまりが無いまましるしたことがあった。その再調査は興味ふかい命題であった。
そこですこしじっくりとり組もうとおもって、まず@メールの一部引用の許諾をもとめて架電した。折しも年度末、また新型感染症が世界規模で猖獗をきわめ 平野さんは団体幹部職員としてはご多忙のはずなのに……とおもっていたが、案の定二度とも「会議中です」ということであった。夜ふけに返電をいただいたが疲労感は隠せなかった。おそらく重圧のなかで、ちょっと気分転換を計られたと想像されたが、それでも実名表記で、全文紹介の承諾をいただいた。

稿者は音韻学・言語学は門外漢であるし、国語学・英語学とも無学であるが、わずかに字学研究者の末席を汚しているばかりと自覚している。つまり「ローマ字表記法」の調査とは、広大な氾濫原を踏査するような危うさがあり、いまや「専門家」と称する関係者はこれに触れることを巧妙に避ける風潮がみられる。
したがって平野正一さんへの返信は長くなりそうである。その交流の次第は、本{NOTES ON TYPOGRAPHY}に掲出して、読者諸賢と共に考えてみたい。

【ことのは】まもなく百年|グラフィックデザイナー|graphic design [印] 印刷を通して表現するデザイン。|graphic designer の語が最初に使われたのは1922年で、アメリカのドウィギンズ(→ Dwiggins)の造語だった|通称:森澤辞書ゟ|森澤 茂 ①

graph[図] グラフ。折れ線グラフ (coordinate graph)、棒グラフ (bar graph)、円グラフ (pie graph)などがある。
graphic[字] 読みやすさよりも視覚的な印象を第一にデザインした書体のグループ。装飾体。(ornamental type) もこのカテゴリーに入る。
graphical symbols for public information[図] 公共案内用図記号。主に交通機関や施設を利用する人々のためにデザインされるシンボル(図記号)。オリンピックのたびごとに使われる競技シンボルや施設シンボルもこの範疇に入る。この種の図記号には、言葉が分からなくとも、ひと目で内容を理解できる長所がある。交通標識や安全標識のように、国際的に統一した方がよいものがあるので、国際標準化機構(→ISO)に専門委員会が設置されている。= public signs; →symbol
graphic arts [印]  印刷美術。石版、木版、銅版などの手工芸的なものから、高速輪転機で印刷するものまでその範囲は広い。(通例複数) = graphics
graphic arts camera [版]  製版カメラ。印刷原稿を撮影するカメラ。拡大・縮小し、スクリーンを使い、原稿の濃淡の調子に対応した網点に置き換える。カラー原稿の場合は、3原色と墨の4版に分解する。→ screen angle,  screen ruling

graphic arts film[版] 製版用フィルム。コントラストの高い図像がえられるように、乳剤処理をしたフィルム。= litho film,
graphic arts magnifier [校] ルーペ。写真原稿、製版フイルム、印刷物をチェックするためのレンズ。
graphic design [印]  印刷を通して表現するデザイン。 graphic designer の語が最初に使われたのは1922年で、アメリカのドウィギンズ(→ Dwiggins)の造語だった。
graphics  1)[図]写真やイラストその他の視覚的要素。2)[印]印刷美術 = graphic arts ; cf.  supergraphics (グラフィクスの建築への応用)
graphic tablet[コ] フラット・ボード (flat board) や磁気ペンでコンピューターに入力する装置。
graphite[具]  黒鉛、石墨。鉛筆の芯の主原料。  (以下 略)

Dwiggins, William Addison [人]  ウィリアム・A・ドゥウィギンズ (1880-1956) 。アメリカの著名なブック・デザイナーでタイプ・デザイナー。 300冊を越えるブックデザインをアルフレッド・クノップ社(Alfred A. Knopf, Inc.)のために行う。ドゥウィギンズのスタイルは、活字、カリグラフィ、イラストを独創的に扱うもので、同社の出版物を特徴づけた。リミテッド・エディション・クラブのブック・デザインもしている。タイプ・デザインをガウディ (Frederic W. Goudy) のもとで学ぶ。ライノタイプ社に27年にわたって協力し、Metro (1929)、Electa (1935)、Caledonia (1938) の人気書体を世に送り出した。ドゥウィギンズは、graphic designer の語を初めて使ったことでも知られる (1922年) 。
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*  故 森澤 茂 氏と、遺稿となったグラフィックデザイン用語事典『森澤辞書』(仮称・未刊)に関しては近日中に関連情報を掲載予定。また森澤 茂 氏 と交流のあった方からの情報もお待ちしております。
* 『森澤辞書』は、携帯電子辞書への搭載を予定されて執筆された。通称『ウエブスタ-英英辞典』を主要な典拠として、索引項目3,700余、 派生語を加えると5,500項目以上となる「グラフィックデザイン用語事典」である。
ここに今回紹介した森澤茂氏遺稿の該当部分のオリジナル・プリントデーターを
PDF で紹介した。

【公演】国立劇場 |小劇場 主催公演| 令和2年3月歌舞伎公演「通し狂言 義経千本桜」|’20年3月3日-3月26日

国立劇場
小劇場 主催公演
令和2年3月歌舞伎公演「通し狂言 義経千本桜」
公演期間  2020年3月3日[火]-3月26日[木]
開演時間  A = 『義経千本桜』二段目(伏見稲荷鳥居前の場・渡海屋の場・大物浦の場)

      B = 『義経千本桜』三段目
        (下市村椎の木の場・下市村竹藪小金吾討死の場・下市村釣瓶鮓屋の場)
      C = 『義経千本桜』四段目(道行初音旅・河連法眼館の場)
      * 下掲詳細参照
休  演  日  10日[火]・11日[水]は休演
前売開始  電話・インターネット予約開始=2月6日[木] 午前10時 ゟ 
      窓口販売開始=2月7日[金]
演  目

竹田出雲・三好松洛・並木千柳=作
通し狂言義経千本桜 (よしつねせんぼんざくら)
国立劇場美術係=美術
《Aプロ》
伏見稲荷鳥居前の場
渡海屋の場
大物浦の場
《Bプロ》
下市村椎の木の場
下市村竹藪小金吾討死の場
下市村釣瓶鮓屋の場
《Cプロ》
道行初音旅 清元連中 竹本連中
河連法眼館の場

主な出演者

[ 詳細: 国立劇場 ]

【展示】国立劇場 伝統芸能情報館|情報展示室 企画展示「歌舞伎の四季」|令和2年2月8日-5月25日

国立劇場 伝統芸能情報館
情報展示室
企画展示「歌舞伎の四季」
会  期  令和2年2月8日[土]-5月25日[月]
開室時間  午前10時-午後6時(毎月第3水曜日は午後8時まで)
休  室  日  令和2年3月11日[水]
場  所  国立劇場伝統芸能情報館 1階 情報展示室
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日本には四季があり、古より季節で移り変わる自然を愛でる心を持った国民だといわれます。たしかに現代の私たちも、春には花見、夏は海水浴や花火、秋は月見や紅葉の名所への旅、冬は降雪の地でスポーツを楽しむなど、四季を感じることに喜びを見出しています。
歌舞伎は、そのような季節を感じる喜びを舞台に表現してきた伝統芸能です。舞台で満開に咲き誇る桜の艶やかさに春を、海や川の水に涼を愛でる夏を、澄んだ夜空に照る月の明りや燃える紅葉に秋を、情感豊かに舞う雪に冬を見る時、季節の持つ美にたいする共感が沸き起こりましょう。歌舞伎の舞台に見られる四季の表象は、鑑賞する作品を効果的に伝える重要な役目を担っているといえます。

このたびの展示では、舞台で用いられる衣裳や小道具、錦絵や舞台写真などの所蔵資料で、歌舞伎が創造する〈技〉の数々をご覧いただきます。

資料の中には、たとえば『祇園祭礼信仰記』や『積恋雪関扉』のように春の表象の代表格である桜と、冬の表象の代表格である雪が共存し、四季の美の競演ともいえる、現実を超える表現もあり、歌舞伎が求めた美のありようを考えさせられます。また、江戸時代の観客たちは四季の美を愛でる喜びを歌舞伎役者のふだんの姿にも求め、見出そうとしたことがわかります。
江戸から今日まで舞台を彩ってきた歌舞伎の四季。創り上げられた日本の美を味わいつつご鑑賞ください。

[ 詳細: 国立劇場 伝統芸能情報館 ]

【展覧会】奈良国立博物館|特別展 毘沙門天 ── 北方鎮護のカミ ──|令和2年2月4日-3月22日

奈良国立博物館
特別展 毘沙門天 ── 北方鎮護のカミ ────
会  期  令和2年2月4日[火]-3月22日[日]
会  場  奈良国立博物館 東新館・西新館
休  館  日  毎週月曜日、2月25日[火] * ただし2月24日[月・振休]は開館
開館時間  午前9時30分-午後5時
      * 毎週金・土曜日は午後7時まで     * 入館は閉館の30分前まで
観覧料金  一般 1,500円、高校・大学生 1,000円、小・中学生 500円
      * 前売り・団体など各種割引制度があります。
主  催  奈良国立博物館、朝日新聞社、NHK奈良放送局、NHKプラネット近畿、
      文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会
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四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)は、須弥山-しゅみせん-世界の四方にいて、仏教世界や仏法を守るカミです。このうち北方を守護する多聞天は、「毘沙門天」の名で単独の像としても造像、信仰され、四天王のなかでも特別の存在でした。

近年、毘沙門天像の優品が相ついで発見されています。奈良時代、8世紀制作と考えられる木心乾漆造-もくしんかんしつづくり-の像(愛媛・如法寺)や、絵の中から抜け出てきたかのような激しい運動感を示す作例(京都・弘源寺)、保安5年(1124)の年紀銘が確認された平安彫刻の貴重な基準作例(個人蔵、米国・ロサンゼルス・カウンティ美術館保管)、また仏師運慶の流れをくむ作者の手になると見られる彩色の美しい鎌倉時代の作品(当館蔵)、あるいは密教修法における調伏法-ちょうぶくほう-に用いられた珍しい双身-そうしん-(二体合体)の像(奈良・東大寺蔵)など、いずれも斯界(しかい)の研究進展に資する重要作例です。

本展は、従来知られている毘沙門天彫像のなかから、とくに優れた作品を厳選し、それらを一堂に会することで、毘沙門天彫像の魅力を存分に味わうことのできる展覧会となります。

 ◉奈良国立博物館国立博物館 臨時休館のお知らせ
政府の要請により、新型コロナウイルス感染防止のため2月27日[木]-3月16日[月]まで臨時休館としていましたが、本措置を継続するよう、あらためて要請がありましたので、3月17日[火]以降も当面は臨時休館を延長いたします。
なお、その後の予定につきましては、あらためてお知らせいたします。
[ 詳細: 奈良国立博物館 ]

【展覧会】樂美術館|新春展 ことのは の 宴|2020年1月5日-3月8日

樂美術館
新春展 ことのは の 宴
会  期  2020年1月5日[日]-3月8日[日]
休  館  日  月曜日(祝日は開館)
時  間  10:00-16:30(入館は16:00まで)
料  金  一般 900円、大学生 700円、高校生 400円、中学生以下 無料
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茶道具に欠かせない「銘」。
「銘」のほとんどは、和歌や俳句から引用されてきました。
日本の元号「令和」も、日本最古の歌集といわれている萬葉集の「第五巻 梅花の歌三十二首并せて序」より、新年に梅花を愛でながら宴会を催した一説が典拠とされております。

萬葉集が成立した頃、日本は、「言霊の幸はふ国-ことだまのさきわうくに」といわれており、美しい和歌や言の葉には国を安泰にする力があるとされました。人の一生に起こる出来事を、自然の美しさとともに豊かに表現し、自然の恵みに感謝し、生きることへの祈りや願いを込めた言の葉を「うた」に散りばめたのです。それは、萬葉という名にもみることができます。よろずの言の葉を集め、万代-よろずよ-まで伝わるようにと祝賀が込められており、今でも時代を超えて読み継がれながら後世の芸能、文学作品などに深く影響を与えています。

今回の展覧会では、そのような和歌や俳句などから「銘」が付けられた作品を中心に展示しております。土から捏ねられ、火によって誕生した茶碗に言の葉が与えられることによって、観る者の感じ方が変わる面白さと、言の葉に込められた人〻の祈りや願いを感じていただけたらと存じます。

[ 詳細: 樂美術館 ]

【展覧会】東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画|生誕550年記念 特別展|文徴明とその時代 ─ 天下の書法、蘇州に帰す!|東京国立博物館 東洋館 8 室|書道博物館

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
生誕550年記念 特別展
文徴明とその時代 ── 天下の書法、蘇州に帰す!
◉ 東京国立博物館 東洋館 8 室
会  期  2020年1月2日[木]-3月1日[日]
休  館  日  月曜日、1月14日[火]、2月25日[火]
      * 1月13日[月・祝]、2月24日[月・祝]は開館
観  覧  料  一般 620円、大学生 410円
◉ 台東区立書道博物館
会  期  2020年1月4日[土]-3月1日[日]
休  館  日  月曜日、1月14日[火]、2月25日[火]
      * 1月13日[月・祝]、2月24日[月・祝]は開館
観  覧  料  一般・大学生 500円、高・中・小学生 250円
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明時代の中期に活躍した文徴明(1470-1559)は、蘇州における芸苑の領袖として君臨し、90歳の長寿を全うしました。 文徴明の子や甥も書画を善くしたことから、文一族は後世にも多大な影響を与えました。海を隔てた日本も例外ではなく、江戸時代においても一世を風靡しました。
2020年は、文徴明の生誕550年にあたります。17回目を迎える 東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画では、国内に現存する文徴明や同時代に活躍した書画に焦点をあて、文徴明の魅力に迫るとともに、後世に与えた影響を紹介します。

[ 詳細: 東京国立博物館   東京国立博物館 東洋館 台東区立書道博物館 ]
◉【台東区立書道博物館 臨時休館延長のお知らせ】
新型コロナウイルス感染防止のため、3月31日[火]まで臨時休館を延長いたします。
その後の予定につきましては、あらためてお知らせいたします。

【もん】展覧会|住友コレクション 泉屋博古館|SEN-OKU HAKUKOKAN MUSEUM 東京分館|企画展 金文-中国古代の文字-|’19年11月9日-12月20日|

住友コレクション
泉屋博古館  SEN-OKU HAKUKOKAN MUSEUM
東京分館 企画展 金文-中国古代の文字-
主  催  公益財団法人 泉屋博古館
会  場  住友コレクション 泉屋博古館分館
      106-0032 東京都港区六本木1ー5-1
      03-5777-8600(ハロ-ダイヤル)
会  期  2019年11月9日[土]-12月20日[金]
開館時間  10:00-17:00(入館は16時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 800円、高大生 600円、中学生以下無料
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今から三千年前の商周時代、様々な造形をもつ青銅器が盛んに製作されましたが、その表面には古代の文字が鋳込まれていました。金文と呼ばれる、現在の漢字の祖先にあたる中国古代の文字は、平面上に「書かれた」ものではなく、鋳物の技術によって立体的に「造られた」ものでした。
本展では青銅器にあらわされた文字、金文の世界をご紹介するとともに、復元鋳造レプリカやその鋳型を併せて展示することで、鋳物の技術としての文字=金文をわかりやすくお伝えします。

泉屋博古館分館 改修工事による休館のお知らせ
泉屋博古館分館は2020年1月より約2年、改修工事のため休館します。
休館期間中、皆様にはご不便をおかけいたしますが、
ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
* 新宿餘談  さびしいですね。

[ 詳細: 住友コレクション 泉屋博古館分館 ]

【ことのは】〝サクラウェーブ〟|活躍が期待される女子ラグビー|’20 東京五輪 7人制/’21 NZ W杯15人制

’19年11月24日〝サクラフィフティーン〟日本女子ラグビーチームとスコットランド戦
WORLD RUGBY ORG. ゟ Photo : Scottish Rugby / S N S

◉ サクラフィフティーン
      日本代表 女子15人制ラグビーチームの愛称
◉ サクラセブン
      日本代表 女子 7人制ラグビーチームの愛称
◉ サクラウエーブ
日本代表 女子ラグビーチームの愛称
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ラグビーが一躍注目されるようになったのは、2015年ラグビー W杯 イングランド大会 で強豪南アフリカを打倒して3勝1敗という成績を残せたから。それでも「ボーナスポイント」を獲得できずに予選リーグで敗退した。

そしてラグビー W杯2019 東京 を迎え、プール戦を四戦全勝で突破、ベストエイトに初進出して、満天下にラグビーの面白さが知られ、ラグビーを語りあえる友人が増えた。

ラグビー7人制 ── あまり知られていないが 男女とも活躍がめだつ7人制ラグビー
ラグビーは2016年のリオデジャネイロ五輪から男女7人制ラグビーが採用された。わが国は7人制への習熟が少なく、手探り状態での参加に終わった。東京五輪には主催国で予選免除で出場する。
’ 20 東京五輪 男子7人制ラグビーでは、すでに参加を表明している福岡堅樹とあわせ、去就は不明ながら松島幸太朗の賢明な快足コンビが揃ったら、メダル獲得もあながち夢では無さそうである。
すでにラグビーシーズン花盛りのいまであるが、今回は女子のラグビーを動画中心で紹介したい。
NOTES ON TYPOGRAPHY  ラグビーまとめ
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Watch LIVE from 1pm on Sun 24 Nov as Scotland face Japan at Scotstoun Stadium in their second Autumn Test.
[ 参考:日本ラグビーフットボール協会 WebSite

試合後の〝サクラフィフティーン〟日本女子ラグビーチームとスコットランド女子チーム
日本ラグビーフットボール協会 WebSite  ゟ

女子日本代表 対 女子スコットランド代表 試合結果
11月25日[日]、女子日本代表と女子スコットランド代表との試合は、24-20(前半10-10)で女子日本代表が勝利した。女子日本代表は女子スコットランド代表との初対戦で初勝利となった。
* これに先立ち11月16日[土]世界ランキング6位の女子イタリア代表を相手にテストマッチ。17対17(前半10-12)で引き分け。これで対イタリア戦の通算対戦成績は、女子日本代表の1分2敗となった。残念ながら動画の公開配信はいまのところみかけ無い。
* これらの二試合後11月25日時点の世界ランキングで、女子日本代表は15位から12位に上昇した。

◯ 南早紀キャプテンのコメント
ラグビー W杯2019 東京 での男子に続き、スコットランドに勝てたことを大変うれしく思います。試合を通してたび重なるペナルティによって自分たちで苦しい状況をつくってしまいましたが、後半ラスト10分からアタックを継続し、2トライ2ゴールを得ることができました。これはチームのメンバー全員で戦うことができた結果だと思っています。
欧州遠征でイタリアとスコットランドと戦ったことで、ワルドラグビー女子ワールドカップ2021の予選前にチームとしてレベルアップすることができました。

日  時 : 11月24日[日] 13:00(現地時間)キックオフ
会  場 : スコッツタウン・スタジアム(スコットランド・グラスゴー)
結  果 : 女子日本代表  ○ 24 - 20 ●  女子スコットランド代表

2019年11月24日[日]、〝サクラフィフティーン〟こと、日本代表女子15人制ラグビーチームとスコットランドが初対戦。緊迫のテストマッチは最終盤に日本が逆転に成功、24 対 20 で勝利。
詳細はスポーツライターに任せるが、日本女子チームはタックルで勝り、スクラムは互角なのに、ラインアウトからのモール展開に、もうひと工夫が欲しいというのが新宿餘談。

YouTube は 2時間余の長時間のプログラムであり、観客もおよそ 2,000 人と少ないが、冒頭部と前後半の中間にスコットランドチームの練習風景がある。
なによりも面白いのは、逆転にいたる後半10分ほどから(01:30:00)。日本チーム・スクラムハーフ:津久井 萌: No 9(青山学院大学2年) の俊敏な球さばきと、相手 No 8 への潰しがみもの。これで大柄なスコットランド女子チームは、前に後ろに、右に左にはげしく振り回されてヘトヘトになり、とどのつまり、最終盤に 2 トライ 2 ゴールを許して敗退した。
拡大画面で閲覧希望のかたは、画面 YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウが開く。

【 YouTube LIVE | Scotland Women  v  Japan Women 音が出〼 2:04:31 】

 ラグビー女子15人制日本代表 マッケンジー 新 HC〝サクラウェーブ〟で 2021 WRWC へWORLD RUGBY ORG. ゟ
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【かきしるす・ことのは】ポストカード Postcard と クリスマス Christmas の欧文表記に関する注意点 ー もう Post Card(二単語), X’mas の誤用は卒業、Xmas は慎重に


左)寒くなるとむしろ元気になるアカンサスの群落(ギリシャ、アテネのゼウス神殿脇)
右)紅く染まった新宿御苑のかえで(槭樹・楓)。かえでの名称は、葉のかたちがカエルデ(蛙の手)に似ていることからいう。

カレンダーの残りもあと二枚だけ。
はやくも11月初旬となり、まもなく郵便局から<郵便はがき>の年賀状が発売され、まちかどには<年賀状印刷たまわります>ののぼりがはためく候となった。
例年この時期になると、造形者は「ことしのクリスマスカード、年賀状は、どんなアイデアと印刷にしよう」と、楽しくもあり、悩ましくもなるかたが多い。
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例年のことながら、そろそろクリスマスカードや年賀状の準備にとりかかっているかたも多いこのとき、フト ふるい記事をおもいだした。
どういうわけか造形者の一部、なかんずく「デザイナー」と称するすひとは、横文字(ふるくは蟹行もんじといった)に親近感をもつようで、郵便局の<郵便はがき>ではなく、欧文表記による私製の<Card>を印刷されることが多くみられる。
そこでの注意点を ソッと …… 。
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【ことしもまたまた再掲載】
ポストカード Postcard とクリスマス Christmas
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 本項元記事の掲載は<2014年12月03日 花筏>であった。 テーマと問題点に進展があまりがみられないこともあり、ここにまたまた掲載した。3935DSCN3937

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本コーナーを訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介したい。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 である。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいてある。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) である。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものである。
同書には意外な記述がみられる。

DSCN3937 ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されている。

すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、 「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」 と、簡略かつ明確にしるされている。DSCN3943DSCN39583949いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明している。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒点は、音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき -含む : 年賀はがき」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使いわけと、英国と米国での相違まで説いている。
ご参考になったであろうか。

この問題は、わが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられている。

ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 から、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しているかなしい状態がつづいている。
ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのであろうか] にしるされた「郵便はがき」を、そのままもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。

この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としている。そして郵便局が販売しているカードには<郵便はがき>としるされている。  

いかがでしょう、  「 postcard , Postcard, P O S T C A R D 」 。
「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 という。 この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのであるから、なにも臆することはない。
かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用や誤謬をおかしては反省しきりの日日である。 そしてこの記事をみたあとは、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えて欲しい。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard, POSTCARD, P O S T C A R D 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日が近からんことを念願している
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいである。
それは国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからである。

それに牽かれたのであろうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがあるが、これはギリシャ語の「キリスト Xristós」の省略を重複したもので完全に間違いである。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として簡略に触れている。

またギリシャ語の「キリスト Xristós」由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、やつがれも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas をはじめるのだ 」
と責められたことがあった。

宗教や宗派、そして発音までがからむと、やつがれの手にあまる。 まして某国語辞典の存在もあって困惑していたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説があった。該当部を抜粋すると以下のようになる。辞書らしい慎みがみられるがズシリと重い。

「クリスマスを日本では Xmas と書くことも多いが、この形は英米ではポスターなど以外では避けられる傾向がある。また X’mas は誤り」

長文にわたるので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができた。 そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願したい。
そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものである。DSCN3943DSCN4098DSCN4086