アダナ・プレス倶楽部

コラム * No.001

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掲載資料

『活字をつくる』

Vignette 04

河野三男他

朗文堂

ヴィネット

詳細

参考資料

『秀英体研究』

片塩二朗

大日本印刷

秀英体研究

詳細

参考資料

『活字文化の礎を担う

—小池製作所の歩み』

小池製作所

東洋経済印刷

小池製作所の歩み

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小池製作所の歩み

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小池製作所の歩み

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小池製作所の歩み

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小池林平と活字鋳造

日本の活字史のもうひとつの側面から

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活字鋳造法の長い歴史と普遍の技術

ヴィネット04口絵

活字鋳造師

錫と鉛の秘法をもって

鋳造活字をつくるのがこの儂じゃ

組版は正確きわまりなく

整然と活字がならぶ

ラテン語、ドイツ語

ギリシャの文字でも同じこと

イニシャル、句読点、終止符と揃え

あとはいつでも刷るまでさ

Illustration by Jost Amman

Text by Hans Sachs

1568

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佐渡鉱山の技術者集団出身の小池林平

 小池製作所の創立者・小池林平( 1915 - 96 )は、新潟県佐渡郡相川町に生まれた。


小池林平

小池林平 1985 年  

 小池林平と小池製作所の歴史をたどると、それは明治の開国からの、わが国近代金属活字の鋳造と、その関連機器の開発史をたどることになる。

 すなわち小池の師は、大正から昭和初期に活躍した「大岩式自動活字鋳造機」の開発者の大岩久吉であり、その大岩の師は、明治期に国産による「小型活字鋳造機/カスチング」を開発した大川光次につらなる。

 それはそのまま、大蔵省印刷局と新聞各社を中心とした、大量に、精度の高い活字を求めた、印刷メディアの歴史とも重なるのである。

主要登場人物と、その業績と製品

大川光次


1853

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1912

 もと彦根藩鉄砲鍛冶出身/大蔵省印刷局鋳造部伍長

   活字鋳型( type mold )の製造

  「小型鋳造機/カスチング」の製造

大岩久吉

大岩鉄工所

?

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1937

 もと東京の煙管(キセル)金属職人出身/大川光次に学ぶ

  「トムソン活字鋳造機」の仕上げ装置の開発

  「大岩式自動活字鋳造機」の製造

小池林平

小池製作所

1915

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1996

 佐渡郡相川町出身/大岩久吉に学ぶ

  「自動罫インテル鋳造機」の製造

  「見出し活字鋳植機」の製造

  「 KMT 型全自動組版機」の製造

 民間企業である東京築地活版製造所や秀英舎(現大日本印刷)の活字書体研究に関しては、相当の進捗を見るこんにちであるが、大蔵省紙幣司( 1871 明治 4 年創立)と、正院印書局( 1872 明治 5 年創立)に源流を発する大蔵省印刷局や、こんにちの独立行政法人・印刷局など、官製の活字書体や、その活字鋳造法は意外に知られていない。また大手新聞社の活字書体とその活字鋳造法も、資料は豊富に現存しているが、規模が膨大なだけに、十分には研究の手がおよんでいないのが現実である。

 本稿はこうした印刷・活字史研究の間隙となっている、活字鋳造機、インテル・込め物鋳造機、自動活字鋳植機などの開発の歴史に、小池林平と小池製作所に焦点をしぼって記述するものである。したがって物語はすこしく長くなる。

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 佐渡郡相川町は江戸初期に開かれた「佐渡金山」の鉱山町で、この町が活況を呈したのは 1603(慶長 8 )年、江戸初期の金山奉行・大久保長安(ながやす 1545 - 1613 )がここに陣屋を開設してからである。相川は徳川幕府の天領行政庁の所在地として殷賑をきわめる町となった。

 小池林平はこの相川町に、建築設計請負業の父・栄蔵と、母・ハルとの間に、3 1 女の末っ子として、第一次世界大戦の最中の 1915(大正 4 )年 9 25 日に誕生した。父・栄蔵は早稲田工手学校に学び、建築設計技手の資格をえて佐渡に帰り、各町村の学校、庁舎、税務署などの設計に関与し、当時最先端の西洋建築手法によって、佐渡の主要な建築物にはなんらかの形で関与していた。

 長男・熊太郎は、東京物理学校(現理科大学)を中退後に帰郷し、三菱鉱業佐渡工業所職員となった。次男・良作も相川中学(旧制)を卒業後、三菱鉱業に入社し、長兄と同じ道をたどったが、心臓病のため、1951(昭和 26 )年死去。長女・トシも三菱鉱業の職員と結婚し、いずれも佐渡鉱山と深い関わりをもった。

 さて、この物語の主人公、末っ子の小池林平は、兄たちと同様に中学(旧制)に進学したかったが、 「 3 人も小池の家から中学に行くことはない。いずれ中学には入れてやるが、3 年に編入すればよい。それまでは独学せよ」

 と栄蔵に命じられて進学を断念し、家業を手伝いながら私塾に通って、中学への編入試験に備えていた。

 そんなある日、林平に大きな転機が訪れた。当時の佐渡鉱山では、2 本の大煙突がアメリカ人技師の手で設けられて話題となっていた。隣家の物知りな主人がいった。 「あれを見よ。あの煙突を建てている米国の技術者は月に 1 万円ももらっているんだ。林平も学校などにいかず、彼のように手に職をつけよ」

 この時代、小規模な工場では小学校の卒業者しか雇わないのが通例であった。それは徴兵令にもとづいて、20 歳に達した男子は徴兵検査の上、強制的に軍隊に徴兵されるため、徒弟的な修業を経て一人前の技術者、すなわち叩き上げの職人や工匠となるためには、小学校卒業程度の年少者でなければならなかったのである。ちなみにこの時代、大学卒業の技術者の平均的な月給は 35 円程度であった。

 林平が技術者への道を目指して上京を決意したのは 17 歳の春秋のときであった。1931(昭和 6 )年 6 月、小池の遠縁の福沢家の出で、東京で「大岩鉄工所」を経営している、大岩久吉の妻・ヤノの縁を頼ってのことであった。

 ところが……、林平はヤノから一人前の職人になるための修業は相当厳しいと聞いただけで、大岩久吉といういかつい名前の人物も、ましてや「大岩鉄工所」がなにをしている工場かも良くは知らなかったのである。

 このとき、昭和恐慌がピークに達し、9 月には満洲事変が勃発し、翌 7 5 月には「五・一五事件」が発生して犬養毅首相( 1855 - 1932 )が暗殺され、本格的な戦争への暗い予感が世相となっていた。しかし同時に、この頃のわが国は、未曾有の低金利と低為替策(円安)に支えられ、輸出企業は活況を呈し、暗い予感に怖れおののく世相と、空前の利潤に沸き立つ財閥系輸出企業群という、アンバランスな表情をうかべていた。

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