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【タイポグラファ群像】小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から

小 池 林 平 と 活 字 鋳 造

日本の活字史のもうひとつの側面から

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活字鋳造法の長い歴史と普遍の技術

ヴィネット04口絵

活 字 鋳 造 師

錫と鉛の秘法をもって
鋳造活字をつくるのがこの儂じゃ
組版は正確きわまりなく
整然と活字がならぶ
ラテン語、ドイツ語
ギリシャの文字でも同じこと
イニシャル、句読点、終止符と揃え
あとはいつでも刷るまでさ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
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佐渡鉱山の技術者集団一家出身の小池林平

小池製作所の創立者・小池林平( 1915 – 96 )は、新潟県佐渡郡相川町に生まれた。

小池林平小池林平 1915-1996 写真は1985 年  

小池林平と小池製作所の歴史をたどると、それは明治の開国からの、わが国近代金属活字の鋳造と、その関連機器の開発史をたどることになる。
すなわち小池の師は、大正から昭和初期に活躍した「大岩式自動活字鋳造機」の開発者の大岩久吉であり、その大岩の師は、明治期に国産によるはじめての「小型活字鋳造機/カスチング」を開発した大川光次につらなる。

それはそのまま、大蔵省印刷局[現 独立行政法人 国立印刷所]と新聞各社を中心とした、大量に、精度の高い活字を求めた、印刷メディアの歴史とも重なるのである。

主要登場人物と、その業績と製品無題

民間企業である東京築地活版製造所や、秀英舎(現大日本印刷)の活字書体研究に関しては、相当の進捗を見るこんにちであるが、大蔵省紙幣司(1871- 明治 4 年創立)と、正院印書局(1872- 明治 5 年創立)に源流を発する大蔵省印刷局や、こんにちの独立行政法人国立印刷局など、官製の活字書体や、その活字鋳造法は意外に知られていない。

また大手新聞社の活字書体とその活字鋳造法も、資料は豊富に現存しているが、規模が大きいだけに、十分には研究の手がおよんでいないのが現実である。
赤坂・虎の門、工部省近辺工部省勧工寮活字局 跡

所在地:港区虎ノ門2丁目2 (もと佐賀藩松平肥前守中屋敷、維新後に赤坂溜池葵町 旧伊万里県出張邸跡)
標示物:独立行政法人 国立印刷局 虎ノ門工場 跡(国立印刷局 本局)〔港区虎ノ門2丁目2-4〕

概 要:「長崎県立長崎製鉄所新聞局」の活字一課「通称:活版伝習所」が1871年(明治4)4月に工部省に移管され、同年11月、東京の当地に移転して活版製造を開始した。
人員は長崎でウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830-86)から伝習を受けた者たちが中心で、設備も上海美華書館を経由して、アメリカから購入したものが主体をなしていた。
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工部省勧工寮活字局は設立直後から、これも新政府系印刷工場の「左院活版部・正院印書局」からの再々にわたる移管要求にみまわれていた。それに抵抗して工部省勧工寮活字局は1873年(明治6)4月、活字販売広告を出して外部の一般企業にも活字を販売するにいたった。その抗争をみかねて、平野富二はおなじ長崎に源流を発する勧工寮活字局を民間に払い下げて、東京築地活版製造所と合併する案を提案したが実現しなかった。
その後活字局は勧工寮から製作寮に移ったが、結局のところ1874年(明治7)8月に「正院印書局」に併合された。
この地には2014年まで「国立印刷局 虎ノ門工場」があったが、滝野川工場と合併して「国立印刷局 東京工場」(北区西ヶ原2丁目3-15)となり、現在は「国立印刷局 本局」だけが近隣のビル内に置かれ、宏大な跡地周辺は現在再開発地区とされ工事が進行している。

図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が「佐賀藩松平肥前守中屋敷跡」で、「地質検査所」と表記された辺り左側に勧工寮活字局があったと見られる。ごく最近まで、ここには「財務省印刷局」の虎ノ門工場があった。 外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。
感覚としてはアメリカ大使館と虎の門病院にはさまれた地区にあたる。(明治16年測量「五千分一東京図」より)

本稿はこうした印刷・活字史研究の間隙となっている、活字鋳造機、インテル・込め物鋳造機、自動活字鋳植機などの開発の歴史に、小池林平と小池製作所に焦点をしぼって記述するものである。したがって物語はすこしく長くなる。

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新潟県佐渡郡相川町は江戸初期に開かれた「佐渡金山」の鉱山町で、この町が活況を呈したのは 1603年(慶長 8 )、江戸初期の金山奉行・大久保長安(ながやす 1545-1613 )がここに陣屋を開設してからである。相川は徳川幕府の天領行政庁の所在地として殷賑をきわめる町となった。

小池林平はこの相川町に、建築設計請負業の父・栄蔵と、母・ハルとの間に、三男一 女の末っ子として、第一次世界大戦最中の 1915(大正 4 )年 9 25 日に誕生した。
父・栄蔵は早稲田工手学校に学び、建築設計技手の資格をえて佐渡に帰り、各町村の学校、庁舎、税務署などの設計に関与し、当時最先端の西洋建築手法によって、佐渡の主要な建築物のほとんどになんらかの形で関与していた。

長男・熊太郎は、東京物理学校(現理科大学)を中退後に帰郷し、三菱鉱業佐渡工業所職員となった。次男・良作も相川中学(旧制)を卒業後、三菱鉱業に入社し、長兄と同じ道をたどったが、心臓病のため、1951(昭和 26 )年死去。長女・トシも三菱鉱業の職員と結婚し、いずれも佐渡鉱山と深い関わりをもった。

さて、この物語の主人公、末っ子の小池林平は、兄たちと同様に中学(旧制・現在の高等学校)に進学したかったが、
 小池の家から人も中学に行くことはない。いずれ中学には入れてやるが、三 年に編入すればよい。それまでは独学せよ」
と栄蔵に命じられて進学を断念し、家業を手伝いながら私塾に通って、中学への編入試験に備えていた。

そんなある日、林平に大きな転機が訪れた。当時の佐渡鉱山では、本の大煙突がアメリカ人技師の手で設けられて話題となっていた。隣家の物知りな主人がいった。
「あれを見よ。あの煙突を建てている米国の技術者は月に 1 万円ももらっているんだ。林平も学校などにいかず、彼のように手に職をつけよ」
ちなみにこの時代、大学卒業の技術者の平均的な月給は 35 円程度であったという。

この時代、小規模な工場では小学校の卒業者しか雇わないのが通例であった。それは徴兵令にもとづいて、20 歳に達した男子は徴兵検査の上、強制的に軍隊に徴兵されるため、徒弟的な修業を経て一人前の技術者、すなわち叩き上げの職人や工匠となるためには、尋常小学校か高等小学校卒業程度(12-16歳ほど)の年少者でなければならなかったのである。

林平が技術者への道を目指して上京を決意したのは 17 歳の春秋のときであった。1931年(昭和66月、小池の遠縁の福沢家の出で、東京で「大岩鉄工所」を経営している、大岩久吉の妻・ヤノの縁を頼ってのことであった。
ところが …… 、林平はヤノから一人前の職人になるための修業は相当厳しいと聞いただけで、大岩久吉といういかつい名前の人物も、ましてや「大岩鉄工所」がなにをしている工場かも良くは知らなかったのである。

このとき、昭和恐慌がピークに達し、9 月には満洲事変が勃発し、翌 7 5 月には「五・一五事件」が発生して犬養毅首相( 1855ー1932 )が暗殺され、本格的な戦争への暗い予感が世相となっていた。
しかし同時に、この頃のわが国は、未曾有の低金利と低為替策(円安)に支えられ、輸出企業は活況を呈し、暗い予感に怖れおののく世相と、空前の利潤に沸き立つ財閥系輸出企業群という、アンバランスな表情をうかべていた。

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手鋳込み・手回し活字鋳造機と大川光二、その弟子・大岩久吉

大岩久吉はもともと煙管(キセル)職人として東京・向島で、兄とともにキセルの雁首などを加工する金属加工職人として生計を営んでいた。のちに最先端の印刷関連機器の「活字鋳造機/カスチング」(活字鋳造機 type casting machine )などと様〻に呼ばれた機器の製造者として手腕を発揮した。
この大岩の師匠は、彦根藩・井伊家の鉄砲鍛冶を祖とする大川光次(1853-1912)であった。

周知のように、鉛合金による鋳造活字を使用する活字版印刷術は、1445 年頃、わが国の室町時代に、ドイツのヨハン・グーテンベルク( Johann Gutenberg 1399 ?-1468 )によって創始された。
グーテンベルクは金属活字をおもな印刷版とする印刷術、すなわち 活字版印刷術 = Typography の開発者たちのうち、あまりにも著名なひとりであるが、また同時に、金属活字を製造するための効率的な活字父型( type punch )・活字母型( type mold )の製造法や、タイプ・キャスティング・ハンド・モールド( type casting hand mold 手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)の考案者でもあったとみなされている。

わが国では「手鋳込み・流し込み活字・割り鋳型」などと呼ばれた、一見簡便なタイプ・キャスティング・ハンド・モールドの技術は、鉛合金の注入を、手動で柄杓(ひしゃく)状の器から鋳型に流し込む「流し込みタイプ・キャスティング・ハンド・モールド」であったが、その後はせいぜい流し込みから「ポンプ式タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」に改良された程度で、400 年ほどの間、基本的な技術は変わらなかった。

活字父型とタイプ・キャスティング・ハンド・モールド
手前に見えている金属片は贅片付の活字。Mizuno Printing Museum 所蔵。

Type Casting Hand Mold

   左:ブルース手回し式活字鋳造機   右:トムソン型自動活字鋳造機(小型)

Hand Casting Machine The Thompson Caster

しかし 1838(天保 9 )年、米人のダビット・ブルース( David Bruce Junior 1802-92 )が「手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」の実用化に成功した。

わが国の活字業界では「カスチング/手回し式活字鋳造機/手回し」などと様〻に呼ばれたこの「ブルース活字鋳造機」は、現在もなお、48 ポイント以上の大きなサイズや、スクリプト体などの「張り出し」があるような特殊な活字の鋳造のために、一部の業者が使用しているほど、堅牢かつ利便性の高い機械である。しかしこれがいつ頃、どのようにわが国にもたらされたのかは確たる資料はない。

江戸末期、「流し込み活字」と称して「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド(手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)」による活字鋳造法によって、良質な活字を安定製造できずに苦吟していた長崎通詞・本木昌造らが、維新直前に松林源藏を上海の美華書館に派遣し、明治最初期に上海経由で入手したものとみられているが、これも確証はない。

「ブルース活字鋳造機」は手動の簡素な機構の機械で、2 個の L 字型の鋳型を組合せ、ポンプ(ピストンともいう)で地金を鋳型に流し込み、手動ハンドルを 1 回転させるごとに、贅片(ぜいへん/活字の尾状のもの)がついたままの活字を機外に排出するものである。これを仕上げ工が贅片を折り取り、カンナで仕上げて完成品とした。
1871(明治 4 )年、工部省勧工寮活字局は、おそらく「ブルース活字鋳造機」とおもわれる「カスチング 1 台」を設置して活字を鋳造し、民間にも活字を供給・販売しようとした。

!cid_704522C0-CBF9-4429-A5F1-353ABD0C6F62「江戸名所道外盡 神田佐久間町」広角画・東京都立中央得図書館
絵師:広角は津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の正月風景をのこしている。当時25万石の大名:藤堂家のような武家屋敷には町名はなく、もっぱら「藤堂さまお屋敷」などと呼ばれていた。ちなみに「藩邸」は明治期以降のことば。町人地であった神田佐久間町はほぼこの絵図のままに現存するが、それは下掲図画面の左手であり、左下にわずかに屋根の一部が描かれているにすぎない。
37-05.『江戸名所道外盡 神田佐久間町』広景画 resized

いっぽう、本木昌造の長崎新町活版製造所の経営を継承した平野富二は、10 名の同志とともに 1872(明治 5 )年、千代田区神田和泉町一、旧津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の一隅(現千代田区立和泉小学校のあたり。多くの記録に-外神田佐久間町三丁目-とされているが、それは町人地で、道路の反対側にあたる)に「崎陽新塾出張活版製造所」を設置した。
このとき使用した「手鋳込み活字鋳造機」と記録されている機械も、製造量と単価の記録から推量すると「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」ではなく、すでに「ポンプ式タイプ・キャスティング・マシーン」、あるいは「ブルース活字鋳造機」を導入していたとおもわれる。

この平野富二による活字鋳造所は、わずか一年後ののちに築地に移転して、東京築地活版製造所となって「東洋一の活字製造工場」(印刷雑誌)として盛名をはせることななる。
1881(明治 14 )年に同社は、米国から「ダビッド・ブルース型活字鋳造機を購入した」と『印刷製本機械百年史』に記述されている。おそらくこの頃から「ブルース活字鋳造機」が本格的に、あるいは商事会社などによってわが国に輸入されたのであろう。

国産による「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」を最初に開発したのは大川光次であった。代々鉄砲鍛冶として、彦根・井伊藩に仕える家に生まれた大川は、少年時代から家業を手伝っていたが、1920年(明治 5)、赤坂・田町で流し込み活字(タイプ・キャスティング・ハンド・モールドによる活字のことか?)、および鋳型(タイプ・キャスティング・モールドのことか?)の製造・販売を開始した。
1927年(明治 12 )には大蔵省印刷局に招かれて鋳造部伍長となり、やはり同局に入った実弟の大川紀尾蔵とともに、活字鋳造と鋳型の完成に努力した。

1883年(明治 16)に山縣有朋の建議によって官報第 1 号が発行された。
大川兄弟はこの年に大蔵省印刷局を退き、赤坂・田町において鋳型製造業を再開するとともに、国産 1 号機となる活字鋳造機「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機/カスチング」を製作した。従来はこの大川光次製の、様〻な名称によって呼ばれていた活字鋳造機の詳細がわからなかったが、『小池製作所の歩み』にわずかに残された不鮮明な石版印刷の図像をみると、大川兄弟が製造した通称「カスチング」とは、「ブルース活字鋳造機」の模倣機といえた。

後述するが、これらの機器は補充部品の供給もままならず、また解体修理を迫られることは今でもしばしばある。当時の通信・交通事情を考慮すると、その依頼を原産国たるアメリカに発注することは事実上不可能であった。したがって大川兄弟は「ブルース活字鋳造機の英国製?の模倣機」に合わせて、日本語活字の鋳型をつくり、また、その修理の経験をへて、独自に模倣機の製造技術を習得したものとおもわれる。

大川光次の製造による国産「小型鋳造機/カスチング」

大川の「小型鋳造機」はそう広範囲に普及したわけではなく、おもに、かつての同僚であった大蔵省紙幣寮や印刷局系の出身者が購入した。その代表は松田敦朝(あつとも 1825-1903 )による「玄々堂印刷会社/東京活字鋳造銅版彫刻製造所」や、神崎正誼(まさよし 1837-91 )の「活版製造所弘道軒」であった。神崎正誼の記録には、縁者のツテを頼って英国から「鋳造機」を輸入したという記述をみる。

「明治 16 年、大川兄弟は揃って印刷局を退き、赤坂田町 4 丁目(TBSのちかく)で鋳型及び鋳造機の製造を開始した。この鋳造機の原体は弘道軒神崎氏の義兄にあたる英国駐在公使が、神崎氏のために送ってきたもので、築地型とは異なり小型であった。それを神崎氏からスケッチさせてもらって、一工夫を加味したのである。これが本邦における小型鋳造機製作の起源となった」(『毎日新聞百年史』)。

活字鋳造機とは、ふつうは活字のサイズは可変型になっている。しかし実際の現場では利便性を重んじ、サイズ毎に鋳造機と鋳型を固定して、複数台数を設置することがほとんどである。したがって「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」が実際に使っていたのは、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」であったとみられる。
その結果、米国製の活字鋳造機「ブルース活字鋳造機」や「トムソン活字鋳造機」と、その模倣国産機を用いていた東京築地活版製造所と、大川光次の「小型鋳造機/カスチング」を用いた「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」の活字サイズは、鋳型の寸法や基準尺度の相違から、それぞれが独自のサイズのものとなったとみてよいだろう。

蛇足ながら …… 、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」は、精度と強度に何らかの問題を抱えていたのかもしれない。つまり大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」を実見したという報告に接したことはないが、「ブルース活字鋳造機」は相当古いものでも健在で、現在も活字鋳造現場では実用機として用いられている。
のちに大川光次は芝・愛宕町に移り、1912年(明治 45 )、60 歳をもって逝去した。大川光次に関しては『本邦活版開拓者の苦心』「初期の鋳型、鋳造機製作者 …… 大川光次氏」に詳しい。

昭和 9 年に刊行された同書のこの章のサブ・タイトルには「門下の俊才ことごとく第一線で活躍」とあり、文末には「ちなみに大川門下として現在活躍されている俊才は、須藤、大岩、関、國友氏などである」とある。小池林平が師と仰いだ大岩久吉は、まぎれもなく大川光次の門下であった。

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大岩久吉と、昭和初期のトムソン活字鋳造機

東京市芝区金杉橋にあった「大岩鉄工所」は、従業員 8 名ほどの小規模な町工場であった。間口4-5 間、奥行き 14-5 間の木造 2 階建ての建物で、1 階部分を工場とし、2 階は従業員の寮であった。技術者として立つことを夢見て上京した小池林平も、ここに住み込みで働くことになった。

当時の活字の鋳造は、すでに手鋳込み式(流し込み式)のタイプ・キャスティング・ハンド・モールドや、その改良型のポンプ式流し込み活字鋳造機の段階を終えており、「ブルース活字鋳造機/手回し式活字鋳造機」と、その模倣型国産機「小型鋳造機/カスチング」の普及と国産化が進展しており、また「自動活字鋳造機(トムソン活字鋳造機)」導入の端境期にあった。

「トムソン活字鋳造機 Thompson type-caster」はシカゴのトムソン社( Thompson Type Machine Co., 米国)製で、面倒な贅片処理を自動化して 1909 年アメリカ国内特許を所得した自動活字鋳造機であった。トムソン活字鋳造機は鋳型を取り換え、また腹板を厚薄いろいろに変更して、48 ポイントまでの活字と込め物類を完全鋳造した。

ブルース活字鋳造機の国産模倣機が、大川兄弟による「小型鋳造機/カスチング」のほかにめぼしいものがなかったのにたいして、トムソン活字鋳造機は、正規輸入品は少量にとどまり、多くはこれに正方形の日本語活字に適した改良を加えた国産の模倣機が用いられた。わが国の活字界ではこのような類似した型の国産自動活字鋳造機をも「トムソン型活字鋳造機」、あるいは単に「トムソン」と呼んでいる。

大正期後半頃からトムソン活字鋳造機を輸入・販売したのは三井物産であった。販売は順調であったが、当然部品の交換や、様々な補修や修理の必要があった。それをいちいちシカゴ・トムソン社に発注したり、人員派遣の依頼をすることには困難があった。そのために三井物産は、大川光次門下出身で、活字鋳造機に詳しく、練達の技術者でもあった大岩久吉に、交換部品の製造と修理を依頼することになった。

したがって「大岩鉄工所」は小規模な町工場とはいえ、大岩久吉の技量は瞠目に値するものであり、技術者といえば、佐渡相川町の鉱山技術者しか知らなかった林平少年にとって、はじめて知る、めくるめくような先端技術の展開の場でもあった。

とはいえ、このプロジェクトは公式には秘密事項になっており、大岩鉄工所の名前は表にでず、また大岩久吉は弟子や下請企業がやった仕事はまったく信用しなかった。大岩鉄工所の従業員はただ補助的な仕事を担っているに過ぎず、機械の性能・強度・精密度は大岩の仕上げの手腕ひとつにかかっていた。

「小型鋳造機/カスチング」すなわちブルース型活字鋳造機の技術者であった大岩が、トムソン型活字鋳造機でその名声を高めたことの根底には、類い希なる職人気質があったことはいうまでもないが、直接の契機となったのは、大岩がトムソン自動活字鋳造機に、技術者として心底惚れ込み、それを徹底的に学んだことにあった。

「大岩久吉は典型的な名人気質の人であった。(大蔵省)印刷局のトムソン活字鋳造機の修理をしているとき、この機械が一点の妥協も許さないほどの高い精度があることに惚れ込んで、このような活字鋳造機を自製してみたくなり、印刷局の了解を得てこれをスケッチした。このときのスケッチは、微細な傷にいたるまで完全に写しとっていたということである」(『毎日新聞百年史』)。

三井物産から部品製造と修理を委託されたことから、大岩は当時の最優秀機であったトムソン活字鋳造機の製造技術を吸収していた。しかしながら反面では、技術と機械に惚れ込むあまり、また資本力も乏しかったために、「トムソン」すなわち国産自動活字鋳造機の開発に関しては他社に遅れをとることにつながった。

国産化で大岩鉄工所に先行したのは、林栄社と、大手機械メーカーの池貝鉄工所であった。林栄社はトムソン社製の自動活字鋳造機を独自に研究し、1926年(大正 15 )国産機の完成にこぎつけ、「万年自動活字鋳造機」と命名して発売した。池貝鉄工所も追随して 1929年(昭和 4 )から発売した。そのほかにも東京機械製造、須藤製造所なども「トムソン型活字鋳造機」を発売した。これらの企業にはほとんど大川光次門下生がなんらかの形で関係していた。

そもそも輸入品のトムソン活字鋳造機は、欧文活字を効率よく、高速で鋳造するための機械であったから、和文用活字を鋳造すると、活字の脚の周辺部に「鋳バリ」が生じることが難点であった。そのために国内メーカーが模倣機を開発する際には、その仕上げ装置(バリ取り)の性能いかんが最大のポイントであった。『毎日新聞百年史』には次のようにある。

「大岩鉄工所の小池林平氏は東京日日新聞(毎日新聞の前身)に出入りして、トムソン活字鋳造機の仕上げ装置の欠点を改めようとし、独自の仕上げ装置を考案して特許をとった。輸入機の仕上げ装置はその後小池製作所の手に引き継がれ、現在も毎日新聞社のトムソン活字鋳造機につかわれている」

大岩鉄工所もこうした動向と無縁ではなく、他社に販売時期は遅れをとったものの、独自に、あるいは「高圧」という商事会社を通じて「大岩式自動活字鋳造機」を販売した。その製品の優秀性は他社製品を圧倒したが、いかんせん資本力がなく、また輸入機が 1 1 万円ほどだったのにたいして、国産機の一部業者は 1 1,800 円という低額販売を開始したために、池貝鉄工所はこの分野から事実上の撤退をはかり、三井物産も自然にトムソン機の輸入を中止するにいたった。

どういうわけか、「活字」という、言語に関わる「鋳物」を作る鋳造機には、ほかの工業機器にはない独特の製造思想のようなものが要求された。そのために国産機は独創的であろうとするあまり、とかく小手先の細工に陥りやすく、また部品点数がふえすぎて故障を招きがちで、耐久性に劣るという欠陥がみられた。大岩鉄工所がトムソン機の模倣機に、自社開発の活字仕上げ装置を付帯した「大岩式自動活字鋳造機」を発売したのは輸入元であった三井物産への遠慮もあり、他社に遅れて 1933年(昭和 8 )のことであった。
大岩鉄工所にきびすを接して、日本タイプライターも 1934(昭和 9 )年「万能活字鋳造機」を発売した。同機は大きさの異なる活字鋳造が、同一作業中でも可能で、とりわけ邦文モノタイプ用のセクショナル母型盤をそのまま使うことができた。

大岩久吉が作った機器とは、無駄を最大限に省き、それでいて高精度であり、かつまた耐久性を重んじた製品であった。しかしこうした職人魂を誇った大岩久吉も 1937年(昭和 12 )急逝した。
大岩家には、妻・ヤノ、長男・末吉、異母兄・勝太郎がのこされたが、長男末吉は結核によって父の跡を追うように逝去した。そのために継嗣として大岩勝太郎が事業を継承した。しかし実際には、大岩家のたつきともども、あまりに若き小池の肩に、大岩鉄工所の経営はゆだねられた。

ところが大岩ヤノは、夫、長男と相次いで喪って経営意欲をなくし、同郷の建築請負業者・児玉富士太郎を通じて、ダイヤモンド社・石山賢吉社長を訪ねて大岩鉄工所の買収方を要請した。

当時の石山賢吉のもとには投資家が頻繁に出入りしており、身売り企業を投資家と結びつける役割を果たしていた。石山は大岩鉄工所を買収の上、軍需下請け会社にしようと考え、1949年(昭和14 )に買収を完了、法人化の上、社名をダイヤモンド機械株式会社とした。
初代社長には某鋳物会社社長が、二代社長にはウェル万年筆社長・西尾信三郎が就任したが、日常業務はほとんど小池林平らに任せきりであった。小池林平は徴兵検査に臨み、陸軍高田第 3 砲兵連隊所属となったが、乙種合格のために兵役をのがれていた。この年、小池林平はまだ 20 歳であったのである。

こんにちの小池製作所も、この「大岩魂」を継承している。小池林平は最後まで、「私がこんにちあるのは、大岩久吉氏の薫陶のおかげである」として、浅草・潮江院の大岩久吉の墓への墓参を欠かさなかったという。

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時局切迫下、活字文化衰退の一途の中で小池製作所の創業

自動活字鋳造機、邦文モノタイプは、正規輸入品と模倣国産機ともども、技術革新は格段に前進し、新聞報道や印刷の迅速化に貢献しつつあった。しかし 1937年(昭和 12  7 月勃発の日中戦争、翌年の国家総動員法の発令を契機として時代は暗転し、印刷文化は窮状に追い込まれていた。

時局緊迫の中で、印刷製本機械工業組合が 1937年(昭和 12 )に創立されたが、すでに印刷を不要不急のものとみなす動きがあり、翌 1938 年には印刷製本機械にたいして、製造禁止令がかけられるにいたった。
それだけではなく、印刷業界は鉄や非鉄金属の物資動員計画の先制的な標的とされ、「印刷工場は金属鉱山」と題する論文までが中央官僚(矢野道也)の筆によって登場するにいたった。
こうした官僚側からの圧力をうけて、やがて官製の国民運動「変体活字廃棄運動」がわが国の活字を襲うことに連なったのである。この、わが国の近代活字を襲った最大の蛮行「変体活字廃棄運動」に関しては、「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗、朗文堂)に詳しい。

いっぽう大手印刷資本や新聞社は新市場をもとめ、軍の展開にあわせて、満洲(現中国東北部)、中国各地、南方諸島などに進出して、現地の印刷所を「接収」して印刷にあたっていた。
そのために国内の印刷関連機器メーカーは、転廃業するか、軍需工場の下請となって生き延びるしかなかった。また企業の統廃合もはじまり、印刷関連業者では 1938年(昭和 13 )に、東京築地活版製造所が清算解散、芳賀印刷機械製造所が廃業し、翌々年には浜田印刷機が製造を中止した。
また 1940年(昭和 15 )頃から印刷用紙などの紙不足が深刻になってきた。翌年には用紙配給機関として「日本和紙統制株式会社」が設立され、出版用紙の割当配給制度がはじまり、活字を含む印刷資材の配給もすべて「日本印刷文化協会」が取り締まることになった。

時局が切迫感をました 1943年(昭和 18 )、軍需省は印刷業の企業整備要項を発表、印刷製本関連の各工場が企業整備(統廃合)されるとともに、地方への(強制)疎開もはじまった。その結果、同要項施行以前に 18,225 社あった印刷業者は、翌年にはわずかに 5,471 社に激減した。

それに際して「印刷工場は金属鉱山」とされた印刷・活字業界から「供出」(没収)された機械や活字の供出量は、公式発表だけでも、鉄 18,520 トン、鉛(活字地金)9,670 トンが「供出」された。すなわち 2 トン車の小型トラックなら、鉄 9,300 台、活字地金 5,000 台近くにもおよぶ鉄と非鉄金属が「聖戦遂行」の美名のもとに奪い去られた。もちろん前述したように、非公式な官製の国民運動「変体活字廃棄運動」も水面下で陰湿に展開していた。

この間、1939年(昭和 14 )に設立されたダイヤモンド機械株式会社と小池林平は、活字鋳造機の分野を縮小して、ほそぼそと中島飛行機発注の戦闘機の部品製造を手がけていた。こうした折り、海軍省から大岩式自動活字鋳造機 10 台の注文があった。電話の呼び出しで小池が横浜駅に到着すると、海軍の車が待っており、海軍監督工場の文寿堂印刷工場へ連れて行かれた。

文寿堂は佐藤繁次郎が経営する民間会社であったが、海軍の監督下で暗号帳を専門に印刷していた。ここにはすでに 7 台の大岩式自動活字鋳造機を納入済みであったが、さらに 10 台を追加発注したいという話しであった。
しかも軍の最高機密である暗号活字を鋳造する機械を、いつ空襲にあうかも知れない町工場で製造させるようなときではなく、小池以下、活字鋳造機の製造担当者は、全員海軍が身柄を含めて預かるということであった。

帰社した小池は、事実上の最高責任者であるダイヤモンド社社長・石山賢吉の了解を得て、田村正、刀根功作、吉田秀夫らとともにダイヤモンド機械株式会社とは分離して、海軍に移ることになった。海軍への移動の直前、小池は大蔵省印刷局と毎日新聞社に納入していた大岩式自動活字鋳造機には、今後とも修理と部品提供に責任を持ちたいとして、軍部からの承認を取りつけていた。

こうして小池林平他 5 名は「海軍横須賀砲術学校印刷部」に所属して、ここで活字鋳造機を造ることになった。これが小池製作所の事実上の創立となった。このとき小池林平 26 歳の夏、1941 年(昭和 16 )のことであった。

★     ★     ★

荒廃からの再出発、インテル鋳造機と小池製作所の設立

サイパン島から飛来した B29 による本土空襲などによって、首都東京は甚大な被害をこうむり、荒涼たる瓦礫の街と化した。印刷業者の罹災率は、東京 66%、神奈川 59%、大阪 53%、工場数では全国 4,800 社におよんだ。また新聞各社の工場も同様の惨状を呈していた。

小池林平らがいた海軍横須賀砲術学校では、8 月の深夜になると、機密書類を焼く光景が構内の各所で見られた。ところが日夜地下工場で機械製造にあたっていた小池らはそれを不審にはおもったが、まさか敗戦が間近に迫っているとは気づかずに日常業務にあたっていた。そして、昭和 20 年( 1945 8 15 日の敗戦を迎えた。

ひとびとはいうにいえない空虚感に苛まれた。新聞各紙がペラの 2 ページ版、しかも裏面が白紙という、まるで号外のような新聞を発行せざるをえなかったのは、あながち用紙不足のせいだけではなかった。それはついきのうまで「鬼畜米英・挙国一致・本土決戦・一億玉砕」を叫んだ同一のペンで、180 度の転換をすることに、言論人としての良心がゆるさなかったのであろう。

しかし、途絶していた活字文化は不死鳥のごとく甦ろうとしていた。新聞・印刷の業界は再起にむけて、印刷機械部門の技術者たちに熱い期待の視線を注いだ。そのために離散した技術者を探し出し、焼損した機械の修理や、新規技術開発を依頼し、他社に一歩でも先んじようと競いあった。
佐渡郡相川町に帰郷していた小池林平にも、ある日、毎日新聞東京本社から上京を要請する連絡がはいった。戦争末期、毎日新聞社は八王子市大横町にほとんどの印刷機器を疎開していたが、敗戦直前の 8 12 日の空襲で全焼していたのである。

上京直後から早速、小池は八王子の毎日新聞社の焼損した活字鋳造機の修理にとりかかった。それだけではなく、戦前来各社に納品してきたトムソン活字鋳造機の仕上げ装置や、大岩式自動活字鋳造機の修理と部品供給の任務が、小池の両肩にずしりとかかってきたのである。
こうした要望に応えるために、小池は工場の設置を決意し、退職金がわりに海軍から払い下げを受けた 3 台の活字鋳造機を元手に、目蒲線矢口駅近辺に仮工場を設置し、まもなく大田区鵜ノ木 3 丁目 23 18 号に、土地 100 坪の借地工場を購入して移転した。小池林平は順調な受注を得て自立の意思を固め、1947年(昭和 22 )に戦後社会の活字文化に貢献すべく、合資会社(のちに株式会社に改組)小池製作所を設立したのである。

ところで、毎日新聞東京本社から小池林平が重大な要請を受けたのは、それに先立つ1946年(昭和 21 )年 8 月、小池林平が 31 歳の働き盛りを迎えたころであった。
当時の毎日新聞社技術部長は長谷川勝三郎( 1912-2001 )であった。長谷川は東京高等工芸学校印刷工芸科の出身で、新規設備の導入には人と技術を重んじる毎日新聞の伝統的な社風を体現したひとりであった。

その膝下に古川 恒(ひさし 1910-86 )副部長がいた。古川は昭和初期、およそ 10 年間にわたって活字鋳造課に所属、のちに技術部長となった。また『毎日新聞百年史』の技術編は、ほとんど古川の手によったものである。また東京築地活版製造所跡地に設けられた「活字発祥の地」碑の撰文も古川の手によった。

毎日新聞社技術部の古川副部長と鈴木緑四郎は、まだ矢口渡に工場があったころに小池のもとを訪ねていた。古川はそのときすでに、毎日新聞活版部の命運を左右する機械の開発について、小池製作所に賭ける腹づもりがあった。それが「金属インテル(条片)鋳造機」の製造であった。

既述のとおり、わが国においてはすでに戦前から自動活字鋳造機の普及によって、大手印刷所や新聞各社は自動活字鋳植機を導入し、「自家鋳造による活字の 1 回限り使用」を実現していた。しかし印刷版の行間を構成するインテルや罫線などの条片類には自動化は及ばなかった。これらは徹頭徹尾手作りで、特殊な技術と手間を要する高価なものであった。

そのために、活版印刷の現場では、印刷や紙型取りの終了後、活字はすべてひとまとめに溶解釜に放り込んで再使用していたが、インテルや罫線はひとつひとつ拾い出し、インキを洗い流して再び使用していた。つまりインテル類に関しては旧態依然として、解版、洗浄、返し版、再使用を余儀なくされていたのである。そのため、金属インテルの自動鋳造は、新聞社、印刷会社を問わず、省力化とスピード・アップのための喫緊の課題だった。

古川 恒は 1942年(昭和 17 )にマニラに転勤となった。当時、毎日新聞社は、フィリピン、セレベス島、海南島、台湾、上海の各地に進出し、現地の印刷所を接収して、『マニラ新聞』『セレベス新聞』などの各種の新聞や、軍関係の印刷物を担っていた。主要各紙も同様であった。
古川が勤務したマニラ市では、米国系の、1 年半後に転じたセレベス島マカッサル市では欧州系のインテル鋳造機がすでに使用されていた。古川は技術者の視線で、現地でこれらのインテル鋳造機をつぶさに観察し、その原理を頭に叩き込んで帰国したのである。そしてこれらの機械が、きわめてオーソドックスに作られていることに気づき、日本でこれを開発するならば、大岩鉄工所の流れを汲む小池製作所以外にないだろうとの確信を抱いての訪問であった。

古川恒インテル鋳造機の試作機と古川 恒

「毎日新聞が小池製作所にたいして、条片(インテル)鋳造機を作るように口頭で依頼したのは昭和 21 8 月であった。当時はどこの機械メーカーも焼損機械の修理に追われており、新機械の開発に取りかかれるような状況ではなかった。しかしながら小池林平は昭和 8 年頃(小池林平の記憶では昭和 10 年)条片鋳造機を研究し、特許もとっていたので、喜んで製作を約束してくれた」(『毎日新聞百年史』)。

この要請があった当時の小池製作所は、自動活字鋳造機の製造や修理で従業員はフル稼働していた。また、敗戦の直後から、各地に活字鋳造業者や活字母型製造業者が雨後の筍のように出現していた。しかしこれらは最終的に、林栄社、小池製作所、それに林栄社の工場長だった津田藤吉が移籍した八光活字鋳造機製作所が主力メーカーとして残った。活字鋳造機は量産型の製品ではないために、大手機械メーカーではかえってコスト高となり、専業メーカーに対抗できなかったのである。

「来てください、どんどんインテルが出るようになりました」

小池林平からの弾んだ声の電話を古川恒が受けたのは、1949年(昭和 24 11 月のことであった。依頼から 3 年余の苦闘の日々ののちであった。

「早速有楽町から鵜ノ木の小池製作所に駆けつけてみると、インテルが順調に押し出されている。工場内には従業員の快活な声が行き交っていたが、ふと気づくと、機械から飛散する、熱した油のために、小池社長以下全員が火傷だらけでした。あのときの情景は今も忘れることができません」

と、古川 恒は『毎日新聞百年史』に多くのページを割いて、その苦心談を語り、小池林平を高く評価している。

「インテル鋳造機 strip caster, slug casting machine 」とは、インテルや罫線などを自動的に鋳造する機械である。すなわち活字鋳造機に似て、地金を溶解釜から細い透き間をとおして送り込み、一定の長さに鋳造したインテルの部分を、つぎつぎに融着して、1 本の長いインテルに仕上げるものである。凝固したインテルは引き出し装置によって引っ張られ、指定の長さに切断される。
この種の機械で代表的なひとつがルドロー・ティポグラフ社( Ludlow Typograph Co., 米国)の製品「エルロッド」であるが、同機は厚さ 1 -42 ポイント、長さ 1-24 インチ、鋳造速度は毎時 25 -45 フィート程度であった。

いっぽう、小池製作所が作ったインテル鋳造機は、活字と同一の地金を用い、各号数の全角から 4 分までの厚さが鋳造でき、1 時間あたりの鋳造速度は 130 メートル程度の高性能を誇った。この機械は毎日新聞工務部次長・齊籐雅人によって、製品名「小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster 」と名づけられて毎日新聞社に即時納入され、その後新聞各社はもとより、印刷会社や活字鋳造所にひろく採用された。また「自動罫インテル鋳造機」として特許が認められた。

小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster

小池式ストリップ・キャスター

「小池式ストリップ・キャスター」の開発成功は、小池林平に企業体としての小池製作所の発展に自信を与えた。それまでの小池製作所は自動活字鋳造機の主力メーカーとして知られていた。生産・販売台数は、1945 20 台、1946-50 年は毎年 60 台であった。しかしながらこれは大岩式のそれを基本的に継承したものであり、小池製作所の新規開発製品といえるものではなかった。すなわち、あくまでも故・大岩久吉あっての小池製作所であったのである。

さらに「小池式ストリップ・キャスター」の最大の成果は、従業員全員に新製品開発への意欲を喚起させたことであった。それは一流新聞社からの至難と思われた開発要請に応えたという自負だけではなく、競業他社と競いつつ、また自らが試行錯誤しつつ前進していくという、製品開発のプロセスを従業員が共有したことは、小池製作所の基盤を一段と強化した。

「小池式ストリップ・キャスター」はその後、ヨーロッパ諸国をはじめ、韓国・タイ・香港・インド・マレーシア・台湾などに輸出され、外貨不足に悩んでいた戦後のわが国にとって、「輸出貢献企業」としてさまざまな表彰を受けるにいたった。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

 相次ぐ技術開発、そしてついに KMT 全自動モノタイプの開発

小池製作所が自動罫インテル鋳造機の開発に全勢力を注ぎ込んでいたころ、活字業界では「変体活字廃棄運動」の悪夢をぬぐい去り、戦禍からの活字文化の復興を目指していた。そのために大きな役割を果たしたのが、ベントン活字母型(父型)彫刻機の特許切れに伴う国産化の動きであった。

もともと活字父型と活字母型の製造法には、パンチド・マトリクス法、電鋳法(電胎法)、彫刻法があった。このうち彫刻法の技術に、リン・ボイド・ベントン( Linn Boyd Benton 1844-1932 米)による画期的な発明「ベントン活字母型(父型)彫刻機 Benton type matrix ( or punch ) cutting machine 」がもたらされた。

この機械は相似三角形(パントグラフ)の理論を応用したもので、わが国ではおもに活字母型( type matrix )製造のために、特殊なカッターを毎分 8,000-10,000 回の高速回転によって、マテ材の表面に活字原図のパターンを縮小(まれに拡大)して彫刻するものであった。ベントンはこれを 1884 年に完成し、翌年に英米の特許を得た。

戦前のわが国の活字母型製造では、もっぱら種字とよばれた木製の活字原型か、活字そのものを活字父型代わりとする「電鋳法-電胎法とも」が中心であったが、大蔵省印刷局が新機構の「ベントン活字母型彫刻機」を 1912年(明治 45 )に導入し、三省堂と東京築地活版製造所(のちに凸版印刷に譲渡)が 1922年(大正 11 )に導入していた。

戦後、大日本印刷は、損傷と摩滅のめだっていた活字母型を再構築することを目的とし、三省堂の了解と協力を得て、測定機器のメーカーであった津上製作所に同機をスケッチさせて国産機の開発に乗り出した。
津上製作所は 1949年(昭和 24  9月、毎日新聞東京本社で国産機の展示会を催し、大日本印刷と毎日新聞社に続々と納入され、活字鋳造業者からも熱狂的に歓迎された。ついで富山市の「 NACHI 」ブランドで知られる機械メーカーの不二越も、同様にこの分野に進出した。この間の情報は『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷)に詳しい。

国産メーカーによる「ベントン型活字母型彫刻機」は、電鋳法による活字母型の手作業を大幅に機械化し、敏速で精度の高い活字母型の製造に貢献した。しかし彫刻針で彫った活字母型から鋳造される活字には、表面に独自の出っ張りが生じる欠陥があった。そのために、これにもやはりなんらかの活字仕上げ装置を付帯させなければ、連続鋳造は不可能であった。

この装置を得意分野としていた小池製作所は、後発ではあったが、彫刻母型による活字仕上げ装置の開発に着手した。後発メーカーの宿命として、他社の特許に抵触することを避けたために開発は難渋したが、極めて単純明快な、カッターによる仕上げ装置を 1963(昭和 38 )年に開発するにいたった。先発企業のそれは、刃物でえぐり取るものであったので、その優良性は明白で、この「出張り活字の仕上げ装置」は特許を得て、ベントン型活字母型彫刻機のユーザーにひろく受け入れられていった。

活字鋳造界がベントン型活字母型彫刻機の開発に夢中になっていたころ、新聞社と大手印刷所の大きな関心は、活字組版の機械化と合理化、すなわち活字を 1 本ずつ鋳造しながら、自動的に組版までを作る「自動活字鋳造植字機」ともいうべき「モノタイプ monotype 」の開発に向けられていた。

モノタイプには、欧文用と邦文用がそれぞれ独自に開発され、特許も取得したために、先発したタルバート・ランストン( Talbert Lanston 1844-1913 )が 1887 年に発明、1889 年に試作機を完成し、1897 に商品化された「ランストン・モノタイプ Lanston Monotype 」を「欧文モノタイプ」と呼び、杉本京太( 1882-1972 )によって開発され、1920(大正 9 )年頃からわが国の一部で用いられたものを「邦文モノタイプ」と呼びならわしている。

戦後の復興にあたって、大手新聞社では「邦文モノタイプの開発」が死命を制するとまでされ、朝日新聞は「活版工程機械化」と称し、毎日新聞は「活版工程合理化」とうたうなど、呼び方にも差異を意識するほど熾烈な開発競争となった。

朝日、毎日新聞の両社は、ほとんど時を同じくして、戦前に「 SK モノタイプ」を開発した日本タイプライター(現 Canon Semiconductor Equipment )に製作を依頼したが、戦災からの復旧に手間取っていた同社には余力がなかった。そのため朝日新聞は東京機械製作所に、毎日新聞は工作機械株式会社に発注した。両社はともに 1949(昭和 24 )年 8 月に、「 AT モノタイプ」(朝日)、「 MNK モノタイプ」(毎日)として公開にこぎつけた。

いっぽう、日本タイプライターも 1948 年頃から独自に研究を開始し、1952 年(昭和 27 )年に、戦前の SK 式とは異なった「邦文モノタイプ」を完成させた。この新機種の活字母型庫は円筒型で、鋳型はランストンのモノタイプを踏襲して平型とし、地金釜と鋳口を鋳型の下に持ってきたものであった。同機は「 MT 型モノタイプ」と呼ばれた。この年には、東京機械製作所も「 TK 式モノタイプ」を開発した。

しかしながら、AT 型、MNK 型、MT 型、TK 型のいずれの機種も、和文タイプライターと同様に、文字入力部と活字鋳造部が一体で、欧文モノタイプのように、複数のオペレータが鑽孔テープによって文字入力をすることはできなかった。

小池製作所もこの分野に無関心であったわけではない。朝日、毎日新聞のモノタイプ開発競争を静観していた読売新聞社技術部から 1953年(昭和 28 )、株式相場の自動組版のための数表専用モノタイプの開発依頼をうけ、全自動鑽孔テープを用いた、独自の邦文モノタイプの開発に成功した。

ついで小池製作所は毎日新聞社の古川恒技術部副部長から新たな依頼を受けた。

「マニラに駐在の折り、マニラ・タイムスが見出し活字鋳植機を使用しているのを見て感銘を受け、活字母型の機械的な製造が可能になれば、国産機の開発もさほど困難はないと考えました。そうこうしているうち、毎日新聞は津上製作所製のベントン型活字母型彫刻機型を導入しましたので、いよいよ機は熟したとおもいました。開発依頼先はインテル鋳造機の実績もあることから、小池製作所以外に無いと考えました」(『毎日新聞百年史』)。

このとき古川は、小池林平にいった。

「インテル鋳造機は成功して、小池製作所さんの大きな看板製品になりましたが、見出し活字鋳造機は台数的には 20 台ぐらいしか売れないでしょう。しかし毎日新聞にはどうしても欠かせない物なのです。よろしくお願いします」

ところが古川の予測に反して、新聞社だけでなく、印刷・活字界にあっては、ベントン型活字母型彫刻機の導入によって活字書体とサイズが一挙に増加し、また紙面の多様化(デザイン性の向上)によって各社とも使用頻度の少ない見出し用活字が増大し、活字用の棚やスダレケースを占拠するのが悩みの種であった。そのために「小池式見出し活字鋳造機」は、毎日新聞はもとより、読売新聞、朝日新聞をはじめとする全国の新聞社に導入されただけでなく、中堅印刷所や活字鋳造所にもひろく導入された。

1955年(昭和 30 )、小池製作所は大蔵省印刷局と共同で「自動花罫鋳造機」も開発している。それまでの花罫は専門業者がインテルなどをタガネやバイトで削って製作する高価なものであった。

小池林平と小池製作所が本格的に全自動邦文モノタイプに挑戦をはじめたのは 1960年(昭和 40 )に入ってからになった。1964年(昭和 39 )年の東京オリンピックの報道がその動向に拍車をかけた。
邦文モノタイプは活版印刷の印刷版製造工程の要とされていたが、収容字種が 2,000 字ほどとすくなく、外字への対応が困難であり、入力と出力が一対一であったためにコストも割高で「道楽モノタイプ」と揶揄されるなどその普及は難航していた。

K M T  型 全 自 動 組 版 機

KMT型全自動組版機

1966年(昭和 41  6 22 日、小池製作所は「 K M T   型全自動組版機-小池式モノタイプ・マシーン」の発表展示会を開催し、印刷・新聞・報道各社を多数招いて話題となった。
K M T  型全自動組版機」は先発各社の製品と比べて、小型かつ高性能であり、新聞社はもとより、中堅クラスの印刷所までが競って発注した。「 K M T  型全自動組版機」はその後さらに改良がくわえられたが、最大の成果は、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられたことである。それに際して、小池製作所は英国・モノタイプ社との間に「クロス・ライセンス」契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ社の日本代理店ともなった。

わが国の活字鋳造業界のまっただ中を生きてきた小池林平は 70 代の後半から床に臥せることが増えた。その病床には叩き上げ職人の大工の棟梁や、町工場の社長たちが親しく訪れていた。小池はこれらの職人や工匠を最後まで大切にしていた。

1996年(平成 8 10 21 日、 午前 0 52 分、小池林平は 81 歳をもって長逝した。その最後を看取ったのは後継者として育て上げた家族一同であった。

小池製作所と長瀬欄罫製作所、朗文堂サラマ・プレス倶楽部のおつき合い

「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、2006年朗文堂 アダナ・プレス倶楽部(のち登録商標にあわせてサラマ・プレス倶楽部と改称)が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池由郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 本稿で亜容喙した小池製作所の詳細は 「 アダナ ・プレス倶楽部コラム  小池林平と活字鋳造」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられるが、初出のままにご紹介したことをお断りしたい。

ようやく小社と小池製作所の波長が合い、 Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産した。しかしながら 破産後まもなく、同社の特許・人員のほとんどを三菱重工業が買収 したために、債権者への打撃はちいさなもので済んだ。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、発表後もさらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活字版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
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【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。
その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

<主要資料>
『活字文化の礎を担う-小池製作所の歩み』(東洋経済印刷 小池製作所 昭和 60 6 30 日)
『毎日新聞百年史』(毎日新聞百年史刊行委員会 毎日新聞社 昭和 47 2 21 日)

『本邦活版開拓者の苦心』(津田伊三郎 津田三省堂 昭和 9 11 25 日)
『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001 8 20 日)
Practical Typecasting 』( Terry Belanger Oak Knoll Books 1992
『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂 1999 11 2 日)
『活字をつくる Vignette 04 』(河野三男他 朗文堂 2002 6 6 日)
『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷 2004 12 12 日)
『 VIVA!! カッパン 』   ( サラマ・プレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

Itimatu_moyou

「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸中村座である俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

〔弥生三月春をまつ〕国立公文書館企画展{太田道灌と江戸}3月10日まで+国立公文書館 Facebook 紹介

公文書館オモテ【詳細資料: 国立公文書館  国立公文書館 Facebook 】

国立公文書館 Facebook〕2018年01月22日
この日は関東地方にも積雪をみました。

やつがれは豪雪地帯で鳴る奥信濃飯山の出身である。飯山では丈余どころか3-4メートルの積雪も珍しくは無い。だからこの日の雪の降り方は危険だと判断し、出勤はしたものの、外出を控え早めに退勤した。お堀端の竹橋交差点から公文書館や近代美術館への坂道の勾配はかなり急なものがある。この足跡は出勤時の職員のものであろうか?
26993564_426672194435311_7562748396946593457_n国立公文書館 Facebook〕2018年01月25日
延喜3年(903)2月25日、菅原道真が左遷先の大宰府(太宰府)で没しました。のち天変地異が続いたことから、朝廷に祟りを為したとされ畏れられました。画像は道真が編んだとされている『新撰万葉集』の写本で、林羅山が所蔵していたものです。
27973878_439345193168011_3768002810118997043_n国立公文書館 Facebook〕2018年03月01日 
天平勝宝2年(750)3月1日、大伴家持が詠んだ和歌が『万葉集』に収められています。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出て立つをとめ」――桃の花が照り映える美しい道に佇む少女よ――麗らかな春の庭の様子を写しています。いよいよ春ですね。
28166981_441872196248644_417190364286250969_n{新宿餘談}
国立公文書館というと、なにか敷居が高いような気になりがちであるが、閲覧室でも職員の皆さんはどなたも親切ですし、図書館とはちょっと違う貴重な資料に出あえる。
最近ではデジタルアーカイブも充実してきたし、Facebook も開設して、図録だけでは知ることができなかったことまで、丁寧な解説がなされていてうれしい限り。

春 苑 紅 尓 保 布 桃 花 下 照 道 尓 出 立 嫺 嬬

「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出て立つをとめ」── 桃の花が照り映える美しい道に佇む少女よ ── 麗らかな春の庭の様子を写しています。

『万葉集』に、いわゆる万葉仮名でしるされた大伴家持のうたが、こうした丁寧な解説付きで閲覧できることはうれしい限りである。
IT 弱者のやつがれ、知人に教えていただいた国立公文書館をはじめとする公的施設の Facebook を閲覧したく、いつものように周回遅れもいいところ、ログインしないと半分隠されることが多い Facebook へのログイン作業をようやく終えた。
それでもまだ恥ずかしくて、親指をたてて「いいね!」をしたり、シェアなどという手順は知らないので、ただ黙って拝読しているが、いつも心中は「いいね!」である。こういう読者もいても良いとおもっている。
この週末には再度国立公文書館にでかける。足跡は残さないつもりだ。

【展覧会】 萩博物館 萩の鉄道ことはじめ ’17年12月16日─’18年4月8日+日本鉄道の父:井上 勝

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萩博物館 企画展

萩の鉄道ことはじめ  ― 待ちに待ったる鉄道いよいよ開通す―
◯ 開 催 日 : 2017年12月16日[土]-2018年4月8日[日]
◯ 時     間 : 09:00-17:00(入館は16:30まで)
◯ 会     場 : 萩博物館 企画展示室
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日本近代化の象徴である鉄道は萩に何をもたらしたのでしょうか。
「鉄道の父」井上勝をはじめ、草創期の「鉄道技術者」飯田俊徳、
「時刻表創刊者」手塚猛昌など、萩ゆかりの人びとが鉄道をつうじて
近代化に貢献していったことに注目し、萩と鉄道のかかわりを
多角的な視点から紹介します。
【 詳細情報 : 萩博物館 
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{ 新塾餘談 }

* 飯田 俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)
日本の鉄道の父といわれる井上 勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。
萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。
その後も東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

* 手塚 猛昌(てづか-たけまさ  1853-1932)
明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。
嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

バーナー井上勝 小学館ライブラリー井 上  勝(いのうえ-まさる 1843-1910)

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。
長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。
長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

長州五傑/長州ファイブ在英中の長州五傑 前列右から時計回りに紹介
山尾庸三、井上馨、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文

職掌は唯クロカネの道作に候
吾が生涯は鐵道を以てはじまり、すでに鐵道を以て老いたり
まさに鐵道を以て死すべきのみ
井 上   勝

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑・長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文 ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父 1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者・造幣局長 1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。
関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

また鉄道庁長官として東北線を敷設する際に、広大な荒地を農場に変えようと念願し、岩手県におよそ900万坪の宏大な敷地に「小岩井農場」(現小岩井農牧株式会社 岩手県岩手郡雫石町)を創設した。
この農場の名称は共同創立者三名、日本鉄道会社副社長:小野義眞(おの-ぎしん)、三菱社社長:岩崎彌之助、鉄道庁長官:井上勝の姓の頭文字をとって「小岩井」農場と名づけられた。すなわち小岩井の「井」は井上勝の頭文字の「井」である。
なお「小岩井農場」は宮澤賢治の詩文集『春と修羅』にも「小岩井農場 パート一-九」にかけて印象深く描かれている。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。
1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。
遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線・JR山の手線・京浜急行・東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上 勝、愛称 : オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。
東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。

(追記 : 初掲載{活版 à la carte}2017年12月08日。本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)

【字学】 香港の書体設計士:郭炳権さんと、北京のFOUNDER 方正(方正字庫)

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香港の書体設計士:郭炳権さんから、うれしいお便りと、大量の近作パンフレットをお贈りいただいた。
郭炳権さんは70歳代なかば、44年余にわたる経験をほこる著名な書体設計士で、1980-2000年にかけて、わが国の株式会社写研に数百万におよぶ漢字書体原字を提供されたとされる。その一部は写研から発売されて好評を博していた。

1970年代ころまでのわが国では、いわゆる筆書体活字の原字の書き手は、おもに能書家と印章士が担ってきたが、金属活字母型製造の衰勢とあわせて、印章士も高齢化し、旺盛な需要を背景に新書体をもとめる写真植字業界では、中国、それに香港、台湾といった国と地域に原字の書き手を求めることがおおかった。
郭炳権さんもこうした需要に応え、意欲的に写研に原字提供を続けていた。
中国国家大劇場審査風景昨2016年03月、中国文字字体研究与研究中心・中央美術学院・FOUNDER 方正の主催で、<第八届『方正奨』字体設計大賽 ≒ 第8回『方正賞』書体設計コンペティション>が開催された。そこに審査員として、やつがれと、ワークショップ担当として大石も招かれた。

ほかの 審査員 は、長いつき合いのある北京大学中央美術学院院長/王 敏 Wan min さん(浙江美術院・ベルリン造形大学・エール大学修了、アドビ本社ADをへて、北京オリンピックCD)、清華大学教授/趙 健さん、平面設計士/陳 紹華さん、書体設計士/仇 寅さんらの北京語話者と、郭 炳権さん(香港語話者)、ATypI から英語話者がふたり、そしてやつがれと大石(日本語話者)らという、きわめて国際的な顔ぶれだった。

審査会場と審査員が指定されたホテル(北京大学教職員専用)は豪華なもので、どうしてかすべて北京大学とそのキャンパス内の北京大学関連施設であった。
応募部門は「排版字体設計・創意字体設計・英文字体設計 ≒  本文用書体部門・ディスプレー用書体部門・欧文書体部門」からなり、欧文書体をのぞくふた部門はあまりに応募点数が多かった。

二日間におよんだ審査会は熱気を帯び、また昇竜の勢いをみせる中国産業界の地力を実感させて十分だった。
そして最も愕いたのは、夜更けにおよんだ審査会終了の翌朝10時、北京市内中央、天安門から近い、巨大な「 国家大劇院 」で、受賞作の発表とB全判ポスターサイズの作品展示、そして受賞者が出席して、授賞式までがとりおこなわれたことであった。
前夜の審査会では「英文字体設計」部門は一位該当作無しとされ、また「排版字体設計」部門一位候補作として二点が同点となり、相当激しい議論の末、決着をみたのは夜更けもいいところだった。
したがってどうして三部門、ほぼすべての受賞者が「国家大劇院」の会場にいたのか、いることが可能だったのか、このあたりの事情はいまだによくわからないままでいる。
中國の知人数人にこの疑問をぶつけたが、「それが中國です」とかわされてしまった。
──────────
炳郭権先生と大石 王敏先生へのプレゼント 審査風景・腰が痛くなる 「方正賞」講評会の前 左から/方正総経理・炳郭権・やつがれ・大石・原博 中国国家大劇場 審査員講評会/司会・清華大学張先生「国家大劇院」では、授賞式につづいて、審査員講評が公開でなされ、質疑応答も盛んに交わされた。つづいて審査員各氏による講演があった。この間郭炳権さんは終始にこやかに、後進の成長を見守り、よろこびをあらわしていた。
最終講演でちょっとしたハプニングがあった。それはあまりに広大な中国ならではのもので、もっぱら香港語(広東語系方言)話者の炳郭権さんの講演が、会場につめかけた、標準語(北京語)になれた聴講者には十分には伝わらないことが判明し、急遽「香港語 ⇄ 北京語 通訳」が起用されたことであった。
そのため、このあとに予定されていた大石のワークショップの開始時刻は大幅に遅延したが、これも今となっては良いおもいでとなっている。

この<第八届『方正奨』字体設計大賽>のことに関しては、てまえ自慢にとられても困るし、同年05月、趙 健主任教授、原 博 Yuan Bo 助教授のお招きによる、北京清華大学での講演 にくらべてあまり積極的に報告してこなかった。
ほかにも、現代中国が「産学共同」体制であることは承知しているが、どうしても北京大学と、「FOUNDER 方正、方正字庫」の関連がわかりにくかったことがある。またラテン・フォントベンダーがあっという間に集約され、適切な競争がみられなくなったことの物足りなさがあった。
それがして、ノンラテン(漢字圏)フォントベンダーでも似たような現象が起きることへのひそかな危惧があるからである。

20171002095405_00001ともあれ、郭炳権さん、いややはりここでは、いささか古風な中國風に「郭炳權老師」としるそう。ちなみにやつがれ「片塩」は、中國では「片盐」とあらわされ、香港と臺灣では「片鹽」とあらわされる。
郭炳權老師は今でも原字をアナログ方式でおこされている。WebSiteは開設されていない。
郭炳權老師とほぼ同世代のやつがれ、これからもお互いに健康で、北京の時と同様に、たとえ通訳がいなくても、心をひらき、おなじ漢字圏の仲間として、また大量の「筆談」をかわしながら多いに親交をふかめていきたいと念願している。

【字学】 忌み数としての 13 の位置づけ そしてわが国最大の忌み数 四 は ── 嗤ってすませたい迷信 ?

《 旅のつれづれに 忌数 イミカズをみていた 》
「衣食住に関心が無い」と日頃から嘯いているやつがれ、どうやら観光にも向いていないようで、帰国後は「観光写真」の整理どころではなく、たまった業務の消化に当分のあいだおわれることになる。
むしろ旅とは、その地のひとと暮らしをみたり、その地の艸木をみているだけで、うれしい時間であり、収穫の多い体験の蓄積となる。
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昨年六月、北京空港のメーンサインボードにみるローマ大文字の選択を、活字書体の判断における三原則 ── レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ : legibility, readability and inducibility という視点から紹介した。
このシリーズは五回連載のつもりでプロットをたてていたが、小社周辺にはおもいのほか「サインデザイン」を主要業務にされているかたがおおく、問題提起はしたものの、むすびないし結論の提示はしていない。
すなわちここでは、ローマ大文字の判別性 Legibility を中心にかたったが、数字(アラビア数字)には触れなかった。意外に知られていないが、数字にももちろん判別性 Legibility の視点から、サインなどでは除外されているものがある。

おりしも東京オリンピックをひかえて大型施設の建設がさかんである。そこではサインシステムに関する熾烈なコンペもひかえており、来社されて相談されたかたには相当レベルまで対応策を提示したが、【北京空港のサインからⅣ】、【北京空港のサインからⅤ】は、当分非公開とさせていただいた。

ということで、今回は旅のつれづれに【忌数 いみかず ── 忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など】『広辞苑』を見てみよう。
北京01 北京02 北京03◯ 花筏 【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

《 ロシアの航空会社 : アエロフロート利用で チェコの首都 プラハへの旅 》
アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330アエロフロート 機内座席配置 同社URLより ここには4番の列、13番の列もあった。

DSCN6632 DSCN6639《 トラベル Travel と トラブル Trouble は近接語ないしは類似語かもしれない 》
日常生活とはなれて旅にでると、さまざまなトラブルに遭遇する。そのときは狼狽したり腹がたつこともあるが、ときの経過とともに浄化され、いずれも懐かしいおもいでになるのも旅のおもしろさのひとつかも知れない。

島国日本を脱出して外国への旅となると、よほど時間と資金のゆとりがない限り航空機の利用になる。それもアジアの近隣国ならともかく、欧州やアメリカ大陸への旅となると、どうしても10時間を優にこえる長距離・長時間の旅となるし、直行便でなくトランジットが加わると、もっと時間とストレスが増す。
パスポート、携行品、そして最近はベルトまで外しての身躰チェックなど、さまざまな手続きと検査を終え、ようやく機内のひととなる。

ドアがバタンと閉まると一気に圧迫感が増す。やがて滑走路に向けて地上走行がはじまり、緊急時における対処法について、国際規定にのっとった対処法が乗務員によってなされる。最近はヴィデオ上映の会社もあるが、安全ベルト、酸素マスク、救命胴衣などの器具の装着を実物もちいて説明がなされる。それを見るともなく、聞くともなくしているうちに、次第に離陸に向けた緊張感が機内をおおう。

DSCN5322 DSCN5317 DSCN5331 DSCN6583一昨年、チェコのプラハに行ったときのこと。このときの航空会社はロシアのアエロフロート、機体はエアバスの大型機で、モスクワで中型機に乗り換えてプラハまで往復した。
エアロフロートの機内食はまずいという評判が一部にあるが、成田 → モスクワ間は、成田で積み込んだ日本製の食事となるからまったく気にならなかった。むしろ量が多くて持てあますほどだった。
モスクワで乗り換えて、中型機でプラハへの4時間ほどの飛行中にも食事がでたし、帰途にもでたが、いずれも旨かった。ロシアの堅いパンは、フランスパンと同様に、そういうものだとおもえば旨い。

DSCN5325 DSCN6585ブロガーの投稿に「モスクワ空港にはおおきな喫煙室がある」とあちこちに書かれていた。
トランジットで二時間ほどの時間があったので期待して駆けつけたら、空気清浄機はあれど頑丈な鍵がおろされて閉鎖されていた。どうやら最近突然閉鎖されたらしい。その分男性用トイレはひどいことになっていたが。

JAL や ANA(エイ・エヌ・エーと読んだほうが外国のタクシードライバーにはよく伝わる) といった、わが国の航空会社以外の航空機での旅の楽しみのひとつに、その国の独自言語と独自文字表記による『機内誌』と、無償で配布される新聞の閲覧がある。
そしてやつがれ、かつてニューヨークやサンフランシスコのホテルで「13階が無い」ないしはエレベーターが停止しないホテルに宿泊したことがあり、「忌数-いみかず」をそれとなく気にしてみている。

アエロフロートの機内誌には日本語版もあったが、基本的にロシア文字である。
いわゆるロシア文字とはキリル文字の一派とされ9世紀、ギリシャ人の宣教師キュリロス(Kyrillos。ロシア名キリル)が、ギリシャ文字をもとに福音書などの翻訳のために考案したグラゴール文字をもとにして、10世紀はじめにブルガリアで作成した文字とされる。現在のロシア文字はこれを多少改修したものである。

当然ながらキリル文字を使用する国〻は、ローマンカソリックや、プロテスタントの国〻とは、様〻な面で異なる生活様式や思考・行動がある。この言語と文字表記を背景とした「正教 オーソドックス」は、チェコでもギリシャでもおおいにやつがれの思考を悩ませた。
以下に<正教 Orthodoxy>を『世界文学大事典』(集英社)より紹介する。

【 正教 [英]Orthodoxy,[ロシア]Православие 】
ローマ帝国の東方でギリシャ文化を背景に展開したキリスト教。東方正教、ギリシャ正教という呼称でも知られる。のちに西方のカトリック教会とは袂を分かった。
使徒伝承を忠実に保持していると自認し、原語的には〈オルトス=正しい〉〈ドクサ=神の賛美、教え〉に由来する(ロシア語もそれを表現している)。
ロシアには10世紀ごろから入り、大公ウラジーミル(?-1015)が国教として正式に受容した(988〔989〕)。ロシアはビザンティン帝国の滅亡後、正教世界の中心となった。正教はロシア文化の背景の一つを成す。

《 陽気なロシア人 飛行機の離着陸のたびに ハラショー の大歓声と拍手 》
これも団塊オヤジのブログからの知識だったが、アエロフロートのパイロットは、空軍出身者が多く、飛行経験時間もながいので安全性がたかいとする。それでも乗客は離着陸のたびに「ハラショー khorosho 」と一斉に歓声をあげ、機内は拍手につつまれる、とあった。
ところが国際線だからという遠慮があったのか、成田 → モスクワ、モスクワ → 成田への離着陸の際には歓声も拍手もあがらず静かだった。すこしがっかりした。

それがいちおう国際線ではあったが、乗り換えてヨーロッパ域内線というのか、モスクワ ⇄ プラハへの便ではまるでちがった。
離陸の際はまばらだったが、着陸(に成功)すると、機内から一斉に「ハラショー khorosho 」の大歓声とおおきな拍手がわきあがった。
ハラショーは辞書的には「感動の意を表す語。すばらしい。よい。結構」の意のロシア語であるが、どちらかというと「ヨッシャ~、ヤッタァ~、バンザ~イ」というノリにちかく聞こえ、航空機独特の緊張感は機内から一斉に消える。


アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330したがってしばらくの地上走行のあいだ、機内はまことに和気藹藹、大声でのロシア語が飛びかって、和やかかつにぎやかになる。やつがれはエコノミー席の11番の列で、うしろには12, 13番の列もふつうにあった。
乗降デッキが横づけされて重いドアが開くと、談笑を交わしながらのゆっくりとした歩行になったため、たまたまやつがれビジネスクラスの箇所で歩行が停滞した。
その席の列はわが国の一部では忌避される四番であった。

《 Quatar カタール航空で、成田発 ドーハ経由 ギリシャへの旅 》
ことしの五月、この連休となる時期には例年サラマ・プレス倶楽部のイベントが開催されてきたが、ことしはそれが11月に変更されたので、普段の「弾丸旅行 ── 現地泊二泊・機内泊 往復二泊」にかえて、めずらしくゆっくりと旅をした。
目的地はギリシャ、首都アテネとカルデラ環礁のサントリーニ島の二ヵ所。

航空会社は JAL との共同運行によるカタール航空。ギッシリ満員の乗客だったが、日本人客室乗務員もいて、11時間50分の長時間フライトでドーハの巨大ハブ空港、ハマド国際空港カタールに到着した。
出発は日本時間で夜の22時20分だったので、成田空港での待機中にあらかたお腹はいっぱいになっていたが、水平飛行になってまもなく夕食が配られた。
興味ぶかかったのはトレーの敷紙に「ハラール食品」とおおきく表示され、ハラール認証機関名がアラビア文字で表示されていたこと。帰路もおなじ経路だったが、いくぶんスパイシーな味つけだっただけで、「ハラール食品」はやつがれは格段の抵抗はなかった。

【 ハラール [アラビア語] 】
「イスラム法(シャリーア)で認められたこと(もの)」を意味するアラビア語。
おもにイスラム法上で許される食べ物をさす。逆に「許されないもの」として禁止されていること(もの)をハラーム、中間にあたる「疑わしいもの」は、シュブハという。[中略]

イスラム教徒が食べることを許される食品は、規律に沿って屠畜されたウシやヒツジ、ヤギなどの動物、野菜や果物、穀類、海産物、乳製品と卵、水などである。
飲食が禁じられているものは、ナジス(不浄)とされるブタやイヌ、アルコールを含む飲料や食品、牙やかぎ爪で獲物をとるトラ、クマ、タカ、フクロウなどの動物、毒性のある動物や害虫、ノミやシラミ、ナジスを餌とする動物などである。

イスラム圏に輸出される食品や菓子、化学製品などについては、イスラム教徒が摂取できるかどうかの審査(ハラール認証)を行う認証団体が各国にあり、ここで認証されたものは、ハラール食品やハラール製品などとよばれる。
『日本大百科全書』(小学館)

出発前に仕事の片付けにおわれていたので、いくぶん疲労もあって写真を撮らなかったが、ドリンクメニューにもソフトドリンクばかりがならび、少なくともエコノミー席ではアルコール類はなかったようである。
アラビアのイスラム教諸国では「ハラール」の掟は厳格らしい。

カタール航空座席配置カタール航空機内座席配置図 この機種には13番の列はなかった

今回の旅は、相当はやくからスケジュールができていたので、いわゆる「早割」で、料金がやすく、また乗り継ぎ便をふくめて坐席番号もあらかじめ指定されていた。
希望は昇降に便利で、トイレにも行きやすく、機内サービスもゆきとどく、前方の11B・11C(通路側確保)が条件だった。

アエロフロートでの旅と同様機体はすべてエアバスで、ドーハで一度大型機から中型機に乗り換え、五時間ほどのフライトでアテネ新空港に現地時間12時10分についた。
いわゆる南回りでの欧州は久しぶりだったし、カタールという、富裕な産油国であり、イスラム教国の航空会社ははじめてで新鮮だった。

《イスラム教の国も、13を忌避するのか?》
成田からドーハまで11時間50分の長期フライトの間、なんどかトイレにたった。前方の11番から後方のトイレの間に、13番の列が無いことに気づいた。
あれっ、イスラム教徒も13を忌避するのかとふしぎにおもったが、乗り継いだドーハ → アテネの便の機体でも、同様に13の列はなく、11, 12, 14 の順に坐席が配置されていた。
結局往復都合4回、カタール航空の機体を利用したが、13番の列はみなかった。
また、搭乗時にそれとなくみていたが、通常ファーストクラスとビジネスクラスに配される四の列はあたりまえのようにあった。
帰国後カタール航空のURLでしらべたら、機種によっては13番の列もあることを知った。ハラールには厳格であっても、13を忌み数とするふうは少ないようであった。

《旅の最終日、ギリシャ:サントリーニ島からアテネ新空港へ 13忌避の本家本元か》
ギリシャでは、前半をアテネ市内と近郊の観光とし、後半は高速フェリーで八時間ほど、火山噴火の大カルデラ環礁でしられるサントリーニ島でゆっくりした時間をすごした。
最終日、サントリーニ島キララ空港からアテネ新国際空港への45分のフライトとなった。

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ギリシャでは13という数字をきらうふうが随所にみられた。ホテルの部屋番号は11, 12,
14 となるし、劇場などの坐席番号でも13はほとんどみないということであった。
そのためか、サントリーニ島/キララ空港から、アテネ新国際空港までの45分のフライトで利用した「エーゲ航空 Aegean」の坐席番号、荷物入れには急いで撮影したため不鮮明ではあるが13番は無かった。
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《帰国後に【忌み数】で辞書漁りをしてみたところ》
わが国の辞書、辞典類の多くは、積極的にこの語に触れることはなく、どちらかというと、渋〻紹介しているのではないかとおもえるほどであった。
積極的に、豊富な図版資料をもちいて触れていたのは『フリー百科事典ウィキペディア』と、研究社の英語辞典であった。

『日本大百科全書』(小学館)
【忌み数 いみかず】
忌んで使用を避ける数。数について吉凶をいうことはいろいろの事柄について行われている。その多くはことばの音が不吉なことに通じるのを理由にしていわれている。たとえば四は死に通じ、九は苦と同音なので忌まれている。
それについての俗信をあげると、四の日の旅立ちや引っ越しはいけない。四の日に床につくと長患いする。また六についてはろくなことはなし、一〇は溶けるといい、一九は重苦、三三はさんざん、四九は死苦といって忌まれている。いわゆる厄年といわれているものにもこの考えがみられる。19歳、33歳、42歳、49歳などがそれである。

奇数・偶数については、中国では奇数を吉とし、日本では偶数を吉としていたともいわれるが、かならずしもそうとは決まっていない。日本では古来八の数はよいと考えられているが、中国では七を吉としているようである。しかし贈答品については日本でも四、六、八を避け、三、五、七、九をよしとしている。壱岐島では婚姻に四つ違いは死に別れ、七つ違いは泣き別れなどといい、奇数・偶数とは関係ないようである。

13という数を嫌うことは西洋ではキリストの最後の晩餐の陪席者が13人だったことによるという。13は日本でも厄年の一つとされている。
13歳の子女が十三詣(まいり)と称して虚空蔵菩薩に開運出世を祈願する風習が各地にある。また山小屋では13人は悪いとされる。船にも13人乗りを嫌う地方があり、三宅島では藁人形などを一つ加え14にするとよいといっている。

『日本国語大辞典』(小学館)
【いみ‐かず  忌数】
〔名〕忌んで避ける数。四(死)、九(苦)などの類。

『広辞苑』(岩波書店
【忌数 いみかず】
忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など。

『フリー百科事典 ウィキペディア】
【忌み数】
忌み数(いみかず)とは、不吉であるとして忌避される数である。単なる迷信とされる場合もあるが、社会的に定着すると心理面、文化面で少なくない影響を及ぼす。漢字文化圏では 4 をはじめとして、悪い意味を持つ言葉と同音または類似音の数字が忌み数とされる事が多い。西洋では 13 がよく知られている。〔以下リンク先にて

『フリー百科事典 ウィキペディア』
【13 忌み数】
13 は、西洋において最も忌避される忌み数である。「13恐怖症」を、ギリシャ語からtriskaidekaphobia(tris「3」kai「&」deka「10」phobia「恐怖症」)という。なお、日本においても忌避される忌み数であったとする説がある。〔以下リンク先にて

『医学英和辞典』(研究社)
trìs・kài・dèka・phóbia
n 十三恐怖症《13 の数字を恐れること》.
【Gk treis kai deka three-and-ten 13+-phobia】

『新大英和辞典』(研究社)DSCN3943[1]
13resized

 《経験智と読書智、もっと調査が必要とはいえ、当分は〔精神医学的に〕13忌避はしない》
かつて読売ジャイアンツにクロマティという外野手がいて、ずいぶん話題の多いひとであったが、背番号44番を背負ってジャイアンツファンからは好感を持ってむかえられていた。
やつがれ、もともと鈍感なのか、13番列のエコノミー席に座ったとしてもなんら気にならないとおもうし、四・九もほとんど意識したことがない。
とりあえずは〔精神医学〕用語とは距離をおいて、のんびりしていたいものである。

【資料紹介】 東京大学文書館 重要文化財『文部省往復』 明治期分137簿冊PDF公開開始

東京大学文書館は、東京大学にとって重要な法人文書及び同学の歴史に関する資料等の適正な管理、保存及び利用等を行うことにより、同学の教育研究に寄与することを目的として2014年4月に設置されました。
東京大学文書館は、東京大学百年史編集室および東京大学史史料室で収集した資料及び成果を引き継ぎつつ、新たな役割を担って活動しています。

■ 特定歴史公文書等 文部省往復

『文部省往復』は、東京大学と文部省との間でやりとりされた公文書綴です。
文部省が所蔵した資料は関東大震災などの影響によって失われており、東京大学文書館が所蔵している『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料です。
これは2013年2月に重要文化財指定を受けており、学術的に重要な資料として評価を得ています。

『文部省往復』は、これまで東京大学文書館の前身である東京大学史史料室で保存・公開されてきましたが、劣化の進行により頻繁な閲覧提供が難しくなっていました。
そのために同館では、旧文部省側には存在しない歴史資料を保存し、広く活用を促進するために、デジタル画像化・メタデータ作成を進めてきました。

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先般同館所蔵資料のデジタル画像の公開が開始されました。その第一弾は、『文部省往復』(S0001)です。

『文部省往復』は重要文化財に指定されており、その中の明治期の簿冊〔書類などを綴じて冊子としたもの〕137冊を、科研費プロジェクト「文部省往復を基幹とした近代日本大学史データベース」(代表 : 東京大学大学院 情報学環  教授 吉見俊哉)でデジタル化されました。画像は同館HP上に掲載されている
資料目録 http://www.u-tokyo.ac.jp/history/S0001.html  よりアクセスすることができます。
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{ 新 宿 餘 談 }
先般デジタル公開された『文部省往復』は、『東京大学百年史』(東京大学百年史編集委員会編、全10巻、1984-1987年)をはじめ、『年譜 東京大学1887-1977-1997』(東京大学史史料室編集・構成。創立120周年記念で作成された写真入り年譜、1997年10月)など、多くの記録にもちいられてきた貴重な資料である。
しかも、同館が述べているように<『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料>にとどまらず、成立期の近代印刷 ≒ タイポグラフィの稀少な歴史資料である。
まずその明治期分137簿冊がデータ化され、公開されたことをおおいに欣快としたい。

東京大学の 沿革 をたどると、明治10年(1868)4月12日、東京大学創設とある。これは同大の主要な前身たる東京開成学校と東京医学校を合併し、旧東京開成学校を改組して、法・理・文の三学部とした。また旧東京医学校を改組し医学部を設置した。また東京大学予備門を付属していた。
さらに上記の施設の淵源をたどると、貞享元年(1684)の徳川幕府の「天文方」をはじめ、昌平坂学問所(昌平黌)、種痘所(西洋医学所)などのさまざまな教育施設が、業容と名称をさまざまにかえながら、漏斗にあつまる液体のように、「第一次東京大学、帝国大学、東京帝国大学、東京大学」へと収斂されてきたことがわかる( 沿革略図 )。
!cid_24E9F9FC-FB87-48D6-B903-1EA9AA128284 !cid_A8095C08-3F5F-40C3-A674-CCDD92543E22 !cid_8A4D6963-3481-4BF9-B05D-34212F3202F7《 『文部省往復』 その一端をみる 》
『文部省往復』明治4年背文字特定歴史公文書等 文部省往復
ID S0001/Mo001  『文部省及諸向往復 附 校内雑記』〔明治四年(甲)東京帝国大学〕
『文部省往復』明治4年版目次p.12 『文部省往復』四〇七丁 『文部省往復』四〇八丁特定歴史公文書等 文部省往復は、草創期の明治4年でも甲乙の二分冊よりなる。
巻頭の目次に表記されているのは丁記であり、データーのファイル番号とはことなる。
◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)
明治4年1月-明治5年1月、 達之部、准允之部、伺之部、上申之部、届之部、校内雑記を収録 614丁
◯ S0001/Mo002 『文部省及諸向往復』 明治四年 (乙)
明治4年1月- 明治4年12月、 本省往復之部、太政官及諸寮局往復之部、駅逓寮往復、東京府往復之部、諸県往復之部、諸学校往復之部を収録 610丁
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『文部省往復』明治4年版甲・乙二分冊をようやく読みおえた。あいまいだったところが明確になり、脈絡がつかなかった部分が道筋がついてきた。いまはオリジナル資料の威力と凄みをしみじみと味わっている。
あらためてデータ作製と公開にあたられた東京大学文書館とスタッフの皆さんに深甚なる敬意を表したい。

◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の巻頭、目次ページ四〇七丁に意外な記録をみつけた。

四〇七丁  長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件

昨2016年05月朗文堂サラマ・プレス倶楽部主催<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催された。その際地元長崎での研究と、東京での研究がつきあわせられ、平野富二の生家の地が特定されるなどのおおきな成果があった。
その後「「平野富二生誕の地」碑建立有志会」(代表:古谷昌二)が結成され、全国規模の会員の運動となって、生誕地に記念碑を建立すべく活動がはじまっている。

あわせて、工部権大丞山尾庸三の命により、長崎から東京への移動を命ぜられた活字版印刷器機と、活字と活字鋳造機が、どこへ、どのように持ち去られ、そしていまはどのようになっているのか・・・・・・というテーマで積極的な調査がはじまっている。

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「平野富二生誕の地」碑建立有志会 URL より
明治4年から明治5年の平野富二の動向[古谷昌二執筆]

新政府直轄の長崎府による経営となった長崎製鉄所の新組織で、頭取本木昌造の下、機関方として製鉄所職員に登用され、1869年1月(明治元年12月)、第一等機関方となる。
同年4月(明治2年3月)、イギリス商人トーマス・グラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命される。その結果、船舶の新造・修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。
さらに、立神ドックの築造を建言してドック取建掛に任命され、大規模土木工事を推進、多くの人夫を雇うことによって長崎市中に溢れる失業者の救済にも貢献。

その間、元締役助、元締役へと長崎製鉄所の役職昇進を果たし、1870年12月(明治3年閏10月)、長崎県の官位である権大属に任命され、長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。その時、数えで25歳。
折しも長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになり、工部権大丞山尾庸三が経営移管準備として長崎を訪れ、帳簿調査などで誠実な対応振りを高く評価される。

長崎製鉄所の工部省移管により、1871年5月(明治4年3月)、長崎製鉄所を退職。造船事業こそ自分の進むべき道と心に決めていたことから、工事途中の立神ドック完成とその後の運営を願い出るが果たせなかった。
1871年8月(明治4年7月)、活版事業で窮地に追い込まれていた本木昌造から活版製造部門の経営を委嘱され、経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行、短期間で成果を出す。需要調査のため上京、活字販売の見通しを得る。

1872年2月(明治5年)になって、安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

政府、府県の布告類や新聞の活版印刷採用によって活字の需要が急速に伸張したため、1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と称する。

 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の目次「四〇七丁 長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件」から、本文四〇七丁をみた。
長崎にあった活字版印刷器機と活字鋳造機は、当時の最先端設備であった。そのため断片的な記録ながら、これらの設備の獲得のために、「工部省と文部省(大学)とのあいだで紛争があった」という記録は印刷史の記録にもわずかにのこっていた。

四〇七丁の記事は、大学南校(のちに東京開成学校から東大へ)の用箋にしるされ、湯島にあった大学にむけて、
<長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件――大意:長崎県にあった活字版印刷設備は当校〔大学南校〕がうけとる約束だったのに、長崎県から工部省に渡された件>と題して、「当校には断りもなく工部省に横取りされた。約定違反であり、不条理である」と憤懣やるかたないといった勢いでしるされている。

この記録からみても、大学南校、大学東校には長崎県活版伝習所関連の設備の大半は到着しなかったとみられる。また両校の最初期の教科書類を瞥見した限りでは、長崎由来の活字を使用した形跡はみられない。

ただし大学南校においてはオランダ政府から徳川幕府に献上された「スタンホープ手引き式乾板印刷機」をもちいていたとする記録はのこっている。
そして長崎から移管を命じられた活字版印刷器機・活字鋳造器械・活字などは大半が工部省勧工寮に到着したが、それにかえて新進気鋭の平野富二が、新妻とスタッフを連れて、再購入した新鋭機とともに東京に乗りこんできたのである。

1872年2月(明治5年)になって、富次郎は安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

すなわち、『文部省往復』と、「平野富二生誕の地」碑建立有志会での研究成果を照らしあわせると、平野富二の東京への初進出の場所「神田和泉町」とは、大学東校(のちに東京医学校から東大医学部へ)の敷地内そのものであった。
これらのことどもは、先行した印刷史研究関連資料からは容易に引き出せなかったが、東大医学部の前身・大学東校の記録も『文部省往復』には満載されている。

そしてこの神田和泉町時代の大学東校内のおなじ建物に、時期こそ違ったが寄宿し、ここでまなんだ、医師・軍医・文学者/森鷗外と、やはりここで寄宿し、それを指導した石黒忠悳らの記録も次〻と精査されはじめている。

本年は明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕一七〇周年である。

その研究成果の展示・発表と、平野富二の東京での足跡をたどるバスツアーが企画されていると仄聞する。当然神田和泉町も築地二丁目と同様に、重要な訪問地として設定されている。ここから近代医学教育と治療が本格的にはじまり、本格的な近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィも、ここで呱呱の産声を揚げたことになる。

【 詳細 : 東京大学 東京大学文書館 特定歴史公文書等 文部省往復 】

【展覧会】 董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味/東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画

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ぢゃむ 杉本昭生【活版小本】 次の本が出来るまで その41

七十二候(しちじゅうにこう)
「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を表現したものです。
12月2日より12月31日までを掲載します。
※大雪 次候の虎始交は書家であり画家の中村不折氏の作品です。最後に製作者のリストを掲載しておきます。いつか本にできればと思っています。
しかし印をひとつずつ押すのは大変でしょうね。でも楽しそう。
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書道博物館 施設概要】 冒頭部・部分
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めている。

こうしたコレクションと、昭和11年11月に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出した。その偉業は日中書道史上においても特筆されるべきものである。
こうして書道博物館は、開館以来約60年にわたって中村家の手で維持・保存されてきたが、平成7年12月、台東区に寄贈された。そして平成12年4月に再開館したのが現在の台東区立書道博物館である。
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{新宿餘談}
中国明王朝は朱元璋(太祖)がほかの群雄を倒し、蒙古族王朝元を北に追い払って金陵(南京)に建朝した。三代成祖(永楽帝 1402-24)のとき北京(順天府 1421)に遷都。
明代前半期は久しぶりの漢族正統王朝のもとで「文藝復興」の時代とされ、また奇妙なことに西欧の「ルネサンス」の時代ともかさなっている。
ところが後半期は、皇族は奢侈にはしって治世が安定せず、宦官の専権が目立ち、各地で農民の叛乱が勃発し、異民族からの圧迫も多く、国勢は次第に衰微をみた。

董其昌(とう-きしょう 1555-1636)はそんな明朝末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残して「藝林百世の師」とされた。また清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝においては正統の書とされた。

ところで、董其昌が活躍した明末清初の時代とは、わが国では徳川時代初期にあたり、徳川幕府の正統の書とは、楷書でも行書でもなく「お家流」とされた連綿体であった。
またここ最近、規矩の明確な明朝体・ゴシック体の使用に「活字ばなれ」と称されるような疲労感がみられ、ひら仮名からはじまり漢字にいたる「連綿体」が世上の関心をあつめている。
この奇妙な符合がどこから発しているのかを考えるのに好適な展覧会が、新春早早から開催される。
書道博物館オモテ 書道博物館ウラ

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
董其昌没後380年
董其昌とその時代一明末清初の連綿趣味-

中国明王朝の時代に文人として活躍した董其昌(とう-きしょう 1555-1636)は、高級官僚として官途を歩むかたわら、書画に妙腕を発揮しました。
書ははじめ唐の顔 真卿を学び、やがて王羲之らの魏晉時代の書に遡ります。さらに当時の形式化した書を否定して、平淡な書風を理想としながら、そこに躍動感あふれる連綿趣味を盛り込みました。
画は元末の四大家から五代宋初の董 源に遡り、宋や元の諸家の作風を広く渉猟して、文人画の伝統を継承しつつ、一方では急進的な描法によって奇想派の先駆けとなる作例も残しています。

董其昌は書画の理論や鑑識においても、卓越した見識を持っていました。『画禅窒随筆』は、董其昌の書画に対する深い理解と理念を示すものとして知られています。

明王朝から清王朝への移行は、単なる政権交代ではなく、漢民族が異民族である満州族に覇権を奪われた歴史上の一大事でもありました。
董其昌によって提唱された書画の理念は、明末から清初にかけた激動の時代の書画にも濃厚に反映されました。連綿趣味は、当時の人〻の鬱勃たる心情を吐露する恰好の場となったのです。
ところが満州族である清の康熈帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その後三百年に及ぶ清朝においても董其昌は大きな影響を与え続けました。

今年度は、董其昌の没後380年にあたります。このたび14回目を迎える東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画では、中国書画の流れを大きく変えることとなる董其昌に焦点をあてながら、そのあとさきに活躍した人〻の書画を取りあげます。
両館の展示を通して、魅力あふれる董其昌ワールドをお楽しみください。
【詳細:書道博物館
【詳細:国立博物館 東洋館

【図書+書体紹介】 当代の人気者ふたりが語り尽くす 集英社『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』+くらもち銘石B

20161126145209_00001 20161126151043_00001みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議  
◯ 著者:みうら じゅん  著者:宮藤 官九郎     

◯ 発行所:集英社  ISBNコード: 978-4-08-780763-9
◯ 判型/総ページ数:四六判/256ページ 
◯ 定価:1,200円(本体)+税
◯ 発売日: 2016年7月20日
【 詳細 : 集英社 BOOKNAVI
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【内容紹介】
「ゆるキャラ」「マイブーム」の名付け親として知られるみうらじゅんと、
『あまちゃん』『ゆとりですがなにか』でおなじみの脚本家、宮藤官九郎。

彼らが、「男と女のあいだに友情は成立するのか?」「なぜ戦争はなくならないのか?」「なぜ男はハゲを恐れるのか?」といった、世界中の誰もが疑問に思いながらも曖昧なまま放置されてきた〝難題〟について、人類を代表して語り合います。

サブカルネタを軸にしながら、政治や国際情勢、下ネタまで縦横無尽に繰り広げられる“知と恥”の哲学問答は、決して世の中を憂うことなく、くだらなさの中にこそ人生の真理を見出していくための知恵が満載です。
混沌の時代を生き抜くための、グローバルスタンダードがここにある!

【本書で取り上げた議題】
◯ なぜ男と女はわかりあえないのか?
◯ 男と女のあいだに友情は成立するのか?
◯ セックスは女の人を何回イカせたら許してもらえるのか?
◯ チンコはデカいほうがいいのか、そうでもないのか?
◯ なぜ戦争はなくならないのか?
◯ お化けはいるのか、いないのか?
◯ なぜ男はハゲを恐れるのか?
◯ なぜ人はコンプレックスを持つのか?
◯ 天職とは何か?
◯ 親は子供にどんな背中を見せたらいいのか? ほか、約30テーマを収録。
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{新宿餘談}
『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』のブックデザイナーは、これまた当代の人気者 : 川名 潤 さんです。川名さんは<銘石B Combination 3>から、和字として「くらもち」を選択され、本書の随所でご使用されています。
ご愛用ありがとうございました。
銘石B
type con

「銘石B」の原姿はとてもふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種、とくに碑石体と呼ばれる書風をオリジナルとしています。
『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(309-40)は王彬の子で、また書聖とされる王羲之(307-65)の従兄弟にあたります。

この墓誌は東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれます。
遙かなむかし、中国江南の地に残された貴重な碑石体が、現代に力強くよみがえりました。「銘石B」は和字(平仮名と片仮名)三書体(くれたけ、くろふね、くらもち)が標準でセットされており用途に応じた選択ができます。

【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社

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【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

《 長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン : 磯田俊雄さん 》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。 パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。

たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。 欧州在住がながいふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。 大石は渋い顔。

磯田氏は神戸出身。 四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。 荷物はカメラの寺さんに任せました。 当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。 このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。

かれとは大日本印刷 CDC 事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。 若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。 それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は 「 哲っちゃん 」 という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。 したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。

今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル ・ チャペック(Karel Čapec  1890-1938)がのこした、邦題 『山椒魚戦争』 のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版 (印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『 La Guerre des Salamanders 』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
フランス国立印刷所 旧ロゴ[1]「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章である。 フランス国立印刷所は創設以来、現在でも、同所のシンボルロゴがこのサラマンドラである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)によるとされる、
識語 <我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> が配置されている。 この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城で記念メダルを販売している。

ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮 ・ 世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。 したがって、
「 パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。 それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。

「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。 パリ郊外などと、まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。 パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。 やつがれは歓喜せんまで、つよいの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「 磯やん、申し訳ない、悪かった。 面倒をかけた。 ごめん、ありがとう。 これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。

フランス離宮シャンボール城概観 シャンボール城の装飾屋根 シャンボール城 フランソワⅠ世紋様シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来いまなおフランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。

フランソワⅠ世の紋章 「サラマンダー」 は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして 21世紀の初頭に再生された。  詳しくは次ページを参照願いたい。saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> 付与した。 この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。

以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに 【 [文 ≒  紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン ・ ドゥ ・ ロワ、そして朗文堂 サラマ ・ プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。

《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ市第10区に 「 チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ 」 と名づけられた小高い丘への通りがある。 そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター ・ 執筆者の兄  :  ヨゼフ・チャペック の住居で、現在は直系の子孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家 ・ 作家の弟 : カレル ・ チャペック の住居跡である。

カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ市第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。 したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題 『Zahradníkův rok 』、邦題 『 園芸家の一年 』、『 園芸家の12カ月』 がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『 園芸家12カ月 』 (カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『 園芸家の一年 』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『 園芸家の一年 』(カレル ・ チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

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チャペック02やつがれにとっては、兄 : ヨゼフ ・ チャペック、弟 : カレル ・ チャペック兄弟とは、なによりも愛読書 『 園芸家12カ月 or 園芸家の一生 』 の挿絵画家、著者であり、せいぜい戯曲『 ロボット (原題:R.U.R.)』において 「 ロボット 」 なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
20161103145611_00004『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。 いま、やつがれの手もとにあるのは、1978年7月18日 第1刷り2013年10月4日の版の、第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル ・ チャペック作」とされている。その理由を訳者は 「訳者はしがき」 「解説」 「訳者あとがき」 のなかで縷縷のべている。

すなわち 『 山椒魚戦争 』 には、活字見本帳 ・ ちらし ・ 新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。 ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。

岩波文庫版 『 山椒魚戦争 』 は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが 「本文 明朝体8pt. 相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」 といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。

情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。 別の翻訳者と版元からの 『 山椒魚戦争 』 が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『 山椒魚戦争 』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
20161103145611_0000320161104192107_00001ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『 La Guerre des Salamanders 』 を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。

ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「 サラマンダー、山椒魚 」 の各国の解釈を 「 活字見本帳のような図版 」 で楽しんでいるようである。

岩波文庫 『 山椒魚戦争 』 には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』  p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」 p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」 p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち 『 山椒魚戦争 』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア ・ プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。 皆さんにお勧めしたいのは、『 山椒魚戦争 』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟 : カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。 1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学 。1911年、ベルリンの大学を修了後に 兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。 パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。 チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。 卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。 1917年、独立前に唯一発行が許されていた『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ 』 に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。 このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。 後に妻となるオルガ ・ シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく『 国民新聞 』 に不安を感じ、『 民衆新聞 リドヴェー・ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。 戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで『 民衆新聞 』に在籍し続けた。

《 チャペック兄弟の最後 プラハ市 : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov にねむる》
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)裏口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)入口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟の斜め前にあるスメタナの墓プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには 「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」 があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
DSCN6084 DSCN6082 DSCN6045 DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、ドイツの強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「解説」から紹介したい。

『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。 事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。 やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「 残念ながらチャペックは昨年のクリスマス [1938年12月25日歿] に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。

チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「独裁者の長靴」と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。 そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。 彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[後略]

【文 ≒紋学】 フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係

サラマプログ

Nutrisco et Extinguo  我ハ育ミ 我ハ滅ボス

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火のごとき  火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する
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火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。 2008年アダナプレス倶楽部年賀状 裏2008年アダナプレス倶楽部年賀状 表朗文堂 アダナプレス倶楽部[2016年07月01日よりサラマ・プレス倶楽部に改称]では、2008年の年賀状で「活版印刷術とサラマンダーのふしぎな関係」を紹介した。
ここにあらためて、フランス国立印刷所であたらしく再生されたシンボルロゴと、わがサラマ・プレス倶楽部の「小型活版印刷機 Salama シリーズ」のシンボルロゴとの、奇妙でながい歴史を紹介したい。
[取材・翻訳協力 : 磯田敏雄氏]
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《 国立印刷所の新しいシンボルロゴ —— Le nouveau logo de l’Imprimerie Nationale 》

フランス国立印刷所は定款を変更して、あたらしいロゴとして、今回もやはり「サラマンダー」の意匠を採用した。
あたらしいシンボルロゴとして神話の生物サラマンダーを選定したのは、フランス国立印刷所のながい歴史と、象徴主義とふかく結びついている。

フランス国立印刷所 新ロゴ フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワ1 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。 フランス国立印刷所は、この年1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワ1世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による標語を<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。

「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」 フランス国立印刷所 旧ロゴこのサラマンダーは何世紀もの歴史のなかで、すこしずつ意匠をかえて、フランス国立印刷所の紋章としてもちいられてきた。それらの意匠変遷の記録のすべてはフランス国立印刷所にのこされているが、21世紀のはじめに、どれもが幾分古ぼけた存在とみなされ、それを「モダナイズ」する計画がもちあがり、フランス国立印刷所のデザインチームが改変にあたった。

その結果よみがえったサラマンダーは、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして再生された。 saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス国立印刷所では21世紀の初頭にシンボルロゴを近代化して、Websiteに動画をアップした。同所のあたらしいシンボルロゴのモチーフは、1538年の創立以来変わらずにもちいられてきた「サラマンダー」である。

わが国では、このサラマンダーには TV CM でお馴染みのウーパールーパーという愛称があるが、正式には メキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとはメキシコ高地の湖沼に棲む、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類であり、その愛称ないしは流通名がウーパールーパーとされている。

ところで、灼熱の焔からうまれるイモノの「鋳造活字」をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。とりわけ今回はフランス国立印刷所からの、「王のローマン体、王家のローマン体  ローマン・ドゥ・ロワ or ローマン・ド・ロァ Romains du Roi 」のメッセージと図書も届いた。

Viva la 活版 Viva 美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ 欧文:ウンディーネ、和文:銘石Buu サラマンダーは、欧州で錬金術が盛んだった中世のころに神聖化され、パラケルススによって「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊:ノーム/水の精霊:オンディーヌ/火の精霊:サラマンダー/風の精霊:シルフとされる。

この「四大精霊」のことは欧州ではひろく知られ、アドリアン・フルティガーは、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としてのスタートのときに、「水の精霊/オンディーヌ Ondine」と名づけた活字を製作していた。
この欧文活字「オンディーヌ」と、和文電子活字「銘石B」 をイベントサインとしてもちいたのが< Viva la 活版 Viva 美唄 > であった。
【 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

《サラマンダーに代えて Salama の登録商標を取得し、サラマくんのイメージロゴを製作》
サラマ・プレス倶楽部の製造・販売による小型活版印刷機は、「Salama シリーズ」として登録商標が認可されている。 また冒頭でご紹介した「Salama ペットマーク」はサラマ・プレス倶楽部 AD 松尾篤史氏の設計による。 DSCN0689 DSCN0741 DSCN1173もとより朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、ユーザーの皆さまには < SALAMA Salama サラマ> の名称を今後ともご自由にお使いいただきますし、現在OEM方式により製造 ・ 販売中の < Salama-21A,  Salama-LP,  Salama-Antiqua>を、「さらまちゃん、サラマくん」とでもご自由にお呼びいただき、ご愛用いただきたいと考えている。
わが家のウーパーウーパー/ウパシローは、シャイで気の弱い、わががまものである。

【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

01活字と機械論考-1024x341[1]

曲田成 resized 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・『曲田成君畧傳』(国立国会図書館 請求記号 特29-644)

本書は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり 弘化三年一〇月一日〈西暦 1846年11月19日〉-明治二七年〈1894年〉一〇月一五日 行年四九)の略伝である。
序文を福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)、本文を同社第四代社長・名村泰蔵(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。
本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆 不詳)がある。最後に「跋」がおかれ、ふたたび東京築地活版製造所社長の名で、名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には発行日として「明治28年10月16日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙のなかにその名をみることができる。
印刷者として支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『曲田成君畧傳』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。すなわち従来は平野富二と曲田成に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。
さらにことばをかさねれば、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書の中で名村泰蔵自身があきらかにしている。

ここに読者諸賢に『曲田成君畧傳』の存在をお知らせし、ともに『曲田成君畧傳』をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。

【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎

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安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

安中半三郎翁紀念碑『安中翁紀念碑』
長崎県立盲学校 校門左脇在

明治長崎の印刷・出版・文化史において看過できない人物に安中半三郎がいる。
これまではおもに「長崎学」の分野において、慈善家、篤志家、ときとして〝ふうけもん〟として、わずかに触れられる程度であった人物である。
先般長崎史談会顧問:宮川雅一氏より虎與号・安中書店店主/安中半三郎の資料を拝借することができた。

ここではまず安中半三郎の功績者としての側面を、長崎県立盲学校と、長崎県立ろう学校の資料「安中翁紀念碑」から紹介したい。
「安中翁紀念碑」は、大正11年(1922)11月、安中半三郎の一周忌に際して、長崎市桜馬場町「長崎盲唖学校」の校庭に、元長崎肓唖学校長:山本 明の撰、長崎市中野郷:福丸秀樹の書によって建立された。
この年はまた長崎慈善会の創立三十年と、肓唖学校の創立二十五年記念にあたる年でもあり「同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる」としるされている。

DSC_2488[1]『史跡 盲唖學校跡』 碑
この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは一メートルにも満たない大きさで、桜馬場の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

そもそも県立学校に、創設者個人の顕彰碑が建立されていたり、それもふたつの施設の校友誌にほぼ同一記録をみることはめずらしい。
また長崎県立図書館も、その創立記録として安中半三郎の名をとどめている。

長崎慈善会による「長崎盲唖院」は、その後「盲・聾教育の組織分離」がなされたため、現在は大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

「安中翁紀念碑」は時津町の 長崎県立盲学校 の校門左脇にあるという。
まだこの碑の実見にいたっていないのは断腸のおもいである。また訪崎の機会をえたらぜひとも訪問したいものである。

◎ 「長崎県立盲学校」 本校の歴史長崎県立盲学校 長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873 WebSiteより一部引用)
<明治時代>
本校は、安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立されました。同年9月12日開院、その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として、授業が開始されました(以後この日が開校記念日)。

開院時の生徒数は13名、京都以西では二番目に設置された盲聾教育機関となります。
この年の11月28日には、電話発明者として有名なA・G・ベル博士が来院し、教師及び生徒に対して手話演説を行っています。
九州初の盲聾教育機関であったために、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続けました。そのため、校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くこととなりました。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしています。
<大正時代>
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設されました。
また、この法令には普通教育と職業教育の分離化とその指導充実が明確にうたわれ、それを受けて本校でも指導内容の充実が図られるようになり、修業年限も初等部6年、中等部鍼按科及び音楽科4年、別科按摩専修科2年となりました。
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◎ 長崎県立ろう学校
長崎県立ろう学校 学校沿革抄(長崎県大村市植松3-160-2 WebSiteより一部引用)

明治維新以来わが国の文化は日に月に進み目覚しい発展を遂げたが、わが同胞で耳が聞こえず目が見えぬため、終生人生の悲境に泣く人が顧みられなかったことは、人道を重んじ博愛の心あるものにとっては一日として見過ごするにしのびぬところであった。わずかに京都・東京において明治11年相前後して盲ろう教育の機関を設けたが、その以西にあってはいまだその施設があるを聞かなかった。長崎慈善会が特に率先して盲ろう教育に先べんをつけた動機は実にここに存したのである。

明治29年慈善会幹事安中半三郎らは、会の事業として盲唖院を経営することを提議したが、さいわいにして衆議もこれを容れ京都盲唖院を標準として調査を続け、一方同30年12月20日慈善会総会では安中半三郎ら9名を盲唖院創立委員にあて開校を促進するに至った。この間京都の盲唖院から寄せられた同情と支援は言葉に尽くせないものがあった。かくして明治31年開校の運びとなり、全国ろう教育史上4番目の伝統を誇る足跡が印されたのである。
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以下、資料 : 『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)と、『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)をもとに、まず平易な現代文で「安中翁紀念碑」から紹介する。原文は最後に置いたので参照して欲しい。
なお紀念碑には末尾に五言絶句様の漢詩があるようだが、『明治維新以後の長崎』はそれを収録していない。この部分は手稿原稿からの引用であることをお断りしたい。

☆      ☆      ☆      ☆

安中半三郎resized安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

翁の姓は安中(あんなか)、名は有年(ありとし)、通称半三郎、東来(とうらい)はその号なり。
嘉永六年十一月二十九日(西暦1853年12月29日)江戸神田相生町に、父為俊、母長沢氏の三男としてうまれた。6歳のとき父にしたがって長崎に来て家業をたすけるかたわら、長川東洲、池原大所(香穉・日南とも)に和漢の学をまなび、歌道にも通じた。
明治のはじめ、皇道の由来を悟り、父にすすめて祖先の祭祀を神式にあらためた。明治19年(1886)書籍・新聞・文具などの業を営業しこんにちにおよぶ。

安中家墓地長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
本蓮寺は日蓮宗の名刹で、勝海舟が幕末の海軍伝習所にまなんだときここに寓居した。
また長崎史談会の故古賀十二郎もこの本蓮寺墓地にねむるという。

翁はうまれつき剛直にしてすこぶる義気にとみ、公共のことに尽くすことが多かった。すなわち市会議員に選出され、市参事会員にあげられて多年にわたって市政に貢献した。また商業会議所議員、その副会頭(現在の長崎商工会議所の前身。会頭は松田源五郎)として商工貿易の進展に参画した。また(長崎十八銀行頭取)松田源五郎翁らと電灯会社をおこし、長崎の灯明の新世紀をひらいた。

十八銀行本店前「長崎商工会議所発祥の地」碑

松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影上) 「長崎商法会議所発祥の地」碑 十八銀行本店前
下)松田源五郎「明治10年内国勧業博覧会」 上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵  長崎商法会議所 年代不明02 宮川資料 長崎商業会議所会員 年代不明 宮川資料長崎商法会議所前にて 年代不詳ながら1879年(明治12)10月以降の明治初期
下図は上掲写真の部分拡大。当時は写真撮影をすると指先から魂を抜かれる、レンズに心胆をのぞかれるなどの迷信があり、長崎の有力財界人であっても、レンズから視線をそらし、手指を袂にいれて隠すふうがあった。
長崎商法会議所 年代不明03 長崎商法会議所 裏面に明治39年(1906)01月の書き込みがある。
手指をだし、おおかたのひとの視線がカメラ目線に変化していることがわかる。
長崎県立図書館落成記念写真 宮川資料長崎地名考 扉[1] 長崎地名考 付録1[1] 長崎地名考 刊記[1] ORAYO-GO[1] 長崎安中半三郎は「安中書店「虎與號 とらよ-ごう」の名称で『長崎地名考』(香月薫平)、『類代 酔狂句集 初編』(素平連 安中半三郎)など何冊かの図書の刊行と、「虎與号」から販売もしている。安中半三郎における印刷・出版・文化人といった面からの研究は未着手である。

長崎慈善会「軍人家族贈呈衣類収容所」右手最奥に安中半三郎 宮川資料長崎慈善会「軍人家族贈呈衣料収容所」。左手最奥部、裏庭のまえに、手帳を片手にうつむき加減の安中半三郎がみえる。東来半三郎は写真を苦手としたか?  明治27年12月1日

いっぽう文雅同好の士(西道仙、香月薫平ら)とともに「長崎文庫」をはじめ、それは現長崎県立図書館の源流となった。そのほかにも神社の振興や名所旧蹟の保存にも尽力した。
そのほかにも特筆すべきこととして、明治24年(1891)尾濃震災(のうび地震)に際しては、同志とともに音楽会や幻灯会を催して金品をあつめて罹災民の支援にあたった。これをはじめとして明治26年(1893)に「慈善会」を創設して、各地の天災地変や出征兵士の慰問などに金品を寄付すること30余回におよんだ。

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料櫻馬場盲聾学校校舎 明治41年(1908)以降。年代不詳

明治31年(1898)「慈善会」の事業として「盲唖学校」(現:長崎県立盲学校長崎県立ろう学校)を創立し、資金の蒐集と学位資格管理に苦心した。このようによく一生の心血をそそぎ、おおくの可憐な子女を教養してこんにちにあることに尽くした。 その期間実に三〇年および、長崎市における社会事業のさきがけとも、経営の柱石ともなった。そのため巷間では狂とも奇とも呼ばれることもあったがそれを厭はなかった。

このように功労は常人の及ぶところではなく、特殊堅実なる守操がなければこのような事業を成し遂げられなかった。
大正四年十一月国家の大典(大正天皇即位式)に際し、その功績が表彰された。
大正十年に入り、病を得て四月十九日ついに歿す。享年六十九。
その死にいたるまで一日も病床に就かず、端座してよく簿冊を管理していた。その剛健さと黽勉ビンベン(努力)はいつもこのようであった。 その妻ジウ子もまた翁の志をうけ、内助の功が多かった。翁とのあいだに長男生逸があり家を継承した。

翁が逝去して一周年、あたかも慈善会の三十年と肓唖学校の二十五年記念にあたる年であり、同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる。

   瓊浦の水洋々   峨眉の峰清秀   偉才其間に出づ   嗚呼安中君
   力を公事に致し  其績歴たり     銘を負石に勒し    以て来世に告く

         大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書
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三四 長崎盲唖学校

安中翁紀念碑

翁姓ハ安中名ハ有年通称半三郎東来其号ナリ嘉永六年十一月二十九日江戸神田ノ相生町ニ生ル為俊翁ノ三男ニシテ母ハ長沢氏タリ翁六歳ニシテ父ニ従フテ長崎ニ来リ家業ヲ助クル傍長川東洲池原大所ニ従ヒ和漢ノ学ヲ修メ心ヲ歌道ニ潜ム明治ノ初年皇道ノ由来ヲ悟リ父ヲ勧メテ祖先ノ祭祀ヲ神式ニ改メ同十九年書籍新聞及文具等ノ業ヲ営ミシヨリ連綿トシテ今日ニ及ヘリ翁天資剛直ニシテ頗ル義気ニ富ミ公共ノ事ニ尽セシコト甚多シ即チ市会議員ニ選ハレ市参事会員ニ挙ケラレテ多年市政ニ貢献シ又商業会議所議員及其副会頭ニ推サレテ商工貿易ノ進展ニ参画シ先進松田源五郎翁等卜謀リ電灯会社ヲ起シテ本市灯明界ノ新紀元ヲ開キ文雅同好ノ士卜共ニ長崎文庫ヲ創メテ図書館ノ萠芽ヲ育成セリ其他神社ノ振興ニ或ハ名所旧蹟ノ保存ニ力ヲ致セシコト亦少ナカラス而シテ其特筆スヘキハ明治二十四年尾濃震災ノ際同志ト共ニ音楽幻灯会ヲ催フシ金品ヲ集メテ罹災民ヲ賑ハシタルヲ始メトシ同二十六年ニハ慈善会ヲ創設シ爾来同会ヨリ各地ノ天災地変及出征兵士ノ慰問等ニ金品ヲ寄附シタルコト実ニ三十余回ノ多キニ及ヒ越エテ三十一年会ノ事業トシテ盲唖学校ヲ創設セシヨリ資金ノ蒐集卜学位ノ管理トニ一層ノ苦心ヲ加ヘタルモ克ク一生ノ心血ヲ濺キテ多数可憐ノ子女ヲ教養シ以テ今日アルヲ致セリ其間実ニ三十年本市ニ於ケル社会事業ノ魁トナリ其経営ノ柱石トナリ狂ト呼ハルヽモ厭ハス奇卜其功労常人ノ及フ所ニアラス特殊堅実ナル守操アルニ非スンハ曷ソ能ク此ノ如クナルヲ得ンヤ宜ナルカナ大正四年十一月国家ノ大典二際シ其功績ヲ表彰セラレタルコト大正十年ニ入リ病ヲ得四月十九日遂ニ歿ス享年六十九其死ニ至ルマテ未タ一日モ寝ニ就カス端座シテ克ク簿冊ヲ理ム其剛健黽勉始終此ノ如シ室ジウ子亦翁ノ志ヲ承ケテ内助ノ効多ク長子生逸家ヲ継ク翁逝テ一周年恰モ慈善会ノ三十年卜肓唖学校ノ二十五年紀念ニ当ル乃チ同志相謀リ碑ヲ校庭ニ建テ以テ不朽ニ伝フ
大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書

宮川氏原文
資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)
『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)

DSCN7439{宮川雅一氏 略歴紹介}
1934年(昭和9)長崎市の老舗の酒類・食料品店に生まれる。勝山国民学校・新制長崎中学校・長崎東高等学校卒。
1957年(昭和32)東大法学部卒業後、自治庁(現・総務省)に入る。以来、自治省・大蔵省(現・財務省)・公営企業金融公庫(現・地方公共団体金融機構)・福岡・滋賀・愛媛・香川各県庁に勤務。
1979年(昭和54)川脯日本都市センター研究室長から長崎市助役に就任。1986年(昭和61)長崎市助役を退職し、長崎都市経営研究所を設立。

現在、長崎史談会会長を経て同相談役、長崎釈尊鑚仰会事務総長、長崎近代化遺産研究会会長、唐寺研究会代表幹事、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表、長崎ちびつ子くんち実行委員会会長、出雲大社長崎分院・松森天満宮・伊勢宮の各責任役員など。
著書に『宮川雅一の郷土史岡目八目』(宮川雅一 長崎新聞社 平成25年9月1日)、『長崎散策』シリーズほか。

{ 関連資料 : 文字壹凜 安中半三郎の肖像紹介 『東来和歌碑』釈読紹介 宮川雅一氏

【資料発掘】 活字のうた―或る植字工これをつくる 『活字界』 Vol12-3 / No.47 p.5 昭和51年4月5日

ここに紹介する詩は、ある大手の印刷会社の植字工を永年やっていた故松崎映太郎が、昭和23年,復興経済労働問題講座の席上発表したものといわれる。
印刷同友会の市村道徳会
長がこの詩を高く評価し、印刷同友会20年史に所載したものを、同氏のご好意により本誌に転載させていただいた。{活字界 編集部}

『活字界』合本。

活   字   の   う   た

(或る植字工これをつくる)

ケースにいっぱい詰っている活字は
満開の桜のように美しい
その一本一本が生きもののように
生命をもっている
活字とはいみじくも名づけられたもの
その一本一本の活字の望みは
花のように美しく植えられることにある
幼い苗を植えて
豊かな果樹園を実らせるように
立派に組み上げられた活版
そしていっぱいに盛り上る文化
しかもむだ花として散ってしまうのではなく
再び解きほぐされて息吹きかえす
小さな不死鳥よ フェニックス ────────── 活字。

太初に道あり ―― はじめに ことば あり
ことばは神と共にあり
と、ヨハネ伝はかく誌シルす
マインツのダーテソベルクが
最初の活版印刷を発明した時に
先づ刷ったものは聖書だったという。
ああ 近代印刷の技術の泉は
まぶしいような神の言葉と共に湧いたのだ。
活字を植える人よ

印刷するひとよ
此の古い事実に深い意味をさぐれ。
 『ルラ』(ローラー)が一回転して紙がその上を通れば
そこには取り返しのつかぬ歴史が生れることを
汚ないインキのしみを
人類の文化になすりつけることに心せよ
ケ-スにいっぱい詰まっている活字は
輝やく眼マナコで原稿をきびしく査シラべ
ステッキの中に組まれた活字は
やがて世の中へ出てゆくものの倫理を叫ぶ
活字が紙幣サツを刷るに役立たぬことは
いかにうれしい宿命であろう。

ああ活字
可憐な、きよらかな文化の釘
賤イヤしいただの金儲けや
恥知らずの本造りブックメーカーの手から
お前を護ろう
巨人ゴリアテを仆タオした
ダビデの掌の中の小さい石のような
正義の武器 活字を
人々よ いつくしみ育てて
新しい日本の大きい組版の中に
星のように輝やかしくちりばめようではないか

【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、生家跡資料発掘・現地訪問。タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

【字学】〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟情報過多の時代の活字と書物

Print〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

19世紀世紀末英国街頭風景『Printing  1770 – 1970』 より
18-19世紀イギリスの印刷・出版・広告界の混乱は、現代では想像を絶するものでありながら、どこかまた現代とも通底するところがある。

上図は1835年(江戸後期 天保6)、産業革命後イギリスの負の側面が露呈した、まさに狂奔というべき状況を記録したもので、「ビラ貼り職人」が街頭で競ってビラを貼っている様子をあらわす。
ビラを貼るそばには、ライバル企業のそれを剥がす専門のものいて、さらにその跡や前のビラの上に無遠慮にビラを貼るものがいたと記録されている。
ちなみに1835年には「Hand bill  (手で配る広告、ちらし 1753年初出)」はあったが、まだポスターということばの使用は記録されていない。

上図から三年ほどのち、1838年に Post の派生語として Poster なることばが誕生した。
下図は、1874年(明治7)蒸気機関車がみられる駅頭に掲出された巨大ポスター。これらのポスターの一部は、わが国の印刷博物館にも展示されているが、ともかく想像を絶する巨大なものである。
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もうひとつ図版を紹介したい。
上図は1829年(江戸後期 文政12年)印刷地は不明ながら、米国における「Auction sale の告知」(Sales notices  15”×12”)であるが、そのオークションの内容たるや「奴隷市」というすさまじいものである(Printed Ephemera, John Noel, W.S.Cowell Ltd., 1962 p.81)。
この Sales notices にはまだサンセリフ体の使用はみられないが、書物ではあまりみられなかった、おおきなサイズ、太い活字書体がもちいられている。

こうした旺盛な商業広告のなかから、それまでの書物の活字「テキスト・タイプ」にかえて、サン・セリフ体をはじめとする「ジョブ・タイプ 広告・端物用活字書体」が誕生し、巨大サイズの木製の活字も大量に生産された。
しかしこれらが書物と公版印刷に与えた影響とは必ずしも好ましいものではなく、19世紀世紀末から21世紀初頭にわたって展開された、「個人印刷所運動 Private press movement」、「金属活字改良運動  スタンリー・モリスンらのフラーロン派など」の動向をまって落ち着きをみせた。

『新英和大辞典』(第六版 研究社)によると、書物・図書としての Book の初出は、あまりにふるくて判明しないとされる。
いっぽう雑誌・Magazine は、ラテン語 Magazzino(仮設置き場・倉庫・雑貨店)から発し、英語での初出は1731年に仮置き場・情報保管庫の意からの初出がみられるとする。
また上述したように、ビラの淵源になったともくされる Hand bill  (手で配る広告、ちらし、ビラ ≒小型販促印刷物)は1753年に初出がみられるが、それがいっそう大型化し、掲出されるようになった Poster は、1838年 Post の派生語として初出がみられるとする。

すなわち産業革命を主導した英国においては、新聞・News peper は1670年の初出で346年ほど、雑誌・Magazine は285年ほど、ビラ・Poster は178年ほどの歴史しかなく、書物・図書の製造をもっぱらとしていた近代活字版印刷術 Typography の620年ほどの歴史とくらべると、いずれも比較的あたらしいメディアであることがわかる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography 伝来の起点をどこに置くかは議論のあるところだが、いちおう1869年(明治2)10月上旬のころ、長崎製鉄所付属活版伝習所における迅速活字版製造の技術の伝習とすると、上掲図の10年後のこととなる。
また下掲図の駅頭に掲出された巨大ポスター1874年(明治7)とは、数えて27歳、青年平野富二が1871年(明治5)新妻 古ま と長崎新塾活版所の社員8名をつれて長崎を出立してから2年後、東京築地に「築地活版所」をもうけて、活版製造と関連印刷機器の製造に目途がついたころにあたる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography の伝来は、おもに欧米諸国の租借地だった上海からもたらされた。この上海の租借地とは、欧米先進諸国が租借国となり、原則的にそこでは統治権を行使したので、ある意味では占領地にちかいものであった。
しかしながら、その背後の英国と米国の状況とは、両図にみるような混沌としたものだったことは忘れられがちである。
東京新聞
参議院議員選挙、気候不順などの話題がかさなってめだたなかったが、先般英国は国民投票によってEC(European Community)からの離脱を決定した。もしかすると、また欧州混乱の序章の幕開けを予想させる事態であった。
また、『東京新聞 2016年7月8日』には、<町の書店経営悪化>がおおきく報道された。
これは日本書店商業組合連合会(日書連)による全国4,015店の書店の実態調査で、
「ここ数年間の経営状態が悪化したとする回答が85%をこえたことがわかった」
としている。

経営悪化の原因としては、客の数やひとり当たりの購入額の減少だけでなく、雑誌の売り上げの低迷、ネット書店の台頭、後継者不足をあげる声が多数をしめたという。
10年前の同様の調査でも、すでに「客数の減少」「大型店の出店」が憂慮されていた。
同紙はまた【出版不況】について出版科学研究所の調査をひいてその不振とともに、雑誌と書籍の売上高が逆転したことを報告している。

それによると書籍と雑誌をあわせた出版物の2015年の推定販売金額は1兆5220億円で、その市場規模はピークだった1996年(平成8)の6割弱まで縮小しているとした。
また特に深刻なのは、これまで出版界を支えてきた雑誌で、出版取次(問屋)大手の日本出版販売が6月に発表した15年度決算において、雑誌の売上高が32年ぶりに書籍を下回ったと報じている。
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〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

これまで産業革命がもたらした書物と印刷・活字における負の側面をみてきた。
産業革命(Indusrial revolution)とは、1760年代の英国にはじまり、1830年代以降欧州諸国に波及したもので、ちいさな手工業的な作業場にかわって、産業の技術的な基礎が一変し、機械設備による大工場が成立し、社会構造が大きく変化したことをいう。

とかく、活字離れ、町にみえている書店の不振ばかりが話題になるが、いっぽうでは電子技術の進展と利便性を「IT 革命」として歓迎するむきもある。
それでなお、取次中堅業者(図書の問屋)が倒産したり、集合化している深刻な事態は看過され、印刷所・出版社・新聞社・メディア関連業界が気息奄奄たる状況にあることは見逃されている。
小社も零細とはいえ出版社である。この危機的状況の埒外にあるわけではない。
いいたいことは山ほどあるが、たれのせいでもない、傍観も看過もできないが、いったそばから天に唾するがごとく、わが身にふりかかる難問でもある。

〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟―― 孔子『論語』にみられる警句である。
「海の日」にちなんだ三連休、近場への外出はあったが、カレル・チャペックKarel Čapek, 1890-1938)の著作を文庫版で三冊買いこんで読了するつもりだった。

『園芸家12ヶ月』、戯曲『ロボット (R.U.R.)』と二冊まではおもしろく読みすすんだが、楽しみにしていた小説『山椒魚戦争』で行きづまった。

これは著者のせいでも訳者のせいでもない。この翻訳書は世評のたかい版元であり、印刷所だったが、この印刷所の活字書体と組版にはどうしてもなじめなかった。
『山椒魚戦争』は、原著のチェコ語版を含めて、いくつかの言語の版を「みてきていた」。みるだけでおもしろく、楽しい書物だった。それだけに残念で、月曜深夜というより、火曜朝までなんとか読もうとねばったがとうとうあきらめた、
「よむため」に、別の版元からでている翻訳書を購入することにした。
出版人として、タイポグラファとして、まだやることがあるとおもって朝をむかえた。

【字学】 『株式会社秀英舎 創業五十年誌』より 秀英舎は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海・保田久成らにはじまり、こんにちの大日本印刷につらなった

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創業50年誌 創立者『 株式会社秀英舎 創業五十年誌 』
B五判 上製本 120ページ 基本 : 活字版印刷 図版 : コロタイプ、オフセット平版印刷

[奥付刊記]
昭和二年三月十五日 印刷
昭和二年三月二十日 発行         非売品
発行者  株式会社 秀 英 舎
       右代表  杉山 義雄
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷者  佐久間衡治
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所  株式会社 秀 英 舎
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
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由来

 

       社名及商標ノ由来

吾カ秀英舎ノ名称ハ幕末ノ偉人勝安房伯ノ命名セル所ニシ

テ創業当時伯ハ舎長佐久間貞一ニ対シ将来英国ノ右ニ秀ツ

ル意気ヲ以テ事業ノ発展ヲ期セヨト激励シ毫ヲ揮ヒ秀英舎

ノ三文字ヲ題シテ与ヘラレタルニ由来シ其ノ商標ノ 生 字ハ

秀英ノ反切ニシテ創業発起人安田久成ノ起案ニ係ル所ナリ

【 意読 一部を常用漢字にした p.4 】  基本組版 10pt. 明朝体 26字 字間四分
秀英舎の社名および商標の由来
わが秀英舎の名称は、幕末の偉人 勝 安房伯爵(かつ-やすよし 海舟とも 1823-99)が命名したものです。創業にあたって勝伯爵は、舎長の佐久間貞一(1848-98)に対して、当時強勢を誇っていた英国より将来は上位になり、さらに秀でた存在になるとの意気をもって事業の発展を期すように激励し、筆を揮って「秀英舎」の三文字を題して与えられたのに由来します。
秀英舎の商標「生」の字は、「秀英」の 反切 で、創業発起人の保田久成(佐久間貞一の義兄 1836-1904)の起案にかかれるところです。

[ 付記  反切 ハンセツ について ]
わが国で漢和辞書が本格登場したのは明治後期であり、それまでは漢字音を示すのにほかの漢字を借りてする法があり、それを「反切」と呼んだ。
ここでは「秀」の字の声(頭の子音)と、「英」の字の韻を組み合わせた発音が「生」の字となるとしている。ところが現代中国音では「秀」はxiu 、「英」はying 、「生」はsheng であるから、かならずしも当てはまらないことになる。
したがって現代では「反切」はほとんどもちいられず、やや「死語」と化しているともいえる。詳しくはリンク先でご覧いただきたい。
一部に「反切」を「半紙」と読みかえた紹介をみるが、疑問がのこる。

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口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」

創立者

       沿  革  略  誌

明治九年十月九日佐久間貞一大内青巒宏佛海保田久成ノ四名金壹千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ今ノ京橋区当時ノ東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ四六判八頁掛手引印刷機半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各一台竝ニ四号五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ従業員亦二十余名ノ少数ニ過キサリキ

【 意読 一部を常用漢字にした 口絵 p. 1 】  基本組版 14pt. 明朝体 34字 字間四分
沿  革  略  誌
明治09(1876)年10月09日、佐久間貞一(口絵上右 さくまーていいち 元幕臣・彰義隊隊士、初代舎長・社長 1848-98)、大内青巒(口絵上左 おおうち-せいらん 1845-1918)、 宏 仏海(口絵下右 ひろし-ぶっかい 曹洞宗僧侶 『明教新誌』社主兼印刷人 1838-1901)、保田久成(口絵下左 やすだーひさなり 元幕臣・学問所教授 佐久間貞一夫人 て津 の実兄 秀英舎第二代社長 1836-1904)の四名が発起人となり、金壹千円を共同出資(おもに保田久成が資金提供)して、東京府第一大区八小区山城町(いまの泰明小学校のあたり)の高橋活版所の事業および設備を買収し、それをもっていまの京橋区西紺屋町角(数寄屋河岸御門外弥左衛門町)、当時の東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地(現東京都中央区の晴海通りに面し、数寄屋橋交番の前にあたる)に活版印刷の業をはじめた。これがすなわち株式会社秀英舎、現大日本印刷株式会社のおこりとなった。
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創立当時の社名は単に秀英舎と称し、そのトップを舎長と呼んでいたが、明治27(1894)年01月15日から株式組織となり、初代社長に佐久間貞一が就き、明治31(1898)年11月28日第二代社長に保田久成が就任して、こんにちにいたる基盤を構築した。

創立当時の設備は高橋活版所から譲渡を受けたもので、四六判八頁掛手引き印刷機(おおむねB三判)、半紙倍判掛手引き印刷機(おおむねA三判)、半紙判掛手引印刷機(おおむねA四判)印刷機がそれぞれ一台ずつと、四号、五号サイズの活字が若干あるのみであった。また従業員も20余名の少人数であった。

{新宿餘談}
平野富二の事績調査にあたっていた際、わが国近代産業の開発者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創始者:平野富二と同様に、秀英舎創業者:佐久間貞一らに関する公開資料もきわめて少ないことにおどろかされた。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日)

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

やつがれは『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日)を著し、上掲のことどものあらかたをしるしたつもりだった。
爾来10年余が経過し、二次循環でも『秀英体研究』が入手難だとも聞くこのごろである。
BsyueiPH2[1]さりながら依然として、東京築地活版製造所の創立者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創立者 : 平野富二と同様に、秀英舎創業者 : 佐久間貞一に関する公開資料がきわめて少ない現状がある。これがしてここに再びデーターを開いた次第である。

『株式会社秀英舎 創業五十年誌』の本文用紙はきわめて上等な、いくぶん厚手で生成りの非塗工紙であるが、筆者旧蔵書は、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」に関しては、どういうわけかひどく「アカヤケ・紙ヤケ」して、劣化がめだっていた。
たまたま古書カタログで「極美麗書」とされた『株式会社秀英舎 創業五十年誌』が紹介されていたので、重複を承知で購入した。

新『株式会社秀英舎 創業五十年誌』は某団体への寄贈書で、収蔵印はあったが、ほとんどたれも手にしたことがないとおもわれるほどの「極美麗書」であった。
案の定というか、「アカヤケ・紙ヤケ」がめだった、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」のページの前に、「いわゆるウス、グラシン紙」がそのまま挿入されており、おそらくそれが酸性紙であって、対抗ページの本文用紙の劣化を招いたとおもわれた。
すなわち劣化の原因は判明したが、残念ながら良い状態での紹介はできなかった。

佐久間貞一は真言宗円明山西蔵院(台東区根岸3-12-38)にねむる。
ここには佐久間家歴代の墓、そして焼夷弾の焼損によるとおもわれる損傷がいたいたしい、秀英舎の創業者/佐久間貞一の墓があり、境内には榎本武揚による巨大な顕彰碑がある。
黄泉にあそぶひととなった偉人は、塋域がもっとも雄弁にその人物像をかたりかけてくることがある。
dc66f84aa4d9497c09d1fe6d07666210[1]また、幕末の敗者となった、彰義隊士や新撰組隊士を、官許をえてまつることで知られる、曹洞宗補陀山円通寺 (荒川区南千住1-59-11)には、『佐久間貞一君記念之松』碑(明治33年5月13日建立)がひと知られずにある。松はいまはみられない。

佐久間貞一は彰義隊士ではあったが、水戸に蟄居した徳川慶喜に同行したために上野戦争には参加しなかったとされる。
それでもいっときは追補される身となり、その後企業人として成功した。しかし没年の二年ほど前に彰義隊士の寺院に記念植樹を寄進したこころ根には熱いものがあったとおもえる。
 しばらく 佐久間貞一にこだわってみたいゆえんである。

【字学】 秀英舎(現 大日本印刷)初代舎長・社長/佐久間貞一遺墨 『送 太田温郷之帰省』、『法の序』 をみる

Print極めつけの悪筆ゆえ「書は以て姓名を記するに足るのみ」といっている。もちろん負け惜しみの減らず口である。
ところが「書は体を表す」ともいう。
たしかに肉筆からは、
それをしるしたひとの人柄を、ある程度推しはかることができる。

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

秀英舎の創業者 : 佐久間貞一(1848-98)の遺墨とされるものは少ない。
わずかに見るのは、その七回忌に際して発行された『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 印刷所・秀英舎 明治三七年一一月三日)の口絵である。
しかしながら石版印刷によるとみられる複写図版は、あまりに不鮮明で解読に難航して紹介をえなかった。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日) 

もうひとつは一三回忌に際して発行された『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 印刷所・秀英舎第一工場 明治四二年一二月一五日)の口絵にみる、佐久間貞一の遺墨二点である。こちらを紹介させていただく。

そのひとつは静岡で読まれた七言絶句である。韻を踏んでまことに堂々としたものである。
静岡時代の佐久間貞一は、戊申の役に際し、彰義隊隊士として敗北を喫し、追捕の身となって流浪を重ねていた時代のことであった。
佐久間貞一、ときに数えて二一歳、血気と侠気盛んな青春のときでもあった。

佐久間貞一筆書01この書をみると、まさに痩勁である。裂帛の気合いのこもった、まさに痩勁な書である。
友人(詳細不詳)「太田温郷」との別れに際してのこしたものであろう。詩もほれぼれするほど良い。
その読み下しを古谷昌二氏の助力をえて試みた。もとよりこの分野は専門ではない。識者の叱正を待ちたい。

送 太田温郷之帰省
杜鵤啼度客樓遣  祝席傷心首夏天
男子常慙児女態  如今臨別転凄然
    静岡
貞一   再拝

ほととぎす啼きて客楼にわたらしむ
祝席にあって傷心、夏のはじめの天

男子はつねに慙ハジる 児女の態タイ
別れに臨みて淒然とすること今の如し

もうひとつは、宿痾の病としていた肺結核が進行し、死期を悟ったときのもの、あるいは辞世の句とも読める悲壮なものである。
弱〻しい筆で入って、それでも気力を振り絞ってしるしたような、これまた痩勁な書である。おそらく宿願であった「工場法」の制定をみないままに果てる無念さをうたったものか。

佐久間貞一筆書02
ありし日に 逢見し老いの おはりにと
法の 序 の かなしかりける

「対づ  ついづ」とは(順序よく)定めるの意である。つまり労働者にあたたかい視線をむけていた佐久間貞一の宿願であった「労働法」の成立をみなかった無念をあらわす。
佐久間貞一がのこしたこのふたつの書に、筆者は秀英体活字書風の遠い源流をみる。

BsyueiPH2[1]【 参考 : 『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日) 9-1 佐久間貞一の墨書の源流  p.652-660 】

【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

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本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

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朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【字学 活字と機械論攷シリーズⅡ】 長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN 「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位報告祭に活句をよみて奉る」

統合長崎諏訪神社所蔵
「本木昌造関係文書集」より

故本木昌造翁の功績を追懐して
贈位奉告祭に活句をよみて奉る
長崎素平連
──────────

點林の枯骨   贈位の花か咲き       紫泉
本木にて朽ちぬは   文字の元祖也    鈍々
文学の修業場   巌流坂に建て       藤覚
鋳上けた活字   銅像と成て立ち      應来
贈位の御沙汰   文明の日の本木     躬之
ステロ版本木の  末に流れ出て      豊舟
本木から枝葉   繁る新聞紙        竹仙
発明の活字を  積て位山           我天
名の如く永久  朽ちぬ君か功        和薩
摩滅せぬ偉勲  活字の発明者       東籬
活字版桜木    よりも世に薫り       東来

統合

「川柳吟社 素平連 スペレン 」は明治期長崎にあった川柳・狂句の会で、虎與號トラヨゴウ・安中ヤスナカ書店/安中半三郎(号:東来トウライ 嘉永六年十一月二十九日[西暦1853年12月29日]-1921年4月19日 行年69)が主宰した{花筏}。

もともと「川柳吟社素平連」は知るところがすくなかったが、故阿津坂 實氏の紹介をえて、わずかにこれらの句を『活字をつくる ヴィネット04』(片塩二朗・河野三男 2002年06月06日 朗文堂 p.207)でも紹介した。
ようやく長崎でも「ふうけもん 安中半三郎」が注目されるようになり、今般長崎で一次複写資料を入手したので、ここに古谷昌二氏の釈読で紹介した。
しかしながら、依然としてこれらの句をのこした「川柳吟社素平連」の会員名は「安中半三郎=東来」以外の詳細は不明である。

冒頭に、「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位奉告祭に活句をよみて奉る」とあるのは、明治45年(1912)2月26日に本木昌造に従五位を追贈する旨が通達された。
東京築地活版製造所では同年5月25日「本木昌造翁贈位祭典」が星野 錫、野村宗十郎、松田精一、三間ミツマ隆次を発起人として「上野精養軒」で盛大な祝賀会が催されている。
おそらく地元長崎でもこのような祝賀会が催され、「川柳吟社素平連」も句を寄せたものであろう(『本木昌造伝』島谷政一 朗文堂 p.218-228)。