もうずいぶん昔のことになります。
わたしが思春期のころに読みふけったのは堀辰雄の美しい書物でした。
どういう訳かこのひとの書物は、簡素でリリカルなものが多く
文庫本にあきたらずに、父の蔵書を持ちだしてはひどく叱られたものでした。
そんな一冊が『花あしび』(青磁社 昭和21年)というちいさな書物で
戦火に埋もれかけた小品を敗戦後すぐにまとめた、それは簡素で
美しい書物でした。
そのなかの小説は諳んじるほど好きだったのですが
とりわけ野の仏を描いた『樹下』という小品と、大和路に早春をたずねた
『浄瑠璃寺の春』が好きでした。
作者は昭和17年の4月に、大和路の ちいさな山門のかたわらに、
咲きこぼれるような花あしびをたずねています。
雪ふる町にうまれたわたしは馬酔木(あしび)を知らずに育ちました。
しかしその潅木が、かおりたつ早春の風のなかに、ちいさなしろい花を
ふさふさとつけることを、まるで夢のように描いていました。
ずっとこのひとの作品を読みつづけた訳ではありません。
忙しい時代のなかで、ひとなみに慌ただしく生きてきました。そして最近
いくつかの偶然がかさなって、なつかしい『花あしび』を手に入れました。
やはりちいさくて、あえかな風情のまま、その書物はひょっこりと
やってきました。
そして、偶然はかさなるものです……。
堀辰雄の奥さま、堀多恵夫人に会うことになりました。
余談めいたことになります……。父はよほどこの作家が
好きだったのでしょうか。ほとんどの作品を初版でもっていました。
あらためてみると、江川本・野田本といった、好事家垂涎のものもあります。
いちおうわたしもその書架にはずっと接していたわけですが
どういうわけか、わたしは『花あしび』の和様をこなしたあえかさを
書物の美しさのはじめと意識していたようです。
まして『樹下』に描かれた、あどけない野の仏やあしびの花が
尽きせぬ興趣をさそったのです。
悪い癖なのかもしれません。わたしはモノにつよい興味をもつと
それをつくったヒトや、それをうみだしたバショをみたくなる癖があります。
そしていま、あまりに美しい堀辰雄の書物たちが
その対象のひとつになりかけているのです。いえ、もうそのとば口に
立ってさえいるのです。
堀多恵夫人は、わたしの裡ではながいこと、小首をかしげて
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花 ? 」……と、あどけなく問う
うつつのひとでした。コロコロとよく笑われるひとでした。
相当のご高齢ですが、自ら車でどこにでもお出かけになる活発なかたです。
そしてふたりが愛した、信濃追分のあかるい林のなかに、すがすがしく
ひとりでお住まいになっています。
浅間の焼石を無雑作に積みかさねた門標に
ただ「堀」とだけしるされた標札をみつけたときのよろこびは
たとえようもありません。
それからの堀邸の客間と居間での数時間は、なにを伺い、なにを話し
なにを拝見したのか、夢うつつのまま、さだかではありません。
「主人はね、胸さえ患っていなかったら、自分で出版社をやりたいって
いっていたのよ」
客間の暖炉をかこむ書架には、新潮社や角川といった大手版元の
単行本や全集が、整然とならんでいます。
しかし、居間のちいさな書架には
青磁社、甲鳥書林、養徳社、江川書房、野田書房といった
ちいさな版元の書物が、たいせつに保たれていました。
堀辰雄の美しい書物は、こうした名もないちいさな版元からの
刊行物に 集中しています。
そうした版元の編集者は、このあかるい林のなかに
作者をたずね、作品を語り、書物のありようを語って
夜がしらむこともたびたびだったといいます。
そしておのずから、よき感化をうけて、かくも哀しいまでに美しい書物を
作家と編集者の協同作業として残したのでしょうか……。
『花あしび』は、終戦直前に製本までいった刷本を、戦火のなかにうしない
幸いに焼亡を免れた紙型をもとに戦後すぐに刊行された書物です。
この病弱な作者の作品では 後期に位置づけられる作品といえるでしょう。
この国の教養人のつねとして、最初は西洋知からその道を歩みがちです。
堀辰雄にもそうしたありようがうかがえます。
その結果として、昭和初期の江川書房や野田書房の書物には
いささか肩に力のはいった、未消化な生硬さが装本にもにじんでいます。
それが『斑雪』『橇の上にて』『信濃路』にみられるように
きびしい自然と病魔とのたたかいをへて、この国の古代のなかから
あかるい春をたたえるよろこびを発見した、堀辰雄のすみきった境地が
『花あしび』には横溢しているようにおもえるのです。
ところで、いつの間にかわたしは、堀辰雄が逝った年齢を越えました。
あどけない憧憬者の群には、とうてい身を置けない年でもあります。
ましてや、小なりとはいえ出版社の看板を掲げてもいます。
つまり書物の作り手として、江川・野田なにするものぞ……
というひそかな対抗心もあり、かなうはずもない……という
あきらめもあります。
しかし、荒廃したかにみえるこの国の読書人にも
まだ熱く書物のありようを語る、埋み火のようなこころざしがあることも
知っています。こうした読者がいるかぎり、せめてわたし自身
もういちど一途な少年のこころに立ち戻って、好きな作家のことばを
よき書物という形に、再生してみたいのです。
堀辰雄は、この国の情景をあまりにも美しくしるしました。
しかし、ときうつり、花かわるように、書物も永遠のものではありません。
書物にも、時代のこころと、美しい衣装をまとわせて
再生させてあげることが必要なときがあります。
そしていま、無謀とそしられるかもしれない、その再生のとば口に
わたしはこころぼそく立っています……。
「あのね、いまの編集者は意気地なしなのよ。もっと大胆にやって。
堀もよろこぶと思うわ……。」
堀多恵夫人の声は、あかるくはなやいで、なさけ容赦もありません。
朗文堂愛着版『花あしび』は、多くの愛読家の皆さまにご支持いただき、いよいよ〈在庫僅少〉という状況になりました。書物をとりまく環境が悪化しつつある現在、〈朗文堂愛着版〉で掲げたこころざしは、いまは埋み火のようにたいせつにしまっておいて、皆さまのかわらぬご愛読、ご支持だけをたよりに、これからも優良図書の刊行にあたってまいります。
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