ROBUNDO We love Typography

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thoughts on typography

タイポグラフィ 格言集


THOUGHTS ON TYPOGRAPHY

タイポグラフィ 格言集

なにかの気迷いが生じたとき、あるいは目的が見えにくくなったとき、

たったひとつのことばが勇気を与えることがあります。


よみびとしらず

弘法、筆を択ばず

されど

弘法、活字を選ぶ

わが国の三筆とされ、すぐれた能書家だった弘法大師空海は、筆のよしあしを択ばず、いつもりっぱな文字を書いていたとされる。されど、されど……、弘法大師ならぬ凡人にとっての活字とは、たとえそれが金属活字であろうと、写植活字であろうと、電子活字であろうと、中古は中古でしかなく、それをもってよい印刷物などはできるはずもない。ましてや海賊版電子活字をもってをや。

THE LOVE OF BOOKS

Old English Song

Oh for a booke and a shady nooke

Either in doore or out,

With the greene leaves whispering overhead,

Or the streete cryes all about;

Where I maie reade all at my ease,

Both of the newe and old,

For a jollie goode booke whereon to looke

Is better to me than golde.

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書物讃歌

イギリスの古歌より

読書のためには 陽のあたらぬ片隅で良い

屋内であろうと 屋外であろうと

緑なす木の葉が 頭上でささやこうとも

たとえ 街頭の雑踏のなかであろうとも

新刊書でも古典書でも良い

くつろいで読書に耽れるところで

愉悦をもたらす良書とは

黄金より 良きものである

タイポグラフィにつながることば

河野三男しるす

世阿弥(『花鏡』より)

舞に、目前心後と云事あり。「目を前に見て、心を後に置け」となり。(中略)

見所より見る所の風姿は、我が離見也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、即、見所同心の見なり。其時は、我姿を見得する也。我姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれ共、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまえず。

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(舞において、目前心後ということがある。「目は前方を向いているが、心は自分の後ろにおけ」ということだ。

 観客席から見られている自分の姿は、離れて人から見られている自分の姿、つまり離見なのだ。これに対して、自分の目でみようとする意識は我見である。それは離見で見ているのではない。離見で見ているとうことは、観客と同じ意識で見るということである。このとき自分のほんとうの姿がわかるのだ。その位に達すれば、目を正面に向けていながら、目を動かすことなく意識を左右前後に向けることができる、つまり自由自在に自分を見ることもできるのだ。しかし、多くの役者は目を前にすえて、左右を見ることはできても、自分の後姿まで見ることができる段階には達していない。自分の後ろ姿を知らなければ、身体の俗の部分は自覚できないのだ。解釈/梅若猶彦『能楽への招待』)

[蛇足のひとこと]

つまりは、広角的なパースペクティヴが重要性だということでしょう。

松尾芭蕉(出典不明)(芥川龍之介『芭蕉雑記』1923, 24

装丁

 芭蕉は俳書を上梓する上にも、いろいろ註文を持っていたらしい。たとえば本文の書きざまにはこういう言葉を洩らしている。

「書きやうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿蓑』能書なり。されども今すこし大なり。作者の名大にて、いやしく見え侍る。」

 また、勝峰晋風氏の教えによれば、俳書の装丁も芭蕉以前は華美を好んだのにもかかわらず、芭蕉以後は簡素の中に寂を尊んだということである。芭蕉も今日に生まれたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布は木綿にするとか、考案を凝らしたことであろう。あるいはまたウイリアム・モリスのように、ペエトロン杉風にも相談の上に、Typography に新意を出したかも知れぬ。

[蛇足のひとこと]

芥川がタイポグラフィということばを知っていて用いたことに驚きましたが、かれは東大の卒論でウィリアム・モリスのことを書くつもりだったそうです。なるほど。日本人でタイポグラフィということばを公けにしたのは、芥川が初めてではないでしょうか。芭蕉のことばは、まさにタイポグラフィの核心を突いています。脱帽。

フランシス・メイネル(出典不明)(ジョン・ドレイファス『ザ・ナンサッチ・プレス』)

私のいう可読性とは、秩序についての原理と、テキストによる意思の伝達を基とする慣習について、果てしのないほどの細々とした事柄の調整を全うすることだ。印刷とはそのようにして伝える乗り物だ。つまり、可読性とは十分に油を注がれたベアリングのことで、意味という車輪をギーギーという音を立てずに回転させるものだ。

[蛇足のひとこと]

これぞ至言ではないでしょうか。上手なたとえです。フランシス・メイネルという人物は優れたタイポグラファで、若き日のスタンリー・モリスンのタイポグラフィ観に大きな影響を与えたよき友人でした。

優れた活字書体とは(私の勝手な見解ですが……

1. 意匠(デザイン)の様式に調和と一貫性があること。

2. フォント内の文字の形象に調和があること。

3. 新しさがある一方で、視覚の馴致を誘うこと。

4. 個々の文字どおしの判別性が高いこと。

5. 単語や文章としての姿が明瞭で可読性が高いこと。

6. 組版表情(テクスチュア)に乱れがないこと。

7. 普遍性と共時代性が並存すること(不易と流行があること)。

よみびとしらず

何の行為であっても、それが時代から二歩以上前に進んでいると

社会は追いつけず、理解もできないから

時として変人、奇行扱いされかねない。

ところがそれが

時代の風潮から半歩か一歩程度前に進んでいると、

時代の先端として絶賛をあびることになる。

オトル アイヒャー タイポグラファと「ホモ ポリティクス」

3 回小さな勉強会 2008 2 23

講演者:ペートラ シッファート 主催:朗文堂 新宿私塾 後援:タイポグラフィ学会

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オトル アイヒャーによる

タイポグラフィとタイポグラファへの要求

タイポグラフィとは何か?

技芸(手工芸)である。

  • 伝達のためのものである。

  • 読むためのものである。

  • 民主(大衆)的である。

それは

タイポグラフィではない

  • アートや芸術ではない。

  • 内容を自己表現や遊びのきっかけにしてはいけない。

  • タイポグラフィはタイポグラフィの目的ではない。

  • 権力の宣伝や権力の表現であってはならない。

タイポグラフィが

目標とすること

  • コミュニケーションを可能にする。

  • 文章を読みやすくする。

  • 内容への関心を引き出す。

  • 内容を伝達するためのもっとも良い形をみつける。

  • 条件に応じ、可能な範囲で、効率的で最適な結果をめざす。

タイポグラフィの

目標には当たらないこと

  • 内容を過剰な組み方で表してはならない。

  • 内容を勝手に解釈してはならない。

  • 表層的な形を作ってはならない。

  • (伝達内容を阻害する)

  •  絶対的な真実を目指そうとしてはならない

  • (絶対的な解決はない)

それを実現する方法とは

技芸のルール、つまり「組版ルール」や「言語の意味や文法上のルール」(意味論、統語論)に従った上で「コミュニケーションのための記号文化」を構築すること(「記号文化」は「文字を含む視覚伝達の文化」の意味)

  • 明瞭な言語、つまり正確で、適切で、説得力のある、

     理解しやすい言語を用いること。

使ってはいけない方法とは

  • 内容や文章を変質させたり、高級化させたり、神聖化させたり、

     内容を意識させないようにしてはいけない。

  • 内容より外観が優先されると、改竄(かいざん)は常に存在する。

Jan Tschichold

The allure of the handmade

For the worker, machine production has meant a heavy, almost deadly less in the value of experience, and it is entirely wrong to put it on a pedestal.

That it is 'modern' is by no means the same as saying that it has value or that it is good; much more is it evil.

ヤン・チヒョルト

手造りの魅力

印刷者にとって産業主義がもたらした意味は重かった。それは「台座」の上に鎮座しているようなものではなく、体験に基づく職能という価値をほとんど死に追いやった。すなわち「近代的」であることとは、それに価値があったり、良いことだというわけではない。それよりもずっと不幸なことである。

Mike HudsonWayzgoose Press

Establishing conventions

We don't inhabit the twenty-first century, nor, for that matter, the fifteenth or the second. We live in the bits that interest us.

マイク・ハドソン Wayzgoose Press

協定の確立

我々は21世紀に居住しているわけではない。それだけではなく、15-16世紀といった印刷の揺籃期に居るわけでもない。我々は2進数のビットという興味深い世界にいるのである。

よみびとしらず

タイポグラフィ Typography

タイポグラフィとは、活字を用いて書物を造ることであり、平仄をあわせると書籍形成法となる。タイポグラフィは当然、実技・実践をその主要基盤とする技芸であるが、同時にまた、古書体学 Paleography、書誌学 Bibliography、碑銘学 Epigraphy、カリグラフィ Calligraphy、碑碣学・刊本学などの補助学問を擁するタイポグラフィ工学という名の学問であり、美の領域を擁するがゆえに、芸術の一分野でもある。

Josef Mueller-Brockmann

一民族の創造および精神力が頂点をきわめるのは、活字においてである。思考と観念がまとまったうつわを見いだすのが活字なのである。……タイポグラフィを実験的に、あるいは遊戯的に展開する傾向は、20 世紀の初頭から視覚的なセンセーションとして、何回となくくりかえしあらわれては消えていった。……倫理的な基礎による職業把握がある場合にのみ、活字の美しさがデザイナーにひらけてくるのであり、含蓄のある仕事のよろこびがあたえられ、不撓不屈の探求者の青春を維持させ、そして発見者のたのしみを体験することができるのである。

Beatrice Warde (Paul Beaujon)

ここは印刷所なり!

文明の十字街頭にして

芸術のこもれるところ

時の浸食にめげず

真実の剣が安置されるところ

風聞や浮説にくみせず

機械はうねりをあげる

ここよりひろくことばは飛翔して

電波のように浪費されることもなく

物書きの気ままに左右されることもなく

刷りをかさねて明瞭となり

時空を超えてとどまる

友よ! 君は聖地に足をふみいれた

ここは印刷所なり!

よみびとしらず

時代によって条件づけられたさまざまな制約のなかで、文明としての活字書体の制作と、文化としての文字の歴史とのせめぎあいの痕跡をきざんでいるのが、書籍形成法すなわちタイポグラフィの面白さです。

その意味で活字とは融和のはざまにあって、文明と文化がするどく対立して、まさに火花をちらす現場そのものとなります。そこには文字によって世に問うこころざしを、書籍におさめる行為をつうじて、書籍形成法というタイポグラフィの技芸が凝縮する瞬間が存在します。

技術はその誕生から成熟・衰退にいたる過程で、あらたな技術にとってかわるべき「踊り場現象」を経験します。そこではいたずらな伝統重視の視点や、新興技術信奉は危険でしかありません。そしてそのふたつの融和のための妥協は、技術に依存するがゆえにタイポグラフィの宿命ともいえるのです。時代とは、そのときを生きるすべての人にとって混沌としています。ですから勇気をもって時代と関わることがタイポグラファのつとめなのです。

Baumann & Baumann

視覚表現の「小説家」であることを、わたしたちは自分の役割だとかんがえています。わたしたちの目的と楽しみは、まるではなしことばや、書きことばのような視覚言語で表現して、最小限のエレメントで、最大限の構成をし、そこに余裕と可能性をあたえる視覚言語をつくりだすことです。あるいはそれを発見したり、獲得することともいえるでしょう。

拠ってたつところ、すなわちアイデンティティをひきよせるのが目的であって、イメージを形づくるのが目的ではありません。 巧妙で空疎なことばよりも、dialogue(対話)への案内役として、コミュニケーションの道具としての構成と、グラフィックをつくりだすことが、わたしたちの目標です。

Hermann Zapf

おそらく未来の活字とは、過去の活字にあった歴史の痕跡としてのスタイルを徐々にはぎとるであろう。しかし幾何学的で抽象的な文字のフォルムに幻惑されてはならない。なぜならば文字のイメージが電子読取り機ではなくて、もっぱら人の眼によってとらえられているかぎり、視覚の必要条件にはまったく変化がないからである。

Emil Ruder

タイポグラフィには文書による伝達という明白な目的が義務付けられている。どんな理論も特殊な場合でも、タイポグラフィをこの義務から解放することはできない。読めない印刷物は無意味な製品となる。

Herbert Spencer

デザイナーや印刷人のなかにまれに読みやすさの研究をさけるものがいる。彼らは可読性の探求を自由な創作への束縛の前兆と捉えているのかもしれない。しかしタイポグラフィとは目的を達成する手段であり、タイポグラフィ自身が目的ではない。むしろかれらは実を結ばない変革に骨身を削るより、タイポグラフィの本道に立ち返って可読性の探求にいそしむことによって、多くの束縛から解放されて、その持てるエネルギーを創造力に振り向けることができるのだ。

Peter Behrens

活字にあらわれたスタイルは、時代のスタイルをもっともうまく表現している。建築についで活字とは、時代をもっとも写し取っているし、その国民の知的評価にたいして、もっとも厳しい審判を与えるものである。

Stanley Morison

タイポグラフィの目的は人間のための量産である。書かれたものとしてのテキストが、人間の知的手段に関わるべきであるのと同時に、印刷されたものとしてのテキストは、人間の経済上の手段につながるべきである。タイポグラフィがはたすべきこの本質的な役割は、ウィリアム・モリスが単に商業主義に媚へつらうものとしてあざわらったものである。

Breadbury Thompson

タイポグラフィのおもしろさは不変である。それは真面目で役にたつ道具であり、メッセージを伝えるためであり、品物を売るためであり、思想に命を与えるためのものでもある。文字や数字を使って新鮮なデザインやアイディアを生み出すことはおもしろい。活字はまた哲学的な愉しみにいざなう。一貫性のある論理をタイポグラフィのなかに見つけることもできる。それらはまま伝統的であるがゆえに正しいとされるが、過ちや誤解も含まれていることがある。その理由を思案したり、改善策を勧めることもおもしろい。

絵画や建築・文学のような芸術にしても、政治やビジネスでさえ、タイポグラフィのおもしろさに比べたらたいしたものではない。それらはことばで語られ、活字によって綴られるからである。

R.Hunter Middleton

タイポグラフィとは印刷されたページの声である。タイポグラフィは人の眼で見られ、人の頭で音になおされ、人の耳できかれ、記憶と同じように考えられて、そして理解され蓄積されるものである。

Aaron Burns

タイポグラフィにあっては機能こそがもっとも重要である。フォルムはそれに次ぎ、そしてファッションはほとんど無意味である。

El Lissitzky

タイポグラフィの構造とは聞き手に伝えている声の調子を、視覚によって読者に伝えることである。

Beatrice Warde

活字とは本来目立ってはいけないものである。うまく使われれば使われるほど活字は眼につかなくなる。心の眼は活字を通じて背後のことばに焦点をあわせるので、活字には本来焦点は結ばないものである。そのためデザインの過剰な活字や、伝達に関わる心の映像を邪魔するものは何でも悪い活字である。

Volmer Nordlund

タイポグラフィの根底はメッセンジャーに徹することである。それは一個人の考えを他の多くの人に伝えるためであり、読みやすさと調和は基本的な必須条件である。

Piet Zwart

タイポグラファにとっては、おもしろくない活字ほど有益である。

Jan Tschichold

「個性的な創作書体」とはいっても、じつはその根底には常に古典書体からのデフォルメ(変形)が潜んでいます。そしていかなる時代のいかなる書体も、オリジナルを越えることは困難です。たいていの場合は、粗くなったり、ぶざまで不恰好なデフォルメの結果でしかありません。「個性的な創作」とはつまりそういうことなのです。

書体は使用されます。書体は読まれます。読解不能な書体は必要ありません。読解がむずかしい書体はわるい書体です。読みやすい書体だけが書体本来の目的にかなっています。 しかし読みやすいだけの書体は美しいとはかぎりません。わたしたちは美しいものに囲まれることを好みます。美しくて高貴な書体との出会いはそれだけでうれしいものです。これは書体を造ったり使ったりする、すべての人の崇高なる使命です。わたしたちの読書生活や環境を、美しい文字や書体で飾ることは使命なのです。

Adrian Frutiger

—— ところで……わたしは一九五四年にプレジデントという大文字だけの活字をつくっています。そしてメリディエン、ユニバースと見ていくとお分りいただけると思うのですが……わたしの活字の骨格はひとつだけです。

ヘルマン・ツァップ氏はカリグラフィの人です。ですからツァップ氏は活字の流れを重視します。そして手の動きはひとつですが骨格は様々です。

わたしはもともとグレーバー(彫刻士)ですし、活字の骨格はひとつだけです。

メリディエンは金属活字のために造った活字ですが……長い文章、読書用にはセリフのあるメリディエンがいいと思うのです……つまり読書をする人は森のなかを散歩するように、あるいは森を通り抜けるように活字と接します。したがって活字を造る、書体を制作するということは、たんなる技術ではなくて、もっと大きな人生そのものなのです。

わたしの人生にとって重要なのはローマン体です。ルネサンスのヒューマニストの考えは、わたしの考えです。とりわけニコラ・ジェンソンはわたしの師匠です。ジェンソンの精神はわたしの精神です。ジェンソンのスピリットはわたしのスピリットなのです ——

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