コラム No.006
気がつけば、もう 7 月、七夕もすぎ、はやくも 1 年間の後半戦にはいりました。時のたつのが早く感じられるこのごろです。魅力的な展覧会・展示会・コンサート・講演会などのイベントなどが目白押しの首都・東京にあっては、とかく情報洪水に翻弄されがちです。ですからできるだけ出不精を決めこんでいますが……。
そんななか、寸暇をぬすんで本郷弥生町の「立原道造記念館 立原道造の世界 III (3)」に出かけました。思うことの多い一日となりました。とりわけ同館が入手した新資料『月曜』を興味深く見ることができました。
注目すべき詩誌『月曜』に関しては、高橋輝次氏の Website「古書往来」も参考にしながらご紹介しましょう。『月曜』は主に滋賀県で活躍した井上多喜三郎が発行した詩誌で、創刊号は昭和 7 年 6 月の刊行です。高橋氏によると「約 20 センチ四方の黒い紙表紙で、頁はわずか 12 だが、そこには貝殻のような手触りの、白いアートペーパーが用いられている」としるされ、「装幀は井上多喜三郎、扉絵が天野隆一、カットは六條篤であった」としています。この第 1 次『月曜』は昭和 9 年 2 月に第 9 号の発行までをみたようです。
その後しばらく中断があって、第 2 次『月曜』は昭和 12 年 11 月から刊行されました。それに際して、井上多喜三郎は寄稿依頼の書状を立原道造に送っています。その往復書簡のうち、立原道造から井上多喜三郎に宛てた昭和 13 年の 2 通のはがきが、今回関係者から同館に寄贈され、初公開となったものでした。
このとき、すでに詩人にして造形家・建築家/立原道造は、宿阿の結核が重篤で、翌 14 年にはそのあまりに若い人生の幕を 24 歳にしてとじてしまうのです。
公開された 2 通のはがきは、病床にありながらも、いかにも立原らしい端正な筆致で書かれていて胸をうちました。わたしはそれをみながら、
「もし、立原の病床が急速に悪化しなかったとしても、この感性ゆたかな詩人は、アートペーパーで印刷される『月曜』には寄稿することはなかったのではなかろうか」
とボンヤリと考えていました。
立原道造記念館のご好意で、全文を提供していただきましたので、画像とあわせて紹介しましょう。
〔立原道造(井上多喜三郎宛て)書簡 2 通〕
第 1 信
消印・昭和 13 年 5 月 7 日
絵はがき(少年イエス ホフマン画 1824 — 1911 独)使用
滋賀県蒲生郡老蘇村字西老蘇
井上多喜三郎樣
親展
雑誌・月曜ありがたうございます
たいへんに白く 甘いにほひのする
アートペーパーは 僕の夜にふつり
あひな明るさなので めんくらひました
あなたが寅年生れならば 僕も
五黄の寅なのでした いろいろなこ
とをおもひつつ 頁を繰り あわただ
しくお礼をしたためました 立原道造
お身体をお大切に ─
五月六日午后十一時半
(削除箇所)こゆるりとおよみ下さい
第 2 信
消印・昭和 13 年 6 月 23 日
郵便往復はがき(返信)
滋賀県蒲生郡老蘇村字西老蘇
井上多喜三郎樣
親展
立原道造
月曜 4 ありがとうございます
たいへんに 白く きれいな雑誌です
アートペーパーのにほひは なにかしら 僕に
古い記憶を呼びさまします 人たちが
ガラスや 鋼鉄や ネジや 鳩に 熱狂した
新鮮さを感じた日々の記憶です
人間が 何物かのまへで 自分を放棄し
ようとした日々の記憶です だが 月曜は
このようなところから もっと深く行くでせう
立原道造記念館が所蔵する『月曜』は第 2 次 5 号( 1938 年 10 月 3 日)だけなので、ふたたび高橋輝次氏の資料を参考にしましょう。すなわち第 2 信に出てくる「鳩」は、前述の「古書往来 38 」によると、『月曜 3 号』に六條の「朝」という題名の詩があり、
「六條は『朝・ボクハ天使タチニ餌ヲ与ヘル/うんこヲスル天使タチ』」
としています。それをうけ、詩人流にひめやかに「鳩」の詩「朝」を揶揄したのではないでしょうか。
つまり、第 1 信は原稿依頼をやんわりと断ったものであり、その意中が井上多喜三郎に伝わらないことを危惧して「こゆるりとおよみ下さい」としるした……。しかしその一文は井上を傷つけることをおそれ、「午后十一時半」という深夜にいたって削除したのではないでしょうか。
はたして、井上は立原の原稿をあきらめきれず、さらに懇願する書状を出したのかもしれません。想像をたくましくすると、立原はそれを放置したため、その 1 月半後に「往復はがき」を送ってまで立原に返信を迫ったのではないでしょうか。それを受け取った立原は、
「あぁ、やはり真意をわかってくれなかったな……」
という軽い失望があったのではないでしょうか。ですから第 1 信を補完するために、幾分ことばは圭角を帯びています。それでも、結びには、いかにもこの詩人らしく「だが、月曜は そのやうなところから もっと深く 行くでせう」としました。
この一見蛇足ともみえる一文も、深く読むと詩人らしい含意がくみ取れます。
そのようなところ ─── それはどこか ?
もっと深く ────── 現状の『月曜』は浅いのか ?
ところで、この 2 通のはがきに共通する語は「アートペーパー」です。
第 1 信
たいへんに白く 甘いにほひのする
アートペーパーは 僕の夜にふつり
あひな明るさなので めんくらひました
第 2 信
アートペーパーのにほひは なにかしら 僕に
古い記憶を呼びさまします
そして、第 2 信では、これに続いて立原の「古い記憶」が峻厳にかたられます。
人たちが
ガラスや 鋼鉄や ネジや 鳩に 熱狂した
新鮮さを感じた日々の記憶です
アートペーパー(コーテッド紙)から導きだされた「人間が 何物かのまへで 自分を放棄しようとした日々の記憶」という一文がきわめて強くひびきます。
この「何物か」は前文を受けたもので、「ガラス・鋼鉄・ネジ」であり、「ガラス・鋼鉄・ネジに熱狂し、新鮮さを感じるひとびと」が「自分を放棄しようとした日々」に連なっています。「ガラス・鋼鉄・ネジ」からは「硬質感・機械化・産業主義・近代主義・モダニズム」などのことばがみちびきだされそうです。
どうやら詩人はこうしたものを忌避したと読みとれます。そして、「硬質感・機械化・産業主義・近代主義・モダニズム」に翻弄されて「自分を放棄」することを怖れたのではないでしょうか……。その象徴が「アートペーパー」だとすると、全体の文意が通ってきます。
もともと詩人はカステル社のパステルをもっとも好み、その淡い発色を巧みに用いて、多くの絵画をのこしています。また、これもやはりカステル社の色鉛筆セットの遺品も、パステル・セットとともに立原道造記念館に現存しています。詩人は色鉛筆ではもっとも緑色を好んで用い、多くの書簡をのこしています。
こうした鋭敏な感性の詩人が、活字書体とその印刷に異常にこだわったことは既述しました(『国文学の解釈と鑑賞』)。そして今回は、夭逝したこの感性豊かな詩人が、印刷用紙とその発色につよいこだわりを持っていたことを再発見しました。
つまり改めて詩人がのこした膨大な作品をみると、その素材のすみずみまで鋭い選択眼が光っていたことを再認識させられます。要するに、詩人は「アートペーパー」は用いていなかったのです。
周知のように、チャールズ・チャップリン( Charles Chaplin 1889 — 1977 )が『モダン・タイムス』を発表し、機械文明やその製品に疑問をなげかけ、当時の西欧社会の不平等への怒りを、哀調をたたえた滑稽なしぐさで表現し、労働の喜びと人間讃歌を映像にしたのは 1936 年のことでした。また、詩人のはがきは 1938 年 5 — 6 月のことでした。
「僕に古い記憶を呼びさまします」
とした詩人は、この無声映画をみていたのでしょうか……。
おそらく詩人は「アートペーパー」に工業製品に独特の「異臭」を感じ、謙虚にそして峻厳に寄稿を拒否したのではないでしょうか。
ところで、現在の電子機器はチャップリンの危惧をはるかに超えた領域に踏みこんでいます。例えば高性能のハイコントラスト液晶モニターは、コントラスト比が 800 : 1 であり、表示色は 1,677 万色を表示します。かつて詩人が愛したパステルは 24 色セットでした……。
そしてコンピュータ・プリンターからはきだされるプリンター用紙は、高度に漂白され、青白い発色をひめた「スーパー・ファイン紙」などが造形者の一部からは好まれています。そこに「プリント」された電子活字は、青白色の地色と、黒いトナーの対比があまりに強く、鋭く視覚に突き刺さってみえます……。
そんな思いにかられながら、夕陽をあびる立原道造記念館をあとにしました。
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