《明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域 三島毅・石黒忠悳の撰文、吉田晩稼の書》
戸塚文海をはじめとする戸塚家の塋域はひろく、東京谷中天王寺墓地にある。
天王寺(てんのうじ 天台宗 護国山尊重院天王寺 台東区谷中七-一四-八)の創建はふるく、一二七四(文永一一)年の創建である。
はじめ「長耀山感応寺」と称した日蓮宗の寺院で、徳川家光と春日局の外護を受け、寺領二万九千六百九十坪、多くの塔頭を有する名刹であって、一六四四(寛永二一)年に寺領の一画に五重塔を建立した。 その後、この寺と五重塔はさまざまな変転をへてきた。
一六九八(元禄一一)年江戸幕府の命によって天台宗に改宗し、その三年後、いわゆる振り袖火事-明和の大火によって五重塔が焼失した。
塔は一七九一(寛政三)年に近江出身で湯島の大工・八田清兵衛が再建し、くだって一九〇八(明治四一)年に東京市に寄贈された。
この五重塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった東京名所のひとつで、武蔵野丘陵東端の高台を占める谷中霊園のシンボルになっていた。
幸田露伴 『五重塔』 青空文庫+『五重塔』(岩波書店 昭和23)を底本として参考組版
使用デジタルタイプ : イワタ弘道軒清朝体複刻版 「々 漢音繰り返し」、「〻 訓音繰り返し」
〔 『五重塔』参考組版 PDF gojyuunotou 〕
その後この五重塔は、関東大震災と太平洋戦争の厄災にもよく耐えてきた。したがって平野富二の墓も、これから述べる戸塚文海の墓も、この谷中五重塔をおおきくふり仰ぐような位置に設けられていたことになる。
ところが一九五七(昭和三二)年七月六日早朝、放火心中事件によって心柱をのぞいて谷中五重塔は焼失をみた。焼失後に焼け跡の心柱付近から、男女の区別も付かないほど焼損した焼死体二体が発見された。わずかに残された遺留品から、ふたりは都内の裁縫店に勤務していた四八歳の男性と二一歳の女性であることが判明した。
現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬が残されており、不倫関係の清算をはかるために焼身自殺を図ったことがわかった。
現在は谷中霊園内、いわゆる碑文通り交番の裏手に礎石だけが保存され、ちいさな公園となっている。
寺号も一八三三(天保四)年護国山天王寺と改称され、一八六八(慶応四)年彰義隊と新政府軍の兵火によって、本坊と五重塔をのぞく多くの塔頭が焼失した。
その後一八七四(明治七)年に寺域の大半を東京府に移管して谷中霊園が成立した。
さらに第二次世界大戦の末期、上野駅と鉄道線路付近に投下された米軍機の焼夷弾によって、寺域の相当部分に火焔がおよび、また周辺の谷中霊園東端に面した「平野富二墓標」をはじめ、墓地の損害もおおきかった。
現在の天王寺は、谷中霊園から日暮里駅およびその跨線橋にくだる坂の中途にあり、山門内におおきな「釈迦如来座像」がのぞめ、夜には座像がライトアップされて独自の景観を呈している。
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ところで戸塚文海は、海軍軍医総監(海軍少将に相当した)、共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)の共同設立などの維新後の活動より、維新史のなかではむしろ旧幕臣のひととされ、なかんづく徳川慶喜の侍医の存在としての評価がおおきく、意外なほど資料が少ないひとである。
ここではまず簡略に、『日本人名大辞典』(講談社)から、戸塚文海と、その後輩にあたる高木兼寛を紹介する。 【戸塚文海】(とつか-ぶんかい 1835-1901)
幕末-明治時代の蘭方医。 天保六年九月三日生まれ。
戸塚静海(とつか‐せいかい 江戸末期の蘭方医。本名維泰、静海は通称。遠江国〔静岡県〕のひと。シーボルトらに蘭医学を学び、幕府奥医師となり法印に叙せられた 1799-1876)の養子となる。
緒方洪庵、坪井信道、のち長崎で蘭医のボードインに師事し、徳川慶喜の侍医となる。 明治五年海軍省にはいり、九年軍医総監、一〇年初代医務局長。退官後に高木兼寛(たかき-かねひろ)らとともに共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)を設立した。
明治三四年九月九日卒、享年六七。備中〔岡山県倉敷市〕出身。本姓は中桐、名は正孝。
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【高木兼寛】(たかき-かねひろ 1849-1920)
明治-大正時代の医学者。 嘉永二年九月一五日生まれ。
鹿児島で西洋医学をまなび、明治五年海軍軍医。イギリスに留学、一八年海軍軍医総監となる。 脚気の栄養原因説を主張し、麦飯の採用など兵食の改善によって海軍の脚気を撲滅した。
成医会講習所(東京慈恵医大の前身)、有志共立東京病院、看護婦養成所を設立。日本最初の医学博士。
大正九年四月一三日卒、享年七二。日向(宮崎県)出身。幼名は藤四郎。号は穆園。
◎ 東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URLより)
・ 明治15年(1882年)8月 高木兼寛の主唱により、救療のための病院として賛同者の協力により有志共立東京病院開院
・ 明治18年(1885年)4月 有志共立東京病院に看護婦教育所を付設
・ 明治20年(1887年)4月 皇后陛下を総裁に迎え「慈恵」の名を賜り、有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称
・ 明治24年(1891年)2月 高木兼寛 個人経営の東京病院開設
・ 明治40年(1907年)7月 社団法人東京慈恵会設立、東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称。 同医院に附属医学専門学校及び附属看護婦教育所を置く
・ 大正9年(1920年)4月 高木兼寛逝去
《戸塚家塋域の海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘をみる》
東京谷中霊園におおきく囲まれるようにして「天王寺墓地」がある。現在では天王寺の飛び地のようにもみえるが、その歴史的な経緯は既述した。
その一隅に相当ひろい敷地を占める戸塚家墓地がある。
敷地は東西にながい長方形で、四方をかこまれた塋域を入って右側中央、南面して、冒頭写真で紹介した戸塚文海の墓がある。墓標正面には「海軍軍医総監従三位勲二等戸塚文海墓」と鐫せられている。
最奥部の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は東向きで、その方向はかつて天王寺五重塔があった方向にあたる。 自然石の台石の上に、大きな碑石の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」がある。
篆額は徳川家達により、「戸塚文海先生之碑」とある。
徳川家達(とくがわ-いえさと 1863-1940)は旧徳川将軍家第一六代当主、政治家。
三卿のひとつ田安家(徳川慶頼)の三男として生まれ、はじめ亀之助と称した。 一八六八(慶応四)年前将軍慶喜にかわり、かぞえて六歳の幼少ながら新政府から徳川宗家の相続を命ぜられ家達と改名。五月に駿河・遠江(静岡県)・三河(愛知県)七〇万石に転じ、翌年、版籍奉還により静岡藩藩知事となった。
一八七七(明治一〇)年から一八八二年までイギリス留学、一八八四年公爵となり、一八九〇年貴族院議員、一九〇三(明治三六)年同議長につき以後三〇年間同職にあった。また日本赤十字社社長、済生会会長などの名誉職に任じ、ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。
碑文をしるした(撰)のは、漢学者の「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」である。
三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)も旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、また重野安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。
この現代につらなる「漢語字典」の編纂事業が三島 毅のおおきな功績とされている。
《幕末-明治初期の英語辞書、国語辞書、漢字字書・漢和辞典の刊行》
江戸中期からポルトガル語・オランダ語の辞書が盛んにもたらされ、多くは写本であったが、一部は木版による翻刻本として刊行されていた。
江戸末期にいたり、にわかに英語の有益性が注目され、
・ 『英和対訳袖珍辞書』(わが国最初の活字版英語辞書、堀達之助、洋書調所・開成所刊、一八六二〔文久二〕)
・ 『和英語林集成』(ヘボン編纂、岸田吟香協力。上海で活字版印刷、和英辞典。一八六七〔慶応三〕)
・ 『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書、堀達之助『英和対訳袖珍辞書』を増訂し版を重ねた。薩摩学生:高橋新吉、前田献吉〔正毅〕、前田正名ら。上海で活字版印刷、一八六九〔明治二〕)などの英語辞書が陸続と刊行されていた。
鹿児島市 鹿児島県立図書館 正門前「薩摩辞書之碑」
以下「薩摩辞書」第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)
『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書)には、開成所版からの増補であることと、その底本が、アメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠としたものであることが明記されており、以下の三版が知られている。
◯ A 第一版
『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ 正月 千八百六十九年新鐫)。
鐫センは深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。和文序に 「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」 とある。
◯ B 第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)。
年月は旧暦/1871年-印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」 とある。扉ページの 「 大正 」 は、元号を意味するものでは無い。
◯ C 第三版
『 稟准 和譯英辞書 』 (明治六年十二月 紀元二千五百三十三年)。
年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所 : 東京新製活版所 天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。
同書の刊行にあたっては、薩摩藩士:五代友厚(才助)が大きく関係しており、上海美華書館に依頼して刊行した初版がきわめて好評で、利潤もおおきかったことにより、この再版以降の刊行事業を大阪でなそうとして、長崎の本木昌造らと計った。
本木はこれに応えて人員を大阪に派遣したが、当時の設備と技倆では成功をみなかった。つまり全面的に組みなおされた第二版も上海での組版・印刷・製本となっている。
その折りの五代から本木への貸付金、五千円と利息は、のちに平野富二が本木昌造にかわって返済にあたっている。
「文明開化」とはそういうものさ……、といわんばかりに、英語辞書の刊行が先行したかげで、近代「国語辞典」と「漢和辞典」の刊行はおおきく遅れた。
江戸期までは、まとまった「国語辞典」が編纂されていなかったため、『 ウェブスター大辞典 』などの評価のある底本をえなかった両辞典の編纂は難航をきわめた。
維新からまもなく、一八七一(明治四)文部省編輯寮において『語彙』と称した国語辞典の編纂がすすめられたが、「いろは順」にするか、「あいうえお順」にするかというテーマでも議論が沸騰するばかりで、ようやく「あいうえお順」の配列と決したが、ようやく「あ」行の「え」にいたったころに計画は頓挫した。
この失敗に鑑みて、文部省は文部省報告課に勤務していた大槻文彦(のち国語学者、一八四七-一九二八)に「国語辞典」の編輯を命じた。
文彦は編纂中に幼女と妻を相次いで失うなどしたが、ほぼ独力で『言海』と名づけた国語辞書の原稿を完成させた。ところが当時の文部省は資金不足が顕著で、しばらく「保管」としたため、ついに文彦は一八七一(明治二四)年に私費での刊行を実行した。
見落とされがちではあるが、文部省もこの大槻文彦の挙に際して座視したわけではなく、紙幣寮活版局をもって印刷にあたらしめ、近代辞書にもとめられる大量の諸約物をつくり、膨大な不足字種を新鋳造活字によって提供するなどの支援にあたっていた。
『言海』は本文一千ページ、三万九千語を収録する本格国語辞典として完成し、その後各社から刊行をみた「国語辞典」の形式を定めたものとして評価がたかい。
《おおきく遅れた『漢和辞書』の完成と開発者たち》
漢語の辞典は、江戸時代には中国の『玉篇』、『康煕字典』の翻刻本が盛んに発行されていた。当時の教養人は漢字と漢文の素養に長けていたので、もっぱら若干の注釈を加えた程度の翻刻本をそのままもちいていたが、近代英語辞書と国語辞書の発行に刺激されるところがあり、「漢文・漢字・漢語辞典」の発行がまたれる風潮があった。
中国最古の字書『説文解字』(後漢の許慎著)より <糸 ・ 糸編の字の一部>
『説文解字』(中国紫禁城図書館 黄山書社 2010年 宋版徐本の復刻本)
『干禄字書』(顔元孫編・顔真卿書、中国唐代、明治12年 東京柳心堂〔翻刻〕)
中国の「字書」として評価のたかい図書二冊を図版で紹介した。
『説文解字』(せつもん-かいじ)は中国最古の漢字字書である。もとは一五巻。後漢の許慎キョシンの著とつたえる。
漢字九千三百五十三字、異体字千百六十三字を五百四十部にわけて収め、漢字字画の構成および用法に関する六種の原則-すなわち、象形・指事・会意・形声・転注・仮借カシャの説によって、その字画・字音・字義を解説した書である。
『干禄字書』(かんろく-字書)は、中国の初唐の顔元孫の著による字書である。干禄とは禄を干(もと)めるの意で、官吏登用試験(科挙)受験者のためにつくられた実用的な字体字書である。およそ八百字を四声によって分類し、字ごとに正体・通体・俗体の三体をあげる。すなわち官吏たらんと欲するものは、通行体や俗体のような字をもちいず、正体をもちいるべきだとしている。
のちに顔玄孫の子孫にあたる顔真卿が清書して科挙の受験生らに公開され、それを木版にした刊本がこんにちでも伝承されている。
現代中国や台湾でも、この『説文解字』、『干録字書』の両書は再評価がすすみ、さまざまな類似図書が刊行されている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない漢字活字の開発と発展をまって、「漢語 ⇄ 和語 漢和辞典」をつくることができるようになった。
一九〇三(明治三六)年重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。
ほかに三島 毅が名をのこしたのは、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六である。 「昔夢会 せきむかい」とは、会主が元一橋家家臣:渋沢栄一で、徳川慶喜伝記編纂事業の一環として明治末期に慶喜の回顧談を聞き、あわせて史料整理をおこなうための会であった。
会員は慶喜のほか、旧幕臣・新村猛雄、老中板倉勝静の家臣だった三島 毅、老中稲葉正邦の子・稲葉正縄、旧桑名藩士・江間政発、伝記編纂主任・萩野由之および三上参次、小林庄次郎・藤井甚太郎・渡辺轍・井野辺茂雄・高田利吉などの名が記録されている。
「昔夢会 せきむかい」は、一九〇七(明治四〇)年七月-一九一三(大正二)年九月まで、二五回の会が催された。会の談話筆記記録は『昔夢会筆記』として、慶喜没後の大正四年に印刷に付せられたが、まだ世情をおもんぱかるところがあって、わずか二五部のみの印刷で、伝記編纂関係者に配布されただけにとどまったとされている。
いまは幕末史の研究資料として『東洋文庫』七六(平凡社)に所収されている。
《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘を読みとり、釈読する》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑は、故戸塚文海を顕彰した墓碑銘で、篆額を徳川家達がしるし、文章(撰)は三島 毅がしるし、書は長崎出身の書家 : 吉田晩稼によるものである。
古来中国には「碑碣学 ヒケツ ガク」とする学問がある。すなわち「碑 ヒ」は四角形の石で、「碣 ケツ」は円形の石の意であるが、転じて「碑碣学」は、石碑に刻されて後世にのこされた「いしぶみ研究」のことである。
「碑碣学」にあっては、石に刻し鐫せられたふみ-いしぶみを、ときに拓本術などをもちいて読みとり、それを解釈し、注釈を加え、公刊することが盛んである。
明治維新と、昭和中期の敗戦というおおきな価値観の変動があったわが国では、急速に漢文と漢字の素養に欠けるようになっている。また古文書はおもくみるふうがあるが、実際にはかくいう稿者をふくめ、江戸期通行体の「お家流の書」はもちろん、文書や碑石にのこされた漢文調の ふみ - おもいメッセージを読みとれなくなっている。
こうした風潮のなか、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑」を、ご自身で撮影した写真画像から、相当長文におよぶ一字一句を読みとり、それを解釈(釈読)されたのが古谷昌二氏である。
まだ未完成だとされるが、テキストをご提供いただいたのでここに紹介したい。
《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 紹介》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘
從二位勲四等侯爵徳川家達篆額
明治三十五年九月 東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰 吉田晩稼書
從二位勲四等侯爵徳川家達篆額
明治中興之初我中備起于布衣顯榮於朝者蓋三民儒學有田甕江洋學有原田一道而醫術則爲戸塚文海君諱正考字子成文海其通稱幼字幸吉號甕浦本姓中桐氏淺田郡王島邨人考諱吉右衛門號逸翁妣堀氏家素富饒至王父頗衰逸翁憂之鋭意恢復君年少發憤就鎌田玄渓阪谷朗盧讀書既而自奮曰區區治章句何足以興家濟世乃去修醫術適有示醫範提綱者乃歎曰學醫不當如此乎遂之福山就寺地船里學和蘭文典尋從遊緒方洪庵及郁造于大阪坪井信道于江戸日夕研瓚矻矻不已然學資不繼或爲食客或傭書攻苦百端業頗進林洞海嘉其爲人延監塾生萬延紀元幕府侍醫戸塚静海聞其才學請養爲嗣配以其女於是冒其姓改稱静泊時長崎或傳習所聘蘭人講習醫術文久二年君奉幕命抵長崎從學蘭醫之杜意武代松本良順幹所務當時物理化學二科未聞君建言起醫學校多聘海外名士購器械書冊資講究又用乏杜意武説購驗温器顕微鏡備究其用方蓋爲吾邦用此器之權興居工年業大進慶応三年爲幕府侍醫改稱文海時内外多事君直言抗論人多不及知明治之初 朝廷屡徴不應五年遂起補海軍省五等出仕無幾任海軍大醫監九年補海軍省四等出仕兼大醫監尋任總監叙正五位會有薩南之亂海軍衛生療養之制未備君拮据經營以濟之事乎以功叙勲二等賜旭日重洸章十六年辭職點茶聴香以消閑自號市隠庵既而叙從四位三十四年春病作 特旨叙正四位未數月陞從三位一歳兩叙蓋異數也遂以九月九日薨于東京距生天保六年九月三日享年六十有七
皇上哀悼賻素縑二匹賜祭粢金七百圓越三日用海軍喪命葬谷中之阡元配戸塚氏先亡無子繼配久保氏生六男二女長男曰悦太郎承家曰幸三殤曰文雄曰春海竝留學西洋曰幸民曰五郎別養林氏子豊策改名環海現爲海軍軍醫總監君爲人頎然長偉剛直有才辯畢生用力醫務徳川氏之未欲建一大病院于京師東西奔走垂成而會戊辰之變不果徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之君與林研海坪井信良等謀建病院于静岡且多養生徒俟其業略成分遣各地書士乃安而就之及官于朝亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院君平素遇門人親子不啻故其就病也遠近來問争之相看護云頃者文雄徴墓銘于余余學謭才劣固非三民之然以郷友之故往來親交誼亦不可辭
嗚呼余嚮嚮銘甕江今又銘君而一道與余皆老而病後誰銘余人者臨筆浩歎遂銘之曰
起身市衣 苦學辛勤 醫傳西術 仁及三軍
濟世志成 家門復興 後昆紹述 三折其肱
明治三十五年九月 東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰 吉田晩稼書
〈 海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 読み下し文 〉
明治中興の初、我が中備(備中国)、朝(朝廷)に於いて布衣・顕栄に起つ者は、蓋し三民。儒学に 田甕江 あり、洋学に 原田一道 あり、而して則ち医術は戸塚文海と為す。
君、諱は正考、字は子成。文海は其の通稱。幼字は幸吉、號は甕浦。本姓は中桐氏。淺田郡王島邨(=村)の人。考(=亡父)の諱は吉右衛門、號は逸翁。妣(=亡母)は堀氏。
田甕江 → 【川田甕江】(かわだ-おうこう 1830-96) 幕末・明治前期の漢学者。備中岡山の人。名は剛(たけし)。文章家として知られた。著書『文海指針』など。
【原田一道】(はらだ-いちどう 1830−1910) 幕末-明治時代の兵学者,軍人。備中岡山新田(鴨方)藩士。江戸で洋式兵学をおさめる。一八六三(文久三)年池田長発(ながおき)にしたがい、渡欧して兵書を収集・購入。のち兵学大学校教授、砲兵局長などをつとめ、明治一四年陸軍少将。貴族院議員。別名に駒之進、敬策。
家は素(=貧)しく、富饒、王に至る。父は頗ぶる衰う。逸翁、之れを憂いて、鋭意、恢復す
君は年少にして發憤し、鎌田玄渓・阪谷朗盧に就いて読書す。既にして自ら奮して曰く。區區に章句を治めるに、何ぞ興家濟世を以て足らんやと。
乃ち去りて医術を修む。適(=たまたま)医範提綱を示す者あり。乃ち歎いて曰く。医を学ぶは此の如く不当か。
遂に福山に之(=往)き、寺地船里に就いて和蘭文典を学ぶ。尋いで大阪に於いて緒方洪庵及び郁造に、江戸に於いて坪井信道に従遊す。日に夕に研瓚し、矻矻として不已(=止)まず。然るに学資が継(=続)かず、或いは食客となり、或いは書を備なえ、苦しみを攻め、百端の業頗ぶる進む。林洞海は其れを嘉みし、人延監塾生となす。
万延の紀元に幕府の侍醫戸塚静海が其の才学を聞き、養うことを請い、其の女(=娘)を以て配して嗣(=跡継ぎ)となす。是に於いて其の姓を冒(=名乗る)して、静泊と改稱す。
時に長崎の或る伝習所は蘭人を聘して医術を講習す。
文久二年、君は幕命を奉じて長崎に抵(=至)り、蘭醫之杜意武に従って学び、松本良順に代わりて所務を幹す。當時、物理・化學の二科は未まだ聞かず。君は建言して医學校を起し、海外名士を多く聘し、購器械・書冊を購して講究に資す。又、乏杜意武を用いて説いて、驗温器・顕微鏡を購して其の用方に備究す。蓋し吾邦の為に此器を用いる之權興は居工年業大進(?)。
慶応三年、幕府侍醫と為し文海と改称す。時に内外多事。君は直言して抗論す。人は多くを知るに及ばず。
明治之初、朝廷は屡、徴不應。(明治)五年、遂に起(=立)ちて海軍省五等出仕に補す。幾(いくばく)も無くして海軍大醫監を任ず。(明治)九年、海軍省四等出仕兼大醫監に補す。尋いで、總監に任じ、正五位に叙す。
会(たまたま)薩南之乱が有り、海軍の衛生・療養之制が未だ備わらず、君は拮据して以済の事を經營してか、功を以って二等賜旭日重洸章に叙す。(明治)十六年、職を辞して、點茶・聴香し以って閑を消す。自ら市隠庵と号す。既にして從四位叙す。
(明治)三十四年春、病と作(=為)る。 特旨により正四位に叙す。未だ數月ならずして從三位に陞す。一歳の兩叙は蓋し異數のこと也。遂(つ)いに以って九月九日東京に薨ず。生を距(へだてる)は、天保六年九月三日、享年六十有七。
皇上は哀悼して素縑二匹を賻し、祭粢金七百圓を賜る。越えること三日、海軍を用(もち)いて喪を命ず。谷中之阡(=墓道)に葬る。元配(=先妻)の戸塚氏は先に亡くなって子は無く、繼妻の久保氏は六男二女を生む。長男は曰く、悦太郎。家を承(つ)ぐ。曰く幸三は殤(わかじに)す。曰く文雄、曰く春海は並んで留学す。曰く幸民。曰く五郎は別に林氏の子豊策として養われ、環海と改名して現に海軍軍醫總監となる。
君、人と為りては頎然・長偉・剛直にして才辯あり。畢生、醫務に用(もち)う。徳川氏が之れ未だ一大病院を京師に建てることを欲せざるに、東西に奔走して成るに垂(なんなんと)す。而して、會戊辰の変に会いて果さず。
徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之。君は林研海・坪井信良等と謀りて病院を静岡に建て、且つ多くの養生の徒を俟つ。其の業略(ほぼ)成りて、各地に書士を分遣す。乃ち安而就之及官于朝。亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院
君は平素門人を遇するに、親子不啻故。其の病に就く也、遠近から來問し、之れを争いて相看護すと云う。頃者(近頃)、文雄は余(=私、三島 毅)に墓銘を徴す。余は學謭才劣にして、固(もと)より三民の然るに非ず。郷友之故を以て往來し親しく交誼す。亦(=また)辞すべからず。
<石黒忠悳がしるした碑文(谷中天王寺墓地 戸塚文海墓所)> 戸塚家墓地左手に、無名碑ながら格調のたかい石碑がある。
友人と書して撰したのは「男爵 石黒忠悳」である。
今般、日吉・時盛・玉井の三氏が碑面を損傷しないように配慮して乾式拓本の採取にあたり、それをもとに古谷昌二氏による釈読を得た。
この碑は戸塚文海の逝去にあたり、最後まで看護をつくした門人一一名の名を刻した碑を墓側に建立し、そのゆえんをしるすことを、文海の子、戸塚文雄からの依頼をうけ、石黒忠悳がしるしたものらしい。
ところがこの無名碑の背後は自然石の肌合いをのこしたもので、確認不十分ながら名前を刻した痕跡はみられなかった。
一一名の名を刻してのこしたとされる碑-いしぶみ-は、可能性としてはこの無名碑と正対する、戸塚文海の墓の近辺にもうけられているものを見落としている可能性がたかい。
碑文の末尾に「明治三十五年二月」とあるので、この碑は戸塚文海の没後(明治三四年九月卒)まもなく、塋域正面の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」より先に建立されたものと想像されるが、記述内容には「事 碑文に詳らかなり」とあり、墓碑銘の内容を知っていたことをおもわせる既述もある。
もしかすると大きく、文章量の多い「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は、作業に手間取り、建立が遅れたのかもしれない。墓碑銘には卒後一年、「明治三十五年九月」建立とある。
また石黒忠悳の無名碑には書芸家の名前はみられないが、拓本採取にあたった三氏とも、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」と同様に、長崎出身の書家:吉田晩稼によるものとみたいとしている。
これまで吉田晩稼は「大楷 ≒ おおきな楷書」の名手とされ、おおぶりな楷書の刻字ばかりが強調されてきたきらいがある。ところがここにみる書は三センチ角ほどのこぶりな字で、八分の味のくわわった隷書にちかく、楷書とはいいがたいものであった。
いずれにしても、吉田晩稼に関する研究はまだ着手したばかりであり、もうすこし時間をいただいてから発表したい。 撰者の石黒忠悳は、森鷗外の大学・軍医・大学教授のすべての先輩にあたる人物である。
したがってこの戸塚文海の塋域は、さながら司馬遼太郎『胡蝶の夢』の前半部の登場人物が総出演しているような奇妙な時代感がある。
石黒忠悳は長命で、晩年に近代医学事始のような回顧談『懐旧九十年』(岩波書店)をのこしている。 ここでは幕末・明治の政治家、大鳥圭介(幕府歩兵奉行、戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順、のち清国兼朝鮮公使、男爵 1833-1911)の嫡孫にして、慶応大学医学部教授、医学史研究の第一人者とされた、大鳥蘭三郎(1908-96)の簡潔な紹介からみたい。
【石黒 忠悳】(いしぐろ-ただのり 1845-1941)
日本の軍医界の功労者。陸奥国伊達郡梁川(現福島県伊達市)の平野家に生まれ一六歳で祖家石黒家を継いだ。
一八六五(慶応元)年に「医学所」に入って西洋医学を修めた。明治維新後に神田和泉橋ちかくの「大学東校」に出仕、一八七〇(明治三)年大学少助教となった。
翌一八七一年、兵部省軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、一八七四年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、一八七七年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。
一八八八年軍医学校長、一八九〇年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(一八九四-九五)では野戦衛生長官として、日露戦争(一九〇四-〇五)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。
明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。
退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。
『外科説約』、『黴毒新説』、『虎烈剌 コレラ 論』など多くの著訳書があって、これらが啓蒙的な役割を果たしたところが大であった。 『懐旧九十年』そのほかの著書もある。
医界の長老として重きをなし、よく長寿を保った。嗣子:石黒忠篤(いしぐろ-ただあつ)は政治家となり農政面で知られた。[大鳥蘭三郎]
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亡 友 戸 塚 君 文 海 之 疾 病 也 其
門 人 自 遠 方 来 懇 看 護 宛 如
孝 子 之 於 慈 親 者 凡 十 有 一 人
事 詳 碑 文 令 嗣 文 雄 君 欲 示 其
姓 名 於 将 来 謀 于 予 今 也 軽 浮
成 俗 不 顧 情 義 而 諸 子 之 於 其
師 如 彼 其 厚 洵 足 以 敦 薄 起 懦
是 宣 傳 也 因 使 諸 子 親 書 其 名
刻 之 於 貞 石 建 於 墓 側 予 為 書
其 由 云
友 人 男 爵 石 黒 忠 悳 識
明 治 三 十 五 年 二 月
《石黒忠悳がしるした碑文 読み下し文》
亡友 戸塚君文海 疾病にて之(=逝)く也。其の門人 遠方より来りて 看護に懇(=尽)くすこと 宛(さながら)孝子の慈親に於ける如き者凡そ十一人。事 碑文に詳らかなり。
令嗣文雄君 其の姓名を将来に示すことを欲し、予(石黒忠悳)に謀ること今也。
軽浮成俗なるは情義を顧みず、而して諸子 之れ其の師に於いて彼の如く、其の厚恂は敦薄起懦を以て足る。是れ 宣(=述)べ伝えるもの也。
因って諸子をして親しくその名を貞石(=石碑)に之れ刻み、墓側に建つ。
予は其の由を書となす。云。
友人 男爵石黒忠悳 識す。
明治三十五年二月
{ 新 宿 餘 談 }
本稿をアップロードしてまもなく「平野の会」の友人から連絡があり、戸塚文海が卒した明治三四年九月九日の四日後、日刊紙『萬朝報』(よろずちょうほう 明治三十四年九月十二日、二千八百六十三号)に戸塚文海の業績紹介が掲載されており、それを引いた論文、「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)の存在を教えていただいた。
中西 啓氏の論文は正確で、詳細を極めたものだったが、ここでは適宜改行と改段を加え、〔 亀甲括弧 〕 内に稿者の補遺を加えて紹介したことをお断りしておきたい。
この新聞報道-紙のふみ-の引抄が、 -いしのふみ- からの釈読を試みられている古谷昌二氏への支援になれば幸甚である。
あわせて冒頭に紹介した高木兼寬関連の記録と、東京慈恵会医科大学沿革などに、なぜか戸塚文海の名が残らなかったことに、いまさらながら残念なおもいがつのっている。
* * *
「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」
『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓、1961、pp.97-116)
戸塚文海の韓は正孝、字は子成、通称は文海、本姓は中桐氏で、備中玉島〔現岡山県倉敷市〕の人である。
幼時、学を郷の先輩に受け、医学に志し、十六才の時、宇田川玄真撰、文化二年刊の『医範提綱』を読み、大いに悟る処あり、洋学を学ぼうと思い、大坂に至り、緒方郁造の門に入り、その後、江戸に出て、坪井信道に随って泰西医学を修め、医学生間に盛名があった。
萬延元年(一八六〇年)、二十六才で、幕府の侍医静春院法印戸塚静海にその才学を愛され、養嗣となつた。
この時、長崎の〔医学〕伝習所にポンペが教授していたので、幕命を受け、遊学し、更に後、松本良順氏に代って伝習所を督していたが、ポンペの帰国後は、ボードウィンに随って研鐙し、叉医学生を教督した。ボードウィンは文海の内科に精なるを称し、内科病室を挙げて文海に托した。
慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜が宗家を継いで将軍になった時、文海を長崎より召して侍医とし、常に傍らに侍さしめたが、医学の他、洋学に関してその顧問格となり、教示した処が多かったと云う。
この時に当って文海は大いに豪商紳士に説いて市立大病院を起そうとしたが、間もなく、維新の騒乱となり、企画は実現しなかった。
慶応三年十月に慶喜が大政を返上し、上野に謹慎した際、文海は随って侍した。
徳川家が封を駿河に受けた時も従って駿河に移り、林研海等と共に諸生を教督した。 そして、維新政府はしばしば招聴したが辞して起たなかった。
明治五年五月、勝海舟の懲癒〔教え諭す、さそい〕により、遂に維新政府の徴に応じ、同十月、海軍大医監に任ぜられ、同九年二月、海軍軍医総監に陞任〔昇任〕した。
この時は恰も帝国海軍の創立に際しており、海軍衛生医務の事業において経営規画する所多く、遂に帝国海軍衛生医務の事業を創始した。
同十年の役に功を樹て、勲二等に叙され、旭日重光章を賜わり、自ら久しく栄職にあっては後進の進路を妨けることを慮り、同十六年十月、病を称して職を辞し、願によって本職を免ぜられ、家に籠った。
ところが、文海の盛名は都下に噴々としていて、辞職後も静養することができず、病客〔患者〕は門に充ち、車轍の静かな日とてなかった。
文海が職を奉じていた余暇に高木兼寛と謀り、首として自ら資を投じ、他を誘って、東京慈恵院を設立し、一は医学の実修とその進歩を謀り、一は貧苦無事の病民を救療するを期し、その恵に浴するもの多く、遂に現代の盛況に到った。
晩年、専ら病客を謝し、静居安養し点茶・聞香に閑を消したが、その交る所は頗を博く、書画珍器も多く蒐集していた。
その妻配戸塚氏は早く破し、子がなかったので、久保氏を嬰り、六男二女を挙げた。 嗣文雄、三男久保春海は共にドイツに留学し、林氏の子を養子としたが、それは海軍々医大監戸塚環海で、英独に留学せしめた。環海も頗る学名があった。
文海が病臥すると、門人等は四方より集り、病床に侍したが、その病が危くなるに臨んで、特旨を以て従三位に陞叙せられた。享年六十七才であった。
(明治三十四年九月十二日『萬朝報』二千八百六十三号による)
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協 力/古谷昌二、平野正一、日吉洋人、時盛 淳、玉井一平、春田ゆかり
主要参考資料/『日本人名大辞典』(講談社)、東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URL)、東京大学医学部URL、古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』(朗文堂)、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六、 『日本大百科全書』(小学館)、「長崎医学の百年第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)、『干禄字書』(顔元孫遍・顔真卿書、中国唐代、明治一二年東京柳心堂〔翻刻〕)、石黒忠悳『懐旧九十年』(岩波書店)