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タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載

杉  本   幸  治
1927年[昭和02]04月27日-2011年[平成23]03月13日

◉ 杉本幸弘氏・細谷敏治氏から写真掲載許可をいただき、あらたなデーターで再掲出します。
◉ 講演会会場撮影:木村雅彦氏。 2012年01月13日
◉ 杉本幸治氏三回忌にあたり、2013年03月13日、再掲載いたしました。 

1927年(昭和02)04月27日、東京都台東区下谷うまれ。
東京府立工芸学校(5年履修制の特殊な実業学校。現東京都立工芸学校に一部が継承された)印刷科卒。

終戦直後の1946年( 昭和21)印刷・出版企業の株式会社三省堂に入社。今井直一専務(ナオイチ 1896-1963年05月15日 のち社長)の膝下にあって、本文用明朝体、ゴシック体、辞書用の特殊書体などの設計開発と、米国直輸入の機械式活字父型・母型彫刻システム(俗称:ベントン、ベントン彫刻機)の管理に従事し、書体研究室、技術課長代理、植字製版課長を歴任した。

またその間、今井専務の「暗黙の指示と黙認」のもとに、株式会社晃文堂(のち株式会社リョービ印刷機販売、リョービイマジクス株式会社。2011年11月から、株式会社モリサワに移譲されてモリサワMR事業部 → 株式会社タイプバンク → モリサワとなった)の「晃文堂明朝体」の開発と、「晃文堂ゴシック体」の改刻に際して援助を重ねた。

1975年三省堂が苦境におちいり、会社更生法による再建を機として、48歳をもって三省堂を勇退。その直後から細谷敏治氏(1914年うまれ)に請われて、日本マトリックス株式会社に籍をおいたが2年あまりで退社。
そののち「タイポデザインアーツ」を主宰するとともに、謡曲・宝生流の師範としても多方面で活躍した。
金属活字「晃文堂明朝体」を継承・発展させた、リョービ基幹書体「本明朝体」写植活字の制作を本格的に開始。以来30数年余にわたって「本明朝ファミリー」の開発と監修に従事した。

2000年から硬筆風細明朝体の必要性を痛感して「杉明朝体」の開発に従事。2009年09月株式会社朗文堂より、TTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。同年11月、OTF版「硬筆風細明朝 杉明朝体」発売。

特発性肺線維症のため2011年03月13日(日)午前11時26分逝去。享年83
浄念寺(台東区蔵前4-18-10)杉本家墓地にねむる。法名:幸覚照西治道善士 コウガク-ショウサイ-ジドウ-ゼンジ。

◎        ◎        ◎        ◎

東日本大震災の襲来の翌翌日、特発性肺線維症 のため入退院を繰りかえしていた杉本幸治氏が永眠した。
杉本氏は、わが国戦後活字書体史に燦然と輝く、リョービ基幹書体「本明朝体」をのこした。また畢生ヒッセイの大作「硬筆風細明朝 杉明朝体」を朗文堂にのこした。
わたしどもとしては、東日本大震災の混乱の最中に逝去の報に接し、万感のおもいであった。
これからは30年余におよぶ杉本氏の薫陶を忘れず、お預かりした「杉明朝体」を大切に守り育ててまいりたい。

在りし日の杉本幸治氏を偲んで

杉明朝体はね、構想を得てから随分考え、悩みましたよ。
その間に土台がしっかり固まったのかな。
設計がはじまってからは、揺らぎは一切無かった。
構造と構成がしっかりしているから、
小さく使っても、思い切り大きく使っても
酷使に耐える強靱さを杉明朝はもっているはずです。
若い人に大胆に使ってほしいなぁ。

-杉本幸治 83歳の述懐-


上左)晃文堂明朝体の原字と同サイズの杉明朝体のデジタル・データー
上右)晃文堂が和文活字用の母型製作にはじめて取り組んだ金属活字「晃文堂明朝」の原字。
(1955年杉本幸治設計 当時28歳。 原寸はともに2インチ/協力・リョービイマジクス)

ふたつの 「書」 の図版を掲げた。かたや1955年、杉本幸治28歳の春秋に富んだ時期のもの。こなたは70歳代後半から挑戦した新書体「杉明朝体」の原字である。

2003年、骨格の強固な明朝体の設計を意図して試作を重ねた。杉本が青春期を過ごした、三省堂の辞書に用いられたような、本文用本格書体の製作が狙いであった。
現代の多様化した印刷用紙と印刷方式を勘案しながら、紙面を明るくし、判別性を優先し、可読性を確保しようとする困難な途への挑戦となった。制作に着手してからは、既成書体における字体の矛盾と混乱に苦慮しながらの作業となった。名づけて「杉明朝体」の誕生である。

制作期間は6年に及び、厳格な字体検証を重ね、ここに豊富な字種を完成させた。
痩勁ながらも力感ゆたかな画線が、縦横に文字空間に閃光を放つ。
爽風が吹き抜けるような明るい紙面には、濃い緑の若葉をつけた杉の若木が整然と林立し、ときとして、大樹のような巨木が、重いことばを柔軟に受けとめる。

《杉明朝体の設計意図――杉 本  幸 治――絶 筆》

2000年の頃であったと記憶している。昔の三省堂明朝体が懐かしくなって、何とかこれを蘇らせることができないだろうかと思うようになった。 ちょうど 「本明朝ファミリー」 の制作と若干の補整などの作業は一段落していた。 しかしながら、そのよりどころとなる三省堂明朝体の資料としては、原図は先の大戦で消失して、まったく皆無の状態であった。

わずかな資料は、戦前の三省堂版の教科書や印刷物などであったが、それらは全字種を網羅しているわけではない。 したがって当時のパターン原版や、活字母型をベントン彫刻する際に、実際に観察していた私の記憶にかろうじて留めているのに過ぎなかった。

以下3点の写真は、機械式活字父型・母型彫刻システムを理解するための参考として掲載した。2008年09月28日、山梨市・安形製作所における《アダナ・プレス倶楽部  活字製造体験会》活字母型製造試作作業の模様。
同体験会は、活字原字製作を参加者が独自におこない、活字パターン(亜鉛凹版・2インチ)製造をアダナ・プレス倶楽部が担当した。活字母型彫刻は山梨市の安形文夫氏の指導のもとで、12ポイントの活字母型を彫刻体験し、それをもって、のちに活字鋳造所、横浜の築地活字に出向き、12ポイント活字の鋳造を実体験するというものであった。
なお、このとき活字母型彫刻の指導にあたられ、アダナ・プレス倶楽部に支援を惜しまなかった同社所長:安形文夫氏は膵臓癌のため2012年元旦早朝2時に逝去された。
【タイポグラファ群像*004 安形文夫】。

戦前の三省堂明朝体は、世上から注目されていた「ベントン活字母型彫刻機」によるもので、最新鋭の活字母型制作法として高い評価を得ていた。この技法は精密な機械彫刻法であったから、母型の深さ[母型深度]、即ち活字の高低差が揃っていて印刷ムラが無かった。加えて文字の画線部の字配りには均整がとれていて、電胎母型[電鋳母型トモ]の明朝体とは比較にならなかった。

しかしながら、戦後になって活字母型や活字書体の話題が取り上げられるようになると、「三省堂明朝体は、ベントンで彫られた書体だから、幾何学的で堅い表情をしている」とか、「 理科学系の書籍向きで、文学的な書籍には向かない」 とする評価もあった。

確かに三省堂明朝体は堅くて鋭利な印象を与えていた。しかし、それはベントンで彫られたからではなく、昭和初期の三省堂における文字設計者、桑田福太郎と、その助手となった松橋勝二の発想と手法に基づく原図設計図によるものであったことはいうまでもない。

世評の一部には厳しいものもあったが、私は他社の書体と比べて、三省堂明朝体の文字の骨格、すなわち字配りや太さのバランスが優れていて、格調のある書体が好きだった。そんなこともあって、将来なんらかの形でこの愛着を活用できればよいが、という構想を温めていた。

三省堂在職時代の晩期に、別なテーマで、辞書組版と和欧混植における明朝活字の書体を、様様な角度から考察した時、三省堂明朝でも太いし、字面もやや大きすぎる、いうなれば、三省堂明朝の堅い表情、すなわち硬筆調の雰囲気を活かし、縦横の画線の比率差を少なくした「極細明朝体」をつくる構想が湧いた。

ちなみに既存の細明朝体をみると、確かに横線は細いが、その横線やはらいの始筆や終筆部に「切れ字」の現象があり、文字画線としては不明瞭な形象が多く、不安定さがあることに気づいた。
そのような観点を踏まえて、まったく新規の書体開発に取り組んだのが、約10年前からの新書体製作で「杉本幸治の硬筆風極細新明朝」、即ち今回の 「杉明朝体」という書体が誕生する結果となった。

ひら仮名とカタ仮名の「両仮名」については、敢えて漢字と同じような硬筆風にはしなかった。仮名文字の形象は、流麗な日本独自の歴史を背景としている。したがって無理に漢字とあわせて硬筆調にすると、可読性に劣る結果を招く。 既存の一般的な明朝体でも、仮名については毛筆調を採用するのと同様に、「杉明朝体」でも仮名の書風は軟調な雰囲気として、漢字と仮名のバランスに配慮した。

「杉明朝体」は極細明朝体の制作コンセプトをベースとして設計したところに主眼がある。したがってウェイト[ふとさ]によるファミリー化[シリーズ化]の必要性は無いものとしている。一般的な風潮ではファミリー化を求めるが、太い書体の「勘亭流・寄席文字・相撲文字」には細いファミリー[シリーズ]を持たないのと同様に考えている。

「杉明朝体」には多様な用途が考えられる。例えば金融市場の約款や、アクセントが無くて判別性に劣る細ゴシック体に代わる用途などがあるだろう。また、思いきって大きく使ってみたら、意外な紙面効果も期待できそうだ。

杉本幸治氏を偲ぶ  しごく内輪の会

杉本幸弘・吉田俊一・米田 隆・片塩二朗・根岸修次(記録担当)
2011年05月19日[木] 朗文堂 PM05:00-

◎ 片塩:早いもので杉本幸治先生の四十九日忌の法要も終えられました。
そこで本日は、ご長男の杉本幸弘ユキヒロさんをお迎えして、晩年の先生を手こずらせた!? この5人で、ご供養半分、こぼし半分で、杉本先生(以下 先生とも)のおもいでばなしをしよう……、ということでご参集いただきました。
ともかくここにいるメンバーは、先生にはお叱りを受けることが多かったんです。
◎ 杉本幸弘(杉本幸治氏長男/以下 幸弘):オヤジはなにぶん東京の下町うまれでしたから、江戸っ子気質カタギというか、叱るときはポンポン容赦なかったですね。
それでも、いうだけいわせておけば静かになるし、いってしまったことは忘れるので、母も妹も、もちろんわたしも、だまっていわせておきました。お叱りが、こう頭の上を滑っていくのを待つわけですね(笑)。
◎ 吉田:われわれはそうはいかないから、ハイ、ハイってね。まぁなんやかやと、よく叱られたなぁ(笑)。

◎ 米田:パソコンでも、車でも、先生はけっこうわがままをいったでしょう?
◎ 幸弘:オヤジがパソコン(Mac)を購入して、使用をはじめたのは1980年代、60代前半のころでした。
◎ 吉田:NEC 98型の全盛期からじゃなかったんだ?
◎ 米田:時代のせいでしょうけど、パソコン開始年齢としては比較的ご高齢になってからですね。
それでも先生は難しいソフトウェアでも完ぺきに使いこなしていらっしゃった。
◎ 片塩:そうそう、あきらかに、わたしより数段マックの扱いにはくわしかったですね。ほとんどE-メールはなさらなかったようですけど。
でも1980年代からパソコンをはじめたというのは、年齢は別として、遅くはないでしょう。
◎ 吉田:たれかと違って、携帯電話を愛用されたし、ケイタイメールはよくいただきましたよ。
◎ 片塩:どうせわたしはデジタル・オンチで、ケイタイも使いませんからね(笑)。
それを笑って、先生はいつも「オレは技術者 エンジニア だからな」と自慢されていた。

◎ 幸弘:オヤジがもっとも愛用したのは一体型の i Mac で、OS-9と OS-X を選択併用できる機種でした。オヤジはおもに OS-9 を使用していましたね。
また車の運転免許証をとったのもほぼ同時期で、わたしが免許を取得したのをみて「オレもとる」ということではじまりました。これも60代の前半でしたね。
それ以来すっかり運転マニアになって、どこにいくのにも車。それも事前に路線図をじつに詳細に、隅隅まで確認して、ここで右折、ここで左折と決めて、渋滞していてもほとんど変更しない。ともかく地図のとおりにまっすぐに(笑)。
なにせ頑固でしたからね、自分で車を運転して2009年まではでかけていました。

◎ 米田:2009年10月ころに、医者から外出を禁止されたでしょう。あのころから先生は弱られたのかもしれませんね。
◎ 幸弘:いや、その前から体調は十分とはいえませんでした。
2006年04月22日《杉本幸治 本明朝を語る》(リョービイマジクス主催)の講演会があったでしょう。その前夜まで、オヤジはひどく熱があって。
ともかく体調が悪くて、セーターやパジャマやら、いっぱい着込んで、その上にドテラまで羽織って寝込んでいたんですよ。ですから明日はとても無理だろうとおもっていたら、早朝からたれにも告げず、ひとりで出かけてしまって驚きました。
◎ 吉田:そうでしたか! 講演ではお元気だったけどなぁ。熱があるようにはみえなかったけど、咳き込みがあって、ちょっと心配はしました。
それに「特発性肺線維症」なんて持病はたれにもおっしゃらなかったし。
◎ 片塩:そうそう、ひどい咳をしていた。それでもわたしも、チョットした喘息程度かなとおもっていましたね。
でも講演はいやだ、いやだって逃げまわっていたのに、あの日の先生の講演は熱演で、たくさんご来場いただいた聴講者も随分刺激を受けていたようですよ。
◎ 幸弘:ともかくあの日のオヤジは、そおっと出ていったんですよ。家のものはたれも知らなかった。わかっていれば止めたでしょうね。
◎ 米田:そうだったんだ。知らなかったですね。でも先生はお元気で、夢中になって話しておられたなぁ。

◎ 片塩:あの少し前から先生は、勤労動員に追いまくられた戦時中の東京府立工芸時代のはなしや、三省堂時代のはなしをよくされるようになっていました。そして大切にされていた「石原忍とあたらしい文字の会」の一括資料などをお譲りいただきました。それと、『太平洋戦争下の工芸生活』(東京都立工芸学校23-26期編集委員会 平成09年03月27日 私家版)などを嬉しそうにおみせになるんですね。
このタイトルの題字製作は先生ですが、おもしろいことに、骨格はほとんど「本明朝」そのものですね。先生にはこの骨格が染みついていたのかなぁ。
先生は同校の本科印刷科25期生で、2期先輩に野村保惠さんが、3期後輩の金属工芸科に澤田善彦さんがいらっしゃった。この本は面白いですよ。印刷と工芸、あるいは工芸と美術・芸術・デザインの関係と相違がとてもよくわかります。

『太平洋戦争下の工芸生活』 表紙の題字は杉本幸治氏による。
(東京都立工芸学校23-26期編集委員会、私家版、平成09年03月27日)

『杉本幸治 本明朝を語る』 表紙デザイン:白井敬尚氏
(編集・製作/組版工学研究会 リョービイマジクス 2008年01月25日)

◎ 吉田:講演会のあとが、またひと騒ぎあったなぁ。
◎ 米田:あの黄色い表紙の講演録『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行)にまとめたのは、結局先生が再出演されたわけですか?
◎ 片塩:そうなんですよ。リョービイマジクスさんが撮影した DVD 画像をみて、先生は講演内容が断片的で、まとまりがないとお気に召さなかった。
これじゃあ説明になってないなぁ、と何度も首を振られてね。
そこで再度資料を取り揃えて、歴史的視点を中心にかたろうとなって……。この部屋(朗文堂)で3時間ほど対談しました。そのころはまだ酸素タンクは使っておられなかったですね。

◎ 吉田:あとから、随分先生が原稿を添削したようですね。
◎ 片塩:あれは添削ではなくて、テープから起こした原稿をみて、ここはオレが死ぬまで発表しちゃ駄目。ここはオレと細谷敏治さんが亡くなるまで駄目っていうのがほとんどですね。
だいたい三分の二ほどの原稿がカットされました。
◎ 吉田:戦後の活字の復興に発揮した、三省堂・今井さんの使命感とその功績、細谷さんと先生の、おふたりのおおきなご努力は、まだ発表できないんですか?
◎ 片塩:それは杉本先生の厳命ですから。小社のO社員も立ち会って、厳重に約束させられましたから。
ただ、わたしがお話しをもとに少し書き込んだ部分は、
「どうしてこの事実がわかったんだ?」
と、原稿からお顔をあげてふしぎそうでした。
「あのお話しと、このお話しを連結すると、このように帰納されますけど、違いますか?」
と伺うと、
「いや、この通りなんだ。間違いなくこの通りなんだ。そうなんだけど……、たれもこうした事実に目をむけなかったからな。この辺の事情がよくわかったなぁ」
とおっしゃるんですね。もちろん自分がおはなしになったことですよ。
それでもまた原稿に視線をさげて、赤ペンで大きくバツ印をつけて、「これはオレが死ぬまで駄目」となるわけです。

◎ 幸弘:ともかくオヤジは、戦後すぐから、あちこちの活字鋳造所や印刷所にいかされたといっていましたね。
◎ 片塩:そうなんです。本当は各社の明朝体の活字書風をみれば、「三省堂明朝体」、あるいはそのとおい原型となった、昭和初期の秀英体、とりわけ秀英四号明朝体との関係がわかることですが、おおかたの「活字ファン」は、漢字にはほとんど関心がなく、活字を仮名書風を中心にみて、印象をのべたり、評価するんですね。
やはり全体、もっともキャラクター数とさまざまな特徴のある漢字をみないで、仮名活字だけで活字書体をかたってもねぇ……。おのずと限界はありますよ。
各社とも復興にあたって、仮名書風くらいは、独自に、あるいはむしろ意図的に独自書風で開発していますし、その後も仮名活字は各社とも改刻が繰りかえされていますから、戦後のあわただしい活字復興の実態が、おおかたにはいまでもわからないようですね。

◎ 幸弘:オヤジがT印刷にいっていたことも、意外に知られていないようですね。
◎ 片塩:もちろんです。意外にではなく、まったく「秘密」だったんでしょうね。
もちろん例外はありますが、おおまかにいってD社系は津上製作所製の彫刻機で、細谷さんが基本操作指導にあたり、K社系とT社系は不二越製作所製の彫刻機で、基本操作指導は杉本先生のご担当だったようです。これは今井専務の指示だったと先生はおっしゃっていました。
そういう意味で晃文堂は、戦後に、なんのしがらみもなくスタートした活字鋳造所でしたし、社長の吉田市郎さんとも波長があって、晃文堂での原字製作からはじめ、まったく最初からつくる活字製作作業が楽しかったんでしょうか。それが「晃文堂明朝」、「晃文堂ゴシック」の製作につながり、のちの「本明朝体シリーズ」の展開につながったんでしょうね。

◎ 吉田:先生の「本明朝」へのこだわりは、ふつうじゃ考えられないほどだった。ちょっとでもスタッフが手を入れても激怒するほどのこだわりで……。
◎ 片塩:ですからわたしも「本明朝-L, M, B, E」と、「杉明朝体」にこだわるのは、そのすべてが杉本幸治さんという、いち個人が、26-7歳からはじめて、お亡くなりになる寸前の83歳まで、半世紀はおろか、57年余のながきにわたって、コツコツと、たったおひとりで製作されたということにあります。
もちろん明朝体の最大の特徴は、分業化できることにあります。ですから晃文堂やリョービイマジクスのスタッフの支援・協力はあったにせよ、「本明朝」の根幹部分には、たれにも手も触れさせなかったでしょう?
◎ 吉田:外字の隅隅まで、それはもう厳格でしたね。
写真植字書体開発も後期になると、コンピューターの支援、いわゆるインター・ポーレーションで、シリーズやファミリーを拡張していました。それが「本明朝-L, M, B, E」だけは、インター・ポーレーションを一切もちいず、金属活字時代のオプティカル・スケーリング(個別対応方式)のように、ひとつひとつのウェイトを、コツコツとおひとりでお書きになった。
幸彦さん、お父さん ── 杉本幸治さんというかたは、そういうひとだったんですよ。
◎ 幸彦:そうでしたか……。なにせウチでは、かみなりオヤジの面ばかりみていましたから。
◎ 米田:先生はシャイなひとだったし、家ではなにもおっしゃらなかったでしょうけど、ともかく、凄い! のひとことでした。たれにもできることじゃなかった。 

◎ 吉田:ですから「本明朝-U」には、先生はすこしご機嫌斜めだったな。
◎ 米田:あれは吉田さんのアイデアでしたか?
◎ 吉田:いや、ユーザーのご希望と、リョービとリョービイマジクスの総意ということで……(笑)。
◎ 米田:あのウェイトだと、インター・ポーレーションといってもたいへんだったでしょう?
◎ 片塩:まぁ、いろいろあっても、先生からみると──「本明朝-U」は、吉田俊一が勝手にやったこと。「本明朝-Book」は、片塩がリョービを焚きつけてやったこということで……。なんやかや、ともかくいろいろありましたねぇ(笑)。



毎日新聞社に津上製作所製造のベントン彫刻機第1ロット、2台が導入された折の写真。
1949年。後列左から3人目が小塚昌彦氏。写真は同氏提供。

◎片塩:またベントン彫刻機のはなしにもどりますが、先生は K,T 印刷系の企業は不二越製作所製のベントンが多く、どうにも具合が悪くて難儀した、とこぼされていました。
なにしろおおきな企業とそのグループ各社は、お互いにメンツがあるから、互いに協力することなく、張りあって開発したんでしょうか……。
機械式活字父型・母型彫刻機(ベントン)は、三省堂の今井直一ナオイチ専務(当時、のち社長)が、活字に一家言おありになって、金属活字はすでに明治末期から開発が停滞し、既成書体の電鋳活字母型(電胎活字母型トモ)はすでに疲弊していて、使用に耐えないとされました。
そしてたとえ戦禍を免れたとしても、電鋳法の活字母型は耐久性においてすでに限界であり、また活字母型深度にバラツキがあるため、活字の高低差がもたらす印刷ムラに問題があるとされ、各社に根本的な改刻か、廃棄をうながされたんですね。

今井さんは当時の印刷界では数少ない大学(現・東京藝術大学)出身者で、アメリカにも留学され、最新の技術情報にも詳しく、印刷連合会や印刷学会の重鎮でもありました。そんな今井さんでしたから、第二次世界大戦の壊滅的な被害から、活字と活字版印刷の敏速な復興を、タイポグラファのリーダーとして、一種の使命感をもって願っておられた。
そのために、大正時代の末に米国から輸入して、関東大震災と第二次世界大戦の被害をのがれた、自社の機械式活字母型彫刻機を公開して、それをもとに両社がそれぞれ独自に設計図をおこして、津上製作所と、のちに不二越製作所による国産機が誕生しました。
またベントン彫刻機を導入したほとんどの企業に、ともかく敏速な復興のために、ほぼ実費だけで活字パターンまで提供されました。

この機械式活字母型彫刻機の採寸のときの記録が大日本印刷にのこっていますが、それによると、三省堂側の立会人は入社直後、23歳当時の杉本先生です。
大日本印刷機械部と津上製作所の技術陣が、三省堂に出向いて採寸したわけですが、その際先生は、機械式活字母型彫刻機をばらして分解・採寸することを、頑として許さなかったんですね。
23歳ですよ、まだ先生は。このころから一度口にするとひかなかったようですね。

それでも多数の部材を、大日本印刷機械部と津上製作所の技術者たちは、解体することなく採寸・スケッチして、そこから模倣国産機をつくったわけですから、日本の工業技術力は、敗戦直後とはいえ高かったわけですね。
ところが、大日本印刷、毎日新聞社、三省堂などが、最初から津上製作所に発注していましたから、細谷さんの会社を含めて、あちこちの企業に、いまでも「国産ベントン彫刻機 第一号機」があります。まぁ第1ロットという意味でしょうか。

ところが、それに続いてあらそって導入した各社は、どこでも英文の機械操作説明書だけでは困ってしまった。それだけでなく、活字原字が無い、活字パターンが無い、基本操作がわからない、彫刻刀の刃先の研磨法がわからない、粗仕上げから精密仕上げへの切りかえ段階と、その方法がわからない……、ともかくわからないことだらけだったんですね。
そこで三省堂社員のおふたりが在籍のまま、あちこちの企業に、今井専務の「暗黙の指示と了承・黙認」のもとに、ときとして活字パターンとともに「派遣」されたのが実態だったようです。

◎ 米田:先生は、今年にはいって細谷敏治さんに会われたんですって?

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。2016年逝去。
戦前の三省堂に入社し、導入直後から機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型製造には必須の技術となった。
実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」と名づけたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法「Punched Matrix」方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して「打ち込み母型」とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年08月15日撮影、細谷氏98歳。左は筆者)。

◎ 幸弘:最後の検査入院の2日前でした。2011年02月06日に、どうしても細谷さんに会いたいからって、私と妹のふたりがかりで車にのせて、多摩の老人施設におられる細谷さんをお訪ねしました。
◎ 吉田:細谷さんはご高齢だけど、ともかくお元気だからなぁ。先生よりだいぶ年長でしょう。
◎ 片塩:1913年(大正2)のおうまれですから、98歳におなりです。先生より15歳ほど年長になられますね。
でも、お病気になってから細谷さんとお会いになったなんて泣けるなぁ。
あのおふたりが、戦後わが国のほとんど全社の活字復興に果たした役割は、筆舌に尽くしがたいけど、対談でも先生は細谷さんにたいして「愛憎こもごも」といった感じではなされていましたから……。特に新聞活字母型の量産体制には、先生は少少ご不満があったようでした。
◎ 幸弘:あのときは、とても嬉しそうにふたりで話しこんでいましたね。オヤジはもっぱら「杉明朝体」の自慢。そのときの写真もここに撮ってありますよ。
◎ 吉田:先生、肌の色つやはまったく変わっていませんね。お元気そうだ。

左)細谷敏治氏98歳。 右)杉本幸治氏83歳。 2011年02月06日。杉本幸弘氏撮影。
細谷敏治氏と、杉本幸弘氏のご了解をいただいてこの写真を公開した(2012/01/06)。

◎ 片塩:これは、わが国の戦後明朝活字を構築された両巨頭の記念すべき写真ですよ、幸弘さん。この写真では先生は酸素マスクをつけてすこし痛痛しいけど、細谷さんのご了解をいただけたら公開してもよろしいですか?
◎ 幸弘:細谷さんのご了承があれば、わたしは結構ですよ。
オヤジはしばらく入院・退院を繰りかえしましたが、結局2011年02月08日に再入院(検査入院)となって、あの大地震の2日後、2011年03月13日(日)午前11時26分「特発性肺線維症」で亡くなりました。

◎ 吉田:最後の入院から6日後にお亡くなりになられた。みんな、また検査入院かとおもって油断していました。
あのときは救急車で入院でしたか?
◎ 幸弘:いえ、グズグズってなったので、私の車で病院まで急いでいきましたが、即刻集中治療室に入って。結構衰弱していましたね。

◎ 片塩:わたしも先生の「検査入院だから……」、に安心というか、無警戒でしたね。
この入院前か、入院中かに、先生からどこか妙なお電話をいただきました。お加減はいかがですか? と聞いて、お見舞いにいくと伝えたら、
「格好悪いとこを見られたくないから、来なくていい」
そしてこぼすんです。
「米田クンが来てくれないから、プリンターが動かない」
そこで、
「米田さんへの、杉明朝改刻への免許皆伝の件はどうなっていますか」
と伺うと、
「もう米田クンは免許皆伝だよ」
とおっしゃるんですね。そして、
「片塩さんが前から欲しがっていた雲形定規を差しあげる」
というんですね。なにかいつもと違って、おはなしが妙でしたから、
「先生、そんなことをおっしゃらず、はやくお元気になってください」
とお伝えするだけで精一杯でした。

◎ 幸弘:去年の夏、「杉明朝体」がおむね終わって、体調の良いときに川崎まででかけて、MAC-PROと、書体製作ソフトやアドビのCS-4を購入しました。それは去年の春(2010 年04月)の入院のときに、ベッドの横でノート・パソコンで書体がつくれたらいいな……、といっていたんです。
ところが退院したところ、それまでの i Mac が故障して駄目になったんですね。
ですから08月15 日に買って、18日に届いたんですけど、2階に置いたので階段がきつくて……。
そしてすぐ、また08月20日に再入院になりましたから、結局2回くらいしかあたらしいマックは使っていなかったようです。
◎ 米田:ケーブルだって、ふるいスカジー・タイプだったし、切り替えはたいへんでした。
◎ 片塩:今度のマックは、「下からフニャーって画像が沸いてきて、なんか気持ち悪いんだよなぁ」なんておっしゃっていましたね。

◎ 吉田:先生はことしになってから、「杉明朝体・ボールド」をつくるって急にいいだしたし、最後まで新書体の製作にこだわっていたね。
◎ 米田:あれはですね、先生は「杉明朝体」は 6 pt.-9 pt.くらいの小さなサイズでの使用を見込んでいたんです。ところが、朗文堂さんからの組版資料として、どんどん小さいのから大きなサイズまでの組版サンプルが届くから、
「大きなサイズ、太い杉明朝体もいいなぁ」
となって、
「それなら先生、杉明朝体 ボールドを書いてください。わたしが中間ウェイトを製作しますから……」
こんないきさつがあって、先生は意欲を燃やされたんですね。

◎ 吉田:それで米田さんへの免許皆伝というはなしだったのか。
「杉明朝体」は最初の企画では「超極細硬筆風明朝体」だったんでしょう。
◎ 片塩:いや、先生の命名は「超極細硬筆風明朝体 八千代」でした。それをわたしが、
「八千代なんて、どこかの芸者みたいですな」
とやっちゃって……(笑)。
口にしてから、しまったとおもったけどもう遅い。またきついお叱りで。
それと、わたしは最後まで「杉明朝体」は R 社さんから発売していただきたいとおもっていました。小社はその任にあらずと。それでも先様にもいろいろご都合があって……。

『杉明朝体』 フライヤー(朗文堂 2009年9月)

杉明朝OTFフライヤー 詳細画像

◎ 幸弘:細谷さんとの面会でも、この写真のように「杉明朝体」のカタログをふたりでみながら、熱心に書体談義をしていましたよ。
◎ 片塩:それは嬉しいことですけどね。でもですよ、わたしは先生がのこされた「杉明朝体」とともに、いまでも「本明朝-L, M, B, E」は、戦後活字史の名作中の名作だとおもっていますから。
◎ 吉田:これでいいんじゃないですか。先生も得心されておられたしね……。
ところで、03月11日、東日本大震災の日に、米田さんは病院にお見舞いにいっていたんですね。亡くなる2日前だけど。

◎ 米田:03月11日は金曜日でしたが、電車で武蔵小杉の病院にお見舞いに出かけました。
先生はときどき酸素マスクをはずしてお元気で、そろそろ帰ろうかなというときに、まずドカンときて、つづいてユッサユッサときました。医者も看護師もバタバタと避難するし、ほかの患者さんもそうとう動揺されていましたね。
それで携帯電話は通じないし、夕方になって失礼しましたが、バスがこない。そこで駅まで歩いたら、電車はまったく動いていない。結局武蔵小杉から千葉県白石市の自宅まで、20時間ほどかけて徒歩でかえりました。
◎ 一同:それはたいへんだぁ! 米田さんは真面目だからなぁ。……その辺の漫画喫茶とか、カプセル・ホテルとかにもぐりこもうと考えなかったんですか?
◎ 米田:いや、もうどこもいっぱいでしたよ。半分ムキになって歩きました。
◎ 一同:杉本先生のはなしはつきないね。ここでは先生に献杯もできないから、このへんでちょっと席を変えましょうか……(合掌)。

朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種。

愛すべき ゆるキャラ「ひこにゃん」のことは、かつてこの《花筏》でもしるした。当時は知識不足で「ヒコニャン」とカタ仮名表記してしまったくらいで、さほど関心があったわけではない。
★ 朗文堂-好日録 010  ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 2011年08月27日

ところが昨今の報道では、絶対の人気をほこった滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が、熊本県の「くまモン」の人気にすっかり押され気味だという。
くまモン」とは熊本県庁が2010年から「くまもとサプライズ」キャンペーンにおいて展開している、熊本県のPRマスコットキャラクターである。こちらはまだ実物はみていないが、下の動画をみるとなかなかのおもしろさである。見てみたい気も ムニャムニャ モゴモゴ なくはないぞ。。
★  「くまもとサプライズ くまモン オフィシャルサイト」 くまモン体操 3:01 YouTube

RJCリサーチの調査によれば、PRキャラクター総合力ランキングの地域ジャンルにおいて「くまモン」は2011年の46位から、2012年は43ランクアップして、彦根市の ひこにゃん、奈良県の せんとくん に次ぐ3位になったとしている。2013年、ことしはどのような具合であろう、チョイト心配だ。
それでも最近の報道では、2013年の年賀状が「ひこにゃん」宛てに1万891通も届き、バレンタインデー・チョコレートも228個届くほどの人気ではあるらしい。
★ ひこにゃん、自由すぎる! 2:53 YouTube  
────────────────
「ひこにゃん」に関しては、原作者と彦根市が、類似グッズの販売をめぐって、著作権と商標権を裁判で争い、ようやく和解にいたったようである。

それを受けて、彦根市はそのWebsiteに「ひこにゃん 公式サイト」をもうけて、そこに「ひこにゃん 商標使用のページ」をおいて、くわしく使用法をといている。

いっぽう「くまモン」は、あらかじめ熊本県がデザイナーから商標権を買い取り、熊本県のブランド力向上つながると判断したものについては、商標の使用権を無料にしていて、すでに認可件数は6,000件を超しているとのことである。

小社のようなちいさな企業でも、出版部(Book Cosmique)、活字部(Type Cosmique)で、類似の問題がまれに発生することがある。だから無関心ではいられないテーマである。ともあれ小社では、こうした問題には、できるだけオープンにすることを基本として、問題がおきたら、ともかく誠意をもって、慎重に対応することにしている。

そこで、ようやく紛争を解決した「ひこにゃん」を応援すべく、ふるい資料で恐縮だが、上述の「朗文堂好日録 010」を再編集して、ここに「ひこにゃん」応援のためにあらためて紹介したい。

★      ★       ★

¶ 2011年07月某日、関西方面出張。
この年は「東日本大震災」の年であった。例年の新年度のイベントや、GW 恒例開催の「活版凸凹フェスタ 2011」も中止としていた。なんとなく全般に意気消沈して低調な東日本だった。

ところがその間、意外なほど西日本各地では活況を呈していた。朗文堂 サラマプレス倶楽部はそれを受け、2011年07月某日、タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での関西出張となった。
たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪 3 ヶ所、京都 2 ヶ所、滋賀 1 ヶ所を駈けまわるという強行スケジュールとなった。

京都駅に降りたっておどろいたのは、駅舎もまちも明るいことだった。計画停電、節電下の関東地区とは大違いだった。このころの東京の駅舎は昼でも夜でも減燈され、まちなみは暗く、活気にとぼしかった。
なにはともあれ交通の便だと、オノボリサン丸出しもいいところで、京都駅前の「京都タワーホテル」を根拠地とした。
これはのちほど、京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられたが。ともかくそこをベース・キャンプにして仕事に集中。

それから 4 日間というもの、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。
されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました !
なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。ノー学部の巧妙な誘導質問だった。
「京都から大津にいって、そこから彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね……、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう。前に好きなまちだと聞いたことがあります」
「水戸天狗党の藤田小四郎のことを調べていたころに、敵対した井伊大老の居城ということで 1 回だけいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」

やつがれ、なにを隠そう、ちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みのまちが好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本 トクホン 行者 六字名号碑   南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものである! それにしても、なんのゆえありて、彦根ではなく、
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
ト、彦根城とのたもうたのか、考えなかった時点でもはや敗北。

¶ 雨中の江州路をゆく……。
こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。

やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず傘をさしたまま、雨のなかのながい行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。
きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところ(彦根城博物館ホール)に、50人ほどの来館者を次次と入れて、そこに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。
濡れながら行列に並んで、やつがれはまだ「ひこにゃんとは、いったいなんぞい」とおもっていた。

ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ひこにゃん」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。

かつて徳川家康の麾下にあった井伊直政は、徳川四天王とされ、その麾下は勇猛で、つねに先鋒の役をつとめたとされる。井伊家の軍勢とは甲斐武田勢の一部を継承したもので、「井伊の赤備え」と敵方からおそれられた赤い兜も、愛嬌のあるものにかわっていた。
ここではうんちくは不要だろう。ともかく「ひこにゃん」はあいらいく、おもしろかったのだから。

       エッ、この人力車に乗ったのかって ── 乗るわけないでしょうが、いいおとなが ── 。ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。
ハイハイ正直に告白。「ひこにゃん」も大わらいして見ましたし、この人力車にも乗りましたですよ、ハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。

ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと玄宮園のほうまで歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳)。
実際は、なによりもはやく旨い近江牛を食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする ケド)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。
────────────────
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ひこにゃんに 嗤いころげて 城けわし
    青葉越し 天守の甍に しぶき撥ね
    湖ウミけぶり 白鷺舞いて 雨しげく

木邨重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

 

¶  簡素な浄土宗の寺、宗安寺
彦根市本町2丁目3-7に 宗安寺 はある。この通称赤門とされる「山門」は、石田三成の居城、佐和山城の正門を移築したものとされる。
その脇には徳本トクホン行者の筆になる六字名号「南無阿弥陀仏」の巨大な碑がある。このひとと、この六字名号碑に関しては、いずれ本格的にとり組みたいとおもっている。

ご本堂向かって左手奥の墓地には、戦国武将・木村長門守重成( ? -1615)の首塚が、ひっそりとたたずんでいる。重成は豊臣秀頼の家臣として、大坂冬の陣で善戦し、その和議に際しては徳川家康の血判受けとりの使者をつとめた知略のひとであった。
翌年大坂冬の陣若江堤で戦死し、首実検ののちに安藤長三郎が譲り受け、代代安藤家の墓域で守護をつづけているものであった。どちらもあっぱれ、忠義の家というべきだろう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、五月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員の O さんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付 @メール が送られてきた。

O さんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。また O さんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもサラマ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

朗文堂好日録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、佛跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと。台湾グルメ!

《そも  佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉  特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。

なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で

したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。

【 佛 跳 牆 】

◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。

一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。

◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると
「佛さまが  はねあがって  舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。

◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。



 
★  新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★  新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆  部首爿部  シフトJIS E0AD」には、異体字「墻  部首土部  シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。

ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。

余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。

類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。

「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法  版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。

中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。

この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。

むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫ 
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。

《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ  2011.10.04 

すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。

★      ★      ★

《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

 

 

まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。

殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。

河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。

河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。


上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。

「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。

後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。

河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。

甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。

うんちくが長くなった。整理しよう。  

【 佛 跳 牆 】

あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。

 《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。

「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」

漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
 それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。

そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
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「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。

また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈志村けんお笑いトリオ・ネプチューン研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
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まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。

別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。

 

一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。

悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。

二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。

ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
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ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。

ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。

しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。

提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。

そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。

《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。

それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。 
★ 朗文堂好日録-025
  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

   

台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。

ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。

  

ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。

台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」

どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮  JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし

[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
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ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。

《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?     

おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。

宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト! 


牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕 
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《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。

ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。

ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。

だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。

やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。

《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。

ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。

 

「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。

つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。

ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。

 

《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」

   

中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。

地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。

朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で  

 

《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ  Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。

まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって  2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。

ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字  文字談義などはいかがでしょう。

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《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。

24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
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林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。

博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。

道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。

道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ──  ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。

上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。

     

台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。

また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。

「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。

民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。

なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる

当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。

つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25  日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。

これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
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林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
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帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影) 

朗文堂好日録-025 台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

《 活版カレッジ Upper Class 有志旅行 台 湾 探 訪 》
わが国の活字鋳造法、なかでも活字母型製造法は、再再触れているように幕末・明治最初期から昭和 25 年ほどまでは「電鋳式活字母型製造法」(電胎法ともいう)であった。
その状況がおおきく変化したのは、1949-50 年(昭和 24-25 )に、三省堂が所有していた「機械式活字父型・母型彫刻機 いわゆるベントン彫刻機」の国産化に、津上製作所、ついで不二越製作所の両社が成功し、それが急速に普及したためである。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884 年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」であった。
しかしながらこの方式による活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012 年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から 128 年、国産化から 62 年という歴史を刻み、2012 年をもって専業者レベルにおいては事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、もはや専業者がいなくなり、また残存するわずかな原字パターンの字体にも、いわゆる「常用漢字字体表」などの字体資料と、あきらかな字体の齟齬が相当数にみられるようになった。
すなわち、いまやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という 19 世紀の技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造、活字組版会社、日星鋳字行(行 ≒ 店)の存在と、その CAD 方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
台湾における活版印刷と、活字鋳造の現状は、臺灣活版印刷文化保存協會の柯 志杰 カ シケツ さんによると、
   いまの台湾では、活字鋳造、活字版製造、活版印刷の崩壊を、あやうく
   防止できたという段階にあり、これから徐徐に活字母型の修復作業に
   とりかかりたい。
   将来課題としては、新刻作業に入りたいという希望をとおくに見据えている
   段階にある。
ということであった。

したがって、この活字母型 CAD 式製造法をまなぶことを主目的とした台湾旅行は、一昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。
その間逆に、2011 年の年末に、数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、2011 年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
そしてなによりも、日星鋳字行は、震災で中断しながらも、翌年 5 月に再開した《活版凸凹フェスタ 2012 》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
それらの研究と交流の成果は、以下のページに収録されている。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート 14 
★朗文堂-好日録 019 活版カレッジ台湾旅行

今回は「台湾探訪」『アダナ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫)をもとに、ときおりやつがれが介入するかたちで、すこしふるい情報ながら、活版実践者の皆さんが 2012 年 10 月06-08日、 2 泊 3 日の短い日程のあいだに、いかに台湾にまなび、いかに台湾を満喫したのか、その姿をご紹介したい。

なお写真にはやつがれがしばしば登場するが、それはデジカメをもたず(ひとによっては「使えず」とも評す。まっこともって けしからん発言である。事実だけど。)、撮影どきに暇そうにしているから被写体となったに過ぎず、けっして出たがりではない。ここに為念強調しておきたいのだ。 〔ここまでカタシオ wrote〕

★     ★     ★     ★

「台湾探訪」『サラマ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫より転載)

「活版カレッジ」(3ヶ月間 全9回)を修了された活版カレッジ Upper Class」の皆さん恒例の有志旅行も、今回で3回目となりました。
2012年10月06-08日の3連休を利用して、今回は「活版カレッジ Upper Class」はじめての海外旅行、台湾の台北 タイペイ 市に行ってまいりました。その際の訪問先のいくつかをご紹介いたします

《台北  松山空港》
東京と台北間の直行便での空の旅は、成田空港 ⇔ 台湾桃園トウエン国際空港(旧・中正チュウセイ国際空港)の便と、羽田空港 ⇔ 台北松山 ショウザン 空港 の便があります。今回は台北市内へのアクセスが便利な、羽田空港 ⇔ 松山空港便を利用しました。
参加者の中には、松山空港が台北の空港の名前とは知らず、
「羽田空港から国内線で、愛媛県(四国)の松山 マツヤマ 空港を経由し、そこで国際線に乗り換えて台湾に入るものだ」
と出発間際まで勘違いしていた人もいて、最初から笑いの絶えない旅となりました。

航空会社は、創立から現在まで、死者や航空機全損事故は皆無だとして、世界で最も安全な航空会社として知られる「エバー航空」を選択しました。
台湾の航空会社ですが、機内でも日本語が通じますのでなにかと便利です。

搭乗した便は「ハロー・キティ号」だったため、機体はもとより、座席も食事も、エチケット袋からトイレットペーパーに至るまで「キティちゃん」づくし。空飛ぶアミューズメントパークといった感じでした。写真は松山空港到着時のもの。

飛行時間は〔東京 → 台北〕約4時間、〔台北→ 東京〕約3時間です。なお日本と台湾との時差は1時間です。

台北松山空港に着くと、そこの時計の広告に「労力士 = ローレックス」の文字がありました。さぁ、いよいよ漢の字の国へ来たなという実感がわきます。

《初日・昼 ──── 日星鋳字行 台北市大同区太原路97巷13號》
松山空港からタクシーに分乗して、ホテルのチェックインに先だって、荷物を抱えたまま、現在台湾で唯一営業を続けている活字店「日星鋳字行」さんをまっ先に訪問しました。
ここの取材が今回の旅の主目的でした。

日星鋳字行代表の張介冠 チョウ-カイカン さんと、台湾活版印刷文化保存協会の柯志杰 カ-シケツ さんは、今まで何度も朗文堂を訪ねてくださり、2012年には< 活版凸凹フェスタ> にも出展されて、同じく活版印刷を愛し、その存続を願う活版カレッジの皆さんともすっかり打ち解け、交流を重ねてきました。なお、中国語で「行」は「お金を扱うお店=銀行」と同様に「お店」という意味です。「銀行」は現代中国でももちいられていますが、意外なことにわが国での翻訳語が元で、明治の奇妙人・福地櫻痴が Bank から翻訳したとされています。

日本の活字店では活字の鋳造と販売が中心であり、活字組版はおもに活版印刷所で行うことがもっぱらですが、台湾では活字鋳造と活字組版を行うところまでが活字屋さんの役割です。
すなわちもともとの活字印刷版製造所、略して活版製造所の業務であり、活版印刷所へは活字組版の状態で納品となります。

そのため、日星鋳字行では、日本の活字店のような差し込み式の収納棚に、部首順の活字ケースを仕舞い込むのではなく、ふつうの活版印刷所と同じく、文選がしやすいように、対面式の活字馬棚ケースに、部首別かつ使用頻度順に配置された活字ケースがずらりと並んでいました。

簡体字政策が進んだ中国大陸とは異なり、台湾では繁体字が広く使用されています。そのため日星鋳字行には、大陸の簡体字にくらべて日本人にも馴染みが深い、旧字体を含む繁体字の漢字活字が豊富に揃っていました。

今回の旅の一番の目的は、日星鋳字行代表の張介冠さんが取り組んでいる、現代のテクノロジー CAD(Computer Aided Design) を採用したあたらしい活字母型の製造方法の見学と、その新しい技術を使ったオリジナルの活字母型と、鋳造活字の製造でした。

今回は、あらかじめ原字のデジタルデーターを送付しておき、日本ではすでに鋳造が難しくなってしまった「初号  42 pt 」の大きさの活字を作ることにしました。
まだ台湾に着いてから数時間にも関わらず、参加者それぞれのオリジナル初号活字ができあがったとたん、喜びのあまり、

「早く家に帰って、自分の活版印刷機で、この MY 活字を印刷してみたい!」
と言い出す面〻です。ともかく台湾初日の最初の訪問先にて、すでに大満足の活版カレッジ Upper Class のメンバーでした。



【 新塾餘談 ──── なぜか好きなもの 文選箱とゲラ 】
文選箱大好きという、龍爪堂コレクションに、あらたに加えられた 日星鋳字行による新製造の文選箱。台湾でもすでに文選箱が不足がちで、あらたな企画で文選箱の製造・販売をはじめていた。
張社長によると、売れゆきは期待値の半分もないとのことだった。わがサラマ・プレス倶楽部では教育機関などには新品を供給しているが、まだ中古品の在庫が若干あり、個人ユーザーでは、新品と中古品の要望が半半といったところか。

写真左 : 台北・日星鋳字行が新製造した文選箱。材料 : アメリカ杉。9pt.活字 25×20 本 2 段。工業用糊+釘打ち。頒価 : NT$  400元(税別)
写真右 : サラマ・プレス倶楽部が新製造している文選箱。材料 : ホオの木。五号活字 40×20 =800 本収納。一部入れ子細工。定価 :1,000円(税別)

《版画工房 美好一日工作室 One Fine Day Studio  台北市大同区太原路 97 巷 16 號》
日星鋳字行のすぐ向かいにある版画工房が「美好一日工作室  One Fine Day Studio」です。
代表の楊 忠銘 ヨウ チュウメイ さんは若手の版画作家ですが「台南藝術大学」や「MOCA 台北當代藝術館」で後進の版画指導もされています。

楊忠銘さんは、学生に活版印刷について教える際には、サラマ・プレス倶楽部編『 VIVA !! カッパン♥』を積極的に参考資料として活用しているとの嬉しい報告もありました。また揚忠銘さんは日星鋳字行とのコラボレーションによる、新しい絵柄の活字デザインも意欲的に行なっています。

《初日・夜 ──── 寧夏夜市、鬍鬚張(ひげ張)  台北市大同区寧夏路62號》
外食が日常化している台湾では、夜市が連日連夜開催されています。そのなかでも、寧夏夜市は歴史が一番古い夜市で、日星鋳字行さんからは徒歩で10分程度の近距離にあります。
今回は寧夏夜市内にある「鬍鬚張-ひげ張」さん本店で、張さんご一家と、台湾活版印刷文化保存協会ならびに台湾大学大学院の皆さんを交えての、楽しくにぎやかな夕食会となりました。




  

「鬍鬚張」さんは日星鋳字行代表の張 介冠のご紹介でした。「鬍鬚張」は本来「魯肉飯 ルーローファン」の老舗ですが、鬍鬚張二代目社長の張 永昌さんと、寧夏夜市観光協会の張 永賢さんの粋なはからいによって、一店舗に居ながらにして、寧夏夜市の人気屋台料理のすべてを調達してくださる「寧夏夜市  ミニ満漢全席」なるサービスを受けました。

なおここに登場する 3 人の張さんは、親しいご友人ですが、縁族ではないそうです。
今や台湾全土に支店がある「鬍鬚張」さん。日本にも石川県に支店が2店舗あるそうです。
こうして台湾到着から数時間の、収穫と刺激の多かった長い一日が終わりました。

《 2 日目・午前中 ──── 公館駅・台湾大学周辺》
皆さん強行日程だった1日目の疲れもみせず、早朝から各自で朝食をすませて、ロビーに集合。タクシーに分乗して公館駅周辺の古書店街にでかけました。
台湾では古書のことを「旧書(舊書)」あるいは「二手書」(まさに「Second Hand」ですね)と呼びます。以前は、中正区の高架道路の下の旧光華商場に、古書や骨董の市場街がありましたが、現在は新しいビルが完成して、秋葉原のような電気街へと変貌しているため、今回は台湾大学周辺の学生街で、古書店も多い「公館駅」の周辺を散策しました。

  
この周辺は台湾大学、台北大学も近いために、神田神保町というと大袈裟ですが、昔ながらの古書店である「公館舊書城」(台北市中正區汀州路三段130號)や、「古近書廊二手書店」台北市中正區羅斯福路三段244巷23號、17號)、ブックカフェ風の小奇麗な古書店など、たくさんの古書店があります。棚には日本の本や、中国大陸から来た本もたくさん並んでいました。

  学生街のため、安くて美味しい飲食店がたくさんあるのもこの地区の魅力です。
人気の台湾スイーツのひとつに「タピオカ・ミルクティー」があります。台湾では「タピオカ」のことを「青蛙」と表記し、お店のトレードマークに蛙を採用しているお店も少なくありません。
タピオカがカエの卵のようにみえることからその名称がうまれたと聞きました。人気店の長い行列にならんで、ようやく購入した「タピオカ・ミルクティー」は絶品で、ほとんど飲んでしまってからの写真となりました。

《 2 日目・昼から ──── 台湾故宮博物院 台北市士林区》
この日の皆さんは、公館駅のちかくでいくつかのグループにわかれて、古書店やスィーツを楽しみ、公館駅周辺のお店で軽食をとってから「故宮博物院」にかけつけました。

「故宮博物院」といえば、中華人民共和国北京市の「故宮博物院(紫禁城)」と、中華人民共和国遼寧省省都:瀋陽市(旧満州奉天)の「瀋陽故宮博物院」、中華民国台湾台北市の「国立故宮博物院(台湾故宮博物院)」があります。なかでも台湾の故宮博物院は、その貴重かつ膨大な収蔵品の数から、大陸中国の故宮博物院を差し置いて、世界四大博物館 のひとつに数えられています。


故宮博物院は、ラストエンペラーで知られる溥儀 フギらの清王朝の一団が紫金城を退去したのち、1925年に紫禁城の宝物を一般に公開したのがはじまりです。その後、日中戦争や中国大陸での内戦の激化により、蒋介石率いる国民党軍(のちの中華民国政府)によって、紫禁城にあった宝物の一部は、北京から南京などに避難の旅を続けました。

のちに形勢が不利となった国民党軍(中華民国政府)とともに、宝物は台湾に渡り、台湾故宮博物院 の開設となりますが、その際台北に運び込まれた宝物は3,000箱近くに及んだとされています。
この中国大陸から台湾への宝物の移動は、結果的にのちの文化大革命時代の中国大陸の美術品破壊から宝物を保護することへもつながりました。
混乱期の長旅を経て台湾に辿りついた宝物は、紫禁城に残った宝物にくらべて小振りのものが中心ですが、選りすぐりの逸品揃いであるといわれています。

なお、台湾故宮ではスタッフのほとんどが、国語(北京官話)、台湾語(もともと福建省寄りの言葉が台湾独特の方言に発展したもの)、英語、日本語をあやつるマルチリンガルです。そのため無理をして英語を使うより、むしろ日本語のほうが通じます。また、ミュージアムショップでは日本語版の図録や DVD も多数販売されています。
展観の途中から消えた松尾篤史さんと「やつがれ」さんは、古書店に続いて、ここのミュージアム・ショップでも図書をどっさり買いこみ、ひとりでは身動きもできないという始末でした。

《 2 日目・夜 ──── 士林夜市》
士林夜市は台湾で一番大きな夜市で、故宮博物院と同じ士林区にあります。2011年の年末に新しいビルの地下に美食街がつくられ、そこに多くの屋台が移転したばかりでした。いまはビルの地下ですから昔のような風情は無くなりましたが、衛生面や安全面も向上し、屋外屋台のような雨の心配もいりません。

  

  

士林名物の巨大フライドチキンに、特大台湾ソーセージ、牡蠣オムレツ、青蛙下蛋(直訳は「蛙の卵」ですが前出のタピオカのことです)、マンゴーかき氷などの人気店が立ち並んでいます。

ところで、旅の途中 Upper Class メンバーがたびたび「マンゴージュース」を注文しましたが、口頭で注文すると、どういうわけかいつも「オレンジジュース」が出てきていました。
欧米のカフェで「珈琲」を頼むと「コーラ」が出てしまうことがありますが、それと同様に「マンゴー」が「マンダリン-マンダリンオレンジ」に聞こえてしまったのでしょうか。ちなみに、台湾語でマンゴーは「ソワァンヤァ」と呼ぶそうです。

《ホテル  ──── 圓山大飯店 台北市中山区中山北路四段1號》
台北松山空港に飛行機が到着する直前、飛行機の窓から竜宮城のような、巨大で絢爛豪華な建物が見えました。
「あれが台湾故宮博物院かな」
と思っていた Upper Class の面々は、空港からもみえるその威容に、
「あれが、今回皆さんが泊まるホテルですよ」
と聞かされても冗談だと思っている様子でした。

圓山大飯店の豪華絢爛なロビーに案内され、さらに呆気にとられた面々は、チェックインの手続きをはじめても、まだ半信半疑の様子で、
「予約のときにホテル代はそんなに高くなかったけど、本当にここに泊まるの? 追加料金取られない?」
と心配の様子でした。

台湾にはもっと安くて、最新設備を整えた小奇麗なホテルや、もっと高額なラグジュアリーホテルもたくさんありますが、そのような現代的な西洋風ホテルよりも、内容の割にはリーズナブルな価格でありながら、台湾らしさを存分に満喫でき、贅沢な気分に浸れるのが圓山大飯店です。

その昔、台湾政府の迎賓館として使用されていた建物の壮大さと、中国の宮廷建築の特徴が盛り込まれた装飾は圧巻です。客室も広々としていて、各客室占有のベランダだけでも一部屋分くらいの広さがあります。


《 3 日目・最終日 ──── 圓山大飯店内の飲茶の店・圓苑での昼食会 兼 ハプニング》
短い滞在だった3日目、最終日の午前中は、皆さん地図を片手に町歩き・お買い物を楽しまれました。昼食は圓山大飯店の中にある飲茶のレストラン「圓苑」です。
ホテルの中のレストランにしては、手頃な価格帯で美味しい飲茶が頂けます。

   

今回はたまたま、お誕生日が近いメンバーが3名もいましたので、圓苑名物の「紅豆鬆糕(豆入りライスケーキ)」をホールのままひとつ注文し、バースデー・ケーキ代わりにしました。

大皿で提供される中国料理は、少ない人数では2-3品程度ですぐにお腹がいっぱいになってしまうため、いろいろな料理を楽しむことができませんが、今回は適度な人数で食卓を囲むことができたため、品数も豊かに、台湾での最後の楽しいひとときを過ごすことができました。

そして、山ほど買いこんだ「台湾特製活字」をはじめ、柿+ミカン+子豚ちゃんの縁起物「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、実家がお茶屋さんだという某会員は、なんども下見を繰りかえし、比較検討の末、みずからの美意識に合致したという  ン万円の急須を買いこんだりと、楽しく収穫の多い台湾での旅を終えて、松山空港から羽田への帰国便に搭乗しました。
「勉強になったし、ともかく面白かったし、なんでも美味しかったねぇ。また台湾に来ましょうね」。
──── 皆さんのお声でした。

朗文堂-好日録024 禹王、王羲之、魯迅、孔乙己、咸亨酒店、茴香豆、臭豆腐

中国 ・ 紹興 「 咸亨酒店 」 と、東京 ・ 神保町 「 咸亨酒店 」 のふたつの 「 咸亨酒店 」 のことは、このタイポグラフィ ・ ブログロール 『 花筏 』 ですでに紹介した。
両篇とも相当量の長文だが、それぞれその終末部に掲載してある。
★朗文堂-好日録016──吃驚仰天!中国西游記 2012年08月01日
★朗文堂-好日録023──気がつけばカレンダーが1枚だけ! 2012年12月06日

《 東京 ・ 神田神保町/咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
この中国料理店に関してはつい先日 ★朗文堂-好日録023 で触れた。
神田神保町の「咸亨酒店」は、紹興の「咸亨酒店」を模してはいるが、料理そのものは 紹興  というより、そこからほど近い港町、寧波 ( ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる ) の家庭料理風の調理の店であった。
したがって味つけやメニュー構成は、相当日本人客を意識して、上海ガニやフカヒレのスープなどを前面に押し出している。

しかしながら、神保町「咸亨酒店」の中心料理は、数種類のお粥 ( 中国ではオカユはほとんど朝食として摂るが…… ) であり、なによりも紹興名産 ・ 紹興酒 ( 黄酒 オウシュ、ホワンチュウ ・ 老酒 ラオチュウ ) の5-15年といった年代物がずらりと列んでおり、左党にはたまらない店のようである。

「 酒店 」 とあると、やつがれのような酒が苦手な不調法者は入店をためらうが、「 咸亨酒店 」 では中国茶をたのむと格段いやな顔をせずに、大きな急須いっぱいの中国茶が出て、料理はどれも本場の 「 咸亨酒店 」 と較べても遜色がなかった。
なによりも 好ハォ !  なのは、天井が高いために、嫌煙家にもさまで嫌われずにタバコが吸咽できることだ。 愛煙家とてはいろいろ気にする昨今である。

上掲写真 右側の料理は、蘇東坡ソトウハ ゙( 中国北宋代の政治家 ・ 詩人 ・ 書家、蘇軾ソショク トモ ) の考案によるとされ、家人の大好物 「 杭州名物 東坡肉 トンポーロー」 を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。
写真を撮るのも忘れて半分ほど食べてから慌てて撮った写真で、妙なものになっているが、ともかく旨かった。

とかくわが国では気軽に 「 中華料理 」 という名称で呼んで、中国各地の料理をひとくくりにしているが、ロシアをのぞいて、50ヵ国ほどの国と地域ががひしめく  ヨーロッパ 諸国  が、そのまま中国一国の国土にスッポリはいるほどの広大さがあるのが中国である。

それなのにわが国では、ヨーロッパの、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理などの違いはつよく意識するが、あまりに付きあいのふるい 「 中華料理 」 となると、地域性、食材、調理法、味つけの違いなどには意外と無頓着になっている。

はやいはなしが 「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 は、どこの中国料理店でもあると考えているひとが多い。
したがって 「 中国料理店 」 の多くは、出身地や、その調理や食材の特徴を、「 陝西料理 」 「 四川料理 」 「 北京料理 」 「 湖南料理 」 「 浙江料理 」 「 福建料理 」 「 広東料理 」 などとあらわして、さりげなく主張している。

内陸部の「 陝西料理 」 「 四川料理 」 は、比較的味が辛く、羊や豚肉と小麦粉料理が中心である。
海岸部の 「 浙江料理 」 「 広東料理 」 は、比較的味が淡泊で、鶏や魚貝料理と米飯が中心である。

だいぶ以前のはなしだが、米国 ・ シアトルの 「 日本料理店 」 につれられていった。 そのさほど大きくない店には、寿司、ソバ、焼き鳥、すき焼きなど、なんでもござれのメニューがあって、おどろいたことがある。
それと同じで、「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 の豪華三点セット !?  は、日本式の 「 中華料理 」 だと心得たほうが間違いがすくないようだ。

それはさておき、若者の掲示板などでも 「 神保町 咸亨酒店 」 はそこそこの評価 を得ているようである。
神保町 「 咸亨酒店 」 は皆さんも一度お試しいただくとして、紹興の 「 咸亨酒店 」 を理解していただくために、同店の屋外看板の解説をテキストで紹介しておこう。

咸 亨 酒 店   かんきょうしゅてん/シャン ヘン ジュー デェン
「 咸亨酒店 」 は、紹興酒のふるさと、中国浙江省紹興に、清朝時代(1894-96)に実在したお店です。
魯迅 ロジン をはじめ、多くの文化人に愛されたこの店は、彼らの憩いの場ともいえる由緒ある名店でした。( 現在のお店と建物は、1981年に魯迅の生誕百周年を記念して復興されたものです )。
魯迅は、故郷の紹興酒とともに、生家の近くにあったこの店をこよなく愛し、名著 『 孔乙己  コウイッキ 』 の舞台として描き、この店名を世界に広く知らしめました。
当店は、日本で紹興酒の専門店を開業するにあたり、紹興の多くの関係者から賛同と幾多の協力をいただき、この神保町に咸亨酒店を創りました。
石造りの建物と、柳の木は、古都紹興の街並みを連想させるもので、看板の文字は、書聖と称される王羲之を奉る紹興の名所 「 蘭亭 」 の胡 雄氏の直筆によるものです。
1992年3月16日

《 紹興のまち、簡略紹介 》
紹興 シャオシン Shaoxing (中国版 : 紹興) は、浙江省省都の杭州、あるいは杭州空港から、電車でも高速道路でも30-40分ほどの距離にあり、人口は500万人、浙江省の副都ともされる。
ふるくから拓けたまちで、会稽、山陰(阴)、大越、上都、仙都 などの異称もある。

このまちの名産品に ご存知の 紹興酒(シャオシンチュウ  黄酒 ・ 老酒) がある。
紹興酒は このまちではおもに 「 黄酒 ホアンチュウ、huáng jiŭ 」 と呼ばれ、糯米モチゴメを主原料として発酵させた醸造酒であるが、そのなかでも長期間熟成させたものを 「 老酒  ラオチュウ」 と呼んで珍重する。

いずれにしても下戸のやつがれには 「 猫に小判 」 であるが、日本の 「 中華料理店 」 とされる店でだされるものは、ほとんどが台湾産の 「 紹興酒 」 であることぐらいは知っている。

写真01) 禹王廟にあった紹興酒の献上品。わが国でも神社仏閣などに、薦被りの清酒がならぶ光景をみるが、伝説の王朝 ・ 夏カの創始者/禹王ウオウ廟に献上された紹興酒は、緋毛氈の上に太鼓とならんで、うやうやしく置かれていた。
写真02) 杭州から紹興への高速道路のドライブインの売店でも、さまざまな紹興酒を販売していた。ブランドと製造年代も、大小各種のものがならんでいた。
写真03) ドライブインに 「 紹興特産  臭豆腐 しゅうどうふ、チョウドウフ」 の売店があった。 これに関心をしめしたことが、2時間ほどのちに、たいへんな悲劇 ?  喜劇 ?  をもたらした。
写真04) 紹興のまちのあちこちにも、紹興酒の銘柄の懸垂幕と酒家の名前がみられる。「 会稽山 」 「 紹興古城 」 はいずれも紹興酒のブランド名。 背景の 「 咸豊 カンポウ 酒家 」 は、中国清代末期の元号 「 咸豊 」(1851-61)で、ふるい創業を誇っている。

ふるくから、それも有史以前からひらけたまちなので、名所 ・ 旧跡は数えきれないほどある。
◎  大禹ダイウ陵-伝説の王朝・夏カ王朝の創始者/禹王の陵 (伝BC2070頃)。 〔中国版 : 禹王
◎  府山公園-春秋時代  の王城跡。越王殿(BC600頃-BC334)。〔中国版 : 越王勾践〕
◎  蘭亭-王羲之(推定303-361) 蘭亭序 の碑と、「 中興中路 」 にある書聖故里
   ( 『 蘭亭序 』 は中国歴 ・ 永和9年3月、西暦353年、わが国は古墳文化の、まだ無文字の時代の作 )
◎  魯迅故里-魯迅(1891-1936)の生家と記念館。
◎  周恩来故居-周恩来(1898-1976)元首相の生家と記念館。 未訪問。
◎  会稽山—中国九大名山のひとつ。会稽刻石 ( 始皇帝の宰相 李斯 碑 ) がある。
  山頂までは未訪問。〔中国版 : 会稽山〕
◎  宋六陵—南宋皇帝の墓陵。 江南では最大の皇陵区。〔中国版 : 宋六陵〕 未訪問。

《 紹興と魯迅、魯迅と版画、魯迅の図書装幀 》

禹王廟から会稽山山系をのぞむ。かつてこのあたりが会稽と呼ばれていたように、紹興のあちこちからこの山容と、山頂に設けられた伝説の夏カ王朝 ・ 禹ウ王の巨大な立像をみることができる。

禹ウ王殿境内の土産物店で、おおきな紫紺の扇に、金泥で 『 蘭亭序 』 を老人が書いていた。 2012年07月15日だったが 猛暑の日で、老人は半裸になってブツブツと 『 蘭亭序 』 を唱えながら、相当の力量の行楷書で鮮やかに書いていた。
片隅に、もうたれも買わなくなった1970-80年代のふるいパンフレットを売っていたので、懐かしくなって購入した。 扇子は寶物のひとつとなった。

下に、その扇子の写真と、昨年秋に杭州の土産物屋で購入したもので、竹簡を模した 『 蘭亭序 』 ともども紹介する。現代中国でも、いかに 「 書聖 ・ 王羲之」 と、『 蘭亭序 』 が愛されているかわかる。


写真上) 魯迅の肖像写真とそのシグネチュア(署名)。
      〔『 魯迅与書籍装幀 』  上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月 〕
写真下) 紹興の大通りに面した 「 魯迅故里 」 の入口広場。 中央の座像 2 体がなんなのかは、あまりに暑く、またこの直後から団体客が押しよせて取材できなかった。 このあたりは人口500万の大都市 ・ 紹興の中央通り 「 中興中路 」 に面しており、すっかり近代化されていて、ちかくには ESPRIT や、マック、ケンタッキーなど、国際資本の店舗もたくさんあった。

魯迅の旧居にむかう道中で、フト「 老年活動室 」 の看板が目についた。 扉が開けっぱなしだったので、
「 ン !   これはオレのための施設かナ 」
とおもって、断りもなく、勝手にはいった。
奥でトランプゲームと、麻雀をやっていて 「 老年活動室 」 はにぎやかだった。麻雀のメンツ ・ ターター(人数あまり)で暇をもてあましていた(ここでは)若け~のが、
「 日本からきたの、アッソ~。 暑いねぇ~ 」
といった (らしい、多分。 早口の中国語で詳細不明だったけど )。
ここ 「 老年活動室 」 で、暫時休憩、暫時一服。 ここにすっかり馴染んで、くつろいでしまっているやつがれが、チョイと口惜しいではないか!

写真上) 魯迅故里にある魯迅の故居。 扁額には 「 魯迅祖居 」 とされている。 簡素で好感がもてる建物だったが、夕方で閉館されていて内部には入れなかった。
写真下) 魯迅の故居前の記念碑。 よく整備されていて、涼風を感ずる、あかるい空間だった。

魯  迅  ── Lu Xun  本名 : 周 樹人。中国 ・ 浙江紹興のひと。 1881-1936年。
〔中国版 : 魯迅〕
 〔魯迅関連 画像集〕

中国の近現代文学を代表する存在。 はじめ医学をこころざし、東京 ・ 牛込の日本語学校・ 弘文学院の松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校 ( 現在の東北大学医学部 ) に留学した。
しかし日露戦争の記録映画などをみて、医学にかえて文学による漢民族の民族性の改造をこころざし、帰国後に発表した処女作 『 狂人日記 』 〔青空文庫 : 狂人日記 〕 で評価をうけた。

そののち、自著自装本 『 吶喊 』(トッカン、鬨トキの声 )に 「 狂人日記 」、「 孔乙己 コウイッキ」〔 青空文庫版 : 孔乙己 コウイッキ〕 〔 孔乙己 コウイッキ 画像検索 〕、 「 故郷 」〔 青空文庫 : 故郷 〕、「 阿Q正伝 」〔 青空文庫 : 阿Q正伝 〕 などの著名な短編作品を収める。
──────────────
以上がおおかたの魯迅の略歴紹介である。 邦訳 ・ 公開されている短編小説にはリンクを設けたので、できたらお読みいただきたい。 やつがれが好きなものをあげておいた。

ところで……、ここで意外に見落とされている事実を紹介したい。
魯迅は中国近現代を代表する文学者であり、創作 ・ 社会批評 ・ 海外文学の紹介者とされている。

ところが魯迅は、相当の力量をもった装幀家であり、ブックデザイナーであり、木版版画の実践者であり、推奨者でもあったことである。

魯迅の代表作 『 吶喊 』(トッカン、鬨の声。魯迅著、北新書局、1926)を、自著自装本であるとして紹介した。 この資料 『 魯迅与(ト)書籍装幀 』 ( 上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月)は、「 咸亨酒店 」 の復元とおなじ年、魯迅生誕100年を期して刊行されたデザイン書である。

同書によると、魯迅は自著を含め64冊の書籍や雑誌の装幀にあたっている。
デザイン傾向は様様で、アールヌーボー、ロシア構成主義、アールデコ、日本大正ロマン、1925年代国際主義 ( いわゆるバウハウス ・ スタイル ) などの影響が、それぞれ顕著にあらわれている。
以下に魯迅の装幀による書物のいくつかを紹介する。

             

     

     

     

     

興味ぶかいのは、魯迅は相当印刷術に精通していたとみられ、石版印刷、木版と活字版を併用した凸版印刷の技術を縦横に駆使した格調のたかい書籍がみられる。 とりわけ木版画の使用に長けており、しばしば表紙や装画にもちいただけでなく、『 木刻紀程 壹 』( 魯迅編、鉄木藝術社、1934年) という、木版画彫刻の技法書まで刊行している。
同書のなかで魯迅はつぎのように述べた。

中国の木版画は、唐から明まで、かつて見事な歴史があった。 だが、現在のあたらしい木版は、その歴史とは無関係である。 あたらしい木版は、ヨーロッパの創作木版の影響を受けたものである。
創作木版の歴史は朝花社にはじまる。 その出版した 『 藝苑朝華 』 四冊は、選択と印刷製本が精巧ではなく、芸術界の有名人には黙殺されたが、若い学徒の関心をひきおこした。 1932年になって、上海に中国最初の「木版画講習会」が成立した。

ここにしるされた創作木版の 「 朝花社 」 は、魯迅と 作家 ・ 柔 石が組織した文芸団体であり、1928年11月成立、1930年春に終結した。
また 『 藝苑朝華 』 は魯迅の朝花社が編集出版したもので、下記の5冊の版画集を刊行した。
   1.『近代木刻選集』(1)、 2. 『蕗谷虹児画選』、 3. 『近代木刻画集』(2)
   4. 『ビアズリー画選』、    5. 『新ロシア画選』

また、竹久夢二とともに抒情画家として知られる 蕗谷虹児 (フキヤ-コウジ  童謡 ・ 花嫁人形の作詞者、挿絵画家、1898-1979)〔 蕗谷虹児画像集 〕 の影響も見られるだけでなく、『 蕗谷虹児画選 』 ( 芸苑朝花第一期第二輯、朝花社出版、1929) まで装幀・刊行している。
「 童謡  花嫁人形 ♪  金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら 花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ 」
の作詞者、新潟県新発田シバタ市出身の蕗谷虹児と、その新発田市の記念館のことは  ★朗文堂-好日録012 に 紹介したことがある。

郵便切手にもちいられた、蕗谷虹児画の「花嫁」。2013年の正月、新宿の郵便局でも積極的に販売されていた。 無粋ではあるが不正使用が無いように一部に画像処理を加えて紹介した。 いずれにしても蕗谷虹児と魯迅とは  ──  なんとも考えさせるテーマである。

どちらかというと、葉巻をくわえ、髭を蓄え、いかつい風貌の魯迅が、少女向けのロマンチックな絵画をのこした蕗谷虹児の、どこに惹かれたたのかとかんがえると、ほほえましいものがある。

以下に、たまたま気になって保存していた 「 町田市民文学館ことばらんど-蕗谷虹児展 」 のパンフレットを紹介しよう。 裏面右下に、魯迅 『 蕗谷虹児画選 』 の表紙が図版紹介されている。

すなわち魯迅(1881-1936)は、わが国の恩地孝四郎(1891-1955)よりはやくから、版画の近代運動に尽力していたこととなる。
恩地孝四郎は、最近作品集が翻刻出版され、評伝も刊行されたので、一部で注目されている。 恩地は東京うまれ、東京美術学校中退。 『 月映 ツクハエ 』 同人として抽象的版画を製作し、創作版画運動にも尽力した。 また 「 アオイ書房 」 志茂 太郎の物心共の援助をえて、愛書誌 『 書窓 』 を編集 ・ 装幀した人物である。

昨秋に、そのときが 「 中秋節 」 と知らずに杭州を訪れたことがあった。 ひどい混雑だったが、西湖白堤にある 「 浙江美術館 」 で、大大的に 「 魯迅と木版画展 」 をやっていた。
そこには魯迅が愛用していた彫刻刀も、何本も陳列されていた。 文豪 ・ 魯迅は、また版画家でもあったのである。

また20年ほど前の1994年に、町田市立国際版画美術館が 『 1930年代 上海 魯迅 』 と題して、魯迅の版画運動を紹介したことがあった。 あれからはや20年、日中交流もだいぶ容易になったいま、もういちどどこかの文学館なり美術館が 《 文豪魯迅の図書装幀 》 とでも名づけて展覧会を企画してもらえるとうれしいのだ。

《 魯迅著 『 孔乙己  コウイッキ 』 と  茴香豆 ウイキョウマメ  ──  咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
ここからの紹介は、団塊世代の皆さんが、実に熱心に歩きまわって取材し、丁寧に写真を撮って、ブログなどに紹介されていることばかりである。
そもそも日ごろから 「 衣食住にはさほど関心がない 」 とうそぶいて、出歩くのをいるやつがれなぞは、およそグルメ紹介などには適さない。 おおかたは旅に同行したノー学部のなすところである。

「 咸亨酒店 」 は清代に実存した店で、魯迅の短編小説 『 孔乙己 』 に紹介され、主人公の孔乙己の名とともに知られることとなった。 現在の店舗は1981年に魯迅生誕100周年をもって、外装は旧店舗にできるだけ忠実に再建されたものである。

店のシンボル孔乙己 コウイッキ は、官僚登用試験 ・ 科挙の落第生とおぼしき人物として設定されているが、小説のなかの人物で、実在したわけではない。
また、この短編小説 『 孔乙己 』 の邦訳(井上紅梅訳)のなかでは、「 咸亨酒店 カンキョウシュテン」 ではなく、振り仮名つきで 「 咸享酒店  かんこうしゅてん 」 とされている。

中国の 「 百度百科 」 には、図版をまとめたものがおおくあり、それも下記にリンクで紹介した。 おなじキーワードで検索すると、驚くほどたくさんのブロガーの記述にでくわす。
中国版 : 魯迅 孔乙己図版 〕 〔 中国版 : 孔乙己 茴香豆 〕

写真上) 「 咸亨酒店 」 正面入口。 店の前には孔乙己コウイッキが、酒の碗をテーブルにおいて、茴香豆ウイキョウマメをつまんでいる立像がある。 観光客だけでなく、地元の客も多かった。 いまの 「 咸亨酒店 」 は、1981年に魯迅生誕100周年を期して再建されたものだという。
写真中) 外のテラスでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には 「 黄酒 」 の甕がならぶ。 地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
写真下) 魯迅はたそがれどきになると、ここにあらわれて、葉巻の紫煙をくゆらせ、茴香豆をつまみながら老酒をチビチビやっていたらしい。 やつがれもそれを真似て、チョイと一服。 ともかくこの日は暑かったのだ。

いまの 「 咸亨カンキョウ酒店 」 は店舗が近代化、拡張され、入口で飲み物とプリペイド ・ カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。 精算は出口のカウンターでする。
それが面倒なら、2 階席はテーブルクロスのかかった、本格的な酒店だという。 もちろんやつがれは庶民的な 1 階席でテーブルについた。

上掲料理写真の真ん中は、鶏の丸焼き料理。 右側が茴香豆。 最奥はその名もビックリ 「 臭豆腐  チョウドウフ」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり 「 臭豆腐 」 と書かれると、食欲が失せて敬遠していた。
キッチンは清潔で、どこもオープンキッチンになっていたが、「 臭豆腐 」 売り場だけはガラス張り。

「 臭豆腐 」 は、中国各地の屋台店などでみかける大衆食品であるが、紹興のまちでも名産とされている。 いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた ──  というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら 「 臭豆腐 」 をどんどん運んできた。
「 茴香豆 」 〔 茴香豆画像 〕 は空豆を八角という香辛料でゆでたものらしいが、 旨かった。

つまり 「 臭豆腐 」 を避けて 「 茴香豆 」 ばかりを食べていたら、臭いを気にせず、美味しいから 「 臭豆腐 」 も食べろと勧められた。
真ん中の写真は 「 臭豆腐 」 をほお張って、吐きだすにだせず、ウップしたまま絶句しているやつがれと、それを、
「 いいか、必ず、絶対に、喰えよな!」
といわんばかりに、つめたく ?  みつめるドライバーの潘 偉飛 さん。

このひと、日本語はできないが、身振り手振りと筆談で、ほぼ意思の疎通には困らない、 いい人なのだが……。
「 臭豆腐 」 はききしにまさる、すさまじい臭いで辟易するが、ふたくち目からは臭いも気にならず、食すと好ハオ!  ほぼやつがれが食べてしまった。 写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を 「 コーラ 」 と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「 アナタガタ   ココハ  紹興ヨ!  黄酒ヲ ノマナイデ  ドウスル 」
こんな具合だったようであるが、やつがれはすでにテーブルについて 「 茴香豆 」 と 「 臭豆腐 」 に挑戦中で、くわしくは知らない。 それでも自慢の黄酒より コーラのほうが高かった……。
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『 孔 乙 己 』 ( 魯迅著、井上紅梅訳、改造社、1932年11月18日) 〔参考 : 青空文庫版 孔乙己 〕

魯鎮ロチンの酒場の構えは他所ヨソと違っていずれも皆、曲尺形カネジャクガタの大櫃台オオ-テーブルを往来へ向けて据え、櫃台テーブルの内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午ヒルの休みや、夕方の手終テジマいに、いちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台テーブルに靠モタれて熱燗の立飲みをする。──これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。──もしモウ一文出しても差支えなければ、筍タケノコの塩漬や、茴香豆ウイキョウマメの皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷ナマグさの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著ハンテンギの方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装ミナリのぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店カンコウシュテンの小僧になった。
〔中略〕
孔乙己コウイッキが一度わたしに話しかけたことがあった。
「お前は本が読めるかえ」
「…………」
「本が読めるなら乃公ダイコウ、オレが試験してやろう。茴香豆ウイキョウマメの茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」
わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向ソムけていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。
「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」
わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって
「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」
孔乙己コウイッキは俄ニワカに元気づき、爪先きで櫃台テーブルを弾ハジきながら大きくうなずいて
「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」
彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。
〔中略〕
中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくなり、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入ワタイレを著て丸一日火の側ソバにいて、午後からたった一人の客ぐらいでは眶マブタがだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで
「一杯燗けてくれ」
という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台テーブルの下の閾シキイの上に孔乙己コウ-イッキが坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄ミスボらしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラ ムシロノコト を敷いて、肩から縄で吊りかけてある。
「酒を一杯燗けてくれ」
番頭さんも延び上って見て
「おお孔乙己コウイッキか、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」
孔乙己はとても見惨ミジメな様子で仰向いて答えた。
「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」
番頭さんは例のひやかし口調で
「孔乙己、またやったな」
今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一言イチゴン、
「ひやかしちゃいけない」
というのみであった。
「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」
孔乙己は低い声で
「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」
この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。
わたしは燗した酒を運び出し、閾シキイの上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆ミナの笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。
それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
次の年の端午の節句にも言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
中秋節にはもうなんにも言わなくなった。
それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。
たぶん孔乙己コウ-イッキは死んだに違いない。(1919年3月  魯迅記)

《 書聖 ・ 王 羲之  簡略紹介 》
王 羲之(オウ-ギシ 307?-365)。 あざなは逸少。 東晋の書家である。 また官僚でもあり、右軍将軍、会稽内史でもあった。
楷書と草書において古今に冠絶した存在で、その子 ・ 王  献之とともに 「 二王 」 とよばれる。
書に関しては、ある事情があって 「 真筆 」 とされるものは現存しない。

唐王朝の実質的な建朝者 ・ 二代皇帝 太宗 ( 李 世明、598-649 ・ 在位627-649 ) が貞観元年 ( 627 ) に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ ・ 長安を空前の繁栄に導いた。 その治世を 「 貞観 ジョウガンの治 」 という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。 その作は、西安 碑林博物館正面入口 「 碑亭 」 に置かれている 隷書碑 『 石台孝教 』 ( 天寶4年 ・ 745、後述 ) にあきらかであるが、また王羲之の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。
そして、書簡を中心に 王 羲之がのこした 『 蘭亭序 』 をはじめとする真筆の書は、その書を溺愛した唐の太宗 ・ 李世明が、すべてをみずからの陵墓 ・ 昭陵にともなったとされている。

写真上) 王 羲之と 『 蘭亭序 』 への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に 『 蘭亭序 』 はもちろん、生涯をつうじて収集した王 羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は 西安市郊外、九嵕山 キュウソウサンにある 「 昭陵  ショウリョウ」 である。

この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将 ・ 温韜 オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、いまだ未盗掘とされている。
昭陵は近年整備されて、巨大な石像もできた。 この巨大な皇帝陵のいずこかに 『 蘭亭序 』 をはじめとする王 羲之の真筆作品は、李 世明の遺骸のかたわらに置かれているとされる。

写真下)  昭陵 『 玄武門 』 跡地にて。
番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。 やつがれは、ただ [ 李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか…… ] という感慨にとらわれていた。 また太宗 ・ 李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。
初秋の山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。 いずれ詳細紹介の機会を得たい。
2011年09月。

★参考:新・文字百景*004  顔 真卿生誕1300年+王羲之

また、三国のころ、魏国の曹操によって薄葬がすすめられ、立碑が禁じられていたので、東晋のこのころの王羲之には碑文も現存しない。ただし臨模による 『 蘭亭序 』 『 楽毅論 』 『 十七帖 』 などの模作がある。

伝 ・ 王  羲 之  肖像画

王 羲之と顔 真卿に関しては、いずれ詳細報告の機会を得たい。 今回は王羲之の旧居跡とされるまちの風景の紹介にとどめたい。
魯迅故里から紹興の大通り 「 中興中路 」 を車ですこし走ると、東晋の時代、王 羲之の別業 ( 別荘 ) であったとされる 「 戒珠寺 」 がある。
このあたりは風致地区として、ふるい中国のまちなみがのこされている。 またすぐ近くには、墨池、題扇橋などの、王 羲之ゆかりの場所ものこされている。

台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寶シンポウ 諸事大吉 文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 アダナ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  お正月をことほぎ、ここに一部を修整して再掲載した。
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台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ……との要望が参加者からあった。
そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが……。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿+ミカン(だいだい、橘)+豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

◎ 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
◎ 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
◎ 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
◎ 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。


    
   

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月)

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰→夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実≒縁起のよい果物
   7.落葉肥大→落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味深い。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
────
このようにして「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、すなわち「柿+ミカン+豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて……、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来はやはり貴重な商品であった「布帛  フハク 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
文+字 の国とするゆえんである。
────
アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生有志の皆さんが、2012年10月6-8日、体育の日の連休を利用して、2泊3日の強行軍で台湾旅行に出かけた。
台湾での初日、活版製造所「日星鋳字行」での真摯なタイポグラフィ学徒の皆さんの紹介と、翌日からの休暇を、故宮博物院観覧と、まち歩きをめいっぱい楽しまれたときの詳細記録は、朗文堂の『タイポグラフィ・ブログロール  花筏』において順次紹介の予定である。こちらも合わせてご覧いただきたい。
★タイポグラフィブログロール 花筏 朗文堂好日録-019 

タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas

 これはナニ? なんと呼んでいますか?
仮称「活字の原器」 と「活字のステッキ」
わが国新号数制
活字の最小公倍数 504pt., 42 picasとは

活版関連業者からお譲りいただきました。

2012年03月17日 掲出/2012年12月25日 修整版


《この「活字のステッキ」!? 差しあげますよ……。そしてもっともたいせつな「活字原器」》
2011年の暮れ、年内いっぱいでの廃業を告知していた有限会社長瀬欄罫製作所の残務整理を手伝った。その際同社第 2 代社長:長瀬慶雄ナガセ-ヨシオ氏が、自動活字鋳植機(小池式和文モノタイプ)の作業台にあった器具を差し出し、
「コレは大事にしていたものです。名前はわからなくなったけど、いわば《活字の原器》と《活字のステッキ》だけど、必要ですか?」
ときかれた。

「HAKKO」の刻印から、この器具の製造所は、かつて長野県埴科郡ハニシ-グン戸倉町戸倉3055に存在した活字鋳造機器の有力メーカー、株式会社八光活字鋳造機製作所の製造であることが判明した。

2012年4月7日追記:
アダナ・プレス倶楽部恒例の《活版ルネサンス》(2012年3月30-31日)に際して、長瀬欄罫の諸資料を整理したところ、さらにふるいものとみられ、メッキが施されていない、いくぶん錆びの発生がみられる総鉄製の「活字の原器・活字のステッキ」を1セット発見した。
これは持ち手のつけ方からみて、左利きのひとのために製造された「活字のステッキ」だと想像された。

製造年月日はどこにも記載がなかった。
素材はスチールにクロームメッキを施したものとみられたが、ひとつで2キロほどの重量があってひどく重かった。また留め金はふたつのネジできつく締められ、ほとんど固定されていた。
写真奥は右利きのひと用で、手前は左利き用だとする。ずいぶんと親切なものだった。

《ふつうの「ステッキ Composing Stick」と、特殊な「活字のステッキ」》
活字版印刷術の現場でのふつうの「ステッキ  Composing Stick」とは、和文の組版では植字チョクジ(組版)の現場でもちいられる器具である。
欧文組版ではステッキに活字を拾いながら組み並べるが、和文組版では文選を終えた活字をステッキに移動して、活字組版の行長を一定に揃えて組むための道具である。

ふつうは左手にこれを持ち、右手で活字・込め物・罫線などをステッキの上にのせて、左手の親指でクリックしながら組み並べ、いっぱいになったら取りだしてゲラに移すものである。
そのために「ステッキ」は、できるだけ軽量であることが求められ、なおかつ行長によって変化する組幅を固定するための留め金を、しっかり保持するだけの十分な強度を求められる。
そのために素材は、鉄製・アルミ製・ステンレス製などがあるが、ほとんど製造ラインが停止していたものを、アダナ・プレス倶楽部が近年復活させて、製造・販売にあたっている。

ところが長瀬欄罫製作所の「活字のステッキ」は、「の」のひと文字が入っている分だけ「組版ステッキ」とはおおきく異なるものであった。
まず、なによりその重量である。鉄製とおもわれる素材に、クローム・メッキがほどこされ、2キロはたっぷりあって、片手で長時間保持するものではないことは明らかであった。

また「組版ステッキ」の留め金は、行の組み幅によって可変できるようにスライド式になっていて、固定する留め金は、ネジ式・小型レバー式などがある。ところが「活字のステッキ」の留め金は、きわめて頑丈なもので、締めつけもきつく、ほぼ本体にがっちりと固定されていた。

 この「活字のステッキ」のなかに、「組版ステッキ」であれば最初におこなう作業 ── 組みたいとおもう行長に相当する込め物を並べ入れて、留め金を固定する ── における、「行長を固定するための込め物」に相当するのが「鉄製の金属片、活字の原器」である。これを「活字のステッキ」に入れる。
もちろん留め金は、はじめからほとんど固定されているので、1キロほどの重量の金属片は、ぎりぎり「活字のステッキ」に差し込むことができる。すなわち「活字の原器」と「活字のステッキ」は、ふたつが揃ってはじめて意味をなす、活字鋳造現場での検査器具である。
────
ここでひとつお断りがある。ここでいう「活字の原器」「活字のステッキ」とは、あくまでも仮称である。「活字の原器」とは、上図「活字のステッキ」の奥にはめ込まれた金属片である。これは長瀬氏談からとったものである。
その際の状況は、暮れもすっかり押し詰まった2011年12月29日、本品の譲渡作業後にちかくの喫茶店に移動して、筆者にこの器具の名称と役割をくどく聞かれて、苦しそうに、
「ふつうはアテとかアテガネっていってたかな。まぁ活字の原器のようなものですよ」
と述べたことによる。
こうした背景から、ここでは「活字の原器」「活字のステッキ」とも、まだ正式名称ではないが、そのまま借用することにした。

『VIVA!! カッパン』より、活字と活字の大きさ、号数制活字とポイント制活字

この「活字原器」に刻印された数字との関連から、この器具は、活字の大きさや高さに日本工業規格(JIS規格)が適用された1962年(昭和37)以降の活字、いわゆる「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものではなく、現在でも関東近辺で採用されている、いわゆる「旧号数制活字」に対応する測定器具だと推定された。
またもっともふるくから開発された号数制活字ながら、イングリッシュ系とされて、ながらく他の号数制活字となにかと「相性」のわるい、四号と一号活字が「活字の原器」の測定範囲に入っていないことも印象的なものだった。これに関しては後述する。

2012年12月25日追記:
上記のパラグラフには問題がある。どう計算しても、この「活字の原器・活字のステッキ」は「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものであり、むしろ「新号数制活字、JIS規格活字」が導入された1962年以降に、その趣旨を徹底させ、また端境期における混乱を収束させるために製造されたとみられるからである。

「新号数制活字、JIS規格活字」の原案は、札幌・株式会社ふかみやの初代社長・深宮榮太郎の考案によるもので、はやくも昭和4年に「深宮式新活字」として誕生している(「深宮式の新活字」『フカミヤ八十年史 1918-1998』 p37-41)。
すなわち「旧号数」と「新号数制活字、JIS規格活字」の歴史的背景をもうすこし研究・分析・取材しなければならなくなった。
したがってまことに申し訳ないが、もうしばらく、上記1パラグラフは保留にさせていただきたい。

この金属片「活字の原器」は、きわめてたいせつにされていて、使用しないときには中面にラシャを貼った専用の木製ケースにはいっている。木製ケースには「HAKKO」の社名か、マークが、焼き印で刻されている。
購入価格も「活字の原器と活字のステッキ」のセットで、とても高額だったとされる。
「そうだなぁ、見習いの給料と、職人の給料の間くらいの感じだったかな」
「そうすると、いまなら20万円ほどですか?」
「そう、いまなら15-20万円くらいの感じかなぁ。ともかく高かったんだよ」

「活字のステッキ」にはめ込まれた「活字の原器」。
この左右の数値、504pt.と177.135mm に注目していただきたい。

《わが国の金属活字ボディサイズの最小公倍数、504pt.》
わが国の近代活字版印刷術の開始以来、活字ボディサイズには混乱がみられ、「大きさはあっても、寸法のない活字」と酷評されたり、大正期からさまざまな議論が交わされてきた。しかも製造現場での混乱が収束しても、活字ボディサイズに関する議論はやむことはなかった。
しかしながら、これらの議論とは、かくいう筆者をふくめて、活字版印刷術の現業経験に乏しい論者によってなされることが多く、ありていにいえば、活字鋳造現場の実態を熟知しないままの議論が多く、生煮えであり、成果に乏しく、空理空論とされても仕方がない側面がみられた。

すなわち、この「活字の原器、活字のステッキ」の登場によって、タイポグラフィ研究者を自認するほどのひとならば、全面的に議論の再構築を求められることになった。
もちろん活字鋳造に際しては、ノギスやマイクロメーターも使用されている。しかしながらこうした機器での計測だけでは十分とはいえないのが活字でもある。

活字鋳造の現場では、すでに、遅くとも1955-1962年頃から「活字の原器を、活字のステッキに入れて、そこに鋳造活字を指定の個数分組み並び入れて検証する」という、現業者に特有の「きわめて即物的かつ明快な方法」、それだけに議論の余地のない方法によって、活字のボディサイズの測定と検証がなされ、こうした検証を経た活字が印刷現場に供給されていたのである。────
ここで筆者をはじめ、読者諸賢にも「最小公倍数」(Least Common Multiple, L.C.M)を復習していただきたい。最小公倍数とは、ふたつ以上の整数または整式が与えられたとき、それらの公倍数のうち、正で最小または最小次数のものをいう〔広辞苑〕。

すなわちこの「活字の原器」に刻された504pt. , 177.135mm とは、わが国の主要活字の最小公倍数として提示されていることになる。
そして明治最初期からもちいられてきた四号サイズと、その倍角の一号サイズは除外されていた。それは上掲の『VIVA!! カッパン』の「活字の大きさ:号数制」をご覧いただくと、四号と一号は(アングロ・アメリカン)ポイントサイズにおいて、≒オヨソの印つきとはいえ、ほかの号数活字とは異なっており、最初から最小公倍数となるべきポイントの整数ではなかったためではないかとおもわれた。

「活字の原器」の中央部の数字は、G は号数をあらわし、P は(アングロ・アメリカン)ポイントをあらわす。つまり最小公倍数504 pt.の「活字の原器をいれた活字のステッキ」のなかに、さまざまな号数とポイントの活字が、何本はいるのかを、実際の活字をもって検査・検証するためものである。
そしてその際の公差は、右下隅に表示された+0.015mm 以下でないと不合格とされてきたほど厳格なものであった。

製造元の八光活字鋳造機製作所は19461年(昭和21)の設立であるが、その設立者・酒井修一は戦前からの活字鋳造機製造所として著名だった林栄社の工場長経験者であり、この両社ともほとんど記録をのこさず1965-75 年の間に閉鎖された現在、この「活字の原器と活字のステッキ」がいつから発売されたかはわからない。
しかしながら長瀬氏の記憶によれば、おそらく1955年(昭和30)ころから、こうした検査・検証をへて、わが国近代の活字がつくられていたことを示す物的証明のひとつが出現したことになる。

504pt. の意味するところ

七号活字      96本    9ポイント活字   56本
六号活字      84本    五号活字      48本
7ポイント活字   72本    三号活字      32本
六号活字      64本    二号活字      24本
8ポイント活字   63本

これからここに提示された504 pt.の最小公倍数にもとづいて、さまざまな研究がはじまることになる。まことに楽しみなことである。
繰りかえしになるが、筆者がこの「活字の原器をいれた、活字のステッキ」の譲渡をうけたのは、2011年の暮れも押し詰まった12月29日であった。そして正月をはさんで「活字の原器をいれた活字のステッキ」は、しごくちいさなグループの間の、おおおきな話題となっていた。
あきれることに、何人かは正月の屠蘇気分はどこえやら、「活字の原器をいれた、活字のステッキ」で鳩首し、さまざまな検証をかさねていたのである。諸賢の研究の一助になればとご紹介した。

おひとりはアドビシステムズ株式会社の山本太郎さん。もうおひとりは、21世紀の、そして平成の日本で、最初の金属活字鋳造見習工として勇気ある精進をつづけている日吉洋人さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手)です。

★     ★     ★

 ◎送信者:山本太郎 2012年01月05日 10:55
片塩二朗様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、504 ptのステッキの件ですが、504という数を素因数分解すると、2^3 x 3^2 x 7 = 504となります(ここで、x^yは、xのy乗の意味です)。このことから、次の事が言えるでしょう。

45 pt以下で、このステッキの長さが整数のボディサイズの倍数と一致するのは以下のサイズに限られます。
2, 3, 4, 6, 7, 8, 9, 12, 14, 18, 21, 24, 28, 36, 42

整数ではない10.5も、21の1/2なので、割り切れます。

このステッキは、日本におけるポイント制活字の実用的な多くのサイズに対応しているという意味では、よく考えてあり、興味深いものがあります。

ただし、「504 pt」と明記している以上、これはあくまでポイント制を基準にしたものだという点は明らかです。
号数活字との対応についても、JISが行っているのと同様、ポイント単位に換算した対応関係を基にしたものでしかありません。10.5 の整数倍が504に一致するからといって、それは「10.5 pt = 5号」ということを初めから前提にしているから5号と一致するに過ぎません。
他方で、「10.5 pt = 5号」という関係がポイント制成立以前に存在しなかったこともまた自明のことです。もちろん、JISがはっきりと明記してしまったように、「10.5 pt = 5号」という想定を無条件に受け入れた上で、それを慣習として倣って作られた5号活字が10.5 ptと一致することもまた自明なことです。つまり、既製のポイント制および号数とポイント制との慣習的な対応関係を受け入れた上で、後付けで作られたものと考えられます。

JISにおける号数とptとの対応関係のようなものが受容され、普及していたのであれば、このステッキが便利で機能的であったであろうことも、十分予想できます。
ただ、そのこととSmall Picaや5号の歴史的なボディの大きさの議論とは、関連はありますが、少し論点が異なるように思います。
───
◎ 送信者:日吉洋人  2012年01月09日@メール
片塩さま
日吉です。
例の504グリッドを制作していて気づいたのですが、6号=7.875アメリカンポイントだよってことですか?

片塩さま
何度もすいません。日吉です。
先ほどのつづきですが、6号が7.875ポイントで、5号が10.5ポイントだとしますと、名刺を組版する際に使うインテルの長さが、5号24倍なので……、8ポイントだと二分あまりますが、6号だとピッタリおさまりますので気持ちがいいですね。
今後DTPで本文を組版する時には、あえて実験的に本文の文字サイズに7.875ポイントを使ってみたいと思います。

片塩さま
日吉です。これが最後です。
まだ旧号数のすべてで計算したわけではありませんが、例えば、5号24倍(252ポイント)で割り切れないところ(例えば、8ポイント、10ポイント、11ポイントあたり)に突如「号数」が現れるような印象を受けました。
なぜ号数がそのように現れたかと考えますと、単純に複数のサイズの活字を一緒に組んだときに、分物を使わずにすむからだと思います。ならば初号とは何かってなりますが……。
それでは失礼します。お休みなさい。

504pt.と  五号24倍の相関関係の考察表  日吉洋人

2012年12月25日 修整版  



────
2012年04月07日追記:
グラフィックデザイナー K 氏。ご来社のうえ談。

わたしはパッケージのデザインが多いのですが、その際、基本尺度としてメートル法だけでなく、曲尺カネジャク単位を考慮します。曲尺の一尺、およそ30.303センチと、この504pt.の表にあらわれる号数制活字は、なにか関連があるようにかんじました。
きょう「活字の原器と活字のステッキ」の実物を拝見しましたので、これから調査に本腰をいれたいとおもいます。

朗文堂-好日録023 気がつけばカレンダーが1枚だけ!

《2012年11月15日 GK デザイングループ  創立60周年祝賀会》
秋晴れの15日[木]、「GK デザイングループ 創立60周年祝賀会」に出かけた。会場は椿山荘。招待客は600名余におよび、グループ各社の社員も加わって、さしもの椿山荘の大ホールも人混みでいぱいだった。

GK デザイングループは 1952年、戦後の荒廃の中から、ふるい工芸にかえ、生活の復元と進展を求めて、インダストリアルデザインを中心に創立された。
代表を  栄久庵憲司氏  として、東京藝術大学出身者を中心とした Group of Koike = GK として出発したのを最初とする。

会場にはGKデザイングループ最初期の作品である、ヤマハ発動機 YA-1 と キッコーマン卓上醤油瓶などが展示され、同社の60年にわたる数数のデザイン製品群が、いまなお鮮度を失わないことにあらためて驚いた。
記念品にお饅頭をいただいた。お祝いの大福かとおもったが、カットすると意外な趣向がかくされていて、鮮やかな紅白の紋様があらわれた。
栄久庵さんもお元気だったし、心のこもった、すばらしい祝賀会だった。

《2012年11月18日[日] 新宿御苑遊歩道を散歩》
すぐ近く、あるいて 2 分とかからないところに新宿御苑正門がある。ところが燈台もと暗しというか、あまりに近きが故に、めったに訪れることがないのが新宿御苑でもある。
イチョウの黄葉が見事なので、外周路ともいえる遊歩道に出かけた。有料の苑内にはいると、なにかと規制(芝生立ち入り禁止、禁酒・禁煙 ! )が煩わしいが、遊歩道には最近、ちいさなせせらぎがもうけられ、また無料で解放されていて、散歩にはとても良い環境になった。

平日の昼間でも、ウォーキングにいそしむ高齢者や、ちいさな犬をつれた近在のひとがゆったりと歩いている。ようやく樹木も成長して、良い環境がもどってきた。これならわざわざ遠出して、人混みにもなれながら「もみじ狩り」になどにいく必要がなさそうである。

遊歩道にはギンナンの実がたくさん落ちていた。
10年ほど前まで、この季節になると、酒好きの某編集者が、袋いっぱいのギンナンの実をひろってきて、帰りがけに来社して自慢していた。左党のかれは晩酌のつまみにギンナンを煎ったものは好適だといっていた。
いまはそうしたひとも減ったとみえて、ギンナンの実は踏まれるままになって、独特の異臭をはなっていた。
そんな小径を歩きながら、最近うわさもきかなくなった、いいささか酒乱の某氏をおもった。

《2012年12月08日[日] 神田神保町の咸亨酒店に行く》
家人が週末に書芸塾に通っているので、神保町三省堂本店で待ち合わせ。
会社のすぐ近くにあった「あおい書店」が閉鎖され、三越百貨店のあとにできた「ジュンク堂書店」も移転したので、気軽に書物を買える書店がちかくに無くて不便である。
だから神保町まででかけた。そこで北原謙三『岳飛伝』ほか数冊の書物を購入し、塾帰りの家人と落ち合って、近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」で夕食。

同名の中国料理店「咸亨 カンキョウ 酒店」は紹興酒(黄酒)の提供で知られ、また魯迅が好んだ酒店として著名である。たまたま今年の7月に、本場の中国・紹興の魯迅の旧居近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」をたずねたことがあった。
このときは、水にあたって腹具合がわるく、またドライバーの潘 偉飛さんにすすめられて、おそるおそる食した「臭豆腐」にまいったが、すべての料理がいたくおいしかったことは覚えていた。
その店を模した、雰囲気の良さそうな中国料理店が、書芸塾の近くにあるので行ってみようと誘われて、三省堂からは幾分距離があったのでブツクサいいながら歩いた。

イヤァ、チョイとやつがれ驚いた。旨かった。本場の「咸亨酒店」と較べても遜色がなかった。
上掲写真右側の料理は、蘇東坡の考案によるとされ、家人の大好物「杭州名物 東坡肉 トンボーロー」を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。写真を撮るのも忘れて半分食べてからの撮影で、妙なものとなっているが、ともかく旨かった。
若者の掲示板などでも「咸亨酒店」はそこそこの評価を得ているようである。

ただ、神田神保町の「咸亨酒店」は紹興というより、そこからほど近い港町、寧波(ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる)料理であった。また本格的な中国料理(値段はさほど高くなかったが)を楽しむには、4-5人で出かけて、いろいろな料理を楽しむのがコツである。ふたりだけでは3皿もとったら満腹になってしまう。

紹興の「咸亨酒店」、そして蘇東坡、王羲之などのことを『花筏 朗文堂-好日録 016』にしるした。当時の写真を探して、さらにこれらの書芸家と料理に迫ってみたい。
なにやら料理がメーンになりつつある『花筏』の昨今。それでも若者にかこまれて、十分タイポグラフィ漬けの毎日ではある。──つまりこの項目は書きかけである。

朗文堂-好日録022 吉田佳広 水彩画展を観覧

《2012年11月05日 吉田佳広 水彩画展 の観覧に出かけた》
11月05日は月曜日だったが、吉田佳広さんの水彩画個展 のオープニングだった。
もとから出不精のせいもあり、会社にきてからスケジュールを確認した。オープニングのことはうっかり忘れていたし、ひどく寒かったので、ひどい身なりで出社していた。
したがってオープニング・パーティーに出かけるのには、およそふさわしくない不格好だったが、久しぶりに吉田佳広さんにお会いできるならと、失礼を顧みず代代木駅前の会場にかけつけた。

さほど広い会場ではなかったが「風景からの手紙」と題されたように、各地をたずね歩き、その風景を、繊細かつ瀟洒に、愛情をもって描いた水彩画で溢れていた。
会場には主催者の吉田佳広さんをはじめ、多くの先輩・知人がいた。中には数年ぶりにお会いできたタイポグラファもいて、うれしくも、なごやかなパーティであった。

やつがれ、この歳ともなれば、たいていの人や物には驚かないし、怖くはないが、この吉田佳広さんというひとには、ともかく〔ヨワイ〕のである。
いや、もうひとかたいらした……。こちらは吉田市郎さんである。
両吉田さんと、やつがれの 3 人は、ふしぎなことに、皆がひとまわりずつ異なる酉トリ年のうまれである。そのせいか波長は合うが、おふたかたとも大先輩だけに、ともかく〔ヨワイ〕のである。
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◎ 吉田市郎 Yoshida Ichiro   1921年(大正10)酉年うまれ
吉田市郎 さんは、欧文活字の雄とされた「晃文堂株式会社」の創業者。
また時代の変化をいちはやく読み切り、大胆に写真植字機と写植文字板製造に踏みきって「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立されたひとである。

デジタル時代が到来すると、これまた大胆な取り組みをみせ、自社書体をいちはやくデジタル化したばかりでなく、財団法人日本規格協会文字フォント開発普及センターの委嘱をうけ、平成書体シリーズの中核をなす「平成明朝」をリョービグループを叱咤激励して納期内に製作させた。文字どおり戦後日本のタイポグラフィの開拓者のおひとりであった。

社長 ≒ タイプディレクターとして吉田市郎さんがのこされた書体は、膨大な欧文活字書体をはじめ、故杉本幸治氏を起用して製作した「晃文堂明朝・本明朝シリーズ」、血縁の関係で藤田活版から原字資料の提供を受け、社内スタッフを中心に改刻を加えながら製作した「晃文堂ゴシックシリーズ」、水井正氏・味岡伸太郎氏と、タイプバンクの協力で製作した「ナウ・シーズ」・「味岡伸太郎かなファミリー」など、枚挙にいとまがないほどである。

吉田市郎 1921年(大正10)新潟県柏崎市出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。戦時召集解除ののち 1947 年神田鍛冶町に欧文活字の専門店「晃文堂有限会社 → 晃文堂株式会社」を創立。のちにリョービ・グループのいち企業「リョービ印刷機販売株式会社 → リョービイマジクス株式会社」社長となり、同社会長職をもって退任して現在にいたる。酉年うまれ。
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◎ 吉田佳広  Yoshida Yoshihiro   1933年(昭和08)酉年うまれ
長崎県長崎市出身。中央大学法学部卒。高橋正人デザイン研究所修了。1966年吉田佳広デザイン研究室設立、1996年有限会社ヨシダデザインオフィスに改組。ACC殿堂入り。ADC賞、電通賞、ACC賞など受賞。著作『ベストレタリング』など多数。日本グラフィックデザイナー協会所属。

吉田佳広さんは、朗文堂からも 2 冊の著作を発表された。
『文字の絵本 風の又三郎』(吉田佳広、1984年01月、品切れ)
『マップ紀行 おくのほそ道』(吉田佳広、1985年03月、品切れ)

吉田佳広さんは、かつては日本タイポグラフィ協会に所属し、同協会内にタイポグラフィのユニット「タイポアイ」を結成し「暮らしの中に文字を」を主張して長年にわたって活動をつづけた。また、ここ数年熱心にとり組んでいる「地球はともだち チャリティー・カレンダー展」の中心メンバーとして出展・活動されるほどの壮健さである。
────
そしてやつがれが、1945年(昭和20)酉年うまれとなる次第。
吉田佳広さんにお会いするのはほぼ 2 年ぶりだった。この間に吉田さんは少少体調を崩されたが完全復調された。
「いやぁ~、歳くったら髪がうすくなっちゃってさぁ。だから帽子かぶってんだよ。ガハハ」
いつもの調子で笑いとばした。お得な性格である。
隣にいた「タイポアイ」の同志、中島安貴輝  さんは複雑な表情をされていたけど……。

朗文堂-好日録021 日藝 タイポグラフィ セミナー

       

日本大学藝術学部デザイン学科 特別講義

Typography Seminar
Helmut Schmid
Jiro Katashio
Akiteru Nakajima
2012年10月27日[土] 14:00-17:50
展示/デザイン・プレゼンテーションルーム
講演/日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟B1
企画・進行/細谷 誠専任講師

                              [告知ポスター Design : 日大藝術学部デザイン学科 細谷 誠専任講師]

《日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 前夜祭?》
爽やかな秋の毎日がつづいた。この時期は、梨、葡萄、柿とおいしい果物がたわわにみのり、食欲も意欲も増進するまいにちであった。まさしく食欲の秋である。
イベントもかさなり、ふだんからとことん出不精をきめこんでいるやつがれも、いやいやながら、なにかとかり出される季節でもある。
2012年10月27日、日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar が開催された。
第一報として《朗文堂 NEWS》には報告したが、ここでは気軽な内輪ばなしを中心に皆さまにご紹介しよう。

その前日、10月26日[金]には タイポグラフィ学会 月例定例会が夕刻から開催されていた。議題がほぼ終了し、雑談に移りかけていた 22 時ころ、翌日の講演会に備えて、南新宿のホテルに宿泊しているはずのヘルムート・シュミット氏が、突如タイポグラフィ学会定例会の会場に登場した。しかも桑沢デザイン研究所非常勤講師/阿部宏史さんと、その学生さんら数名と一緒の来訪であった。

たちまち狭い部屋は交流・懇親の会場に変貌し、シュミット氏お気に入りの赤ワイン「ラクリマ・クリスティー デル・ヴェスーヴィオ・ロッソ」 は店が閉まっていて買えなかったが、久しぶりの再開を祝して「とりあえずビール」での乾杯!
学生諸君は早めに引きあげたが、部屋の熱気はますばかり。熱いタイポグラフィ議論があちこちで交わされていた。

あ~あ、明日はシュミット氏もやつがれも、日藝講演会での講師だというのになぁ……。
結局皆さんはほぼ終電での帰宅。シュミット氏は酔い覚ましをかねて、新宿南口のホテルまでブラブラ歩きでひきあげられたのは、夜もだいぶ更けてからのことであった。
それにしても、年寄り モトイ 年輩者のほうが元気いっぱいなのはなぜだろう……。ト ふとおもう。


《 2012年10月27日、日大藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 本番》
この日藝 Typography Seminar の企画・展示・進行は、同大の細谷 誠専任講師。
細谷 誠専任講師 は、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)アートアンド・メディア・ラボ科の学生だったころに、シュミット氏の『バーゼルへの道』(朗文堂、1997年6月初版、品切れ中、増刷予定あり)を購読されて大きな感銘をうけ、デザインの道へ本格的にすすむ決意をされたそうである。

お世辞半分としてもうれしいはなしであるが、その反面、版元としては襟を正さなければという責任をひしひしと感じさせられた。
『バーゼルへの道』は第一刷り、第二刷りと版をかさねたが、現在は残念ながら品切れ中である。いずれ機会をみて第三刷りにとりくみたいところである。

特別講義の講師は、中島安貴輝主任教授と、ゲストとして、中島さんと年代がちかく、長年にわたって親好がふかい(悪友 !?)関係だった、ヘルムート・シュミットさん、片塩二朗の 3 名。各講師30 分の持ち時間で講演のあと、トークセッションにはいる。

      

Typography Seminar は、展示会と特別講義・トークセッションで構成されていた。
展示会は、中島安貴輝主任教授の長年にわたるデザイン活動と、デザイン教育を綴り、それを記録・展示し、次代のデザインを背負う学生の皆さんと、あらたな方向性を模索するという、とても意欲に富んだ、内容の濃いテーマであった。

トークセッションでの招聘講師となった、シュミット氏とやつがれは、さしずめ刺身のツマといったところかな……。

『Picto Graphics 1, 2, 3 』(中島安貴輝、朗文堂、1988年11月刊、品切れ)
まだ IT  環境が未整備な1980年代後半には、おもに紙焼きカメラで図版を拡大・縮小して使用していた。そのため片面刷り裏白で複写に備え、ペラ丁合で一冊一冊 3 分冊の図版集をつくった。中島安貴輝氏畢生の大作であり、使用権つきの意欲的なピクトグラム作品集だった(品切れ)。

中島安貴輝主任教授 は、東京オリンピックの準備期間中には、まだ日藝の学生であった。それでもそのころから、勝美勝先生の門下生として「青年将校」のようなかたちで、東京オリンピックの広報部門に関わったという経験を持つ。まだグラフィックデザインの夜明け前であり、それだけにのどかで可能性の大きな時代であった。

その体験をもとに、のちに沖縄海洋博覧会のデザインディレクターとして活躍された。そのことを、別会場で開催されている展示会の作品をもとに丹念に事例報告され、
「デザインも、アソビも、めいっぱい」
と学生諸君を激励されていた。

《2012年10月27日、日藝デザイン学科 Typography Seminar トークセッション》
ヘルムート・シュミットさんは、いったん入学したスイスのバーゼル工藝学校での体験から、本格的なタイポグラファになろうと決意し、欧州各国での活版印刷所で「Compositor 植字工」として、数年、実地体験としての修行をし、ついにふたたび念願のバーゼルで、エミル・ルーダー氏の特別教育を受けるにいたった経緯を詳細に述べられた。
そして定員 3 名だけのちいさなタイポグラフィ夜間私塾、ルーダー氏のタイポグラフィ教育内容を、大量の写真データとともに紹介された。そして長年とり組んでいる「typographic reflection」シリーズの製作意図と、将来展開までをかたられた。
通訳にあたられたのは愛妻・スミさんであった。

写真上) パソコン映像だけでは物足りなくなり、立ち上がって説明するシュミット氏。
写真中) シュミット氏は愛用の「Composing Stick 組版ステッキ」を携え、各地の活版印刷会社で「Compositor 植字工」としての修行をかさね、そこの「Meister 親方」から技術認定の修了証明書にシグネチュア(サイン)をもらってあるくという、厳しい修行の旅であったという。
写真下) 憧れのルーダー氏のもとで学ぶことができた、充実の日日の若きシュミット氏(左)。

《予告!『japan, japanese』 著者講演会》


ここについでながらしるしておきたい。ヘルムート・シュミット氏の『japan japanese』 の著者講演会を、来春 3 月に、朗文堂主催での開催を予定している。その打ち合わせのために、シュミットデザイン事務所と@メールのやりとりが盛んないまでもある。
詳細はあらためて新春にお知らせしたい。
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「Typography Seminar」は、日大藝術学部の授業の一環であったが、外部からの参加も自由ということで、わずかに朗文堂社内に A3 判告知ポスターを出力して掲示しておいた。
そのために、新宿私塾塾生と、修了生がたくさん押しかけて、講義室は溢れんばかりの盛況となった。中島先生、細谷先生にはもろもろご迷惑をおかけすることとなった。ここにお詫びを申しあげたい。

あらためておどろいたが、新宿私塾の塾生には、日大藝術学部のデザイン科だけでなく、写真科、建築科、それに日大農学部などの学生・卒業生もたくさん在籍していた。そんなかれらが、全面改装がなった母校をみることを口実に、大挙して講演会に押しかけたようである。

トークセッションの終了後、長時間の禁煙強制にたまりかねた愛煙家有志?!  3 名が喫煙所の傍らで、携帯灰皿を片手におおわらわで吸煙開始。そこへシュミット氏が通りがかり、
「ミナサン、ナニヲ  シテイル ノ デスカ ?」
ヤレヤレ、中学生でもあるまいし、みっともない姿をパチリとやられてしまったという次第。
[モノクロ調写真提供:木村雅彦氏]

   

朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候



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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《唐突に妹から架電 ── 雪の降る前に、ふるさと飯山にいかない …… 》
11月03日は文化の日で土曜日だった。前日に突然妹から架電があり、
「もうすぐ雪が降るから、あした、おばあちゃん(おふくろ)のお見舞いにいかない?」
昨春に兄貴が長逝し、なんとなく疎遠になっていたふるさとであった。ところが信州・長野の郷里には、100 歳を超えたおふくろが老人施設の世話になっていた。そのもろもろの世話を、血脈からいえば他人ともいえる兄嫁に押しつけていることが心苦しかった。

アニキ、やつがれ、妹は、三人兄弟として、千曲川にそった信州の北西のはずれ、豪雪地帯でなる 北信濃 飯山 でうまれそだった。アニキはいやいやオヤジの跡をついで開業医になったが、昨春にスキルス性胃がんでなくなった。次男坊がらすのやつがれと、薬剤師の妹は、気ままに郷里をはなれて東京にでていた。

ここのところ数年、3月と11月は一年のうちで、もっとも多忙な月である。なにかとイベントがかさなり、年度末対応・新年度対策や、年末年始進行を意識し、年賀状やクリスマス・カードの想を練るのも11月のことである。
だから往復 600 キロほどの長距離ドライブとなるが、日帰りの旅として、妹の亭主が運転する車に乗せてもらった。
旅の同行者は、はじめてやつがれの郷里をみることになったノー学部。
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関東平野から山河の邦・信州にはいる道はさまざまにあるが、妹夫婦は、はじめて飯山をたづねるノー学部のために、風景の単調な高速道路一本やりではなく、この時期ならではの、紅葉のきれいな草津・志賀高原ルートを予定してくれていた。

この道は2級国道292号線で、近年にできた高速道路にくらべると、山坂は急峻でカーブ箇所も多いが、群馬県草津温泉から、コバルトブルーで輝く白根山の火口をみて、長野県北部への直行ルートとなる。
群馬県側ののぼりには、伊香保温泉草津温泉などの名だたる名湯がある。また近年建設の続行が話題となった「八ッ場ダム ヤンバ・ダム」の工事現場も経由する。この工事のおかげで、すでに自然はずいぶん破壊されていたが、道路は格段によくなっていた。むずかしいものだ。
また 志賀高原 をへて信州側へのくだり坂には、高原一帯に大小さまざまな山の湖が点在し、そこに照り映えるナナカマドやダケカンバの紅葉は、たとえようもない見事さのはずであった。
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早朝 6 時半、調布駅前で妹夫婦と合流してそのまま出発。関越自動車道から分岐して、北陸自動車道をほんのすこし走って、渋川・伊香保で高速道路をおりて一般道にはいった。道は次第に狭隘となり、急峻な坂道がつづく。やがて道は軽井沢と草津温泉への分岐点となる。そこを草津温泉側に右におれて、国道292号線、いわゆる志賀・草津ルートにはいる。

この道は国道の中では日本一標高の高いところを通る道路でもある。国道最高地点の標高は 2,172メートルであり、上野コウズケ-ノ国・上州/群馬県と、信濃シナノ-ノ国・信州/長野県とをへだてる 渋峠 のちかくにある。その場所には「日本国道最高地点」の碑が建てられている。
かつては有料道路で快適なドライブを楽しめる道であったが、最近は無料で解放されている。だから時節柄「もみじ狩り」とおぼしき家族連れの車輌も、前後にたくさん連なっていた。

ところが……、草津温泉街をすぎてしばらくいくと、突然車止めがあって、係員に制止された。
「ここから先は、昨夜の降雪が凍結していて危険です。すべての車輌が通行止めです」
嫌も応もなかった。すべての車はそこからUターンを余儀なくされた。再確認すると、2012年11月03日、まだ降雪には早すぎる、秋分の日のできごとだった。
残暑のきびしいことしだったが、このときは意外にはやく降雪があったようである。いずれにせよ国道292号線は2012年11月15日-2013年4月25日まで本格的な冬期閉鎖期間となっている。

急遽予定を変更して、嬬恋村 ツマゴイムラ から 菅平高原 をへて、信州・須坂におりる一般国道に変更した。こちらには2,000メートルをこえるような高度はないが、菅平高原から須坂への最後の下り坂は急峻で、かなりのベンチャールートとなる。

草津・志賀高原ルートをあきらめ、群馬県側の嬬恋村 ツマゴイムラ をへて、県境の鳥居峠に辿りつく。そこで小休止して長野県側の菅平高原にはいる。最後の下り坂は、かつては山崩れがたびたびあって難所のひとつだったが、随分と道は整備されていた。
ようやく信濃の国、信州飯山市にたどりついたのは、すでに昼下がりのころであった。

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《 飯山は、日本のふるさと …… 》

ところで、南国の四国や九州出身のひとでも「ふるさと」というと、藁屋根に雪がこんこんと降りつもり、あといくつ寝るとお正月になるのかを、炬燵にあたって、ミカンを食べながらかぞえる情景をおもいうかべるらしい。そして春の小川には、どじょっこや、鮒っこが泳ぎまわるらしい……。
それはまさに、信州信濃の山奥の、ここ飯山の情景であることをおおくのひとは知らないでいる。

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山 コウシャサン、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている。

信州・いいやまは、日本の ふるさと とされる……。つまり典型的な田舎の風情がある。

ノー学部は、こういう阿呆なシロモノをどこにいってもいちはやく発見する。そしてこんな噴飯ものの呆けたおこないが好きである。やつがれはもうやけくそで「ヘソ丸出し、莫迦丸出し」の愚行に加えられる(撮影:鈴木 齊)。

老人施設に100歳超えのおふくろを見舞う。娘時代までの記憶はあるがおおかたの記憶はない。妹(娘)に「お名前は?」と聞かれると「藤巻のり(旧姓)」と応えるおおらかさである。やつがれ同様おふくろの眉毛もぶっといことを再確認した。それでもやつがれより元気なのではないかとおもえる壮健さが救いである。旅の主目的をここに達成。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し

     二
     里わの火影ホカゲも 森の色も
     田中の小路を たどる人も
     蛙カワズのなくねも かねの音も
     さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治09年4月13日-昭和22年01月25日)
作曲:岡野  貞一 (明治11年2月16日-昭和16年12月29日)
昭和08年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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《高野辰之タツユキさんのこと と 高野辰之記念館 》
高野辰之さんの生家は、旧飯山藩藩領、長野県下水内郡豊田村のかなりゆたかな農家であった。
やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、千曲川にそったもうひとつ下流で、東に千曲川、西には新潟県との県境につらなる山山にはさまれた下水内郡飯山町  → 現  飯山市である。

高野さんは、飯山中学(現飯山北高)、長野師範学校(現信州大学教育学部)卒。飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代代木駅前に居住していた。その代代木の木造の旧居には、3年ほど前まで記念柱があって保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の湯源の麻釜のちかくに陋屋をもとめ、それを「対雲山荘」と名づけて移住して、ここで老境をすごして永眠された。
現在野沢温泉には、遺著や遺作を収蔵する《おぼろ月夜の館 斑山ハンザン文庫》がのこされている。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父/藤巻 一二 イチジ、その弟で大叔父/藤巻幸造は、旧制飯山中学の同窓で、よほど昵懇だったらしい。
またオヤジの郷里も長野県下高井郡野沢温泉村大字坪山のちいさな農家であり、また、飯山中学の後輩でもあった。だからしばしば大叔父/藤巻幸造や、父母に連れられて、野沢温泉の高野家隠居所「対雲山荘」を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。
やつがれも抱かれたらしいが、なにぶん乳児のころとて記憶にない。わずかに「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをおぼろに覚えているくらいである。
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猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年08月)がある。
主人公は高野辰之さんと、真宗寺 元住職 井上円光氏。この浄土真宗西本願寺派・安養山 真宗寺の元住職は、1902-14(明治35-大正03)の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。

この真宗寺はふるく、島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松の下宿先として描かれた寺でもある。『破戒』のなかでは真宗寺は蓮華寺とされているが、地元では蓮華寺=真宗寺であることは周知のことである。しかしながら島崎藤村の描写の一部に問題があるとして、真宗寺23世住職・井上寂英は激怒して、高野辰之氏までまきこんで、
「島崎藤村は仏法の敵である。藤村には二度と信州の敷居をまたがせない」
とまで怒ったと伝えられていた。
そこで地元の教育委員会が中心となって、真宗寺と島崎家の和解をはかり、1965年にようやく和解がなり、いまではご本堂右手に《破戒の碑》が建立されている。

真宗寺には、このほかにもおもしろい逸話がたくさんのこっている。
1868年(慶応4)幕末の戊辰戦争に際して、徳川幕府派の越後高田藩士/古屋作左兵衛門ら衝鋒隊 ショウホウタイ 隊士600名余が飯山城下に結集し、この上町 カンマチ(現 南町) 真宗寺を本陣としてたてこもったことがあった。

ときの飯山藩は親幕府派ともいえた存在だったようであるが、なにぶん藩兵150名たらずの小藩でもあり、心底困惑し、城をかたく閉ざして模様みをきめこんだらしい。ところが城下の住民は衝鋒隊に物心ともに助力することが盛んで、真宗寺の本陣に駆けつけて気勢をあげたりしたので、藩名をもって沈静を命じていた。

その鎮圧のため新政府軍として松代藩兵ら2,000余名が、千曲川右岸(東岸)の木島平に布陣し、時間的にはほんの少少の抵抗で、武力におとる幕府派衝鋒隊は鎮圧されたとされている。
その際飯山城下はおもに衝鋒隊による放火で炎上し、中町・肴町・愛宕町・神明町など、城下の山側半分を焼失した。俗にいう「幕末 飯山戦争」である。

「幕末 飯山戦争」に際して、飯山藩は局外中立をたもったとはいいながら、その大手門付近でも交戦があり、親幕府派のものか、新政府軍派のものかはわからないが、大手門の柱にはいくつもの刀傷や弾痕をのこしていた。
このかつての飯山城大手門はちいさなものではあるが、現在は長野市の信叟寺(長野市大字金箱 禅宗 万松山信叟寺)の山門としてのこされている。

そもそも 飯山藩 なぞ、北信濃4郡を支配した3-5万石そこそこの小大名にすぎず、城というのも哀れなほど、ささやかな小山を根拠地にしたにすぎない。
それでも飯山の住民は、いまでもひそかに、戊辰の戦争に際して、越後・長岡藩や陸奥・会津藩などの雄藩と同様に、小藩ながら孤軍奮闘、中央権力に抵抗したことを誇りとする異風がある。

変わり者、頑固者が多いのが飯山の特長とされる。「〇〇居士」を名乗るほうもたいがいだが、それを墓石に刻むことを許す寺も随分と鷹揚かも知れない。ふつうは整備されているがこのときはケヤキの大木の落葉が積もっていた。右奥の黒い小さな御影石が、やつがれの生家の墓標。

現在の真宗寺の住職は、26世・井上孝雄コウユウ氏である。このひとはやつがれより4-5歳年上で、かつては「孝雄 タカオ ちゃん」と呼ばれて、弟の「孝栄 コウエイ ちゃん」ともども、やつがれらと、大公孫樹イチョウによじのぼったり、ケヤキの大木に足場をこしらえて隠れ家をつくったりと、なかなかのやんちゃであった。

ところで、浄土真宗では、読経のあとに「お説教」という行事がある。これは文字どおり、読経のあいだの正座で、足がしびれて悲鳴ををあげているのに、さらに念入りに仏教行事として「ありがたいお説教をお垂れあそばされる」(ご法話)困った モトイ ありがたいしきたりである。
ところが、オヤジやアニキの法事などでの真宗寺26世・井上孝雄コウユウ住職の「お説教」は、しみじみとこころに沁みるものがあった。さすがである。

ここ、真宗寺は、1953年(昭和28)5月18日に「飯山大火」という、フェーン現象下でのおおきな火災で、飯山町の南側半分117戸とともに焼失した。当時やつがれは小学2年生であった。このときやつがれの生家は飯山駅前にあったが、3件隣で火は鎮火して焼失は免れた。
徴兵から復員後に借家で開業していたオヤジは、こののち、真宗寺の焼失地の一隅を購入して移転した。そのためにお寺と医者が隣接しているという奇妙な光景がうまれることとなった。
ここ、真宗寺に、やつがれのオヤジとアニキは眠っている。
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『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹(実は お~獅子シッシ と呼んでいた、高校の一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」
と。お~獅子、エライ!(ここは選挙とは一切関係なし! 為念)。

《やつがれの方向感覚とランドマーク》

たかやしろこの山河の邦・飯山で中学時代までをすごした。ここはまた地勢的には飯山盆地とされる。
高校生になって30キロほど千曲川の上流で、すこし平野部のひろい善光寺平の長野にでた。
そのとき……、体内磁石というか、方向感覚が狂ったおもいがした。すなわち土地の目印というか、陸標というのか、ランドマークを喪失したおもいがした。

やつがれにとっての基準点とは、いまもって、あくまでも飯山町である。
そこでの東とは、まるでシルクハットのようにみえる、たかやしろ(高社山 コウシャサン、別称・高井富士)であった。それがすべてであり、西とは、まだらお(斑尾山 マダラオサン)であり、南とは、千曲川(新潟県では信濃川トモ)の上流で、北とは、千曲川の下流であった。
だから長野でも、その後あちこち移動して、東京にでてからでも40余年になるが、いまもって方向の認識は、いったん飯山の情景に置換してからになる。

山河がとぼしく、平野部が広大な関東平野や北海道出身のかたの体内磁石はどうなっているのだろう。太陽がでている昼間ならともかく、曇天や夜などは、どのように方角や方向を認識しているのか良くわからないままでいる。
関東平野のど真ん中、埼玉県の平野部出身の某氏にそれを聞いた。
「エ~と、駅の北口とか、西口とかあるじゃないですか。それが目印です」
やはり、そうか……、というおもいであった。認識と目印は違うんだけどな、というおもいで聞いていた。息子にも聞いたが、北とか東とかに、そんな興味はないという素っ気ない返答であった。

のっぺらぼうの東京、それも交通が便利なだけに移動圏がひろがり、ビルの乱立している近代東京では、富士山を望遠することも稀になった。したがってただの棒か点でしかない、東京タワーも、スカイツリーも、ランドマーク(地標)とはいいがたいものがある。
娘も息子も東京で生まれ育ったが、おそらくやつがれとは、方角の認識にたいする執着度がことなるのであろうか……。

《平成の大合併のもたらしたもの……》
ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、中央アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して、新潟県にはいると信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから、上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は、上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。
このように千曲川に沿った地域では、川上・川下にたいする意識がつよく、それをつづめて「カミ、シモ」などともする。

千曲川をはさんだだけというのに、あまり橋もおおくなかったこの時代、これらの各郡はともに競合し、たがいになにかとライバル視する仲でもあった。もちろんそれは、県会議員の選挙区区割りや、通学圏、通婚圏や、ふしぎなことに文化圏や言語圏などにもその影響はおよんでいた。

高野辰之さんの郷里と、やつがれの郷里は、かつてはともに下水内郡であり、道路が整備されたいまでは車なら10分ほどの距離であり、実家の片塩医院の通院・往診範囲内であった。
ところがなんと、豊田村は2005年04月01日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した 高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、これもやはり川向こうの下高井郡にてをだして、野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は否定され、野沢温泉村は勇気ある孤立のみちを選んだ。
すなわちわがふるさと・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、ならば仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供をつれてそんな飯山にたびたび帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。
まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふるさととはいいがたいものがある。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じ難く候!

朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる

《CAD システムを駆使した日星鋳字行の活字母型製造法》
今回の台湾旅行の最大の目的は、台湾・台北市にある活字版製造所/日星鋳字行(代表/張 介冠氏 チョウ-カイカン)をたずね、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)にかわる、あらたな活字母型の製造法、すなわち  Computer Aided Design(CAD)方式の採用による「あたらしい活字母型製造法」を実地に体験して、それを学習することにあった。

既報のとおり、わが国における近代活字の活字母型製造法とは、なんの疑いもなく、西洋近代の文明開化を象徴する新技術として、明治最初期から「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」がほとんどであった。
この方法は簡便ではあるが、「既成の活字から、それを複製原型として、あらたな活字母型、活字をつくる ──  Making Matrices from Type」、すなわち活字の不正複写が多発するとされて敬遠され、欧米ではオーナメントや精密画像の複製用などの「電気版 電胎版とも Electrotype」に使用される程度にとどまった技法であった。

ところがわが国では、近代タイポグラフィの導入期から、各地の活字鋳造所でひろくおこなわれていた活字母型製造法は、この不正複写問題が多発するとされ、欧米では敬遠された「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」であったことは、そろそろ明確に記憶にとどめてもよいだろう(『Practical Typecasting』Theo Rehak, Oak Knoll Books, Delaware, 1993, p.152-163 )。

わが国では、ほかには「弘道軒清朝活字」を製造販売した「弘道軒活版製造所」など、ほんの数社が、欧米とおなじように、複製原型としての活字父型を彫刻して「パンチド・マトリクス方式  Punched Matrix」を採用して活字母型を製造していた。

すなわち世界的な規模において、近代タイポグラフィ界にあっては、ながらく、活字製造の複製原型は活字父型(木製のばあい種字とされることもある)であり、その活字父型(種字)の存在が、原鋳造所のなによりの誇りであり、証明となっていた。
当然活字父型はたいせつに保管されていたので、欧米各国の活字鋳造所、活字博物館、活字記念館などでは枢要な展示物として活字父型をみることができる。

わが国では、前述した弘道軒活版製造所の活字父型のほとんどは、関東大地震の被害をまぬげれて、神崎家 → 岩田百蔵氏 → 日本タイポグラフィ協会の手をへて、まだ未整理な段階にあるものの、現在は印刷博物館が所蔵している。
また岩田百蔵氏の時代、少数ながら弘道軒活版製造所のよく整理された資料が、女婿・平工栄之助の手に継承され、その資料は研究対象として現在朗文堂がお預かりして、公開展示や実際の印刷テストなどにももちいている(平工家蔵)。
【参考資料:「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌 04』(片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日)】

イタリアのタイポグラフィの王者、王者のタイポグラファと称賛される Giovanni Battista BODONI(1740-1913、パルマ)の「ボドニ活字博物館」の収蔵資料。同館ではボドニの活字父型、活字母型、鋳造活字、それで印刷された書物がすべてセットで展示されているのが大きな特徴である。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」であった。
しかしながらこの方式による機械式活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から128年、国産化から62年という歴史を刻み、2012年をもって事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、残存するわずかな原字パターンの字体にも、常用漢字を中心に時代性と齟齬がみられたり、もはやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という19世紀の活字製造周辺技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造会社、日星鋳字行の存在と、そのCAD方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン-クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
したがって、そもそもこの台湾旅行は、昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011年3月11日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。その間逆に、昨年末に数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ-カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ-シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材の立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、昨2011年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
なによりも日星鋳字行さんは《活版凸凹フェスタ2012》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート14 

  
  
  
上左・右)日星鋳字行のコンピューターで、あらかじめ送付しておいた原字データーに、鋳造活字にもとめられる「Bevel 傾斜面」のデーターを付加するなど、CAD彫刻方式に必要な画像処理が加えられていた。

中左)そののち、斬削加工機にデーターが搬送される。この斬削加工機はさして特殊なものではなく、金属加工業界ではふつうにもちいられている程度のものだそうである。
中右)所定の金属材料マテ(Material のなまり。ここでは真鍮の角材)を、定められた位置に正確に置いて固定する。それ以後は操作パネルの操作で、極細のドリルが降下してきて、あとは自動的に彫刻がはじまる。

下左)ドリルの移動は、ベントン彫刻機が手技によって輪郭線をなぞる作業からはじまるのにたいして、本機ではデジタル・スキャナーと同様に、ドリルは上部から下部にかけて、水平運動を繰り返していく。ドリルは作業中交換されることは無く、この1本のみで終了する。これで初号から、現段階では実験的ながら、六号サイズまでの活字母型彫刻に対応しているとのことである。
下右)彫刻を終えた活字母型は、検品・補修のうえ、すぐさま活字鋳造がはじまった。日星鋳字行には活字鋳造機が、台湾製/2台と、日本・八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」1台があった。今回の活字鋳造は八光活字鋳造機製作所のものがつかわれた。

日星鋳字行の活字鋳造機は、上掲写真右側の八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)の製造による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」とほぼ同型の機種であった。

今回の参加者全員の原字データーは、いったんアダナ・プレス倶楽部に集約されて、かつてのベントン彫刻機のパターン製造のときと同様に、あらかじめ簡便な「文字作成ソフトウェア」をもちいて、2インチ角の枠と、センター・トンボをつけた文字データとして日星鋳字行に送付しておいた。
作成予定の活字母型と活字は、初号活字(42ポイント)であった。形象が複雑で、彫刻時間が長時間になるものは、あらかじめ日星鋳字行で機械彫刻が先行していた。

彫刻時間だけをみると、楷書体初号「朗」のひと文字を彫刻するのに15分ほど、おなじく「文」のひと文字を彫刻するのに10分ほどの時間がかかった。
斬削中はつねに操作面に機械油が注がれて、斬削粉の除去と、ドリルの加熱を防止していた。
なにぶん金属加工や機械関連には知識が乏しい。また、日星鋳字行の独自のノウハウも尊重しなければならない立場であった。そのため参考資料として【平田宏一氏 機械加工の基礎知識】をあげておいた。関心のあるかたは参考にしていただきたい。

《活版凸凹フェスタ2012》会場にて──2012年05月05日

上) 『昔字・惜字・習字』(臺灣活版印刷文化保存協會 2011年 中華民国100年12月
同書の序文に「鉛活字印刷技術之復興 ── 風行一時、日星又新」とある。
日台でのおもいは同じで、どちらも《活版ルネサンス》。柯 志杰さんによると、
いまの台湾では、活字鋳造、活版印刷の崩壊をあやうく防止できたという段階に
あり、これから徐徐に修復作業にとりかかり、将来課題として新刻作業に入る
段階にあるとのこと
である。
左) 日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表

右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

日星鋳字行地階の作業場にて。後列はアダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生の皆さん。

前列右)日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
前列左)台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

  

  

 上左)日星鋳字行は活字版製造所(活字組版所)を兼ねているため、活字の在庫はふつうの活字鋳造所にくらべるときわめて多い。写真は文選箱を手に、ずらりと並んだ活字ケース架をぬって、台湾ならではの活字の購入に忙しい会員の皆さん。
上右)さまざまな国からの見学者が増え、カバンや手荷物が当たって活字の落下事故が増えているそうである。活字ケース架(ウマ棚)には手荷物の持ち込みはやめていただきたいとのこと。
また財政担当の張夫人がやつがれに、
「長時間見学や撮影だけして、なにも買わないか、せいぜい名前の活字2-3本だけ買って帰る人はねぇ」と、ポツリ……。結構こたえた!

下左)台湾では縦組み、横組みを問わず「句点  、」と「読点 。」も中央におかれる。そのための中付きの句読点の活字。
下右)台湾・日星鋳字行にもありました! 「活字列見」。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」。「張代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」。「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」。「柯さん-そうか、知らなかったなぁ」。

日本と台湾のタイポグラファの交流はこうして続いていく。

★タイポグラフィ あのねのね*016
これはナニ? なんと呼んでいますか?  活版関連業者からお譲りいただきました。

★タイポグラフィ あのねのね*018
Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具  Type Lining Tester  活字列見

【この項つづく】

タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士

安 形 文 夫  (写真撮影 : 2008年09月28日)
〔あがた-ふみお 1941年(昭和16)10月26日うまれ-2012年(平成24)01月01日歿〕
機械式彫刻活字母型製造工場「安形製作所」代表
2012年01月01日、膵臓がんのため永眠。行年71
法名 : 誠徳院華岳文光居士

 《最初に山梨市の安形製作所の工房を訪ねたとき》
あれは何年前だったのだろう。
武蔵野美術大学に、まだ短期大学部があったころだから15-20年ほど前のことになる(2003年 平成15年、 武蔵野美術大学短期大学部は廃止。 したがってそれ以前のこと)。

このころすでに、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)の産業基盤と、その技術継承に不安があるということで、元・岩田活字母型製造所の高内 一 タカウチ-ハジメ 氏のお骨折りで、武蔵野美術大学短期大学部の学生諸君が、ベントン活字母型製造工場 「安形製作所」(代表社員:安形文夫、山梨県山梨市三ヶ所)の作業のすべてを、ビデオ映像に撮影・保存する企画があった。

左写真)
機械式活字父型 ・ 母型彫刻機(ベントン彫刻機、ベントンと略称された)
上写真)
高内 一氏(2012年08月14日撮影) 

武蔵野美術大学の学生諸君の引率・指導は横溝健志さん。 その撮影に便乗して、森 啓さんとやつがれも、一連の活字母型彫刻工程見学のために参加した。

もちろん、横溝氏、森氏、それにやつがれも、ベントン彫刻機はあちこちで目にしていたし、簡略ながら、実際に操作体験くらいはしたこともあった。それでも山梨市在住の安形文夫というベントン彫刻士を知ったのは、このときが最初だった。
安形氏はやつがれよりいくぶん年長だったが、この年齢ともなればもはやほぼ同世代であり、なにかと親しくおつき合いいただいた。

《安形文夫氏の略歴》
安形文夫 〔あがた-ふみお、1941年(昭和16)10月26日、山梨県うまれ〕は、ながらく横浜市の活字母型製造所「横浜精工所」に「活字父型 ・ 活字母型機械彫刻士」 として勤務された。「横浜精工所」の主業務は活字母型彫刻で、東京・飯田橋(のちに千駄ヶ谷に移転)にあった「飯田母型」と「横浜精工所」は、工場主が実の兄弟の間柄だったとされる (高内 一氏談)。

安形文夫はその 「横浜精工所」 で、ベントン彫刻機の彫刻士としてながらく勤務された。
1980年代のはじめ、「横浜精工所」を退職後に、山梨市三ヶ所に「安形製作所」を設立。 ベントン彫刻機を数台設置して、おもに活字母型彫刻の業務にあたった。

1960-70年代前半には、新聞社と大手印刷所を中心に「機械式活字自動鋳植機」(いわゆる日本語モノタイプ)が盛んに稼働していた。
「活版印刷」が後退したいまではすこしわかりにくいが、1970年代の印刷によるページ物書籍や、新聞などのほとんどは、端物印刷所などでみられる、活字の手びろいよる「文選」ではなく、相当機械化と自動化がすすんだ 「日本語モノタイプ」 によって、活字が鋳造 ・ 植字され、校了後に、「紙型取り作業  Matrix molding」から、疑似活字版ともいえた「鉛版 Stereotype,  Stereo」を製造して「凸版印刷  Letterpress printing」された。 これらの一連の作業もふくめて、ふつう 「活版・活版印刷」 と呼んでいる。

実践活字母型彫刻:朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 協力:真映社・安形製作所・築地活字実践活字母型彫刻(イメージ写真)

高速かつ大量に活字を鋳造・植字する「機械式活字自動鋳植機」にあっては、高速で激しく稼働する機械のために、新規購入時はもちろん、鋳造作業によって損傷した活字母型の補充注文も大量に発生して、「安形製作所」 の活字母型製造業務は比較的好調な出足となった。
それでも、活版印刷業と活字鋳造界全体が、1970年代の後半から急速に衰退するなかにあって、設立からの安形製作所の経営は決して楽なものとはいえなかった。それでも設立直後の同所に追い風となったのは、新聞各社の紙面変革にともなう活字書体の大型化であった。
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わが国の近代活字活字版印刷術(タイポグラフィ)は、1873年(明治6)長崎から10人ほどのスタッフを伴って上京した平野富二が、旧伊勢国津 藤堂藩上屋敷の門長屋の一隅(現・千代田区神田和泉町1)に活版製造所(のちの東京築地活版製造所、当初はさまざまな呼称で呼ばれていた)を設けたことで本格始動した。

関東大震災と第二次世界大戦の被害によって、わが国の金属活字と活字母型は壊滅的な打撃をこうむっていた。 また戦禍を免れたとしても、大正期から戦前までの 「電鋳法による活字母型(電胎母型)」 は、すでに耐久性が限界をはるかに越えて、ほとんど実用性をうしなっていた。

戦後の再出発に際して、大手印刷所、大手新聞社のほとんどは、1947-1950年代の初頭から、おおがかりな活字母型の改刻作業に入った。 その先鞭をつけたのは 「毎日新聞社」 と 「大日本印刷」 であった。
毎日新聞社は、大日本印刷とともに、津上製作所製造の、国産による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」(いわゆるベントン彫刻機、ベントンとも)を導入して、文字形象を整備するとともに、それまでの損耗の激しかった電鋳活字母型から、真鍮の地金に直接機械式で彫刻し、それを活字母型にすることで、電鋳活字母型のおよそ5-10倍の活字母型の耐久性の向上を計った。
また活字母型深度の統一( ≒ 活字の高さの統一)によって、いわゆる 「ムラ取り」 時間を大幅に短縮することに成功した。

すなわち1923年(大正12)に、東京築地活版製造所、印刷局、三省堂の注文により、三井物産をつうじて、わずかに米国から03台だけ輸入され、実験的に稼働していた三省堂所有のベントン彫刻機をモデルとして、国産機が製造され、急速な普及をみたのは1950年(昭和25)からのことであった(「ポイント制活字の開発と機械式活字母型彫刻機」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、2004年12月11日)。

東京築地活版製造所最後の活字種字彫刻士とされた安藤末松(本名 : 仁一 1935-72年)
印章士のように、文字を裏文字、原寸で種字に彫刻する技術は、急速なベントン彫刻機の普及もあって、安藤の晩年にも、すでにまとまった 「活字種字彫刻」 の仕事はほとんどなく、特殊文字 ・ 図画など、いわゆる 「足し駒」 の種字彫刻や、足し駒木活字の製造がもっぱらだった。
「足し駒木活字」 とは、
金属活字に無い、特殊な文字や図形を、活字とおなじ大きさ ・ 高さの木台に裏文字で彫刻するもので 「木活 ・ 足し駒」 とも呼ばれた。
紙型どりはもちろん、原版刷りでも、
ほんのわずかに活字より低くすることで、3,000枚程度の原版刷りにももちいられた。 この安藤末松の逝去をもって、わが国の活字種字彫刻士の系譜は事実上幕をおろした。

このベントン彫刻機国産化の成功は、おおきな衝撃を印刷 ・ 活字界にもたらした。 国産機メーカーも、先発した津上製作所につづいて、不二越製作所も追随して開発に成功して、朝日新聞社、凸版印刷なども、ベントン型彫刻機を競って大量に導入した。

《技術の変遷にともなう活字原型彫刻技法の変化》
18世紀中葉-19世紀にかけ、イギリスでは人力にかえて、蒸気機関などの動力が開発された。 その結果、機械産業がいちじるしく発展して産業革命をもたらした。 この産業革命は活字製造と活字版印刷術にもおおきな変化をもたらした。

近代活字版印刷術(Typography)の創始のころから、印刷用文字活字複製原型の製造とは、特殊技能者とされた 「パンチカッター (活字父型彫刻士)」 が、手技によって、逆文字(鏡文字 ・ 裏文字)を金属材に彫刻する技法で 「活字父型  Punch」 をつくり、それを簡便な道具で、マテ(マテとは Material が訛ったものとされる。 真鍮、ニッケル、鉄などの角棒材) に打ちこむ(押しこむ)ことで 「活字母型  Matrix」 をつくる 「パンチド ・ マトリクス方式   Punched Matrix」であった。

この技術、なかんずく活字父型彫刻法とは、市販されているふつうの針金程度の鋼材を、焼きなましによって軟鉄とし、そこに逆向きの文字を彫刻し、それを焼き締めて硬化させてから、真鍮などのマテ材に、押圧を加えて活字母型とするものであった。
誤解をおそれずしるせば、これは、象牙 ・ 牛角 ・ 水晶といった硬い素材に、文字を彫刻する「印章士」と、さほどの技術上の違いはない。

ところが欧米では、この技術がながらく秘技・秘伝とされ、家伝ないしは師弟相伝によって技術が継承されてきたために、欧米でも想像以上に書物による紹介は少なかった。
またわが国においては、活字父型彫刻法とは、かたい 「鋼鉄」 「ハガネ」 に文字原型を刻するものとされたために、多くの誤解や神話をうんだ。

「欧州活字鋳造所の説話」 『活版術要』 (原著:American Printer)によれば、1637年、英国国王第Ⅱ世ジュリー王の勅命をもって、英国活字鋳造所のご法度として、活字父型彫刻法が厳しく制限された記録がのこっている。そこには、
「刷印活字鋳造師[原文はパンチ・カッター]ハ四名に限ルヘキモノ」
「英全国ノ刷印師総数ヲ定限シ二〇名トス」
とある。

これは17世紀の英国においては、国王の勅命によって、パンチカッターの技能を有する者は04名に、刷印師(原文は Master-printer であり、親方印刷士としたい)は20名に制限されていたことがわかる資料である(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.60-62)。

この技術が「秘伝」の封印を解かれ、ようやく公開されるようになったのは、19世紀後半から20世紀初頭からで、もはや手技による活字父型彫刻法を秘匿する積極的な根拠がなくなってからのちのことになる(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.57)。

    
    

アメリカ側の記録によると、大正期(1923年 大正12)に、三井物産をつうじて、印刷局(現 独立行政法人 国立印刷局)、東京築地活版製造所(1938年廃業)、三省堂(現 三省堂印刷)などが 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機、ベントン彫刻機」 を輸入している。
この輸入に際しては、関東大震災での被害に直面して、輸入品が一時行方不明となり、焼失説がもっぱらだった。 のちに、まだ通関前で、横浜の保税倉庫に保管されていたことが判明したとされる。

また激甚をきわめた関東大震災のなかに関連書類が焼失したのか、アメリカ側への支払いがいまだに済んでいないとする、ふるい文書が存在する(『Practical Typecasting』 Theo Rehak, Oak Knoll, Delaware, 1993,  p.105-110)。
この記録文書は、米人の研究者の手をはなれて、現在は日本の個人が所有している。

このときわが国にもたらされ、考案者の名前から「ベントン、ベントン彫刻機」としてよく知られている 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機」 は、米国/ノースウェスタン活字鋳造所(Northwestern Type Foundry) の経営者であった、リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)が、1884年に、もともとは活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化し、翌1885(明治18)年に英米両国の特許を得た機械である。
すなわちアメリカでの実用化から40年ほどのはやさで わが国への輸入をみたことになる。

その後ノースウェスタン活字鋳造所は、1892年にアメリカ活字鋳造所 ( ATF,  American Type Founders Inc. )に併合され、リン-ボイド-ベントンも同社に移動し、のちには ATF の代表社員となっている。
前述の印刷局、東京築地活版製造所、三省堂の三企業では、第二次世界大戦の戦禍で、ほとんどの印刷関連機器を焼失した印刷局のほかは、東京築地活版製造所の所蔵機は、さまざまな変転をへて、現在は印刷博物館に収蔵されている。
また三省堂所蔵機は、国産ベントン彫刻機のモデルとなり、いまは同社関連企業の三省堂印刷(八王子市)に保存されている。
このうち、実際にリン-ボイド-ベントン考案による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」 の本格稼働に成功したのは三省堂だけだったとされる。

三省堂では導入からしばらくしてから、輸入機をもちいて、もっぱら 「三省堂常用漢字3000字」 の製作にあたった。それに際して三省堂では、活字父型彫刻というより、もっぱら活字母型を彫刻し、同機を 「ベントン彫刻機」 と呼び、その周辺技術はもとより、操作法のすべてを、敗戦までは社外にかたく秘していた。
この間の情報は、あらかたこのブログロール 『花筏』《タイポグラファ群像*002  杉本幸治》にしるしたので、興味のあるかたはご覧いただきたい。 

《機械式活字母型彫刻機、ベントンのすべてを知るひと――細谷敏治氏のこと》

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校(旧制)をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に1937年に入社し、入社直後からもっぱら 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」の操作と研究に没頭した。 また、同氏が敗戦後のわが国の金属活字の復興と振興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい自動活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。

同氏はまた、実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年01月20日」を取得している。
この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」としたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法 「Punched Matrix」 方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して 「打ち込み母型」 とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年8月15日撮影、細谷敏治氏98歳。左は筆者)。
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《半工、半農をこころみた安形製作所》
1970年代後半-1980年代になると、金属活字とその活字母型の需要が次第に減退し、1980年代には技術的に成熟期を迎えた写真植字法による版下製作、写真製版、オフセット平版印刷などの業者が擡頭するようになった。その反面、活版印刷業の衰勢は覆いがたいものになっていた。

そんな時代、1980年代の前半に安形文夫氏は横浜をはなれ、郷里の山梨市に工場兼住宅を新築して、そこに横浜精工所と、岩田母型製造所から譲渡されたベントン彫刻機を10台ほど設置して「安形製作所」を創立して、おもに活字母型製造と、箔押し用の金型(金盤 カナバン)製造などに関わった。
活字母型彫刻の発注が途絶えたときは、菜園の作業や花卉づくりにいそしんだ。また晩年には花卉づくりに熱心になって、作業場の一部を温室に改造して育苗につとめたりもした。

このころの活字母型製造とは、すでに技術におおきな変化がみられて、手組み用に活字鋳造機で単字鋳造されるもの(Foundry type)の活字母型製造より、モノタイプ、ルドロータイプ、インタータイプ、ライノタイプなど、いわゆる自動活字鋳植機とされた、日本語 ・ 欧文モノタイプにもちいる、画鋲のような形態の活字母型(Machine type)の製造のほうが多かった。
とりわけ新聞各社が競って本文活字を大きめのサイズに改刻したときには、近在の農家の主婦までが作業に加わって、工場はおおいに繁忙をきわめたこともあった。
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《 こんな時 代だから 金属活字も創っています !  2009年アダナ ・ プレス倶楽部アラタ1209製造 》
こんな時代だから 活版印刷機を創っています!
そんなスローガンをかかげ、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足したのが2005年であった。
先行した各種の小型活字版印刷機を参考に、あらたに設計 ・ 試作機づくり ・ 鋳型製造 ・ 組立と進行して、「21世紀の日本で、はじめて完成した活版印刷機」 のおもいを込めて命名した  Adana-21J  が誕生したのは2007年のことである。 

こんな時代だから 金属活字も創っています!
活版印刷機  Adana-21J  の製造 ・ 販売だけでもたいへんな時期だったのに、こんな無謀なスローガンを掲げて、カタ仮名専用活字を創ろうと試みたのは2008年のことだった。
原字 「アラタC」 の製作者はミキ イサム(1904年-85年)、同家ミキ ・ アラタ氏の了承を得て、ライセンス供与は株式会社モトヤからうけた。 カタ仮名専用書体とはいえ、濁音 ・ 促音 ・ 拗音 ・ 約物をあわせると92キャラクターとなる。
モトヤの担当者からは 「いまから活字で新書体をつくっても、絶対商売にならないから、おやめになったほうが……」 と説得されたが、もうプロジェクトは走りだしていた。

★アダナ・プレス倶楽部 News  No.39
    特別企画/感動創造の旅:実践活字母型彫刻
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.40
    実践活字母型彫刻、素晴らしい成果をあげて無事終了!
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.43
    実践活字鋳造会 盛況裡に終了!

1. 提供された原字をデジタル・データーにして 2 inch 角の原字パターン原図を作成。
   〔正向き、新宿 ・ 朗文堂〕
2. パターン原図をもとに亜鉛凹版によるパターンを製作。
   「懐かしいなぁ。昔は岩田母型さんも日本活字さんもウチでパターンをつくってい
        たけど、こんなまとまった !?  パターンをつくるのは、20-25年ぶりくらいかなぁ」
       (角田常務)。〔正向き、神田 ・ 真映社〕
3. 亜鉛凹版92枚のパターンを持参して安形製作所へ。12 pt の活字彫刻母型製造
        依頼。 「えっ、まだ亜鉛凹版のパターンをつくれるの。 知らなかったな。 ここんとこ
   「足しコマ」か損傷母型の補充ばっかりだったんで、パターンは板ボールをひと皮
   はがして、紙パターンばっかりだった。 これからは朗文堂にパターン製造を依頼
   しよう」。〔正向き、山梨・安形製作所〕
4. 活字彫刻母型が完成。横浜で鋳造。
   「ひさしぶりで、まっさらな活字母型で鋳造すると、嬉しくなるなぁ」
   〔裏向き、築地活字株式会社〕
5. アダナ・プレス倶楽部で「アラタ1209」の商品名で販売中。乞う! ご発注。
   
★ 朗文堂  Type Cocmique
     こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ!カタ仮名専用活字復興。

多くの企業の協力と、多くのひとの努力で復興したベントン式活字母型とその活字スキーム。

こんな時代だから 金属活字も創っています!
「アラタ1209活字復興プロジェクト」は多くの収穫をもたらした。 すなわちベントン式活字母型製造法は、あちこちでパイプが詰まっていた。 その詰まった部分を、ひとつひとつゆっくり丁寧に解消して、円滑な流れをつくることにつとめた。
また、その成果を『アダナ・プレス倶楽部 会報誌』などに公開することで、その後何人ものひとや企業が、ベントン式活字母型製造から活字鋳造に挑戦するようになったことは望外のよろこびであった。
なによりも、わずかとはいえ、安形製作所の稼働率があがったことがおおきな成果であった。

《創造感動の旅 実践活字母型彫刻》
その後もアダナ ・ プレス倶楽部と「安形製作所」は積極的な交流 ・ 発注をつづけた。
とりわけにぎやかで、若者の参加が多くて、安形文夫氏もよろこばれたイベントが、2008年09月27日開催の「朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 実践活字母型彫刻」であった。このときはマイクロ ・ バスをチャーターして10数名での参加だった。

そのときの写真をあらためてみると、作業にはきびしく、若者にはやさしい愛情をそそがれた、安形文夫氏のおもかげがしのばれる。
このときは、参加者全員が持ちきれないほどたくさんの椎茸をみやげにいただき、すっかり暗くなった夜道を走って、元従業員だったとされるかたの農場で、山梨名産のブドウを安くわけていただいたのも懐かしい。

──────
なにぶん正月中の逝去だったために、葬儀は親族だけで密葬された。
2012年08月14日、あらためて友人 ・ 知人 ・ 隣組の皆さんをまじえ、僧侶を招いてのご供養があった。 やつがれはそこで万感のおもいをもってお別れをした。
その後、小社とは直接取引はなかったが、東京 ・ 板橋にあったベントン彫刻所の経営者も2012年09月に逝去されたとの情報があった。

リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、ベントン」による活字父型 ・ 母型製造法は、ここにアメリカでの実用化から128年、わが国での国産化から62年の歴史をもって、事実上幕をおろすこととなった。
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、生前の安形文夫氏とも相談しながら、次世代の活字母型彫刻法をさまざまに探ってきた。 その成果はいずれ発表したい。

機械式活字母型彫刻士 安形文夫、2012年1月1日、膵臓がんのため逝去。行年71 合掌

朗文堂-好日録016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ宋版図書 復活・再生の地 杭州・紹興

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 海の日の休日を利用して、ふたたび 杭州 ・ 紹興への旅 》
フトおもいたって、昨年9月に訪れた杭州 ( Hangzhou ) と、紹興 ( Shaoxing ) にいきたくなった。
このまちは宋版図書の主要な製造地であり、その 「 復活 ・ 再生 」 のまちで、宋朝体と呼ばれる字様 ・ 活字書体を産んだまちのひとつでもある。

便利な時代になった。 杭州と紹興の中間地点までは ANA の直行便がフライトしている。
同行者はノー学部。 ノー学部は、なにやら中国史研究に遠大な構想 ( 夢想? ) をいだいているらしい……。 そのせいか最近は、書芸と中国史の学習にことのほか熱心にとり組んでいるのだ。

どうやらノー学部の研究テーマの主要項目に 「 美食 」 があるらしい。 旨いレストラン ( 中国のばあい、ほとんどすべてが 「 中国料理店 」 だが、都市ごとに味わいがことなり、どれもがおいしい ) や、スィーツ専門店を探すのに夢中になったりする。 また旅のスケジュールを、ともかく、めいっぱい、隙間無くうめる癖がある。これは勘弁だ。

やつがれは、そのまち、その場の空気を吸っているだけでいいという、呑気な性癖である。
したがってノー学部による分秒刻みのスケジュールに、真底辟易し、あえぎながら坂道をのぼり、歩き、走りまわることになる。これだけは本当に勘弁してほしい(怒)。
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上掲の彫刻写真は、2009年秋に再開発がなった 「 南宋御街 ギョガイ 」 でたまたまみかけたもの。 しかしこの彫刻は、書芸と詩作と 「 美食 」 にある程度造詣がないと、ほとんど意味をなさない。
やつがれは 「 美食 」 にはまったく関心が無いが、この前夜、前掲 「 書芸 ・ 詩作 ・ 美食 」 三単位初級編を、ホテルのすぐ近くの大衆レストラン ( もちろん中国料理店 ) で学習した ( つまり食した ) ばかりだったので、おもわず笑い転げてしまった。

東坡肉の実際。やつがれの食したのはもっと庶民的かつ素朴なものだった。
杭州では、ひと皿10元 ≒ 125円。 新宿の杭州料理店では 1,200 円だった。
例によって撮影失敗につき、 中国版Websiteより紹介。

このあたりは王城域とされ、杭州が南宋のみやこ ・ 臨安とよばれていたころは、王宮の内宮をでると 「 大廟 ダイビョウ 」 があった。 これに隣接して 「 察院前巷  サツインゼンコウ 」 とされる、おおきな宮殿と広場があった。
「 大廟 」 では、元旦 ・ 白馬 アオウマ ・ 踏歌 トウカ ・ 端午 ・ 相撲 スマイ ・ 重陽 チョウヨウ ・ 豊明 ホウメイ などの祝祭をおこなう 「 節日 セチニチ 」 に、皇帝が文武の百官をここの宮殿と おお広場で謁見した。
「 大廟 」 の左右には 丞相府 ( ジョウショウフ 首相官邸に相当 ) があり、ここから鼓楼へかけてのまっすぐな道が王宮中央通りとされて 「 御街  ギョガイ 」 と呼ばれていた。

ところが南宋末期、衛宗 祥興元年(1279)、臨安は蒙古族元軍の襲来をうけて、王宮はもちろん、大廟や丞相府や察院前巷も焼け落ちて、ながらく地下に埋もれていた。
ようやく近年発掘調査がおこなわれ、また再開発されて公開されるようになった。

いまこの周辺は観光地として拓けつつあるが、たれもがガイド ・ ブックに紹介された杭州にはたくさんある 「 名所 ・ 旧蹟 」 をみるのにせいいっぱいで、ガイド ・ ブックにも掲載が無く、ガイドも案内しない、こうした 「 現代彫刻 」 には、たれも足をとめない。

やつがれはこのあたりを、ほぼ2日間うろついていた。 人通りはそれなりに多いとおもっていたが、あらためて写真をみると閑散としたものでおどろいた。 そのためもあるのか、わが国にたくさんあるブログ版 「 中国旅行記 」 のたぐいの写真でも紹介されたことはないようである。

やつがれ、しばらく彫刻に足をとめ、涼風をもとめて石のベンチに腰をおろしていた。 そこに地元の家族連れがとおりかかり、ひとりの少女がここで立ち止まって、小首をかしげたりしながら熱心に彫刻をみていた。

ふつう女性がこうして腰に手をやってこちらを見据えると、危険信号である。
やつがれのとぼしい経験では、次のフェーズは  当然のように、怒りにまかせて手近の皿やコップがとんでくるものだ。
ところが少女は興味深そうに彫刻をみ、そして先にあるいていった母親のあとをいっさんに追っていった。 皿もコップも飛んでこなかった。 この敏捷で利発そうな少女は、将来、詩人か造形家か、はたまた政治家か料理人にでもなるのだろう。

彫刻左のおおきな像は、蘇  軾 ソ-ショク ( 号 ・ 東坡居士、唐宋八家のひとり。 蘇東坡 ソ-トウバ としても知られる。 官僚 ・ 詩人 ・ 文章家 ・ 書芸家  1036-1101 ) である。
下にあげた 『 食猪肉 』 の詩は蘇軾のもの。 ここでの猪は豚のことである。
すなわちこのまちの名物食品、豚の煮物 「 東坡肉 トン-ボー-ロウ 」 の考案者・蘇軾を、諧謔精神たっぷりに、おおきな彫刻をもって伝えたものである。

東坡肉 : 中国版画像 】
もしこの杭州のまちにいかれたら、ぜひとも 「 東坡肉  トン-ボー-ロウ 」 を食されることをお勧めしたい。
長崎卓袱 シッポク 料理の一部や、鹿児島の郷土料理に、豚肉と大根を煮込んだ類似のものがあるが、蘇東坡考案の杭州 「 東坡肉 」 は、豚の脂がくどくなくて、美味である!  ノー学部なぞ、画像のような 「 東坡肉 」 の大皿を、ふつかの間になんと 3 皿も食していたほどのものである。

   黄州好猪肉
     價賤等糞土
     富者不肯喫
     貧者不解煮
     慢著火少著水
     火候足時他自美
     毎日起来打一碗
     飽得自家君莫管
        ──  蘇  軾 『 食  猪  肉 』 

いずれにしても、近代造形と、歴史的言語性を考えさせられる 「 現代彫刻 」 ではあった。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも書物 ( 図書 ) の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周などの、現在の開封 ( カイホウ、 Kaifeng ) にみやこをおいた王朝を中心に技術が温存され、10世紀 ・ 北宋 ( 趙氏、9代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典書物としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある開封(カイホウ、 Kaifeng)であった。いまもなお開封は雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏 ( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。
前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して 「 大梁 タイリョウ 」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ 「 東都 」 となり、つづいて後晋 ・ 後漢 ・ 後周もここにみやこをおいて 「 東京 」 と称した。
すなわち 「 分裂時代 」 とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた 「 後唐  923-936 」 以外の四国は、開封 ( 東都 ・ 東京 ・ 汴 ) をみやことしたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国 ( 現在の四川省 ) に建朝された 「 後蜀  934-965 」 では、965年ころには、あきらかに、
「 蜀地の文化の新 展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 ( 『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 ) のである。
「 木版印刷の創始は宋代 」 からという説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ 『 周礼 シュライ 』 がわが国の 静嘉堂文庫 ( 東京都世田ヶ谷区 ) に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル ・ タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」 ( 製作 ・ 欣喜堂、販売 ・ 朗文堂 ) である。これがして、やつがれが北宋 ・ 南宋の両方の宋王朝と、宋朝体に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤 ( チョウ-キョウイン、太祖、在位 960-976 ) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を 「 汴 ベン、東京開封府 トウケイ-カイホウフ
」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武 ( 文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール ) につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹 キッタン 族の遼、チベット系タングート族の 西夏 セイカ の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金 ( 女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打 アグダの建てた国 ) が、会寧府 ( 吉林省阿城県 )、燕京 ( エンケイ、北京 ) を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて 「 汴 ベン、東京開封府 」 を占拠して、宋 ( 北宋 ) を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康 セイコウ の変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。
上から、「 穠芳詩巻 」 「 牡丹詩帖 」 「 楷書千字文 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を 「 痩金体 」 と名づけた。

趙佶は初唐の書家 ・ 薛曜 ( セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 はいまは上海博物館の所蔵で、ここで真筆をみて、CDR版を含む、できのよい複製版を購入することができる。 『 宗徽宗書法全集 』 ( 王平川、北京 ・ 朝華出版社、2002年1月 )

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこの 「 汴 ・ 東京開封府 」 を陥れた。これが 「 靖康の変 」 とされる事件である。 ここに宋 ( 北宋 ) は 9 代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝の上皇 ・ 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 )、皇帝 ・ 欽宗 ( 趙 桓、在位 1125-27 ) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城 ( 現黒竜江省 ) に幽閉した。

風流皇帝ともされ、芸術に惑溺した徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓 ( 欽宗 ) に帝位を譲って上皇となったが、「 靖康の変 」 に際しては上皇 ・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓 「 永祐陵 」 は、旧南宋領内のみやこ  ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[ 本項は 『 大観  宋版図書特展 』  台北 ・ 故宮博物院、2007年12月を主要資料とした ]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業 ( 出版 ) であるが、この時代 ( 10-12世紀 ) の木版刊本の書物 「 北宋刊本 ・ 北宋図書 」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様 ( 木版刊本のうえにあらわれた字の形姿 ) や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物 「 インキュナブラ 」 の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗 ( 976-997 ) が、淳化3年 ( 992 ) に 宮廷の宝物藏 ( 内府 ) 所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書 カンリン-ジショ であった王著 ( オウチョ   ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒 ( モロク  摸倣によって木石に彫刻 ) させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて 『 淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ 』 である。

『 淳化閣帖 』 は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで 『 秘閣帖 』、『 閣帖 』 とも称した。
  同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った 「 勅賜の賜本 」 であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「 夾雪本 」 ( 東京 ・ 書道博物館 ) と、「 最善本 」 ( 上海 ・ 上海博物館 ) がわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇 ・ 徽宗帝、皇帝 ・ 欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵 「 内府 」 や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国はのちに女真文字 ( 満州文字 ) をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

つまり金軍は、『 淳化閣帖 』 などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石 ・ 版木のほとんどすべて、そしてその工匠の一部までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる 『 淳化閣帖 』 の複製原版が、石刻だったのか、梓 アズサや 棗 ナツメ材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明しない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋 ( 北宋 ) の版本のほとんどは 「 汴、東京開封府 」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で 「 覆刻術のために費消 」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における 「 文字獄 」 によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「 北宋刊本 」 がのこったのである。

すなわち、わが国では 「 文字獄 」 はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
「 文字獄 」 に 花筏 新・文字百景*003  へのリンクを貼ったが、あまりに長文のなかで触れたことなので、以下に該当部を青色表示で引用提示した。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく
清王朝初期の皇帝によって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。 

東漢のひと許慎著 『 説文解字 』 は西暦100年ころの完成とみられるが、中国 「 字学界 」 ではいまだに評価がたかく、必須の字学資料とされ、さまざまな編輯がこらされて、各社から刊行されている。
上写真)  『 説文解字 』 ( 清代の木版刊本からオフセット平版印刷、古装本仕上げ、4巻、合肥市 ・ 黄山書社、2010年8月 )。
下写真)  右下 『 黄侃手批説文解字 』 ( 木版印刷物に批評をしるし、それを版下としてオフセット平版印刷、北京 ・ 中華書局出版、2006年5月 )
左下        『 文白対照  説文解字 』 ( 部首別画引きが可能、北京 ・ 九州出版社 )

【参考資料:新・文字百景*001 爿ショウ と 片ヘン,かた  その《字》の形成過程をみる】

撮影のために、手もとの 『 康煕字典 』 をだしておどろいたが、写真のほかに、台北 ・ 商務印書館版、台北 ・ 大同書院版の 『 康煕字典 』 もあり、やつがれが 『 康煕字典 』 にこだわっていただけかともおもわされた。
右   『 康煕字典 』 ( 明治初期?  日本での木版印刷、19巻、版元名 ・ 刊記無し )}
左   『 康煕字典 』 ( 上海古籍出版社、1996年1月第1版、2011年1月第1版14次印刷 )

 《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(清朝康熙55、1716)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の、木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体(中国では宋体)である。

明朝体は中国・台湾では、職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は、
「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している、実用の字」
とすることが多い。
また『康煕字典』は音韻配列ではなく、部種別画数順配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。

しかしながら『康煕字典』の、肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装幀とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のために、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。
これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康煕字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」が「典」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康煕帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることとしてとらえた。

またその治世が62年とながかった清朝4代康煕帝(玄燁  1654-1722,在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン、ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、すでに3代成祖・順治帝(福臨 1643-61)からはじまっていた「文字獄」をしばしば発令して書物の弾圧に乗り出していた。「文字獄」では、すこしでも漢民族の優位を説いたり、夷族(非漢民族)をそしった書物は、徹底的に没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。

この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢民族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢がみられたことを知らねばならない。

《 北宋刊本を 「 覆刻 」 という技法で復活させた、南宋臨安の刊刻事業 》
みやこ東京開封府をおわれた宋の残存勢力は、徽宗帝の第 9 子とされる皇族のひとり、趙 構 ( のちの南宋の高宗、在位1127-62 ) を擁して江南をさすらい、ようやく要害の地 ・ 臨安 ( 現 杭州 ) にみやこをさだめた。

杭州 ( Hangzhou ) は、ふるくは銭塘 ・ 臨安などと呼ばれたこともあったが、いまは中国浙江省の省都で、人口670万余のおおきなまちである。
杭州湾および銭塘江セントウコウを控え、まちの中央西部の 「 西湖 」 にのぞむ景勝地としても、ふるくから栄えたまちである。

わが国では 「 コウシュウ 」 あるいは広東省の副省級市の 「 広州 」 との混同をさけ、湯桶 ユトウ読みで 「 くいしゅう 」 ともされるが 「 ハンゾウ 」 と呼んだほうがなにかと都合が良い。
またふるくからの印刷術発祥地のひとつ 「 浙江刊本 」 の製造地にかぞえられ、北宋時代の大著 『資治通鑑  シジツガン』は、汴 ( 東京開封府 ) ではなく、このまちで刊行 ( 刻刊 ) されたものとされる。

河水(黄河)ぞいの東京開封府が陥ちたあと、南宋のみやこは長江(揚子江)の南、江南の臨安となった。開封をおとした金と南宋の国境線は、屈辱的な交渉をへて、淮河 ワイガによって南北にわかたれた。
それでもあたらしいみやこ、臨安における出版事業の「復活」は、浙江地方という、ふるくから文物がゆたかで、文化度もたかく、製紙や刊刻事業の基盤があったこの地方には好適な産業であった。

臨安や紹興では、多くの工匠が、北宋時代9代のあいだに刊行された書物を収集し、それをばらして原本としてあたらしい版木にはり、それを版下として上から「覆刻 ≒ かぶせぼり」にするという技術をもちいて刊刻事業を再開した。
このおもには覆刻による刊刻は製造効率がよく、編輯・校閲の手間なども大幅に軽減されたため、初代高宗、2代孝宗(趙 伯琮ハクソウ、1162-89)のわずか2代のあいだに、科挙の教科書、参考書などにもちいる主要な書物の刊行をほぼおえている。

この異常ともいえるほどはやかった「覆刻 ≒ かぶせぼり」方式による「官刊本」の復活・再生の刊刻事業がほぼおわると、民間の出版社ともいえる書房が次次と臨安城市に登場して、彫刻工、摺印工、製本工を中心に、すぐれた技芸者の奪いあいがはじまり、技術が一段と向上していった。
こうした民間出版社のほかに、国子監のちかくにあった仏教寺院・道教寺院などでも、失われた経典の刊行が盛んになった。

やつがれは、こうしたほとんどが失われた書物ではあるが、それをつくった書房や寺院の旧在地を調べたい、そしてできれば北宋・南宋時代の刊本を入手したいというのが長年の夢であった。
それでもかつての中国では、外国人が自由に動きまわることができなかったし、昨年は南宋時代の臨安の詳細図が入手できずに成果をみなかった。

今回ようやく現地の友人の協力をえて、杭州図書館で地図資料を入手して、南宋時代の王城域、城門、書房(民間出版社)、寺院などの旧在地を、古地図と照合しながらほぼ確定することができた。
ただし、いわゆる「宋版図書」を入手することは、まずもって刊本そのものがほとんど存在し無いという現状であり、いち個人のちからではとうてい不可能だということを改めて確認させられた旅ともなった。
その報告は、すこし整理の時間をいただきたい。

さりながら、こうした杭州での刊刻事業の動向は、意外に敏速にわが国へも伝わっていたとみられた。当時は公式・非公式を問わずに日宋間での貿易がさかんで、輸入品の主要項目に図書もあげられているほどのものであった。
また、臨済宗・栄西禅師や、曹洞宗・道元禅師ら、平安時代末期から鎌倉時代にわが国に禅宗をもたらした高僧も、この浙江地方の寧波ニンボ、ねいは・紹興・臨安などの各城市に修行にでかけていた時代であった。
したがって、しばらくのちの、わが国の京都五山版、鎌倉五山版など、わが国の刊本事業への影響もあったかもしれないとおもうとたのしいのだ。

杭州観光というと、これまでは風光明媚な西湖を中心とした観光と、文人・詩人の旧蹟をたずねるのが中心であったが、いずれ古都・臨安、杭州の本当の魅力は、おおきく南宋王朝文化の探求へとかたむく様相がみられる。写真は西湖白堤に咲く蓮の花。

白堤は中唐時代に杭州刺史(州の司政官)として赴任した白居易(官僚、詩人 772-846 )が築堤したとされる。
そのたもとには、イタリア、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロ(1254-1324)の銅製の立像がある。マルコ・ポーロが臨安(杭州)を訪れたのは元軍による破壊と修復のあとであったが、帰国後に『東方見聞録』を口述して、このまちの美しさを絶賛して、欧州人の東洋感におおきな影響をあたえた。
また蘇軾(蘇東坡)が西湖の浚渫をおこない、その土砂をもって築造したとされる、白堤よりよほど大規模な「蘇堤」もあり、休日などは人混みで歩くのも困難なほどの多くの観光客を集めている。

東京開封府を追われて、江南の要害地として臨安をみやこに選んだ南宋は、1127年高宗・趙 構にはじまり、孝宗・光宗・寧宗・理宗・度宗・恭宗・端宗とつづいた。
9代目皇帝は1278-79年に在位した衛宗であるが、1279年、これも北漠の地からおこった蒙古族の元(世祖、フビライ、1279-94)によって臨安は襲撃された。元軍の猛攻によって臨安城市は徹底的に破壊された。

騎馬民族の元軍は、満州族の金軍よりよほど破壊力がつよく、金と南宋のあいだの暗黙の国境線ともいえた淮河ワイガを一気にこえ、さらに長江(揚子江)をこえて臨安に襲いかかった。そして城内のすべての宮殿を焼き、多くの民衆をもまきぞえにして殺戮のかぎりを尽くしたとされる。
蒙古族元軍の猛攻により、衛宗はその生没年も確実には歴史にのこらないまま、1279年9代で南宋王朝は崩壊をみた。
その戦禍のなかに、せっかく覆刻・新刻した南宋刊本と、その版木は、またまたほとんどが失われたのである。

元はその後、このまちの修復につとめ、城壁などは南宋時代よりも頑健なものとした。つづく明王朝も、杭州の運河や町並みの整備に努力した。
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南宋のみやこ・臨安の王城域は、長らく発掘と再開発事業が進行していたが、杭州・中山路、南宋御街の再開発が2009年9月30日に完成して一般公開された。
前述のように「御街ギョガイ」とは、かつては皇帝専用の道で、800数十年以前の、南宋のみやこを東西につらぬく主軸のうえに御街は復活をみた。
もともとの御街は、地下10メートルほどのところに埋もれているが、近年発掘されて「南宋遺址陳列館」でその遺構の一部をみることができる。

  
左)杭州ではいちばんの古書店と友人に紹介された「杭州沈記古旧書店」沈店主と。
  北宋・南宋時代の刊本は、複製版でも扱ったことはないと筆談したが、やつがれは
店内で一冊
南宋刊本複製版を発見した。あまりに粘ったので沈店主には嫌われたが。
右)臨時ドライバーの王さんと喫煙のひととき。会話はすべて筆談だが、ふしぎに意思
  疎通にはこまらない。杭州でも喫煙者にはなにかときびしいゾ。

《紹興 ── 古代王朝 夏カのまち、そして王羲之と魯迅のこと》

 

「紹興酒ショウコウ-シュ」のことを、このまち紹興では「黄酒オウ-シュ」という。
そもそも「杭州空港」とはいうが、ほぼ杭州と紹興のまちの中間点にある。いまの紹興は人口550万ほどの大都市である。
今回の3泊4日のみじかい旅も、紹興からはじまった。
【昨年秋の旅行記:朗文堂-好日録 011 吃驚仰天 中国西遊游記Ⅰ】

ノー学部が昨秋にはじめて中国を訪れ、まち歩きをはじめたのも紹興で、空港からいきなり紹興の城市(まち)にはいり、五代十国のひとつ・越の宮殿跡(越王台)ちかくの、ちさな民家の立ちならぶ細い路地に降り立った。そこでタクシーを降り、はじめて「ニーハオ・トイレ」も経験した。
そのせいか、なにかと紹興が気がかりのようで、ここにいたく
こだわる。

中国三皇五帝の神話時代につづき、先史時代に、ここ紹興の会稽山カイケイザンあたりに、禹王ウオウが夏カ王朝を建て、夏は17代(禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀)430年にわたってつづいたとされる。
そのために初期有史時代(すなわち 文 と 字 が誕生していて、
記録がある)の、夏・商(殷)・周とをあわせて三代とも呼ぶ。

「字 ≒ 文字」がなかったために、記録はすくない夏王朝であるが、現代中国の歴史学者は、三皇五帝の神話時代のあつかいとはことなり、さまざまな「文 ≒≒ 紋、一定の社会集団が共有した意味性をもった記号。徴号トモ」の存在をみとめ、その解読にあたり、またさまざまな発掘の成果により、夏王朝の存在をほぼ史実としてみとめているようである。

《東晋のひと王羲之と、その従兄弟王興之の墓誌》
ここではなしがすこしずれるが、この江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。
どうやら現代の文字組版に関わるかたのうち、想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちになっていたようである。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年4月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する石碑の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

そのために、この紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年4月、わが国に力強くよみがえった。


《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。
ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになる。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺に4ヶ所ほどあるが、そのうちもっとも著名な浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中にあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の寺院であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、そのほとんどは、昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢をすべきであろうとおもえる場所であった。

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ふたたび紹興で……。
紹興からは、近代になると魯迅(ロジン 1881-1936)がでて、日本に留学し、『阿Q正伝』『狂人日記』などをあらわし、またあまり知られていないが、装幀家としても活躍した。

写真は晩年の魯迅がかよったとされる「咸亨 カンキョウ 酒店」で。
ここでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には「黄酒」の甕がならぶ。地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
魯迅はたそがれどきになるとここにあらわれて、料理写真右端のナントカ豆をつまみながら、黄酒をチビチビやっていたらしい。

いまの「咸亨カンキョウ酒店」は店舗が拡張され、入口で飲み物とプリペイド・カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。精算は店外のカウンターでする。
真ん中は鶏の唐揚げ風? 最奥はその名もビックリ「臭豆腐」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり「臭豆腐」と書かれると、食欲も失せて敬遠していた。

いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた── というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら「臭豆腐」をどんどん運んできた。臭いを気にせず、美味しいから食べろと勧められた。
「臭豆腐」はききしにまさるすさまじい臭いで辟易するが、食すと好ハオ! ほぼやつがれひとりで食べてしまった。写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を「コーラ」と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「アナタガタ ココハ 紹興ヨ! 黄酒ヲ ノマナイデ ドウスル」
というような具合だったようであるが、やつがれはすでに店内にあって「臭豆腐」に挑戦中で、よくはしらない。
ともかく紹興のまちとひとは、しばらくノー学部に任せておこう。

活版凸凹フェスタ*レポート12

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たいへん遅くなりましたが《活版凸凹フェスタ2012》レポートを再開します。
五月の薫風にのせて、五感を駆使した造形活動、参加型の
活字版印刷の祭典《活版凸凹フェスタ 2012》 は
たくさんの
来場者をお迎えして終了しました。
ご来場たまわりました皆さま、
ありがとうございました。
******** *


【レポートの中断と、報告遅延のお詫び】
《活版凸凹フェスタ2012》は、5月の連休のさなか、5月3日-6日にかけて開催されました。事前・途中経過の報告は、この朗文堂 タイポグラフィ・ブログロール『花 筏 』に《活版凸凹フェスタ2012*01-11》として掲載されています。
来年こそ《活版凸凹フェスタ》に出展しよう、来年こそ来場しようというご関心のあるかたは、ご面倒でも『花 筏 』のアーカイブ・ページを繰ってご覧ください。

また、なにかとイベントがかさなるGWのさなかのことでもあり、ご遠方のかた、家族サービスなど、さまざまなご事情で来場できなかったお客さまから、寸描でもよいから、会場やイベント内容を報告してほしいとのご要望がありました。
ところが、アダナ・プレス倶楽部は、5-6月と、さまざまなゼミナール、イベント、出荷、取材に追われ、 報告が遅滞してご不便をおかけしていました。

また今回はスタッフが、活版ゼミナールや接客に追われ、撮影担当者を特定していなかったという失敗がありました。そのために写真資料をアダナ・プレス倶楽部会員の皆さんからご提供をもとめ、ようやく準備が整った次第です。
ここから『花筏』から、本来のステージ『アダナ・プレス倶楽部NEWS』に舞台をもどして、なにかと多忙な大石にかわり、やつがれ(片塩)が《活版凸凹フェスタ2012》レポートを継続します。

【新・文字百景】004 願真卿生誕1300年祭|真筆が伝承しない王羲之の書

顔 真卿 生誕1300年にちなんで
その人物像に迫る 【Ⅰ】


上下とも伝 顔 真卿肖像 709-85年 中国版Websiteより

《顔 真卿生誕1300年にあたって──王羲之の影響と初唐の三大家》
途中をはしょって、率意 ── 憤怒・激昂のおもむくままにしるした、顔 真卿の行草書による尺牘セキトクの下書き『祭姪文稿-さいてつぶんこう』を紹介しながら、顔 真卿のひととなりを記述しようとあれこれ苦吟していた。それはやはり、無謀な試みであることを痛感させられた1ヶ月ほどだった。

この苦衷の最中、画像処理が苦手なやつがれが救援をもとめたひとで「無為庵乃書窓」主人という得難い先達の知遇を得ることができた。同氏からは「無為庵乃書窓」画像へのリンクの許諾とともに、さまざまなご教示もいただいた。そのことがこの1ヶ月間の最大の成果であり、うれしいできごとであった。
それでも結局、本稿は2分割され、ここにみる顔 真卿像は序論に価することになった。

* 「無為庵乃書窓」主人こと、川崎市のMさんとはしばしばお会いして書藝のおはなしをうかがっていた。Mさんはさる大手通信会社の副社長だった方であるが、書藝は専門外でもあるので匿名を貫かれて記述されていた。2002-平成二年時点で八〇代のかたで、二-三年前からブログは休止状態にあり、最近リンクが外れたのは淋しいかぎりである。復活を祈念してリンク設定はそのままにしてあることをお断りしたい。

顔 真卿『祭姪文稿』部分、台北・故宮博物院蔵

顔 真卿の後半生、なかんずく『祭姪文稿』に集中しての記述をあきらめると、どうしても先行類書 ── 書法書の記述法と似てしまうが、やはり東晋4世紀のひと、王羲之(307?-365?)を経過し、初唐6-7世紀の書法家たちをある程度記述してからでないと、とても8世紀後半のひと、顔 真卿は語れないという結論に達した。すなわち「文と字」は、ひとの営み、歴史とともにある。
また本稿をふくむ「文と字」に関する歴史と将来展望は、いまもさまざまな試行と追加取材をかさねている。いずれまとまった書籍のかたちでご覧いただけるようにしたい。
その序論のひとつとして本稿をご覧いただけたら幸せである。

★     ★     ★

西晋以来ながくつづいた魏晋南北朝(220-589)の混乱した時代を、北周の武将だった揚堅(ヨウ-ケン、581-604)が、みやこを大興(のちの長安)とし、中央集権的帝国「随」を建朝して、ようやく中国の再統一をみた(589年)。
ところが2代皇帝煬帝(ヨウダイ、揚広、604-617)が臣下に弑され、つづく恭帝(617-618)もたおれて、わずかに3世37年をかぞえただけで随朝は滅んだ。
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つづく唐王朝の実質的な建朝者・二代皇帝太宗(李 世明、598-649・在位627-649)が貞観元年(627)に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ・長安を空前の繁栄に導いた。その治世を「貞観ジョウガンの治」という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。その作は、西安 碑林博物館正面入口「碑亭」に置かれている隷書碑『石台孝教』(天寶4年・745、後述)にあきらかなであるが、また王羲之(オウ-ギシ、東晋の書家、307?-365? )の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。

『蘭亭序』張金界奴本 虞世南臨本部分 北京・故宮博物院蔵 

 

『蘭亭序』褚遂良臨摸、絹本部分、台北・故宮博物院蔵
(『随唐文化』学林出版社、1990年11月)

それでも太宗・李 世明は王羲之の書作のうち、もっとも著名な『蘭亭序』の入手になやんでいた。すなわち漢の時代には陵墓の築造が重んじられ、また嘉功頌徳碑や墓碑など、さまざまな碑の建立がさかんだった。
それが三国時代を迎え、魏の始祖・曹操(あざなは孟徳。衰亡した東漢を支えて魏王となる。155-220年。その子・曹丕ソウヒ220-226年が帝を称して三国のひとつ・魏朝を建てた)が、陵墓や立碑の築造が経済をいちじるしく圧迫しているとして、建碑を禁止し、陵墓の造営と葬礼の簡素化をおしすすめた。

この曹操の命もあって、魏晋南北朝における南朝では碑はあまり建てられなかった。それを反映して、王羲之には、碑のための書は一作も知られていない。
したがって、王羲之の書とは「尺牘セキトク、書簡・てがみの類」などのちいさなものが多く、いかに皇帝であろうと、収集は困難をきわめたのである。

ところが太宗は、『真草千字文』を書したひとで、王羲之七世の孫とされ、越州呉興の永欣寺住持・智永(チエイ、生没年不詳)が、『蘭亭序』の真筆をひそかに所持していることを知った。
太宗は智永が没したのち、後任の住持・弁才から、さまざまな苦心のすえ、待望の真筆『蘭亭序』を入手したとつたえる。太宗の『蘭亭序』(中国版図版集)への執着のさまをよく伝える説話である。
上に中国版『蘭亭序』図版集へのリンクを貼っておいた。現代中国における『蘭亭序』への人気と関心のほどがよくわかる。

浙江省紹興の蘭亭の一隅で、砂の書板に書する少女。

伝・王羲之肖像 あざなは逸少。東晋の書法家。右軍将軍・会稽内史。楷書・草書において古今に冠絶した存在とされる。その子・王献之とともに「二王」と呼ばれる。『蘭亭序』『楽毅論』『十七帖』などの書作がある。307?-365?年。

苦心のすえ『蘭亭序』を入手した太宗は、さっそく、趙模チョウ-モ、韓道成カン-ドウセイ、馮承素フウ-ショウソ、諸葛貞ショカツ-テイらに模本をとらせた。またそれにとどまらず、書法家として「初唐の三大家」とまで讃えられた、欧陽詢、虞世南、褚遂良らにも臨模(見て写しとること)を命じた。

◎欧陽 詢(オウヨウ-ジュン あざなは信本シンホン、557-641年)
『皇甫誕碑』(詳細図版:中国版)、『九成宮冷醴銘』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『藝文類聚』。

◎虞 世南(グ-セイナン あざなは伯施ハクシ、557-641年)
『孔子堂碑』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『北堂書鈔』。

◎褚 遂良(チョ-スイリョウ あざなは登善トウゼン、596-658年)
宰相(≒首相)の重職にあったが、武氏[則天武后]の皇后冊立に反対して、愛州[いまのベトナム]に左遷され同地で没した。『雁塔聖教序』(詳細図版:無為庵乃書窓

欧陽 詢『皇甫誕碑』拓本、原碑は西安 碑林博物館蔵
『西安碑林銘碑Ⅰ』陝西省博物館、1996年11月 


昨秋訪れた、欧陽詢の書『皇甫誕碑』がかつて置かれていた皇甫誕の墓。いまは広大な農地のまっただなかにひっそりと存在している。地元では幼童もこの小丘が「皇甫誕の墓地」であることをしっていたが、ガイドブックなどには触れられていない。
唐代のこの規模の墓には、ふつう、ここにいたる神道(参道)があって、左右に楼塔や石の門としての「闕ケツ」があり、墓の直前には墓標が屹立して荘厳をきわめていた。
西安郊外にのこるいまの皇甫誕の墓地は、畠にかこまれ、神道・楼塔・闕は消滅して無い。そしてここの墓の直前にあった『皇甫誕碑』(詳細画像:中国版)が、いまは西安 碑林博物館に移築されていることになる。(関連記事:朗文堂-好日録011 吃驚仰天中国西游記

それでも王羲之と『蘭亭序』への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に『蘭亭序』はもちろん、生涯をつうじて収集した王羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は西安市郊外、九嵕山キュウソウサンにある「昭陵 ショウリョウ」である。
この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将・温韜オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、未盗掘とされている。したがっていまなお、この巨大な山塊のいずれかに、太宗の遺がいとともに、『蘭亭序』をはじめとする王羲之の書幅も眠っているとみられている。

太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山にある「昭陵」。近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるためには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。

昭陵『玄武門』跡地にて。番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。やつがれは、ただ[李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか……]という感慨にとらわれていた。また太宗・李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。9月中旬、山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。

ちなみに王羲之七世の孫とされる僧・智永は、真書(楷書)と草書をならべて書き分けた『真草千字文』(詳細画像:中国版)を800作書いて、南朝の諸寺に寄進したとされる。
しかしながら中国では『真草千字文』の真筆はすべて失われ、宋代にこれを石刻したものが「関中本」とされて西安 碑林博物館に伝わるだけである。
さいわいなことに、日本には『真草千字文 小川本』とされる真筆の一作が、ほぼ完全な状態で伝わっており、国宝に指定されている。 

《出尽くした感のある顔 真卿の書芸論》
顔 真卿の書に接するものは、たれもがつよい衝撃をうけ、それだけに好悪の感情が明確にわかれるようだ。また中国でも顔 真卿の書に関心がもたれるようになったのは、没後300年ほどをへた北宋の時代からであった。

その最初は宋朝第四代・仁宋皇帝(趙 禎、1022-1063)の信任が厚く、詔勅の起草などを担当する「翰林学士カンリン-ガクシ」であった蔡襄(サイジョウ、あざな・君謨クンボ、1012-1067)が、顔 真卿の書、なかんづく『祭姪文稿』などにみる行書に傾倒して、平正秀逸な風格を継承した書を発表した。代表作に『蔡襄 尺犢 サイジョウ-セキトク 、扈従帖 コジュウジョウ』がある。「尺牘セキトク」とは、てがみ、書状、文書のことである。

蔡襄 尺牘 『扈従帖』

この蔡襄は、欧陽脩(オウヨウ-シュウ 1007-72)の名前とともに記憶にとどめたい。
わが国ではさらに遅れて、ひろくはようやく昭和になってから関心がもたれたようである。

《文治の宋王朝と淳化閣帖 ── 複製術の普及》
ここで足をとめて、なぜ宋代になって蔡襄や欧陽脩らが、顔 真卿の書をたかく評価するにいたったのかを考えてみたい。
唐王朝末期、複製術としての印刷の技法が発生し、それが盛んにおこなわれるようになったのは、小国に分立した五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)の時代をへて、ふたたび登場した統一王朝・宋の時代であった。

宋(960-1279)は趙氏の国で、太祖・趙 匡胤(960-976)が建朝した。宋の太祖が帝位につくと、地方に軍閥が蟠踞した唐の失敗にこりて、地方の精鋭軍を中央にあつめ、また軍閥の力をそいで、皇帝が直接軍を統帥することとした。また文官優位を明確にして、その権限を著しくつよめていった。重文軽武(シビリアン・コントール !? )をとなえた太祖の時代は17年間におよんだ。

宋・太祖の没後、弟の趙 匡義が帝位を継承して太宗・匡 義(976-997)となった。太宗は歴史書の編纂や仏典の翻訳などを奨励し、随朝にはじまった科挙の制度を強化した。
すなわち科挙の最終試験に帝みずからが臨席して「殿試デンシ」を実施し、その登第者(及第者)を進士と呼んだ。その進士のうち、首席を状元、次席を榜眼、三席を探花と称した。このあらたな科挙の制度は清朝末期までつづいた。

また太宗は施策の中心に、漢王朝・唐王朝といった漢民族正統王朝への復古主義をうちだした。とりわけ書においては、五代十国の時代に各地に散逸した古今の名跡を、ふたたび宮中にあつめることにつとめた。
さらに太宗は、その集積された名跡を侍書(ジショ、皇帝に侍する文書官)の王著オウチョに命じて審定・編輯させ、これを模刻して拓本に摺り、名跡集の作成を命じた。

歴史上初の書法全集ともいえる名跡集『淳化閣帖 ジュンカ-カクジョウ』全10巻は、王著の没後、淳化3年(992)に完成した。各巻の内容は以下のとおりである。
・第1巻        歴代帝王
・第2-4巻       歴代名臣法帖
・第5巻          諸家古法帖
・第6-8巻       王羲之法帖
・第9-10巻       王献之法帖  

本書は『淳化秘閣法帖』ともいう。法帖ホウジョウとは、書跡を石、煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」、板目木版などに刻した名跡集で、書法の手本の意味をなし、権威の象徴としても理解される。
宋・太宗も王羲之・王献之の二王の書を愛好していたため、『淳化閣帖』(詳細図版:中国版)は全10巻のうち、王羲之・王献之父子の書が半数の5巻を占め、これによって「二王」の書の位置が、国家の書法の基盤として強固なものとなった。

ところが……、宋代初期の『淳化閣帖』には、やはり !  というか、なぜ ?  というか、顔 真卿の書作は「歴代名臣法帖」にも「諸家古法帖」にもまっったく紹介されていない。これがある意味では、顔 真卿の書と、そのひととなりを理解するための、ひとつの起点となるできごとである。

この『淳化閣帖』のもたらした影響はおおきかった。まず模刻が法帖製作の主流となり、法帖をつくるばあいに模刻を用いることが一般的となった。
また『淳化閣帖』の拓本は、宋・太祖から家臣への下賜品として、きわめて少数制作されたとみられ、宋の時代でも『淳化閣帖』自体の模刻が頻繁におこなわれた。また『淳化閣帖』を増補したり一部を修整した法帖も編纂された。

この『淳化閣帖』の原版(原板)は早くに失われた。またこんにち伝存して、原拓として確認されているのは、東京・書道博物館所蔵、宋代の拓本とされる『夾雪本』(詳細画像:書道博物館)と、上海博物館の『最善本』(詳細画像:無為庵乃書窓)のみである。したがって一般にこんにちに伝わるのはみな、後世に複刻されたものばかりである。

そのため『淳化閣帖』の原本の製造技術が、石刻であったか、あるいは巷間よくいわれるように棗ナツメの木をもちいた木刻であったかなど、不明なところが多い。また五代の南唐で、これに先んじた別の法帖が複数存在したとする説もある。
編輯面でも多くの齟齬がみられ、編輯にあたった王著にたいしては厳しい批判がなされている。

いずれにしても、それまでは真筆を鑑賞するか、おおきな碑の拓本でみるだけという限定された書法界に、書を模して、閲覧しやすいおおきさに木石に刻して、その拓本をとるなどの技術によって、「複製術」が敷衍したのは宋の時代であった。
もしかしたら(希望的観測ながら)、これらの技法によって、顔 真卿の書も複製されていたとみなすことも可能な気がするがいかがであろう。

【本稿アップ後に、無為庵乃書窓主人より新情報をいただいた。 顔 真卿の法帖とみられる ── 影印からみるかぎり真跡から碑刻したというより、集字したものとみられるが ── ものが、宋代に存在したことがあきらかになった。ここに紹介したい。2012.07.10追記 】

顔 真卿『忠義堂帖』(詳細画像:無為庵乃書窓)は、宋・嘉定八年(1215年) 劉元剛が顔 真卿の書を集めて石に刻し、顔 真卿の祠堂に設けたもの。原石は現存するといわれるが未見。清代になってから、種種の摸本がみられる。
内容は、もともとは碑や題名なども含まれていたが、現在のものは尺牘セキトク(手紙)が大部分を占めるようになった。無為庵乃書窓主人としては『忠義堂帖』の「裴将軍詩」に惹かれております。
これが本物なのか、否か、また行書なのか草書なのか、また顔 真卿の書の中でどのような位置にあるものなのか、不明のまま現在に至っております。

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また北宋・南宋の時代を通じて、活字版印刷術も登場し、文治主義・宋の文化の普及におおきな貢献をなしたことが推量されるのである。
以下にこのブログロール 花筏 《タイポグラフィ あのねのね*020》に紹介した事柄に、若干の補筆をくわえて、宋からそれにつづいた元代の印刷術の振興をみてみたい。
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現代の中国では、北京印刷学院付属 中国印刷博物館(北京市・内部撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市。同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に、宋代の「膠泥活字・陶活字」「木活字」などを復元したレプリカが展示されている。知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

 中国/北京市。北京印刷学院に付帯する「中国印刷博物館」。 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集なども無かった。併設の「北京印刷学院」ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

* 北京にあらたな友人ができ、北京印刷学院副校長を紹介いただき、また中国印刷博物館の内部撮影も許可いただいた。友人の妻は北京印刷学院教授でもある。

 2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。
さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして、日帰りされるほうが無難である。2011年9月

 《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の膠泥活字(陶活字) レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

上図:農器図譜集 巻20「造活字印書法」『農書』(元・王楨著、明・嘉靖年間刊)
          (『図解和漢印刷史』長澤規矩也、汲古書院、昭和63年1月) 
下図  :中国安陽市「文字博物館」展示の「活字板韻輪盆」復元品
中国・元の時代の「活字ケース」ともいえる「活字板韻輪盆」の復元品。基本的に中国の音韻順に木活字が収納されているが、助詞などで使用頻度の高いキャラクターは「大出張 オオシュッチョウ」などと同様に、別扱いで中央部に収納されていた。      

 中国宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、北宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。
ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。

ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、氵サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、展示用のレプリカとはいえ、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きな「活字」で、あまりに大きくて驚いた。
またガラスケース越しではあったが、素材は溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、よく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

 つづいて元の時代の古典書物『農書 造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志 セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。
残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、レプリカをみても推測の域をでない。

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宋朝第二代太宗と『淳化閣帖』では評価されなかった顔 真卿であるが、第四代仁宋・禎(1022-1063)の礼部尚書で、詩人・書芸家の蘇軾(ソショク、蘇東坡 ソトウバ,トモ、1036-1101)は、以下のように述べている(この項は、おもに『書の宇宙13 顔真卿』石川九楊、二玄社、1998年4月30日によった)。

「顔魯公(真卿)の書は、なみはずれて力強く、古来の法を一変した」
「顔公、法を変じて新意を出し、細筋、骨に入りて秋鷹シュウヨウの如し」
さらに蘇軾はことばをかさねて、こうもしるしている。
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」

ところが、蘇軾、黄庭堅(コウ-テイケン 1045-1105)とならぶ北宋時代の三大家のひとり、米芾(ベイフツ、1051-1107)は、顔 真卿の書を以下のようにまで書いたそうである。
「顔 真卿と柳公権の跳踢チョウテキの法は、後世の醜怪悪札の祖となった」
石川九楊氏はさらに筆をついで(同書p.8)、つぎのようにしるしている。

この、顔 真卿の書が、醜悪、俗書であるという評価は、中国書論史上、なんども繰り返されている。「書は人なり」という人口に膾炙した説を思い出させる「風采が思い浮かぶ書」という評価と、一見まったく反するかのような「醜怪悪札の祖」という評が、顔 真卿の書には同居している。これは相反するふたつの評価ではなくて、この両者を含んだ評価が、蘇軾のいう「新意」であると解するべきであろう。

《一碑一面貌、蚕頭燕尾と評される顔 真卿の楷書》
顔 真卿の楷書のほとんどは、石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。

また、顔 真卿の楷書、なかんずく後期の楷書に特徴的な書法は「起筆に筆の穂先をあらわさない≒蔵鋒ゾウホウ」であり、「蚕頭燕尾サントウ-エンビ≒ 起筆が丸く、蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている」とされる。この書法は「顔法」とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いたとされている。

このようなこまごまとした書芸論や書法論は、余人に任せたい。あるいはもはや語りつくされているかもしれない。
ここではむしろ、のこされたわずかな書から想起して、後世に描かれたであろう、顔 真卿の肖像画ふたつを中心に、わずかな楷書拓本を紹介し、自書・肉筆であることがあきらかな『祭姪文稿』の記載内容を理解し、その激情が紙面いっぱいにほとばしったような書をみながら、いまから1300年余以前の「漢 オトコ」顔 真卿の生きように迫ってみたい。

すなわち蘇軾(蘇東坡)がのこした述懐、
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」
という未解決の疑問に、盧杞、李希烈とはなにものか……。なぜ顔 真卿は、かれらをなじり、叱りとばしたのか……からはじめ、顔 真卿の心情の解析に、蟷螂トウロウの斧をふりかざして迫ってみたいのである。 

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《顔 真卿の碑文との再会 ── 西安 碑林博物館》

中国 西安 碑林博物館。展示館入口「碑亭」の前で。2011年09月
かつては来訪者が絶えなかった日本人の団体客はおおきく減少していたが、現在は平日でも中国各地からバスをつらねてやってくる団体の参観者で大混雑を呈していた。
おりしも西安市では「世界花の博覧会」が開催されていて、イメージ・キャラクターの「柘榴 ザクロ」(陝西省名産の果実。花博?)が正面入口を占拠して、ドーンといすわっていた。

このごろの西安 碑林博物館は、平日でも日中はほとんどこの写真のような(あるいはよりいっそう)大混雑をきたしているそうである。まして「顔 真卿生誕1300年祭」とあって、顔 真卿の碑銘の周辺は押すな押すなの混雑であった。そのために早朝の参観でなければ、碑面をゆっくり見ることはできなかった。 


顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安 碑林博物館
顔 真卿関連の石碑が集中する西安 碑林博物館の碑石展示室は、日中は中国人の団体客が押しよせていて、あまりの混雑でほとんど碑面の閲覧もできない状態だった。たまたまホテルが至近距離にあったのを幸い、早朝に再度参観に訪れた。
このとき(2011年09月)もまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。

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文化大革命のころの「四旧追放運動」からしばらく、義務教育から書法(書藝とも)の授業が廃されることなどがあった中国書法界だが、改革開放の時代をへて、近年の書法教育の普及には熱が入っており、書法家の意気も軒昂たるものがある。
また顔 真卿生誕1300年を迎え、多くの収蔵物を有する西安 碑林博物館は平日でも多くの参観者で混雑をきわめていた。

西安 碑林博物館第1室『開成石経』とその部分拡大  

《隔世の感、浦島太郎現象の連続 ── 15度目の中国の旅》
いささか旧聞に属するが、昨2011年9月に、中国からの留学生で、すでに中国各地に帰国して活躍している諸君に慫慂されて、ノー学部と同道して久しぶりの中国にでかけた。
9年ほど前に体調を崩したこともあって、しばらく中国に出かけなかった。気がついたらパスポートの有効期限が切れていた。ついでに古いパスポートも引っぱり出してみたら、過去に14回中国に出かけていたことがわかった。

1978年が最初で、ほとんどの旅は1980年代に集中していた。そのころの中国には「竹のカーテン」と揶揄されたバイアスがあって、どこへ行くのにもガイドの同行を求められ、通貨は「兌換券・兌換元」という外国人専用の奇妙な紙片をもたされた。
したがって「兌換元」が通用する、情報・環境が整備された場所にしかいけなかった。この兌換券は1993年まで使用された。
すなわち過去の旅は「観光旅行」にとどまり、過去の中国旅行の経験や知見が、まったく役立たないことを痛感させられる旅となった。
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《開成石経をもとに開設された、西安 碑林博物館》

「西安 碑林博物館」は、明代に(盛唐時代の1/4ほどの規模となって)築造された城壁に囲まれた、西安城の南門(明徳門)から、城壁にそって700メートルほどいった三学街の端にある。
「西安 碑林博物館」のメーンの展示物は、晩唐・開成2年(837)、中央官僚養成のために、長安の「大学タイガク、のちに改組・改称されて国子監コクシカン」に建立された「石の書物」ともいうべき『開成石経 カイセイ-セッケイ』114石、両面あわせて228面、都合65万252字の石碑群が、おもい存在の石碑群として碑林第1室を占めている。
この西安 碑林と『開成石経』に関しては『ヴィネット10号 石の書物 ── 開成石経』(グループ昴、朗文堂、品切れ、2003年6月12日)に詳しい。

展示館のまえに、ちいさな亭があって「碑亭」とされている。ここには唐・玄宗皇帝の豊艶な隷書による『石台孝教』(天寶4年・745)が収容されている。この『石台孝教』の隷書は、漢代の硬質な隷書とことなり、豊潤な八分隷によって、大胆かつあでやかに書丹されている。
この隷書の碑はまこともって艶冶エンヤとするしかことばをもたない。それを四方からみるだけで、時間はどんどん過ぎていく(詳細図版:無為庵乃書窓)。

蛮勇をふるって(『石台孝教』にふけるのをあきらめ)、碑亭から展示第1室にはいると、114石におよぶ巨大な『開成石経』が圧倒的な迫力で迫ってくる。この『開成石経』と『石台孝教』の収蔵と展示をもとに、西安 碑林博物館は 「歴史展示室」「石刻芸術陳列室」と、全国各地からあつめられた巨大な銘碑・石碑が陳列されている「碑林」の三部門からなっている。


盛唐時代のみやこ  長安城復元図(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)
現在の西安の城壁は明代に造築されたもの。上図盛唐時代の長安城の1/4ほどの規模になった。盛唐時代の長安城は、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。

「西安 碑林博物館」は、唐の開成2年(837)に刻された『開成石経』と、碑亭内の『石台孝教』(天寶4年・745)とともに、当時の国立大学ともいえた「国子監」の敷地にあったが、唐代末期に長安城が縮小されて、ほぼいまの西安城の規模となったとき、「国子監」は城外にとりのこされ、『開成石経』などの石碑群は野ざらしの状態になっていたとされる。

それを憂い、開平3年(909)に石碑群は城内に移転され、さらに北宋の元祐2年(1087)「府学の北」の地に移されたとされている。
おおくの資料はこのとき「開平3年(909)」をもって西安 碑林博物館の発祥としている。しかしながら、「北宋の府学」は崇寧2年(1103)に「府城の東南隅」に移されたため、この「崇寧2年(1103)」をもって西安 碑林博物館発祥の年とする説もある。

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 《顔 真卿 生誕1300年祭と、顔家歴代の著名人》
顔 真卿(ガン-シンケイ 709-85)の生誕から1300年を迎え(正確には2009年が生誕1300年)、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書法展と、その巡回展が盛んに開催され、また顔 真卿書法書の刊行もきわめて盛んである。

わが国でも《顔 真卿とその周辺》(東京国立博物館、2009年4月28日-6月7日)が開催されて話題を呼んだ。
また中国における《顔 真卿生誕1300年記念──第1回顔 真卿顕彰書法展、第2回顔 真卿顕彰書法展》には、日本人の書法家の活躍もめだったようで、とてもよろこばしいことである。
  ◎ 矢部澄翔氏
      顔 真卿『自書告身帖』の臨書作品を出品し、「西安碑林館長賞」(最高賞)を受賞。

  ◎ HILOKI 氏
      第2回 顔 真卿 生誕1300年記念書展  グランプリ受賞

西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像。西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵ゲンジョウ-サンゾウゆかりの慈恩寺大雁塔ジオンジ-ダイガントウにいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民  在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。
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《わが国にもある、顔 真卿関連の諸資料》
根岸の里で著名なJR鶯谷駅から至近の一画に、画家にして書芸家の中村不折(ナカウムラ-フセツ 1866-1943)が蒐集した膨大なコレクションを収蔵する「書道博物館」がある。中村不折は新聞『小日本』の挿絵を担当し、それを通じて正岡子規と親しく、その自邸も路地をはさんだ斜め前と近接していた。

また島崎藤村の『若菜集』『一葉集』『落梅集』の装本・挿絵を担当し、夏目漱石『吾輩は猫である』『漾虚集』、伊藤左千夫『野菊の花』などの挿絵を描き、ブック・デザイナーの先駆けとしても知られるひとである。また森鴎外は遺言で墓標の書家に中村不折を指名し、ただ「森林太郎」とだけしるさせている。

JR鶯谷から書道博物館にいたるあいだのわずかな路地は、残念ながら風俗店がひしめき、少しの辛抱が必要である。そこを経て書道博物館にいたる。同館の斜め前には、正岡子規が居住していた「子規庵」がある。裏庭では四季折折の艸花が美しい。建物は第2次世界大戦で焼失したが、子弟が協力してほぼ当時の姿に復元されている。

書家としての中村不折は、北朝の彫刻風の際だった楷書に惹かれ、コレクションの中心は北朝系の書蹟が多い。当然北魏派の影響がつよかった顔 真卿にもこだわりがあったようである。
その研鑽から得られた書『龍眠帖』は、当時の南朝様式のもとで停滞していたわが国の書芸界に衝撃を与えた。
また、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名の揮毫を依頼されることも多く、現在でも「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「神州一味噌」「筆匠平安堂」のブランディングなどに中村不折の作品がのこっている。 

書道博物館はそんな中村不折のコレクションをもとに開設され、現在は台東区が維持・管理にあたっている。
書道博物館はまた、顔 真卿の作品の所蔵が多い。本館ロビー左手の主展示室には、たいてい顔 真卿『多寶塔碑』の巨大な拓本が掲出されている(詳細画像:無為庵乃書窓)。

『多寶塔碑』は天宝11年(752)の建立で、みやこ長安の千福寺に僧・楚金(698-759)が舎利塔を建立するにいたった経過について、勅命をもって、岑勛シンクンが文章をつくり(撰)、当時44歳の若き顔 真卿が筆をとり、史華シカが石刻したものである。
勅命をうけて碑の書写にあたるのは、すでに書法家としての顔 真卿には相当の評価があったとみられるが、顔 真卿後半期の楷書碑とくらべると、おだやかで整正な楷書といってよい。

このような顔 真卿による楷書の石碑は、ほとんどが西安 碑林博物館にある。「一碑一面貌」、いずれも個性に富んだ、魅力ある碑文ばかりである。年代順に整理して紹介しよう。
なお画像は筆者がIT弱者ゆえ、「無為庵乃書窓」主人にお許しをいただいて、おもにはそちらで閲覧していただけるようにした。

◎『多寶塔碑』[タホウ-トウヒ、天宝11年・752、顔 真卿44歳の書]  (詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『麻胡仙壇記』
[マコ-センダンキ、暦6年・771、顔 真卿63歳の書](詳細画像:無為庵乃書窓) 

◎『顔勤礼碑』

[ガンキン-レイヒ、乾元2年・759、大暦14年・779の両説ある。顔 真卿70歳のころ、曾祖父・顔礼の墓碑を撰ならびに書したもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『顔氏家廟碑』[ガンシ-カビョウヒ、『顔惟貞ガン-イテイ廟碑』とも。顔 真卿が72歳のとき、父・惟貞のために廟をつくり、碑をたてて顔家の由来をみずから述べしるしたもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

などがしられる。



顔 真卿『自身告身帖』より部分。書道博物館蔵。
『台東区立書道博物館図録』(平成19年10月1日)より部分紹介

また「書道博物館」の新館2階「特別展示室」は、ほぼ顔 真卿の作品で埋めつくされている。なかでも目を惹くのは『自身告身帖』である。この書巻は、顔 真卿の自筆楷書として唯一現存するものとされている。
『自身告身帖』は顔 真卿の晩年77歳の書である。顔 真卿の高齢化にともなって、名誉職ともいえた皇子の教育係に転任するように命じられた辞令を、自らに宛てて書いたものである。
おそらく顔 真卿はこの「棚上げ」ともみられる任命には不満があったとみえて、送筆にいくぶん遅滞がみられる。それでも77歳にして、これだけの楷書をのこすとは、躰はもとより、精神もそうとう頑健な人物であったとみたい。

『自身告身帖』にも、後半期の顔 真卿の楷書に独特な「向勢」の書風はのこされており、縦画の送筆部分をもっともふとくすることで迫力と豊満さをあらわしている。向勢で変化しているのはおもに線の外側であり、内側の線を直線にすることで、文字空間の美しさをたもっている。
さすがに特別展でもないかぎり『自身告身帖』の現物は展示されないが、「特別展示室」にはほぼ常時、できのよい原寸複製書が展示されている。またこの複製書はギャラリー・ショップで販売もされているからうれしい。

《顔氏一族における[漢字楷書]字体の標準確立への執念》
ここでふたたび舞台を中国に移そう。顔 真卿という異才をうんだ、顔氏の一族をみよう。

中国で、魏・呉・蜀の三国が分立した220年ころから、南朝の陳が滅亡する589年までのおよそ360年間を「魏晋南北朝」という。この魏晋南北朝の末期から、顔家は「古訓学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた名家として歴史に名をのこしている。
また顔氏の遠祖はきわめてふるく、孔子の高弟であった「顔  回」(ガン-カイ、春秋末期の魯の賢人で、孔子門下十哲のひとり。前514-前483)だともされている。

顔家の本貫の地は、いまの中国山東省、ふるくは瑯邪 臨沂ロウヤ-リンギと呼ばれていた地方だが、顔 真卿(ガン-シンケイ 709-785)のうまれは、父の勤務地であった長安だったともされる。あざなは清臣セイシン。
父の名は顔 惟貞ガン-イテイ、母は殷氏のひとであった。13人兄弟の7番目の子供としてうまれた。
また平原太守ヘイゲン-タイシュをつとめたことから「顔 平原」とも呼ばれ、魯郡開国公 ログン-カイコク-コウに封ぜられたことから「顔 魯公ガン-ロコウ」とも呼ばれている。

中唐の玄宗皇帝治世下の734年(開元22)に、26歳で科挙の進士に登第(及第)して中央官僚となり、唐王朝中期の玄宗・肅宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕えた。
その唐王朝朝廷へのまったき忠勤ぶりは、わが国幕末の思想書に紹介され、尊皇攘夷を掲げて維新をめざした若者に多大な影響をあたえた『靖献遺言』(セイケン-イゲン、浅見絅斎アサミ-ケイサイ、1684-87)によって知られることになった。すなわち顔  真卿は唐王朝を正統とみなして忠義をつくし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗した。

こうした、かたくなまでに儒学的忠義をつらぬき、さらには名書家として名をのこした顔 真卿を理解するために、すこし歴史をさかのぼって顔氏歴代をみてみよう。 
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顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃、あざなは介。中国の南北朝時代末期の学者)
顔氏の家は魏晋南北朝(220-589)の末ころから、瑯邪臨沂ロウヤ-リンギ(山東省)をおもな本拠地として、代代「訓詁クンコ学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた、文武の名家として名をのこしている。
よく知られる人物では、遠祖とされる顔 回はともかく、顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃)がいる。顔 之推は儒学者として、 梁・北斉・北周・隋などの南北朝末期の諸王朝につかえ、また子孫への訓誡をしるした書物『顔氏家訓』(7巻 2巻本も存在)をのこした。この顔 之推は、顔 真卿の五世の祖とされている。

顔 師古 (ガン-シコ 581-645。中国初唐の学者)
初唐の学者にして、顔 之推の孫にあたるのが顔 師古(ガン-シコ 581-645)である。師古はあざなで、名は籀チュウであった。やはり訓詁の学に通じ、唐の高祖(唐王朝初代皇帝、李 淵)のとき中書舎人になったため、高祖の詔書は顔 師古の手によったとされる。
また貞観の治でしられ、自身も能書家であった太宗(唐王朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649、598-649)のとき、中書侍郎(チュウショ-ジロウ 中書・門下両省の実質上の長官。また六部リクブの次官)となり、また勅命をうけて、孔 穎達コウ-エイタツとともに『五経正義  ゴキョウ、ゴケイ-セイギ』(180巻 638年) を撰した。

この『五経正義』は『顔氏字様』にもとづく楷書正体(正書)字体で書かれ、儒教でおもくみられる五種の経典、すなわち『易』『書』『詩』『礼 ライ』『春秋』の経典解釈のうち、ひろく諸家の説から適当と認められる解釈をまとめたもので、科挙(官吏登用試験)の受験者、および五経の訓詁をまなぶものの必読書とされた。
この顔 師古は、後述する顔 玄孫の祖父の兄(大伯父)にあたる人物とされている。顔 師古の手になったとされる『顔氏字様』は、顔 玄孫『干禄字書』のさきがけとなった字書であるが、散逸して現存しない。
しかしながら、顔 玄孫『干禄字書』は、祖先・顔 師古の労作が参考とされており、またその記述内容だけでなく、「字様 ≒ 刊本の上にあらわれた書風」としての「顔氏字様」も、良かれ悪しかれ唐代の知識層におおきな影響をあたえた。

◎ 顔  玄孫 (ガン-ゲンソン 生没年不詳)
 顔 師古の四世の孫であり、顔 真卿の伯父とされるのが顔 元孫(ガン-ゲンソン 生没年不詳)である。顔 元孫は祖先の顔 師古がのこした『顔氏字様』を整理して、『干禄字書』(カンロク-ジショ 1巻)をのこした。
『干禄字書』は800余字(の漢字)を音韻別に配列して、その「楷書字体の正・俗・通」を弁じたものである。顔 元孫の定義によれば、『干禄字書』で正字として分類されている字体が、確実な根拠を持つ由緒正しい字体であり、朝廷の公布文書のような公的な文書や、科挙の答案などにはこれを用いるべきであるとする。

いっぽう、通字は正字に準ずるものとして扱われ、長年習慣的に通用してきた字体であり、通常の業務あるいは私信などで使用する分には差し支えないとした。俗字は、民間で使用されてきた字体で、日常的・私的な使用は良いが、公的な文書では用いるべきではないとした。
『干禄字書』は後世の字体の正訛を論ずる際の典拠にながらくもちいられた。


『干禄字書』(柳心堂リュウシンドウ 明治13年12月 国立国会図書館蔵)

顔 玄孫は名はよくしられるが、生没年に関する記録はない。またその著作の『干禄字書』は、官版(政府刊行書)ではなく、いわば顔家の私家版の書物であるが、わが国にも相当ふるくからもたらされたとみられ、書写本や江戸期刊本などが現存している。また国立国会図書館のデジタル化資料には  『干禄字書』(柳心堂、明治13年12月)が紹介されている。
このように顔氏一族に伝承されてきた『顔氏字様』を『中国の古典書物』(林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97)では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝[唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649]自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。そこで使用する書体を、編集協力者の顔 師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち「顔氏字様」をもちいたことが挙げられる。
「顔氏字様」はのちに顔 師古の子孫、顔 元孫ガン-ゲンソンが整理して『干禄字書 カンロク-ジショ』にもちいられた。この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された「顔氏字様」は、まるで唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 

『多宝塔碑』(原碑は西安 碑林博物館蔵)
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。現在は繰り返された採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

繰りかえしになるが、顔 真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。
『多宝塔碑』は、長安の千福寺に僧・楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔 真卿44歳の若い時代の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 
なお、顔 真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、最晩年(780年、建中元年)の書作『自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ』だけである。
────────────────
まもなく、蘇軾が活躍し、多くの木版刊本「宋版」をうんだ臨安(現・杭州)を訪問する。
蘇軾こと蘇東坡の詩でよく知られるのは、つぎの『春  夜』であろうか。

   『春  夜』    蘇 軾
春 宵 一 刻 直 千 金
花 有 清 香 月 有 陰
花 管 楼 台 声 細 細
鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

今回の短い旅では、春の宵を愛で、月光に照り映えるお花畑のブランコ(一説にポルトガル語から。ふるい中国では鞦韆シュウセン)に游ぶ少女の姿をみることはできないだろうが……。

蘇軾はまた、中国史上きってのグルメとしても知られる。
豚のバラ肉をとことん煮詰めた料理「東坡肉 トンポーロウ」は蘇軾が発案したそうである。旅の同行者ノー学部は困ったことに、ここのところもっぱら「東坡肉」の研究に余念がない。
やつがれは衣食住にほとんど興味・関心がない。でも内緒で「東坡肉」を食べてみたいとおもう。
旅を終えたら新資料をもって顔 真卿のその後をしるしたい。
【この項つづく】

花こよみ 018

花こよみ 018 

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

燃えさかる 夏の散歩に
ぼくは採る
  みどりしたたる 木の葉一枚
いつの日か
  ぼくに語ってくれよう
うぐいすが
  高らかに鳴き
森のみどりに
  萌えるこの日を

作詩/テオドール・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm   1817-1888)
邦訳/藤原  定 訳 

   

通勤路にあるマンションの脇に、トクサ(木賊・砥草)が花をつけていました。ツクシのようですね。

  《空中庭園 ── すこし手入れをさぼったら、悲惨な状況になっている》
どうやら冬のあいだの手入れ、肥料やり、種蒔きなどが奏功したのか、早春の吾が空中庭園は、菜の花、レンゲをはじめ、いろいろな艸の花が一斉に咲きほこって、それはそれは賑やかなものだった。
その花の宴がおわったあと、八百屋で買った人参や長ネギが花をつけた。これらは花や艸というよりむしろ野菜だが、泥つきのものを買ってきた。その大部分は食して、根っこの食べ残しを適当に植えておいたものだった。
人参も長ネギの花も、いささか鑑賞には適さないが、元気いっぱい、愛嬌たっぷりのネギ坊主になったり、モジャモジャした頭髪のようになる人参の花も悪くなかった。

すこし空間がさびしくなったので、気まぐれに花屋でミニトマトの苗と、フリージアの鉢植えを買ってきた。ついでに朝顔の苗も買った。都合450円の出費。ところがこれが失敗だった。ミニトマトの鉢にナメクジがついていて、アッというまにせまい空中庭園いぱいに繁殖した。しかもナメクジだけではなく、ダンゴ虫も付着していたようで、いろいろ播いた艸花の新芽を食い尽くすという暴挙にでた。

ふつう、やつがれは、空中庭園では「ロダンの椅子──100円ショップで買ったゴミ箱を天地逆にし、そこに人工芝を敷いたもの」に腰をおろし、よしなしごとをかんがえている。それがここのところ、つぎつぎと這いでてくるナメクジと、ダンゴ虫の退治で、いそがしいったらない始末に追いこまれた。なによりも紫煙をくゆらしている間に、つぎつぎと這いでてくるのだから嫌になる。

おまけに、いつの間にか灌木化したクチナシのような木(名は忘れた)がたくさん花をつけ、蜂や揚羽蝶が飛来していた。キャツラ、とくに蝶蝶は、あきらかに花蜜を盗んでいたが、秘めやかに産卵もしていたらしい。フト気づいたら、新芽を蝶の幼虫にすっかり蚕食されていた。

かつて昆虫少年だったので、蝶の幼虫、イモムシはなんとはなく生存を許している。それにしてもキャツラの食欲は旺盛で、灌木の葉をすべて食べつくしそうな勢いで、チョイと悩んでいる。はやく成蝶になって飛翔していってほしいのだが……。
────
《花筏 ── すこし更新をさぼったら、非難囂々》
5月の連休のイベント【活版凸凹フェスタ2012】の前後に、ひどい喘息の発作がつづいた。アレルギー源は近所の内装工事のペイントとみなした。いいわけになるが、かなり辛いものだった。
また新年度のさまざまなイベントが重なって多忙でもあった。
【活版凸凹フェスタ2012】の終了後、まもなく2ヶ月になるが、まとまった報告をしていないのが気になっている。そして今年の失敗は撮影担当者をきめていなかったことである。イベントの終了後にアダナ・プレス倶楽部の会員から写真を寄せていただいたが、それが重複しながら2,000枚以上になって、情弱やつがれの手に余っていた。
また、顔真卿生誕1300年を期して、タイポグラファとしてのひとつの見方を工夫をしていた。

そんなことが重なって、このタイポグラフィ・ブログロール『花筏』の更新が滞っていた。それが最近@メールで、
「花筏の更新が止まっていますけど、体調でも悪いのですか?」
といったお便りを頂戴している。もっと直裁に、
「花筏、新情報を楽しみにしています!」
というお便りも頂戴した。いずれも少し年配のかたが中心なのが無念ではあるが……。
ですから、はた迷惑を承知で、このブルグロールの更新に注力いたします。ご愛読をお願いいたします。

タイポグラフィ あのねのね*020|1921(大正10)年創業、 創業90周年を迎えた印刷会社三社|理想社・笹氣出版印刷・小宮山印刷工業

 

 1921(大正10)年創業、
創業90周年を迎えた 印刷会社 三社

株式会社理想社
   1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社組版所」

  を創業。

笹氣出版印刷株式会社
  1921年(大正10)8月10日:、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町に笹氣

  印刷所が創立された。

小宮山印刷工業株式会社
1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を創立し、東京
  都新宿区早稲田鶴巻町371番地において一般印刷事業の経営に着手。
────

《なんの因果かしらないが、親しくおつき合いいただいてきた印刷会社が揃って創業90年》
もともと数字には弱いらしい。
たまたま 新宿私塾 フィールド・ワーク で理想社さんにでかけて、うかつなことに同社が1921年(大正10)の創業で、本年が創業90年のめでたい年にあたることを知った。

 
新宿私塾フィールド・ワーク。理想社で書籍製作をまなぶ。2012年5月12日

そこで フト 気づいた。まてよ……、親しくおつき合いいただいている笹氣出版印刷さん、小宮山印刷工業さんも、たしか1921年(大正10)の創業だとおもいあたった。両社のWebsiteをのぞいたら、はたしてこの三社はともに 1921年(大正10)創業で、そろって創業90年を迎えていた。

どうしてこの三社が1921年(大正10)に創業したのかを知ろうと『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年3月20日)をみたが、さして印刷勃興に関連するような記事はなかった。むしろ大正モダニズムと新中間層の登場を紹介していて、「都市の生活」がはじまったことを重点に記録していた。すなわちこの三社が1921年(大正10)に創業したのは奇妙な偶然であり、活字版印刷術が明治初期からの第一世代から、ひろく本格普及をはじめた時代だったためかとみられた。

株式会社理想社、笹氣出版印刷株式会社、小宮山印刷工業株式会社(以下法人格・敬称略)は、いわゆるページ物印刷業者とされる。すなわち商業印刷を主体とする、あわただしい印刷所とはいくぶんことなり、顧客は比較的安定し、かつ固定化している。そのために営業人員よりも、印刷現場の人員が多く、印刷機は四六全判、菊全判などの大型印刷機が多く、多色刷りよりも単色印刷機が主体となっている。

三社に共通する特徴としてあげられるのは、創業まもなくから社内に組版部門を有し、学術書、専門書などに要求される、高度な組版を実施していることである。
理想社などは「理想社組版所」としてのスタートであった。もともと活字版組版にこだわりがつよく、活字版組版を主体とした企業として誕生し、印刷機などの設備はのちに導入しているほどの企業である。その文字活字を中心とする組版重視の伝統はいまなお同社にはのこっている。

つまり三社とも、金属活字組版の時代には、それぞれ戦前から活字母型を購入し、社内に活字鋳造機を所有して活字自家鋳造にあたっていた。また、本格ページ物のためには、欧文・和文の語別活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ、和文モノタイプ)を設置・稼働させていた企業である。当然活字書体にたいする感度が鋭敏なことも特徴的なことである。

もちろん現在では、金属活字組版にかえて電子組版システムをもちいているが、それでもいまだに汎用機というより、組版専用機が主体で、積分記号や微分演算子など、表記がむずかしい数式や特殊記号をふくむ文書を編集・印刷するために、「TeX テフ」などの「文書整形ソフトウェア」を自在に駆使している。

また組版スキルのレベルは各社とも格段に高く、有力出版社・大学・研究学会・研究機関・官公庁・学術図書出版社などとの長年の取引で蓄積され、顧客それぞれの要求にあわせた、独自のハウス・ルールを所有している。
理想社などは電算写植時代の後期から、いまでいう「合成フォント」に近い技術で、顧客ごとに漢字と和字と欧字の字面率設定をかえているほどのものである。
この取引先各社の字面設定率を何度も田中社長にきいているが、そのつど「ワラ ゴマ」で躱カワされている。しかし同社の主要顧客である、岩波書店と、有斐閣の字面率はあきらかにことなり、そのために版面表情はすこしくことなっているようにみえるのだが。ウ~ン!

メディア産業に大変革の波が襲っているいま、印刷産業も寡占化と全体的な衰退の渦中にあり、1970年(昭和45)に1万2千社近くあった全国の中小印刷業者は、2012年現在は、半分以下の5,600社余りにまで減少しているそうである(全日本印刷工業組合連合会発表、『中日新聞』2012年4月17日)。

そんな悪条件のなか、前述三社の90年におよぶ健闘はひかる。またリーマン・ショックの経済苦境に続き、東日本大震災の影響が、仙台に本社・工場をおく笹氣出版印刷と、おなじく宮城県気仙沼市と仙台市内に主力工場をおく小宮山印刷工業にはきわめておおきかった。
そのため三社ともに、おおがかりな創業記念祭などはおこなってはいないようである。それだけに余計なお節介を承知で、この慶事をブログロール『花筏』読者の皆さまにご報告したかった。
以下創業順に、おもに各社のWebsiteから三社をご紹介したい。

────
株式会社理想社
                  1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社
                                                        組版所」を創業。
        代表取締役/田中宏明
        現所在地/東京都新宿区改代町24番地
        従業員数/46名(2011年6月現在)

【 ごあいさつ 】
代表取締役 田中宏明

代表取締役 田中宏明

理想社は1921(大正10)年に創業以来、より美しく読みやすい書籍印刷を提供することに専心し、わが国文化の向上に大きく貢献してきました。歴史、芸術、学術、文芸など、文化の芽をはぐくみ開花させるのは、言葉であり文字です。その文字の集成が書籍です。

創業者田中末吉は、常に文字品質の向上に傾注し「理想社書体」へのこだわりを追求しながら、先端技術の導入も積極的に行なってまいりました。そしてなによりもお客様に満足していただくために、“誠実に、より良い品質の書籍を提供すること”に情熱を注いできたのです。

現在は、多様化するメディアの中で、印刷業界も大きな変革の時期を迎えております。理想社はトータルな本作りはもちろんのこと、さまざまなご要望にお応えすべく、新技術、新サービスに対する研鑽を怠らず、常にお客様の信頼を得られるよう日々努めてまいります。

創業者が身をもって実践した「温故知新」「低處高思」という教え。その創業精神を堅持しながら、新たな課題へチャレンジする理想を社員一同共有し、社名ともども掲げながら着実に実現していきます。

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理想社は秀英舎の「舎弟」であった、初代・田中末吉(1892・明治25年12月4日-1959・昭和34年3月3日 享年67)がその基礎を築いた。田中末吉は「低處高思」の銘を掲げていたとされる。すなわち、身は低い処においているが、想いは常に高く掲げ、懸命の努力と精進をかさねていた。これがして社名を理想社と名づけたゆえんであろう。
この理想は初代・田中末吉の薫陶を受けた、第2代・田中昭三(田中末吉 長女 元子の女婿・昭和31年5月5日結婚)に受け継がれ、そして田中昭三の急逝をうけて急遽代表に就任した、3代目現社長・田中宏明にまで脈脈と継承されている。

理想社90年の歴史には、関東大震災での罹災があり、昭和15年ころからの「変体活字廃棄運動」の影響もおおきかった。また戦時体制下には「企業合同」によって、活字と印刷機の大半を没収され、従業員のおおくが徴兵・徴用された。さらに弱小印刷企業数社と合併されて、理想社の名前を剥奪されて、いかにもこの不幸な時代らしい「大和ダイワ印刷」に改組・改称を命じられ、また世田ヶ谷区大蔵への移転を強制されてもいる。

そんな理想社の記録として、創業50年にあたって刊行された『田中末吉』(理想社、昭和46年12月28日)がある。ついで創業60年にあたっては、『町工場六十年』(理想社、昭和56年10月20日)が刊行されている。
その際に既刊書『田中末吉』も改訂・増補・再刷され、この2冊を併せて『理想社印刷所六十年』と題したスリップケースにいれて関係者に配布した(非売品)。この『理想社印刷所六十年』は、大正期後期から昭和前期の印刷史・活字書体史研究には欠かせぬ貴重な資料といえる。

2011年10月20日、理想社は創業90年を迎えたが、東日本大震災ののちのことでもあり、社内会議室において簡素に創業90周年祝賀会を開催した(らしい)。初代・田中末吉は岩波書店の創業者・岩波茂雄の薫陶をうけ、いまもって理想社は岩波書店を主要顧客としている。
岩波書店出入りの印刷所では精興社も知られる。両社とともに取引があるやつがれからみると、理想社は歴代経営者が技術肌のひとで、歯痒いまでに謙虚で宣伝下手なところがみられる。それでも精興社に負けず劣らぬ実績をあげているのが理想社である。そして同社は創業100年にむけて、堅実な歩みをつづけている。

ところで、理想社・田中宏明社長には筆舌に尽くしがたい様様なご協力をいただいているが、理想社の記録が、創業50年、創業60年にまとめられているのに、今回の創業90年に際して予定されていないのはさびしいことである。
先代・実父の急逝をうけ、30代前半から理想社経営の重責を担ってきた田中宏明社長であり、まだ50代の前半の壮齢でもある。ぜひとも『理想社100年史』の刊行を望み、お手伝いもしたいところである(が、やつがれがそこまで持続するか、いささか不安でもある)。

────
笹氣出版印刷株式会社
        1921年(大正10)8月10日、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町
        に笹氣印刷所が創立された。
        代表取締役社長/笹氣幸緒
        現所在地/宮城県仙台市若林区6丁目西町8番45号
        従業員数/62名(2006年12月)


笹氣出版印刷創業まもなくの時代の社屋入り口・工場・事務所の写真。同社Websiteより。

【 90年目の笹氣 】
当社は創業以来、お客様に支えていただき、おかげさまで創立90周年の節目を迎えることができました。
印刷業界を取り巻く環境はここ数年で劇的に変化しています。
しかし、この変化をチャンスととらえ、今まで培ってきた技術を礎に、新しい情報発信にチャレンジをしています。
100周年企業の仲間入りを果たすべく、次なる10年を挑戦の10年に位置づけ、真にお客様のお役にたてる企業を目指していきます。

【 文字の笹氣 】
当社は創立以来、本づくりの過程において、文字の読みやすさにこだわり続けてきました。
古くは活字の時代から、昨今のDTPによる組版まで、「読みやすさ」に対する挑戦は今も続いています。
もちろんこうした挑戦と、そこから身に付いた技術は、本以外にも様々な当社の制作物に生きています。
これからもお客様の発信するメッセージが、読み手に違いなく届くよう、読みやすさへの挑戦は続きます。

 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
杜モリの都、仙台発祥の笹氣出版印刷株式会社は、大正10年8月10日、初代・笹氣幸治の個人経営によって創立された。
筆者と親しくおつき合いいただいているのは只野俊裕(取締役)である。笹氣信三(専務取締役・東京営業所長)とも数度お会いしたことがあるが、同社を訪問したことはまだない。

7 年ほど前、小社で只野さんと旧晃文堂社長・吉田市郎さんが出会ったことがある。
「仙台の笹氣出版印刷のかたですか! 昭和30年頃、東北出張というと、真っ先に笹氣出版印刷さんをお訪ねしました。笹氣さんにはランストン・モノタイプの1号機があってねぇ、活字と組版にはとても厳格な企業でした。晃文堂の活字母型も積極的に購入していただきました」
吉田市郎氏は笹氣出版印刷・只野俊裕さんの名刺を手に、感に堪えないという面持ちであった。

笹氣出版印刷には、現社長・笹氣幸緒氏の父、笹氣直三(故人)氏の研究・試作・開発による「陶活字」がある。これは中国のふるい文献にみる「陶活字」を、実際に試作・再現し、印刷まで実施した、わが国では類例をみない貴重な資料である。
────
現代の中国では、印刷学院付属  中国印刷博物館(北京市・撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市、同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に「膠泥活字・陶活字」を復元したレプリカが展示されているが、知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

中国/北京市 中国印刷博物館 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集などは無かった。併設の印刷学院ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして日帰りされるほうが無難である。2011年9月

《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の陶活字 レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

中国南宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、南宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。
ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きなもので、あまりに大きくて驚いた。またガラスケース越しではあったが、素材はよく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、ドロドロに溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、もしくは粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

つづいて元の時代の古典書物『農書  造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志  セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、推測の域をでない。
──── 本題にもどろう。

笹氣出版印刷ではこの「陶活字」を中心に、2001年2月1日【美しき文字の調べ──笹っぱ活字館】をオープンさせた。
ここには故・笹氣直三の研究・再現・印刷実験による「陶活字」を中心に、ランストン・モノタイプ(語別活字自動鋳植機)の活字母型盤をふくむフルセットと、機械式活字父型母型彫刻機(いわゆるベントン彫刻機)、見出し用活字母型、活字鋳造機などが陳列されている。どうしても拝見したい貴重な資料である。

只野さんからは、タイポグラフィ現業者独特の、辛口の批評をしばしば頂戴する。
曰く 「パッケ出しが甘いですね」
曰く 「フォロー・バックがうまく機能していない」
いわれた直後はいささか腹がたつときもあるが、ありがたいことである。
そんな只野さんであるが、同社のランストン・モノタイプが、わが国導入1号機であるとされることには半信半疑だった。
「確かに、笹氣出版印刷社内では、このランストン・モノタイプが、わが国での導入1号機とされていますけど、世間では研究社さんが最初の導入社とされていますから……」

『笹氣出版印刷  経歴書』(2012年04月)には、要旨以下のように記録されている。
・大正10年08月
笹氣幸治、仙台市国分町に笹氣印刷所創業。
・大正12年
日本タイプライター社より「活字万能自動鋳造機」を購入。
・昭和02年
当時書籍印刷はほとんど東京に依存していた業界にさきがけて、日本タイプライター株式会社製「邦文モノタイプ鋳植機」を購入し、「常にあたらしい活字による印刷」[活字版の解版・戻しをしないで、いわゆる活字1回限りの使用]をはじめる。
・昭和03年
日本タイプライター社よりふたたび「活字万能鋳造機」を購入。
「ドイツ製二回転式印刷機」を設備。「あたらしい活字による印刷」にあわせ、「美麗なる印刷物」を推進。
・昭和06年03月
米国のモノタイプ・コーポレーション社より、日本でも珍しい「ランストン・モノタイプ」を購入。美しい欧文論文の印刷に「モノ式欧文活字自動鋳造植字機」がおおいに活躍し、業界に貢献した。
・昭和20年07月
仙台大空襲で工場全焼。
・昭和22年10月
東北地方の中心地、仙台市役所ならびに宮城県庁にほど近い上杉の地に本社営業所ならびに工場を落成、移転して業務を開始した。
・昭和25年03月
東北大学文学部の依頼をうけ、5年の歳月を費やし、『西蔵撰述佛典目録』を原本としてチベット文字を創刻し、活字母型をおこし、昭和35年5月これを印刷完了し各国に配布。この事業が学会に貢献した。
・昭和31年06月
インド・ナグプールのインターナショナル・アカデミー・オブ・インディアン・カルチャーの懇請をうけ、チベット語活字を、「河北新報社」を介し、インド大使館を通じて日印友好ならびに文化交流のために寄贈。
・昭和41年08月
全自動モノタイプを設備。邦文組版の文選・鋳造の能率効果をあげる。
・昭和49年03月
文字組版の画期的改革を企図し、電算写植機「サプトンA7262」を当社用に開発導入。
…………
・平成23年03月
3月11日東日本大震災によりオフセット印刷機が大破。およそ2ヶ月間の休業に追い込まれた。

ところが組織とは面白いもので、只野さんも筆者も所属しているタイポグラフィ学会の副会長/小酒井英一郎さん(研究社印刷社長)のお話しでは、
「本邦での欧文モノタイプ導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんときいていますが……」
となります。

参照データ:タイポグラファ群像*001 加藤美方

高島義雄氏→加藤美方氏をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。
現在、整理がヘタなやつがれは、目下のところこの見本帳をしまい込んでいて
探し出せないでいるが、昭和6年の研究社では、行別活字鋳植機(ライノタイプ)が
主流であったと
記憶している。

また後述する小宮山印刷工業の「ご隠居」小宮山清さんも、
「ランストン・モノタイプの導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんですよ」
とケロリとして断言されます。
もちろんこの両社は、東京におけるランストン・モノタイプ導入企業として、また本格欧文組版ではきわめて著名な両社である。

また印刷業界に欧文モノタイプと研究社の関連がひろく知られたのは、『欧文植字』(水沼辰夫編、工場必携シリーズA6 印刷学会出版部)だったとされる。筆者所蔵書は刊記ページを欠くが、同じ著者によるシリーズ図書『文選と植字』(水沼辰夫 工場必携シリーズA5 印刷学会出版部 昭和25年10月25日)があり、また『欧文植字』巻頭の「はしがき」附記に、編者しるす──として1949年3月の記載がある。したがって『欧文植字』は昭和24-26年頃の刊行とみたい。そこには、以下のような記述がみられる。

附記──[前略]本書中「モノタイプ」については、研究社印刷所のオペレーター鈴木金藏氏に負うところが多い。また組版・図版その他については研究社印刷所から多大の援助をこうむった。ここにしるして感謝の意を表する。
本文最終 p.196──以上、モノタイプについては概略を述べたが、複雑きわまりない構造と、その機能については、説いて尽くさざるうらみが多い。モノタイプは現在東京牛込の研究社印刷所に2台あるから、志ある人はついて見られたい。作業に妨げのない限り応じられると思う。

このように、戦後まもなくの時代、しかも現業者の水沼辰夫氏は、仙台・笹氣出版印刷のランストン・モノタイプの存在を知ることが無かったのかもしれない。その分だけ研究社印刷所を中心に記述したために、在京の印刷業者には笹氣出版印刷関連の情報が欠けたものとみられるのである。
現在わが国では欧文モノタイプを稼働させている企業は無いが、笹氣出版印刷、研究社印刷所、印刷博物館などでそのシステムを見学することができる。

ですから只野さん、なにも先陣争いをするわけではありませんが、どうやら笹氣出版印刷が、わが国でのランストン・モノタイプの導入の最初だったようですよ。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
笹氣出版印刷は仙台市若林区6丁目西町8番45号に広大な本社・工場を置いている。あの日、2011年3月11日、仙台空港に津波が押しよせる影像が繰りかえし流れた。笹氣出版印刷は仙台市内から工場団地ともいえる海よりの敷地に移転したと聞いていたので、「もしかして……」というおもいから数度架電した。電話はまったくつながらず、@メールにも返信はなかった。

2011年3月19日、ようやく只野さんから
「只野  です」
と、いつもの穏やかな口調で電話をいただいた。
地震と津波のはなしは双方ともに避けた。どういうわけかタイポグラフィのはなしをしたことを覚えている。のちに「寒中見舞い」をいただいて、只野家は福島県の出身だということを知った……。
2012年2月17日、池袋サンシャインビルで開催された JAGAT『PAGE1012』の展観に只野さんが上京された。ほぼ1年ぶりの再会であった。タイポグラフィのはなしをするのが楽しかった。

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小宮山印刷工業株式会社
        1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を
                      創立し、東京都新宿区早稲田鶴巻町371番地に
                      おいて一般印刷事業の経営に着手
        代表取締役社長/小宮山恒敏
        現所在地/本社:東京都新宿区天神町78番地
                宮城工場:宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7
               KOPAS(仙台営業所):宮城県仙台市青葉区木町通2-5-19
        従業員数/251名

いきなりの 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで紹介してきた理想社、笹氣出版印刷は、朗文堂ならびにやつがれにとっては、どちらかというと活字書体・組版・印刷実務が中心であり、タイポグラフィ学会系のおつき合いである。
ここからご紹介する小宮山印刷工業 2代目代表 /小宮山清さんは、朗文堂 活版印刷事業部/アダナ・プレス倶楽部の皆さんとのおつき合いが中心である。

《第11回 活版ルネサンス フェア》にご来場の折の写真。2012年3月30日 御年85歳。 

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。肩書きに類するものはまったくない。それでも小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  85歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関しては、わが国有数の知識と経験を有されている。

ランストン・モノタイプ社製 Type Lining Tester 活字列見。欧文のベースラインの揃いなどを確認・調整するための器具。実際の使用に際しては90度回転させて、マイクロ・ゲージが下部になるようにしてもちいる。小宮山清氏蔵。

参照資料:タイポグラフィ あのねのね*018  Inspection Tools 活字鋳造検査器具  活字列見

またその企業 小宮山印刷工業 とは、学術・研究書を中心にきわめて高い評価があり、小宮山清さんがときおり本郷あたりに出没すると、少壮研究者のころから、論文のまとめや執筆・刊行にお世話になったとして、並みいる大学教授が深深とお辞儀をするほどの人物であることはほとんど知られていない。
また小宮山印刷工業の一貫生産システム──  Komiyama Orijinal Printing Automation Systemは「KOPAS」と呼ばれ、同システムによる学術書出版への評価はたかく、スリランカ(旧・セイロン)にも関連企業を有している。
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小宮山清さんは、アダナ・プレス倶楽部主催のイベントには、しばしば気軽に足を運ばれている。そこで活版印刷実践者の若者たちと、あれこれと活字・印刷・製本などの技術を物語ることが至極楽しそうである。
ご本人はまったく偉ぶることが無いし、質問には懇切丁寧にこたえられ、自分の功績や会社の規模を誇ることはないから、アダナ・プレス倶楽部の会員の皆さんは、ほんとうに親しく「小宮山さん、小宮山印刷のおじいちゃん」として敬愛しているようである。

アダナ・プレス倶楽部 餅プレス大会で、威勢よく杵をふるう小宮山清さん。このとき御年83歳。お元気である。ともかく若者は、つきたてのおいしい餅を食べることと、呑むことに夢中なので、3臼ほどを小宮山さんが率先して搗きあげていた。2011年11月27日。足立区ママースの協力にて。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7 に主力工場を置き、仙台市に「COPAS  事業部」をおく小宮山印刷工業にも、あの日の被害はおおきかった。

小宮山清さんに、津波が近在の河川をつたって、本当に気仙沼工場の直下まで激しい勢いで押しよせた映像をみせていただいた。
「びっくりしたけどねぇ、それでも高台に工場をつくっていたから助かった。若い社員のみんなが頑張って、もうすっかり復旧させましたよ」
いつもの抑揚せまらぬ口調で、おおきな災害をかたられた。
小宮山印刷工業は、いまは小宮山清さんのご子息や甥の経営陣が主体であり、4代目にあたる孫世代への継承がつづいているそうである。小宮山清さんはそんな現状を、自分はやりきったおもいで心強くみまもるだけで、余計な口出しはしないそうである。ぜひとも小宮山清さんが、同社の創業100年祭にお元気で参加されることを祈ってやまない次第である。

活版凸凹フェスタ*レポート11

五月の薫風にのせて
五感を駆使した造形活動、参加型の活字版印刷の祭典
活版凸凹フェスタ 2012 は
たくさんのご来場者をお迎えして無事終了いたしました。
ご来場たまわりました皆さま、ありがとうございました。
出展者の皆さま、ご苦労さまでした。

来年も、活版凸凹フェスタ 2013 でお会いしましょう。
それまで、できることから 一歩 ずつ。