投稿者「katashio」のアーカイブ

一枚の絵はがき/Gallery Bar Kajima と オーナー 加島牧史のWebSite開設

ギャラリー バー カジマ

 <ギャラリー バー カジマの展覧会案内の絵はがきが URL になるのか? チトさびしい>
どこか気になるモノクロの絵はがきが、几帳面に三週間に一度ずつ送られてくる。
送り主は<ギャラリー バー カジマ>で、オーナーは加島牧史マキシなる人物である。
要は次回のギャラリー展示の紹介だが、そこに添えられた文章がいつも含蓄があっておもしろい。すなわちやつがれは<ギャラリー バー カジマ>と、オーナー加島の隠れたファンであった。

オーナー加島は、数奇な少年時代を送ったひとで、その父君は「伊那の老子」とされる奇妙人である。検索(詮索?)が得意のかたはすこしでも検索すると、オーナー加島のただごとならぬ前半生を知ることになる。
銀座でこんな個性あふれる店をひらく漢 オトコ には、やはり秘められたドラマがあるのは当然であろう。そしてこんな 漢 がすきなのがやつがれである。

彫刻と詩は最高の芸術の形態だといわれている。
しかしこれを生業にすることほど困難なことはない。
彫刻家になることは、彫刻の奴隷になることを意味する。その魅力は計り知れないからだ。
何もないところから形を削りだし、手によって、からだによって彫刻は生まれる。そこには意識ではとらえら切れない存在の深みに向かう魔力があるのだ。
川口茉莉は普段はデッサンのモデルをしながら、彫刻を作っている。すでに奴隷への道を歩きはじめたのだろうか。
「ジャコメッティーとともに」という本の中で、ジャコメッティーが矢内原に「自分は王様の奴隷となって、毎日デッサンを描いていられるなら、なんと幸せなことだろう」と告白した。三十五年前に夢中になったセリフをふと思い出した。 (加島)

http://gbkajima.jimdo.com/<ギャラリー バー カジマ>は銀座コリドー街の一画にある。
Gallery Bar Kajima  ギャラリーバーカジマ 
東京都中央区銀座7-2-20 山城ビル 2 階
営業時間 14 : 00-24 : 00
TEL : 03-3574-8720

江戸時代のこのあたりは、江戸千代田城の外堀にあたる山城河岸に面して水運に恵まれていた(現在は埋め立てられて首都高速道路に変貌している)。
そのために、山下町、山城町、鍋町などは、江戸城に近接していても、武家地ではなく町人地とされ、おもに刀槍、鍋釜などの金属関係の職人の町でもあった。

秀英舎 ・ 大日本印刷も、この一画にあった職人工房の印刷機器と活字を譲渡されて、ほどちかい数寄屋橋で創業している。
そんな歴史をたどってこの周辺を歩いたこともあった。
銀座とはいえコリドー街の周辺はいまでも庶民的な町で、古き良き新宿ゴールデン街にも似た猥雑さもある。
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<ギャラリー バー カジマ>が開店してから13年ほどが経過したらしい。当初の絵はがきはオフセット平版印刷だったが、オーナー加島のパソコンスキルの向上とともに? 最近はパソコンプリンター出力方式に変化してきた。
ところがオーナー加島は、あふれんばかりの豊穣なことばを有しており、次回展示の作家紹介 ・ 作品紹介をしるすうちに、ついつい筆(キーボード)がすべって !?、絵柄面がことばで埋まり、しかもあくまでもテキスト優先の紙面製作のために、作品図版や写真画像の紹介が切手サイズほどになることがあっておもしろかった。

<ギャラリー バー カジマ>に最初にいったのは、小社ノー学部の友人であり、やつがれもその真摯な創作姿勢に共感している、アーチストMM女史が「アートの奴隷」となって、しばらくの間この店の「日曜日担当特別ママ」になったためであった。いまはMM女史が両親の介護のために郷里に戻ったので日曜日は休業である。
四谷 ・ 新宿地区にながく、そこにかじりついた地衣類のようにほとんど新宿を動かないやつがれだが、なんどかノー学部に引っぱり出されて<ギャラリー バー カジマ>を訪ねた。
それでも下戸であるやつがれは「バー」を苦手とするが、なかなか旨い珈琲がでて居心地がよかった。

ところでそのオーナーの加島牧史氏であるが、御年 5? 歳にしてついにブロガーとして登場したらしい。
今回の絵はがきの宛名面の下部にはこうあった。

やっと自分でウェブサイトとブログを始めた。
全く見当がつかないけれど、書きたいことがいろいろあるから少し続けようと思う。
読者がいないとさみしいので、一度開いてみてください。

そして気になる一行もあった。
また、メールのDMもはじめようと思う。はがきから移行可とされるかたは、メールを送ってください。
【URL : GalleryBar Kajima 】
【Mail : gbkajima@gmail.com 】

銀座コリドー街の小道に、ギャラリー兼バーを開いて13年。
3週間ごとに変わる展覧会と、
メインディッシュにも、ご飯のおかずにもなる大盛料理、
ビール、ワイン、スコッチウィスキーなどお酒にもちょっとこだわって、
気楽にゆっくり美味しくお過ごしいただきたいと思ってます。
昼間の喫茶では、珈琲と数種のお茶と、手作りの甘いもの、ビールもあります。
作品と音楽やパフォーマンスのコラボレーションライブもやっています。
(営業時間 : 14 : 00-24 : 00 日曜 ・ 祭日休み)

◎ オーナー紹介
加島牧史 ( かじま まきし )
編集、ギャラリーマネージャーを経て、1999年ギャラリーバーとき、
2001年ギャラリーバーカジマをオープン。
以後はひたすらここでお客を待つ。
◎ 近年の翻訳本
『 もう殺さない 』 サティシュ ・ クマール著
『 アンサー 』 ジョン・アサラフ&マレー ・ スミス著

やつがれ、出力に手間取り、郵送費も莫迦にならないであろうが、まだ当分はわがままをいって絵はがきで情報をいただきたいとおもう。
そして【URL : GalleryBar Kajima 】を訪問した。開設から間もないとはいえ、そこはオーナー加島のことゆえ、すでにブログを中心に、あふれるようなコンテンツ(テキスト)に満ちていた。

與 談 ──────────────
やつがれ、オーナ加島とは大勢と店にいったときに一度お顔を拝見しただけで、別に親しい関係ではない。それでも 5? 歳にして URL に挑戦する勇気に拍手を送りたいし、銀座にでかけることがあったら、ぜひ<ギャラリー バー カジマ>に寄ってみたいものである。

そしてやつがれの友人弁護士が御年 6? 歳( 70 歳間近)にして、まもなくブロガーとしての登場に挑戦中である。こちらはおおいに心配のいまである。

皆さまの友人、台湾の林 昆範さんが Red Dot 賞を獲得されました。

列印 列印

台湾で活躍する林 昆範さん。
林 昆範さんは中国大陸の少数民族とその造形の調査を精力的に重ねています。

2014年05月には山東省に調査に出かけ、取材のさなかに肩を骨折されましたが、順調に恢復されて、07月02日久しぶりに来日されて、<タイポグラフィ講演会 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会>を担っていただきました。
08月にはいると、ふたたび大陸にわたり、中国広西チワン族自治区のまち、陽朔県にでかけられています。

林 昆範さんはまた、今年の春に二つの iF 賞を受賞されましたが、07月末には産学協同プロジェクトの成果として、中国南東部の少数民族衣装に使われた文様と伝統色を生かして、陽朔にある観光会社のブランドイメージをつくり、Red Dot 賞を獲得されました。 ここに受賞作の一部をご紹介いたします。

【 花筏 : 朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状 】
【 活版アラカルト : 林 昆範 『中国の古典書物』増刷版 刊行記念講演会の記録 】

【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

TFL_FLYER_01【展覧会】 TYPE FROM LONDON -ロンドンの友人・河野英一さんからの情報

朗文堂/アダナ・プレス倶楽部の皆さま
ご健勝のことと拝察、残暑お見舞い申上げます。
英国はもう冷え冷えとした秋です。

イアン・モーティマー氏 Ian Mortimer OBE が、今08月末に<TYPE FROM LONDON>のイベントに招かれて、はじめてめての日本訪問となりました。
イベントは日本でもファッション・デザインで著名なポール・スミス Paul Smith ギャラリー主宰で、わずか五日間ほどのタイトな日程で動かれるとか。

モーティマー氏は、気さくな優しい人物ですし、タイプ・アーカイブ(ミュージアム)の主力サポーターのひとりです。
また、活版印刷を通じた社会貢献により大英帝国勲章 OBE (Order of the British Empire) の称号を授与されており、英国でも超一流の活版印刷家として活動され、シェイクスピアのソネットなどの美しい活版作品を製作されています。
また、歴史上著名なブックデザイナーやタイポグラファや出版人のクラブ The Double Crown Club (DCC) と、The Wynkyn de Worde Society (WdeW) の一員でもあります。

【 Ian Mor­timer 氏の詳細 : http://imimprimit.com 】
【 展覧会の詳細 : http://typefromlondon.com/ 】

タイポグラファ群像*006 澤田善彦

澤田善彦澤 田  善 彦

(さわだ よしひこ 1930年(昭和05)07月15日-2014年(平成26)07月23日 享年84)
[写真提供 : 澤田嘉人氏]

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■ 澤 田 善 彦  略 歴 

  • 印刷人・活字人。東京都出身。1930年(昭和05)-2014年(平成26)。享年84
  • 1930年(昭和05)07月15日、東京都北区にて出生。
  • 1936年(昭和11)生家が板橋駅近く、新撰組関係者の記念碑付近に移転した。
  • 1937年(昭和12)滝野川谷端ヤバタ小学校入学。
  • 1943年(昭和18)戦時体制下にあった谷端国民学校卒。
    同年、水道橋の東京府立工芸学校金属工芸科に入学。同校印刷科の三年先輩に 野村保惠 氏、二年先輩に 故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 がいた。
    在学中は勤労動員が相つぎ、大日本印刷市ヶ谷工場写真凸版係、パイロット航空機風防組立工場などに動員された。
  • 1943年(昭和18)4月10日の東京大空襲で板橋の自宅が罹災し、目白通り沿いの下落合に転居。
  • 1948年(昭和23)03月改組改称された東京都立工芸高等学校卒。
    同年04月大日本印刷株式会社(DNP)研究所に入社。同月千葉大学(夜間部)に入学したが、1950年(昭和25)経済的理由で中退。
  • 大日本印刷株式会社(DNP)では活字版印刷部門、オフセット平版印刷部門を経て、1967年(昭和42)04月-75年(昭和50)にかけ、社命により海外勤務。
    香港の Asocial Printers Ltd. 工場長、Peninsula Press Ltd. 社長などを歴任。
  • 1975年(昭和50)香港勤務を終えて日本に帰国。CTS(Computer Typesetting System)大日本に勤務し、その後大日本製版株式会社、エスピー大日本株式会社などを経て、1983年(昭和58)よりCTS大日本工場長。
  • 1985年(昭和60)大日本印刷株式会社退社。
  • 1988年(昭和63)リョービイマジクス株式会社社長:吉田市郎氏に招かれ、同社プリプレス部部長として勤務。のち取締役情報システム部部長として平成明朝体などの開発にあたる。
  • 1994年以降、JAGATのDTPエキスパート認証制度に認証委員として参画。
  • 1995年(平成07)ダイナラブジャパン株式会社に入社し取締役副社長就任。
  • 1998年(平成10)1998年1月 ダイナラブジャパン株式会社退社。
    リョービイマジクス株式会社顧問に就任。
  • 2008年(平成20)大動脈瘤手術。
    退院後「和光市ゆめあい福祉センター」のパソコン講師などをつとめた。
    埼玉県和光市に在住して自宅療養に専念。
  • 2014年(平成26)07月23日逝去。 享年84
  • 【主要著作】
    『この一冊でDTPがわかる プリプレス用語集』 (印刷之世界社)
    『プリプレス用語1000語―CTS・DTP・CEPS』 (印刷出版研究所)
    『ページネーションのすべて―DTP & 組版の基本 & フォント環境』 (JAGAT)
    『変わるプリプレス技術』 (印刷学会出版部)
    『DTPエキスパート用語辞典』 (共著、JAGAT) ほか多数
  • 【JAGATのサイトに執筆したコラム】 
    『DTP玉手箱』 /『印刷100年の変革』/『フォント千夜一夜物語』など
    [本項は2011年07月 澤田善彦氏にお目通しいただき、加除修整したものである]

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《澤田善彦さんが亡くなった。だんだん本物の印刷人が減ってきてさびしくなっている》

印刷人:澤田善彦さんが逝去され、初七日忌もすぎた。
澤田善彦さんは圭角の無いお
ひとがらで、また組織人として、集団でものごとをまとめていくことにたけておられた。

だんだん本物の印刷人が減ってきて、さびしくなっている。
戦後東京の印刷人の主流をなしてきたのは、おもに以下のみっつの教育機関の出身者であった。
◎ 旧制東京高等工芸学校 → 新制大学になれなかった唯一の旧制高校とされる。
◎ 旧制東京府立工芸学校 → 現東京都立工芸高等学校
◎ 帝都育英学園専門学校 → 育英高等専門学校印刷科 → 現サレジオ高専

澤田善彦さんがまなばれたのは「東京府立工芸学校金属工芸科」であった。この学校はきわめて特殊な実業学校であったという。
すなわち旧制の小学校、いわゆる尋常小学校とされた06年間の履修ののちに入学する学生と、さらに旧制高等小学校(新制中学校に相当)を履修した学生が混在していた。
とりわけ当時需要が多かった、それだけに求人が多かった「印刷科」は入学がむずかしく、故杉本幸治 【タイポグラファ群像*002 杉本幸治 】 は高等小学校を卒業後に受験したが、入試に失敗し、一年間の「浪人生活」をおくっている。

つまり東京府立工芸学校とは、実業教育期間(インターン制度)をそなえた授産教育施設であり、履修期間も3-5年間とながく、現東京都立工芸高等学校とはかなりおもむきをことにする。
現代ではむしろ、高等専門学校(いわゆる高専)としてとらえたほうが旧制東京府立工芸学校の概要がわかりやすいかもしれない。

澤田善彦さんは谷端ヤバタ小学校(谷端国民学校)を卒業後、現役で東京府立工芸学校に入学され、戦時下と戦後の大混乱のもとで、5年間の履修ののちに卒業されている。ともかく優秀なひとであった。
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はじめて澤田善彦さんにお会いしたのは、1988年(昭和63)旧晃文堂(リョービイマジクス株式会社)社長:吉田市郎氏のご紹介にはじまった。したがってリョービ時代からのおつきあいで、大日本印刷時代の澤田善彦さんのことはほとんど知らない。

あれからほぼ四半世紀、25年ほどが経過した。この間にはさまざまなことがあったが、ご逝去から間が無く、まだ気持ちの整理がつかない部分も多い。
ただひとつ、多大なご迷惑をおかけしたプロジェクトがあった。それは澤田善彦さんはどこにも書きのこされていないし、これからもやつがれが詳細をしるすことはないであろう。

1990年の頃、やつがれはボストンで日本語用書体開発のプロジェクトに携わっていた。ところが作業が5-6割かた進行したところで、このプロジェクトはそっくりシアトルの某社が買収するところとなった。
ボストンの企業の首脳陣は、株主への責任から辞任するということであったが、やつがれには継続してシアトルでプロジェクトの進行をはかるようにつよく説得した。しかしながらボストンのスタッフとは開発当初から労苦をともにしており、シアトルへの移転はやつがれには考えられなかった。

それでもボストンとシアトルからの再再にわたる督促をうけ、後任に澤田善彦さんを推薦して了解を得た。澤田さんは、
「ひとが途中までやったプロジェクトは、意外と面倒なことがおおいですよ」
と渋られたが、なんとか強引に押しつけてしまった。

その引き継ぎにニューヨーク経由ボストンへ、そこでの短時間のミーティングののちに、シアトルまで澤田善彦さんと同行した。
澤田善彦さんはそれから二年ほどで、見事にその書体をシアトルでまとめられ、その後のサポート体勢まで構築されて退任された。そしてそのデジタル書体は、いまも基幹書体として多くのパソコンにデフォルトで搭載されている。
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病を得られてからの澤田善彦さんからのメールは、当初は16pt.であったが、後半は36pt.のおおきな文字サイズで送られてきた。これらのデーターは、いまは使用をやめて保存してある Windous XP のなかでねむっている。
また遺稿と遺品がやつがれの手許にのこされた。
遺稿は未定稿で、既発表資料には記述されなかった事柄も多い。ただしご家族関連の事柄が多く、これはいずれ澤田家からの発表を待ちたいところである。

また以下に掲げたスナップ写真は、澤田さんが和光市のご自宅をすっかりバリアフリー体勢にリフォームされたおりに、友人の吉田俊一氏といっしょにお訪ねしたときのものである。いわゆるガラケー、それも旧式のガラケーを無理矢理奥様にお渡しして撮影していただいた。
忘れられない、そして貴重な写真となった。

その折、額にコンパクトにまとめられた活字資料を頂戴した。いちおう固辞したが、ご夫妻で、
「ぜひとも持っていってください」
ということで持ち帰った。これが澤田善彦さんの著作とともに形見となってしまった。
すこし時間をいただいて、この活字資料を整理・分析して紹介したい。
いまはただ、幽冥さかいを異とされた澤田善彦さんのご冥福を祈るばかりである。

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<字と呼ぶ國、漢字という国> 畑 畠 そして 手紙 嗚呼 !!

 

Web畑・畠《 畠中 結 さんとの往復書簡から  往 信 》
畠 中 結様  楊   黙  様 ── 片塩二朗  2014年05月25日

きょうは日曜(星期日)ですが、野暮用があって出勤しています。
お送りいただいた上海の活字鋳造所の写真データーは、さっそく〈朗文堂 アダナ・プレス倶楽部〉 と 朗文堂〉、双方の WebSite で使用させていただきました。ありがとうございました。

なおがき
いまは上海にお住まいの<畠中さん>のお名前をみるたびにおもいだすのですが、30-20年ほど前にしばしば中国にでかけていました。その折、上海の強 暁明さんという知性のあるかたと懇意になって、「手紙」の日中での意味のおおきな違いからはじまり、やがて日本製の字<国字>のはなしになりました。
強 暁明さんは、わたくしが手帳にしるした<畑 ・ 畠>の字をしばらくみつめて、
「これは<字>ではありませんね」
とニッコリとしながらも、断言されていました。

あれから20数年が経過しましたが、わたくしがときおりもちいている『 漢 典 』をみても、いまなお<畑 ・ 畠>ともにユニコード対応になっており、「日本の姓名につかわれる」とする程度の、素っ気ない解説をみるばかりです。
ユニコード対応の<字 / 畠>は、現在の中国ではどのように扱われているのか、お時間のあるときに
でもご教示いただけたら幸甚です。
朗文堂  片塩 二朗
畑 畠──────  日本の電子版 簡易 漢和辞典 での紹介
<畑>
教育漢字 小学校三年配当。常用漢字。 シフトJIS : 94A8
常読 : はた/はたけ
意読 : はた/はたけ

<畠>
人名漢字。 シフトJIS : 94A9
意読 : はた/はたけ

《 畠 中   結 さんとの往復書簡から  返 信 》
片塩 二朗様 ── 畠 中   結 2014年05月29日
メールありがとうございました!
月末月初はどうしてもバタバタしてしまい、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
また〈アダナ・プレス倶楽部ニュース〉、〈活版アラカルト〉、〈朗文堂ニュース〉を拝見いたしました。とても素敵です!

そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。
ただ、公的な名前という意味でいえば、中国でもアルファベット表記になりますので、日常生活では不便でも基本的には大丈夫です。

しかし中国では、英語よりもやはり漢字のほうが受け入れられますから、病院の受付などで英語で書くわけにもいかず……、それに見た目は外国人というわけでも無いですし……。
実は、わたしの<畠中>の名字は、「はたなか」とよく間違われるんですが、正しくは「はたけなか」なんです。
一時は日本の健康保険証のふりがなを間違えられていたことがあって、日本にいた時からすでに不便でした。それに大学のおなじクラスに、偶然にも「畠中 はたなか君」がいたもので、出欠をとるときも毎回間違われていました。

ですから今までずっと名字(姓)を訂正してきた人生でしたから、結婚したら名字が変わるんだ! と、ものすごく期待をもっていましたが、国際結婚のために夫婦別姓……ガーーン。
しかも中国に来ても、またまた不便な名前が<畠中>。
でももうこれが運命だと思って受け入れています(笑)。

最近の日本では、子供に複雑な名前を付けるブームがあるようですが、名字を訂正する人生の苦しみを知っているわたしは、誰でも読める単純な名前が一番良いかと思っています。ただ、名字は選べないですが。
また何かありましたら何でもご連絡下さい!
上海は今はもう夏です、このまま09月頃までヒートアイランド現象で暑くなります。
片塩さん、大石さんもお体には何卒お気をつけて!
畠 中  結

──────
《中国の(男性の)友人には、<手紙>を出さないほうがよい !? 》
30-20年ほど以前のはなしである。そのころ上海旅遊社の添乗ガイドだった強暁明さんに何度かお世話になった。強さんはいくぶんやつがれより年嵩だったが、のちに日本の大手建築会社に就職して、上海に日系のゴルフ場やビル(大楼・大厦)をつくるなどしていた。
このころの中国旅行とは不便なもので、旅行の最初から最後まで添乗するガイドと、それぞれの目的地の現地ガイドと運転手を引き連れての「お大名旅行」であったが、現地通貨/人民元ならぬ兌換券ダカンケンという名の、外国人専用の紙幣がつかえる場所-政府公認の場所にしかいけなかった。

強さんは上海大学を卒業して、流暢な日本語をあやつる知的なひとであった。このかたとすっかり親しくなって、上海から西安へ、上海から北京へ、上海から洛陽へ、上海から杭州・蘇州・無錫へと、数次にわたった列車(軟座か寝台車)での長い往復の旅行中に、さまざまな雑談もした[『逍遙本明朝物語』片塩二朗、1994年 p.60-]。

もちろん携帯電話も電子メールも無い時代のことゆえ、当初の連絡はもっぱら国際電話か書状(航空郵便)であり、のちにかろうじてファクシミリ(伝真・传真)となった。
その文中に、やつがれは無意識のうちに、なんども「手紙」と書いていた(らしい)。

たしかに日中は同文の国ではあるが、その意味するところがおおきく異なることがある。
たとえば「自動車」は、中国では「汽車」であり、わが国の「汽車」は、中国では「火車」である。

洛陽の茶館で、強さんがいいにくそうに、中国での「手紙」が意味するところを教えてくれた。当時のやつがれは「手紙」が「衛生紙」であり、トイレットペーパーを意味することは知っていたが、コノテーション(言外の意)としてまったく別の隠れた意味合いがあることは知らなかった。
漢 典 』にリンクしておいたのでご覧になってほしい。「手紙」から引いていくと「衛生紙」に誘導される。
すなわち、
ここでも「手紙」が中国で(あんに)意味するところ、とりわけ 2. ── が説くところはしるしにくい。
手紙《田 tián、圃 pŭ があれば十分でしょう。畑、畠の字は中国ではみたことがありません》
たぶん上海から蘇州への列車(火車)の車中だったとおもうが、車窓からみえる稲をつくっている「田圃/たんぼ」と、野菜をつくっている「畑/畠」をわけてはなしていたことから、いつのまにか<国字>のはなしになった。
【ウキペディア : 国  字 】  【URL : 漢字辞典 国字とは 】

強さんは最初のうちはニヤニヤして、
「漢字という呼び方は日本独自のもので、わたしたちは<字>がふつうです。まれに<国字>とも書きますが、それは日本でいう<漢字>のことで、中国でつくられた<字>ですよ」
「それはある程度わかります。強さんは国文学部出身でも、日本風にいうと、中国文学学部になるしね。ではこれからは<日本製の字>ということにしましょう」
「日本製の字といえば、この前日本にいったとき、寿司屋で<魚づくし>というのですか、魚偏の字だけで文[文様]にした湯呑みをみました。あの造字法はおもしろかったですよ」
「中国の魚偏の字は少ないからね。黄河に棲んでいた魚の字ぐらいしか無いようだ。内陸部では海をみたことがなかったのかな」
「殷商のみやこ、鄭州や安陽だけでなく、周、隋、漢など、造字活動がさかんだった時代のみやこは、ほとんど黄河の上流から中流域にありましたから、古代の神官などは海の魚を知らなかったのでしょう。その点では日本はきれいな水の河川が多いし、四方が海ですから。魚もおいしいですね。だから魚偏の字が多いのでしょう。」

「じゃぁ、まえからふしぎにおもっていることだけど、<鮎>は国字 モトイ 日本製の字ですか」
「あぁ前回の宿題ですね。大学の図書館で調べてきました。<鮎 nián>は、中国ではなまずのことでした。それがどういうわけか日本では清流に棲む<鮎 あゆ>に字義と字音がかわり、そして日本では「鮎」とは別に、わざわざ<鯰 なまず  nián>という字をつくったようです。それが中国に逆輸入されました。この「鯰」の字はいまの中国でも使えます」
「じゃぁ強さん、鮎・あゆ と 鯰・なまず は、同音・同義の異体字ということですか」
「中国には鮎が遡上するような清流は、すくなくとも中原にはありませんし、あの柳の葉のような美しい魚をみたことはありません。ですから中国での字としては、鮎も鯰も両方とも日本のなまずですし、中国音 nián です。ですから鯰は鮎の異体字(异体字)といえますね」
田 圃
「鯰を鮎の異体字だとするとは恐れ入ったね。いかにも中国的なおおらかさだ」
「いや、片塩さんもおおらかですよ。さっきから<たんぼ 田圃>といっていますね。わたしたちは<田 tián>と、<圃 Pŭ>は明確にわけていますよ」
「これは一本とられたな。日本では<たんぼ 田圃>を便利につかいすぎているところがあるのかもしれない。つまり田と畑・畠は別のもので、水を張って、おもに水稲をつくるところを<田・水田 or 田圃 たんぼ>といいます。そして平らな耕地に水を張らないで、おもに野菜や果樹・花卉を育てるところを畑といいます。そして畑のなかでも水利のわるいところは畠ではないでしょうか。これは個人的な意見ですが」

「その意見はおもしろいですね。許慎『説文解字』的にいうと、焼き畑でつくった<田 tián>が畑ということですね」
「そう。もとは焼き畑だったから火偏がのこった。そして 白+田 = 畠は、水利がわるいはたけということです」
「説文解字でも、余白・空白のように、白にはゼロ・零にちかい意味があるし、その個人的見解は納得できますね」
「なにかふたりだけで盛り上がったようだね。そろそろ蘇州が近いんじゃない」
というわけで、<畑/畠>は、火車のなかでの強 暁明さんによれば、やはり、
「これは 字 では無い」
ということになった。

《 なほかき なおがき 追伸 Postscript 》
中国では<田/畑・畠>を、ふつう明確にはわけて認識しないことは何度か本欄でもしるしてきた。
また「手紙」の例と同様に、中国での<異体字/異體字/异体字>には、コノテーション(言外の意)、あるいは含意として、「(おもに北朝などの非漢族の)異民族がのこしていった字」という、隠れた意味合いもある(『漢語詞典』)。

そこでふたたび畠中結さんのおたよりにもどってみよう。
そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。

中国では<田/畑>は、ともに中国音で<tián>であることは紹介した。すなわち同音であり、ほぼ同意の異体字とみなしていることになる。
したがって日本の姓の「畑山・畑野・畑中」などは、パソコンなどで表示できないばあいに「田山・田野・田中」などに置きかえられることがある。同音・同意なので悪意はないだろうし、むしろ「田」という姓は中国では名門に属する。

いっぽう<畠 zāi, zī>は同音・同意というわけにはいかない。こういうときには部首に注目するのが中国である。「畠 の部首は 田」である。またそこに「畑山・畑野・畑中」などを、「田山・田野・田中」に置きかえたのと同様な思考もはたらいたとおもえる。もちろんここにも悪意はないとおもってよいだろう。
こうして畠中さんのお名前は、中国ではときおり「田中」と表示されるのであろうとおもえる。

ことばとその音がかわるのとおなじように、字 ≒ 漢字はもとより、仮名 でさえもその変化のあゆみをとめない。これがして、<字学>のおもしろいところではなかろうか。

【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
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《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
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西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
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ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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平野富二と活字*16 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅲ 明治初期の偉人たち-2

『VIVA!! カッパン』活字ホルダー紹介 活字ホルダーをもって立つ冨澤ミドリさん 江川次之進活字行商の図 部分拡大s 江川次之進活字行商の図 全体図s 江川次之進活字行商図 江川次之進肖像写真

《すべてのきっかけは活字ホルダーと、一本のお電話からはじまった》
朗文堂 アダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって〈活字ホルダー〉を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。
その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている〈活字ホルダー〉の図版を紹介し、いまではふたたびその名称と使用法は広く知られるようになった。

『VIVA!! カッパン♥ 』 (アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 p.64)
〈活字ホルダーの紹介。下部は〈活字狂を自他共にゆるした故志茂太郎の愛蔵品〉

《ご先祖様、江川活版製造所の江川次之進の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。この絵がどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが〈活字ホルダー〉なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいた。
また掛け軸は江川家側で修復されたものをお預かりした。この貴重な資料は研究レポートの刊行後に、しかるべき施設に寄託の予定となっている。

【タイポグラフィ・ブログロール 花筏 ──── 関連情報】
◎ タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料
◎ タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機
◎ タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート02
◎ タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見
◎ 活版凸凹フェスタ*レポート09

《江川活版製造所と江川次之進の研究は一瀉千里で進行した》
その後、江川活版製造所とその創業者:江川次之進の研究は、やはりWebSiteをご覧になったハワイの造形家から、江川活版製造所が製造したアルビオン型手引き印刷機の画像が紹介されるなどして、一瀉千里の勢いで進行した。
その研究成果は、まもなく公表されると仄聞している。楽しみにまちたいものである。
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この間も苔掃会は、地道に基礎資料の発掘にあたっていた。とりわけ苔掃会肝煎り/松尾篤史氏は、既存の資料にたよらず、谷中霊園周辺の墓地を丁寧な観察をつづけていた。
今回はこうしてあらたに発掘された資料を中心に紹介したい。

谷中霊園とその周辺の寺からは、江川次之進があたらしい活字書体の開発のために、最初に着目した、書家にして教育者:中村正直マサナオが撰ならびに書をのこした碑文が発見された。
また江川活版製造所の特徴ある「隷書活字」の版下をのこした久永其頴ヒサナガキエイと、印刷史研究家:川田久長の墓所もみつかった。

今回は平野富二そのものというより、その周辺にいた人物を中心に紹介したい。

B江川次之進肖像 B人物 B全体原寸サイズ B広告-第九号 B器具-扉 B扉-ホルダー 印刷大観広告  Egawa egawa    Egawa sun Egawa side egawa base VIVA62 B江川広告

《久永其頴 ヒサナガ-キエイ の墓所の発見》
知るところがまことに少ないのが久永其頴 ヒサナガ-キエイ である。
久永其頴は書芸家というより、むしろ実用の書、版下の書を多くのこした。また本名は久永多三郎であり、雅号として久永其頴をもちいていたことが墓地の発見からも明確になったが、墓誌は損耗がはげしく、また剥落が多くて、生没年などの読み取りは困難を極める。

久永其頴には、文字標本というか、著作というのか、『楷書千字文』、『行書千字文』、『帝国作文大全』などの書物がのこされている。そのうち発行部数が多かったとみられる『楷書千字文』はやつがれも所有しているが、本来入手を望んだのは久永其頴『行書千字文』であったこともあり、現在は探し出せないでいる。

幸い現在では〈国立国会図書館デジタルコレクション 久永其頴『行書千字文』〉は、デジタルデータで公開されているので、その特異な書風の一部を知ることができる。
また朗文堂タイプコスミイクでは、久永其頴の個性ある仮名書風をデジタルタイプとして再現した、欣喜堂:今田欣一氏の設計による、『和字 Ambition 9  ひさなが』 の販売もおこなっている。


ひさなが
久永其頴の墓所は、東京都台東区谷中6-2-8 自性院墓地にあることが今回松尾篤史氏によって報告された。自性院は川口松太郎『愛染かつら』ゆかりの寺であり、参拝客も多い。
また久永家の墓地は独特の書風の墓標で、現在も香煙がたえない。墓誌は損耗が著しくてよみとれないでいるが、いずれご家族から取材ができたら、さまざまな資料が発掘される可能性もありそうである。

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《初期印刷人が多く眠る谷中霊園  印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の墓》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長『活版印刷史』初版本  組版データー
大日本印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、16行、行間7.5pt
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長『活版印刷史』再版本  組版データー
杜陵印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文: 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間4.5pt
参考: 杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。この時代の杜陵印刷にはA全判、A半裁版活版印刷機が数台あり、本文活字は自家鋳造であり、ムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式(ステロ版)での活版印刷が多かった。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051  20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「印刷産業綜合統制組合屋上にて:矢野道也氏を送る会」(1946年03月25日)
写真) 印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也。
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。痩身で大柄なひとであったようである。集合写真:「この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句」『印刷情報』(片塩二朗 2007年07月号)より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日

明治23年05月25日  東京牛込区にて、父:麹町区長・川田久喜、母・むめ子の長男として誕生。
大正02年09月      東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。浅沼商会入社。製版材料調査に従事。
大正12年          秀英舎入社。製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月      印刷図書館初代館長に就任。のち「文部省認可 財団法人 印刷図書館」(昭和24年設立)となる。
昭和24年03月20日   著作『活版印刷史』(初版・並製本 印刷学会出版部)刊行。
昭和37年07月05日  逝去。享年72。墓は谷中霊園 甲3号4側に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作『活版印刷史』(再版・上製本 印刷学会出版部)刊行。

《啓蒙思想家、教育者/中村正直の撰並びに書の碑文》
江川活版製造所、江川次之進が、東京築地活版製造所を追随するために新書体開発をめざし、そのはじめに、原字版下を中村正直(なかむら-まさなお  中邨ともする 1832-91)に依頼したことは既述した。【ウィキペディア:中村正直
中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれた。徳川幕府の昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となった。幕府のイギリス留学生の監督として渡英して帰国後は静岡学問所の教授となる。

江戸徳川家が転封を命じられた静岡藩時代、静岡学問所教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳刊行した。すなわち『西国立志篇』(別訳名『自助論』)で、最初は木版刊本11巻として、のち佐久間貞一の懇請をいれて近代活字本一巻として出版した。同書は100万部以上を売り上げ、秀英舎(現大日本印刷)の基盤確立に寄与するとともに、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。
またジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、一躍「自由」は明治のはやりことばとなった。同書では個人の人格の尊厳や、個性と自由の重要性を強調した。

1872年(明治5年)、大蔵省に出仕。女子教育・盲唖教育にも尽力。1873年(明治6年)、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、明治六年創立の「明六社」の機関誌、「明六雑誌」の主要な執筆者でもあった。
自助論の序文にある ‘Heaven helps those who help themselves’ を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも中村正直である。

中村正直は能筆であったことは下掲の碑文からもあきらかだが、活字の原字を書すという作業は、能筆家であることがかえって妨げになることがある。
そうした背景があって、江川次之進は中村正直の原字を中途で断念して、「版下の書」を書いていた久永其頴ヒサナガ-キエイに依頼して、江川活版製造所の代表的な活字書体「江川行書体」を製造した。

この石碑は谷中霊園にあるが、まだ研究の手はおよんでいない。参考までにご紹介する。
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タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。

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やつがれ & 片塩二朗

平野富二と活字*15 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅱ 明治初期の偉人たち-1

         

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告 Ⅱ》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前から、ときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・新聞人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。その「谷中霊園 掃苔会(2013年12月01日)の記録Ⅱ」を紹介したい。
紹介順は、基本的に「掃苔会」での墓参の順番になるが、平野富二ときわめて関係のふかかった渋沢栄一(社会実業家 1840-1931)の墓所が、現在大規模な修理中であり、ご紹介できないことをあらかじめお断りしたい。
なお掃苔会資料『苔の雫』はコピー版であるが、ご希望の向きには実費程度でおわけしたい。この連続紹介で、碑碣にみられる、刻字のおもしろさと、そのおもさを知っていただけたら幸いである。

[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]

『平野展』ポスターs平野富二伝記念苔掃会 0104

◎ 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 社会実業家 号:青淵 1840-1931) 
乙11号1側  塋域全体が工事中。

◎ 茂木 春太碑(もてぎ はるた 教育者・化学者 1849-81)
乙11号3側  中村正直撰 廣 群鶴刻。
能書家としてもしられた中村正直の楷書がみごとである。

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◎ 岸田 吟香(きしだ ぎんこう 新聞人・実業家・慈善事業家 1833-1905)
乙12号7側 本名:辰太郎 別名・号:銀次、まゝよ、東洋、桜草
1864年(元治元)ジョセフ・ヒコらと日本初の新聞『新聞紙』を創刊。『東京日日新聞』初代主筆。
ヘボンと上海にわたり『和英語林集成』の刊行に助力。水性点眼薬「精錡水セイキスイ」を製造販売。
_MG_0625uu _MG_0628uu _MG_0630uu _MG_0631uu◎ 西園寺 公成(さいおんんじ きみなり 旧名:松田雪江 事業家 1835-1904)
乙12号7側 第一銀行取締 石川島造船所の資金難にあたり、渋沢栄一の指示でそれを援助。
平野富二没後は石川島造船所の株式組織化に尽力し、取締役に就任。
_MG_0637uu _MG_0643uu _MG_0644uu _MG_0646uu◎ 内田 嘉一(うちだ よしかず 文部省役人、書家、かなの くわい幹事 1848-99)
乙13号1側 秀英体の原字の一部を担ったとみられる。福澤諭吉の初期の塾生で、福澤諭吉編『啓蒙手習之文』(木版刊本、内田嘉一版下)にみる「わかりやすい文字」は、その後の活字書体形成におおきな影響をあたえた。
_MG_0691uu _MG_0693uu _MG_0699uu◎ 井関 盛艮(いせき もりとめ 裁判官、官僚、実業家 1833-90)
乙8号11側 あざな:公敦 通称:斎右衛門 神奈川県令のとき、長崎の本木昌造一門の助力で、わが国初の日刊新聞『横浜毎日新聞』(明治5年)を創刊。その後名古屋県令、島根県令をつとめ、印刷術の普及に貢献した。
_MG_0701uu _MG_0704uu _MG_0708uu _MG_0712uu◎ 田口 卯吉(たぐち うきち 経済学者、文明史家、衆議院議員 1855-1905)
乙7号6側 本名:鉉 号:鼎軒 元幕臣。紙幣寮に出仕。沼間守一による櫻鳴社の設立会員。秀英舎役員。『日本開化小史』『大日本人名辞典』などの編纂。『東京経済新聞』の創刊など。_MG_0719uu _MG_0720uu◎ 條野 傳平(じょうの でんぺい 戯作者、新聞人、実業家 1835-1906)
乙7号甲2側 明治元年(1868)福地源一郎、西田傳助らと『江湖新聞』創刊。ついで毎日新聞の前身『東京日日新聞』を自宅を事務所として創刊し、ついで『警察新報』『やまと新聞』などを創刊。
◎ 鏑木 清方(かぶらぎ きよかた 日本画家、随筆家 1848-99)
乙13号左3側 幕末から明治初期きっての粋人・條野傳平の子ながら、長子ではなかったため、墓所は別にある。自著の装幀にみるべきものが多い(ここには鏑木清方関係の写真は省略した)。_MG_0723uu _MG_0725uu _MG_0730uu◎ 楠本 正隆(くすもと まさたか 裁判官、政治家、実業家、新聞人 1838-1902)
乙7号甲1側 備前大村藩士、維新後井上馨、野村宗七とともに長崎判事。新潟県令、東京府知事となって、平野富二の活字製造、造船事業、土木工事に多くの接点をもつ。のち『都新聞』を買収して社長となった。
_MG_0733uu _MG_0734uu _MG_0741uu◎ 藤野 景響碑(電信士、西南戦争で陣没 1857 ?-1877)
甲1号4側  通称「碑文通り」とされる中央通路に、杉の木がもたれかかるという、奇観を呈するこの碑の主人公は、父が紙幣寮に出仕しているとする以外詳細は詳らかにしない。
碑文の撰・書ならびに篆額は池原日南(長崎人、宮内省文学御用掛として明治帝に近侍。香穉とも号す。1830-84)である。池原の和様の書は著名だが、ここでは隷書味のある楷書でしるしている。当時評判の石工・廣 群鶴の石彫もみごとである。
_MG_0784uu _MG_0788uu _MG_0790uu
◎ 渡部 欽一郎君之碑(大蔵省書記官、号:柳圃 1845-86)
甲1号9側 松方正義:篆額、浦春暉:撰、並木時習:書、井亀 泉:刻
明治4-6年(1871-73)ころ、大蔵省権大書記官として井上馨に随伴して大阪造幣寮におもむき、合理的で整然とした西洋式簿記を目にして啓発され、帰京後大蔵省の簿記法を従来の和算から、アラビア数字による横書き・左起こしに改めることを進言し採用された。この碑はその事実を刻し、「このことを知るひとはすくないが、いずれあきらかにされるであろう」としている。
英和辞書などでの左起こし横組みの創始が話題になったことがあるが、簿記での左起こし・横組みは、1871-73年ころの渡部欽一郎が最初である。
篆額を書した松方正義は、ときの大蔵大臣である。なお渡部欽一郎の墓所は浅草・本願寺にあるという。
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_MG_0828uu _MG_0832uu _MG_0838uu_MG_0840uu  《これぞまさに歴史の皮肉か? 谷中霊園甲1号12側にならんで建つライバルの墓標》
谷中霊園甲1号12側の通路にそってあるくと、ちょっと奇妙な景色に遭遇する。中央通路からはいると、手前に福地源一郎の墓標があり、東京都指定史跡に登録されている。その奥、隣りに伊集院兼常の墓域がある。どちらも相当おおきな墓域だが、ふつう通路に向かってたつ墓標が、伊集院家のものだけが、いくぶん変わった向きに建立されていることに気づく。これはぜひとも現地に出むいて確認していただきたい。
1886年(明治19)この両者は熾烈な争いをしたライバルであった。それでもいまや黄泉のひととなった両者は、谷中霊園にならんでねむっている。
────────
1886年(明治19)海軍省から軍艦建造の依頼をうけた平野富二は、管轄官庁の変転で浮きあがっていた兵庫造船局を借用するために願書を提出した。ところが同時に、京橋区築地造船所の川崎正蔵(鹿児島うまれ、1837-1912)からも同様な願書が提出された。
そのため両者はそれぞれ同郷の代理人をたてて借用権を争った。そのときの代理人とは、平野側は福地源一郎、川崎側は伊集院兼常であったのである。ときはまだ旧薩摩藩・旧長州藩の勢力がつよく、伊集院はその旧薩摩閥を背景として貸し下げ競争を展開した。
結局薩摩閥勢力のちからに屈し、貸し下げ競争に敗れた平野富二は、憤激のあまり脳溢血の発作をおこしたと伝えられている。_MG_0847uu◎ 福地 源一郎
(号:櫻痴、吾曹、夢の家主人、星泓。通訳、新聞人、実業家、政治家、劇作家 1841-1906)
甲1号12側 長崎人。語学の才にめぐまれ、幕府直臣となって外遊をかさねる。このときの経験が新聞の必要性と、小屋がけではない、常設劇場「歌舞伎座」の創建につらなった。多芸多才なひとで、毀誉褒貶も多いが、條野傳平らと『江湖新聞』を発行して新政府批判を展開し、投獄され、新聞は版木もろとも焼却されて発行禁止となった。
維新のち大蔵省に出仕するも、まもなく下野して『東京日日新聞』に迎えられて、主筆兼社長となった。常設劇場「歌舞伎座」を開設し、九代目市川團十郎、河竹黙阿弥らと演劇改良運動に尽力し、歌舞伎の新作脚本もたくさんのこした。政財界でも華やかな活動を展開し、伊藤博文・井上馨らの「悪友」と、色里での艶聞も多い。号としてもちい、法名の一部にもなった「櫻痴オウチ」は、遊里吉原の芸子・櫻路サクラジに痴シれたおのれを自嘲したものとされる。
第一次『印刷雑誌』に「本木昌造君の肖像并履歴」、「平野富二君の履歴」などの貴重な記録をのこし、谷中の『平野富二顕彰碑』の揮毫にあたるなど、平野富二とはきわめて昵懇であった。
_MG_0848uu_MG_0862uu ◎ 伊集院 兼常(いじゅういん かねつね 鹿児島人。軍人、実業家、造園家。1836-1909)
甲1号12側 幕末は国事に奔走し、維新後海軍に出仕、海軍省主船局営繕課長をへて実業界に転進した。また伊集院は建築や造園、茶の湯に造詣がふかく、鹿鳴館の庭園造営が知られる。また京都の数寄屋づくりの別荘は、現在臨済宗の寺院「廣誠院」として観光名所になっている。

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◎ 宮城 玄魚(名:喜三郎 号:梅素玄魚、旧キサ、呂成、蝌蚪カト、オタマジャクシ子 1841-1906)
甲4号3側 経師士、庸書家、浮世絵士、戯作者。20歳のころ家業の経師職を継いだ。庸書(実用書芸)のほか、画にも長じ、合巻の袋絵、千社札、火消しの袢纏、商品の紙器などの意匠に独創性を発揮した。
また條野傳平、仮名垣魯文、落合芳幾らの粋人仲間との交流も篤かった。
清水卯三郎(1827-1910)がパリ万博に随行した際、玄魚の版下によってパリで仮名書体活字を鋳造し、その活字母型を持ち帰ったとされる。江戸刊本の字様を継承した玄魚の仮名書風は、東京築地活版製造所の仮名活字の一部に継承されたとみられている。
宮城家塋域はそんな玄魚の心意気を反映して、どことなく小粋で風情のある場所である。
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平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

平野表紙uu

《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

『平野展』ポスターs

そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
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《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
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補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

_MG_0664uu _MG_0652uu _MG_0666uu _MG_0665uu _MG_0654uu _MG_0675uu _MG_0681uu _MG_0680uu _MG_0656uu _MG_0658uu _MG_0684uu _MG_0689uu平野家塋域にて
前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
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補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
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上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。

朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状

恭賀新年

台湾の友人、林昆範リン-クンファンさんから、春節(旧正月)の「年賀状」をいただいた。デザインのモチーフは、中国の少数民族の「文 ≒ 紋」である。
上から順に、「瑤族 YAO ZU」、「侗族 DONG ZU」、「壯族 ZHUANG ZU」、「苗族 MIAO ZU」の、それぞれの民族を象徴する「文」である。

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中国でのお正月「春節 旧暦の正月」のことは【アダナ・プレス倶楽部 NEWS:エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」】において紹介した。
古来中国では「暦」とは為政者が定めるものであった。したがって南北朝のように、国家が分立した際には、それぞれの国に「暦」があって、旅人などは難儀したことがあったとされる。

台湾も2014年(中華民国103年)の「暦」を、前年の2013年(中華民国102年)05月30日に、「行政院人事行政總處」が発表した【リンク:行政院人事行政總處 中華民國103年政府行政機關辨公日暦表】。
これは公務員の規定であるが、もちろん民間もこれに準拠することになる。すなわち中国と同様に、半年ほど前に、翌年の祝祭日と休暇が公示されている。

中国での2014年の法定祝日(旧暦元旦)は01月31日[金]で、休日は01月31日[金]-02月06日[木]の7連休であった。いっぽう台湾では01月31日[金]が祝日(旧暦元旦)であるのはおなじだが、休日は01月30日[木]-02月04日[火]の6日間となった
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林昆範さんと、その研究に関しては、このタイポグラフィ・ブログロール花筏でも触れてきた【朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で】。
林昆範さんはその研究を「字学研究」とされるが、わが国では「文字」ということばが普遍化しているために混乱を招きがちである。ご本人はいやがるが、「記号学」、「意匠学」とでもしたほうが「わが国では」わかりやすいかも知れない。

すなわち林昆範さんは、中国の観光産業と共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されている。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。
そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという。

その研究はだいぶ進捗をみたようで、紹介した「年賀状」もその一環である。また近近来日されるので、ご高説をうかがうことができそうで楽しみなことである。

近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心です。すなわち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。   林  昆範

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
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王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
────────
フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

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平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
─────────
主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
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記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

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活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

朗文堂好日録-034 毎+水=? 【回答編】年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?
 【 回  答  編 】

弘法大師 空海が、みずからの名前「空海」に
「毎+水」を「海」の字としてもちいていました。
最末部に どんでん返しがお待ちしております(冷汗)。

空海中国書法大字典

空海 海_ページ_3空海 海_ページ_4
 ↑ 資料1) 中国の「字」の資料
        『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) 
                  p.853-4 「海」標本35例     内 「海」字体は35例 「毎+水」字体は00例

↓  資料2)  日本の「字」の資料
         『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日)
         p.563-4  「海」標本20例   内 「海」字体は16例 「毎+水」字体は04例

空海 海_ページ_1
空海 海_ページ_2
《海と、毎+水≒海 の使用例を日中両国の 字書 にみる》
上掲のよっつの図版は、中国とわが国の、書芸家・書法家による「字」の標本を収集したものである。

資料1) 中国の「字」の資料
      『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) p.853-4
ここには「海」の標本35例があり、 内「海」の字体が35例で、「毎+水」字体は紹介されていない。
中国ではながい歴史のなかで、「字」も少しずつ形象をかえてきたが、いわゆる「雑体」とされるもの以外は、後漢の時代(西暦100年、永元12)に成立した許慎『説文解字』があり、そこで定義された「六書の法」からおおきく逸脱することはほとんど無い。もちろん現代中国における「簡体字、簡体」もその範疇で展開されている。

資料2) 日本の「字」の資料
      『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日) p.563-4
ここには「海」の標本20例があり、内「海」の字体は16例、「毎+水」字体は04例となっている。
ここでも「毎+水≒海」としたのは空海が最初とみられる。これは字の形成からいうと、「氵サンズイを水とみたて、旁の毎の下に置いた」もので、やや類似した例としては「峰 常用漢字 → 峯 異体字」、「島 常用漢字 → 嶋、嶌 異体字」などをあげることができるが、それでも「毎+水≒海」としたのは空海の独創とみられる。

『書体大百科字典』の編者:飯島太千雄氏は、空海の書が好きとみえて、ほかの事例紹介でも空海の書による、いわゆる「則天文字」、「梵字」、「飛白」などの書を引くことが多い。
「海」の字体16例のなかでも、空海の書として、637.「海 伊勢正法寺観音堂額」、7.「海 二荒山碑銘」、8.「海、毎+水、併用 空海 綜芸種智院式」、6.「海 益田池碑銘」のよっつの例をあげている。

いっぽう「毎+水」字体のほうは、標題語「丸のなかに海」につづき、許慎『説文解字』の例のつぎに、篆書風の4.「孫 技秀 百体千字文」がある。この孫 技秀は、いわゆる「雑体」の書を多くのこし、その影印本は、『篆書百体千字文』としてマール社から発売されている。

また肉太の大字、394.「毎+水 後小松院 円覚寺額」がある。この書額は実見していないが、円覚寺 は臨済宗(禅宗)の寺であり、空海が開いた真言宗の寺では無い。
また後小松院とは、室町時代、北朝最後の天皇「後小松天皇」(1377-1433)の追号で、空海没後550-600年余の長期にわたり、また禅宗寺院にも、この「毎+水≒海」の「字」がもちいられたことがわかる事例である。また高野山西南院には『後小松天皇宸翰秘調伝授書一幅』(重要文化財)がのこされている。これをみると、後小松天皇とはきわめて能筆のひとであったようである。
あとはすべて空海の書からの標本で、 8.「海、毎+水併用 空海 綜芸種智院式」、10.「毎+水 空海 越州帖」となっている。

《真言宗の開祖:弘法大師 空海、天台宗の開祖:伝教大師 最澄》
あらかじめお断りすると、やつがれは宗教ひと、とりわけ開祖・始祖としてあがめられるひとは苦手である。
もちろん、すぐれた才能と、学識によって、この国のひとびとの、こころの安寧をもたらした功績は素直に評価するが、どうしても近寄りがたいものがあり、できたら敬して遠ざかっていたいとするおもいがつよい。
とりわけ空海の周辺には、史実よりも伝承とされるものが多くみられるだけに厄介である。

『空海の風景』を著した司馬遼太郎もそんなおもいがあったようで、「小説」のなかで空海を、「喰えないひと」、「あざとい一面がみられる」、などと評している。
やつがれはそこまで述べる胆力も学識もないので、単にふたりを平安時代初期のすぐれた宗教ひととして捉え、空海、最澄と呼びたい。
そして、「わがくにの真言宗の開祖:弘法大師 空海 774-835」と、「わが国の天台宗の開祖:伝教大師 最澄 787-822」の日本語版ウィキペディアにリンクをもうけて紹介を終えたい。
以下、『弘法大師の書とその周辺』(東寺宝物館編 1987年9月20日)からその書をみたい。

風信帖

資料3)  『弘法大師尺牘 セキトク(風信帖 フウシンジョウ)』
                一巻 紙本墨書 縦28.8センチ、横全長158.8センチ 平安時代前期 京都東寺蔵
「風信雲書 天自 ヨ り翔臨 ショウリン す 之を披 ヒラ き 之を閲 ケミ するに 雲霧を掲 カカ ぐる如し 云云」
からはじまる第一信があるために、ふつうは『風信帖フウシンジョウ』として知られる。
この書状は書風からみると草書であり、あきらかに王羲之をまなんだ形跡がみられる書である。『風信帖』は空海40歳ころ(812-3)の書とみられ、格調がたかく空海遺墨の第一とされている。
最終部日付の前の行は「不具 釋空(毎+水)海 状上」としるされている。

弘法大師御遺告 巻首部
弘法大師御遺告 巻末部資料4)  『弘法大師御遺告 ゴユイゴウ』
       絹本墨書 縦53センチ、横全長393センチ 平安時代(12世紀) 京都東寺蔵
空海が入定(逝去)に6-7日ほど先だって、弟子たちにあたえた遺誡の書。
空海の遺言は、弟子がしるしたとみられるものをふくめ6種類あるが、これは「承和二年三月十五日」(835年。空海は旧暦承和2年3月21日(新暦835年4月22日)卒。年と日は「則天文字」)の日付をもち、東寺の聖教中でも特に重要視され、秘蔵されてきたものである。
書風は隷書の味をもった独特のもので、「則天文字」の使用も多い。最終部に「入唐求法沙門空(毎+水)海」としている。

大和州益田池碑銘 部分

大和州益田池碑銘2
資料5)  『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』
       紙本墨書 縦31.5センチ、横全長790.1センチ 室町時代の模本 京都東寺蔵
825年(天長2)大和ヤマトの国高市郡に、干魃にそなえた溜め池「益田池」が完成した(現奈良県橿原市周辺に所在したと比定されるが、埋め立てられて現存しない)。空海はこれを喜び、同年9月25日に碑銘を撰し、揮毫したとされる。原碑は室町時代に高取城築城の際に石垣にもちいられて現存しない。現在これを模刻した石碑が橿原市の久米寺境内に建立されている。

この模刻碑を現地でみたが、やつがれがどうしても空海を苦手とする理由がはっきりした。
この碑は、書風からいうと草書を主とし、鳥などは象形というより、具象そのものの鳥を描き、篆書、隷書、そのほか、雲書、垂露、転宿星などの雑体書にあふれている。そしてここにも「則天文字」が縦横に駆使されていた。
つまりこの復元碑には、事大趣味、衒学趣味が表出しすぎて鳥肌がたった。
なぜ「大和國」ではなく「大和州」とするのか。なぜ「沙門 シャモン 梵語Sramana」として、いち僧侶として謙譲の姿勢をみせながら、「遍照金剛」などと、「密教における大日如来の別称。光明が遍アマネく照らし、さらに金剛などと、金カネのうちでも最も堅い」と豪語するのか……、とおもってみていた。

序文の書き出しは、
「大和州益田池
  碑銘 幷 序
   沙門遍照金
   剛 文 幷 書   」
である。
それでも『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』は、わが国ではその奇抜さのゆえか、空海が好んで書いていた「梵字」(ボンジ、梵語すなわちサンスクリットをしるすのにもちいる字。字体は種種あるが、日本では主として悉雲シッタン字をもちいてきた。光明真言を参考[広辞苑])や、「飛白」(ヒハク、漢字書体の一。刷毛ハケでかすれ書きにしたもの。後漢の蔡邕サイヨウの作という[広辞苑])とならんで、これを模す例が多い【リンク:空海の書 画像集】。

《最澄も使用していた、毎+水≒海の例》 
のちに袂を分かつことになったが、書簡『風信帖』にみるように、もともと最澄と空海は親密であった。
最澄は802年(延暦21)
桓武天皇より入唐求法ニットウグホウ還学生ゲンガクショウ(短期留学生)に選ばれた。

その2年後、804年(延暦23)空海も正規の 遣唐使 の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡ったが、なぜか滞在わずか二年にして帰国した。
入唐ニットウ直前まで、ひとりの 私度僧 にすぎなかった空海が、突然国費による留学僧として浮上する過程と、その滞在期間のあまりの短かさは、こんにちなお多くの謎をのこしている。
いずれにしても空海は、史実よりも伝承につつまれたひとである。

弘法大師請来目録 巻首 伝教大師筆

弘法大師請来目録 巻末 伝教大師筆

資料6)  『弘法大師請来ショウライ目録』 伝教大師最澄筆
       紙本墨書 縦27.1センチ、横全長885.0センチ 平安時代(9世紀) 京都東寺蔵
空海が唐から持ち帰った法文、仏具、仏画などの目録である。空海は804年(延暦23)唐にわたり、806年(大同元年)8月に帰国した。同年10月22日唐から持ち帰った経巻などを目録として朝廷に上奏した。

本巻は空海自筆とされていた時代もあったが、その書風と、17紙におよぶ料紙の継ぎ目のすべてに捺印されている「延暦寺」の朱方印などから、最澄の筆写であることに争いは無い。いっとき最澄は空海から真言密教をまなんでおり、この目録もその過程で空海から借用し、筆写したものとみられている。
図版には巻首部と巻末部を掲げたが、「空海」がすべて「空 毎+水≒海」になっている。とりわけ巻末の跋文バツブンと、日付、署名にみる「空 毎+水」は、いかにも苦しげにみえるのは気のせいだろうか。
説文解字第十一上 水部1 説文解字第十一上 海 説文解字 海資料7)  『説文解字 影印本』
       東漢・許慎撰 趙 國華編輯 黄山書社 2010年10月
説文解字 影印本『説文解字』は中国最古の部種別字書。中国字学の基本的古典で全15巻。東漢の許慎が撰して西暦100年(永元12)に成った。
540の部首にわけ、「正文」として小篆を字頭に置き、9,353の文と字を解説 → 説文解字したもの。
また古文[ふるい字画]、籀文[チュウブン ≒大篆]、异体[イタイ ≒異体字]、重文[≒合分・成句]など、1,163字も紹介している。したがって「文を説き、字を解する」ために、133,441字からなっている。
許慎は「海」を、「天池也 以納百川者 从水 毎聲 呼改切」、意訳「幾百もの川の水を納める、おおいなる池なり。水(氵)の部首に从(従)う。声(漢字音)はマイ、バイ、ハイ hai なり」としている。

中国(台湾)には、こうした影印本や、批評と注釈を加えた批注本の『説文解字』がたくさん発行されている。
8-9世紀をいきた空海(774-835)が、西暦100年に成った、許慎『説文解字』に関心を寄せていたなら、こんにちのわが国の字学 ≒ タイポグラフィは、そうとう異なった姿になっていたとおもうことがある。 

《なぜか気になるひと、空海のこと》
まだ中国旅行がきわめて不便だったころ、盛唐時代のみやこ 長安、現在の西安をたずねたことがあった。そのとき空海が西明寺に滞在しながら、恵果(ケイカ、エカ 746-806)から真言をまなんだとされる、西安郊外の「青龍寺」をおとずれた。
恵果は、不空【フクウ、(Amoghavajra)、705-74 中国版百度百科:不空】の弟子で、空海の声望をきいてその来訪を待ちわび、その真言の一切を伝授したとされる。
中国での資料は、インド僧ともされる不空に関しては饒舌だが、恵果【ケイカ、エカ 746-806 日本語版ウィキペディア:恵果、中国版百度百科:恵果にはみるべきものは無い】に関しては、なぜかわが国の資料からの引用にとどまる。
当時は現地のガイドも「青龍寺」の所在地を知らず、ずいぶん苦労して「青龍寺跡」にたどり着いた。

小高い丘、ひろい野菜園(はたけ)のなかに、ちいさな堂宇がポツンとあり、中には老婆がひとりで埃をかぶった土産物を並べているだけだった。
堂宇の周囲には、日本の真言の寺が寄進建造した、こぶりな碑や仏塔がいくつかならんでいた。一時間ほど周辺を歩きまわったが、やつがれらのほかにたれひとりとして、このちいさな堂宇をたずねるひとは無かった。

《現代の、これからの「文」と「字」のありようへの希望》
上に掲げた地図は、「長安城復元図」(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)である【リンク:地図の拡大版】。唐王朝第二代、貞観ジョウガンの治をしいた皇帝・李世明(リ-セイミン 598-649)に仕えた褚遂良(チョ-スイリョウ 596-658)の自邸、そして李世明の長男で自死させられた隠太子廟なども描かれているので、盛唐時代とされた6-7世紀の記録とおもわれる。

現在の西安のまちの城壁は明代に造築されたもので、上図の盛唐時代の広壮な長安城の 1/4 ほどの規模になっている。
空海がここをおとずれた唐時代の長安城(まち)は、三蔵法師の尊称で知られる、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602-664)が、インドから持ち帰った仏典の訳教にあたったとされる、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、下図の右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。
盛唐時代の「青龍寺」も城内にあった。下図では右下寄り、第五街皇城東第三街としるされた道に面し、延興門のすぐ脇の「新昌坊」にあった。
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数年前、北京オリンピックが終わったあとに西安に友人ができて、かれの案内でふたたび「青龍寺跡」をおとづれた。そこはすっかり「日本人向けの観光地」になっていて驚いた【日本語版:ウィキペディア:青龍寺 中国語版:百度百科:青龍寺】。
それでもここを再訪してはじめて、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)のうまれ、空海こと、佐伯眞魚サエキ-マオ、諡号で弘法大師とされる人物は、たしかにこの地に立っていたと実感することができた。
そして「文」と「字」に夢中になり、その反古ホゴや欠片カケラのようなものまでの一切合切を、一気呵成の勢いで頭陀袋ズダブクロにほうりこんで、あわただしく祖国日本に戻ったのであろうと想像すると、なにかほほ笑ましいものがあった。そのころ空海は、数えて32-33歳のときであろうか。

こうした空海を、風景として描いたのは司馬遼太郎であった。
やつがれにとっての空海とは、「文」と「字」のひとである。
空海は「字」の成立の背後にひそむ、「文」の「咒ジュ性 乃至 呪ジュ性」、あるいは単にその神秘性といいかえても良いが、それに惹かれたのではないかとおもう。それがして空海を宗教ひとたらしめた。
したがって宗教ひと、それもあらたな宗派の開祖として耳目を惹きつけるために、「海」の字の結構(偏と旁)を左右型から上下型とし、旁の部首を「氵から水」として、「毎+水 → 海」とした、空海の心象風景に、衒学趣味をみるとはいえ、これはこのひとに独特の パフォーマンス Performance として看過すべきことだとおもう年齢にたっした。したがっていまでは、
「オイ、空海さん、あなたはとても面白いな」
と、声をかけたい気持ちになっている。

たしかに中国にとどまらず、エジプト、中東、インドなどにおける、ふるい時代の伝達記号、「文」のおおくが、そして「字」の一部も、古代宗教の神官の手になったものがおおく、そこに霊感や神秘性のごときものをみることはある。
それでもやつがれは、そうした「文」と「字」の背後に埋み火のようにひそむ咒性や神秘性は、できるだけソッとしておくべきだと考えている。そのため「字」におおきな神秘性をみていたであろう、武即天による、いわゆる「則天文字」は、これまでも触れてきたこともあり、今回はあえて触れなかった。

むしろ、天下万民のリテラシーが向上した現代にあっては、「文」と「字」とは、普遍の、おおやけの、正確な伝達記号でありたいとおもうのがやつがれのいまである。
そしていつかまた、『空海の風景』をカバンに忍ばせて「青龍寺」に立ち、「文」と「字」につよく惹かれたであろう空海の、こころの風景をかたりあいたいとおもうのである。

《追加項目:お詫びと訂正 ──────── 中国版電子データ『漢典』のご紹介 2014年01月09日》
本項は2014年01月04日に掲載した。新年始業後、たまたま「畑」と「畠」の異同をしらべるために、時折訪問する中国版「字」のデータ【 漢  典 】にあたっていた。ついでに、なにかと気になる「海」にもあたってみた。
そこでナント! 【 漢典 海 】の「异体イタイ字 ≒ 異体字」に、下図の「异体イタイ字 海」が掲載されており、なおかつユニコード番号がまでが振られていた。
基本 CMYK

上掲のみっつの「字」が【漢典】には、いずれも「海」の「异体字 ≒ 異体字」として紹介されていた。字のコードはいずれもユニコードで、左からU+23CD7, U+23CE0, U+23D34である。近近買い換えを迫られているやつがれのウィンドウズXPでは表示できないが……。
しかもである。やつがれが調査済とした『玉扁』、『康熙字典』に「毎+水 海」が掲載されているという。

大慌てで『玉扁』を調べた。この字書は中国・梁の顧 野王撰、30巻で543年になった字書である。悲しいことにやつがれの所蔵書は、明治初期のわが国における活字本で、「毎+水 海」は紹介されていなかった。
しかしながら空海は『玉扁』をみることができたはずだし、こうした偏と旁をかえた「結構」の「海」は、当時の中国にあって、空海が実見していた可能性が否定できないことになった。

また『康熙字典』は複数所有しており、もっぱら使い勝手の良い活字本をつかっていた。そこでもう一度、影印本『康熙字典』(張 引之校改 上海古籍出版社 1996年1月)にあたってみた。結果は下図に掲げた。
「海」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十一丁最初の行にあり、その最末部に「毎+水 〔集韻〕或作 毎+水」がある。
「毎+水」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十六丁二行目最上部にあり、たしかに「毎+水 〔玉扁〕同海」とされていた。
『康熙字典』「毎+水」_ページ01 『康熙字典』「毎+水」_02まこともって、正月休暇をつぶしてポチポチしるしてきたことだが、しまりの無い仕儀となった。
ここに読者の皆さまにご報告するとともに、お詫びとともに、改めてご報告した次第である。
(この項2104年01月09日しるす)

朗文堂好日録-033 毎+水=? 【設問編】 年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?

【 設 問 編 】

朗文堂ニュース 2013年03月11日】に、上掲の図版を掲げて、皆さんに質問を投げかけた。
おりしも年度末、慌ただしいときであった。
回答は、この【タイポグラフィ・ブログロール 花筏】で報告するとしていたが、忙しさにかまけ、いつの間にか忘れていた。

ところで「宿題」の件である。設問から半年余もたったので、もう皆さんはお忘れかとおもっていた。ところがWebsite には「ウェブ検索」のほかに、「画像検索」のコーナーがあり、そこにはしっかりと上掲の図も掲載されていた。

いままでやつがれは、ほとんど「画像検索」コーナーはもちいなかったが、最近この Website のサポートにあたっているキタクンは、もっぱら「画像検索」コーナーからはいって、検索をガシガシとはじめる。
デジカメもケータイも、すぐに壊したり、なくすので、「使う資格無し」として没収されるほど「機械オンチ」のやつがれは、こういう作業を「ググる」というのだとようやく知った。やがてキタクンを真似て、結構「画像検索」を試みるようになって便利なこともある。

検索ソフトのグーグルは、どのように画像データーを収集・編集・処理するのか知らないが、「朗文堂画像検索」編はあまりにふるく、画像も低解像度のものが多かったせいか、いくぶん貧相である。
どちらかというと、【朗文堂花筏 画像】編にあたらしいデータが収録されている。そこにこの「設問」の画像が逃げようもなく存在していた。
そんなことを気にしているうちに、ついに歳末に読者からの叱声がきた!
「朗文堂NEWS にアップした、 毎 と 水 のかさなった 字 の解説はどうした…… !?」
というわけで……、上掲の課題を越年させて、ポチポチとしるしている次第。

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森永チョコレートアイスクリームPARM ブランドサイト《平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar》に、2013年11月、15回にわたるタイポグラフィ・エッセイをしるした。
この写真の施設は「甲骨文」出土地として知られる、中国河南省安陽市の駅前に新設された「文字博物館」である。撮影は斜めから撮ったものだが、ファサード正面にむかって巨大なモニュメントが一直線上にならんでいる。

一番手前は金色に輝く「文 鳳凰文」である。その背後に「字 宀 ベン、メン、うかんむり≒家のなかでつぎつぎとうまれた子供=字」を象徴する巨大なモニュメントがそそり立つ。
ここ「文字博物館」での「文字」には、ちょっと注意が必要である。たしかに「文字」そのものは、中国漢代にもその使用例がある(『漢語大詞典』)が、その意味するところは、現代日本語の「文字」とはおおきくかけはなれている。

やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。そのために「文字博物館」の図録の序文には、「文≒紋」と、「字」のなりたちが、正面入口のふたつのモニュメントを例として丁寧に説かれている。
すなわちわれわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。
したがって甲骨文、金文、石鼓文、籀文(チュウブンン ≒小篆)などは、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としての扱いはうけずに、「文」と表記される。

このことの説明に際していつも苦慮するが、例をケータイ電話などでの「顔文(字)」に喩えたらわかりやすいかも知れない。
ケータイ電話の「顔文(字)」は、同一メーカー所有者など、一定の集団のあいだでは共有されるが、その意味範疇はあいまいであり、伝達の範疇は意外と狭いものがある。
またわが国の一部の資料に「文は部首である」とするものもある。これはにわかには首肯できない。

《正式な学問として存在する中国での字学》
甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者を「甲骨四堂」、あるいは「甲骨学 四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。
四堂とは、郭 沫惹カク-マツジャク/鼎堂、羅 振玉ラ-シンギョク/雪堂、王 国維オウ-コクイ/観堂、董 作賓トウ-サクヒン/彦堂であり、一宣とは、胡 厚宣コ-コウセンのことである。

郭沫惹氏 百度百科よりわが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹(カク-マツジャク、あざなは鼎堂テイドウ。中国四川のひと。日本の九州大学医学部卒。中日友好協会会長をながくつとめた。1892-1978)が、中国河南省鄭州の「河南省文物考古研究所」(王 潤杰オウ-ジュンケツ館長)のために書した、同所の扁額とパンフレットの題字の「殷虚」は、悪相とされる漢の字「殷虚」の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。
ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながら携帯電話の「顔文(字)」と同様に、あたらしいメディア上には表示できない。

つまり中国河南省鄭州テイシュウなどの遺跡で発掘される、前商(殷)時代・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。
【リンク:吾、台湾にて佛跳牆を食す !

やっかいなことだが、わたしたちはいつのまにかすっかり「文字」ということばに馴れてしまい、相当な専門書にも、「甲骨文」にかえて「甲骨文字」などとしるされている。もしこれをよしとするならば、青銅器などにみる「金文」は「金文字」となり、「籀文 チュウブン」は「籀文字」となり、つづみ形の石に刻まれた「石鼓文セッコブン」(現在は移転して北京:故宮博物院所蔵)は「石鼓文字」となる。つらいはなしではある。

したがって、わたしたちにとっては、この安陽の施設は「文モン or 紋モン and 字 の博物館 ≒ もん と じ の博物館」としてとらえたほうが誤解が少ないようである。
そんな予習のためにも、炬燵・蜜柑にアイスクリームを加えていただき、下記情報をご笑覧いただきたい。
平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar 2013年11月12日
朗文堂好録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、仏跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと
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水+毎=?さて、本題にもどろう。上掲の「字 ≒ 文字」は、ひとつの「字」である。
漢の字、中国の字(漢字、中国では字 or 国字)というより、国字(わが国でつくられた漢字風の字)、もしかしたら個人の創意、あるいはわずかなテライ、もしくは軽い諧謔ユーモアをこめてつくられた「字」かもしれない。
図版でおわかりのように、上部に「毎」をおいて、下部に「水」をおき、ひとつの「字」としたものである。

やっかいなことに、この「字」は、わが国の歴史上で実際に書きしるされており、しかも複数の貴重な文書の上になんども登場していて、一部の「集団」からは、いまなおとてもおもくみられている「字」である。
したがって簡単に「俗字」「異体字」として片付けるわけにもいかず、原典文書の正確な引用をこころがける歴史学者などは、ほかの字に置きかえられることをいやがることがある。

1970年代の後半だったであろうか……。まだ写研が開発した簡易文字盤製造キット「四葉  シヨウ」もなかったころのことである。展覧会図録として、この「字」をふくんだ文書の組版依頼があった。
当時は原始的というか、当意即妙というのか、原字版下を作成して、ネガフィルムをおこし、それをガラス板にはさんで写真植字法で組版するという、簡便な方法で対処したことがあった。もう40年ほど前のこととて、その資料も、使用例も手もとにはない。

もちろん現代の文字組版システムは汎用性にすぐれており、こうした「特殊な字」は、アウトラインをかけるなどして「画像」とすればいいということはわかっている。それでも学術論文までもが Website で発表されるという時代にあって、やはりなにかと困った「字」ではある。
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先まわりするようだが、デジタル世代のかたが愛用するパソコン上の「文字パレット」や、「手書き文字入力」ではでてこないはずだ(やつがれのばあいは ATOK であるが)。
ちなみにこの「字」のふつうの字体は、人名・常用漢字で、JISでは第一水準の「字」であり、教育漢字としては小学校二年で学習(配当)する、しごくあたりまえの「字」である。

また、一部のかたが漢の字の資料としておもくみる『康煕字典』では、「毎」は部首「母部」で、「辰集下 五十七丁」からはじまり、「水」は部首「水部・氵部」で、「巳集上 一丁」からはじまる。
現代中国で評価がたかい字書のひとつ『漢語大詞典』(上海辞書出版社)もある。これらのおおがかりな資料にもこの「字」は見あたらない。為念。

また、わが国のふつうの『漢和辞書』とされるものは、なんらかの中国資料の読みかえがほとんどであるから、当然でてはこない。
管見ながら、これらの資料には「標題字」としては、上掲の「毎+水の字」は掲載されていないようである。もしかして、万がいつ、応用例としてでも、ちいさく紹介があったらごめんなさいである。
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とかく「漢字」「文字」というと、ほんの一部のかたのようではあるが、にわかに知的興奮にでもかられるのか、妙に衒学的になったり、エキセントリックになるふうがみられるのは残念である。
ここではやわらか頭で、トンチをはたらかせ、
「なぁ~んだ、つまらない」
「ナンダョ~、簡単じゃないか」
とわらって欲しい。
そしてこの「字」をつくりだした、天性のエンターティナーに、おもいをはせてほしい。
「回答」というほどのものではないが、答えは タイポグラフィ・ブログロール《花筏》にのんびりしるしていくつもりである。

タイポグラフィ・ブログロール花筏での花筏

花筏 京都・哲学の道こういう写真はテレがあってあまり得意ではない。おそらく4-5年前、やつがれの体調がすぐれなかったころの写真だとおもう。

京都市左京区の南禅寺から、銀閣寺 ( 慈照寺 ) にかけて、琵琶湖疎水にそった小径を、「 思索のこみち 」、あるいは 「 哲学の道 」 などと呼ぶ。
むかしは閑静な小径だったが、いまはすっかり観光地になって、思索も哲学もあらばこそ、騒騒しい通りになっている。

この側溝の右手には、琵琶湖疎水のゆたかな流れがあり、このときもみなもが見えないほど、櫻花が散りしく 「 花筏 」 であった。
この小径の櫻はよく知られているが、同時に疎水にそって 「 ミツマタ(三椏)」 がたくさん植えられており、櫻に先だって淡い黄色の花をつける。

ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。中国ではこの灌木の花のかおりのよさから 「結香 」 ( ジェシァン ) と呼ばれている。
ご存知のように手漉き紙の材料として 「 ガンピ(雁皮) 」 や、「 コウゾ(楮) 」とともに主要な原料となる。

この琵琶湖疎水と蹴上発電所の開発に際しては、平野富二ともおおいに関係がある。
古谷昌二 『 平野富二伝 』 (第17章 明治23年の事績 琵琶湖疎水工事視察とペルトン水車受注 p.714-23)。

その資料を探していたところ、こんな恥ずかしい写真がでてきた。
2013年の歳末にふさわしいかどうかは疑問だが、ご紹介した。

平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ-長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと

新タイトル1
平野富二ボート用吊り装置平野富二ボート吊築造願
《平野富二自筆文書幷概念図——ボート釣築造願》 

    古谷昌二『平野富二伝』第10章-7 明治16年(1883)におけるその他の事績 p.440-441
上図) ボート釣装置概念図
本図は、下掲の平野富二自筆文書「ボート釣築造願」に添付されたボート釣装置の概念図である。 築地川の石段から二十間離れた岩壁に、長さ五尺のアーム二本を三間の間隔で川に向かって延ばし、小形ボートを吊り上げるもので、船上でのボート吊下装置を応用したものであることが分る。

下図) 平野富二所有のボート用釣装置設置願書
1883年(明治16)2月8日、平野富二は、築地活版製造所の前を流れる築地川の河岸石垣に、自分所有のボート用として、釣装置を設置する願書を同日付で東京府に提出した。
平野富二は、自宅と、活字製造部門と活版印刷関連機器製造部門「東京築地活版製造所」のある築地から、築地川を下って、石川島までの間を、ボートを利用して往復していたことが伺われる資料である。本文書は、東京都公文書館に所蔵されている平野富二自筆の願書である。  

「   ボート釣築造願
                   京橋區築地弐丁目
                     拾四番地平民
                                                            平野富二
右奉願候私所有之ボート壱艘同所拾七番地前川岸江繋留仕度就テハ別紙圖面之通 ボート釣河岸ヨリ突出製造仕度奉存候間何卒御許可被成下度尤右場所御入用之節何時モ取除元之如ク私費ヲ以取繕可申候此  段圖面相添奉願候也  但川中ヘ五尺出張リ候事
                                                 右
   明治十六年二月十八日         平野富二 印
   東京府知事芳川顕正殿  前書出願ニ付奥印候也
                                    東京府京橋區長池田徳潤印           」
 東京府は、警視庁に照会の上、撤去の際には元形の通り修復することを条件として許可している。

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明治36年版『活版見本』(東京築地活版製造所)口絵にみる銅版画を原版とした社屋一覧。
平野家はこの1903年(明治36)のとき、すでにあるじ富二を失っていたが、長女・津類ツルを中心に、この図向かって左手奥にあった平野家に、関東大震災で罹災するまで居住していた。
手前の築地川は水量がゆたかで、そこに下掲写真では小舟を移動して撮影したものと想像されるが、この銅版画には象徴的に、一隻の小舟が繋留されて描かれている。しかしすでに平野富二は逝去しており、吊り上げ装置らしきものはみられない。

M7,M37社屋

平野富二はまた、1879年(明治12)5月22日この築地川の川端に、アカシアの苗木を自費で植え付けの願い書を東京府知事宛に出している。
『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月)の口絵には、「明治37年ノ当社」とする写真があり、そこには前掲の銅版画では省略されたのかもしれないが、河岸にアカシア並木らしきものがみられる(『平野富二伝』古谷昌二、p.311-2)。銅版画に描かれた小舟は、手前の河岸にはみられるが、対岸には一隻もみられない。
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《港湾都市長崎でうまれた平野富二の原風景 —— 移動はもっぱら小型舟のサンパンだった》
ふるくいう —— 「三つ子の魂  百までも」。
平野富二(1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47)は、三方を急峻な山なみで囲まれ、生いしげるあかるい照葉樹林の照り返しで、金波銀波が鮮やかに海面を彩る、長崎港湾にうまれた。
やがて長崎製鉄所に属し、船舶の機関士として学習と航海をかさね、渺渺ビョウビョウたる大海原オオウナバラに進出した。
平野富二は、この大海原につらなる、ふるさと長崎へのこだわりが、ひときわつよいひとであったとおもわれる。
そして、船をつくり、みずから操船し、あるいは乗船して、大海原での航海を好んでいたひとであったとおもうことがおおい。

この平野のおもいは終生かわることなく、ふるさと長崎をつねに意識していたのではないかとおもわせることがおおい。すなわち平野富二の記録に接するたびに、随所に長崎とのつよい関係がみられ、ハッとさせられることがしばしばある。
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平野富二数えて38歳、1883年(明治16)2月8日、ようやくその事業が一定の順調さをみたとき、自宅と、活字・活版印刷関連機器製造工場たる「東京、築地での、活版製造所」、すなわち「東京築地活版製造所」と、造船・重機械製造工場「石川島平野造船所」への往来に、ふるさと長崎で縦横に乗りまわしていたサンパン(舢板。小舟やはしけの中国風の呼び名)と同様な、小型舟艇(ボート)をもちいたかったのであろう。

その小型舟艇の繋留のために、みずからしたためた「許可申請書」が、上掲の図版と文書である。添付図版は、河岸の石積まで丁寧に描いたもので、技術者らしい、簡潔にして要を得た概念図である。
その原風景は、長崎港湾にひろがる、小菅修船所、飽の浦アクノウラの長崎製鉄所、立神船渠センンキョ、ドックを、縦横にサンパンで往来していた平野富二16-25歳のころとなにもかわらなかった。
古谷昌二『平野富二伝』からみてみよう。

    古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.2-5
1-1 少年時代
平野富二は、幼名を富次郎といい、長崎の出身。町司チョウジ矢次豊三郎ヤツグトヨサブロウの二男。母は旧姓を神邊カンベ、名前を美禰ミネと称した。1846年8月14日、長崎引地町ヒキヂマチにおいて生れた。
数え年三歳の時、病がちであった父を亡くして、三歳違いの兄和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)と、父の死後に生れた妹ていと共に母の手で養育された。
数え年八歳の時から長崎在住の太田寿吉に就いて書道を習い、西原良介と仁木田豊蔵の二人から書読を学んだ。
1857年(安政4)10月、数え年12歳で長崎奉行所の隠密方御用所番オンミツガタ-ゴヨウショバンに任命され、一日おきに出勤した。休日は西原・仁木田の二人の師匠に就いて「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書と、「詩」「書」「易」「春秋」の四経、ならびに「日本外史」数巻の読文指導を受けた。 これが平野富二の学んだ基礎学問の概要である。
長崎古地図

◎ 嘉永三年当時の長崎市街図
   古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.5
本図は、長崎文錦堂から刊行された『肥前長崎図』(嘉永三年再板)の市街中心部分を示す。平野富二数えて5歳のころの幼年時代の長崎市街を示すものである。

図の中央右寄りの折目に沿って、石垣と濠に挟まれた縦に細長い道筋が、平野富二(矢次富次郎)の生地「引地町」と表示されている。それに平行して左隣りに「さくら町」(桜町)と「新町」があり、「さくら町」の「引地町」寄りに「牢や」(牢屋)がある。「新町」の「引地町」寄りに「長門」(長州)と「小くら」(小倉)と表示された一画が示されている。

図の下方にある扇形の島は「出島」で、その上部の石垣で囲まれた岬の先端部分に長崎奉行所西役所がある。そこから三本の道路が上方に通じており、右側二本が「ほか浦町」(外浦町)と二行で表示されている。外浦町は平野富二が結婚し、矢次家をでて別家平野家を再興した1872年(明治5)に居住していた。 

考察5 出生地
平野富二(富次郎)は、矢次ヤツグ家が代々居住していた長崎引地町ヒキヂマチで出生したと見られる。
平野家にある過去帳や、平野富二の京橋区除籍謄本には、出生地として外浦町ホカウラマチと記されているが、これは富二が東京に戸籍を移す直前に住んでいた住所を示したものと見られる。
「矢次事歴」によると、1872(明治5)に平野富二が分家し、妻を帯同して外浦町ホカウラマチに移転したとしている。引地町は、桜町サクラマチと新町シンマチの東側にある、石垣と濠ホリの間にある細長い町で、『長崎市史』地誌編 名勝舊蹟部によると、もとは桜町から東南に向って傾斜した荒蕪地コウブチで、戦国時代に桜町に濠を掘って貯水し、敵軍の襲来に備えたが、後に人口が増大して市街地を拡張する必要が生じたため、濠の一部を埋立て、土地を造成して住宅地とした。このことから引地町と名付けられたという。

桜町の造成された土地に牢屋ロウヤが置かれ、それと隣接する引地町に長崎奉行所付の町使チョウジ(町使は今の警官に相当するもので、帯刀を許されていた)の長屋があって、町使役14人が居住していた。なお、町使は、後に町司チョウジと表記されるようになった。
この引地町という町名は、現在、長崎市の町名から消えてしまっている。現在の町名では、興善町コウゼンマチと桜町の一部となっており、両町の東側(厳密には東南側)の細長い一帯が引地町であった。
明治初期には、桜町と新町(現在は興善町の一部)が小高い台地の上にあり、その台地の外縁に築かれた石垣に沿って道路があり、その道路に面して引地町の家並があった。家並の背後には濠が残され、俗称地獄川と呼ばれていた。この濠は、現在、その一部が埋立てられて道路となっている。

当時の町割りは、道路を中心とし、それに面した地区に町名が付けられた。 1871年(明治4)四年4月、新政府によって戸籍法が発令され、これに伴ない町村制の改革が行なわれて、全国的に大区・小区の制度が採用された。
『明治六年の「長崎新聞」』によると、長崎では1872年(明治5)2年2月から戸籍調査がはじめられた。
その時に定められた矢次家の住居表示は、「矢次事歴」によると、1874年(明治7)4月の時点で、第一大区四ノ小区引地町五十番地であった。1873年(明治6)11月、大区・小区の大幅な整理統合が順次行なわれ、その結果、1878年(明治11)9月の時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番に表示が変更されている。
1878年(明治11)10月には、町村編成法が公布され、大区・小区制が廃止されて、長崎市街地一円は長崎区となった。
矢次家の住所地は、明治4年の町村制改変史料があれば、これに表示されていると見られる。調査すれば平野富二の出生地を現在の位置で確定できるかも知れない。

考察10  隠密方御用所番
この役職は、長崎奉行が直轄する番方バンガタに属し、今でいう警察の機能を持った部門で、町司に関連する職場であった。矢次家は初代から長崎の町司を勤めていたので、その関連業務に従事することになったものと見られる。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』では、「隠密方オンミツカタ」という言葉を憚はばかってか、単に「御用所番」としているが、「隠密方」は忍者やスパイとして連想されるものとは違う。
長崎奉行所の隠密方は、長崎奉行から内命を受けて、不正の摘発や内密な調査を行い、上司に報告する役割で、平野富二の師である本木昌造も、一時期この役割を担っていた。
番方は、平時に長崎港内の水上警察業務や密貿易防止のための巡視などの海上保安業務を行っていた。役割業務からすると本来は武士が行うものであるが、長崎では奉行所で働く地役人が行った。番方の身分は町人であるが名字帯刀を許されていた。
富次郎の奉行所出勤の様子について、母美禰が富二の二女・津類ツルに語ったという口伝クデンが三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に紹介されている。

「奉行所への出勤は、用人清水国松に連れられて出役した。兄重之助も奉行所に出役していたが、その出役ぶりが悪く、何くれと言い訳をして出役しないことが多かった。ある日、富次郎が一人で急いで朝食をしていると、兄重之助が後からノソノソと起きてきて、弟でありながら漬物鉢の菜を先に箸をつけたと怒り、漬物鉢を庭に放り投げ、駄々をこねて奉行所を休んだことがある。弟の富次郎は、兄のその様な素振りには一向お構いなく、用人国松を供に連れて奉行所にさっさと出勤したという。当時、矢次家に居た三人の祖母は、その様な兄弟の日常の素振りを見て、矢次家の家禄は弟の富次郎が継ぐことになるだろう、と口癖の様に云って富次郎を誉めていた。しかし富次郎はこれを心好く思わず、僅かばかりの家禄など望まない、と言って、もっと大きな将来の望みを抱いていた」

この時、富次郎は数え年一二歳であったが、兄重之助は数え年二〇歳で町司抱入の役にあった。矢次家に居た三人の祖母とは、祖父茂三郎の妻のほかに、曽祖父和三郎の妻と、富次郎の母実禰の三人と見られる。この逸話は後年になって平野富二の娘・津類ツルによって語られたと見られ、津類にとっては富次郎の母も「おばあさま」であった。

長船よもやま話 ジャケット

三菱長崎造船所サンパン

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月 p.88-89)

《長崎港とサンパンの歴史——『長船よもやま話』より》 
40  サンパンで飽の浦-立神を5分

      明治時代の所内交通はもっぱら舟でした。
1906年(明治39)1月に稲佐橋(木橋)が開通するまで、対岸方面への往来は小舟に頼るほかありませんでした。また、長崎港には内外の船の出入りが多かったので、碇泊した船と岸を結ぶため、多くの小舟が待機しており、なかでも大浦下り松(松ヶ枝町マツガエマチ)海岸はとくに多かったそうです。

このほか大波止オオハト、浪の平、浦上川などを合わせると、千隻セキ近い小舟が長崎港にあったそうです。
中国語では小舟やはしけをサンパン[舢板]と呼びますが、長崎でも通い舟のことをサンパンと呼んでいました[中略]。
このころ当所[三菱長崎造船所]の飽の浦-立神間の交通は舟でした。幹部社員などがいつでも乗れるように、海岸石段には常に何隻ものサンパンが待機していました。櫓を漕ぐ船夫も、明治30年代には100人以上が在籍して、交通係の指令が下ると、二丁櫓で、部長以上などは三丁櫓で飛ばし、立神まで4-5分もかからない速さでした[中略]。

1904年(明治37)に向島第一トンネルが開通し、立神まで歩いていけるようになり、さらに1914年(大正3)には飽の浦-立神間に定期貨物列車が運行、大正7年になると列車に客車が連結され、海上では自動艇5隻が配置されるなどで、構内のサンパンは姿を消したのです。

Nagasaki_vue_du_Mont_Inasa.jpg (7890×1012)写真) 稲佐山イナサヤマ展望台から眺めた長崎市の様子。 【ウィキペディア:長崎市より】
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平野富二は26歳までの多くをこの長崎の地で過ごした。1869年(明治2)明治新政府民部省の認可のもと、若き富次郎が総指揮にあたって掘削した「立神タテガミ造船所」をはじめ、隣接する「飽の浦アクノウラ製鉄所、長崎製鉄所」、対岸の「小菅船渠コスゲセンキョ、小菅修船所」なども描かれている。
長崎市街は、まちの北東部から注ぐ中島川と、北部から南下して長崎湾に注ぐ浦上川に沿ったほんの一部だけが平坦地で、三方の後背地は急峻な山にかこまれている。
東京に出てきてからも、気軽に築地と石川島を小型舟艇で往来していた、平野富二の生い立ちが偲ばれる地図である。
長崎

長崎◎  長崎縣内務部第二課編纂 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)
長崎の版元/安中書店・安中半三郎が刊行した長崎市街地と港湾部の詳細な地図。
東京築地活版製造所(印刷者名:野村宗十郎)が銅版印刷した。上掲図はクリックすると拡大します。

長崎地名考 扉長崎地名考 付録
長崎地名考 刊記

《安中書店、虎與號商店、虎與號書店 —— 安中半三郎のこと》
安中書店・安中半三郎(やすなか-はんさぶろう いみな:東来 1853-1921 別屋号:虎與號トラヨゴウ商店、虎與號トラヨゴウ書店。旧在:長崎市酒屋町四十四番戸)は、版元:安中書店と虎與號を経営するかたわら、香月薫平、西道仙らとともに「長崎古文書出版会」を結成し、その成果が『長崎叢書』となって、やがて長崎県立図書館(長崎市立山1丁目1-51)の設立につらなった【リンク:長崎県立図書館沿革】。
また「長崎慈善会」を結成して「長崎盲唖院」を設け、この生徒13人から出発した授産教育機関は、いまは長崎県立盲学校【リンク:長崎県立盲学校沿革】として存在している。

ここには、長崎縣内務部第二課編纂 発行者 安中半三郎 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)、『長崎地名考』(香月薫平著、発行者 安中半三郎、 安中書店蔵版、発行所 虎與號商店、明治26年11月11日)を紹介したが、ほかの刊行書もたくさんある。
いち民間人、それも出版人の動向によってつくられた施設が、公的な施設となって持続されることなどは、ありそうでないことである。またそれがながく語りつがれ、公式記録にも掲載されていることに驚く。
ようやく長崎学の関係者のあいだで、この注目すべき安中半三郎に関する研究が進捗しつつようである。おおいに期待して、その発表をまちたい。

それでもまだ安中半三郎に関する資料は乏しいようである。安中半三郎がもちいていた屋号「虎與號」は、現代表記では「虎与号」となる。また厄介だが、湯桶ユトウ読みで、「とらよごう TORAYO-GO」と呼んでいたことが、いくぶん不鮮明ではあるが、『長崎地名考』刊記に添付された出版社標からもわかる。
下にその拡大図を掲げた。

ORAYO-GO

安中半三郎は平野富二より6歳ほど年下であったとみられ、その交流はいまはわからない。それでも明治中期から末期にかけて、長崎出身の平野富二の後継者、東京築地活版製造所に依頼して、活字版印刷、銅版印刷、石版印刷などの先端印刷技術をもちいて、積極的に図書や地図や詩画集などを刊行していた。
『長崎地名考』の印刷は東京築地活版製造所で、平野の没後まもなくであるが、富二の没後も東京築地活版製造所は長崎との関係が深く、専務社長/曲田 茂が印刷者として刊記にしるされている。